『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

今囘は『齋藤龍善書簡:十一月三十日付』を取り上げます。齋藤龍善、この人物は齋藤彌九郞の稱でよく知られる篤信齋の子です、恐らくご存じでしょう。神道無念流、練兵館の二代目として、彌九郞の稱を繼ぎ、 門下より數多の名士を輩出。講武所劍術師範・幕府遊擊隊肝煎役・幕府步兵指南役竝等を歷任しました。

扨て、この『齋藤龍善書簡』は、丹波龜山藩士垪和氏へ宛てたもので、當時盛んに行われていた尊攘活動のために、ともすれば脫藩し兼ねない樣子の垪和氏を案じて認められました。練兵館に尊攘派の人物が多かったことゝ無關係ではないでしょう。

爾後は久々御無音罷り過ぎ恐縮此事に存じ奉り候。先以て春暖の節御座候處、益御勇健拜賀し奉り候。
定型の挨拶です。

愈々此度源海禮次郞殿御供にて、一寸歸宅成され候に付、一寸申し上げ候。
はじめに、宛名の垪和氏や源海氏は丹波龜山藩の士です。そして、こゝの文意は宛名の垪和氏が源海禮次郞の御供で歸宅するようにも捉えられますが、垪和氏は國許の龜山に居りますから、源海氏は殿樣の御供として江戶から龜山へ歸國するという文意が正しいです。そこで、齋藤氏は言いたいことがある、と。

扨て、一別以來世變申し盡し難く候。先々御安泰、大慶此事壽ぎ奉り候。
幕末、何かと異變のある時勢ですが、兩者とも安泰、無事で何よりです、と。

彌御盛んに釼術御引き立ての段、重疊の御儀と存じ奉り候。然る處、遠境にて何事も碇と致し候事、相聞へ申さず、
先ず、宛名の垪和氏は別項「所藏史料紹介:神道無念流三卷」を相傳された神道無念流免許皆傳の人物。國許へ歸って藩士たちを敎導していました。「御盛んに釼術御引き立ての段」とは、そのことを指しています。「遠境にて」、江戶と龜山とは遠隔、確かな情報ではないと前置き。

去り乍ら、當時尊公にて何角御不都合思し召し候事共これ有り候哉にて、時々御不平の御樣子も相見へ候段、薄々承知仕り候。
「當時」とは、垪和氏が江戶の練兵館で修行中のことでしょう。齋藤氏は、垪和氏が日頃不滿を募らせている樣子を心配していました。

何等の儀に候哉、相心得ず候得共、今日世に處するものは人間而巳に相抱らず、出役變地の儀は當然にて、自然に相任せ自己の了簡相用ひず候樣仕りたく、壯年血氣は甚だ事に害これ有り、宜しからずと存じ奉り候。
「何等の儀に候哉」とはいえども、ある程度豫想はついているけれども、本人から確かなことを聞いたわけではないため、遠廻しに垪和氏の不滿を宥める論調です。後段に仔細あり。

何分此上の處、拾ヶ年今身を守り、御辛抱これ有りたく、小生儀も猶ほ愚案もこれ有り候間、追々御志も相達し申すべく、必ず不平御ならしこれ無く、默々然と御藝術御出精を祈念し奉り候。
國許の龜山に戾された垪和氏の不滿は、江戶滯在中よりも膨れ上がっていたのかもしれません。劍術の敎導にのみ力を盡して、無謀なことをしてくれるな、と。

今日人情天下の形勢、何方も同斷にて或は御脫藩等の御趣意等これ有り候ては、以ての外御不存意と存じ奉り候間、是よりは小生老馬□に御面じ、前段宜敷く御承知願ひ奉り候。御許容もこれ有り候はゞ、實に大慶至極存じ奉り候。吳々惡しからず承知下さるべく候。
齋藤氏は、垪和氏が尊王攘夷の思想に同調するあまり、脫藩するのではないかと危惧していました。僕の顏に免じて、是非とも思い止まってくれと懇願。

一、源海君御修行、追々御上達候處、此度御歸國は甚だ宜しからず候得共、是非に及ばず。
御供のため歸國する源海氏。滯府していれば、もっと劍術が上達していたはず。

倂し乍ら、猶又御同人・御一門樣へ御出會ひ早々出府これ有り候樣、御傳聲願ひ上げ奉候。
今度歸國する人たちに出會ったら、できればまた出府するように勸めてほしい、と。

右の段申し上げたく、誠に繁用尙々日勤同樣寸暇を得ず、亂筆を顧りみず我が赤志申し述べ候。猶ほ後便の時を期し候。恐々頓首。
齋藤氏、日勤同樣の忙しさ。取り急ぎ、垪和氏の脫藩を止めたかったのでしょう。

尙々、末乍ら御惣容樣宜しき哉、傳聲願ひ上げ奉候。猶ほ以て時下折角御厭ひ御座候樣祈念し奉り候。以上。
定型の締め。

註 太字:譯文 赤字:解說

二代目齋藤彌九郞は、初代が有名なあまり、その事績に注目する人は少ないように思います。私もそうでした。しかし、よくよく事蹟を調べてみると、勤王の志が篤く、また劍術という限られた範圍に終始することなく西洋流の調練・火器に關しても詳しく、有爲の人々と交わり父篤信齋讓りの進步的な精神を持ち、何より人材を育成することに熱意を持った人物でした。

本書簡の如く、遠隔の地にある門人の動向にも憂慮していた樣子、當時の師弟の親密な間柄を窺い知ることができます。

また、本書簡において、齋藤龍善が垪和氏の不滿を宥めることに苦心する一方で、久保無二三の如き尊攘派の志士は、頻りと京都へ出て勤王のために盡そうと呼びかけていたようです。(そのように行動を促す無二三の書簡が保存されていますが、時代の前後は未考)

令和五年十月二十五日 因陽隱士著

參考史料 『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀

『東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀』筆者藏

夫れ兵は勢弩を彍るが如く.節機に發するが如し.紛々紜々として戰い亂るれども.亂る可からざるなり.