『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

『瀧野遊軒墓誌銘』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、起倒流を弘めた瀧野遊軒の墳墓を描いた『瀧野遊軒墳墓圖』です。瀧野遊軒については、このサイトを訪れる方々ならばご存じかと思います。依て、先ず『瀧野遊軒墳墓圖』について、槪要を述べます。

▽瀧野遊軒墳墓圖の槪要
1.本圖は、瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺に在った墓の圖。
2.全得寺の墓は、寳曆十二年門人等によって建てられた。
3.本圖を記した者は、瀧野遊軒の門人藤堂安貞。但し、本圖はその寫。
4.本圖のほかに、類似の圖を見ない。
5.本圖は丹波篠山藩の起倒流指南役の鈴木家が所藏した。鈴木家の四代目は瀧野遊軒の直弟子。
6.瀧野遊軒の墓は、全得寺のほかに數箇所在る。

瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺は、江戶切繪圖の中に見出せる。圖中には「全徳寺」とある。書家として名を馳せた市河米庵の居處に近い。現代ならば、東京都臺東區入谷一丁目にある入谷驛の北北東250mほどの場所か。

『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション
『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション

『諸宗作事圖帳』に、全得寺が寺社奉行へ提出した寺圖面を見出せる。これによれば、墓所は隣接する本間意格抱屋敷の側に在った。

『諸宗作事圖帳 [127] (百七十七)(000007297828) 』國立國會圖書館デジタルコレクション

扨て、今囘の本題はその墓の右側面に記された「瀧野遊軒墓誌銘」です。墓誌は、もと支那の傳統にて形式あり、古代より甚だ多く、その文を名家に依賴するものは唐代より盛んになったと云われています。

柔の剛を制するは天理令然なり、兵に柔術有れば能く驍勇を挫く
柔が剛を制するのは、天の理がそうさせる。ゆえに、一兵卒といえども柔術が有れば驍勇の者さえ挫くことができる。

其の業に粹なる者は先つ福野氏有り、これを起倒流と謂ふ
その業(柔術)を極めた者に先づ福野氏有り、これを起倒流と謂う。

福野は三浦氏・茨木氏に傳ふ、茨木は寺田氏に傳ふ、寺田は其の子正重に傳ふ、正重は吉村扶壽に傳ふ、扶壽は堀田賴庸に傳ふ、賴庸は瀧野擧嶢に傳ふ
福野は三浦氏・茨木氏に傳え、茨木は寺田氏に傳え、寺田はその子正重に傳え、正重は吉村扶壽に傳え、扶壽は堀田賴庸に傳え、賴庸は瀧野擧嶢に傳えた。

擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號す、西京に浪華に其の術大ひに行はる、後來東都に弟子增〃多く其の門に登る者蓋し三千餘
瀧野擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號した。西京に浪華にその術は大いに行はれた。後來東都に行き弟子增々多くなり、その門に入るものは三千餘を數えるだろう。

寳曆壬午疾を以て卒す、春秋六十八、下谷金峯山全得寺に葬る、東都門人等寘墓に刻銘し、以て碩恩に酬んと欲す
寳曆壬午の年、疾(やま)いによって卒する。この時六十八、下谷金峯山全得寺に葬る。東都の門人たちは、寘墓にその事績を刻み、以て師の碩恩に酬いようと考えた。

其の余に親しき者、これに勤めんことを乞ひ銘と爲す、銘に曰く、「術は無住に到り、鬼神も圖り難く 瞻れば前にあり忽ち後ろにあり 或は有或は無 瀧野の兵に於けるや 能く其の途に入る 三千の弟子 傳へて器は朽ちす」と
その中に余(私)に親しき者がいて、その銘文を考えてほしいと乞うので出來た銘文はこの通り。「術というものは無住に到れば、鬼神も圖(はか)り難く、瞻(み)れば前にあり忽ち後ろにあり、自由自在、或いは有、或いは無、捉えることなど出来ない、瀧野遊軒の兵術に於けるや、能くその域に達している、その兵術は三千の弟子が傳えて朽ちることはない」

