富永軉翁:神明剣秘説

『神明剣秘説』筆者蔵

史料発見

所蔵する古文書を整理していたところ、『神明剣秘説』と題された一冊の古文書を見付けました
これは数年前に複数の古文書を購入したとき含まれていたもので、ざっと見たところ、なんとなく神道関係の古文書かと思い、今日まで看過していました(迂闊なことに)

『神明剣秘説』筆者蔵

序文

巻頭にこの本を執筆した理由が述べられています
所々虫食いのために判読できず、如何せん、細かいところは分りません

『神明剣秘説』筆者蔵

この序文は『神明剣秘説』の著者富永軉翁の子参孝(しげたか)の撰によります
署名のところ「克長(よします)」とあるのは富永参孝の前名で、「當傳弐世正嫡」というのは富永軉翁が開いた「神明和光傳」という流派の正統なる二代目継承者であることを指しています

『神明剣秘説』筆者蔵

富永軉翁

『神明剣秘説』の著者富永軉翁は将軍家の御旗本、徳川家重公に仕え西丸御書院の番士を勤めました
実名は泰欽(やすのり)と云い、采地四百石、安永五年四月四日致仕後に軉翁と号し、それ以前は大学と称していました

軉翁の事歴はいくつか伝わっており、兵法の方面ではやゝ入り組んでいて難解です
武藝の面でこれらをまとめると
1.佐々木家伝の兵法を継承している
2.直清流剣術・神道流を継承している
3.本心流剣術を継承している
4.三十余流を学ぶ
5.神明和光傳を創始する
6.起倒流を学ぶ

1の佐々木家伝の兵法というものは、軉翁より数えて五代前の富永重吉が佐々木秀義の正統京極氏信の庶流富永泰行の五代の後胤を称し佐々木家伝の兵法として伝えたものです

2の直清流剣術・神道流は、東照神君に召し抱えられた富永重吉が指南していました
直清流剣術は、『大日本剣道史』に記載があり、「流祖は高極佐渡判官高氏、下総に流された時、戦場の経験による剣法を更に工夫したと見えて、同国の富永主膳正参吉に伝へた」と記されています
「高極」とあるのは恐らく「京極」の誤植、富永参吉は重吉同人

神道流についてはご存じの通り、こゝから本心流剣術を創始したとの旨が『神明剣秘説』に記されています
なお、富永重吉は東照神君の兵法指南役を勤めていました

3の本心流剣術は、2で述べたように神道流を元に創始された流派です
居合・剣術・柔術が複合されています

4の三十余流には富永家の家伝の兵法も含まれており、中でも本心流・起倒流・山ノ井流が重きを成したとされています
また、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、「随翁当流、三浦流柔術にも達した」とされます

5の神明和光傳は、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、正式には「神武大和止戈防険正儀直授神道本心神明和光傳軉法」と云い、剱術を主体とする流派であったようです
こゝに紹介する『神明剣秘説』は、この新興の流派の教義を伝えたものです

6.起倒流はご存じのごとく著名な柔術の流派です
富永軉翁はこれを佐々木蟠龍軒・滝野遊軒に学びました

総じて言えば、富永軉翁という人物は、兵法の家柄であることに並々ならぬ自負があり、家伝の兵法のみに慊(あきた)らず、諸流をよく学びこれを取り入れ工夫して、新たに一派を立てる才覚を有していたものと思われます

『神明剣秘説』筆者蔵
『神明剣秘説』筆者蔵

神明剣秘説

この『神明剣秘説』は、富永軉翁が開いた神明和光伝という流派の教義書に分類され、儒仏に仮託せず、神に仮託して神明剣の深理を説いたもので、後半には富永家の流儀についても触れられています

「武韴神君の釼とは神武帝より申来是を今剱術の極意とす名けて神明剣といふ」

依拠するところは、主に武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)の二柱(合わせて武韴神君という)にて、その伝説を辿りつゝ霊威を讃え、時々これを剣術に結び付けて語ります

また数多ある流派も遡源すれば、一つのことから出たもので、それが神明剣であると提唱しています

『神明剣秘説』に語られる内容について知るには、なお数日を要するため軽く触れる程度に止めて置きます

 

起倒流

『起倒流傳書』筆者蔵

今回、これが神道関係ではなく武術関係の古文書と気付いた背景には、別に所蔵する肥前島原藩古野家文書の存在がありました
この古野家の当主が幕府の旗本富永参忠に起倒流を学び、皆伝を許されており、その伝系に富永軉翁の名を見ました、最近のことです
則ち、この富永軉翁の名が『神明剣秘説』に記されていると気付き、武術の古文書に類すると分ったのです

