窪田清音:田宮流剣法道具之記

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

窪田清音の著作

窪田清音は数多の著書を残しており、その中で武道関係といえば『劒道集義』『續劒道集義』に数多く採録されていることはご存じのとおり
また、国立国会図書館に堀江四郎宛の写本が数多く所蔵されているようです*1

今回こゝに紹介する『田宮流剣法道具之記』もまた窪田清音の数多ある著作の中の一つで、尾張藩付家老成瀬家の家臣が所持した写本です
ざっと調べたところ、類似の写本を見出せないことから、こゝで紹介して置こうと思いました

私の調べ方が甘いせいで見付けられていない丈けかもしれません
既出の文書であれば教えてください

1…『剣道の技の大系と技術化について-田宮流窪田清音の著作『形状記』を中心として-』

何が書かれているのか?

書かれている内容は、上掲の画像に説明されている通り、窪田清音の教え子たちに向けて、古製の稽古道具を図入りで解説したものです

清音の教え子たちは、清音が改良した稽古道具を使っていたゝめ、古製の稽古道具を知らなかったという事情により

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

文政元年の著作となれば、窪田清音の年齢は二十八歳
写されたのは安政のころ

巻末には「追加」として、後年の武術上覧の様子が綴られています

因陽隠士記す
2025.8.20

虫に食われた古文書

虫に食われた古文書

『星野家文書』を収蔵し、一連の文書を一つ一つ点検していたとき
虫に食われて固着した文書があった

見たところ書簡かな?と思いつゝ、どのような内容の文書か分らないので、慎重に慎重に固着を剥して開く
(初心者の人は真似しないで、専門の業者へ)

剥していくと、初めの方に「片山流居合」云々という文字が見え、期待は膨らんだ

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

剥し方にはいくつかコツがある
固着した断面は、虫の唾液か何かで糊づけされたようになっているので、そこへ向けて逆らわないように剥す
決して紙を破るようなことがあってはならない

ぐるりと刳り抜かれるように食われたところは、紙が孤立して浮くので、これには対処が必要

何より無理しないことが大切
ダメだと思ったら、諦めて専門の業者へ

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

披いていくと「片山利介」の署名
これはもう大当たりと言って良い
早まる鼓動を抑えつゝ残りも慎重に剥して一息ついた

古文書蒐集の醍醐味は、やはりこのような発見があったときに強く感じる

古文書学や考古学を学んだ経験から、基本的に現状維持を貴ぶ姿勢ではあるものゝ
さすがにこのボロボロの状態では、保管しにくい
さらに傷む可能性もあり良くないということで、京都の老舗に裏打ちを依頼した

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

裏打ちを依頼するとき、もう一通の片山利介書簡も出すことに
こちらは虫食いよりも湿気による汚れと、表具の傷みが目についた

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

さほど昔の表具とも見えないが、安表装なのか仕立てがあまり良くないため、本紙まで折れていた

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

裏打ち後、修復前の状態を撮影したプリントを呉れる

初回のときは、もっと丁寧な作業工程・内容を示した解説書のようなプリントも呉れた

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

下手に表装を依頼すると端を裁断されるので、簡易な裏打ちのみ
表装はいつでも出来るし、やはり現状維持を優先する

また、汚れを落とすために洗浄はしない
あまり古色を落すと、白々しい仕上がりになって愕然とする

裏打ちしたゞけでも、開閉するとき傷む心配がないので安心

工賃は当時(十年近く前)、裏打ちのみ12,960円

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

こちらの書簡は、古文書へのこだわりが鎌首をもたげ、端裏の返しを本来の位置に移してもらうことに
さすがに表裏まで元通りにすると読めないので、そこまではせず

先に挙げた画像の通り、署名のある端裏は本紙の左側にして表装されていた
しかし、これでは本文「一筆致啓上...」の右側の余白が少ないため、なんとなくバランスが良くない
そこで本来の位置に戻してしまおうと依頼

工賃は、表具からの剥し+裏打ち15,984円

参考文献『星野家文書』
因陽隠士
令和七年八月六日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

大聖寺藩の風傳流師範-3

六代 橋本國久 享保十年~文化二年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

橋本國久は、実は奥村家房の次男
長男の奥村嘉包より六歳下
先に触れた通り、奥村家房の妻が橋本郷右衛門の娘であったから、叔父さんの家を継いだことになる
橋本家の三代目当主

享保七年橋本家の養子となり、五人扶持・組外として召し出され
その後御帳横目、表御土蔵御目付を経て御馬廻組となり勤める
享和元年隠居、文化二年病没、享年八十一歳

七代 橋本郢興 明和四年~天保五年

橋本家の四代目当主
享和元年、橋本國久の隠居によって跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
天保四年病身になり隠居、翌年六十八歳にて病没

八代 橋本國輝 享和三年~

『風傳流指南之巻』筆者蔵

橋本家の五代目当主
天保四年、隠居した父郢興に代って跡式を相続、跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
安政元年江戸表へ御使、同四年摂州西宮御陣屋へ御固めに出張
また慶応元年京都へ御使、明治元年御供役、同二年東京へ御使と度々出張の御用を勤めた
東京から帰国すると御役を解かれて鎗術稽古示談相手を命じられた
(記録はこゝまで)

