所藏史料紹介:林崎流居合御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號 一幅 帋本墨書 40.0 x 104.0 cm 文化十一年甲戌正月二十五日付 筆者藏

御傳授居合極意大橫物幷神號. Edo period. dated 文化 11 (1814).
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● 從四位下行雅樂頭源朝臣忠道・・・酒井忠道公.從四位下雅樂頭.播磨國姬路城主.櫻田御火消.當橫物揮毫の同年九月晦日隱居.天保八丁酉七月廿三日御逝去.御年六十一歲、法諡率性院殿曆堂源祁大居士.
因陽隱士
令和六年三月丗一日編

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

甲乙流兵書一

甲乙流兵書一 一卷 帋本墨書 18.1 x 180.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書一. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
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甲乙流兵書二

甲乙流兵書二 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.0 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書二. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.0 cm. Private collection.

甲乙流兵書三

甲乙流兵書三 一卷 帋本墨書 18.1 x 87.2 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書三. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
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甲乙流兵書四

甲乙流兵書四 一卷 帋本墨書 18.1 x 86.6 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書四. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
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甲乙流兵書五

甲乙流兵書五 一卷 帋本墨書 18.1 x 118.5 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書五. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 118.5 cm. Private collection.

甲乙流兵書六

甲乙流兵書六 一卷 帋本墨書 18.1 x 190.8 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書六. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 190.8 cm. Private collection.

甲乙流兵書七:神通之卷

甲乙流兵書七:神通之卷 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書七:神通之卷. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
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因陽隱士
令和六年三月晦日編

所藏史料紹介:大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
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『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

所藏史料紹介:伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷 一卷 帋本墨書 16.4 x 351.7 cm 永祿七年九月十七日付 筆者藏

大坪流作之鞍鐙斷簡. Edo period. dated 永祿 7 (1564).
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● 歸本軒宗仁・・・小笠原流の禮法書『宗仁聞書』を著す。長谷川宗仁同一人説あり。長谷川宗仁は、織田信長・豐臣秀吉・德川家康三公に仕える。茶法を武野紹鷗に受ける。
● 中嶋攝津守宗次・・・伊勢流の禮法書『中島攝津守宗次記』を著す。
因陽隱士
令和五年十二月廿四日編

所藏史料紹介:天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷 一卷 帋本墨書 20.2 x 350.5 cm 元祿十年卯の三月吉日付 筆者藏

天下無雙姉河流鑓外物卷. Edo period. dated 元祿 10 (1697).
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● 姉川新左衛門安知・・・肥前の人。姉河流の祖。澁江公茂に寳藏院流を學ぶ。佐賀藩の多久邑・諫早に行われたと云う。
因陽隱士
令和五年十二月廿六日編

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

竹內流捕手腰廻之事

竹內流捕手腰廻之事 一卷 帋本墨書 18.2 × 135.1 cm 慶長拾參年二月廿四日付 美作國松野家文書 筆者藏

竹內流捕手腰廻之事. Edo period. dated 慶長 13 (1608).
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● 御一新後作州垪和の近鄕に住した松野家舊藏文書.帋二枚繼.失元裝.今無裝.
● 某愚親・・・竹內久盛.竹內久勝の父.
● 樊張・・・高祖劉邦の臣.樊噲と張良とを指すもの歟.
● 竹內藤一郞久勝・・・竹內流二代目.常陸介.關白豐臣秀次公に仕ふ.寬文三年九月十日歿.
文祿五年武者修行を終えて美作國垪和に歸鄕し角石谷に道場を構え.元和四年嫡子久吉と上洛し京都に道場を構えたとされる.<美作垪和鄕戰亂記―竹內・杉山一族の戰國史>
● 松野主馬頭殿・・・小早川秀秋公の臣に松野主馬[名重元]という者あり.然れども本文書の松野主馬頭と同一人物歟.不明.
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷

帋本墨書 17.6 x 916.0 cm 享和二壬戌三月付 筆者藏

新影治源流圖法師卷. Edo period, dated 享和 2 (1802).
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● 成田源左衞門尉正意・・・(弘前藩八代藩主)津輕土佐守信明侯の家來.治源流師役.寳曆十三年治源流皆傳.明和九年同流師役を繼承.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

