『念流正法兵法未來記:小笠原東泉坊源甲明謹序』を讀む

『念流正法兵法未來記兵書』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『念流正法兵法未來記兵書』(筆者藏)です。念流は兵法諸流派の源流の一つとされ、武術に興味をもつ人ならば、知らないということないでしょう。
この『念流正法兵法未來記兵書』は、入門卷・獅子卷・豹卷・象卷・龍卷・後序を合して成る長卷にて、念流未來記七代の知識友松僞庵(當時彥根井伊家の臣、祿三百石)の筆により、年月日を缺くも、寬永期のものと推測され、脇豐次(彥根井伊家の臣)に傳授されたものです。
今囘はその中の『獅子卷:小笠原東泉坊源甲明謹序』を讀みます。

この「小笠原東泉坊源甲明謹序」には、念流正法兵法未來記の高祖念大和尙が、摩利支尊天より劒術を傳えられ開悟したという傳說が記されています。

小笠原東泉坊源甲明謹みて序す
*「小笠原東泉坊源甲明」・・・序に登場する「慈三(赤松三首坐禪師)」の後繼者。

○獅子の卷
夫れ劍は金剛全躰三摩耶の尊形也。之れを喚びて三尺の寶釼と號し、五塵六欲の煩惱を截り斷つ。
そもそも劍というものは、諸佛諸尊の請願を象った毀壞しない法器である。名付けて三尺の寶釼と稱し、五塵六欲の煩惱を截り斷つものである。

空中に向ひ之れを振へば、則ち塵沙無明の魔黨を降伏す。軍中に向ひ之れを振へば、則ち三軍之れが爲に大に敗る。
空中に向って振るえば、塵沙無明の魔黨を降伏し、軍中に向って振るえば、三軍を大敗させる。

或る時は巖窟に入り猛虎を斬り、或る時は滄溟に臨み蛟龍を截る。之れに加へて金鞭と爲り、畜趣を穢土に制す。以て行へば自由三昧なり。
ある時は、巖窟に入って猛虎を斬り、ある時は滄溟に臨んで蛟龍を截る。それだけでなく、金鞭と爲して惡業を働く者共を現世に制すれば、自由三昧に至る。
*この段まで劍の靈威を說き、次段より高祖念大和尙が、摩利支尊天に因って開悟した光劍光身の位の話へと移る。

高祖奧山念、相陽壽福禪寺に於いて、神僧より過去現在の二術を傳へらる。過去の術は、魔法也、亂故等の流れ也。現在の劍術は、東西南北の諸士之れを傳へ、家名を立て、世[よゝ]擧て知る所也。
高祖(念流の元祖)奧山念は、(十六歲のとき)相模國壽福禪寺に於いて、神僧より過去・現在の二術を傳えられた。過去の術は魔法であり、亂故(・古江・玄心)等(など)がこの末流である。現在の劍術は、東西南北の諸士が承傳して、家名を立てた。これは世間に知られている。
*「高祖奧山念」・・・幼少のとき父を亡し、游行上人の門弟となり念阿彌陀佛と稱す。後ち還俗して相馬四郞義元と稱し、亡父の仇を討ち、再び禪門に入り慈恩と稱し、また念大和尙とも稱す。諸國修行の末、晚年波合に住む。
*「亂故等流也」・・・管見の限り、現在の諸書にはこの一節に關して諸說あり。しかし、同流の「入門卷」(筆者藏)または樋口家の『當流傳來覺書』を參照すれば、「次傳魔法亂故古江玄心等此末葉也」、「次傳魔法亂故古江玄心云者此末流也」の記述を約めたものであることが分る。則ち、鞍馬寺に於いて天狗より術を傳えられ判官流と號した。それから魔法を傳えられた。これは亂故・古江・玄心という者がこの末流である、ということ。
*この段、記述が錯誤していて、『入門卷』や『當流傳來覺書』に據れば、「魔法」を傳えられたのは十歲のとき鞍馬寺に於いて。十六歲のとき壽福禪寺に於いて神僧より傳えられたものが「現在」と考えられる。そして更に、十八歲のとき安樂寺に於いて觀音大菩薩より術を傳えられたとされる。更に諸傳を閱すると、紛糺するため、取り敢えず詮索をこゝに止む。

源叉那王以後の兵法は、皆以て念の末流也。粤(こゝ)に當家未來記の旨趣を見(あら)はさず。
つまり、源義經以後の兵法は、すべて念の末流であると言える。こゝには當家未來記の詳細を書き留めない。
*「當家未來記」・・・『念流正法兵法未來記:入門卷』の「小笠原備前守氏景序」に、「皆以て念の末流」たる所以が詳述されている。樋口定次が著した『當流傳來覺書』も同樣の內容が書かれている。則ち、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」に於いては、その所以が省略されている。故に「旨趣不見」と記される。尙、原文「奧當家未來記」と記されるが、諸書を閱すると「粤」字が正しいと考えられる。

念和尙年老ひて、而して大日本國信州伊那郡、波合に到て山居す。
嘗て、念和尙は年老いて、大日本國信州伊那郡の波合に山居した。
「波合」・・・現在の長野縣下伊那郡浪合村。念和尙は、こゝに摩利支尊天を本尊とする長福寺を建立したとされる。

一の弟子有り、慈三(赤松三首坐)と號す。時に六種震動、惡鬼飛來して.而して慈三を奪はんと欲す。
一人の弟子がいて、慈三(赤松三首坐)と號した。ある時、六種震動して、惡鬼が飛來して、慈三を奪おうとした。
*「慈三」・・・赤松三首坐禪師。奧山念の二番目の門弟にして舍弟。<『(樋口家)當流傳來覺書』>
*「六種震動」・・・佛が說法をする時の瑞相と說明されるが、後の惡鬼飛來と鑑みて、こゝではたゞ大地の震動のみを指すと考えられる。

念阿、口に呪を唱へ、手に釼を提(ひつさ)げて、過去現在の兵術を以て戰ふと雖も、渠(なん)ぞ遂げざらん、天を仰ぎ地に臥するや、七八歲の童子面前に來て.敎外別傳、以手傳手の密術を述(傳述)ぶ。
これに對して、念阿は口に呪を唱え、手に釼を提(ひつさ)げて、過去・現在の兵術を以って戰ったが、惡鬼に對抗できず、天を仰ぎ地に臥したところ、七,八歲の童子が面前に來て、敎外別傳、以手傳手の密術を敎えた。
*「七八歲の童子」・・・摩利支尊天の化身。
*「敎外別傳」・・・佛祖の心印を直傳するという佛語から轉じて用いられる語。
「禪林用語。不依文字、語言,直悟佛陀所悟之境界,卽稱爲敎外別傳。」<佛光大辭典>
*「以手傳手」・・・この語の典據を見ないが、劒術という實體に卽した敎えにつき、敢えて「以心傳心」の「心」と「手」とを入れ替えて用ゐたものかと察せられる。

念會(え)せずして、而して劍を取て、童子に向ひ打て問ふて云く、「敎外別傳の意旨如何(いかん)。」と。兒童忽ち狗(天狗)に變じて、劍を提げ起て丁と打つや.念劍下に大悟す。
念は會得できず、劍を取って、童子に向って打ちかゝり、「敎外別傳の意旨とはどのようなものか?」と問いかけたところ、兒童は忽ち天狗に變り、劍を提げ起って丁と念を打った、それで念は劍下に大悟した。

