所藏史料紹介:大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
Hand scroll. Ink on paper. 30.2 x 596.7 cm. Private collection.

『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

所藏史料紹介:天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷 一卷 帋本墨書 20.2 x 350.5 cm 元祿十年卯の三月吉日付 筆者藏

天下無雙姉河流鑓外物卷. Edo period. dated 元祿 10 (1697).
Hand scroll. Ink on paper. 20.2 x 350.5 cm. Private collection.

● 姉川新左衛門安知・・・肥前の人。姉河流の祖。澁江公茂に寳藏院流を學ぶ。佐賀藩の多久邑・諫早に行われたと云う。
因陽隱士
令和五年十二月廿六日編

所藏史料紹介:心形鎗流祕傳卷

心形鎗流祕傳卷

帋本墨書(影冩本) 29.7 x 42.0 cm 八帋 筆者藏

心形鎗流祕傳卷. Meiji period.
Hand scroll. Ink on paper. 29.7 x 42.0 cm. Private collection.

● 伊庭常全子・・・名秀保.伊庭秀明の嫡子.
● 予・・・「常智子忠辰」の印文に依て.伊庭秀明の高弟水谷忠辰と知れる.
因陽隱士
令和五年五月十三日編

觀賞:本心鏡智流鎗の穗

『本心鏡智流鎗之穂:藤原國住作』筆者藏
『本心鏡智流鍵鎗拵様之巻』筆者藏
形狀

本心鏡智流の鎗の穗は、およそ蕎麥三角の形を流儀の規格とする。これは同流の傳書『本心鏡智流鍵鎗拵樣之卷』を見れば明らかなこと。
しかし、丹波篠山藩において同流の指南役を勤めた佐藤信成が著した『傳聞集』を見れば、「當流用る所、ソバ三角、或は兩シノキ」と記されており、必ずしも蕎麥三角のみを規格とした訣では無かったと知れる。(兩鎬は本心鏡智流の源、樫原系の穗にも見られる)

蕎麥三角・兩鎬というほか、形狀について、同流の穗は薄く尖るものを嫌い、一見して通り難きものを好む。
一見して通り難きものとは、丸みあるものを云う。これは、地に擦ったとて鋒を損じることなく、堅物に當って最も通りが良いという利點があるとされる。

そして長く作られた莖は、太刀打に刄が當ったとき切り難く、また鎗の釣合が良いとも『傳聞集』に記されている。

藤原國住とは?

天保十二丑年八月日に作られたこの鎗は、豫州松山臣山城守百國の末と冠する藤原國住の銘在り。
「豫州松山臣山城守百國末藤原國住七十七歲作之/天保十二丑年八月日」
奈良縣の登錄證が付いている。奈良は、嘗て本心鏡智流が盛んに行われていた地域であり、江戶時代以來そのまゝ同地に眠っていたものか。

藤原國住、『刀工槪覽』には、「豫州松山臣藤原國住、江戶住、國吉門、寬政頃」とあり。

このほか、藤原國住について探すと、明治三十五年、昭和二,三年の帝室博物館列品目錄にその名を見る。これは打根や十文字鎗の作にて、藤原國住は、刀工というより鎗工というべき人物か。

いずれにしても、藤原國住という人物の委しい履歷は分らず、その銘に據って、山城守藤原百國に師事し、豫州松山侯の扶持を受けていたと分るのみ。

令和五年四月廿五日 因陽隱士著

『本心鏡智流極意高上馬上鎗之巻』筆者藏

內海流『中堀語傳る覺』を讀む

『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、內海流の『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』(筆者藏)です。『中堀語傳る覺』は、流祖內海重次が師事した中堀玄淸が語ったことを覺書にしたものです。故に題名は『中堀 語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)』と讀めます。中堀玄淸とは、戶田淸玄に學んだ人で、通稱は彥右衞門と云い、當時蒲生飛驒守氏鄕に仕えていたというほか、詳しいことは傳えられていません。內海重次もまた、藤堂高虎に仕える以前、蒲生氏鄕に仕えていましたので、同じ家中に居たとき敎えを受けたものと思われます。