『國友一貫齋書簡』を讀む

『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏

今囘、こゝに紹介する古文書は、『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』です。

○ 沿革
この手紙は越前大野藩、土井家の家来中村家が所藏していたものです。中村氏といえば彼の明君土井利忠公の側近中村重助が世に知られています。その中村重助の父には軍學者の弟がおりました。これが初代中村志津摩です。その初代志津摩は次男坊なので家督を繼ぐことは出来ず、軍學を以て身を立て、また良いところの家柄でしたから特別に別祿を賜り一家を立てられました。これを假に中村志津摩家としておきましょう。二代目、三代目も志津摩と名乘ります。その軍學者初代志津摩の子二代目志津摩こそ、今囘紹介する書簡の嘗ての持ち主でした。

〇 二代目中村志津摩
二代目志津摩は父のように軍學はやらなかったようです、そういった形跡は見當たりません。彼は砲術家としての道を撰びました。自由齋流という歷史があって著名な流派を修行し、遠境の京都に住まう津田算緜という人物に師事して印可を相傳されます。
印可というのはつまり、その流派の全てを學び終えて獨立し、一家を立てゝ弟子を敎え、目錄や免許を與えることが出來る立場のことです。この段階に至ることは實に難しく、ただ伎倆が優れていてもなれるものではありません。流派の身分にもよりますし、さまざまな條件によっても異なるのですが、自由齋流の場合は士筒ですから、印可を得るには伎倆・經驗・智識・人格に加え、指導者として相應しい家柄が必要だったと考えられます。この點、彼は重臣の家から一つ分かれた家柄であり、身分も用人に昇るほどですから全く問題なかったと思います。

〇 國友藤兵衞
扨て、本書簡を認めた國友藤兵衞のことです。國友藤兵衞といえば國友鍛冶の一家を指し、代々藤兵衞を名乘るものが多くいました。そのため書簡などの名を見ても、はたしてその人物が何代目に該當するものか、一見して判斷の付きかねるものです。
今囘こゝに紹介する書簡は『能當流鑄筒製作法』と題する一冊に挾み込まれていたもので、且つ書中に鑄筒製作本を送ったとありますから、書簡と冊子と共に同一人物・同時期の作成であることが明らかです。
しかし、國友藤兵衞の筆蹟を確認し得る資料が見當りません、つまり筆蹟を見るかぎりにおいては何代目なのか比定できないのです。けれども『能當流鑄筒製作法』には年號が書かれています、文政十二年八月、この年國友一貫齋(九代目重恭)は五十二歲、現役でありました。そして八代目重倫は寬政十一年歿、十代目元俶が跡を繼ぐのは天保十一年のこと、すなわち『能當流鑄筒製作法』は間違いなく國友一貫齋の作成にして、手紙もまた同一人物の作成だと云えるのです。

以上、書簡の差出人・受取人について知った上で讀んでみましょう。

一、鑄筒製作本、先達て飛脚差し上せ申し上げ候節、差し上げ候と存じ奉り候所、取り殘し置候間、此度差し上げ奉り候御落手願ひ上げ奉候。 『鑄筒製作本』、題名通り鑄筒の製作方法を著した本。文政十二年八月、國友一貫齋の手によって記され、本書翰と共に中村志津摩に贈られた。もう少し以前に贈るはずだったが、忘れていたとのこと。
『能當流鑄筒製作法』筆者藏

一、釷■御入れ遊ばされ候節、錫も入れ湯能くさへ候時、繪形に印し置き申し候穴より釷■御入れ遊ばさるべく候。
『鑄筒製作本』の內容を補足。釷■の「■」の文字が表示されず、「金」へんに「丹」か、造語歟。金屬の名。

一、タメル又はトリベ候湯を受け、繼ぎ込み候には、トリベにて釷■をわかし置き、其內へ湯を受け申し候。タメルにては、本に印し候通り、直に留壺より形へ繼ぎ込み候時は、穴より土釷■を入れ申し候。此品御承知遊ばさるべく候。
「タメル」とは「タメ留」と書く、金屬製の鍋。留壺(ルツボ/坩堝)から一旦これに流し込み、溫度を調整したり藁灰を入れたりする、そして鑄型に注ぎ込む。
「トリベ」とは「取鍋」と書く、金屬製の鍋で取っ手に竿を二本通したもの。湯二十貫目入。用途は「タメ留」と似たようなものか、少し小型なようです。