まとめ

1 奥村家幾 平士 御馬廻組 80石 御武具土蔵奉行
2 奥村家房 平士 御馬廻組 100石 御郡奉行
3 生駒氏以 平士 御馬廻組 170石 御馬廻頭
4 飯田良有 平士 御馬廻組 50石
5 奥村嘉包 平士 御馬廻組 100石 割場奉行
6 橋本國久 平士 御馬廻組 28俵
7 橋本郢興 平士 御馬廻組 28俵
8 橋本國輝 平士 御馬廻組 31俵

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』『金沢市史』
因陽隠士
令和七年八月朔日記す

大聖寺藩の風傳流師範-2

初代 奥村家幾 正保二年~享保五年

大聖寺前田家における風傳流の祖、その立場は他流において御家祖などゝ称される

武術の分野では、不思議なほど奥村家幾について語られることはなく、ほゞ触れられることもない
おそらく語るべき逸話の類いがほとんど伝わっていないのだと思う
もしくはその逸話が発見されていない

奥村家幾の家は、父平左衛門のとき前田利治公に召し抱えられ、大聖寺前田家の家臣となった

奥村平左衛門の祖父は勢州長嶋合戦のとき討死、父は末森城主奥村助右衛門を頼り、末森城の戦いに参加するがその後召し抱えられることはなく、浪人のまゝ大聖寺に病死した

そして、奥村家幾
寛文二年御歩行児小姓に召し出され
父の隠居後は家督五十石を継ぎ御郡横目となる
次いで御貸銀米奉行・御用米・闕所銀・御郡除米残金奉行を兼任し
享保三年御武具土蔵奉行となる
二年後に体調を崩したものか隠居して、三ヶ月後に病没した
享年七十六歳

家格は父の代より上り、御歩行から御馬廻組に昇進
知行は五十石から八十石に加増された

二代 奥村家房 元禄五年~享保十三年

享保五年、父奥村家幾が隠居して家督を継ぐ
御帳横目、御郡横目、御郡奉行を勤め百石に加増されるも、享保十三年三十七歳という若さで病没

風傳流門下にとって、師範奥村家房の早世は誤算にて、その子が成長するまで高弟が師範代理を勤めることになったと考えられる

奥村家房の妻は、橋本郷右衛門の娘
橋本家は後々風傳流と深く関わる

三代 生駒氏以 元禄元年~延享四年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟
元禄十年、新知百五十石を下され前田利直公の御近習として取り立てられ新たに一家を立て
江戸において利直公の御近習として勤める
よほど殿様に気に入られていたものか、父源五兵衛の屋敷を拝領するも、過分といゝ返却し別の屋敷を拝領している
御近習の次に御使小姓となり、また御供役、御中小姓となるなど殿様に近侍した

宝永七年利直公が没すると、翌年利章公の御入部に御供して帰国し、御徒頭となる
その後、大御目付・御鉄炮土蔵裁許を兼任、組外頭へ経て御小姓頭となり
延享四年、隠居することなく六十歳にて病没

四十一歳のとき奥村家房が急逝したことで
享保十三年より延享四年まで指南したと見られる
なお、風傳流の師範を勤めた時期は、大聖寺において組外頭~御小姓頭のころか

上載の伝書の系図に「奥村家幾-生駒氏以」とあって「奥村家房」の名が無いのは、生駒氏以は奥村家幾に師事したのであって、家房に師事していないことによる
たゞ、風傳流の系図上は、後世の師弟関係を考慮して「奥村家幾-奥村家房-生駒氏以」と記される

四代 飯田良有 元禄十二年~宝暦十二年

『風傳流免許巻』筆者蔵

飯田良有は、享保五年家督を相続し五十石を下され御馬廻組に御番入り

宝暦十二年病に罹り隠居、二ヶ月後に病没、享年六十四歳

生駒氏以が隠居前に病死したことで、代りに風傳流の師範になったと見られる
この時点で奥村家房の子嘉包は二十九歳になっているから、師範になることも出来たように思えるが、なにか事情があったものか、飯田良有が師範になった

飯田良有が師範になったのは、察するに四十九歳のとき

五代 奥村嘉包 享保四年 ~寛政七年

享保十四年、十一歳のとき父が病没し急遽その跡を継ぎ、同十八年家督を相続する
それから二十二年後の宝暦元年、三河・駿河方面に出張し普請を勤め、帰国後は割場奉行となり、その間度々江戸詰を命じられた
寛政元年隠居、同七年病没、享年七十七歳

宝暦十二年病に罹った飯田良有の跡を受けて風傳流の師範になったと見られる
見られる、というのは師範を継いだ年が明らかでないため

前掲の画像「飯田良有-橋本国久」の系図のごとく、奥村嘉包を省く伝書もある
三代生駒氏以のときに二代奥村家房を系図に入れないのと同様か
奥村家房の長男と次男とで、風傳流の系が分れたと見られる
とはいえ、系図に入れたり入れなかったり、扱いに悩んだものか?