狗の云く、「汝が道は。」と。念屈屈して云く、「猛虎畫けども成らず、師に道を請ふ。」と。狗の云く、「識らず。」と。又た云く、「一鏃、三關を破る。」と。
天狗は尋ねた、「汝が道は?」と。念は畏服して答えた、「猛虎を畫こうとしても、その眞を畫くことはできない、師よ道を敎えて下さい。」と。天狗は「識らない。」と答え、次いで、「一鏃、三關を破る。」と答えた。
*「一鏃、三關を破る」・・・「欽山因巨良禪客參問、一鏃破三關時如何。師曰、放出關中主看。」。
「禪宗公案名。又作欽山一鏃破三關。以一箭射破三道關門,比喩一念超越三大阿僧祇劫、一心貫徹三觀、一棒打殺三世諸佛,不經任何階段而直參本來面目者。」<佛光大辭典>

是くの如く爲(す)ること數日、童子歸らんと欲す。念、出所を問へば、兒の云く、「我今姿を見(あら)はし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。
このようにして數日を過ごしたところ、童子が去ろうとしたので、念はその居所を尋ねたところ、兒が言うには、「我は今姿を現わし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。

殊勝なる佛恩也。聲を揚げて禮拜して、然り而して后ちに惡鬼退く。劍を光らし身を光らすの位、是れ也。
殊に勝れた佛の惠みである。聲を揚げて禮拜したところ、惡鬼は退いた。劍を光らし身を光らす(光劍光身)の位というものはこれである。

厥(そ)れ兵は十二時、劍を帶びざること莫し。仍て、當家此の術を以て第一の手傳、祕中の祕と爲す也。
兵というものは、常時劍を帶びるものであるから、當家はこの術を以て第一の手を以て手に傳える祕中の祕として扱うものである。

末葉、金銀珠玉を以て、不識の人に傳ふるに於いては、必ず天罰を蒙るべき者也。恐るべし、祕すべし。
後の代の者たちは、金銀珠玉と引き換えにして、流儀を傳えるに相應しくない者に傳えたならば、必ず天罰を蒙るから、恐れて祕すべきものである。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

今囘の「小笠原東泉坊源甲明謹序」の讀解は、刊行圖書の恩惠に浴し、正確とは言えないまでも甚しくは過ったものにはならなかったと思います。全日本劍道聯盟の『劍術關係古文書解說』と『鈴鹿家文書解說(二)』とに於いては、樋口家の念流史料の圖版が載せられており、擴大複寫して利用することで、大に讀解の助けとなりました。そして、森田榮氏の著書『堤寶山流祕書』と『源流劍法平法史考』とに於いては、念流慈恩・奧山念阿彌に關する考證が詳しく述べられており、「小笠原東泉坊源甲明謹序」を讀み解く際の善き指針となりました。

『日本武道大系』に於いても、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」は收められていますが、その訓點に慊らず、これを采りませんでした。

令和三年八月三十一日 因陽隱士著

後年、彥根藩の念流指南役の古文書を得たことによって、この記事は大幅に改善の餘地があると分りましたが、現在はこのまゝにして置きます。

令和五年四月廿五日 附記

參考史料 『念流正法兵法未來記』筆者藏/『堤寶山流祕書』森田榮著/『源流劍法平法史考』森田榮/『劍術關係古文書解說』全日本劍道聯盟/『鈴鹿家文書解說(二)』全日本劍道聯盟

『無敵流平法心玉卷序』を讀む

『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』(筆者藏)です。流名は「無敵流平法」又は「平常無敵流」と云い、この流儀の本旨・本質をそのまゝ言い顯すものです。たとえば、この流名について同書より幾つかの言を引くと、「平法は、天地神明の發動にして無敵なるもの也。空々として淸靈幽微をかんじ、明々として通ぜざると云ふ所なし。其の性を全して是の行に難無く、故に門下の弟子に是れをさづけてすくはんとほつす。」。或は「天何ぞ天、我何ぞ我、同根一體にして其性を一にす。天地無敵なる則(とき)は、我も亦た無敵、是(こゝ)を以て、我が一道を名(なづけ)て平常無敵と號す。平は平にして中也。常は庸にして中庸の理有り。亦た心を離れて身なし。身を離て心なし。亦た曰く、心の外に平法なし、平法の外に心なし、と。亦た曰く、無敵は是れ寂然不動にして靜なる時は無量無邊に通じ、動て萬事に應ぜずと云ふことなし。形に影の隨ふが如く、響の聲に應ずるが如し。是れ無敵嚴妙なり。」と、このように說かれています。然れども、流儀の本質たるこの意義を俄に理解せよというのは無茶な話しで、取り敢えず心法上の一工夫がこの流名に表れていると分れば充分かと思います。

そして、『心玉卷』の「心玉」というものは、眞妙劍を發顯するための心法とされ、同書に於いて圖を以て、「十方に書たる劍は金剛の利劍とも、亦た吹毛の劍とも云へり。此の劍は、主は玉也。則ち人々具足する者也。此の玉は三千世界を照す。故に是れを以て名て明德とも云ひ、亦た佛家には佛心とも云へり。」と說かれています。佛家に云う佛心は、佛性とも云い、世に知られる『臨濟錄』の「赤肉團上。有一無位眞人。常在汝諸人面門出入。未證據者看看。」の「一無位眞人」を髣髴とさせるものです。この方面から理解すると、心玉の意味を捉えやすいかもしれません。

偖て、『無敵流平法心玉卷』の本文は、『日本武道大系第三卷』が收錄する所の『平常無敵流平法書』と略(ほゞ)同じです。今囘は序のみを取り上げるため、本文を讀みたい方には『日本武道大系第三卷』を薦めます。但し、この『平常無敵流平法書』は、『心玉卷』と大差無い記述ながら、寫本の爲か、卷末の詩と奧書とを缺きます。これに對して、こゝに揭げる『心玉卷』は、記述はもとより本文そのものも山內蓮眞の筆であることを附言して置きます。

無敵流平法心玉卷
夫れ古來より兵法の術、世〃流布することや久し。而して之れを學ぶ道、其の術其の品數多有り。而して流枝家を分つ。大方何か敎ふと雖も、皆日〃敵を求め戰を好て勝つことを得るの行を學ぶに過ぎざるのみ。
抑〃古來より兵法の術というものが行われ、世間に流布して長い年月が經過した。兵法を學ぶ道や、その術や、その品數は多くなり、流れは分れて枝となり、それぞれの家に分れた。大方の家では、何かを敎えると言っても、皆日〃敵を求めて戰を好むような、勝つための術を身に付けることだけを目的として修行させるに過ぎなかった。

予も亦た此の道を學びて、而して今之れを考へ見るに、天地の本性を辨へず、我が邪欲の心根を專にして、心目混昧にして、物に負けざるといふことを知らず。
私もまたこのような道を學んだが、今になってこれを考えると、天地の本性を辨えず、己の邪欲の心根を專らにして、心と目とを昧(くら)まして、外物に負けないということを知らなかったのである。

人の爭戰といふ者は、私欲專にして財寳を奪へるに異ならず。譬へば、博奕を好む者は、人の財寳を望て之れを取ること、却て己が財人に之れを取らるゝことを辨へざるに似たり。勝つことを思て負ることを知らざる者は、是れ人欲甚しくして天理を忘るゝ者也。
人の爭いや戰いというものは、私欲を專らにして財寳を奪うことに外ならず。譬えば、博奕を好む者が、人の財寳を望んでこれを取ろうして、却って己の財を人に取られてしまうことを考慮しないことに似ている。勝つことばかりを思って、負けるということを思いもしない者は、人欲ばかりを逞しくして天の理を忘却している。