鑄筒の儀は、尊前樣方にて手間料入らず、御なぐさみに遊ばされ候には甚が宜敷く、私共にて千萬人手にて致させ、高手間出し候ては何れそん[損]仕り候。廿貫已上なれば宜敷く候。何卒御憐愍御執成し偏に願ひ上げ奉り候。
鑄筒は、ある程度なら外註せず、自前で製作した方が出費を抑えられる。言外に、特別に製作方法を敎示する。代りに、難しい大型の製作であれば、是非とも當方へ註文してくだされ、との意歟。*こゝの解釋は推測です。

『鑄筒製作本』筆者藏

一、御約束の三匁玉筒のきり[錐]、漸く出來仕り候間、獻上仕り候。さびきりにても御入れ遊ばされ候節、カリ竹の先少し厚く遊ばされ候て、元先一めんに掛り候樣に遊ばさるべく候。
三匁玉筒の手入れ用具ですね。

一、御申し上げ候筋の儀、病後にて鍛へ存意にも相叶はず候得共、先づ獻上仕り候。御收納願ひ上げ奉り候。此度は參上仕り、山々御物語仕りたく、又は御目見等の儀願ひ上げ奉りたく、相樂み居り候所、心外の仕合、御察し下さるべく候。
顧客との取引に至って丁寧な一貫斎。後段のごとく、どうしても体調不良で参上できないとのこと。

私三拾年此方、半時わづらひ候事御座無く候。此度は誠に心外に存じ奉り候。色々申し上げ奉りたき御儀御座候得共、とかく氣六ヶ敷く候間、入用迄申し上げ奉り候。已上。
頑健な方だったようですが、何らかの患いによって參上できず、用件のみを傳える。

註 太字:譯文 赤字:解說

『一貫齋國友藤兵衞傳』を引っ張り出し「一貫齋文書」を見ますと、當時國友に依賴された諸方面からの註文書のなかに中村志津摩の名を見付けることができます(「鐵炮製作關係:其一、註文書」)。
中村志津摩の註文は76.77そして84の項目にあり、その間同流と書かれているものや前後も大野藩關係の註文だと思います。そのなかには殿樣御筒も見られます(同書中、津田流と記されているのは、自由齋流の別名です)。

令和五年十月二十八日 因陽隱士著

參考史料 『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏 /『能當流鑄筒製作法』筆者藏 /『越前大野藩中村家文書』筆者藏 /『大野市史:藩政史料編一』大野市 /『一貫齋國友藤兵衞傳』有馬成甫著

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

今囘は『齋藤龍善書簡:十一月三十日付』を取り上げます。齋藤龍善、この人物は齋藤彌九郞の稱でよく知られる篤信齋の子です、恐らくご存じでしょう。神道無念流、練兵館の二代目として、彌九郞の稱を繼ぎ、 門下より數多の名士を輩出。講武所劍術師範・幕府遊擊隊肝煎役・幕府步兵指南役竝等を歷任しました。

扨て、この『齋藤龍善書簡』は、丹波龜山藩士垪和氏へ宛てたもので、當時盛んに行われていた尊攘活動のために、ともすれば脫藩し兼ねない樣子の垪和氏を案じて認められました。練兵館に尊攘派の人物が多かったことゝ無關係ではないでしょう。

爾後は久々御無音罷り過ぎ恐縮此事に存じ奉り候。先以て春暖の節御座候處、益御勇健拜賀し奉り候。
定型の挨拶です。

愈々此度源海禮次郞殿御供にて、一寸歸宅成され候に付、一寸申し上げ候。
はじめに、宛名の垪和氏や源海氏は丹波龜山藩の士です。そして、こゝの文意は宛名の垪和氏が源海禮次郞の御供で歸宅するようにも捉えられますが、垪和氏は國許の龜山に居りますから、源海氏は殿樣の御供として江戶から龜山へ歸國するという文意が正しいです。そこで、齋藤氏は言いたいことがある、と。

