風傳流の流祖中山吉成について考える-2

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地について

「[中山]家吉は元和五年から七年の頃高崎藩主安藤対馬守重信に仕えていたが、この時高崎で中山吉成は生まれたという。」「一説には中山吉成は関宿で生まれたともいう。」

一つ目は、中山吉成の生れた土地はどこかという点。
『風傳流元祖生涯之事』の記述によると、「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也。」とあり、全く異なる出生の地を唱えている。

先ず、『日本武道大系』の「高崎(或関宿)説」について、これは出典が明らかにされていない。また、これを裏付ける史料も未見。

一方、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島説」。これについて調べると、中山吉成の生年である元和七年、勢州長島は天領となっており、且つ「松平佐渡守様」が「勢州長嶋」と関係するのは、二十八年後の慶安二年、松平佐渡守康尚の長島藩転封を待たなければならない。

中山吉成の生年である元和七年の前年であれば、伊勢長島藩主は菅沼定芳であり、「松平佐渡守様」とは関係ない。

つまり、『日本武道大系』・『風傳流元祖生涯之事』共に、中山吉成出生の地について確かなことを伝えているか、疑問が残る。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-再考

『風傳流元祖生涯之事』は、中山吉成の高弟菅沼政辰が著したにも関わらず、なぜこのような齟齬を生じるのか?

私は一つの可能性を考えている。
それは菅沼政辰の年齢と関係するかもしれない。
そもそも菅沼政辰が中山吉成と面識を得たのは、寛文の頃。当時、菅沼政辰は大垣藩主であった戸田氏信に子小姓奉公していた、十四,五歳前後の年齢と見られる。
そして、中山吉成もまた戸田氏信に仕えており、この頃両者は知り合った。為に、菅沼政辰は中山吉成の父中山家吉は「松平佐渡守様」に仕えていると知ったことだろう。
つまり、この認識が後年に尾を引き、中山吉成の出生は「松平佐渡守様」の「勢州長嶋」と記憶に刷り込まれたのではないかと思われる。
つまりは、菅沼政辰の勘違い。

因みに、寛文当時、伊勢長島藩主の「松平佐渡守様」は、松平康尚。中山吉成の生年元和七年となれば、その二代前に遡り、松平忠良と言って、大垣藩の藩主だった。

全くの推論になるが、以上のことを踏まえて修正すると、「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は、「美濃大垣」と考えらえる。後年、藩主は代わりこそすれ、大垣の地で中山吉成と菅沼政辰が知り合ったのも土地の縁があったからかもしれない。
いずれ確たる史料の出現を願い、後考を竢つ。

 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-補足

なぜ私が『日本武道大系』の「中山吉成高崎[或関宿]出生説」を採らず、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島出生説」の方を採り、再考するに至ったのか触れておきたい。

その最たる要因は、『風傳流元祖生涯之事』が、流祖中山吉成の家族について比較的詳らかに記している点にある。中山吉成の直弟子として長年に亘って師弟の交誼があった菅沼政辰だからこそ知り得て、後世に伝えられた情報であると考える。
情報の出典を明らかにしていない『日本武道大系』の記述とどちらが信頼に値するのか、言うまでもないだろう。

たとえば、『風傳流元祖生涯之事』の中、中山吉成の家族に関する記述を引くと、
「源兵衛[中山吉成]兄弟の内、兄を中山傳右衛門といひて、父角兵衛か家督を得て前に記したることく松平佐渡守様に勤て死後に躮[せがれ]十兵衛家督して勤む。」や、
「[中山吉成の]弟を新左衛門といひし也。此名は兄[中山吉成]の元祖新左衛門[中山吉成の三十歳頃の名乗り]名を一傳と改られて後つきたり。」や、
「此新左衛門鑓術は後々迄竹内流にて是又所々にて弟子を取たり。右のことく源兵衛[中山吉成]は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり。」や、
「[中山吉成の]嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共、子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり。」といった記述がある。
また、中山吉成の妻の実家丹羽家に関することや、中山吉成の子たちの消息についても詳しく触れられており、記述の信頼性を高めている。

因陽隠士
令和七年七月十八日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-1

『風傳流素鑓真剱』筆者蔵
はじめに

ある日、私は風傳流の史料を発掘した。発掘というのは、もちろん土中より掘り出したという意味ではない。誰にもかえりみられず忘れ去られていた史料を、知識を持つ人が発見したというほどの意味合い。これによって、史料はその真価を発揮する。但し、私の知識ではその真価の半分も引き出せるかどうか心許ない。

さて、その史料は上中下三冊を以て揃い、『風傳流元祖生涯之事』と題す。著者は、風傳流の流祖中山吉成の高弟菅沼政辰という*1。

菅沼政辰は、元服以前から中山吉成とは知己にて、十六歳で元服したとき、正式に中山吉成の門弟となって風傳流を修行した。免許されて以降は各地で門人を育て、その間中山吉成が歿する貞享元年まで師弟の交誼を絶やすことは無かった。
中山吉成歿後も風傳流の高弟として流儀の普及に努め、なお晩年に至って流祖直伝の高弟たちが世を去る中、菅沼政辰は長寿を保ち流祖直伝の鑓術を世に伝え続けた。風傳流の歴史を語る上で欠くことのできない大きな存在であったと言える。(本項とは関係ないが、菅沼政辰は竹中半兵衛重治の孫に当る。菅沼は養父の苗字)