此の意念を以て敵と相戰ふ時は、已に思ひは十分勝つことを知る。敵も亦た之れを知て相戰ふ者有るときは、必々相討と成る。是れ勞して功無き事也。唯盲目の杖を以て戰へるに同じ。
このことを心懸けて、敵と戰う時は、已に思いは十分勝つということを知っている。しかし、敵もまたこれを知って戰う者であるときは、必ず相討ちと成る。これでは勞有って功無きことである。たとえば、盲目の者が互いに杖をもって戰うのと同じように、どちらが勝ち、どちらが負けるとも知れない。

等しき事を見て、至極也と思ひ、或は所作の振り潔白成るを見て、是れ上手也と畏れ、或は大事の奧手、或は[一つの]太刀などいひて、異々(ことごと)敷く祕せる、之れを見て甚だ之れを驚き、平法の術の本意を論ぜず、是れを無上也と思へるは(おぼつ)かなき事也。
互いの技倆が等しき事を見て、至極のものだと思い、或は所作の振る廻いの鮮やかさを見て、これは上手だと畏れ、或は大事の奧の手、或は[一つの]太刀など言って、仰々しく祕めたもの、これを見て甚だ驚き、平法の術の本意を論じないで、これを無上だと思うことは誤った見識である。
*「或太刀異々敷」・・・『平常無敵流平法書』には「或一之太刀異々敷」とあり、これが正しいと考えられる。
*「」・・・この字は、『康熙字典』や『異體解讀辭典』に見當らず、『平常無敵流平法書』の「おぼつかなき」の振り假名に從いました。

徒々(つれづれ)に業を作して、戰ふことを以て勝ことを實とする者は、是れ古人の行跡を知り、其の所作を學び本意とする者也。若し知らざる者に對せば、聊か勝ることあらん歟。
一心に業を作して、戰うことを以て勝つことを實(本質)とするは、古人の行跡を知り、その所作を學び本意とするものである。若し知らない者に對すれば、聊か勝ることもあるかもしれない。

今思ふに、非を知り過を改めんと欲して師範を求む。爰に多賀泊庵聚津、留田流の祕術を以て、余に付屬す。亦た兵法と書ける文字を改めて平法と書く。他と相違する也。是れ心奧に負けざる所以(の者)有る也。
今となって思うに、非を知り過ちを改めようとして師範を求めた。そのとき、多賀泊庵聚津というものがいて、留田流の祕術を私に傳授した。また兵法と書く文字を改めて平法と書き、他とは相違していた。これは心の奧に外物に負けない理を有(も)つからである。
*「留田流」・・・『平常無敵流平法書』は「冨田流」と表記する。

其の頃石川霜臺簾勝、木下淡州大守利當、平法の奧妙を發明して、聚津に授けらると云へり。亦た是を以て、余に傳ふ。我れ年來此の劒術を工夫して、暫時止む時無し。肝膽を碎き、切磋の功を勵し、琢磨の心力を盡し、以て此の劒術の心理を開悟す。
その頃、石川霜臺簾勝・木下淡州大守利當が平法の奧妙を發明して、聚津に傳授したと云う、私はこれを傳えられたのである。私は年來この劒術を工夫して、暫時も止む時無く、肝膽を碎き、切磋の功を勵し、琢磨の心力を盡して、この劒術の心理を開悟した。
*「石川霜臺簾勝」・・・名廉勝。近江膳所藩の初代藩主石川忠總の長男。
*「木下淡州大守利當」・・・備中國足守藩の三代目藩主。

是に依て古の眞妙劍を察して、今師傳を顯す。若し愚意を慕へる盲人有れば、誘引の爲に此の一卷を綴て、留田流前六表を以て、劍術の敎として初心の入門と爲さしむ。
これに基づいて古の眞妙劍を洞察して、今ようやく師より傳えられたものを顯すことができた。もし、私の愚かな意(こゝろ)を慕う迷い人がおれば、その誘引のためにと、この一卷を綴り、留田流前六表をもって劍術の敎として初心の者が入るための門とする。
*「眞妙劍」・・・眞妙劍は、石川霜臺・木下淡州より師多賀泊庵に傳わり、これを會得した山內蓮眞は、門弟のために『心玉卷』を著した。「心玉」「同根一體」「無敵」の心の境地より「眞妙劍」は發顯するとされる。つまり、所作ではなく心によって生じる(但し、所作を疎かにするということではない)。同書に云う、「...亦た無心をも求むべからず。是れを求めざる時は、本性全く一成ることを知るべし。此のとき無敵にして眞妙劍の本體顯るべし。」と。

爲に臺に眞妙劍の有ることを知らしむるに、心玉といふ寳珠を繪(え)がき一圖と作し、心妙劍の本侍(體)を顯して、以て書の始に之れを置く。
さらに、貴下に眞妙劍というものゝ有ることを敎えるために、心玉といふ寳珠を畫き一圖と作して、心妙劍の本體を顯して、書の始めにこれを配置する。
*「心妙劍之本待」・・・正しくは「心妙劍之本體」と考えられる。『平常無敵流平法書』に「心妙劍之本體」とあり。また、本文に「眞妙劍の本體顯るべし」とあり。

次に三界一心の圖を中にす。天地と人と眞妙合性一致することを知らしむる也。所謂聖人は天地其の德を合するといふ者也。
次に、三界一心の圖を中ごろに配置する。天地と人と眞妙合性一致することを敎えるためである。これは所謂「聖人と天地と其の德を合する。」と云うものである。
*「三界一心」・・・「同根一體にして過不及なし。天地に充滿して、時として無きときなし。所として無きところなし。故に却て無に似たり。」「一心三界、三界一心、平法一心、一心平法。」
*「聖人者天地合其德者也」・・・正しくは「聖人與天地合其德」。
「故聖人與天地合其德、日月合其明、四時合其序、鬼神合其吉兇。」<太極圖說>

今亦た師傳を踰(こへ)て、一の工夫を以て、三界一息を二圖と爲す。天地性命の本源を悟て、萬物を一にして、外物の敵ならず、負けざる事を知て、無敵の一道を與にせんと欲す。是に於いて體認せずんば、眞妙劍も亦た行へず。故に之れを書に筆して、無上無外の知覺を得て、無敵に至らしめんと欲す。
今またこゝに、師傳を踰えた一つの工夫、一息を以て三界一心を二圖に顯す。天地性命の本源を悟って、萬物を一つにして、外物の敵とならず、負けざる事を知って、無敵の一道を與(とも)にしようではないか。これを敎えられて、なお體認できなければ、眞妙劍もまた行えはしない。故に、これを書に顯して、無上無外の知覺を會得させ、無敵に至らせたいと思う。
*「今亦踰師傳而以一工夫爲三界一息於二圖」・・・この段の注目すべき點は此處にあり。眞妙劍が師傳によるものであるのに對して、この「一息」は山內蓮眞の工夫による。「三界一心」を得心するための手解きともいうべきものか、「一息」を知れば無敵の理に通じるとされ、同書に云う、「夫れ息は萬物の主也。萬法の依て出る玄元也。」と。或は云う、「人身、形を分てより、過て人と我れ境を成す。此れ人と我の境を如何と見るに、陰の氣を稟けたる者は陰を好み、陽の氣を稟ける者は陽を好む。是れ陰我陽我と成て、陰陽始て善惡と成る。是より好嫌の氣起て我病と成る。天地・陰陽・理氣・動靜・遲速・輕重・是非・始終、是れ皆一息の成す所也。」と。或は云う、「儒門には皇星帝と云ひ、主人公と云ふ。或は天地同根、萬物一體也と云り。亦た禪門には本分の田地、本來の面目などゝ云り。亦た天臺門には圓頓止覩と云り。是れ亦た眞言門には阿字、本不生と云り。亦た金胎の大日とも云り。亦た淨土門には西方阿彌陀佛、無量佛尊と云り。亦た草木國土悉皆成佛の會座と見ると云り。我是れを惟るに一息の他なし。一息を悟らずんば如何根元を知ると云ふとも寶にあらず。」と。則ち、三界一心を擴大し精確に捉え直したものとも考えられる。

