無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

過去の日記 2023/04/23~

『神林流印可』筆者蔵

2025/8/15
この頃ようやくサイト更新の熱が高まってきました
しきりと伝書を点検しては、この筆跡はどうかな、この年代にこの紙質か、などゝ思索しつゝ日々を過しています

そのような日々を過す中、懐かしさを覚える伝書が出てきました、上掲画像

何が懐かしいのかというと、私が初めて買った時代小説が戸部新十郎氏の『幻剣 蜻蛉』だったのです
当時、剣道部に属していた私にとって、剣豪や剣術という存在は憧れそのものでした
本の内容こそあまり覚えていませんが、中条流(富田流)の富田一放が主人公の話
表記こそ違いますが、「富田一宝」は同人でしょう
まさか数十年後にその人物の古文書を手に取って眺めることになるとは、想像だにしなかったことです

かつて記した「大嶋流『印可』を讀む」に「富田一宝斎」の名が登場します

大島流の月瀬清信は、流祖大島吉綱に奥義を伝授された人物ですが、大島吉綱に師事する以前、慶長年のころ「富田一宝斎」に学んだと記されています

「富田」「戸田」「一宝」「一放」のような表記ゆれについては謎が多く、「富田一宝斎」本人の伝書をもう一巻所蔵しており、そこには「戸田一寶久次」と署名されています
何か事情があって表記を変えるのか、年代によって名乗りを変えるのか、よく分りませんね

因みに「富田一宝斎」は「神林流」という鎗術の一派を開いて指南していました
「神林流」は、『武藝流派大事典』にも載っていないため、早い段階で失伝したものと思われます

『神道流兵法之序』筆者蔵

2025/8/12
「伝書を眺める-〇〇流」、もう少し続ける積りです

気になる方もいるかもしれないので、ちょっと話して置きます
画像、手に取って撮影する意図は、そのものゝ質感を伝えるにはこの方が良いと判断したからです
平置きで物だけ撮った画像よりも、なんとなく臨場感を得られるのではないかと愚考しました

たゞ欠点として、この撮影の仕方は、文書そのものを傷める可能性があります
私はもう二十年以上毎日のように古文書を触っているので、よほどのことが無ければ、追ったり曲げたりするようなことは無いと思いますが、それでもかなり注意して撮影しています

2025/8/11
近ごろ、日課の習字を怠りがちです
進歩が見えず、毎日せずとも実力は変らないのではないかという疑念

このような愚痴をこぼしていると、なぜか少し気持ちが前向きになってきました
もう一度初心にかえって習字に取り組みます

2025/7/30
届きました『侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)』
これで既刊は全巻揃いました
売り切れてなくて良かったです
『侍中由緒帳』は井伊直興公のとき編纂され以後書き継がれたそうで
井伊直興公といえばちょうど風傳流の草刈次郎右衛門が指南役を勤めた若様ですね

彦根城博物館のページを貼っておきます
刊行物一覧
在庫状況が分らないのは不便
それとこの現代においてFAXや現金書留で購入という旧態依然とした取引方法です
なぜメールや銀行振込が出来ないのかと

連日暑いですね
剣道場で汗を流していたころを思えばこれぐらいの暑さ
なんてことはないと言いたいところですがその頃よりずいぶんと暑い気がします

2025/3/14

『蝙也齋行狀』を讀む

夢想願流松林左馬助の行狀を記した『蝙也齋行狀』を讀むを投稿しました。

令和七年三月十四日 因陽隱士

2025/3/11

所藏史料紹介:伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡
所藏史料紹介:疋田流三卷

次回は願立剣術の『蝙也齋行狀』を讀む、を投稿豫定です。

令和七年三月十一日 因陽隱士

2025/3/10

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

久しぶりの更新です。去年病を患い、身邊の環境も變化し、しばらく更新が滯っていました。
その間、このサイト「武術史料拾遺」について、存在の意義は有るか無いかなど、遲疑逡巡し、まことに病によって心まで弱くなるものかなと實感しました。
またその一方で、そもそもこのサイトは見返りなど一切期待しない、只管自分の好奇心と向上心とを滿たすことを目的として作ったのだと、改めて思い至り、今後も續けることを決意しました。
諸兄の期待の萬分の一にも沿うことのできない蕪穢のみ、淺學菲才の身を恥じ入るばかりです、どうか御容赦を。

令和七年三月十日 因陽隱士

7/28

武術史料拾遺餘滴-2

同じ餘滴を二つ作るという一見して無駄な行爲なのですが、實はサイトのデザイン變更には、非常な手間がゝゝるため、餘儀なく別サイトを立てることにしました。

筆蹟の良さを傳えたいとか、畫像とテキストとの配置を斯うしたいとか思うと、それに最適なデザインというものは、また一から構築しなければならず、そこに從來の內容をそのまゝ移すことも出來ず、とそんな次第です。

サイトの仕立を別角度にしてありますので、ほんの少し樂しめるのではないかと思います。

令和六年七月廿八日 因陽隱士

3/31

所藏史料紹介:御傳授居合極意大橫物幷神號

姬路藩三代藩主酒井忠道公、林崎流居合の極意を傳授、當大橫物を揮毫。
當時、公は在府しており、幕臣に傳授したものか、同藩に該當する人物はいない、箱書は幕府の御右筆靑木半藏の筆になる。
なお、公が林崎流の極意を傳授するほどの達人であったことは、記錄に見出せず、新たな發見と言える。
公について傳わるところは、天性學問を好み博識であったこと、筆蹟は見事で隸書を能くしたと。

令和六年三月丗一日 因陽隱士

3/30

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

去年十一月、雜記に觸れた甲乙流七卷を揭載。
關聯文書は無く、何れの家中の士か。

令和六年三月晦日 因陽隱士

昨今、NVIDIAの躍進たるや筆舌に盡くし難いものがあり、日々心を躍らせています。
AIの進化は著しく、世に、AI元年と言われるほどの隆盛ぶり。
破壞的イノベーション、產業革命。
今、私たちは途轍もない進步の出發點にいるのかもしれません。
一體、人類はどこまで行くのか、生きている間にその發展を見たいと思います。