なお富永参忠は軉翁の孫にあたり、韴太郎の「韴」の字は神明剣の説に登場する「武韴神君」にあやかったものかと思われます

因陽隠士記す
2025.9.28

姫路藩不易流炮術の門弟-4

 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

前回は六代目師役へ提出した起請文について述べました。
今回は七代目師役へ提出した起請文について述べます。但し、一枚起請文の形式で提出されているため、いくつか紛失したことも考えられます、よって現存する史料のみ。

七代目師役の柴田権五郎は、文化4年4月17日より文政11年11月30日まで、22年間師役を勤めました。
五代目が14年間、六代目が7年間、八代目が5年間、九代目が4年間、十代目が23年間勤めており、各代の師役在任期間のなかでは柴田権五郎は長期に類しています。履歴については以前に記しましたので今回は省きます。

起請文は各人一帋づゝ提出しており、七名分現存しています。この七名について調べたところ、三名の履歴が分りました。尤も家臣録を精読すれば、某次男、某三男という記録が見当たるのではないかと思います。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

文化9年8月
 石川一兵衛政央 「御許容以前は」「許容状神文」

文化9年8月19日
 森五百八政鶴 「御許容以前は」
 根岸恒六直益 「御許容以前は」

文政2年3月
 岩松九右衛門重矩 「御許容以前は」

文政8年1月8日
 河合槌弥宗之 「六剋一如之放銃御傳授」
 福田市太郎繁茂 「六剋一如之放銃御傳授」
 石川平之丞正教 「六剋一如之放銃御傳授」

 文化9年8月(1812)

石川一兵衛は安永9年に亡父の跡式百石を下されます。前髪執の翌年、寛政5年に御主殿へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御供番、御在城中御近習御小姓、御鉄炮方時役などを勤め、文化7年に御鉄炮方を命じられます。起請文のときは此の鉄炮方でした。記録は文政3年まで。附けたり、父市兵衛は安永3年から同8年までの間、飾間津御蔵方、舩場御蔵方などを勤めていました。病没したとき、一兵衛は未だ若年であったようです。

文化9年8月19日(1812)

森五百八、此の人は不易流の九代目師役森助右衛門(旧五百八)の嫡子です。ちょうど此の起請文が提出された文化9年8月5日に届けを出して長吉改め五百八と名乗ります。文化5年袖附、文化7年前髪執、そして 文化9年不易流へ入門。後の文化13年に学問所検讀手傳となり、翌年出精との事によって褒美を下されます。また文政元年にもその方面に出精との理由で褒美を下されており、学問に熱心であった様子です。記録は文政3年まで。父の履歴は以前に述べた通りです。

 森助右衛門  百石 九代目師役

根岸恒六

文政2年3月(1819)

岩松九右衛門は天明5年に亡父の跡式(石高無記録)を下され御消火御番入りします。以降、御在城中御供番、御城内外火之番、御在城中御次番、道奉行代、道奉行時役、大目付役(助役)、御供・見分度々、奉行兼帯、*神戸四方之助出坂中奉行方相談、弐拾石加増、御物頭、大目付御免・奏者番兼勤、学問所肝煎、好古堂肝煎、御物頭役御免・奏者番一通り。起請文ときのは御物頭役・奏者番・好古堂肝煎を勤めていたようです。父九右衛門は室津御目付、御山奉行、病歿直近は御使番格となり御役人番へ御番入り。

文政8年1月8日(1825)

河合槌弥

福田市太郎

石川平之丞は先述の石川一兵衛の子だと思います。一兵衛の前名が平之丞でした。

 石川一兵衛  百石 御鉄炮方 御蔵方
 森五百八   九代目師役の嫡子
 岩松九右衛門 御物頭 奏者番

因陽隠士記す
2025.9.25

姫路藩不易流炮術の門弟-3

『不易流起證文』筆者蔵

     起證文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別而八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰可奉蒙
  立所者也

寛政十二庚申年
    閏四月廿一日  斎藤太助
             政利(判)

同年同月同日      大橋寛吾
             應喬(判)

寛政十三酉年正月十六日
            武友之進
             重僖(判)

同年同月同日      松崎市二
             昌樹(判)

同年同月同日     籠谷十郎兵衛
             高駕(判)