参考文献『加賀市史料』『大聖寺藩生駒家文書』『大聖寺藩本山家文書』
因陽隠士
令和七年七月三十一日記す

大聖寺藩の風傳流師範-1

はじめに

大聖寺藩の風傳流は、奥村家幾に始まるとされる
あまり詳しい話は伝わっていない
たゞ大聖寺系の風傳流の伝書を見れば、一目瞭然にてさして疑うべき点もなく、それで良いと思う

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『武藝流派大事典』の風傳流系図に着目したい

中山源兵衛吉成-丹羽新兵衛重直-奥村助六家茂

この系図の特異な点は、「丹羽新兵衛重直」の名があること
普通に見られる系図は、およそ下記のごとく記され、その名は無い

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

『武藝流派大事典』の編集中、たまたま採用された伝書に記されていたと考えられるが、たしかめる術はない

さて、「丹羽新兵衛重直」
先日来、投稿してきた風傳流関係の記事でお気づきの方もいるだろう

大野藩時代に中山吉成が娶った妻は、丹羽彦左衛門の娘であり
中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽彦左衛門の養子となって家督を継ぐ
そして、「丹羽新兵衛」となる
管見の限り、実名は「重應」と伝わっている
「重直」と名乗っていた時期があっても不審はない

この中山吉成の三男「丹羽新兵衛」は
「人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て後猶巧者になりて」と伝えられている

そして、「丹羽新兵衛」が仕えていた越前大野藩と、大聖寺藩との地理的距離を見てほしい

「大聖寺藩」から南に下ると「越前福井藩」があり、そこから東の山間へ入れば「越前大野藩」に着く

奥村家幾が、「丹羽新兵衛」に風傳流を師事したとしても不自然ではない

なぜ、普通の系図に「丹羽新兵衛」の名が無いのか?
二つの可能性がある

1.元から「丹羽新兵衛」は間に存在しない
2.「丹羽新兵衛」に師事した後、中山吉成に直傳を承けた

このどちらか
私は、2の可能性は充分あると考えている

流派によって扱いは異なると思うが、風傳流はわりと中山吉成が積極的に指南する人物であり
他所から訪れる孫弟子に直接指南した様子を菅沼政辰が伝えている

自分の立場に置き換えてみると分るかもしれない
孫弟子だったら、流祖の直伝を受けたいと思うし、免許や印可を伝授されゝば、これに勝るものはない

つまり、奥村家幾は当初丹羽新兵衛に師事して免許以上を伝授されていた
後ほど、中山吉成に師事する機会を得られて、免許以上を追認されたとなれば
当然系図は下記の通り変更されるだろう

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月晦日記す

無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

過去の日記 2023/04/23~

2025/9/20 22:00
そろそろ再開するために動いています

2025/9/14 18:08
連日の記事作成で他のことが疎かになっていたので、ちょっと休憩しています

2025/9/9 14:50
今日は菊の節句です
本来重陽は不吉なものですから、なんとなく警戒意識が高まりますね

目下、多宮流居合指南役、生沼父子二代の人物伝を記しています
略伝+年譜+編年体で関係する古文書を紹介という構成です
これが読みやすいか分りませんが、試行錯誤してすっきりと読める構成なのかな?と思っています

もちろん、読み物としておもしろいものではなく、指南役を勤めた武士はどういう履歴なのか知りたいときに便利であれば良いと考えています

2025/9/4 12:35
無邊無極流の印可伝授」を書き終えました
これは以前から書きたかった記事です
というのも、武士が武術を学んだ結果、どのように巻物を伝授されるのか、あまり記録に残されないので、私的に興味があったからです

たゞ儀式のときに、巻物を渡すという描写はなかったので、これは山本家から返送された時点で既に所持していたものかと思います
そして、後から公式に印可を認める儀式が行われるのかと

それと、印可を受けた三俣氏について、詳しい履歴を知っているので、その辺りも踏まえつゝ記事にしたかったのですが、一つの記事にまとめるには何倍もの時間がかゝるため、一旦分けることにしました

2025/9/2 22:19
伝書作成に関する記事を載せました、ちょっと日本語がおかしいです

2025/9/1 12:03
今だにコロナの症状は全快しておらず、やはり普通の風邪とは違いますね
PCに向っているときの集中力が格段に落ちていて、更新が滞っています

姬路藩関係の記事は、過去のものを流用しています

2025/8/30 16:51
「武士+武術」の記事を進めていたところ、どうも脳の出力が不足していて、記事に出来ませんでした

というわけで、今日も伝書の紹介のみ更新しました
記事を読んでいて何か御意見などあれば、「投書」してください

2025/8/27 17:57
最近やっとエンジンが温まってきたと感じていたところ
コロナに罹ってしまい、こゝ数日臥せっていました
未だ本復とはいかず、少しづゝ更新します

そろそろ、本来書きたい「武士+武術」の記事を進めようという矢先のことで、ちょっと躓きましたが、かえって意欲は高まったように思います

『長谷川流兵法剣術図法師巻』筆者蔵

2025/8/24
日常生活で不安・心配なことはほとんどありませんが、ただ一つ気掛かりなのは古文書の虫食いです
中でも巻物の類いは、虫食いの被害に遭いにくいものゝ、それでもゼロというわけではなく、表具周辺を紙魚に狙われたり、内部に突如シバンムシ(死番虫)が発生したりと、けっして油断することはできません

保管について、経験則から導き出される最適解は、複数の巻物を無防備に一所に保管しないことです
巻物は一巻一巻、個別に虫を通さない素材で包装して守ることが肝要と思われます
なんとなれば、紙魚は外部からやって来るものであり、包装してあれば紙魚による被害は防げます
そして内部から発生するシバンムシは厄介ですが、個別に包装することで発生源から別の巻物に飛び火する二次被害を防げます