扨て、一別以來世變申し盡し難く候。先々御安泰、大慶此事壽ぎ奉り候。
幕末、何かと異變のある時勢ですが、兩者とも安泰、無事で何よりです、と。

彌御盛んに釼術御引き立ての段、重疊の御儀と存じ奉り候。然る處、遠境にて何事も碇と致し候事、相聞へ申さず、
先ず、宛名の垪和氏は別項「所藏史料紹介:神道無念流三卷」を相傳された神道無念流免許皆傳の人物。國許へ歸って藩士たちを敎導していました。「御盛んに釼術御引き立ての段」とは、そのことを指しています。「遠境にて」、江戶と龜山とは遠隔、確かな情報ではないと前置き。

去り乍ら、當時尊公にて何角御不都合思し召し候事共これ有り候哉にて、時々御不平の御樣子も相見へ候段、薄々承知仕り候。
「當時」とは、垪和氏が江戶の練兵館で修行中のことでしょう。齋藤氏は、垪和氏が日頃不滿を募らせている樣子を心配していました。

何等の儀に候哉、相心得ず候得共、今日世に處するものは人間而巳に相抱らず、出役變地の儀は當然にて、自然に相任せ自己の了簡相用ひず候樣仕りたく、壯年血氣は甚だ事に害これ有り、宜しからずと存じ奉り候。
「何等の儀に候哉」とはいえども、ある程度豫想はついているけれども、本人から確かなことを聞いたわけではないため、遠廻しに垪和氏の不滿を宥める論調です。後段に仔細あり。

何分此上の處、拾ヶ年今身を守り、御辛抱これ有りたく、小生儀も猶ほ愚案もこれ有り候間、追々御志も相達し申すべく、必ず不平御ならしこれ無く、默々然と御藝術御出精を祈念し奉り候。
國許の龜山に戾された垪和氏の不滿は、江戶滯在中よりも膨れ上がっていたのかもしれません。劍術の敎導にのみ力を盡して、無謀なことをしてくれるな、と。

今日人情天下の形勢、何方も同斷にて或は御脫藩等の御趣意等これ有り候ては、以ての外御不存意と存じ奉り候間、是よりは小生老馬□に御面じ、前段宜敷く御承知願ひ奉り候。御許容もこれ有り候はゞ、實に大慶至極存じ奉り候。吳々惡しからず承知下さるべく候。
齋藤氏は、垪和氏が尊王攘夷の思想に同調するあまり、脫藩するのではないかと危惧していました。僕の顏に免じて、是非とも思い止まってくれと懇願。

一、源海君御修行、追々御上達候處、此度御歸國は甚だ宜しからず候得共、是非に及ばず。
御供のため歸國する源海氏。滯府していれば、もっと劍術が上達していたはず。

倂し乍ら、猶又御同人・御一門樣へ御出會ひ早々出府これ有り候樣、御傳聲願ひ上げ奉候。
今度歸國する人たちに出會ったら、できればまた出府するように勸めてほしい、と。

右の段申し上げたく、誠に繁用尙々日勤同樣寸暇を得ず、亂筆を顧りみず我が赤志申し述べ候。猶ほ後便の時を期し候。恐々頓首。
齋藤氏、日勤同樣の忙しさ。取り急ぎ、垪和氏の脫藩を止めたかったのでしょう。

尙々、末乍ら御惣容樣宜しき哉、傳聲願ひ上げ奉候。猶ほ以て時下折角御厭ひ御座候樣祈念し奉り候。以上。
定型の締め。

註 太字:譯文 赤字:解說

二代目齋藤彌九郞は、初代が有名なあまり、その事績に注目する人は少ないように思います。私もそうでした。しかし、よくよく事蹟を調べてみると、勤王の志が篤く、また劍術という限られた範圍に終始することなく西洋流の調練・火器に關しても詳しく、有爲の人々と交わり父篤信齋讓りの進步的な精神を持ち、何より人材を育成することに熱意を持った人物でした。

本書簡の如く、遠隔の地にある門人の動向にも憂慮していた樣子、當時の師弟の親密な間柄を窺い知ることができます。

また、本書簡において、齋藤龍善が垪和氏の不滿を宥めることに苦心する一方で、久保無二三の如き尊攘派の志士は、頻りと京都へ出て勤王のために盡そうと呼びかけていたようです。(そのように行動を促す無二三の書簡が保存されていますが、時代の前後は未考)

令和五年十月二十五日 因陽隱士著

參考史料 『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀

『東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀』筆者藏

夫れ兵は勢弩を彍るが如く.節機に發するが如し.紛々紜々として戰い亂るれども.亂る可からざるなり.