同年同月同日      塩山吉十郎
             善富(判)

同年同月同日      細野幸助
             信成(判)

同年同月同日      有馬武一郎
             勝許(判)

同年同月同日      三俣惣之進
             義武(判)

享和二戌年正月廿日  伊舟城久太夫
             景中(判)

同年同月同日      志水為景
               (判)

同年同月同日      杉幸八郎
             銃置(判)

同年同月同日      河合武八郎
             宗旭(判)

同年七月廿日      小川平内
             正大(判)

享和三亥年正月八日   磯田剛助
             勝宗(判)

同年同月同日      大橋覺太夫
             次元(判)

同年同月同日      原田伸吉
             高堅(判)

同年同月同日      鈴木整蔵
             守一(判)

同年同月同日      福田市太郎
             繁茂(判)

同年同月同日      清野源三郎
             政史(判)

文化三丙寅年正月八日  福嶋伊八郎
             元先(判)

この起請文は前回述べた大橋八郎次(このときの名乗りは角左衛門)の師役在任七年間に作成されました。21名の入門者が名を列ねています。この中の三俣義武という者は三俣義行の子にて、義行の娘と前師役前田十左衛門の忰又久が夫婦でしたから近しい親戚といえます。後に義武の子が十代目の師役となりますので、ずいぶん以前からそういった伏線が張られていたわけです(六代目大橋角左衛門は再従弟)。ちょっと話しが逸れました。今回もまたこゝに掲げた入門者たちの履歴を辿ります。21名のうち9名の履歴が分っています。人数が多いので掻い摘んで記します。(各人の役職は年代順に列挙してあります)

寛政12年閏4月21日(1800)

斎藤太助の家は、父皆右衛門の代に出奔者探索のため江戸より国元へ移住しました。寛政6年のことです、このとき大目付を免ぜられますが格式はそのまゝとのことでした。斎藤太助が家督を相続するのは不易流入門から二年後の文化2年、九拾石を下されます。以降、御城内外火之番、鉄炮方仮役、御鉄炮方福嶋善兵衛跡役、小笠原助之進次男岩蔵を聟養子とする、学問所肝煎、好古堂并稽古場肝煎出精褒美、宝山流柔術稽古世話役など。

寛政13年1月16日(1801)

籠谷十郎兵衛、跡式を相続したのは寛政5年のこと、二拾石減らされ六拾石下されます。以降、御城内外火之番、御次番、室津御番方などを勤めました。父は御代官、安永7年新知五拾石を下され吟味役(御役料四拾石)、大目付(御役料百三拾石)、御用米廻舩御用、林田領御加勢、町奉行(御役料十人扶持)など。

塩山吉十郎、父嶺右衛門のとき江戸より国元へ移住しました。不易流入門のときは父が健在にて御在城中御供番を勤めていました。殿様に随従する勤めが多かったようです。吉十郎が跡式を相続するのは文化8年のこと、百四拾石下されます。以降、宝山流時世話役、御城内外火之番、室津勤番、飾間津御番方、家嶋御番方、御小姓供番仮役、宝山流世話役など。

細野幸助、寛政9年(1797)に跡式米拾五俵四人扶持下され、御廣間御番入り。不易流入門のときは御在城中並御供番、同年2月御参勤御供。以降、御在城中並御供番、御武具方改立合、御勘定所立合年番、御作事年番元方兼勤、御作事立合年番、御勘定所年番、御城内外并御領中忍廻、天保4年東都物騒につき別手御人数として出張。御中小姓御取立、御作事立合元方兼勤、給人格、拾壱人扶持、御参府之節御供度々、弐人扶持加増、安政4年隠居。幸助は新規取り立てのため経歴は少々異例です。

有馬武一郎、跡式を相続したのは寛政6年(1794)、百石を下され御主殿御番入。以降、御城内外火之番、御在城中御次番、高砂御番、室津御番、御鉄炮方時役、大橋角左衛門跡御鉄炮方、京都御留守居仮役、好古堂掛り、稽古場懸り、倹約年番、好古堂年番、三拾石加増、御作事年番、御休所掛り、切手掛り、格式御鎗奉行、御舟奉行時役、石州御銀舩御用度々、御用米御上納御用御廻舩度々、二拾石加増、天保11年没。