寳曆癸未夏五、賜紫沙門濟松寺大鼎志(しる)す
寳曆癸未は、寳曆十三年。碑文の原文を書いたものは、濟松寺九世住職大鼎禪圭。

註 太字:譯文 赤字:解說

久しぶりの投稿です。
今囘は、柔術史を語る上で缺くことのできない起倒流、その瀧野遊軒に關する古文書を取り上げました。
墓誌そのものに何か新奇なことが書かれているわけではありません。しかし、瀧野の門人であった藤堂安貞が墓前において、暫しの間師に思いを馳せ、墓を寫し取った旨が記錄されており、今日においてもその樣子を思い浮かべることができます。
「若葉の木のもとにしはらく靜坐すれど音もなく香もなし」と、墓前に坐す藤堂安貞。そして、一句「ほとゝきす來て一聲ほとゝきす」。

この墓について詳らかにしたものを他に見なかったことから、拙いながらも敢えてこれを記事にした意圖を察してください。

令和六年三月十日 因陽隱士著

參考史料 『瀧野遊軒先生墳墓圖』筆者藏

『物外不遷書簡』を讀む

『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、物外不遷の書簡です。津本陽の小說『拳豪傳』に、その生涯が描かれており、武術にさほど興味が無い人々にも「拳骨和尙」として廣く知られていると思います。

物外不遷の筆蹟は、主に掛軸や扁額として、その筆蹟が今日に保存され、目にする機會が多く、特に隸書の大字が珎重されています。

しかし、掛軸や扁額の筆蹟が世に知られこそするものゝ、日常の筆蹟というものは、掛軸や扁額の筆蹟の多さに比べて、極めて少なく目にする機會が稀と言えます。なぜ、今日に書簡の類が保存されていないのか、あるいは篋中に眠ったまゝなのか、その邊りのことを知る術はありません。

そこで私は積年、物外不遷の日常の筆蹟を探索してきました。そして過般、ようやくこれを發掘する機會を得た爲、此度、こゝに紹介しよういうわけです。それでは讀んでみましょう。

二白、時氣御用愼專一祈る處に御坐候。珎敷き品、數々相求め申し候。
「二白」というのは追伸のことです。冒頭に書かれていますが、本文を書いたあとに付け足すもので、「追而書」「尙々書」に類するものです。

幸便を以て貴意を得候。時に薄暑に相成り候處、彌御厚安賀し奉り候。
「薄暑」「猶淸和月」といゝ、初夏の氣配、陰曆の四月。時候の挨拶に始まるのは、現代と同じく定型。

山僧事も無事にて御存じの樂しみ捨て難く、定て足下も何ぞ珎しき物御手に入りこれ有り候や。
そして、自身の無事を傳えるところまで定型。「山僧」は、自身を遜っていう一人稱。「御存の樂しみ捨て難く」とは、骨董蒐集のことを指しています。物外和尙に骨董蒐集の趣味があったとは知らなかったですね。とはいえ、佛敎系の古物を求めていた樣子です。「足下」、貴方もきっと何か珍しいものを入手していることでしょう、いかゞですか?、と。

何卒近年の內御尋ね申したく存じ奉り候へども、參り兼ね申候。其內一度は是非と存じ奉り候。
遊びに行きたいのは山々ですが、行けそうにありません。その內一度は是非行きたいと思っています、と。

然ば去春は御出で下され候處、何の風情も致さず、殘念に存じ奉り候。
去年の春、來訪のことを振り返る。

扨て、おこまどのへよろしく御鶴聲御賴み上げ候。
「おこまどの」とは恐らく奧さんのことでしょう。

先づ長命の御用愼第一の事に存じ奉り候。壹人も命あれば驕り逢ふ。
「長命の御用愼第一」、健康第一。健康であることを當たり前に思って、不攝生してはならないという戒め歟。「壹人も」の「壹」の字の判讀は、不確かです。

先づは御見舞旁々此くの如く御坐候。不備。
締めの定型。

龜太郞樣
丹波龜山藩の所領は、備中淺口郡にもあり、いわゆる飛び地、こゝに詰めていた藩士の一人が淺野龜太郞。物外和尙の居處「濟生寺」からもほど近く、兩者は古物の蒐集という共通する趣味を持っていたと分ります。
實は、同封にもう一通あり、近ごろ手に入れた珎物として、達磨大師立像や古銅の楊柳觀音像、唐物の宣德湯わかしといったものが擧げられています。