それでは、『中堀語傳る覺』の文面を讀みます。今人に讀み易いよう、適宜漢字に換え、讀み假名を振り、句讀點を打ち、濁點を附けました。赤字は『古傳集解』より拔萃。

中堀語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)

一、戶田淸玄は常に語りしは、長道具をも殘さず得たりといへど(雖)も、九尺柄のす(素)鑓にま(增)す事はな(無)きと覺たるとい(云)ふ。諸道具とも穿鑿よくして見る程、かち(勝)つよ(强)し。然れども、我ほどにたんれん(鍛鍊)したる者とよ(能)くきんみ(吟味)してみれば、これはかたば(片端)にか(勝)つ事なく、あいつき(相突)になるにより、其(それ)以後方々しゆぎやう(修行)し、かたば(片端)にか(勝)つ事をくふう(工夫)し出し、かき(鉤)鑓といふこと、其(その)時よりつかひ出し、さて諸道具とよ(能)くせんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、かたは(片端)にか(勝)つ事かち(勝)つよ(强)し其(それ)により、目くら(盲)鑓と名付(なづく)也。

「戶田は富田と書くがよし。淸玄先生は五郞左衞門入道と云。越前宇阪庄一乘淨敎寺村の產。」『古傳集解』

「かたはは片端(かたば)也。胴を捨て面とかゆるは當流の主意にて、他に皮肉骨などいふと同じ。」『古傳集解』

「盲鎗とは、此鉤を盲人の杖と見て、無分別に進み入るに、勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ事と見てよし。深く工夫を凝らさば、此うちより玄妙の微意を探り得べし。」『古傳集解』

*註 「勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ」とは、「一、分紅梅の事 愚曰、紅梅は屋作りの勾倍のごとし。先師絕妙の工夫にて、初て此鉤鎗を造り給ふ。矩合勾倍を以てわり進むに從ふて、敵の鎗自然と分れ散る也。」『古傳集解』

*註 戶田淸玄は當初九尺柄の素鎗を以て無上と爲すも、同格を相手にしてよくよく吟味したところ、片端を用ゐられゝば相突となり、全き勝を得られず。これによって淸玄は遠近修行して、鉤鎗を以て片端に全き勝を得るところに達したという。

一、長鑓は大勢うち(打)合(あひ)候所へ、持(もち)とゞく人は、長き次第にか(勝)つといふ。

一、一人けんくわ(喧嘩)などし(仕)出し、たぜ(多勢)にあ(合)い候時は長鑓あ(惡)しき、其(その)時はみしか(短)き鑓り(利)おゝ(大)きといふ。

一、人事(ごと)に持(もつ)道具には、あ(有)りよ(善)きにきはま(極)りたるやう(樣)にい(云)ふ。其(それ)はへた(下手)口なり。長き鑓にても利をすれば、みちか(短)鑓にてもり(利)をする。長鑓にて利をうしな(失)へば、みちか(短)鑓にても利をうしの(失)ふ。其(それ)は其(その)ば(場)により所により、利おゝ(大)ければそん(損)おゝ(大)く、そん(損)おゝ(大)ければ、利おゝ(大)し。よくそん(損)利せんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、目くら(盲)鑓に利おゝ(大)きかと覺(おほへ)たるとい(云)ふ。

一、長刀・十もんし(文字)、いづれも諸道具そん(損)利右同前也。

「扨是までを中堀翁が其(その)師のこと(言)葉を口うつしに紹節(內海重行)君に語られし也。」『古傳集解』

一、中堀はげんせい(玄淸)になり候てよりは、常につくほう(突棒)をもた(持)せたる。年より(寄)出家の身として、人をころ(殺)す事大とか(科)也。人の中(ちう)人に入(いり)、いたづら者有(あら)ば、とら(捕)やうと、いつもしやれ(洒落)事をい(云)ふたぞ。