三俣惣之進、先述した通り前師役前田十左衛門の親戚にして、息子が後の不易流十代目師役となります。三俣惣之進本人は武藝全般に長じた人で武官の中の武官と云えます、御物頭役にて鉄炮組を支配しました。但し、亡父遺言によって藩へ千両献金という少々謎の件もあってか、家禄を三百石から四百石に加増され、御物頭・勘略奉行・御取次の三役を兼勤。しかし後に「勤方御手薄役柄不似合之儀」とのことで百石を減らされます。不易流入門のとき18歳。亡父が家督を相続した二年後にあたります。

享和2年1月20日(1802)

小川平内、寛政5年(1793)に跡式を相続、弐拾石を減らされ弐百拾石を下され御書院御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御近習御小姓(このとき不易流へ入門)、御供度々、異国舩漂着之節御人数、御写物御用、御使番、学問所肝煎、好古堂肝煎など。父与惣左衛門は御小姓頭格御籏奉行、御勝手御用を度々勤めました。寛政4年のこと、本来の嫡子が急死した為、長沢源十郎方へ養子に出していた三男平内を熟談のうえ引き取り嫡子とします。

享和3年1月8日(1803)

大橋覺太夫、寛政3年(1791)に家督を相続、五拾石減らされ百弐拾石を下されます。父郡蔵は隠居前、御城内外火之番、御門固などを勤めていました。覺太夫もまた本起請文のとき御城内外火之番。以降、御在城中御次番、御城内外火之番、室津御番所御目付、家嶋勤番など。

鈴木整蔵、跡式を相続するのは文化2年(1805)、六拾石を下されます。本起請文のときは父小右衛門が健在にて御城内外火之番を勤めていました。それ以前は御在城中御次詰、御主殿御番入り、高砂御番、室津御番、飾間津御蔵方、下三方御蔵方、高砂南御蔵方、御用米御蔵方、室津御目付など。整蔵もまた父と同じく御城内外火之番にはじまり見分御用を度々勤め、飾間津御蔵方、室津御番方、高砂御番方、籾米御蔵御用など。

以上、判明している者たちの経歴をまとめると斯うです。以前の者たちも足しましょう。

下田與曽五郎 百四拾石 番方 御中小姓組格御舩奉行 四代目師役の養子
本多悦蔵 五両三人扶持 急死 父は蔵方
森五百八     百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
林源蔵      百石 番方 蔵方 御番所御目付

前田十左衛門 百七拾石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

斎藤太助    九拾石 番方 学問所・好古堂肝煎
籠谷十郎兵衛  六拾石 番方 町奉行
塩山吉十郎  百四拾石 番方
細野幸助  拾三人扶持 給人格
有馬武一郎  百弐拾石 御鎗奉行 御舟奉行など
三俣惣之進   三百石 御物頭鉄炮組 十代目師役の父
小川平内   弐百拾石 御小姓頭格御籏奉行 番方 御勝手御用
大橋覺太夫  百弐拾石 番方
鈴木整蔵    六拾石 番方 蔵方

皆、嫡子であることが大きなポイントで家中においてそれなりに身分の高い士たち、番方に属する者が多いのも特色です。炮術の性質から鉄炮組はもちろんですが、舩や港の番方を勤めるのも無関係ではないでしょう。番方とか蔵方とか暫定的にそう呼称しているだけで、以後門弟たちをさらに調べ職制と照らし合わせて考えようと思います。
格式についても詳しく知りたかったのですが、家臣録は断片的な情報しか得られず、さらに史料を調べなければならないと気が付きました。

本起請文が提出されたころ、大日河原に於いて殿様が不易流を御覧になりました。御覧は一大行事ですから、その時々の情報が記録されています。下記は享和1年4月27日(1801)の記録です。翌年に起請文を提出する伊舟城久太夫・川合武八郎・磯田剛助などが既に不易流の行事に参加していることを確認できます。これはちょっと意外でした。考えを改めてみると、こゝに掲げた起請文は入門時のものではなく、流派内の何かしらの階級に昇進したときに提出するものかもしれません。そうでなければ、このような行事に参加できる技術を習得する期間の説明がつかなくなります。