課題は、内部から発生するシバンムシの被害をいかに防ぐか?です
卵の状態で休眠していると思われるシバンムシ(卵)を除去する有効手段がなく、現状こまめに点検して早期発見を心懸けるほかないものと思われます

巻物を保管している方々は注意してください
購入してから数年後にシバンムシが発生することもあります

因みにこういう(↓)シバンムシの幼虫がシールドマシンのごとく紙を食べます(虫嫌いな人、すみません)

所蔵文書を食害していたシバンムシ(死番虫)の幼虫
『神林流印可』筆者蔵

2025/8/15
この頃ようやくサイト更新の熱が高まってきました
しきりと伝書を点検しては、この筆跡はどうかな、この年代にこの紙質か、などゝ思索しつゝ日々を過しています

そのような日々を過す中、懐かしさを覚える伝書が出てきました、上掲画像

何が懐かしいのかというと、私が初めて買った時代小説が戸部新十郎氏の『幻剣 蜻蛉』だったのです
当時、剣道部に属していた私にとって、剣豪や剣術という存在は憧れそのものでした
本の内容こそあまり覚えていませんが、中条流(富田流)の富田一放が主人公の話
表記こそ違いますが、「富田一宝」は同人でしょう
まさか数十年後にその人物の古文書を手に取って眺めることになるとは、想像だにしなかったことです

かつて記した「大嶋流『印可』を讀む」に「富田一宝斎」の名が登場します

大島流の月瀬清信は、流祖大島吉綱に奥義を伝授された人物ですが、大島吉綱に師事する以前、慶長年のころ「富田一宝斎」に学んだと記されています

「富田」「戸田」「一宝」「一放」のような表記ゆれについては謎が多く、「富田一宝斎」本人の伝書をもう一巻所蔵しており、そこには「戸田一寶久次」と署名されています
何か事情があって表記を変えるのか、年代によって名乗りを変えるのか、よく分りませんね

因みに「富田一宝斎」は「神林流」という鎗術の一派を開いて指南していました
「神林流」は、『武藝流派大事典』にも載っていないため、早い段階で失伝したものと思われます

『神道流兵法之序』筆者蔵

2025/8/12
「伝書を眺める-〇〇流」、もう少し続ける積りです

気になる方もいるかもしれないので、ちょっと話して置きます
画像、手に取って撮影する意図は、そのものゝ質感を伝えるにはこの方が良いと判断したからです
平置きで物だけ撮った画像よりも、なんとなく臨場感を得られるのではないかと愚考しました

たゞ欠点として、この撮影の仕方は、文書そのものを傷める可能性があります
私はもう二十年以上毎日のように古文書を触っているので、よほどのことが無ければ、追ったり曲げたりするようなことは無いと思いますが、それでもかなり注意して撮影しています

2025/8/11
近ごろ、日課の習字を怠りがちです
進歩が見えず、毎日せずとも実力は変らないのではないかという疑念

このような愚痴をこぼしていると、なぜか少し気持ちが前向きになってきました
もう一度初心にかえって習字に取り組みます

2025/7/30
届きました『侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)』
これで既刊は全巻揃いました
売り切れてなくて良かったです
『侍中由緒帳』は井伊直興公のとき編纂され以後書き継がれたそうで
井伊直興公といえばちょうど風傳流の草刈次郎右衛門が指南役を勤めた若様ですね

彦根城博物館のページを貼っておきます
刊行物一覧
在庫状況が分らないのは不便
それとこの現代においてFAXや現金書留で購入という旧態依然とした取引方法です
なぜメールや銀行振込が出来ないのかと

連日暑いですね
剣道場で汗を流していたころを思えばこれぐらいの暑さ
なんてことはないと言いたいところですがその頃よりずいぶんと暑い気がします

2025/3/14

『蝙也齋行狀』を讀む

夢想願流松林左馬助の行狀を記した『蝙也齋行狀』を讀むを投稿しました。

令和七年三月十四日 因陽隱士

2025/3/11

所藏史料紹介:伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡
所藏史料紹介:疋田流三卷

次回は願立剣術の『蝙也齋行狀』を讀む、を投稿豫定です。

令和七年三月十一日 因陽隱士

2025/3/10

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

久しぶりの更新です。去年病を患い、身邊の環境も變化し、しばらく更新が滯っていました。
その間、このサイト「武術史料拾遺」について、存在の意義は有るか無いかなど、遲疑逡巡し、まことに病によって心まで弱くなるものかなと實感しました。
またその一方で、そもそもこのサイトは見返りなど一切期待しない、只管自分の好奇心と向上心とを滿たすことを目的として作ったのだと、改めて思い至り、今後も續けることを決意しました。
諸兄の期待の萬分の一にも沿うことのできない蕪穢のみ、淺學菲才の身を恥じ入るばかりです、どうか御容赦を。

令和七年三月十日 因陽隱士

7/28

武術史料拾遺餘滴-2

同じ餘滴を二つ作るという一見して無駄な行爲なのですが、實はサイトのデザイン變更には、非常な手間がゝゝるため、餘儀なく別サイトを立てることにしました。

筆蹟の良さを傳えたいとか、畫像とテキストとの配置を斯うしたいとか思うと、それに最適なデザインというものは、また一から構築しなければならず、そこに從來の內容をそのまゝ移すことも出來ず、とそんな次第です。