「此一段は紹節(內海重次)君の御こと(言)葉にて、中堀翁のひとゝなり(爲人)、又此(この)ものがたり(物語)ありしさま(樣)などをあらまし(荒增)しる(記)し給ひたる也。」『古傳集解』 *この一條、『古傳集解』にはもう少し詳しく記されていて、「...いつもざれごと(戲れ言)をい(云)ひ、せけん(世間)のことをおかし(可笑し)がり、わら(笑)ひゝゝ申されし也。」とつゞく。

一、かぎ(鉤)ゆらい(由來)、もし(若)きゝ(聞)たがり申さる方候はゞ、あらゝゝ(粗々)御物がた(語)り有るべく候。

*註 他者に鉤の由來を語り聞かせて宜しい、というこの文言から察するに、『中堀語傳る覺』は流儀の免許以上に相當するものかと思われます。

註 平假名・漢字の表記によっては、やゝもすれば文言の意味を取り違えてしまうことがあり、特に類似の傳書が無い孤立した傳書の場合は、その意味を考えるとき全き讀を得ること難しいものです。私の周圍を見渡すと、『中堀語傳る覺』と類似の傳書は見當らないのですが、幸いに內海家八代目當主內海重陳の著『古傳集解(冩)』(筆者藏)にその註釋があり、これと照らし合わせて文面を見ることで、ある程度讀み誤りを避けられたと思います。

その一二を例せば。「一、中堀はけんせいになり候てよりは常につくほうをもたせたる年より出家の身として」のところ、「けんせい」という語を、入道してから名乘った「玄淸」とすべきか、なにか流儀の階級と見て「見性(或は別字)」とすべきか決めかねます。

また、「もたせたる年より出家の身」は一續きの文と見え、「持たせたる年より、出家の身」と讀んでしまいそうですが、『古傳集解』を見ると「持たせたり年寄出家の身」と記されており、「持たせたる年より」と讀まぬように配慮されています。これは『古傳集解』が無ければ、誤讀を避け難いところです。

奧書の署名は、どのように解釋するべきか、少し調べた程度ではどうもはっきりとしません。一見したところ、「栗田五右衞門」「栗田淸左衞門」が連署したところに、後から「內海左門」の名が書き加えられた樣です。そして、その名の下に一度抹消した形跡が認められます。この抹消部分には何が書かれていたのか、傳系を記すにしては餘白が狹く、また消された文字數も少なく、單に書き損じたものか、なぜこゝに「內海左門」の署名が加えられたのでしょうか?筆蹟は、栗田二氏と別人にて、內海左門本人の筆蹟と見えます。

「內海左門」家は代々(二代目は名乘らず歟)が「左門」の稱を用ゐており、「重時」も「內海左門」家の人と思われますが、ざっと資料を見たところ實名が一致しません。そこで、私藏の傳書に貞享貳年付の『內海流目錄』あり、これを見ると「內海左門」の署名に『中堀語傳る覺』と同じ花押が書かれています。實名は屢々改名されるものにて、單に記錄されていない丈けとすれば、年代から推して、この「內海左門」は三代目の內海重直が該當すると思われます。內海重直は、萬治元年藤堂高久に召し出され、延寳六年家督を相續し、長らく主に御使番向きの役儀に攜わり、寳永八年病歿。

一つ分っていることがあり、同藩の士「保田次右衞門」の『親類書(元祿十六年付)』(筆者藏)に、「內海左門」の名が「從弟 實方も同斷」として記載され、その名の橫に「內海左門姉」を妻とする「栗田淸左衞門」の名が記されてます。(栗田淸左衞門は「高次公へ讓り玉ふ諸士分限」を見ると高「四百石」。)更にその名の橫には「從弟 實方も同斷 內海左門弟 內海玄休(牢人)」の名あり。宛名の「內海五右衞門」は、或はこの「內海玄休」なのかと想像しますが、裏付けとなる史料を得られず何とも言えません。

こゝで改めて、奧書の署名を見て推測すると、當時高弟であった栗田二氏が內海五右衞門に傳授し、その後內海左門が長じてこの傳授を追認して、署名を加えたものかと察せられます。しかし、假にそうだとすれば、なぜ敢えて別帋を用ゐず、本文と栗田二氏の署名との狹い隙間に署名したのか、どうも異例なことにて判然としません。

