風傳流の流祖中山吉成について考える-2

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地について

「[中山]家吉は元和五年から七年の頃高崎藩主安藤対馬守重信に仕えていたが、この時高崎で中山吉成は生まれたという。」「一説には中山吉成は関宿で生まれたともいう。」

一つ目は、中山吉成の生れた土地はどこかという点。
『風傳流元祖生涯之事』の記述によると、「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也。」とあり、全く異なる出生の地を唱えている。

先ず、『日本武道大系』の「高崎(或関宿)説」について、これは出典が明らかにされていない。また、これを裏付ける史料も未見。

一方、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島説」。これについて調べると、中山吉成の生年である元和七年、勢州長島は天領となっており、且つ「松平佐渡守様」が「勢州長嶋」と関係するのは、二十八年後の慶安二年、松平佐渡守康尚の長島藩転封を待たなければならない。

中山吉成の生年である元和七年の前年であれば、伊勢長島藩主は菅沼定芳であり、「松平佐渡守様」とは関係ない。

つまり、『日本武道大系』・『風傳流元祖生涯之事』共に、中山吉成出生の地について確かなことを伝えているか、疑問が残る。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-再考

『風傳流元祖生涯之事』は、中山吉成の高弟菅沼政辰が著したにも関わらず、なぜこのような齟齬を生じるのか?

私は一つの可能性を考えている。
それは菅沼政辰の年齢と関係するかもしれない。
そもそも菅沼政辰が中山吉成と面識を得たのは、寛文の頃。当時、菅沼政辰は大垣藩主であった戸田氏信に子小姓奉公していた、十四,五歳前後の年齢と見られる。
そして、中山吉成もまた戸田氏信に仕えており、この頃両者は知り合った。為に、菅沼政辰は中山吉成の父中山家吉は「松平佐渡守様」に仕えていると知ったことだろう。
つまり、この認識が後年に尾を引き、中山吉成の出生は「松平佐渡守様」の「勢州長嶋」と記憶に刷り込まれたのではないかと思われる。
つまりは、菅沼政辰の勘違い。

因みに、寛文当時、伊勢長島藩主の「松平佐渡守様」は、松平康尚。中山吉成の生年元和七年となれば、その二代前に遡り、松平忠良と言って、大垣藩の藩主だった。

全くの推論になるが、以上のことを踏まえて修正すると、「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は、「美濃大垣」と考えらえる。後年、藩主は代わりこそすれ、大垣の地で中山吉成と菅沼政辰が知り合ったのも土地の縁があったからかもしれない。
いずれ確たる史料の出現を願い、後考を竢つ。

 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-補足

なぜ私が『日本武道大系』の「中山吉成高崎[或関宿]出生説」を採らず、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島出生説」の方を採り、再考するに至ったのか触れておきたい。

その最たる要因は、『風傳流元祖生涯之事』が、流祖中山吉成の家族について比較的詳らかに記している点にある。中山吉成の直弟子として長年に亘って師弟の交誼があった菅沼政辰だからこそ知り得て、後世に伝えられた情報であると考える。
情報の出典を明らかにしていない『日本武道大系』の記述とどちらが信頼に値するのか、言うまでもないだろう。

たとえば、『風傳流元祖生涯之事』の中、中山吉成の家族に関する記述を引くと、
「源兵衛[中山吉成]兄弟の内、兄を中山傳右衛門といひて、父角兵衛か家督を得て前に記したることく松平佐渡守様に勤て死後に躮[せがれ]十兵衛家督して勤む。」や、
「[中山吉成の]弟を新左衛門といひし也。此名は兄[中山吉成]の元祖新左衛門[中山吉成の三十歳頃の名乗り]名を一傳と改られて後つきたり。」や、
「此新左衛門鑓術は後々迄竹内流にて是又所々にて弟子を取たり。右のことく源兵衛[中山吉成]は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり。」や、
「[中山吉成の]嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共、子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり。」といった記述がある。
また、中山吉成の妻の実家丹羽家に関することや、中山吉成の子たちの消息についても詳しく触れられており、記述の信頼性を高めている。