サイトの仕立を別角度にしてありますので、ほんの少し樂しめるのではないかと思います。

令和六年七月廿八日 因陽隱士

3/31

所藏史料紹介:御傳授居合極意大橫物幷神號

姬路藩三代藩主酒井忠道公、林崎流居合の極意を傳授、當大橫物を揮毫。
當時、公は在府しており、幕臣に傳授したものか、同藩に該當する人物はいない、箱書は幕府の御右筆靑木半藏の筆になる。
なお、公が林崎流の極意を傳授するほどの達人であったことは、記錄に見出せず、新たな發見と言える。
公について傳わるところは、天性學問を好み博識であったこと、筆蹟は見事で隸書を能くしたと。

令和六年三月丗一日 因陽隱士

3/30

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

去年十一月、雜記に觸れた甲乙流七卷を揭載。
關聯文書は無く、何れの家中の士か。

令和六年三月晦日 因陽隱士

昨今、NVIDIAの躍進たるや筆舌に盡くし難いものがあり、日々心を躍らせています。
AIの進化は著しく、世に、AI元年と言われるほどの隆盛ぶり。
破壞的イノベーション、產業革命。
今、私たちは途轍もない進步の出發點にいるのかもしれません。
一體、人類はどこまで行くのか、生きている間にその發展を見たいと思います。

12/24

所藏史料紹介:禰津流鷹序拔書斷卷

鷹術の傳書は一點のみ藏す。
祢津常安、德川家時代のものではなく、武田家時代のものである點に注目。

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

再び揭載。

令和五年十二月二十四日 因陽隱士

12/22

所藏史料紹介:禰津流獫牽祕書四卷

寒風吹きすさぶ本日、仕事納め。
寒威の衰えるまで籠城の構えです。

さて、改めて「獫牽(いぬひき)」の傳書を揭載。
今日、「犬牽」「犬引」の文字が普通ですが、當時の傳書には「獫牽」の字が宛てられています。

「獫牽」の職は、「鷹匠」の派生。狩に用いる犬の管理職ですね。ざっくり言うと。
それが、御犬さま・犬公方でお馴染み、あの時代になると、保護犬たちの管理職にもなります。これは狩で用いるわけではありませんね。

急遽、たくさんの犬を保護しようという流れから、「獫牽」の人員を增すため、鷹狩場の管理職「鳥見」の方面から、轉職させられた者もちらほらいたようです。
本傳書の「飯田長左衞門」もその一人。
「鳥見」から四谷の「犬小屋支配」を任されました。

あまり詳しいことは分っていません。
本傳書の時期は、旣に犬小屋を廢していたようですが、犬の扱い方を傳授していたようです。

宛名の人物について調べるため少々時間をかけました。
かけたほどの成果はなく、推測の域を出ない情報しか集められませんでした。

そもそも、本傳書の內、宛名を一にする三卷は、加賀八家の一つ前田近江守に仕えた武士が所藏していたものです。
そこから類推すれば、かつて大聖寺藩主前田利直公が四谷犬小屋の普請に關わっており、こゝで交りが出來、その後、家中の「獫牽」への傳授という流れがあったのではないかと。

『稿本金澤市史』に「犬牽」の記述があり、これは慶長まで遡ります。狩のため唐犬を用いていました。
その「犬牽」に、「才次郞」・「才兵衞」兄弟の名があり、何やら本傳書「才助」と關係があるのかな?と思わせます。
(この場合、大聖寺藩ではなく加賀藩の方です)

もう少し丹念に資料を探せば、あるいは「獫牽才助」を見付けることができるかもしれません、が取り敢えずこゝまで。

推測は推測、確證を得るまで現實とは關係ありません。

令和五年十二月二十二日 因陽隱士

追而。
宛名を一にする三卷の外、「伊藤才一郞」宛の一卷があります。
この人物は、加賀藩の「手明足輕」の名と一致します。
通稱が「才」ではじまり、もしかすると「獫牽才助」の苗字も「伊藤」かもしれませんね。
記憶が確かであれば、この一卷も同所から出たものです。

『獫名所』は、はじめ犬の部分名稱について觸れ、その後天竺より日本へ傳來した三つの犬の經緯について述べます、これは他人より尋ねられた際の答えとして。
『獫請取渡之卷』は、その題が示すように犬の請け渡しの作法、その際の應答などについて。
『唯授一人犬飼傳書』は、印可の證として傳授されました。
『祢津家獫之祕書』は、犬の日本への傳來にはじまり、繩の解釋や杖、犬の膳の組み樣、ツボに關する繪圖などが記されています。

12/18

所藏史料紹介:井上流二卷

そろそろ、劍術以外のものを揭載します。
手始めに、井上流砲術の傳書を。

令和五年十二月十八日 因陽隱士

12/16

日課の習字を始めて二年を經過。
每日一時間を費やし、運筆の術を學ぶわけですが、漫然としていても學びは無く、得られるものは”慣れ”のみ。
新たに何かを習得するためには、積極的に先達の術を見て眞似することが捷徑となります。
しかし、每日每日集中力を切らさず、習字に取り組めるかといえば、そうではなく、當然、たゞ”慣れ”るだけの漫然とした習字になることもあります。
これが全く駄目かといえばそうではなく、單純に筆を遣って書くという動作が、體と腦との連攜に確かな經驗を與えて吳れます(最善とは言えませんが、無駄ではないという逃げ場)。

