『物外不遷書簡』を讀む

『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、物外不遷の書簡です。津本陽の小說『拳豪傳』に、その生涯が描かれており、武術にさほど興味が無い人々にも「拳骨和尙」として廣く知られていると思います。

物外不遷の筆蹟は、主に掛軸や扁額として、その筆蹟が今日に保存され、目にする機會が多く、特に隸書の大字が珎重されています。

しかし、掛軸や扁額の筆蹟が世に知られこそするものゝ、日常の筆蹟というものは、掛軸や扁額の筆蹟の多さに比べて、極めて少なく目にする機會が稀と言えます。なぜ、今日に書簡の類が保存されていないのか、あるいは篋中に眠ったまゝなのか、その邊りのことを知る術はありません。

そこで私は積年、物外不遷の日常の筆蹟を探索してきました。そして過般、ようやくこれを發掘する機會を得た爲、此度、こゝに紹介しよういうわけです。それでは讀んでみましょう。

二白、時氣御用愼專一祈る處に御坐候。珎敷き品、數々相求め申し候。
「二白」というのは追伸のことです。冒頭に書かれていますが、本文を書いたあとに付け足すもので、「追而書」「尙々書」に類するものです。

幸便を以て貴意を得候。時に薄暑に相成り候處、彌御厚安賀し奉り候。
「薄暑」「猶淸和月」といゝ、初夏の氣配、陰曆の四月。時候の挨拶に始まるのは、現代と同じく定型。

山僧事も無事にて御存じの樂しみ捨て難く、定て足下も何ぞ珎しき物御手に入りこれ有り候や。
そして、自身の無事を傳えるところまで定型。「山僧」は、自身を遜っていう一人稱。「御存の樂しみ捨て難く」とは、骨董蒐集のことを指しています。物外和尙に骨董蒐集の趣味があったとは知らなかったですね。とはいえ、佛敎系の古物を求めていた樣子です。「足下」、貴方もきっと何か珍しいものを入手していることでしょう、いかゞですか?、と。

何卒近年の內御尋ね申したく存じ奉り候へども、參り兼ね申候。其內一度は是非と存じ奉り候。
遊びに行きたいのは山々ですが、行けそうにありません。その內一度は是非行きたいと思っています、と。

然ば去春は御出で下され候處、何の風情も致さず、殘念に存じ奉り候。
去年の春、來訪のことを振り返る。

扨て、おこまどのへよろしく御鶴聲御賴み上げ候。
「おこまどの」とは恐らく奧さんのことでしょう。

先づ長命の御用愼第一の事に存じ奉り候。壹人も命あれば驕り逢ふ。
「長命の御用愼第一」、健康第一。健康であることを當たり前に思って、不攝生してはならないという戒め歟。「壹人も」の「壹」の字の判讀は、不確かです。

先づは御見舞旁々此くの如く御坐候。不備。
締めの定型。

龜太郞樣
丹波龜山藩の所領は、備中淺口郡にもあり、いわゆる飛び地、こゝに詰めていた藩士の一人が淺野龜太郞。物外和尙の居處「濟生寺」からもほど近く、兩者は古物の蒐集という共通する趣味を持っていたと分ります。
實は、同封にもう一通あり、近ごろ手に入れた珎物として、達磨大師立像や古銅の楊柳觀音像、唐物の宣德湯わかしといったものが擧げられています。

註 太字:譯文 赤字:解說

以上、物外不遷の書簡、いかゞだったでしょうか。本書簡は、同封の一通によって、安政三年、物外和尙六十二歲の筆と考えられます。なんとなく、もっと破天荒な文字を書きそうな數々の逸話を殘していますが、實際のところ書風は尋常そのもの。たゞ當時普通の俗體とは趣が違う大らかさがあるように感じます。

後段に掛軸を載せています。書簡の筆蹟と見比べて下さい。

令和五年十月二十四日 因陽隱士著

參考史料 『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀

『物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀』筆者藏

天照皇太神宮
 謀計雖爲眼前之利潤.必當神明之罰.正直雖非一旦依怙.終蒙日月憐.
八幡大菩薩
 雖食鐵丸不受汚人之處.雖坐銅焰.不到意穢人之處.
春日大明神
 雖曳千日注連.不到邪見之家.雖爲重服深厚、可赴慈悲室.
乙卯[安政二年]六十一翁物外謹書.