然りと雖も我無學無知にして、文字を撰まず、美言を以て飾ること無く、言卑にして理猶ほ聞き難し。心に念じて言發せざること啞噫の如し。
しかし、そうではあるが、私は無學無智にして、文字を能く撰まず、美言を以って文を飾ることも無く、言(ことば)は卑しくして、理はとても聞き難い。私の心中に念は止まり、言(ことば)として發せられないことは啞噫のようである。

此の書の云ふに違はざる事を名(なづ)けて平常無敵流と號す。而して後世淸中の塵坌と成し、而して法界に擲つ。若し愚意を助る人に遇ひて、切琢して之れを玉にすること有れば、何ぞ幸ひ之れに如かんや。
この書の云うことゝよく合致する名として、平常無敵流と號す。そしてこれを後世淸中の塵坌と成して、法界に擲(なげう)つ。若し、私の愚かな意思を汲み取る人が現れ、この平常無敵流を切琢して玉にすること有れば、これほどの幸せはない。

時に寬文三曆癸卯二月中旬、鏤(ちりば)め書き畢ぬ。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註 /こゝに取り上げた『無敵流平法心玉卷』の序は、訓點を具えていますが、脫落齟齬あり、且つそもそも本文が漢文法に外れること屡々あり、故に訓點を尊重しつゝも、文意に反し文意を誤ると考えられものは止むを得ず手を加えました。十分とは言い難い譯文ですが、文意を損なうものではないと思います。猶、前記の『日本武道大系第三卷』が收錄する所の『平常無敵流平法書』を見たところ、少し文字が相違していました。たとえば、「心」を「必」と書き、「古」を「右」と書き、「見」を「是」と書くなど、文意・文法に背いており、恐らく筆寫時の誤りでしょう。また、反して『平常無敵流平法書』によって『心玉卷』の脫落誤字に氣付くこともありました。たとえば、「或太刀異々敷」と書かれたものは「或一つの太刀異々敷」の「一つの」が脫落、「心妙劍之本待」と書かれたものは「心妙劍之本體」の「本體」を誤冩したと見られるものなど。

此の『無敵流平法心玉卷』は、かなりの長文につき序のみを取り上げました。諸流に比して獨特の思想を打ち出しており、本文も讀めばきっと惹かれるもの、得るものがあると思います。

令和三年九月三日 因陽隱士著

『無敵流平法心玉卷:心玉眞劍之圖』筆者藏

參考史料 『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』筆者藏/『日本武道大系第三卷』

內海流『中堀語傳る覺』を讀む

『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、內海流の『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』(筆者藏)です。『中堀語傳る覺』は、流祖內海重次が師事した中堀玄淸が語ったことを覺書にしたものです。故に題名は『中堀 語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)』と讀めます。中堀玄淸とは、戶田淸玄に學んだ人で、通稱は彥右衞門と云い、當時蒲生飛驒守氏鄕に仕えていたというほか、詳しいことは傳えられていません。內海重次もまた、藤堂高虎に仕える以前、蒲生氏鄕に仕えていましたので、同じ家中に居たとき敎えを受けたものと思われます。

それでは、『中堀語傳る覺』の文面を讀みます。今人に讀み易いよう、適宜漢字に換え、讀み假名を振り、句讀點を打ち、濁點を附けました。赤字は『古傳集解』より拔萃。

中堀語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)

一、戶田淸玄は常に語りしは、長道具をも殘さず得たりといへど(雖)も、九尺柄のす(素)鑓にま(增)す事はな(無)きと覺たるとい(云)ふ。諸道具とも穿鑿よくして見る程、かち(勝)つよ(强)し。然れども、我ほどにたんれん(鍛鍊)したる者とよ(能)くきんみ(吟味)してみれば、これはかたば(片端)にか(勝)つ事なく、あいつき(相突)になるにより、其(それ)以後方々しゆぎやう(修行)し、かたば(片端)にか(勝)つ事をくふう(工夫)し出し、かき(鉤)鑓といふこと、其(その)時よりつかひ出し、さて諸道具とよ(能)くせんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、かたは(片端)にか(勝)つ事かち(勝)つよ(强)し其(それ)により、目くら(盲)鑓と名付(なづく)也。

「戶田は富田と書くがよし。淸玄先生は五郞左衞門入道と云。越前宇阪庄一乘淨敎寺村の產。」『古傳集解』

「かたはは片端(かたば)也。胴を捨て面とかゆるは當流の主意にて、他に皮肉骨などいふと同じ。」『古傳集解』

「盲鎗とは、此鉤を盲人の杖と見て、無分別に進み入るに、勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ事と見てよし。深く工夫を凝らさば、此うちより玄妙の微意を探り得べし。」『古傳集解』

*註 「勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ」とは、「一、分紅梅の事 愚曰、紅梅は屋作りの勾倍のごとし。先師絕妙の工夫にて、初て此鉤鎗を造り給ふ。矩合勾倍を以てわり進むに從ふて、敵の鎗自然と分れ散る也。」『古傳集解』

*註 戶田淸玄は當初九尺柄の素鎗を以て無上と爲すも、同格を相手にしてよくよく吟味したところ、片端を用ゐられゝば相突となり、全き勝を得られず。これによって淸玄は遠近修行して、鉤鎗を以て片端に全き勝を得るところに達したという。

一、長鑓は大勢うち(打)合(あひ)候所へ、持(もち)とゞく人は、長き次第にか(勝)つといふ。

一、一人けんくわ(喧嘩)などし(仕)出し、たぜ(多勢)にあ(合)い候時は長鑓あ(惡)しき、其(その)時はみしか(短)き鑓り(利)おゝ(大)きといふ。

一、人事(ごと)に持(もつ)道具には、あ(有)りよ(善)きにきはま(極)りたるやう(樣)にい(云)ふ。其(それ)はへた(下手)口なり。長き鑓にても利をすれば、みちか(短)鑓にてもり(利)をする。長鑓にて利をうしな(失)へば、みちか(短)鑓にても利をうしの(失)ふ。其(それ)は其(その)ば(場)により所により、利おゝ(大)ければそん(損)おゝ(大)く、そん(損)おゝ(大)ければ、利おゝ(大)し。よくそん(損)利せんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、目くら(盲)鑓に利おゝ(大)きかと覺(おほへ)たるとい(云)ふ。

一、長刀・十もんし(文字)、いづれも諸道具そん(損)利右同前也。

「扨是までを中堀翁が其(その)師のこと(言)葉を口うつしに紹節(內海重行)君に語られし也。」『古傳集解』

一、中堀はげんせい(玄淸)になり候てよりは、常につくほう(突棒)をもた(持)せたる。年より(寄)出家の身として、人をころ(殺)す事大とか(科)也。人の中(ちう)人に入(いり)、いたづら者有(あら)ば、とら(捕)やうと、いつもしやれ(洒落)事をい(云)ふたぞ。