私の習字の目的は、名人や達人と呼ばれるような能書を目指しているわけではありません(自身にその才能が無いことは、重々承知しています)。
習字によって得られた經驗が、古文書の筆蹟判別に大きく寄與することを期待しています。特に、筆の働きというものに注意していれば、微かな轉折にさえも氣付くべきものがあると思うのです。

取り敢えず、一萬時間を目標として、日々習字に取り組む積りです。

畫像の扇面は、先日臨書の最後にそのまゝの流れで書いたものです。
書道の方面では、淸書や作品として丹精込めて書くものがあるように思いますが、恐らく、私は一生そういう書き方をしないでしょう(わざわざ他人に上手だろうと見せるほどの字は書けませんし、それに相應しい人格も持っていません)。
敢えて、こゝに蕪穢を載せた心意は、習字に取り組む活力を得ることにあり、且つこのサイトは無機質に過ぎるので、ちょっと蛇足として。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

今年、殘すところ僅か半月。
振り返れば、SVB破綻、プリゴジンの亂、イスラエルと肝を冷やすこともありましたが、米國のCPIは順調に低下、先日のFOMCも無事通過しました。
先月、ほゞ仕事を終えたので、そろそろサイトを更新しようかと...

12/16

戶田一寶=富田一放?
上に揭げた傳書は、慶長七年のもの。
この時は、戶田氏を名乘っていますが、元和七年の傳書では富田一寶齋と名乘っています。實名は變らず同じ。
神林流の祖となる。

一放の名乘りは、同一人か?

富田流・戶田流・留田流、系譜が紛らわしいですね。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

12/15

所藏史料紹介、今年は劍術關係の史料のみに絞っていたゝめ、鎗術や柔術など、未だ揭載していない史料が數多あります。

こゝに擧げた傳書は、寳永の留田當流。
少しネットで檢索すると、Wikipediaの戶田當流がヒット、服部是右衞門正長まで同じです。

「現在は宮崎縣高千穗に祭りの棒術として殘っている」という、その關聯畫像と、この傳書の棒が似ていますね。

令和五年十二月十五日 因陽隱士

11/9

武術史料拾遺餘滴 / 古文書を讀む爲に
長らく放置したまゝ忘れていました。ログイン出来るか心配です。

 ○
寒くなってきました。
ふと氣がつき、所藏する文書群を點檢していると、蟲が湧いていました。
これは九年前に購入した家文書で、何事もなく保存していたものが、なぜ今になって蟲が湧くのか不思議でなりません。正月か春ぐらいにも點檢したのですが...
蟲が外から入ったという可能性は限りなく低いので、ちょっと困りましたね。

所藏する古文書は、大きい古文書箱だけでも百箱を超えています。これら全てを一人で點檢し續けるというのは、相當難義で、どうしても期間が空いてしまい結果蟲の浸蝕を許す。
そろそろ所藏文書を減らした方が良さそうです。

(卷物は滅多なことで蟲に喰われませんね。見たところ、裂で覆われていることが幸いしているようです)

令和五年十一月九日 因陽隱士

11/9

古文書蒐集のために活動中のこと、何氣なく目に入った額に途轍もない逸品がありました。
大鹽平八郞の書です。
「大袈裟なことを言うな、よく有る」と思われるかもしれません。

私が大鹽平八郞に興味を覺えたのは、八年前、書翰を購入したことがきっかけでした。
以來、書翰・掛軸・額など、數多く觀て得た結論は、本物は少ないということです。
特に、本物に相違なし、100%本物と言い切れるものは、更に少なく、これは自身の見識の低さゆえのことですが...
とはいえ、贋物が多いのは間違いなく、
世の中に「よく有る」と思われる大鹽の書は、ほとんど贋物と言って良いでしょう。
そういうわけで、本物に相違なし、100%本物と言い切れるこの大鹽の書は、途轍もない逸品と稱しても過言ではないのです。

關係ない話しですが、大鹽は佐分利流の鎗術を能く遣ったと傳えられています。

令和五年十一月九日 因陽隱士

「格物者格其心之物也。其意之物也。格其知之物也。正心正其物之心也。誠意者誠其物之意也。致知致其物之知也。自有大學以來。無此議論。此高明獨得之妙。夫豈淺陋之所能窺也邪。」

11/5

所藏史料紹介:新影流起請文
所藏史料の劍術關係の中、この史料は最も古く、年代順目次の先頭に配置。
古い時代の文書は冩が多く、兎角注意が必要です。

令和五年十一月五日 因陽隱士

11/3

本日は「所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷」を掲載。
圖卷は値が張りますね。近頃は散財を控えるため、倹約を旨としていますが、珍しい流派だと思いつい購入。
直近購入した新陰甲乙流の傳書も揭載したいですが、七卷あるため、ちょっと遲くなりそうです。畫像の取り込みとか色々と。

令和五年十一月三日 因陽隱士

11/2

所藏史料紹介:山野流斬法手前圖卷

備前岡山藩の繪師による圖。傳授された人は岡山藩の士かもしれませんね。
山野流は文字通り山野氏の開いた流派ですが、それ以前に師事した人物がおり、それが中川左平太。山田淺右衞門と山野氏とは同門だったようです。