『不遷流規定書』を讀む

『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏

今囘は不遷流の規定書(掟書)を取り上げます。不遷流については、ご存じの通り、物外和尙を祖とする體術(柔術)の流儀にて、この規定書が記された慶應二年九月は、田邊義貞が三世として名を列ねています。

田邊義貞は備中長尾村の人、初め二世武田貞治の門に入り、十八歲のとき初傳を得、翌年江府に遊學、後ち流祖物外和尙に師事し、また諸國を遍歷し硏鑽して奧儀を極め、二十九歲のとき不遷流三世の允可を傳授されました。則ち、この規定書は允可相傳の前年に當りますが、旣に三世と認められていたようです。

流儀の規定書(掟書)そのものは、取り立てゝ奇とするに足るものではありませんが、當時の不遷流の規定がどのようなものであったかを知るという點においては好史料と言って良いでしょう。道場內に揭げたものか、實際どのように用いられたものか定かでありません。

尋常な御家流の手です。それでは讀んでみましょう。

規定
一.御公儀御法度の趣.堅く相守り申すへく候事.
一.師弟相弟の禮儀.正鋪く仕るへく.勿論酒氣之れ有る節は.稽古無用の事.
附り.遊女噺等禁言.喧𠵅口論は勿論.他流を嗙る口外決して仕る間敷き事.
至って尋常な文言につき、何か說明することも無さそうですが、敢えて取り上げるとすれば、原文「嗙」の字は、「謗」の字義の方が相應しいように思われます。

一.他流出會稽古.猥りに仕る間敷く.且又淺心の輩.他流入門勝手次第.執心に依て目錄以上の輩は.故障筋之れ有り候共.流儀替へ堅く相成らす候事.
目錄以前の者は、流替しても構わない、しかし目錄以上の相傳を承けている者は、事情があったとしても流替は許されないということです。過去に見た、いくつかの流義に同樣の規定があり、當時としては普通かもしれません。一方、事情があれば許す、といった流儀も有ったと記憶しています。

一.當流入門は.先後に抱らす.鍊磨の功に依て目錄差し出し申すへき事.
「先後」と云うのは、先輩・後輩に關わらず、「鍊磨の功に依て」、修行の成果によって、ということでしょう。

一.御流義柔術.厚く執心に付き.御指南下さるへき旨.重々有り難き仕合に存し奉り候.斯に御入門仕り御傳授に預り候者は.自今以後.御敎恩忘却仕らす.素より御前書掟の趣.堅く相守り申すへく候.自然聊にても相背くに於いては.天神・地祇の罪・冥罪を蒙るへき者也.依て證文を起す.件の如し.
前段は物外和尙が定めた掟であり、この後段は三代目が傳承者の立場から定めたものです。物外和尙存生を前提とした文言につき、恐らく翌年には改められたと思われます。

註 赤字:解說

久しぶりの更新につき、作文に梃子摺りました。取り上げた規定書は、御手本のような書體・文體にて、最低限の言い廻しさえ知っていれば讀めるため、あまり言うべきことがなく、次囘はもう少し入り組んだものを取り上げたいと思います。

時代背景に思いを馳せると、やゝ興の湧くもので、この規定書が記された當時は、四境戰爭終結間もなく、國事に奔走していた物外和尙と付き隨っていた田邊義貞と共に、やゝ一息ついたところかと想像します。この頃の田邊義貞は、靑蓮院宮に仕えていて、その庇護によって諸國を往來していました。今にこの鑑札類が傳えられていて、當時これを用いて諸國を往來していたのかと思うと、何か感じるものがあります。

なお、この規定書は、龍谷大學の文學博士田中塊堂翁の父君が揮毫したと傳えられています。

令和四年八月七日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏/『田邊義貞先生墓碑銘』筆者藏