「此一段は紹節(內海重次)君の御こと(言)葉にて、中堀翁のひとゝなり(爲人)、又此(この)ものがたり(物語)ありしさま(樣)などをあらまし(荒增)しる(記)し給ひたる也。」『古傳集解』 *この一條、『古傳集解』にはもう少し詳しく記されていて、「...いつもざれごと(戲れ言)をい(云)ひ、せけん(世間)のことをおかし(可笑し)がり、わら(笑)ひゝゝ申されし也。」とつゞく。

一、かぎ(鉤)ゆらい(由來)、もし(若)きゝ(聞)たがり申さる方候はゞ、あらゝゝ(粗々)御物がた(語)り有るべく候。

*註 他者に鉤の由來を語り聞かせて宜しい、というこの文言から察するに、『中堀語傳る覺』は流儀の免許以上に相當するものかと思われます。

註 平假名・漢字の表記によっては、やゝもすれば文言の意味を取り違えてしまうことがあり、特に類似の傳書が無い孤立した傳書の場合は、その意味を考えるとき全き讀を得ること難しいものです。私の周圍を見渡すと、『中堀語傳る覺』と類似の傳書は見當らないのですが、幸いに內海家八代目當主內海重陳の著『古傳集解(冩)』(筆者藏)にその註釋があり、これと照らし合わせて文面を見ることで、ある程度讀み誤りを避けられたと思います。

その一二を例せば。「一、中堀はけんせいになり候てよりは常につくほうをもたせたる年より出家の身として」のところ、「けんせい」という語を、入道してから名乘った「玄淸」とすべきか、なにか流儀の階級と見て「見性(或は別字)」とすべきか決めかねます。

また、「もたせたる年より出家の身」は一續きの文と見え、「持たせたる年より、出家の身」と讀んでしまいそうですが、『古傳集解』を見ると「持たせたり年寄出家の身」と記されており、「持たせたる年より」と讀まぬように配慮されています。これは『古傳集解』が無ければ、誤讀を避け難いところです。

奧書の署名は、どのように解釋するべきか、少し調べた程度ではどうもはっきりとしません。一見したところ、「栗田五右衞門」「栗田淸左衞門」が連署したところに、後から「內海左門」の名が書き加えられた樣です。そして、その名の下に一度抹消した形跡が認められます。この抹消部分には何が書かれていたのか、傳系を記すにしては餘白が狹く、また消された文字數も少なく、單に書き損じたものか、なぜこゝに「內海左門」の署名が加えられたのでしょうか?筆蹟は、栗田二氏と別人にて、內海左門本人の筆蹟と見えます。

「內海左門」家は代々(二代目は名乘らず歟)が「左門」の稱を用ゐており、「重時」も「內海左門」家の人と思われますが、ざっと資料を見たところ實名が一致しません。そこで、私藏の傳書に貞享貳年付の『內海流目錄』あり、これを見ると「內海左門」の署名に『中堀語傳る覺』と同じ花押が書かれています。實名は屢々改名されるものにて、單に記錄されていない丈けとすれば、年代から推して、この「內海左門」は三代目の內海重直が該當すると思われます。內海重直は、萬治元年藤堂高久に召し出され、延寳六年家督を相續し、長らく主に御使番向きの役儀に攜わり、寳永八年病歿。

一つ分っていることがあり、同藩の士「保田次右衞門」の『親類書(元祿十六年付)』(筆者藏)に、「內海左門」の名が「從弟 實方も同斷」として記載され、その名の橫に「內海左門姉」を妻とする「栗田淸左衞門」の名が記されてます。(栗田淸左衞門は「高次公へ讓り玉ふ諸士分限」を見ると高「四百石」。)更にその名の橫には「從弟 實方も同斷 內海左門弟 內海玄休(牢人)」の名あり。宛名の「內海五右衞門」は、或はこの「內海玄休」なのかと想像しますが、裏付けとなる史料を得られず何とも言えません。

こゝで改めて、奧書の署名を見て推測すると、當時高弟であった栗田二氏が內海五右衞門に傳授し、その後內海左門が長じてこの傳授を追認して、署名を加えたものかと察せられます。しかし、假にそうだとすれば、なぜ敢えて別帋を用ゐず、本文と栗田二氏の署名との狹い隙間に署名したのか、どうも異例なことにて判然としません。

奧書の人名については追々調べることにして、本文についてはおよそ前記の通りの讀み方で良いものかと思い、こゝで記述を止めます。

令和三年七月三十一日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏/『內海流目錄:貞享貳年七月吉日付』筆者藏/『保田次右衞門親類書(案):元祿十六年二月晦日付』筆者藏/『古傳集解(冩)』內海重棟著 筆者藏/『三重縣史 史料編近世2』三重縣編/『日本武道大系 第七卷』/『〔增補〕藤堂高虎家臣辭典 附分限帳等』佐伯朗編/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

大嶋流『印可』を讀む

『印可:明曆第三十二月十三日』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、大嶋流の『印可:明曆第三十二月十三日付』(筆者藏)です。この『印可』は、同流の流祖大嶋吉綱に師事した月瀨淸信が平手忠左衞門に奧儀を殘さず傳授したことを證すものです。

軒轅の合戰より以來、干戈多しと雖も、鑓を最として其甲と爲す。
故に士爲る者は、車馬より之れに先んじて之れを操る。

古代の帝王軒轅の合戰より以來、多くの干戈(兵器)が用いられるようになった。中ん就く鑓が最も重んじられ、第一のものとして扱われた。
故に士たる者は、車馬より先驅けて鑓を操った。

*軒轅は、屢々傳書にも登場する傳說上の皇帝。例せば、『風傳流傳來之卷』に「嘗て中華の昔、義農干戈を造り、軒轅槍を作り、蚩尤も戈・殳・戟・酋矛・夷矛を作り、之れを五兵と謂ふ。」とあり。
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然れども、自由に使ふ者少なし。
慶長年、戶田一寶齋其玅を得る。予之れに從ひ、之れに習熟して眞を受けて、日月祕す。

それほど重視され用ゐられたにもかゝわらず、これを自由に使いこなす者は少なかった。
慶長年、戶田一寶齋という者がその玄妙を得ていた。予(月瀨淸信)はこの人に師事して、鑓術に習熟して眞の傳を受けて、暫くそのことを祕していた。

*鑓の最も古いところから說き起こして、近くは慶長年の話しに轉じる。
*戶田一寶齋は富田氏、名は久次と云い、富田淸源に學び、神林流槍術を指南した。<『神林流印可狀:元和八年五月吉日付』筆者藏>
*「予」は一人稱、月瀨淸信自身のこと。月瀨淸信は大嶋吉綱の高弟にして、大嶋流の達人、種田流の流祖種田正幸の師とされる。しかし、幾つかの種田流の傳書を閱しても、何れの國の人か誰に仕えたのか傳えられていない。そして、なぜか種田流の傳書の傳系に於いては、通稱を「伊左衞門」と記す。また、一部の流派の傳系に於いては、月瀨淸信を外して、大嶋吉綱-大島高賢-種田正幸とするものがある(後代村上義直)。そして、大嶋吉綱・種田正幸については、それなりの經歷が示されるのに對して、その間の月瀨淸信についての經歷が殆ど示されない。これは、やゝ穿った見方をすれば、そこに何らかの意圖があるように思われる。月瀨淸信が陪臣の身分であったことが關係したものか、傳系に於いて通稱を變える必要に迫られるほどの事情があったのか、後考を竢つ。
*平田の系の傳書に、月瀨氏は大嶋吉綱が德川賴宣に召し抱えられたとき、隨身したとの記述あり。しかし、本傳書の「明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き...」という記述に符合しない。
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而して後、元和比大島氏吉綱なる者は、此道に於いて世に鳴る者也。
予も亦心を盡すこと年久くして、神玅蘊奧を得る。