風傳流の普及に生涯を捧げたといっても過言ではない菅沼政辰は、その最晩年に至って、流儀の教えが正しく後世に伝わらないことを危惧した。その当時、既に流祖直伝の高弟たちは泉下の客となっており、その心配も無理からぬこと。そこで菅沼政辰は自身の知る流祖中山吉成に関わる事を後世に伝えようと書物を記した。それが『風傳流元祖生涯之事』である。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵

こゝに取り上げる『風傳流元祖生涯之事』は、実は初出ではない。『明石名勝古事談』という本の中、中山吉成伝記の底本として用いられている*2。但し、その典拠は明らかにされていないため、『風傳流元祖生涯之事』という書物の存在自体は世に知られていない*3。

さてさて、こゝからが本題。

『風傳流元祖生涯之事』には、断片的ながらも流祖中山吉成の一生について記されている。流祖の直弟であり印可を許された高弟でもある菅沼政辰という人物が、この書物を書いたことによって、その内容について大いに参考にすべき点があることは言うまでもないだろう。この史料を元に、現在知られる所の中山吉成という人物の説明や伝記を見直すと様々な発見がある。今回はその発見について記してみようと思う。

1・・・実名は「正辰」とも記す。

2・・・『明石名勝古事談』に記される中山吉成の伝記には、至る所に錯誤が認められる。これは底本とした『風傳流元祖生涯之事』を正しく理解できていないことによる。錯誤というのは、主に中山吉成と菅沼政辰の事歴を混同している点にある。鵜呑みにすると齟齬が生じるので引用する方は注意されたし。なお、『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の項は、『明石名勝古事談』を参考にしたものと考えられる。これは前に記した同様の混同が見られるため。

3・・・私が所蔵する『風傳流元祖生涯之事』は、菅沼政辰の孫弟子に当る小西正郁が写したものを、更にその門弟と思しき貝増盛武が写したものである。則ち、写本の写本。

因陽隠士
令和七年七月十七日記す

『蝙也齋行狀』を讀む

『蝙也齋行狀』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、『蝙也齋行狀』です。蝙也齋は、夢想願流を開いた松林左馬助のこと。同流七巻の伝書や英名録と共に保管されていたものです。『所藏史料紹介:夢想願流居合次第』は、その七巻の内の一巻。

『蝙也齋行狀』に書かれていることは、既に知られていると思いますが、これ自体を取り上げた記事を見なかった爲、拙劣ながらも敢えて現代語訳を試みました。またその原文と、傳書中に書き込まれた朱筆に依って書き下しも載せてありますので、それぞれ見比べて文意を汲み取ってもらえれば幸いです。

蝙也齋行狀 松林氏左馬助永吉。別稱を無雲と曰ふ。晚年隱退して蝙也齋と號す。父は松林權左衞門永常。世〃(よゝ)上杉家に屬して景勝に使ふ。文祿二年癸巳の歲を以って、蝙也を信州川中嶋松代に生(むめ)り。
蝙也齋の行狀(生前の事蹟・言行を敍述した文章) 松林氏左馬助永吉は別稱を無雲と云う。晚年隱退して蝙也齋と號す。父松林權左衞門永常は代々上杉家に屬し景勝に仕えた。文祿二年癸巳の歲、信州川中嶋松代に蝙也を生む。

蝙也少(わか)かりしときより志を劍術に屬(はけま)し。常に自ら以爲(おもいらく)。夫れ劍術は兵家の先務也。士たらん者(もの)學ばずんはあるへからす。遠く劍術の濫觴(らんせう)を原(たつぬ)るに。其の源(みなもと)蚩尤(しゆう)より起れり。昔葛天廬(かつてんろ)の山發(ひら)けて金出づ。蚩尤受てこれを制して。以て劍鎧(けんかい)を爲せり。此れ劍の始り也。
蝙也は若かりしときより志を劍術に勵まし、常に考えていた。劍術というものは兵家が第一に爲すべき務めであり、士でありたい者は學ばないわけにはいかない、と。劍術の起源を原(たづ)ねれば、その源は蚩尤(しゆう)のときに始まる。昔、葛天廬(かつてんろ)という山から金が掘り出され、蚩尤はこれをもって劍や鎧を製造した。これが劍の始りである。
○<管子:數地篇>「昔葛天廬之山。發而出金。蚩尤受而制之。以爲劍・鎧・矛・戟。此劍之始也。」