享和元酉年四月廿七日於大日河原
殿様 御覧扣

   抱放鏃矢
三拾筋   萩原貫太夫
弐拾筋   福嶋善兵衛
三十入箇 矢八本
大火箭   大橋角左衛門

   御意ニテ放
拾筋    笹沼團六
      伊舟城久太夫
弐拾筋   有馬武一郎
      籠谷十郎兵衛
三拾筋   武 友之進
弐拾筋   三俣富之進
三拾筋   塩山吉十郎
      宇野左馬蔵
      川合武八郎
拾筋    松崎市二
      志水百助
三拾筋   齋藤太助
      森 長吉
拾筋    磯田剛助
同     細野幸助
三拾筋   大橋官吾
      三俣惣太夫
      下田源太夫
      福嶋善兵衛
      森 助右衛門
      林 郷太夫
      萩原貫太夫
 右之通書上候扣
     大橋角左衛門

大日河原に於いて抱放鏃矢を行ったのは高弟の面々です。

萩原貫太夫は四代目師役に免許を傳授された古参の門弟。三年後に世話役となりますが、その二年後に病死します。『家臣録』では安永以前の記録が分らないため想像ですが、酒井家の慣例として「貫太夫」の名乗りは一貫目放を御前において成功させるなどの実績がなければ名乗れなかったはずです。おそらく炮術に熟練した人物なのでしょう。

福嶋善兵衛は当時、百四拾石 御武具方本役、それまでは御城内外火之番、道奉行など。父の福嶋市郎兵衛は三代目師役の高弟でした。

大橋角左衛門とは六代目師役、前回述べた大橋八郎次のことです。

萩原貫太夫 拾五俵五人扶持 閉門・病気 不易流世話役
福嶋善兵衛  百四拾石 御中小姓組頭御取次兼勤
大橋角左衛門 百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方

因陽隠士記す
2025.9.25

居合の伝書、何れの流派か?

『當流居合歌集』筆者蔵

肥前島原藩(深溝松平家)の家臣の古文書を整理していると、流派不明の伝書が出てきました

『當流居合歌集』筆者蔵

後段に出てくる年紀の通り、時代に相応しい表具です
表具の露出していたところは虫舐めのため、裏地が露わになっており、せっかくの銀彩は僅かにその痕跡を残すのみ

『當流居合歌集』筆者蔵

この奥極秘傳の巻一軸は、懇望の人が有るといえども、軽々な判断で授けてはならないと序文に語られています
残念ながら、流派の推定につながる文言は見られません

『當流居合歌集』筆者蔵
『當流居合歌集』筆者蔵

居合百首、流派を推定し得るとすれば、これらの歌を手掛かりにするほか手段は無さそうです

『當流居合歌集』筆者蔵

本来、最も有力な手掛かりとなる伝系には二人の名が列なるのみ
あるいはこの「平田弥市兵衛尉」を流祖とする一派なのかと思われます
武光権大平、「ごんたべえ」と読むのでしょうか、「権太兵衛」など別表記の線も調べましたが該当なし

花押はなぜ入れられなかったのか?
古野氏が所蔵していたことから、この伝書は伝授されたものに相違無く、考えられるとすれば他数巻の伝書と共に伝授されたから、一巻にのみ花押を入れたパターンかと考えています

そして奥書にもう一つの手がゝりが有ります
「コタマヒリヨウケン青葉キヨウロクインタイトラツメ極意なり」
この型の名に共通する流派があれば、推定できそうです
コタマ、ヒリヨウケン、青葉、キヨウロク、インタイ、トラツメの六つに分けられるでしょうか

数日前に発見して、一当て調べましたが、どうも百首から辿るほか答えを得る手段は無さそうです

因陽隠士記す
2025.9.23

姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

土屋将監:柳生流長刀目録

『柳生流長刀目録』筆者蔵
『柳生流長刀目録』筆者蔵

柳生流の長刀目録はこの伝書のほかに未見です
数多ある長刀を七つに窮めておいたと記述されているので、土屋将監のときに編まれた伝書かもしれません
しかし、先代のときの文言をそのまゝ踏襲しているのかもしれず、この辺のことは分らないです

伝書の様式そのものは、後世の土屋系に引き継がれています

『柳生流長刀目録』筆者蔵

伝書にこの大きな赤丸を描くのは、いつに始まったことだろう?
所蔵する慶長十八年の夢想願流伝書には、塗り潰さない赤丸が大きく描かれていたり、寛永頃の念流の伝書にも塗り潰された赤丸が見られる