令和五年十一月二日 因陽隱士

10/29

本日は「無名老翁岡本宣就筆唐詩卷」を揭載。これを揮毫した年月は明らかでないものゝ、原裝に着目すると、寬永の末から明曆の間、宣就晚年の筆と考えられます。跋にも「象嵌の老翳」「龜手の禿毫」の文言あり、老年であることを示しています。

令和五年十月二十九日 因陽隱士

10/28

本日は「國友一貫齋書簡を讀む」を揭載。これは以前揭載したものを改めたものです。
姬路藩の方の一貫齋書簡も追って揭載します。今囘の大野藩のように(この時は頓挫)、一貫齋は姬路にも訪れ、交涉を重ねて筒の註文を受けていました。姬路藩士の日記にその一聯の流れが、大まかではありますが記錄されています。

今囘の大野藩の時は、一貫齋患いのため訪問できなかったのですが、姬路藩の方なら訪問時の動向を知ることが出來るので、面白いはずです。

令和五年十月二十八日 因陽隱士

10/25

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

齋藤彌九郞龍善、練兵館の二代目。書は卷菱湖に學んだと傳えられています。菱湖は當時書壇において一世を風靡した人物ですが、卷菱湖(1777-1843)、齋藤龍善(1828-1888)、兩者の年齡を考慮すると、龍善元服頃まで學んだということ哉。或いは、菱湖流を能くする人物に繼續して師事したものか、詳しいことは傳わっていません。


書簡の文面ばかりでなく、その筆蹟を樂しむことも私の趣味の一つです。そのため、書幅も倂せて揭載しました。これは龍善四十三歲、明治三年五月の揮毫。その冠帽に捺された印文には「道理貫心肝」の一文が引かれており、これは『蘇軾文集卷五十一』の一節。「道理貫心肝.忠義塡骨髓」と續き、當時から好まれた文言で、水戶烈公や松平春嶽もこの一節を揮毫しています。

令和五年十月二十五日 因陽隱士

10/24

『物外不遷書簡』を讀む

本日は物外和尙の書簡を揭載。これを篋中に見出したときの喜び、古文書を蒐集している方ならば、察してくれるでしょう。
本項に書き洩らした點を補足すると、物外和尙が濟法寺から發した書簡です。

令和五年十月二十四日 因陽隱士

5/27 更新

所藏史料紹介に「圓明流三卷」を加えました。

全てのページの西曆換算について、一部誤差があると氣付きました。
未訂正です。

不正アクセスの爲、サイトの表示が重くなっているようです。

令和五年五月廿七日 因陽隱士

5/24 更新

所藏史料紹介に「一刀流兵法別傳天眞傳兵法二卷」を加えました。

令和五年五月廿四日 因陽隱士

5/20 更新豫定

今日は、吉岡憲法流の傳書を史料紹介に加えようと思います。

令和五年五月廿日 因陽隱士

5/15 更新

傳書の傳授日には、特別な意味をもつものがあり、また特別な意味をもたないものもあり、師弟間の調整で日付を決めることもあります。
槪して、傳書には傳授の年月日が記されるものですが、傳授されたにもかゝわらず、傳授日が記されいないものを稀に見ます。
本日更新した『念流正法兵法未來記卷』はその一つです。敢えて傳授日を記さない理由は?

令和五年五月十五日 因陽隱士

5/13 更新

所藏史料紹介に幕末の有名所を追加しました。當分の間、劍術に絞って更新します。

令和五年五月十三日 因陽隱士

5/6

現在、サイトは「所藏史料紹介」「~を讀む」「觀賞」の三つに分けて構成しています。
本來、「所藏史料紹介」は『武術史料拾遺』の中核として、全文飜刻、註釋付きで揭載するものですが、前記の如く、海外に丸ごとコピーしたページを作られるため、大幅に省略しています。

また、アクセス制限や閱覽制限付きといった適切な環境が整えば、本來の「所藏史料紹介」が出來ると考えています。

令和五年五月六日 因陽隱士

4/23 江戶時代の武術に關する古文書・古記錄を讀む。

現在、サーバの移行を完了し、表字速度は大幅に改善されました。
これに伴い、サイトの記事を見直しています。

サイトの設立は平成二十六年七月七日のこと、当初は「武術の古文書」と題していました。
その頃は、多くの方々に傳書の存在を廣めたく、またその內容が何かの役に立てばと思い、代價を求めず、多くの傳書を揭載し、譯文を作成して附し公開していました。
これは全て私の趣味であり娛樂として...

しかし、追々、海外にコピーサイトに類するものを作られ、甚だ不快な思いをしたことから、サイトの方針を轉換し、大幅に傳書の揭載を縮小することにしました。

それまで閲覧することを樂しみに來てくださっていた方々には申し譯なく思います。

海外からアクセス出來ないようにしたかったのですが、それも難しく、誰でも自由に閱覽できる環境が、無斷で丸ごとコピーしても良いという思い違いを生むのかもしれず、現在は何かアクセス制限や閲覧制限付きという形で公開できれば善いと考え、その適切な方法を模索しています。

なお、熱心に問い合わせて下さった方々に對し、諸々の事情によって返事できないまゝ、音沙汰無く今日に至り、申し譯なく思います。

令和五年四月廿三日 因陽隱士

風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-濱嶋加右衛門 ?