それから後ち、元和の頃、大島吉綱という者が、この鑓術の道に於いて世に知られていた。
予もまた(大島吉綱に師事して)長年鑓術に心を盡して、ようやく神玅蘊奧を會得した。

*この段、原文には大島吉綱に師事したと明記していない。しかし、「以二師」と續くことから、師事したものとして扱う。
猶、月瀨淸信は、大嶋吉綱が前田利長に仕えていたとき師事したのではないか、と『日本武道大系』に於いて推論あり。
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二師の餘力を以て、造次顚沛に愚意を起て、勉力して以て常山・金翅・不測の三術を推出するに類す。

不遜ながら、二師に指南して瞬時も怠りなく鍛鍊して着想を得、さらに努力して常山・金翅・不測の三術を發明した。

*「類」字は、謙遜して「~に似たり」の語感として用ゐたものかと想像するも、如何にして「以二師餘力」を解釋するか未だ確信を得ず。
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然りと雖も、琢磨の功止むを得ず、
明曆初元末秋比、紀州若山に到りて吉綱に對して、右道の旨趣を告ぐ。
師云く「嗚呼奇哉、微玅哉、庸人及ぶ所にあらざる也。當に國を治るに小補すべし。」と。

長年鍛鍊工夫を重ねたとはいえ、終りというものなく、
明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き、大島吉綱に對して、自ら得心した鑓術の旨趣を吿げたところ、
師は云った、「嗚呼奇なるかな、微玅なるかな、凡人の及ぶ所ではない。少しく治國に益するものだろう。」と。

*大嶋吉綱は大坂の役の後牢人となり、寬永十一年德川賴宣に召し抱えられ、正保三年に隱居、明曆三年十一月六日七十歲にて歿す。その父大嶋光義は關藩の初代藩主、弓の名手として名高い。
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爰に平手氏言賴、此道に志深く功を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り。術は予に同じ。

さて、この平手言賴という者は、この道に志深く、鍛鍊を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り、というほどの境地に至った。これは予の術に等しい。

*「有前忽然有後」は、捉え難く、推し量り難い、深淵なものゝ如く、出典は論語の「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。」。
*平手言賴は、本傳書の宛名の通り、通稱を忠左衞門と稱す。加賀藩家老橫山家(當時の當主は橫山忠次、明年小松城代となる。)の家來にて、平手政秀の子孫と云われる。
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故に奧を殘さず、之れを授け畢ぬ。
若し毫釐の祕する者有らば、豈に日本大小神祇の罸を蒙る者ならん。印可斯くの如し。

故に奧儀を殘さず傳授し終えた。
若し予が極く僅かの術でも傳授せず隱していれば、日本大小神祇の罸を蒙ることになるだろう。印可はこの通りである。

*「(イ)」字は「養也。室之東北隅,食所居。」<『說文解字』>。段玉裁の『說文解字注』に「東北陽氣始起。育養萬物。」とある如く、屢々傳書に見られる「閫奧(學問或は事理の深奧の所在を云う。)」に近い語感と思われる。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

『印可:明曆第三十二月十三日付』は、『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』の項に於いて觸れた通り、類似の文書が見當らない孤立した傳書です。
見比べるものがなく、何より訓點が無いため、私にとって讀み難いものでした。
愚見を述べれば、語順の誤り、語句の不足を感じられ、漢文として不備があるのではないかと思います。
しかし、勉强している者が見れば、これは文意を汲みさえすれば、自ずから讀みを確定し得るものにて、己の不勉强を恥じるほかありません。

こゝに取り上げた『印可』は、前段に記したように、大嶋吉綱-月瀨淸信-平手言賴へと至る大嶋流相傳の經緯を明らかにし、殘さず相傳したことを證すもので、その文面より察するに、月瀨淸信の編出と考えられます。猶、餘談ながら、平手言賴は承應三年に『中目錄』を傳授されています。

令和三年八月五日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『印可:明曆第三十二月十三日付』筆者藏/『中目錄:承應三年八月吉日付』筆者藏/『鎗術種田流祕書:安政七庚申歲閏三月付』筆者藏/『種田流祕極之卷口傳書』筆者藏/『種田流鎗術傳書:天保十三壬寅八月吉日付』筆者藏/『無題(種田流傳書、村上の系)』筆者藏/『無題(種田流傳書、平田の系)』筆者藏/『金澤市史資料編5近世三』金澤市/『日本武道大系 第七卷』/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

『大內流長刀目錄』を讀む

『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』(筆者藏)です。この流義を知る人は、おそらく殆どいないと思います。『武藝流派大事典』にその流名を見ないことから、極めて少數の者たちが相傳したものと思われます。

未だよく知られていないこの大內流長刀という流儀成立の由來が、當傳書目錄序に記されているので、讀んでみましょう。

大内流長刀目録の序
<夫れ大內流長刀なる者は、周防國の住大內式部正忠、嘗て能くする所也。>
そもそも大內流長刀というものは、周防國に住む大內式部正忠が、嘗て能く遣ったものである。

<弘治之亂後、四方を周游するの後、其の技を大內太郞左衞門正直に傳ふ。>
弘治の亂の後、大內正忠は四方を周游した後に、その技を大內太郞左衞門正直に傳えた。
註:「弘治之亂」・・・弘治元年大內家滅亡。

<其の後、正直出羽國に住して、名を無邊と改む。>
その後、大內正直は出羽國に住み、名を無邊と改めた。

<同國橫手郡仙北眞弓山に籠居の砌、忽然として夢想に槍の一流を開く。所謂無邊流也。>
同國橫手郡仙北眞弓山に籠居していたとき、忽然として夢想に悟り、槍の一流を開いた。これが所謂無邊流である。

<其の子上右衞門、其子淸右衞門之れを傳來す。淸右衞門長刀を眞田一藤太秀興に傳ふ。>
大內正直の子上右衞門と、その子淸右衞門がこの流義を相傳した。そして淸右衞門は長刀を眞田一藤太秀興に傳えた。

<秀興復た古傳の儘なるに因て、私意を加へて、其の形章を增して、以て大內新流と稱す。爾來、槍と長刀と兩流に分る。>
眞田秀興は更に古傳に私意を加えて、その條目を增し、大內新流と稱した。それから、流儀は槍と長刀とに分れた。

<余秀興先生に從ひて之れを學ぶこと年有り。其の術奇々妙々にして、而して鬱陶已に散じ、雾を披きて靑天を覩るが如し。>
余(私)は秀興先生に從って、長年大內流を學んだ。その術の奇々妙々なことに、心の雲は已に散り、さながら霧が披けて靑天を覩るようである。
*「鬱陶已散」・・・<明衡往來>「伏奉嚴旨、鬱陶已散。」
*「如披雾覩靑天」・・・<晉書/樂廣列傳>「命諸子造焉曰、此人之水鏡、見之瑩然、若披雲霧而靑天也。」