註 太字:譯文 赤字:解說

以上、物外不遷の書簡、いかゞだったでしょうか。本書簡は、同封の一通によって、安政三年、物外和尙六十二歲の筆と考えられます。なんとなく、もっと破天荒な文字を書きそうな數々の逸話を殘していますが、實際のところ書風は尋常そのもの。たゞ當時普通の俗體とは趣が違う大らかさがあるように感じます。

後段に掛軸を載せています。書簡の筆蹟と見比べて下さい。

令和五年十月二十四日 因陽隱士著

參考史料 『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀

『物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀』筆者藏

天照皇太神宮
 謀計雖爲眼前之利潤.必當神明之罰.正直雖非一旦依怙.終蒙日月憐.
八幡大菩薩
 雖食鐵丸不受汚人之處.雖坐銅焰.不到意穢人之處.
春日大明神
 雖曳千日注連.不到邪見之家.雖爲重服深厚、可赴慈悲室.
乙卯[安政二年]六十一翁物外謹書.

無雙英信流柔術『印歌之卷』を讀む

『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、無雙英信流柔術の『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』(筆者藏)です。この『印歌之卷』は、已に外題を失っており、その本来の題名を知らず、爲に同時に傳授された『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』に依て、仮に『印歌之卷』と呼びます。

無雙英信流の柔術や、往昔の藤原勝負の流也。
無雙英信流の柔術というものは、往昔の藤原勝負の流である。
*「藤原勝負之流」・・・小菅精哲の『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』(筆者藏)に曰く、「無雙藤原勝負直傳末派正統一流之和」と。

足下多年意を此藝に適(ゆ)き、飄然として群ならず。得る所の術も亦た密ならずと爲さゞる也。
足下は多年意(こゝろ)をこの藝に傾け、一頭地を拔く。會得した術もまた熟達していないものはない。
*「適意」・・・「適」は「歸向」、心がある方向に向うこと。
*「飄然不群」・・・杜甫の「春日憶李白」の一節、「白也詩無敵、飄然思不群。」。
*「密」・・・「稠密」。

猶ほ能く朝磨夕鍛して、卽ち旣に龍を掣すに至る。洵(まこと)に誣(あざむ)かざる也。
更に朝磨夕鍛した結果、旣に龍を掣すいう境地に至っている。これは虛言ではない。
「誣」・・・「欺瞞」、あざむく。

故に今、先師より傳ふる所の規矩を以て。盡く諸れを足下に授く。
故に今、予が先師より傳えられた規矩を盡く足下に授ける。
*「諸」・・・「之於」。
*「規矩」・・・《荀子・王霸篇》「猶ほ規矩の方圓に於けるがごときなり。」*これは同流『印歌祕密切紙無雙安全之卷』の言に籍れば「武法」。

足下も亦た他に儻(も)し悃詣の人有らば、舊に依て之れを傳へれば、自らの榮久し。
已後、足下もまた、儻(も)し他に懇望の人が有れば、舊に依てこれを傳えることで、自身の名譽を後世に傳えられるだろう。
*「悃詣」・・・「懇望」。

印歌の卷の如きは、尤も當に其の人を斟酌すべき也。
中ん就く、印歌の卷の如きは、最も授與する弟子の人格を考慮しなければならない。

爲に言ふ。必ず、己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ。術を放(ほしい)まゝにして人を誣(あざむ)くこと無かれ。
その爲に言う。必ず己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ、術を放(ほしい)まゝにして人を誣くこと無かれ。
*「放」・・・《操觚字訣》「自由氣まゝにすること也。放はうちやる意也。」

不者(しからず)んば、唯將に人を掣(制)さんとして、却て人に掣せらるゝの悔有り。慎まざるべからず。
そうでなければ、いざ人を掣(制)そうとして、反って人に掣される恐れが有る。愼まずにいられようか。

匄(こ)ふ、足下勉めて誨(おし)へよ、勉めて誨へよ。
足下が敎誨に努めることを願う。
*「匄」・・・「乞」。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註。

傳書は、單に切紙・目錄・免許・印可などゝ言いますが、その名稱やその內容が一定していないことはご存じの通りです。今囘の『印歌之卷』は、上記のごとく指南免許として傳授されたものです。この形式は、かなり古くからある標準的なものと言えるでしょう。