12/24

所藏史料紹介:禰津流鷹序拔書斷卷

鷹術の傳書は一點のみ藏す。
祢津常安、德川家時代のものではなく、武田家時代のものである點に注目。

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

再び揭載。

令和五年十二月二十四日 因陽隱士

12/22

所藏史料紹介:禰津流獫牽祕書四卷

寒風吹きすさぶ本日、仕事納め。
寒威の衰えるまで籠城の構えです。

さて、改めて「獫牽(いぬひき)」の傳書を揭載。
今日、「犬牽」「犬引」の文字が普通ですが、當時の傳書には「獫牽」の字が宛てられています。

「獫牽」の職は、「鷹匠」の派生。狩に用いる犬の管理職ですね。ざっくり言うと。
それが、御犬さま・犬公方でお馴染み、あの時代になると、保護犬たちの管理職にもなります。これは狩で用いるわけではありませんね。

急遽、たくさんの犬を保護しようという流れから、「獫牽」の人員を增すため、鷹狩場の管理職「鳥見」の方面から、轉職させられた者もちらほらいたようです。
本傳書の「飯田長左衞門」もその一人。
「鳥見」から四谷の「犬小屋支配」を任されました。

あまり詳しいことは分っていません。
本傳書の時期は、旣に犬小屋を廢していたようですが、犬の扱い方を傳授していたようです。

宛名の人物について調べるため少々時間をかけました。
かけたほどの成果はなく、推測の域を出ない情報しか集められませんでした。

そもそも、本傳書の內、宛名を一にする三卷は、加賀八家の一つ前田近江守に仕えた武士が所藏していたものです。
そこから類推すれば、かつて大聖寺藩主前田利直公が四谷犬小屋の普請に關わっており、こゝで交りが出來、その後、家中の「獫牽」への傳授という流れがあったのではないかと。

『稿本金澤市史』に「犬牽」の記述があり、これは慶長まで遡ります。狩のため唐犬を用いていました。
その「犬牽」に、「才次郞」・「才兵衞」兄弟の名があり、何やら本傳書「才助」と關係があるのかな?と思わせます。
(この場合、大聖寺藩ではなく加賀藩の方です)

もう少し丹念に資料を探せば、あるいは「獫牽才助」を見付けることができるかもしれません、が取り敢えずこゝまで。

推測は推測、確證を得るまで現實とは關係ありません。

令和五年十二月二十二日 因陽隱士

追而。
宛名を一にする三卷の外、「伊藤才一郞」宛の一卷があります。
この人物は、加賀藩の「手明足輕」の名と一致します。
通稱が「才」ではじまり、もしかすると「獫牽才助」の苗字も「伊藤」かもしれませんね。
記憶が確かであれば、この一卷も同所から出たものです。

『獫名所』は、はじめ犬の部分名稱について觸れ、その後天竺より日本へ傳來した三つの犬の經緯について述べます、これは他人より尋ねられた際の答えとして。
『獫請取渡之卷』は、その題が示すように犬の請け渡しの作法、その際の應答などについて。
『唯授一人犬飼傳書』は、印可の證として傳授されました。
『祢津家獫之祕書』は、犬の日本への傳來にはじまり、繩の解釋や杖、犬の膳の組み樣、ツボに關する繪圖などが記されています。

12/18

所藏史料紹介:井上流二卷

そろそろ、劍術以外のものを揭載します。
手始めに、井上流砲術の傳書を。

令和五年十二月十八日 因陽隱士

12/16

日課の習字を始めて二年を經過。
每日一時間を費やし、運筆の術を學ぶわけですが、漫然としていても學びは無く、得られるものは”慣れ”のみ。
新たに何かを習得するためには、積極的に先達の術を見て眞似することが捷徑となります。
しかし、每日每日集中力を切らさず、習字に取り組めるかといえば、そうではなく、當然、たゞ”慣れ”るだけの漫然とした習字になることもあります。
これが全く駄目かといえばそうではなく、單純に筆を遣って書くという動作が、體と腦との連攜に確かな經驗を與えて吳れます(最善とは言えませんが、無駄ではないという逃げ場)。

私の習字の目的は、名人や達人と呼ばれるような能書を目指しているわけではありません(自身にその才能が無いことは、重々承知しています)。
習字によって得られた經驗が、古文書の筆蹟判別に大きく寄與することを期待しています。特に、筆の働きというものに注意していれば、微かな轉折にさえも氣付くべきものがあると思うのです。

取り敢えず、一萬時間を目標として、日々習字に取り組む積りです。

畫像の扇面は、先日臨書の最後にそのまゝの流れで書いたものです。
書道の方面では、淸書や作品として丹精込めて書くものがあるように思いますが、恐らく、私は一生そういう書き方をしないでしょう(わざわざ他人に上手だろうと見せるほどの字は書けませんし、それに相應しい人格も持っていません)。
敢えて、こゝに蕪穢を載せた心意は、習字に取り組む活力を得ることにあり、且つこのサイトは無機質に過ぎるので、ちょっと蛇足として。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

今年、殘すところ僅か半月。
振り返れば、SVB破綻、プリゴジンの亂、イスラエルと肝を冷やすこともありましたが、米國のCPIは順調に低下、先日のFOMCも無事通過しました。
先月、ほゞ仕事を終えたので、そろそろサイトを更新しようかと...

12/16

戶田一寶=富田一放?
上に揭げた傳書は、慶長七年のもの。
この時は、戶田氏を名乘っていますが、元和七年の傳書では富田一寶齋と名乘っています。實名は變らず同じ。
神林流の祖となる。

一放の名乘りは、同一人か?

富田流・戶田流・留田流、系譜が紛らわしいですね。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

12/15

所藏史料紹介、今年は劍術關係の史料のみに絞っていたゝめ、鎗術や柔術など、未だ揭載していない史料が數多あります。

こゝに擧げた傳書は、寳永の留田當流。
少しネットで檢索すると、Wikipediaの戶田當流がヒット、服部是右衞門正長まで同じです。

「現在は宮崎縣高千穗に祭りの棒術として殘っている」という、その關聯畫像と、この傳書の棒が似ていますね。

令和五年十二月十五日 因陽隱士

11/9

武術史料拾遺餘滴 / 古文書を讀む爲に
長らく放置したまゝ忘れていました。ログイン出来るか心配です。

 ○
寒くなってきました。
ふと氣がつき、所藏する文書群を點檢していると、蟲が湧いていました。
これは九年前に購入した家文書で、何事もなく保存していたものが、なぜ今になって蟲が湧くのか不思議でなりません。正月か春ぐらいにも點檢したのですが...
蟲が外から入ったという可能性は限りなく低いので、ちょっと困りましたね。