L1「酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・酒井家の家来。中山吉成が風傳流を建立して初めての弟子。「酒井雅楽頭様」は、権勢を誇った酒井忠清公。
慶安四年の酒井家『御分限帳』を見たところ、「濱嶋加右衛門」の名は見当らず。

流祖中山吉成直伝の弟子-草芥弥九郎 印可

L2「井伊掃部様の御屋敷八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる御家来に草芥[侭]弥九郎と云者も弟子にて」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。草芥弥九郎は後に印可を許された人物。彦根の井伊直興公が幼名吉十郎といった若いときに風傳流を指南した。このため後々彦根の井伊家において風傳流の勢いが盛んになったという。

さて、「草芥」と原文のまゝ表記したが、正しくは「草刈」。原本に「草苅」と書かれていたものを誤写したのだろう。
「八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる」という文言からして、承応二年に八丁堀御屋敷(彦根藩の江戸蔵屋敷)を預けられた草刈家の初代次郎右衛門が該当すると見られる。
また、草刈次郎右衛門は寛文三年、井伊直興公が八丁堀御屋敷へ移ってきたとき、その御付となっているから間違いない。但し「弥九郎」の称は記録されていない。

流祖中山吉成直伝の弟子-曽我権之丞 中書

L3「其比曽我権之丞殿は御歩行頭役を勤られ、一傳の弟子にて、書院の前に鑓小屋を立て日々稽古はけまれたる」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。曽我権之丞、鑓免許の御祝儀の席のこと、集った高弟たちに仕合を挑み、免許の相弟子二三人を破って増長し、さらに印可持の弟子に挑んだ。そこで受けて立ったのが遠藤半之丞。勢いづいた曽我権之丞だったが、技倆の差は歴然たるもので、八本の仕合で八本とも遠藤半之丞に敗れた。流祖中山吉成はこの時の遠藤半之丞の駆け引きに殊の外感心して、後々弟子たちに語って聞かせたという。
曽我権之丞は、この仕合のあとに心を改め、風傳流に精進し「中書」を伝授された。

流祖中山吉成直伝の弟子-遠藤半之丞 印可

L4「[遠藤]半之丞初は斎藤摂津守様に奉公せしに、外へ出て一傳[中山吉成]に慕ひ鑓修行せん為に、十八歳にて元服し、又其後暇願ひ浪人して只鑓の深く志し、一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」<風傳流元祖生涯之書>

L5「一傳[中山吉成]印可を渡され後に越後村上の御城主榊原熊之助様へ被召抱」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼政辰が「一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」と絶賛する風傳流の遣い手。流祖直伝の中で随一の遣い手と思われる。
中山吉成に印可を伝授された後、越後村上の城主榊原熊之助に召し抱えられた。そして、榊原熊之助が十五歳になったとき、その指南役となる。榊原家は姬路に転封となり、遠藤半之丞は同地で病死した。
「榊原の御家は古く、古侍多く勿論藝者も多き中に半之丞か鑓術の位なる藝は無之のよし」と、榊原家中の士より伝え聞いたという。

上記の内、「榊原熊之助」というのは著者菅沼政辰の記憶違いで、代を取り違えたのだろう、正しくは「榊原虎之助」。越後村上から播磨姬路に転封となった式部太輔は「榊原政邦」一人ゆえに。
とすれば、若君が十五歳になったのは元禄二年のこと。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野与一郎 印可

L6「上野与一郎も一傳[中山吉成]印可の弟子にて、其比は近藤登様の御組にて勤たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「近藤登様」は脱字で、幕府の旗本「近藤登助」のことかと。年代から察するに「貞用」が該当する。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野伊大夫 免許

L7「同弟[上野]伊大夫も免許の鑓也。此外免許の鑓有。伊大夫は其比御歩行衆にて其比六百人の御歩行衆の内にて六人に撰れたる水の上手也」<風傳流元祖生涯之書>

L8「後に石貝十蔵殿御取持にて、禁裏様御守京都に御詰被成る久留嶋出雲守様の御組へ入与力にて京詰せしなり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「久留嶋出雲守様」は、幕府の旗本「久留島通貞」が該当する。この人が禁裏附に転じたのは天和二年六月二十七日のこと。つまり、その頃から上野伊大夫は京詰の与力となった。このとき「八郎右衛門」と改め、元百万遍の屋鋪の内に居住し、多くの弟子をとって風傳流を弘めたという。そして同地において病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-奥山治右衛門 ?

L9「奥山治右衛門殿と云御旗本衆も一傳[中山吉成]の弟子にて稽古被成候に、又勝れて馬をすかれ乗馬の上手にて」<風傳流元祖生涯之書>

L10「「さてもヶ様に可有とは知らすして、前に過言推参申たる也。此上は是非馬上の鑓を深望に存候間、未御免許は得す候へ共、馬上の鑓一通りの御相傳を偏に願ひ候」と御申有に、一傳[中山吉成]「心有て堅き御ちかひの上にて、馬上の鑓一通り迄を傳へたる」となり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・馬術に長けた奥山治右衛門、ある日中山吉成に馬上の鑓合を申し込む。風傳流において馬上鑓は免許の後に伝授されるもの、本来であれば断られるところ、中山吉成は承諾した。四本の鑓合の結果、四本とも中山吉成に敗れ、奥山治右衛門は非礼を詫び、是非とも馬上鑓の伝授をと願い許された。

当時の「奥山治右衛門」といえば、「奥山重治」が該当する。御書院番に列し、後ち番を辞して小普請となった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿七日記す