<是(こゝ)に至て必勝の理を示さるゝも亦た豁然として明らかなり。吁(あゝ)先生の術は神仙の傳と謂つべき者歟。>
この境地に至って必勝の理を示されゝば、何の疑いもなく悟ることができる。嗚呼、先生の術は神仙の傳えたものだと謂うべきものだ。
*「必勝之理」・・・<商君書/畫策>「虎豹熊羆、鷙而無敵、有必勝之理也。」
*「豁然明矣」・・・<朱熹/大學章句>「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。」
*「吁」・・・<操觚字訣>「吁は、驚也。疑怪之辭、歎と註す、嗚呼よりは、その意稍輕し。」

<爾りと雖も、窮玄極妙の處に到るには、日夜怠らず、切磋琢磨の功非ざれば、其の位を得ること最も難し。其の淺深を辨へるも亦た難し。>
そうではあるが、深奧を窮め、妙を極めるという境地に到るには、日夜怠らずして切磋琢磨しなければ、その位に到ることはとても難しく、またその淺深を知ることも難しい。

<因て茲に余序以て其の傳來を後輩に示す者也。于時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹て誌す。>
因ってこゝに余(私)が序をもって、その傳來を後輩に示すものである。この時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹みて誌(しる)す。

註 < >:譯文 赤字:意譯文 *解說

今囘は「序」に注目して、その後の目錄・印可の記述を省きました。これは箇條につき、その解釋をし得ないためです。若干附言すると、序の後は「目錄槍合表・裏」「中奧太刀合・十文字」「大奧」「印可口訣」と傳授箇條を列擧し、その後に傳系を記しています。

なお、この傳書は岡山藩士梶田淸右衞門の娘富貴に傳授されました。

令和三年八月十五日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏

『高島秋帆書簡』を讀む

『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏

今囘取り上げる古文書は、『高島秋帆書簡:十月十三日付』(筆者藏)です。高島秋帆の名は、恐らく幕末史を好む人ならば、旣にご存じかと思います。ご存じない人のために少し觸れると。高島秋帆は、西洋流(高島流)砲術の開祖として知られています。この西洋流は、單に從來の砲術諸流派の中に出現した新しい一派としてのみ語られるべきものではなく、從來の砲術を舊時代の遺物にしてしまうほど劃期的なものでした。當時の日本の情勢に於いて、西洋流という媒体は軍制改革のために最適だったのでしょう。

扨て、砲術家として知られた高島秋帆は、餘技として書を能くしたことから、揮毫を賴まれることが多かったと見え、今日數多くの作品が現存しています。當時、揮毫依賴というものは、たゞ職業書家にのみ依賴されるものではなく、その人物が有名でさえあれば、書の巧拙を問わず依賴されるものでした。これは有名人の書だから欲しいというやゝ低俗な面があったと思いますが、一方で社會的に認められた立派な人格者を慕って、その書を欲するという高尚な面もあったと思います。素より、高島秋帆は書を生業としていませんが、壯年の時は施南京・下硯香の書風に傾倒し、老年になると雲顧熙の書風に惹かれたと傳えられるごとく、唐樣を好んで學び研鑽して、當時行書を能くすると評判を得ていました(*1)。その上、砲術家として全國にその名を馳せていたことから、相當數の揮毫依賴があったものと察せられます。

揮毫依賴に對して、高島秋帆はどのような態度を以て依賴者に應えていたのか、その一端をこの『高島秋帆書簡』に見ることが出來ます。それでは讀んでみましょう。

御萬福賀し奉り候。昨日は御尊來の處、何の御風情なく失敬御免願ひ奉り候。
定例の挨拶にはじまり、前囘來訪時の風情の無さを詫びています。「何の御風情なく失敬御免」とは言え、これは當時の書信に屢々見られる言い廻しにて、實際に風情が無かったわけではないでしょう。

仰せられ候拙毫、今日間合も之れ有り候間、相認め候處、如何之れ有るべき哉、思召に相叶はず候はゞ、又々仰せ聞けられたく候。
前段來訪の三浦氏に依賴された揮毫の件について述べています。「この日は時間の都合がよく認められたのですが、貴方はこれを見てどう思うでしょうか?、氣に入らなければ、遠慮なく言ってください。」と親切な文言から察するに、よほど親しい間柄か、鄭重に接するべき相手だったとようです。

薄紙は、唐にて書を認め候紙にては之れ無く候。にじまぬ樣に認め候は、秋帆の手際に御座候。
揮毫依賴は、およそ依賴主の方で紙(或は絹)を用意することが多く、その紙の質によって思うように揮毫できない、ということは珍しくなかったと想像します。この段では、秋帆の揮毫のために用意された紙が、薄くて墨が滲みやすいものだったようで、これについて秋帆は「唐樣を書く自分にはちょっと書きにくいけれども、これを滲ませぬように書いたのだ。」と、やゝ得意氣に傳えることで、三浦氏の笑いを誘ったものと見えます。

神保氏書も如何に候哉。先づ相納め申し候間、敷く願ひ奉り候。頓首。
この段、神保氏に關する前後の事情は不明ながら、おそらく三浦氏を介して神保氏より依賴されていた揮毫も倂せて送ったのでしょう。よろしく渡してくださいと賴んだところで、この書狀が終わります。

全體を讀み終えて。やはり宛名の脇付に記された通り、「口上書」ゆえにざっくりと定型の文言は省かれており、直ちに意向を領得できるように認められたものと思われます。

註 太字:譯文 赤字:解說 *:筆者註 *1小西雅徳氏の著『高島秋帆の書画について(覺書)』

久しぶりに書簡を揭載しました。解讀は合っているでしょうか。インタ-ネットを使い、さまざまな記事を見ていると、このごろは古文書入門に關する記事がずいぶんと增えたと感じます。讀める人も增えているのでしょうか。私も日々古文書の解讀に勉めていますが、一向に上達せず、何か新たな試みをすべきかと思案しております。

令和三年八月十六日 因陽隱士著

參考史料 『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏/『集論 高島秋帆』板橋區立鄕土資料館

『片山流免狀』を讀む

『片山流免狀:元和貳年卯月吉日付』筆者藏

この『片山流免狀』は、肥後熊本藩(細川家)において三藝の師役を勤めた星野家舊藏、という特筆すべき由緖があります。
三藝とは、伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀の三つの流儀にて、その中の伯耆流居合は、「如何樣、古伯耆遍歷の節よりの御傳統にて御坐有るべくと推察致し候得共...<『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』>」と、岩國片山家の四代目片山久義が書中に述べる所の流儀にて、詳しい傳來の經緯こそ傳えられていませんが、細川家に傳承するもので、星野家初代の星野實員は、流祖片山久安より數えて九代目の江口之昌に免許を相傳され、後ち同流の師役となりました。

星野實員は、伯耆流居合の免許を相傳され師役となったことで、流儀が繼承していた片山久安の文書、則ちこの『片山流免狀』も受け繼いだと見られます。(歷代の指南役が所謂「指南送り」の扱いで流儀の重要文書を繼承する例は、他藩に認められます。)
受け繼いだか否か、それ自體を示す確たる史料は確認されていません。
しかし、この『片山流免狀』のほかに、「片山伯耆樣御書物」に該當する文書は星野家文書中に確認されておらず、また世に滅多に存在しない文書であることを考え合わせれば、やはり星野實員は流儀の繼承と共にこの『片山流免狀』も受け繼いだと推察されます。
また、この『片山流免狀』は、岩國の片山氏に送った書信において述べる所の「手前家筋に片山伯耆樣御書物傳來有之<『星野實員書翰:安永六年二月十七日付歟』>」に該當すると考えられます。
「御書物」という稱が卷物に相應しくないと思われるかもしれません。この點、片山久義の方の返信には「御傳軸の御冩等にても差し越され下され度く存じ奉り候。」と云い、「御傳軸」は「御書物」に對應しており、卷物であったことが分ります。