流派の垣根を超えて、採り入れられているこの赤丸はどこから来たのか?
考えるとおもしろいですね

『柳生流長刀目録』筆者蔵

右のこの哥の心もちに能々鍛錬肝要に候
他流には堅躰に致す共、必ず右無躰の心持にて如何にも神妙
秘すべし秘すべし
右の通り一心を肝要に候

『柳生流長刀目録』筆者蔵

土屋将監、名は景次
詳しい履歴は伝わっていません
神後伊豆に学ぶと云われますが、確認されている慶長十八年の柳生流伝書や、こゝに紹介する伝書においても、伝系は「柳生五郎右衛門」を師としています

また、「心陰流」という流名についても、土屋将監のとき名乗っていた史料が見当りません
秋田の系では後世「心陰柳生流」の称があります

因陽隠士記す
2025.8.30

竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25

片山伯耆守久安:片山流居合免状

『片山流居合免状』筆者蔵

已に「『片山流免狀』を讀む」で取り上げた古文書です
この記事を改めて見直すと、文脈に不自然なところがあり、訂正しようと思いつゝそのまゝになっています、すみません

表装などは撮影していなかったので、今回は雰囲気さえ伝われば良いかな、と思っています

『片山流居合免状』筆者蔵

星野家旧蔵文書の中に、数点この手の表装がされています
そのどれもが画像のように、バラバラになっています
糊が弱過ぎた所為かな?
さほど古いものではないのですが...
あまり良い仕立てゞはないのかもしれません

『片山流居合免状』筆者蔵

この料紙と筆跡の組み合わせは、いつ見ても抜群に良い雰囲気です

『片山流居合免状』筆者蔵
巻末のところも少し臺紙から剥がれています この剥がれたところが、巻くとき引っ掛かるので、傷まないように注意しなければなりません
因陽隠士記す
2025.8.22

窪田清音の書簡を読む

はじめに

今回は幕末における兵学の権威窪田清音の書簡を読みます

窪田清音は、禄二百五十俵(役高千五百俵、文久三年時)を食む将軍家の旗本にて、武藝諸流を極め、就中山鹿流の兵学を以て世に知られた人物です
天保から慶應にかけて活躍し、数多くの著書を残しました

さて、今回取り上げる窪田清音の書簡は、信州松代真田家の臣飯島勝休へ宛てゝ認められたものです

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

いつごろ書かれたものか?

はじめに、この書簡はいつ書かれたものか?という点を明らかにしなければなりません

書中に「追々年とり近来七十七才に相成り」と記されているから簡単、寛政三年の生年に照らして「慶應二年」と推定できそうです

しかし、そうでしょうか?
仮に「七十七歳=慶応二年」として書面を見ると、「御用多の本勤御持筒頭勤の義、泊り斗り相勤め」という点に引っ掛ります
というのも、窪田清音が「御持筒頭」を勤めていた時期は、『柳営補任』によれば文久三年正月十三日から元治元年九月廿日の間、すなわち慶應二年は「御持筒頭」ではないため、「七十七歳=慶応二年」という仮定は成り立ちません

そこで『江戸幕臣人名事典』に目を通すと、「亥七十六歳」という記述を見出せます
「亥年=文久三年=七十六歳」、これは「生年」でなく「官年」というものです
官年はイコール実年齢ではなく、公的年齢というものですね

その官年に基づいて、仮に「文久四年=七十七歳」とすれば、先ほどの「御持筒頭」を勤めた期間に符合します
また「御本丸二丸炎上」や「御上洛被仰出」といった記述も文久三年の出来事として符合します
つまり、私的書簡においても表向きは官年で通していたということでしょう

以上の事から、本書簡は「文久四年」に認められたと推定できます

さらに、書中の「當正月廿八日初めて佛参に出で候斗り」という文言を考慮すると、実際に書簡が認められた日付は「文久四年正月廿八日」以降と考えられますが、書簡自体は「文久四年正月三日付」にて認められたということです

前置きはこの辺にして、いよいよ文面について見てみましょう

*御持筒頭とは、平たく言えば将軍直属の鉄炮隊の隊長であり、平時は江戸城本丸の「中之門」と西丸の「中仕切門」、二丸の「銅門」などの警備に当りました
およそ四組で固定されていて、窪田清音の場合は「與力十騎、同心五十五人」を預かる頭職でした

近海御備場見分御用

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『浦賀猿島上総房州台場絵図』国立国会図書館蔵+臺場筆者註

上に掲げた『浦賀猿島上総房州台場絵図』には、「近海御備場見分御用」によって窪田清音が見分した場所を書き込んであります(左=北)

*臺場とは、異国舩を砲撃するため沿岸に設けられた砲臺場を指します
臺場は地形に応じて設計され、敵船からの砲撃を防ぐ外壁を回らし、周辺に火薬庫や人足寄場などが併設されました