所藏する古文書は、大きい古文書箱だけでも百箱を超えています。これら全てを一人で點檢し續けるというのは、相當難義で、どうしても期間が空いてしまい結果蟲の浸蝕を許す。
そろそろ所藏文書を減らした方が良さそうです。

(卷物は滅多なことで蟲に喰われませんね。見たところ、裂で覆われていることが幸いしているようです)

令和五年十一月九日 因陽隱士

11/9

古文書蒐集のために活動中のこと、何氣なく目に入った額に途轍もない逸品がありました。
大鹽平八郞の書です。
「大袈裟なことを言うな、よく有る」と思われるかもしれません。

私が大鹽平八郞に興味を覺えたのは、八年前、書翰を購入したことがきっかけでした。
以來、書翰・掛軸・額など、數多く觀て得た結論は、本物は少ないということです。
特に、本物に相違なし、100%本物と言い切れるものは、更に少なく、これは自身の見識の低さゆえのことですが...
とはいえ、贋物が多いのは間違いなく、
世の中に「よく有る」と思われる大鹽の書は、ほとんど贋物と言って良いでしょう。
そういうわけで、本物に相違なし、100%本物と言い切れるこの大鹽の書は、途轍もない逸品と稱しても過言ではないのです。

關係ない話しですが、大鹽は佐分利流の鎗術を能く遣ったと傳えられています。

令和五年十一月九日 因陽隱士

「格物者格其心之物也。其意之物也。格其知之物也。正心正其物之心也。誠意者誠其物之意也。致知致其物之知也。自有大學以來。無此議論。此高明獨得之妙。夫豈淺陋之所能窺也邪。」

11/5

所藏史料紹介:新影流起請文
所藏史料の劍術關係の中、この史料は最も古く、年代順目次の先頭に配置。
古い時代の文書は冩が多く、兎角注意が必要です。

令和五年十一月五日 因陽隱士

11/3

本日は「所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷」を掲載。
圖卷は値が張りますね。近頃は散財を控えるため、倹約を旨としていますが、珍しい流派だと思いつい購入。
直近購入した新陰甲乙流の傳書も揭載したいですが、七卷あるため、ちょっと遲くなりそうです。畫像の取り込みとか色々と。

令和五年十一月三日 因陽隱士

11/2

所藏史料紹介:山野流斬法手前圖卷

備前岡山藩の繪師による圖。傳授された人は岡山藩の士かもしれませんね。
山野流は文字通り山野氏の開いた流派ですが、それ以前に師事した人物がおり、それが中川左平太。山田淺右衞門と山野氏とは同門だったようです。

令和五年十一月二日 因陽隱士

10/29

本日は「無名老翁岡本宣就筆唐詩卷」を揭載。これを揮毫した年月は明らかでないものゝ、原裝に着目すると、寬永の末から明曆の間、宣就晚年の筆と考えられます。跋にも「象嵌の老翳」「龜手の禿毫」の文言あり、老年であることを示しています。

令和五年十月二十九日 因陽隱士

10/28

本日は「國友一貫齋書簡を讀む」を揭載。これは以前揭載したものを改めたものです。
姬路藩の方の一貫齋書簡も追って揭載します。今囘の大野藩のように(この時は頓挫)、一貫齋は姬路にも訪れ、交涉を重ねて筒の註文を受けていました。姬路藩士の日記にその一聯の流れが、大まかではありますが記錄されています。

今囘の大野藩の時は、一貫齋患いのため訪問できなかったのですが、姬路藩の方なら訪問時の動向を知ることが出來るので、面白いはずです。

令和五年十月二十八日 因陽隱士

10/25

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

齋藤彌九郞龍善、練兵館の二代目。書は卷菱湖に學んだと傳えられています。菱湖は當時書壇において一世を風靡した人物ですが、卷菱湖(1777-1843)、齋藤龍善(1828-1888)、兩者の年齡を考慮すると、龍善元服頃まで學んだということ哉。或いは、菱湖流を能くする人物に繼續して師事したものか、詳しいことは傳わっていません。


書簡の文面ばかりでなく、その筆蹟を樂しむことも私の趣味の一つです。そのため、書幅も倂せて揭載しました。これは龍善四十三歲、明治三年五月の揮毫。その冠帽に捺された印文には「道理貫心肝」の一文が引かれており、これは『蘇軾文集卷五十一』の一節。「道理貫心肝.忠義塡骨髓」と續き、當時から好まれた文言で、水戶烈公や松平春嶽もこの一節を揮毫しています。

令和五年十月二十五日 因陽隱士

10/24

『物外不遷書簡』を讀む

本日は物外和尙の書簡を揭載。これを篋中に見出したときの喜び、古文書を蒐集している方ならば、察してくれるでしょう。
本項に書き洩らした點を補足すると、物外和尙が濟法寺から發した書簡です。

令和五年十月二十四日 因陽隱士

5/27 更新

所藏史料紹介に「圓明流三卷」を加えました。

全てのページの西曆換算について、一部誤差があると氣付きました。
未訂正です。

不正アクセスの爲、サイトの表示が重くなっているようです。

令和五年五月廿七日 因陽隱士

5/24 更新

所藏史料紹介に「一刀流兵法別傳天眞傳兵法二卷」を加えました。

令和五年五月廿四日 因陽隱士

5/20 更新豫定

今日は、吉岡憲法流の傳書を史料紹介に加えようと思います。

令和五年五月廿日 因陽隱士

5/15 更新

傳書の傳授日には、特別な意味をもつものがあり、また特別な意味をもたないものもあり、師弟間の調整で日付を決めることもあります。
槪して、傳書には傳授の年月日が記されるものですが、傳授されたにもかゝわらず、傳授日が記されいないものを稀に見ます。
本日更新した『念流正法兵法未來記卷』はその一つです。敢えて傳授日を記さない理由は?

令和五年五月十五日 因陽隱士

5/13 更新

所藏史料紹介に幕末の有名所を追加しました。當分の間、劍術に絞って更新します。

令和五年五月十三日 因陽隱士

5/6

現在、サイトは「所藏史料紹介」「~を讀む」「觀賞」の三つに分けて構成しています。
本來、「所藏史料紹介」は『武術史料拾遺』の中核として、全文飜刻、註釋付きで揭載するものですが、前記の如く、海外に丸ごとコピーしたページを作られるため、大幅に省略しています。

また、アクセス制限や閱覽制限付きといった適切な環境が整えば、本來の「所藏史料紹介」が出來ると考えています。

令和五年五月六日 因陽隱士

4/23 江戶時代の武術に關する古文書・古記錄を讀む。

現在、サーバの移行を完了し、表字速度は大幅に改善されました。
これに伴い、サイトの記事を見直しています。

サイトの設立は平成二十六年七月七日のこと、当初は「武術の古文書」と題していました。
その頃は、多くの方々に傳書の存在を廣めたく、またその內容が何かの役に立てばと思い、代價を求めず、多くの傳書を揭載し、譯文を作成して附し公開していました。
これは全て私の趣味であり娛樂として...