この『片山流免狀』の宛名の人物は「谷忠兵衞」と云い、元和二年、小倉藩の初代藩主細川三齋に仕えていた士にて、元和九年、御鐵砲頭衆に任じられ、その知行は加增を重ねて、五百石~壹千百石となった谷忠兵衞が該当するものと考えられます。

一、當流居合太刀の事、貴殿數年執心に遂げられ、其の上手前も我等に次ぎ、弟子多しと雖も、一段と勝り餘る御器用成る故に、我等手前相殘さず御相傳申す者也。
一、貴殿は當流の居合太刀を數年に亙り、他事を抛って執行され、その上所作も我等に次ぐものとなり、多くの弟子の中でも、その御器用は特別に抽んでたもの故に、我等の所作を殘さず相傳するものである。
*「其上手前次も我等」・・・こゝの「次も」は割書きされており、解釋に惱みました。先ず「手前」は相手のことを指すのでないことは、後に「御手前」とあることや、「我等手前不相殘御相傳」の文言によって分り、所作の類いを指すと考えられます。そして問題の「次も」ですが、こゝで敢えて割書きにする理由がなく、「も」字は「も」と讀まず、單なる書き損じであって、その右に「次」と書き直したもので、「其の上手前我等に次ぎ」と讀む方が妥當かもしれません。譯文においては、念のため「も」字を殘して、「其の上手前も我等に次ぎ」と譯しました。文意は變化しません。
*「手前次も」・・・筆者藏する所の『片山流居合序・免狀・歌之書・高上極意・居合目錄・印可之狀合卷:寬文拾二壬子曆十一月吉日付』に於いては、この文言が省かれています。

何方にても居合執心の旁〃之れ在るに於ては、堅く誓帋をさせ、其の上弟子の心を引見して、僞り之れ有る者に於ては、極意など相傳成され候事は、御無用にて候。
何方(いづかた)にても、居合に執心の者がいれば、必ず誓帋を差し出させて、更にその弟子の心中をよく觀察して、もし僞り有る者と分れば、極意などの相傳をしてはいけません。
*この段、「堅誓帋をさせ」と「其上弟子の心を引見」との間に文言を補い、「(堅く誓帋をさせ)御相傳有るべく、但し極意の位は(弟子の心を引見)」してと見る方が分りやすいと思います。

殊に御手前、彌〃夜白共に御心を懸けられ、他流の理方よりも非無き樣、御心持肝要たるべく候。仍て免狀件の如し。
殊に貴殿は、彌〃(いよいよ)晝夜共に心懸けて、他流の理法よりも劣ったところが無い樣にすべき心持を肝要とすべきである。仍って免狀はこの通りである。
*この段、もう少し分りやすい例を『尾州竹林派四巻書第四奥儀之巻:延寳七未ノ二月付』より引くと、「此書物御取候て後御油斷有間敷候。萬藝に免じ印加を取候ては、必々弓斷有物也。扨こそ羪由は百步に柳の葉を立、百々に百々矢を射に不外といえとも、三日の弓行を不成して三間の目中を射外といえり。是等を常に御心に被懸、彌々御嗜み候て、家傳の名を御下し有間敷候者也。」というような文意に近いと思われます。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

令和三年九月二十日 因陽隱士著

參考史料 『片山流免許之卷:元和貳年卯月吉日付』筆者藏/『肥後熊本藩星野家文書』筆者藏/『近世劍術における訪問修行に關する硏究―片山家文書『星野記』について―』和田哲也著/『新・肥後細川藩侍帳』谷忠兵衞履歷

『不遷流規定書』を讀む

『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏

今囘は不遷流の規定書(掟書)を取り上げます。不遷流については、ご存じの通り、物外和尙を祖とする體術(柔術)の流儀にて、この規定書が記された慶應二年九月は、田邊義貞が三世として名を列ねています。

田邊義貞は備中長尾村の人、初め二世武田貞治の門に入り、十八歲のとき初傳を得、翌年江府に遊學、後ち流祖物外和尙に師事し、また諸國を遍歷し硏鑽して奧儀を極め、二十九歲のとき不遷流三世の允可を傳授されました。則ち、この規定書は允可相傳の前年に當りますが、旣に三世と認められていたようです。

流儀の規定書(掟書)そのものは、取り立てゝ奇とするに足るものではありませんが、當時の不遷流の規定がどのようなものであったかを知るという點においては好史料と言って良いでしょう。道場內に揭げたものか、實際どのように用いられたものか定かでありません。

尋常な御家流の手です。それでは讀んでみましょう。

規定
一.御公儀御法度の趣.堅く相守り申すへく候事.
一.師弟相弟の禮儀.正鋪く仕るへく.勿論酒氣之れ有る節は.稽古無用の事.
附り.遊女噺等禁言.喧𠵅口論は勿論.他流を嗙る口外決して仕る間敷き事.
至って尋常な文言につき、何か說明することも無さそうですが、敢えて取り上げるとすれば、原文「嗙」の字は、「謗」の字義の方が相應しいように思われます。

一.他流出會稽古.猥りに仕る間敷く.且又淺心の輩.他流入門勝手次第.執心に依て目錄以上の輩は.故障筋之れ有り候共.流儀替へ堅く相成らす候事.
目錄以前の者は、流替しても構わない、しかし目錄以上の相傳を承けている者は、事情があったとしても流替は許されないということです。過去に見た、いくつかの流義に同樣の規定があり、當時としては普通かもしれません。一方、事情があれば許す、といった流儀も有ったと記憶しています。

一.當流入門は.先後に抱らす.鍊磨の功に依て目錄差し出し申すへき事.
「先後」と云うのは、先輩・後輩に關わらず、「鍊磨の功に依て」、修行の成果によって、ということでしょう。

一.御流義柔術.厚く執心に付き.御指南下さるへき旨.重々有り難き仕合に存し奉り候.斯に御入門仕り御傳授に預り候者は.自今以後.御敎恩忘却仕らす.素より御前書掟の趣.堅く相守り申すへく候.自然聊にても相背くに於いては.天神・地祇の罪・冥罪を蒙るへき者也.依て證文を起す.件の如し.
前段は物外和尙が定めた掟であり、この後段は三代目が傳承者の立場から定めたものです。物外和尙存生を前提とした文言につき、恐らく翌年には改められたと思われます。

註 赤字:解說

久しぶりの更新につき、作文に梃子摺りました。取り上げた規定書は、御手本のような書體・文體にて、最低限の言い廻しさえ知っていれば讀めるため、あまり言うべきことがなく、次囘はもう少し入り組んだものを取り上げたいと思います。

時代背景に思いを馳せると、やゝ興の湧くもので、この規定書が記された當時は、四境戰爭終結間もなく、國事に奔走していた物外和尙と付き隨っていた田邊義貞と共に、やゝ一息ついたところかと想像します。この頃の田邊義貞は、靑蓮院宮に仕えていて、その庇護によって諸國を往來していました。今にこの鑑札類が傳えられていて、當時これを用いて諸國を往來していたのかと思うと、何か感じるものがあります。

なお、この規定書は、龍谷大學の文學博士田中塊堂翁の父君が揮毫したと傳えられています。

令和四年八月七日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏/『田邊義貞先生墓碑銘』筆者藏