書中にいう「鋸山」と「浦山」はもっと南にあります

窪田清音が命じられた「近海御備場見分御用」とはどういった御用でしょうか?
そのまゝ読むと「[江戸]近海の御備場を見分する御用」です

何を見分したのでしょうか?
具体的史料は見当たりませんが、ペリー来航以前、幕府は「近海御備向見分御用」という名目にて、勘定奉行・目付・老中・鉄炮方・浦賀奉行・代官等を度々派遣しており
このときの御用向きから推測すると、「近海御備場見分御用」とは外寇に備えて防禦の要地をを固めるため兵士を置く場所「御固向」、その人数の配分「御固人数割」、異国舩を砲撃するための「御臺場」、その火砲火力の配分「御筒配り等然るべき場所」等を見分していたと考えられます

今回の窪田清音の場合は、従来の「御備向」を見直すことに眼目があったと見るべきでしょう
そしておそらくは二~三人がこの任に当ったと思われます

『浦賀猿島上総房州台場絵図』中、「籏山」の直ぐ右に「観音崎臺場」があります
この辺りと対岸の「冨津(ふっつ)」辺とを結ぶ線は、江戸湾防禦上、最も重要と認識されてきた要害の地です
すなわち、「近海御備場見分御用」を仰せ付かった窪田清音は、江戸湾防禦の要「観音崎~冨津」の臺場群辺りとそれより南の臺場とを視察する任を与えられたわけです
このことから幕閣は、彼の兵学の知識と経験とに期待していたものと察せられます

これ以前、湾口には多数の臺場が築造され、異国舩に備えていました
しかし通商條約締結後、「観音崎~冨津」の線より南はほとんど顧みられなくなり、かわって内海の品川辺の臺場が重要視され活発に築造されるようになりました

 
Google地図+筆者註

文久三年三月廿日、窪田清音は「近海御備場見分御用」を仰せ付かり、同月晦日昼頃に御朱印を渡され直ちに見分のため出立しました
「相模の浦賀西・東」を初め、「猿嶌邊の海陸」「上総の竹か岡」へ廻り、「冨津邊の出洲・隠し洲左右舟路の前後」を廻り、それから「安房の海岸」と「房総の境,鋸山前後」、さらに「浦山」へ乗り戻って、再び「旗山邊」「猿嶌」を一周して「浦賀」へ立ち帰り、一泊して取り調べ、そして四月十八日江戸に到着、十九日には登城して届けをし御朱印を返納しました
御朱印はどうやら身元証明と通行証を兼ねるもので一時的に貸与されたようです

御朱印を返納した後は、調査結果をまとめ「進達書・繪圖面等」を提出しました
これによって清音は後日「海陸御備向御用掛」を仰せ付かります

清音が見分御用を勤めたこの時期、幕閣は江戸湾防禦の見直しを計っていたようで、文久三年五月、それまで熊本藩が警衛を担当していた「西岸(観音崎辺)」の警衛を佐賀藩・松本藩・佐倉藩に替え、「品川臺場」の警衛についても同年八月~十月に四ヶ所の担当藩を替え、「神奈川・横浜」の警衛も担当藩を大幅に替えるなどしています

窪田清音が幕府へ提出した調査結果がどのようなものだったのか明らかでありませんが、報告の後ち「海陸御備向御用掛」に任じられていることからして、幕閣に認められる内容だったと考えて良さそうです

然れども、窪田清音の本勤は「御持筒頭」でしたから、「海陸御備向御用掛」と兼勤ということになります
これによって本勤の方は泊り番を専らすることになり、朝から夕方までは「海陸御備向御用掛」を勤めることになりました
これがよほど忙しかったらしく、「昨三月廿日前文近海見分仰せ付けられ候後、いまたに手透之れ無き次第に付き」や「去三月廿二日後は書籍も壱枚見候寸暇も之れ無く、困労斗りいたし申し候」などゝ,当時の繁忙ぶりを伝えています

御持筒頭の本勤

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
Google地図+筆者註
『御城御玄関より大下馬迄之圖』国立国会図書館蔵+筆者註

上に掲げた『御城御玄関より大下馬迄之圖』には窪田清音が本勤として勤めていた「大手三の御門」を、「Google地図」には「大手三の御門」と「新規下乗所[場所不明・推測地]」を書き込んであります