しかし、追々、海外にコピーサイトに類するものを作られ、甚だ不快な思いをしたことから、サイトの方針を轉換し、大幅に傳書の揭載を縮小することにしました。

それまで閲覧することを樂しみに來てくださっていた方々には申し譯なく思います。

海外からアクセス出來ないようにしたかったのですが、それも難しく、誰でも自由に閱覽できる環境が、無斷で丸ごとコピーしても良いという思い違いを生むのかもしれず、現在は何かアクセス制限や閲覧制限付きという形で公開できれば善いと考え、その適切な方法を模索しています。

なお、熱心に問い合わせて下さった方々に對し、諸々の事情によって返事できないまゝ、音沙汰無く今日に至り、申し譯なく思います。

令和五年四月廿三日 因陽隱士

風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-濱嶋加右衛門 ?

L1「酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・酒井家の家来。中山吉成が風傳流を建立して初めての弟子。「酒井雅楽頭様」は、権勢を誇った酒井忠清公。
慶安四年の酒井家『御分限帳』を見たところ、「濱嶋加右衛門」の名は見当らず。

流祖中山吉成直伝の弟子-草芥弥九郎 印可

L2「井伊掃部様の御屋敷八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる御家来に草芥[侭]弥九郎と云者も弟子にて」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。草芥弥九郎は後に印可を許された人物。彦根の井伊直興公が幼名吉十郎といった若いときに風傳流を指南した。このため後々彦根の井伊家において風傳流の勢いが盛んになったという。

さて、「草芥」と原文のまゝ表記したが、正しくは「草刈」。原本に「草苅」と書かれていたものを誤写したのだろう。
「八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる」という文言からして、承応二年に八丁堀御屋敷(彦根藩の江戸蔵屋敷)を預けられた草刈家の初代次郎右衛門が該当すると見られる。
また、草刈次郎右衛門は寛文三年、井伊直興公が八丁堀御屋敷へ移ってきたとき、その御付となっているから間違いない。但し「弥九郎」の称は記録されていない。

流祖中山吉成直伝の弟子-曽我権之丞 中書

L3「其比曽我権之丞殿は御歩行頭役を勤られ、一傳の弟子にて、書院の前に鑓小屋を立て日々稽古はけまれたる」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。曽我権之丞、鑓免許の御祝儀の席のこと、集った高弟たちに仕合を挑み、免許の相弟子二三人を破って増長し、さらに印可持の弟子に挑んだ。そこで受けて立ったのが遠藤半之丞。勢いづいた曽我権之丞だったが、技倆の差は歴然たるもので、八本の仕合で八本とも遠藤半之丞に敗れた。流祖中山吉成はこの時の遠藤半之丞の駆け引きに殊の外感心して、後々弟子たちに語って聞かせたという。
曽我権之丞は、この仕合のあとに心を改め、風傳流に精進し「中書」を伝授された。

流祖中山吉成直伝の弟子-遠藤半之丞 印可

L4「[遠藤]半之丞初は斎藤摂津守様に奉公せしに、外へ出て一傳[中山吉成]に慕ひ鑓修行せん為に、十八歳にて元服し、又其後暇願ひ浪人して只鑓の深く志し、一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」<風傳流元祖生涯之書>

L5「一傳[中山吉成]印可を渡され後に越後村上の御城主榊原熊之助様へ被召抱」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼政辰が「一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」と絶賛する風傳流の遣い手。流祖直伝の中で随一の遣い手と思われる。
中山吉成に印可を伝授された後、越後村上の城主榊原熊之助に召し抱えられた。そして、榊原熊之助が十五歳になったとき、その指南役となる。榊原家は姬路に転封となり、遠藤半之丞は同地で病死した。
「榊原の御家は古く、古侍多く勿論藝者も多き中に半之丞か鑓術の位なる藝は無之のよし」と、榊原家中の士より伝え聞いたという。

上記の内、「榊原熊之助」というのは著者菅沼政辰の記憶違いで、代を取り違えたのだろう、正しくは「榊原虎之助」。越後村上から播磨姬路に転封となった式部太輔は「榊原政邦」一人ゆえに。
とすれば、若君が十五歳になったのは元禄二年のこと。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野与一郎 印可

L6「上野与一郎も一傳[中山吉成]印可の弟子にて、其比は近藤登様の御組にて勤たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「近藤登様」は脱字で、幕府の旗本「近藤登助」のことかと。年代から察するに「貞用」が該当する。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野伊大夫 免許

L7「同弟[上野]伊大夫も免許の鑓也。此外免許の鑓有。伊大夫は其比御歩行衆にて其比六百人の御歩行衆の内にて六人に撰れたる水の上手也」<風傳流元祖生涯之書>

L8「後に石貝十蔵殿御取持にて、禁裏様御守京都に御詰被成る久留嶋出雲守様の御組へ入与力にて京詰せしなり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「久留嶋出雲守様」は、幕府の旗本「久留島通貞」が該当する。この人が禁裏附に転じたのは天和二年六月二十七日のこと。つまり、その頃から上野伊大夫は京詰の与力となった。このとき「八郎右衛門」と改め、元百万遍の屋鋪の内に居住し、多くの弟子をとって風傳流を弘めたという。そして同地において病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-奥山治右衛門 ?

