大嶋流『印可』を讀む

『印可:明曆第三十二月十三日』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、大嶋流の『印可:明曆第三十二月十三日付』(筆者藏)です。この『印可』は、同流の流祖大嶋吉綱に師事した月瀨淸信が平手忠左衞門に奧儀を殘さず傳授したことを證すものです。

軒轅の合戰より以來、干戈多しと雖も、鑓を最として其甲と爲す。
故に士爲る者は、車馬より之れに先んじて之れを操る。

古代の帝王軒轅の合戰より以來、多くの干戈(兵器)が用いられるようになった。中ん就く鑓が最も重んじられ、第一のものとして扱われた。
故に士たる者は、車馬より先驅けて鑓を操った。

*軒轅は、屢々傳書にも登場する傳說上の皇帝。例せば、『風傳流傳來之卷』に「嘗て中華の昔、義農干戈を造り、軒轅槍を作り、蚩尤も戈・殳・戟・酋矛・夷矛を作り、之れを五兵と謂ふ。」とあり。
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然れども、自由に使ふ者少なし。
慶長年、戶田一寶齋其玅を得る。予之れに從ひ、之れに習熟して眞を受けて、日月祕す。

それほど重視され用ゐられたにもかゝわらず、これを自由に使いこなす者は少なかった。
慶長年、戶田一寶齋という者がその玄妙を得ていた。予(月瀨淸信)はこの人に師事して、鑓術に習熟して眞の傳を受けて、暫くそのことを祕していた。

*鑓の最も古いところから說き起こして、近くは慶長年の話しに轉じる。
*戶田一寶齋は富田氏、名は久次と云い、富田淸源に學び、神林流槍術を指南した。<『神林流印可狀:元和八年五月吉日付』筆者藏>
*「予」は一人稱、月瀨淸信自身のこと。月瀨淸信は大嶋吉綱の高弟にして、大嶋流の達人、種田流の流祖種田正幸の師とされる。しかし、幾つかの種田流の傳書を閱しても、何れの國の人か誰に仕えたのか傳えられていない。そして、なぜか種田流の傳書の傳系に於いては、通稱を「伊左衞門」と記す。また、一部の流派の傳系に於いては、月瀨淸信を外して、大嶋吉綱-大島高賢-種田正幸とするものがある(後代村上義直)。そして、大嶋吉綱・種田正幸については、それなりの經歷が示されるのに對して、その間の月瀨淸信についての經歷が殆ど示されない。これは、やゝ穿った見方をすれば、そこに何らかの意圖があるように思われる。月瀨淸信が陪臣の身分であったことが關係したものか、傳系に於いて通稱を變える必要に迫られるほどの事情があったのか、後考を竢つ。
*平田の系の傳書に、月瀨氏は大嶋吉綱が德川賴宣に召し抱えられたとき、隨身したとの記述あり。しかし、本傳書の「明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き...」という記述に符合しない。
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而して後、元和比大島氏吉綱なる者は、此道に於いて世に鳴る者也。
予も亦心を盡すこと年久くして、神玅蘊奧を得る。

それから後ち、元和の頃、大島吉綱という者が、この鑓術の道に於いて世に知られていた。
予もまた(大島吉綱に師事して)長年鑓術に心を盡して、ようやく神玅蘊奧を會得した。

*この段、原文には大島吉綱に師事したと明記していない。しかし、「以二師」と續くことから、師事したものとして扱う。
猶、月瀨淸信は、大嶋吉綱が前田利長に仕えていたとき師事したのではないか、と『日本武道大系』に於いて推論あり。
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二師の餘力を以て、造次顚沛に愚意を起て、勉力して以て常山・金翅・不測の三術を推出するに類す。

不遜ながら、二師に指南して瞬時も怠りなく鍛鍊して着想を得、さらに努力して常山・金翅・不測の三術を發明した。

*「類」字は、謙遜して「~に似たり」の語感として用ゐたものかと想像するも、如何にして「以二師餘力」を解釋するか未だ確信を得ず。
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然りと雖も、琢磨の功止むを得ず、
明曆初元末秋比、紀州若山に到りて吉綱に對して、右道の旨趣を告ぐ。
師云く「嗚呼奇哉、微玅哉、庸人及ぶ所にあらざる也。當に國を治るに小補すべし。」と。

長年鍛鍊工夫を重ねたとはいえ、終りというものなく、
明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き、大島吉綱に對して、自ら得心した鑓術の旨趣を吿げたところ、
師は云った、「嗚呼奇なるかな、微玅なるかな、凡人の及ぶ所ではない。少しく治國に益するものだろう。」と。

*大嶋吉綱は大坂の役の後牢人となり、寬永十一年德川賴宣に召し抱えられ、正保三年に隱居、明曆三年十一月六日七十歲にて歿す。その父大嶋光義は關藩の初代藩主、弓の名手として名高い。
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爰に平手氏言賴、此道に志深く功を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り。術は予に同じ。

さて、この平手言賴という者は、この道に志深く、鍛鍊を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り、というほどの境地に至った。これは予の術に等しい。

*「有前忽然有後」は、捉え難く、推し量り難い、深淵なものゝ如く、出典は論語の「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。」。
*平手言賴は、本傳書の宛名の通り、通稱を忠左衞門と稱す。加賀藩家老橫山家(當時の當主は橫山忠次、明年小松城代となる。)の家來にて、平手政秀の子孫と云われる。
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故に奧を殘さず、之れを授け畢ぬ。
若し毫釐の祕する者有らば、豈に日本大小神祇の罸を蒙る者ならん。印可斯くの如し。

故に奧儀を殘さず傳授し終えた。
若し予が極く僅かの術でも傳授せず隱していれば、日本大小神祇の罸を蒙ることになるだろう。印可はこの通りである。

*「(イ)」字は「養也。室之東北隅,食所居。」<『說文解字』>。段玉裁の『說文解字注』に「東北陽氣始起。育養萬物。」とある如く、屢々傳書に見られる「閫奧(學問或は事理の深奧の所在を云う。)」に近い語感と思われる。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

『印可:明曆第三十二月十三日付』は、『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』の項に於いて觸れた通り、類似の文書が見當らない孤立した傳書です。
見比べるものがなく、何より訓點が無いため、私にとって讀み難いものでした。
愚見を述べれば、語順の誤り、語句の不足を感じられ、漢文として不備があるのではないかと思います。
しかし、勉强している者が見れば、これは文意を汲みさえすれば、自ずから讀みを確定し得るものにて、己の不勉强を恥じるほかありません。

こゝに取り上げた『印可』は、前段に記したように、大嶋吉綱-月瀨淸信-平手言賴へと至る大嶋流相傳の經緯を明らかにし、殘さず相傳したことを證すもので、その文面より察するに、月瀨淸信の編出と考えられます。猶、餘談ながら、平手言賴は承應三年に『中目錄』を傳授されています。

令和三年八月五日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『印可:明曆第三十二月十三日付』筆者藏/『中目錄:承應三年八月吉日付』筆者藏/『鎗術種田流祕書:安政七庚申歲閏三月付』筆者藏/『種田流祕極之卷口傳書』筆者藏/『種田流鎗術傳書:天保十三壬寅八月吉日付』筆者藏/『無題(種田流傳書、村上の系)』筆者藏/『無題(種田流傳書、平田の系)』筆者藏/『金澤市史資料編5近世三』金澤市/『日本武道大系 第七卷』/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編