窪田清音は昼から夕まで「海陸御備向御用掛」を勤め、暮れ六つ[午後五時から七時]から朝四つ半[午前十時半から十一時]までは「御持筒頭の本勤」、すなわち門番に従事していました

「御持筒頭」の勤めは、同役が七人いたと記されています
推測するに、「御持弓頭」「御持筒頭」の七人が該当すると思われます

御持弓頭
 内藤矩正[63歳]
 市橋長賢[45歳]
 水野勝賢[60歳]
御持筒頭
 門奈直知
 松前廣茂[78歳]
 和田惟明[55歳]
 窪田清音[76歳]

窪田清音は高齢ですが、さらに高齢の人物もいました
「頭」という職分ゆえ高齢の人物が多かったのかもしれません

文久三年十二月までは「大手三の御門」の当番をこの七人で勤めていました
おそらく二人から三人が交代で休みをとったものと思われます

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

同年十二月廿一日になると、将軍上洛の御供として当番七人の内四人が旅立つことになります
またその上、残された江戸勤め三人の内一人が病氣のため引っ込み、たった二人で当番を勤めることになってしまいます
このため餘程忙しかったらしく、二日続きの泊り番にて帰宅の間が半日も無いほどだった、と清音は知らせています

そのような忙しい勤務状況を上役が考慮したものか、火事の後に新設されたと思しき「新規植溜御屋敷下下乗の方」の勤めは御免となり、隔日の勤めとなったところ、病氣の一人も復帰しようやく三番勤めとなり、やゝ忙しさも緩和したかに思われましたが...
清音は御供で旅立ったあとの留守組を二組与り「御切米御扶持家事万事引き受け」世話もしていたゝめ、「十二月廿一日より御城に斗り詰め切り」という勤務の状況でした

結局、文久三年三月廿日「近海御備場見分御用」を仰せ付かって以来、繁忙のまゝ日々を送り、文久四年正月廿八日に初めて佛参に行ったきり、ほかには何の餘暇も無いほど勤めが忙しく、書簡を差し出すことさえ出来なかったと事情を説明し、遅れに遅れた非礼を詫びるなどして、この書簡を締め括っています

伊勢貞丈の筆跡

『伊勢貞丈書付:宝暦辛巳秋九月望日付』筆者蔵

軸装された書簡の最上段に配置されたこの書付についても簡単に触れて置きます

この書付は、書中に記されていた「貞丈師の真筆、又々かきすて物のはし」です
貞丈師というのは将軍家の旗本伊勢貞丈のこと、故実の権威ですね

そして書簡を送られた飯島勝休もまた故実家で、その伊勢家に師事し武家故実の奥秘を極めました
勝休以前の代も伊勢家に師事しており、伊勢貞丈にも師事しています
このようなことから、先師伊勢貞丈の筆跡を求めたのではないでしょうか

伊勢貞丈の筆跡には何が書かれているのか?

書付に登場する「佐橋佳栄」、この人は村上正直の次男
村上正直は徳川家宣公に仕え、御家人の身分から累進し千五百五十石を知行した旗本です
次男として生れた佳栄は、同じく幕府の旗本である佐橋佳周の遺跡を継ぎ、御小姓組に列なりました
書付には「同僚」と記されています

佐橋佳栄はある日、先祖伝来の馬鎧馬面のことを伊勢貞丈に語り、これを聞いた貞丈は是非とも見たいと佳栄に頼みました
願いが叶って馬鎧馬面を実見し作図して、後日この通りの物を作って馬に装着し騎乗したいものだ、と貞丈は記しています

この書付は、元は馬鎧馬面の図に附属したものと思われます

おわりに

窪田清音の書簡を読んでみて、いかゞでしたか?
今回の書簡を”読む”は、たゞ読むのではなく、そのもう一つ向う側を読むという趣旨です

窪田清音は武藝者としての面ばかり注目される人物ですが、その一方幕府の海防に携わり、高齢にもかゝわらず繁忙な日々を送っていた
このような知られざる一面を知ってもらえたら嬉しい限りです

参考文献『維新史料綱要』『幕末海防史の研究』『勝海舟全集』『日本兵法全集5:山鹿流兵法』『大日本近世史料:柳営補任』『新訂寛政重修諸家譜』『江戸幕臣人名事典』『寛政譜以降旗本家百科事典』『日本史籍協會叢書134:鈴木大雜集』『東京市史外編:講武所』
因陽隠士記す
2025.8.21