L9「奥山治右衛門殿と云御旗本衆も一傳[中山吉成]の弟子にて稽古被成候に、又勝れて馬をすかれ乗馬の上手にて」<風傳流元祖生涯之書>

L10「「さてもヶ様に可有とは知らすして、前に過言推参申たる也。此上は是非馬上の鑓を深望に存候間、未御免許は得す候へ共、馬上の鑓一通りの御相傳を偏に願ひ候」と御申有に、一傳[中山吉成]「心有て堅き御ちかひの上にて、馬上の鑓一通り迄を傳へたる」となり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・馬術に長けた奥山治右衛門、ある日中山吉成に馬上の鑓合を申し込む。風傳流において馬上鑓は免許の後に伝授されるもの、本来であれば断られるところ、中山吉成は承諾した。四本の鑓合の結果、四本とも中山吉成に敗れ、奥山治右衛門は非礼を詫び、是非とも馬上鑓の伝授をと願い許された。

当時の「奥山治右衛門」といえば、「奥山重治」が該当する。御書院番に列し、後ち番を辞して小普請となった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿七日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-3

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 年不詳

K1「一傳[中山吉成]は又鑓の外に念流の釼術を深く修行して、下手の打太刀は無刀にても取られたる上手なりといへ共、鑓は自己に立られたる風傳流なるに況や戦場にて鑓は別て諸士の武功を達器なる故に、望にまかせて是を廣くとり、又太刀術も弟子望み多しといへ共、是は断てあへて取合れす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・鑓術のみならず、釼術も相当な遣い手だった様子を伝えている。念流は、友松偽庵が彦根藩士であったことから、同藩において盛んに行われていた釼術の流派。無関係ではないかもしれない。

K2「玄関の内の連子まとにすかしの有る紙を張り置て、折ふし此すかしより見られたるを門弟は知らさる也。如此免許の鑓におしへすして免許せられたる事には皆人不審なしたる事也。是にはふかき事有。其免許を得たる人の鑓を遣ふを見ては皆人不審をはれたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・ちょっと面白い話。中山吉成は、こっそりと門弟の技倆を見て、その技倆有りと見れば免許を与えた。周囲の門弟たちは不審に思うが、その技倆を見て納得したという。

『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

K3「自然まれに元祖竹刀を持れて門弟の内を相手にしてからし物の業遣ひて見せられたるに其業のさへたる事其内に程をよくしてかね合をたかへす拍子の自由を遣はれし事勿論強柔の位過所及なく全躰の業うつくしくてさとく見へたり...幾度も右のことく拍子をたかへす遣ひて見せられたり。門弟真似て仕習ふに及はすして感したる事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「からし物の業」は、別に『風傳流からし物傳』と題する六冊が著されていることからして、風傳流にとって重要な技の仕組であったらしい。同流にとって重要な仕組であったが、この仕組の道理は難しく、菅沼政辰が見る限り、真に遣える者は少なかったという。晩年には、間違った形で遣われるようになっていたようで、おそらく、早々に本来の道理は失われたと思われる。

K4「元祖[中山吉成]の遺言よく残されし鑓屋田中喜左衛門に被申付たる鑓也。此鑓の柄天草の樫也。二十角にけつり惣鑓の形は外に道具の書と題したる内に記したることく也。身は両しのぎ長さ三寸五分也。是元祖吟味の上に長さ三寸と申付られたるに、鍛冶あやまりて三寸五分に出来たるに突ぬけ共に勝れたる故元祖五分長きをかまはすして其侭用ひられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の持鎗は、遺言によって月正寺に預けられた。その鑓について語られている。入念に吟味して鑓の身の長さ三寸と指定したにもかゝわらず、鍛冶が誤って三寸五分に作ってしまう、それでも中山吉成はそのまゝ用いたというから、昔の大らかな風情を感じさせる。
風傳流の鑓については、別に『風傳流素鑓真剱之形』という伝書が有って、流儀の指定する寸法というものがある。とはいえ、弟子の中には敢えて身の長さを「壱寸八分」に作るものも現れる。中山吉成は実見して「此通にて御用ひ候へ」と許したというから、何か目論見があってのことであれば、寸法の加減は許容されていた様子。

おまけ

中山吉成の実名は、「吉成」として知られている。
それは、ほとんどの伝書には系譜に「吉成」と記すし、種々の書籍にも「吉成」とのみ記されているから、当然といえば当然。

ところが、この頃所蔵の風傳流の伝書を見ていると、二つの発見があった。
「中山源大夫重昌」と書かれている。
「重昌」という実名は一時的に用いられたものか、「吉成」と改名する以前の実名なのか、定かではないが、たしかに実名「重昌」の時期があったと分る。

『風傳流仕合之巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
参考文献参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『曽我家文書』『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』
因陽隠士
令和七年七月廿五日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 ~60歳 大垣藩士~赤坂 寛文~延宝八年

F1「元祖[中山吉成]は其後加藤内蔵助様の御取斗ひにて濃州大垣の御城主戸田采女正氏信公へ被召抱たり。知行弐百五拾石被下、鑓は申立すして外様組に出る...此時は又元祖名を中山源兵衛と改む」<風傳流元祖生涯之書>

F2「[戸田]氏信公へ[中山]源兵衛身上相済たるには子細有。是は右内蔵助様兼て源兵衛を御懇意に思召て、則采女[戸田氏信]様へ御参會被仰しは、則御望の通[中山]源兵衛に知行三百石申付て可召抱と被仰て[加藤]内蔵助様御満足被成」<風傳流元祖生涯之書>
・・・加藤内蔵助の仲介によって知行三百石を以て召し抱えられるはずが、知行二百五十石になった子細について語られる。その内容は省くとして、結局「間もなく濃州大垣へ[中山]源兵衛妻子共に引越て勤めたり」と落ち着く。

F3「[中山]源兵衛は只風傳流の鑓を廣くする事をたのしまれて、此御家[戸田家]てにも三四年、又七八年の内には鑓免許の弟子も出来て所々国へも風傳流を廣めたる事有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・大垣戸田家に召し抱えられた年代は定かでないものゝ、少なくとも七八年以上は同家に仕えていた。

F4「大垣に勤られし時、『中書』といふ一冊を編て我々に渡されたる時」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の傳書『中書』が編まれたのは、この時期。

F5「[嫡子中山喜六]子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山父子の仲は険悪であり、中山吉成末期に及び、親類縁家の者が嫡子喜六の儀絶を解くよう頼んだが、中山の姓を名乗ることを許すのみだった。結局、嫡子中山喜六は浪人のまゝ江戸で病死する。

F6「[三男中山弥左衛門]鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

F7「[竹中]助大夫は某[菅沼政辰]か父故に元祖も兼て互に書通して出合ん事を念し、ある時元祖[中山]源兵衛思ひ立れ某[菅沼政辰]共に種々もてなし、則躮竹中弥左衛門も初て元祖へ對面す...某[菅沼政辰]も同道して大垣へ帰られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・元祖が不破郡岩手の竹中家を訪問したときの話。これは「風傳流の流祖中山吉成について考える-4」の「おまけ-竹中左京様」で触れた通り。