因陽隠士
令和七年七月十八日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-1

『風傳流素鑓真剱』筆者蔵
はじめに

ある日、私は風傳流の史料を発掘した。発掘というのは、もちろん土中より掘り出したという意味ではない。誰にもかえりみられず忘れ去られていた史料を、知識を持つ人が発見したというほどの意味合い。これによって、史料はその真価を発揮する。但し、私の知識ではその真価の半分も引き出せるかどうか心許ない。

さて、その史料は上中下三冊を以て揃い、『風傳流元祖生涯之事』と題す。著者は、風傳流の流祖中山吉成の高弟菅沼政辰という*1。

菅沼政辰は、元服以前から中山吉成とは知己にて、十六歳で元服したとき、正式に中山吉成の門弟となって風傳流を修行した。免許されて以降は各地で門人を育て、その間中山吉成が歿する貞享元年まで師弟の交誼を絶やすことは無かった。
中山吉成歿後も風傳流の高弟として流儀の普及に努め、なお晩年に至って流祖直伝の高弟たちが世を去る中、菅沼政辰は長寿を保ち流祖直伝の鑓術を世に伝え続けた。風傳流の歴史を語る上で欠くことのできない大きな存在であったと言える。(本項とは関係ないが、菅沼政辰は竹中半兵衛重治の孫に当る。菅沼は養父の苗字)

風傳流の普及に生涯を捧げたといっても過言ではない菅沼政辰は、その最晩年に至って、流儀の教えが正しく後世に伝わらないことを危惧した。その当時、既に流祖直伝の高弟たちは泉下の客となっており、その心配も無理からぬこと。そこで菅沼政辰は自身の知る流祖中山吉成に関わる事を後世に伝えようと書物を記した。それが『風傳流元祖生涯之事』である。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵

こゝに取り上げる『風傳流元祖生涯之事』は、実は初出ではない。『明石名勝古事談』という本の中、中山吉成伝記の底本として用いられている*2。但し、その典拠は明らかにされていないため、『風傳流元祖生涯之事』という書物の存在自体は世に知られていない*3。

さてさて、こゝからが本題。

『風傳流元祖生涯之事』には、断片的ながらも流祖中山吉成の一生について記されている。流祖の直弟であり印可を許された高弟でもある菅沼政辰という人物が、この書物を書いたことによって、その内容について大いに参考にすべき点があることは言うまでもないだろう。この史料を元に、現在知られる所の中山吉成という人物の説明や伝記を見直すと様々な発見がある。今回はその発見について記してみようと思う。

1・・・実名は「正辰」とも記す。

2・・・『明石名勝古事談』に記される中山吉成の伝記には、至る所に錯誤が認められる。これは底本とした『風傳流元祖生涯之事』を正しく理解できていないことによる。錯誤というのは、主に中山吉成と菅沼政辰の事歴を混同している点にある。鵜呑みにすると齟齬が生じるので引用する方は注意されたし。なお、『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の項は、『明石名勝古事談』を参考にしたものと考えられる。これは前に記した同様の混同が見られるため。

3・・・私が所蔵する『風傳流元祖生涯之事』は、菅沼政辰の孫弟子に当る小西正郁が写したものを、更にその門弟と思しき貝増盛武が写したものである。則ち、写本の写本。

因陽隠士
令和七年七月十七日記す

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

『瀧野遊軒墓誌銘』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、起倒流を弘めた瀧野遊軒の墳墓を描いた『瀧野遊軒墳墓圖』です。瀧野遊軒については、このサイトを訪れる方々ならばご存じかと思います。依て、先ず『瀧野遊軒墳墓圖』について、槪要を述べます。

▽瀧野遊軒墳墓圖の槪要
1.本圖は、瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺に在った墓の圖。
2.全得寺の墓は、寳曆十二年門人等によって建てられた。
3.本圖を記した者は、瀧野遊軒の門人藤堂安貞。但し、本圖はその寫。
4.本圖のほかに、類似の圖を見ない。
5.本圖は丹波篠山藩の起倒流指南役の鈴木家が所藏した。鈴木家の四代目は瀧野遊軒の直弟子。
6.瀧野遊軒の墓は、全得寺のほかに數箇所在る。

瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺は、江戶切繪圖の中に見出せる。圖中には「全徳寺」とある。書家として名を馳せた市河米庵の居處に近い。現代ならば、東京都臺東區入谷一丁目にある入谷驛の北北東250mほどの場所か。

『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション
『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション

『諸宗作事圖帳』に、全得寺が寺社奉行へ提出した寺圖面を見出せる。これによれば、墓所は隣接する本間意格抱屋敷の側に在った。

『諸宗作事圖帳 [127] (百七十七)(000007297828) 』國立國會圖書館デジタルコレクション

扨て、今囘の本題はその墓の右側面に記された「瀧野遊軒墓誌銘」です。墓誌は、もと支那の傳統にて形式あり、古代より甚だ多く、その文を名家に依賴するものは唐代より盛んになったと云われています。

柔の剛を制するは天理令然なり、兵に柔術有れば能く驍勇を挫く
柔が剛を制するのは、天の理がそうさせる。ゆえに、一兵卒といえども柔術が有れば驍勇の者さえ挫くことができる。

其の業に粹なる者は先つ福野氏有り、これを起倒流と謂ふ
その業(柔術)を極めた者に先づ福野氏有り、これを起倒流と謂う。

福野は三浦氏・茨木氏に傳ふ、茨木は寺田氏に傳ふ、寺田は其の子正重に傳ふ、正重は吉村扶壽に傳ふ、扶壽は堀田賴庸に傳ふ、賴庸は瀧野擧嶢に傳ふ
福野は三浦氏・茨木氏に傳え、茨木は寺田氏に傳え、寺田はその子正重に傳え、正重は吉村扶壽に傳え、扶壽は堀田賴庸に傳え、賴庸は瀧野擧嶢に傳えた。

擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號す、西京に浪華に其の術大ひに行はる、後來東都に弟子增〃多く其の門に登る者蓋し三千餘
瀧野擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號した。西京に浪華にその術は大いに行はれた。後來東都に行き弟子增々多くなり、その門に入るものは三千餘を數えるだろう。

寳曆壬午疾を以て卒す、春秋六十八、下谷金峯山全得寺に葬る、東都門人等寘墓に刻銘し、以て碩恩に酬んと欲す
寳曆壬午の年、疾(やま)いによって卒する。この時六十八、下谷金峯山全得寺に葬る。東都の門人たちは、寘墓にその事績を刻み、以て師の碩恩に酬いようと考えた。

其の余に親しき者、これに勤めんことを乞ひ銘と爲す、銘に曰く、「術は無住に到り、鬼神も圖り難く 瞻れば前にあり忽ち後ろにあり 或は有或は無 瀧野の兵に於けるや 能く其の途に入る 三千の弟子 傳へて器は朽ちす」と
その中に余(私)に親しき者がいて、その銘文を考えてほしいと乞うので出來た銘文はこの通り。「術というものは無住に到れば、鬼神も圖(はか)り難く、瞻(み)れば前にあり忽ち後ろにあり、自由自在、或いは有、或いは無、捉えることなど出来ない、瀧野遊軒の兵術に於けるや、能くその域に達している、その兵術は三千の弟子が傳えて朽ちることはない」

寳曆癸未夏五、賜紫沙門濟松寺大鼎志(しる)す
寳曆癸未は、寳曆十三年。碑文の原文を書いたものは、濟松寺九世住職大鼎禪圭。

註 太字:譯文 赤字:解說

久しぶりの投稿です。
今囘は、柔術史を語る上で缺くことのできない起倒流、その瀧野遊軒に關する古文書を取り上げました。
墓誌そのものに何か新奇なことが書かれているわけではありません。しかし、瀧野の門人であった藤堂安貞が墓前において、暫しの間師に思いを馳せ、墓を寫し取った旨が記錄されており、今日においてもその樣子を思い浮かべることができます。
「若葉の木のもとにしはらく靜坐すれど音もなく香もなし」と、墓前に坐す藤堂安貞。そして、一句「ほとゝきす來て一聲ほとゝきす」。

この墓について詳らかにしたものを他に見なかったことから、拙いながらも敢えてこれを記事にした意圖を察してください。

令和六年三月十日 因陽隱士著

參考史料 『瀧野遊軒先生墳墓圖』筆者藏