奧書の人名については追々調べることにして、本文についてはおよそ前記の通りの讀み方で良いものかと思い、こゝで記述を止めます。

令和三年七月三十一日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏/『內海流目錄:貞享貳年七月吉日付』筆者藏/『保田次右衞門親類書(案):元祿十六年二月晦日付』筆者藏/『古傳集解(冩)』內海重棟著 筆者藏/『三重縣史 史料編近世2』三重縣編/『日本武道大系 第七卷』/『〔增補〕藤堂高虎家臣辭典 附分限帳等』佐伯朗編/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

大嶋流『印可』を讀む

『印可:明曆第三十二月十三日』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、大嶋流の『印可:明曆第三十二月十三日付』(筆者藏)です。この『印可』は、同流の流祖大嶋吉綱に師事した月瀨淸信が平手忠左衞門に奧儀を殘さず傳授したことを證すものです。

軒轅の合戰より以來、干戈多しと雖も、鑓を最として其甲と爲す。
故に士爲る者は、車馬より之れに先んじて之れを操る。

古代の帝王軒轅の合戰より以來、多くの干戈(兵器)が用いられるようになった。中ん就く鑓が最も重んじられ、第一のものとして扱われた。
故に士たる者は、車馬より先驅けて鑓を操った。

*軒轅は、屢々傳書にも登場する傳說上の皇帝。例せば、『風傳流傳來之卷』に「嘗て中華の昔、義農干戈を造り、軒轅槍を作り、蚩尤も戈・殳・戟・酋矛・夷矛を作り、之れを五兵と謂ふ。」とあり。
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然れども、自由に使ふ者少なし。
慶長年、戶田一寶齋其玅を得る。予之れに從ひ、之れに習熟して眞を受けて、日月祕す。

それほど重視され用ゐられたにもかゝわらず、これを自由に使いこなす者は少なかった。
慶長年、戶田一寶齋という者がその玄妙を得ていた。予(月瀨淸信)はこの人に師事して、鑓術に習熟して眞の傳を受けて、暫くそのことを祕していた。

*鑓の最も古いところから說き起こして、近くは慶長年の話しに轉じる。
*戶田一寶齋は富田氏、名は久次と云い、富田淸源に學び、神林流槍術を指南した。<『神林流印可狀:元和八年五月吉日付』筆者藏>
*「予」は一人稱、月瀨淸信自身のこと。月瀨淸信は大嶋吉綱の高弟にして、大嶋流の達人、種田流の流祖種田正幸の師とされる。しかし、幾つかの種田流の傳書を閱しても、何れの國の人か誰に仕えたのか傳えられていない。そして、なぜか種田流の傳書の傳系に於いては、通稱を「伊左衞門」と記す。また、一部の流派の傳系に於いては、月瀨淸信を外して、大嶋吉綱-大島高賢-種田正幸とするものがある(後代村上義直)。そして、大嶋吉綱・種田正幸については、それなりの經歷が示されるのに對して、その間の月瀨淸信についての經歷が殆ど示されない。これは、やゝ穿った見方をすれば、そこに何らかの意圖があるように思われる。月瀨淸信が陪臣の身分であったことが關係したものか、傳系に於いて通稱を變える必要に迫られるほどの事情があったのか、後考を竢つ。
*平田の系の傳書に、月瀨氏は大嶋吉綱が德川賴宣に召し抱えられたとき、隨身したとの記述あり。しかし、本傳書の「明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き...」という記述に符合しない。
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而して後、元和比大島氏吉綱なる者は、此道に於いて世に鳴る者也。
予も亦心を盡すこと年久くして、神玅蘊奧を得る。

それから後ち、元和の頃、大島吉綱という者が、この鑓術の道に於いて世に知られていた。
予もまた(大島吉綱に師事して)長年鑓術に心を盡して、ようやく神玅蘊奧を會得した。