F8「[菅沼政辰]大垣にて暇を取たる比は菅沼与市と改めて大垣へも出入せしに、元祖[中山]源兵衛某[菅沼政辰]へ指圖せられしは、「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」と被申て」<風傳流元祖生涯之書>
・・・一足先に戸田家を辞していた菅沼政辰、師中山吉成より勢州津藩に風傳流を弘めるよう依頼される。当時、菅沼政辰の年齢は二十代半ばから後半。既に中山吉成の信任厚い。

F9「左門[戸田氏西]様御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝに面々の組頭より御意の趣を一札宛に記し是を渡し面々請取て浪人す...右の通の一札を請取て何れも大垣を出るに元祖[中山吉成]も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す。右大勢御暇被下候事」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の流祖中山吉成について考える-3において触れたように、延宝の大暇によって暇を出された話。家督を継いで三四年経ったころから藩財政が悪化し、延宝八年、大規模な解雇につながった様子を伝えている。
当時の組頭戸田権兵衛は、八百五十石戸田芳雄が該当する。

F10「其比某[菅沼政辰]桑名に居て右の沙汰を聞、元祖の事無覚束思ひ、即刻發足し夜通しに大垣へ行翌朝五つ時に直に元祖[中山]源兵衛宅へ見廻しに、はや元祖は屋鋪をあけ御城下より一里半北に「赤坂」と云所に仁科才兵衛と云人の方迄先程行かれたるよし」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成が浪人したという話を聞きつけた菅沼政辰は、急遽桑名から大垣へ急行し、中山吉成の無事を確かめた。

中山吉成 61歳 垂井滞在 天和元年

G1「其後同国の内往還に「たる井の宿」のうら静なる所に先年岡田将監殿といひし御役人の居られし明屋敷の有を元祖買とゝのへられ暫住居せられたるに」<風傳流元祖生涯之書>

G2「諸国より鑓の門弟等も多く見廻ふ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、一先ず「たる井」の地に腰を落ち着け、諸国の門弟に風傳流を指南していた。

G3「某[菅沼政辰]も又桑名より見廻たるに兼て拵へ置れて風傳流の印可の二巻此時某[菅沼政辰]へくれられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・おそらく、この時期に風傳流の印可二巻が成立したのではないかと。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 62~64歳 明石藩士 天和二年~貞享元年

H1「播州明石の御城主松平若狭守[直明]様の御家に右にも記したる元祖縁家の丹羽氏なと居る故に、ある時明石へ行れしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・丹羽氏は中山吉成妻寿貞の実家。また、中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽家の養子となり家督を継いだ。

H2「日数をへて明石へ行着れたるに間もなく若狭守[松平直明]様御家へ可被召抱由にて、此時知行三百石源兵衛へ可被下の御内意有之に...則御城の戊亥にあたる勘手新田にて十町の所を茶代として物外に被下御家中の内にて家屋敷を被下度々登城して」<風傳流元祖生涯之書>
・・・知行三百石を固辞して、勘手新田に十町の地を下された。これには理由があって、中山吉成は「知行を得て勤るには諸士の次第有て、上に立つ人多し、知行をうけす物外と成て家老中にも同位に語る事是物外長袖分の徳也。殊に年寄存生の程も知れたるに仕廻をよくして後に末弟等迄の知る所有り、物外か仕廻の程を必末々語り聞せ」と菅沼政辰に語ったという。つまり、身分によって生じる格式に煩わされたくなかったと。
なお、松平直明が明石の地に転封となったのは天和二年のこと。つまり仕官の話は天和二年頃と考えられる。

H3「[中山]源兵衛其比の名は物外といひ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・上にいう「長袖分の徳」。

H4「戸田左門[氏西]様へ御手寄の御老中御光来の節、御咄の序に被仰しは「何として上聞に達したるか、頃日上意に左門は中山源兵衛といふ家来に暇を出し則若狭守[松平直明]召抱たるよし、若狭守は能者を召抱たる」と上意有しと御語被成たると也。是聞ゆる筋有て元祖[中山吉成]我々へも語られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・どのような経緯で将軍様のお耳に入ったものかと、暇を出されて浪人となった中山吉成を松平直明が召し抱えた件について、老中から戸田氏西に語られた。
将軍に「能者」と言われことは無論名誉なことであり、中山吉成にとって嬉しくないはずがない。よって門弟たちにも語られた。

H5「貞享元甲子年七月十四日に病死せらる、行年六十四、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則兼ての法名「物外獨翁居士」と号す」<風傳流元祖生涯之書>
・・・松平直明に召し抱えられて僅か二三年、流祖中山吉成はその生涯を明石の地で終えた。
中山吉成の遺言によって、持鑓は月正寺に残し置かれた。
『風傳流元祖生涯之書』の著者である菅沼政辰は、後日月正寺に参り、中山吉成の墓に参り位牌を拝し、涙ながらに香典をさゝげた。そして遺族と対談し、桑名へ帰るに「道すから力なく元祖久敷つかわれし若黨に左次兵衛といふ者元祖にはなれ美濃の内在所へ帰るを幸に召つれ唯元祖こし方の物語りせめては旅のつかれのまきれとしてすごゝゝと桑名へ帰りし也」としめくゝった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『新修大垣市史』
因陽隠士
令和七年七月廿四日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成の行跡-はじめに

これまでに幾度も取り上げた『風傳流元祖生涯之書』*1に基づき、その他の史料・資料をもって補足し中山吉成生涯の行跡をこゝにまとめる。

『風傳流元祖生涯之書』は、中山吉成の高弟菅沼政辰の著書。流祖中山吉成の行跡を記したもので、後世の失傳に備え、菅沼政辰の最晩年に執筆された*1。
その特徴として、基本は編年体でありながら、それぞれの出来事は年代を明示せず、また所々に著者菅沼政辰自身の行跡も入るため、史料の正確性において少なからず弱い点がある。たゞこれほどに中山吉成の行跡を伝えた史料は他に見当らず、行跡を知る上で貴重な情報であることは言うまでもない。

1・・・同書中に「つらゝゝ考ふに、元祖風傳流を建立せられしより以来、今漸九十年に近し」との述懐があることから、菅沼政辰隠居後、最晩年の執筆と見られる。

中山吉成誕生 幼名不詳 1歳 元和七年

A1「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成出生地は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」において述べたように、矛盾が生じる。よって、推論のごとく「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は仮に「美濃国大垣」とする。