この無雙英信流柔術は、何處のものか未だ調べ終えていませんが、一連の史料に據って師弟共に但馬國出石藩の士であると考えられます。

令和三年八月十一日 因陽隱士著

參考史料 『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』筆者藏/『兵庫縣史史料編近世一』兵庫縣史編輯專門委員會編

『不遷流規定書』を讀む

『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏

今囘は不遷流の規定書(掟書)を取り上げます。不遷流については、ご存じの通り、物外和尙を祖とする體術(柔術)の流儀にて、この規定書が記された慶應二年九月は、田邊義貞が三世として名を列ねています。

田邊義貞は備中長尾村の人、初め二世武田貞治の門に入り、十八歲のとき初傳を得、翌年江府に遊學、後ち流祖物外和尙に師事し、また諸國を遍歷し硏鑽して奧儀を極め、二十九歲のとき不遷流三世の允可を傳授されました。則ち、この規定書は允可相傳の前年に當りますが、旣に三世と認められていたようです。

流儀の規定書(掟書)そのものは、取り立てゝ奇とするに足るものではありませんが、當時の不遷流の規定がどのようなものであったかを知るという點においては好史料と言って良いでしょう。道場內に揭げたものか、實際どのように用いられたものか定かでありません。

尋常な御家流の手です。それでは讀んでみましょう。

規定
一.御公儀御法度の趣.堅く相守り申すへく候事.
一.師弟相弟の禮儀.正鋪く仕るへく.勿論酒氣之れ有る節は.稽古無用の事.
附り.遊女噺等禁言.喧𠵅口論は勿論.他流を嗙る口外決して仕る間敷き事.
至って尋常な文言につき、何か說明することも無さそうですが、敢えて取り上げるとすれば、原文「嗙」の字は、「謗」の字義の方が相應しいように思われます。

一.他流出會稽古.猥りに仕る間敷く.且又淺心の輩.他流入門勝手次第.執心に依て目錄以上の輩は.故障筋之れ有り候共.流儀替へ堅く相成らす候事.
目錄以前の者は、流替しても構わない、しかし目錄以上の相傳を承けている者は、事情があったとしても流替は許されないということです。過去に見た、いくつかの流義に同樣の規定があり、當時としては普通かもしれません。一方、事情があれば許す、といった流儀も有ったと記憶しています。

一.當流入門は.先後に抱らす.鍊磨の功に依て目錄差し出し申すへき事.
「先後」と云うのは、先輩・後輩に關わらず、「鍊磨の功に依て」、修行の成果によって、ということでしょう。

一.御流義柔術.厚く執心に付き.御指南下さるへき旨.重々有り難き仕合に存し奉り候.斯に御入門仕り御傳授に預り候者は.自今以後.御敎恩忘却仕らす.素より御前書掟の趣.堅く相守り申すへく候.自然聊にても相背くに於いては.天神・地祇の罪・冥罪を蒙るへき者也.依て證文を起す.件の如し.
前段は物外和尙が定めた掟であり、この後段は三代目が傳承者の立場から定めたものです。物外和尙存生を前提とした文言につき、恐らく翌年には改められたと思われます。

註 赤字:解說

久しぶりの更新につき、作文に梃子摺りました。取り上げた規定書は、御手本のような書體・文體にて、最低限の言い廻しさえ知っていれば讀めるため、あまり言うべきことがなく、次囘はもう少し入り組んだものを取り上げたいと思います。

時代背景に思いを馳せると、やゝ興の湧くもので、この規定書が記された當時は、四境戰爭終結間もなく、國事に奔走していた物外和尙と付き隨っていた田邊義貞と共に、やゝ一息ついたところかと想像します。この頃の田邊義貞は、靑蓮院宮に仕えていて、その庇護によって諸國を往來していました。今にこの鑑札類が傳えられていて、當時これを用いて諸國を往來していたのかと思うと、何か感じるものがあります。

なお、この規定書は、龍谷大學の文學博士田中塊堂翁の父君が揮毫したと傳えられています。

令和四年八月七日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏/『田邊義貞先生墓碑銘』筆者藏