*この段、原文には大島吉綱に師事したと明記していない。しかし、「以二師」と續くことから、師事したものとして扱う。
猶、月瀨淸信は、大嶋吉綱が前田利長に仕えていたとき師事したのではないか、と『日本武道大系』に於いて推論あり。
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二師の餘力を以て、造次顚沛に愚意を起て、勉力して以て常山・金翅・不測の三術を推出するに類す。

不遜ながら、二師に指南して瞬時も怠りなく鍛鍊して着想を得、さらに努力して常山・金翅・不測の三術を發明した。

*「類」字は、謙遜して「~に似たり」の語感として用ゐたものかと想像するも、如何にして「以二師餘力」を解釋するか未だ確信を得ず。
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然りと雖も、琢磨の功止むを得ず、
明曆初元末秋比、紀州若山に到りて吉綱に對して、右道の旨趣を告ぐ。
師云く「嗚呼奇哉、微玅哉、庸人及ぶ所にあらざる也。當に國を治るに小補すべし。」と。

長年鍛鍊工夫を重ねたとはいえ、終りというものなく、
明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き、大島吉綱に對して、自ら得心した鑓術の旨趣を吿げたところ、
師は云った、「嗚呼奇なるかな、微玅なるかな、凡人の及ぶ所ではない。少しく治國に益するものだろう。」と。

*大嶋吉綱は大坂の役の後牢人となり、寬永十一年德川賴宣に召し抱えられ、正保三年に隱居、明曆三年十一月六日七十歲にて歿す。その父大嶋光義は關藩の初代藩主、弓の名手として名高い。
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爰に平手氏言賴、此道に志深く功を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り。術は予に同じ。

さて、この平手言賴という者は、この道に志深く、鍛鍊を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り、というほどの境地に至った。これは予の術に等しい。

*「有前忽然有後」は、捉え難く、推し量り難い、深淵なものゝ如く、出典は論語の「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。」。
*平手言賴は、本傳書の宛名の通り、通稱を忠左衞門と稱す。加賀藩家老橫山家(當時の當主は橫山忠次、明年小松城代となる。)の家來にて、平手政秀の子孫と云われる。
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故に奧を殘さず、之れを授け畢ぬ。
若し毫釐の祕する者有らば、豈に日本大小神祇の罸を蒙る者ならん。印可斯くの如し。

故に奧儀を殘さず傳授し終えた。
若し予が極く僅かの術でも傳授せず隱していれば、日本大小神祇の罸を蒙ることになるだろう。印可はこの通りである。

*「(イ)」字は「養也。室之東北隅,食所居。」<『說文解字』>。段玉裁の『說文解字注』に「東北陽氣始起。育養萬物。」とある如く、屢々傳書に見られる「閫奧(學問或は事理の深奧の所在を云う。)」に近い語感と思われる。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

『印可:明曆第三十二月十三日付』は、『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』の項に於いて觸れた通り、類似の文書が見當らない孤立した傳書です。
見比べるものがなく、何より訓點が無いため、私にとって讀み難いものでした。
愚見を述べれば、語順の誤り、語句の不足を感じられ、漢文として不備があるのではないかと思います。
しかし、勉强している者が見れば、これは文意を汲みさえすれば、自ずから讀みを確定し得るものにて、己の不勉强を恥じるほかありません。

こゝに取り上げた『印可』は、前段に記したように、大嶋吉綱-月瀨淸信-平手言賴へと至る大嶋流相傳の經緯を明らかにし、殘さず相傳したことを證すもので、その文面より察するに、月瀨淸信の編出と考えられます。猶、餘談ながら、平手言賴は承應三年に『中目錄』を傳授されています。

令和三年八月五日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『印可:明曆第三十二月十三日付』筆者藏/『中目錄:承應三年八月吉日付』筆者藏/『鎗術種田流祕書:安政七庚申歲閏三月付』筆者藏/『種田流祕極之卷口傳書』筆者藏/『種田流鎗術傳書:天保十三壬寅八月吉日付』筆者藏/『無題(種田流傳書、村上の系)』筆者藏/『無題(種田流傳書、平田の系)』筆者藏/『金澤市史資料編5近世三』金澤市/『日本武道大系 第七卷』/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編