A2「[中山]源兵衛は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」<風傳流元祖生涯之書>

『風傳流免許巻』部分 筆者蔵
中山吉成 ~28歳 元和~慶安元年

B1「父中山角兵衛竹内流の鑓を修練し、則源兵衛も早歳より父角兵衛に此鑓術を傳授して、十六歳より他国へ發向し弟子を取事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、若年の頃より父中山家吉に師事して竹内流の鑓術を修行する。そして、十六歳のとき独立し、諸国を遍歴して修行を重ねつゝ、弟子を取った。

『林鵞峰序:鑓書記』
中山吉成 29歳~30代 慶安二年~明暦

C1「古流を数多ひ又竹内流へ復て弥修行を重て工夫を積て、終に於江府一流を建立す。則風傳流是也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・竹内流を研鑽し古流を取り入れ、風傳流を建立する。風傳流を建立した正確な年代は伝えられていない。

C2「林道春法印に對談して鑓の意味を語るに、法印深く感して自右の趣を文に作りて送る。吉成則是を序文として一巻を顕はす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・幕府の儒官林鵞峰によって撰文された「鑓書記」。これを風傳流の基礎伝書、免許六巻の中の一巻に取り入れた。「鑓書記」の撰文は、慶安二年。則ち、この年を風傳流の成立と考えるのが妥当か。

C3「此時吉成假名を新左衛門と云。其後又名を中山一傳と改」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「一傳」に改名後、中山吉成の弟が「新左衛門」の称を継いだ。

C4「館様の御屋鋪に居なから、鑓の弟子を取の初に酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「館様の御屋鋪に居なから」とあるのみにもかゝわらず、『明石名勝古事談』には「徳川綱吉(後の将軍)の館に居り」と記されている。単に「館様」という語から拡大解釈したものか、明らかでない。

C5「中持市郎左衛門と云人有、是は管鑓の上手といひて此弟子も多く稽古甚有しに、右市郎左衛門が弟子と又一傳の弟子の内にも互に鑓の咄雑談し、又外にもいひ傳る人有て、市郎左衛門と一傳と勝負仕合を望む人多く、既に一傳も仕合をすへき心に決したるに...則四本迄仕合、四本共に一傳突勝れたり。則其鑓の業切組くきりを我らに語られたり。其勝負仕廻て一傳は早速其場を立、十郎兵衛ともに足早に帰りしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・江戸で風傳流中山吉成の名が知られたのは、おそらくこの中持市郎左衛門との仕合によるところが大きいと考えられる。

C6「猶一傳弟子益多くして国々へ風傳流を廣めたると也。勿論其内諸大名衆にも御歴々の方、又御旗本衆にも弟子多く有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中持市郎左衛門との仕合後、大名衆・旗本衆の弟子も多くなったと。

中山吉成 40歳前後 美濃~彦根滞在 明暦~万治

D1「[中山]一傳名を中山源右衛門と改め、江府を出て濃州へ立寄、又江州彦根の御家中には縁家の人も有故に、則立寄滞留せられしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・濃州へ立ち寄ったのは、やはり出身地ゆえか?

D2「[彦根]御家中にて歴々共に鑓の弟子多く付て、稽古はけみたり」<風傳流元祖生涯之書>

D3「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」
・・・追々、彦根家中に風傳流が普及し、中山吉成をして「御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」と言わしめるほど隆盛を誇る。先の江戸滞在のとき既に彦根藩士に指南していた。

D4「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・彦根家中の数多の弟子の内、最も風傳流を極められた人は八田左近右衛門と云い、「御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」と。後ち浪人して越前福井藩へ行き、同地で病死する。

D5「十一ヶ所の鑓小屋は、[中山]源右衛門直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之書>

D6「其比元祖も浪人故に、播州尼崎の御城主其比は青山大膳様の御家中へ行れたるに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・尼崎藩武藝奉行役 本庄九左衛門と内談して、浪人中の元彦根藩士三浦三郎左衛門の仕官をまとめようと画策するも、本人の拒絶によって破談となる。三浦三郎左衛門は、元宝蔵院流の遣い手で、中山吉成に師事して後ちに印可を傳授された。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山源右衛門 40代 大野藩士~浪人 寛文

E1「元祖[中山]源右衛門は越前大野へゆかれしに、其比大野の御城主松平但馬守[忠良]様の御家へ源右衛門を被召抱知行弐百石被下、鑓は申立すして外様組に出る」<風傳流元祖生涯之書>

E2「元祖[中山]源右衛門後に但馬守様軍使役被仰付て勤む」<風傳流元祖生涯之書>

「[松平忠良の]御意有しは、「[中山]源右衛門其方は鑓を一流心得たると聞、鑓には入道具有に入身に鑓有ると心得たるか?又は素鑓に勝の有と心得たるか?」と御尋有しに、源右衛門御返答申上るは、「入身には損多く御座候て。素鑓に徳多く御座候。此故に私儀素鑓の一流を仕候」と申上る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「鑓は申立すして」仕官した中山吉成であったが、やはり殿様の耳に入ったようで、御目見のときに質問され、その後立合の運びとなった。殿様は木下淡路守に師事した鑓の遣い手、これに対し中山吉成は要望によって長刀の入身をなし、二度とも入身勝となる。結果、「其方は聞及びしよりは名人也。骨折たり。帰りて休めよと御意有」と。

E3「其後但馬守[松平忠良]様御家の老中丹羽彦左衛門[好覩]娘を御意を添られて、則源右衛門妻女とす。此後に男子三人女子弐人生る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の子たちは、いずれも凡庸な性質で、それについて菅沼政辰は「元祖[中山]源兵衛程の人も不幸にて、子の縁うすき事、門弟等迄もくゆる処也。右のことく元祖子孫の趣迄を知らせん為に、吉凶の事ともに過もなく、勿論残さす全ふ記し置なり」と各人の消息の締めくゝりに述べている。

E4「[中山]源兵衛は其後又所存有て但馬守[松平忠良]様へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・菅沼政辰の記述によれば、中山吉成が官を辞して浪人の身となるのは、流儀を弘めるためであったと云う。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿三日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-5

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
現在見られる流祖中山吉成の伝記について

風傳流の流祖中山吉成に関する記事は意外なほど少ない。
そこで、記述内容から引用元を遡ると、二系統に分類される。
則ち、出典不明の『日本武道大系 第七巻』を引用する記事と、『風傳流元祖生涯之書』を引用元にする記事とに分れる。

出典不明

『日本武道大系 第七巻』

├── 一閑斎の隠居所_風傳流鑓術

└── 日本武道協会_風傳流槍術

『風傳流元祖生涯之書』

└── 『明石名勝古事談』 ── 『三百藩家臣人名事典 第七巻』

正直に言うと、『日本武道大系』の記述は信用できない。その理由は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」「風傳流の流祖中山吉成について考える-3」に述べた通り、第一に根拠が分らない、第二に辻褄が合わない、そして第三に高弟菅沼政辰が著した中山吉成の行跡と相違する。

なお、『増補大改訂 武芸流派大事典』の風傳流の項では、「彦根藩士、中山源兵衛吉成が祖。もと勢州長島の松平佐渡の士」とその行跡を淡泊に伝えているが、これまでに調べた結果、全て誤りと考えている。
中山吉成は、彦根藩に仕えていないし、松平佐渡守にも仕えていない。彦根に滞在して風傳流を指南していたが、仕官はしていない。そして、松平佐渡守に仕えていたのは、父の中山家吉。
中山吉成は二男だったので、「二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」と伝えられている。

因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-4

『明石名勝古事談』より中山吉成の伝記
『明石名勝古事談』の中山吉成伝記について考える

『明石名勝古事談』の中山吉成伝記は、その内容を見れば『風傳流元祖生涯之書』を底本として作文されたことが明白であり、中山吉成の行跡をよくまとめているように思う。けれども、下記に抜粋した二箇所の記述には大きな誤りがあるため、訂正して置く。

H「お暇を貰ひ岩手藩主竹中左京の家に留り又同國加納城主松平丹波守光永の指南役となり藩中の子弟に風傳流の槍術を指南す」<明石名勝古事談>

K「光永光廣光慈三代に用ゐらる其際光慈信州松本へ國替となる時に松本藩中に風傳流大に廣まり其術を師範する者出て」<明石名勝古事談>

H・Kともに、流祖中山吉成の行跡として記述されているが、実はこの部分は高弟菅沼政辰の行跡である。中山吉成の行跡として鵜呑みにすると、とんでもない矛盾が生じてしまう。
「光永光廣光慈三代に用ゐらる」とあれば、中山吉成の没後にまで話が及んでおり、なぜ、筆者はこの簡単な矛盾に気が付かなかったのか...

それと、Kに言うところの「岩手藩」というものは存在しない。

『風傳流元祖生涯之事』の原文を見れば、誤りは明白

前に抜粋したH・Kそれぞれに対応する原文をこゝに抜粋する。

HQ1「某[菅沼政辰]も所存有て左門様[戸田氏西]へ御暇申上首尾好御暇被下浪人して、則同国の内不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留せしに此御家中の諸士一圓に某[菅沼政辰]か弟子と成て」

HQ2「某[菅沼政辰]を右加納より招く人有て行しに、右[丹羽]新兵衛[中山吉成の妻の弟]取立たる弟子を初て指南せしに、段々弟子重りて稽古をはけむ内に終に某[菅沼政辰]事、[松平]光永様御家へ被召抱て今に勤む」

HQ1は、菅沼政辰が浪人して、実父竹中助大夫の元へ滞留した話。
HQ2は、菅沼政辰が加納藩主松平光永に仕官するという話。
『明石名勝古事談』の筆者は、おそらく「某」を中山吉成と誤認したのだろう。とはいえ、HQ1の「某か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る」と書かれているのだから、気が付きそうなものだけど。

KQ1「其後[松平]光永様御逝去有て、[松平]光廣様御家督有て後城州淀へ御所替被仰付、則淀にても某[菅沼政辰]屋鋪の内に鑓小屋廣く被仰付御家中諸士不絶稽古励」

KQ2「其後[松平]光廣様御逝去有て今又[松平]光慈様御家督[享保二年]有て志州鳥羽へ御所替[享保二年]被仰付鳥羽にても某[菅沼政辰]か弟子共の稽古場廣く被仰付日々に稽古はけみ」

KQ3「其後[松平]光慈様未鳥羽へ御入部不被成に信州松本へ御所替[享保十年]被仰付、享保十一年に御家中諸士松本へ引越、則某[菅沼政辰]か弟子共稽古場を先當分御借し被仰付、日々不絶稽古をはけむ」

KQ4「右のことく濃州加納、次に城州淀、又志州鳥羽、今又信州松本、右四ヶ所にて御家中の諸士風傳流を学ひしは右の趣也」

KQ1~KQ4は、前に抜粋したKの「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分に当る。つまり、菅沼政辰は松平光永・松平光熙・松平光慈の三君に亘って仕えたということ。もちろん、中山吉成は天和四年に没しているので、松平光熙・松平光慈の時代には生きていない。

 
『三百藩家臣人名事典』
『三百藩家臣人名事典』の誤りもまた明白

確かなことは分らないが、『明石名勝古事談』の孫引きと見られる『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の行跡。

F「美濃大垣藩主戸田氏信に招かれて家臣となったが、四、五年を経ると仕えを辞して、隣接する岩手陣屋の竹中左京重高のもとに寄寓し」

G「同国加納藩主松平光永の指南役となった」

前のHQ1・HQ2に説明した通り、F・G共に菅沼政辰の行跡である。
さすがに「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分はおかしいと気付いたのか省かれている。

おまけ-竹中左京様

HQ1の「不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留」に言う「竹中左京様」は、竹中左京重高のこと。竹中重高は、不破郡岩手の領主。彼の竹中半兵衛重治の曾孫に当る。幕府の交代寄合に列しており、普段は領地に居住し参勤交代の義務がある、ちょっと珍しい旗本。

当時、菅沼政辰の実父竹中勝正が竹中重高に仕えており、その血縁から浪人後に身を寄せ、こゝでも風傳流を指南する。
実父の屋敷に鑓小屋を設け、家中の士に指南、中でも領主竹中重高の弟竹中重紀や、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門など合わせて三名に免許が傳授された。
そんなある日、流祖中山吉成が岩手の地に訪れる。それは菅沼政辰の実父竹中助大夫に会うためだった。それまでに、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門はしばしば大垣を訪れて、中山吉成の元で風傳流の教えを受けており、岩手訪問を打診されていたのだろう。
岩手を訪れた中山吉成は竹中家に歓待され、終日語り合ったという。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『明石名勝古事談』『三百藩家臣人名事典』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿日記す