爾來(しかしよりこのかた)天子より以て庶人に至るまてこれを用ひさると云ふこと無し。曾て聞く天子は二十にして冠(かんふり)して劍を帶び。諸侯は三十にして冠して劍を帶ひ。大夫は四十にして冠して劍を帶ひ。隸人は冠することを得す。庶人は事有れは劍を帶ることを得たり。禮の興(おこ)る所也。
それから天子より庶人に至るまで、劍を用いないということは無かった。曾て耳にした、天子は二十歲にして冠して劍を帶びる、諸侯は三十歲にして冠して劍を帶びる、大夫は四十歲にして冠して劍を帶びる、隸人は冠することはできない、庶人は事有れば劍を帶びることができた。この邊りから禮が興ったのである。
○<賈子>「古者天子二十而冠帶劍。諸侯三十而冠帶劍。大夫四十而冠帶劍。隸人不得冠。庶人有事得帶劍。無事不得帶劍。」

是の故に高祖は三尺の劍を提(ひつさ)けて、坐(いなか)ら天下を治む。此れ人君の[劍を]帶ふる所に非さるや。馮異(ひやうい)は玉具の劍を賜(たまはつ)て立(たちところ)に赤眉を擊つ。此れ武臣の帶ふる所に非さるや。
是に由てこれを觀れは古へより世〃重んする所貴と無く賤と無く。然れとも斯の翁始め師に從(したか)つて問はす。唯(たゝ)一旦豁然としてこれを得て自ら力を用ること久し。

こういうわけで、高祖は三尺の劍を提げて、居ながらにして天下を治められた。これこそ人君が劍を帶びる理由ではないだろうか。馮異(後漢の武將)は玉具の劍を賜り、たちどころに赤眉(叛亂軍)を擊った。これこそ武臣の劍を帶びる理由ではないだろうか。こういうわけで古(いにしへ)より世々劍を重んじる身分に貴賤は無かった。
しかしながら、蝙也翁は始め師に就いても問わず、唯(たゞ)ふとして悟り、これより自ら努力して長い時が經った。

○<史記>「高祖云吾以布衣提三尺劔取天下」
○<大學>「必使學者卽凡天下之物。莫不因其已知之理而益窮之。以求至乎其極。至於用力之久,而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗。無不到。而吾心之全體大用。無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。」

慶長十二丁未(ひのとのひつじ)の歲。年十有五の孟春二十三日の夜。靈夢を得て忽ち深居に入んこと思ふに。淺間嶽(あさまのたけ)南麓に往(ゆい)て。兩山の間に盤旋(はんせん)し。風飱(ぞん)露宿。努力すること三年。造次にも必す是に於てす。顚沛にも必す是に於てす。奇祥(きせう)異瑞(いつい)多は夢寐(むび)の間に在り。中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍を言はす。竟(つい)に自得活機(くはつき)の玅術を獲たり。
慶長十二年正月二十三日の夜、十五才のとき、靈夢に導かれるようにして、俄かに奧深い處に閉じ籠ろうと思い立ち、淺間嶽の南麓に往き、兩山の間を廻り、露に宿し、風を餐とし、努力すること三年。僅かの時にも必ずこれを忘れず、僅かの間にも必ずこれを忘れなかった。奇祥・異瑞の多くは夢寐の間に在るもので、中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍は言うまでもなく、竟(つい)に自得して活機の玅術を獲た。
○<論語>「君子無終食之間違仁。造次必於是。顚沛必於是。」

旣にして山を出て殺活(せつくはつ)兼ね施(ほとこ)し。進退時に中す。其の脫著(たつちやく)自由なること。譬(たと)へは雲無心にして岫(くき)を出つるか如し。僉(みな)曰ふ。無雲號名其の旨を得たり。又當流を謂(いつ)て自ら願立(くはんりう)と曰ふ。人其の故を問ふ。曰く吾今心の願ふ所を成就するを以て別に一流を立つる也。
やがて山を出て殺活を合わせて施し、進退見事であった。その脫著自由な樣は、譬(たと)えば、雲は無心にして岫(山穴)から出るが如く、皆が「無雲という號名は言い得て妙である」と稱した。また當流を自ら願立と言った。人がその譯を問うと、答えて言うには、「私は今心の願う所を成就したから、旣存の流儀とは別に一流を立てたのだ」と。
○<臨濟錄>「儞若慾得生死去往脫著自由卽今識取聽法底人無形無相無根無本無住處活鱍鱍地」
○<陶淵明:歸去來辭>「雲無心出岫。鳥倦飛忘歸。」
○<大藏經:閏六>「若慾成就別法。先誦此呪十萬遍。一日一夜必須斷食設大供養。取遏迦木作火。烏麻牛酪酥蜜呪一千八遍少少投其火中卽得成就。心所願者皆得圓滿。」

諸邦に之(ゆい)て他流と相對するときんは戦(たゝかつ)て勝たさると云ふこと無し。打て利せさると云ふこと無し。此の如く經行すること七年。或は初め從(よ)り學んて弟子と爲(な)り。或は自流を捨てゝ當流に降(かう)し。深く斯の術を慕ふか爲に。禮を設(まふ)けこれを招く者有るときは。經過(けいくは)せさると云ふこと無し。
諸國に往き他流と相對するときは、戰って勝たないということは無く、打って不利ということは無かった。此くの如く、修行すること七年。或は初めより學んで當流の弟子となり、或は自流を捨てゝ當流に降った。深くこの術を慕うあまり、禮を篤くして私を招く者がいるときは、決して見過ごすことは無かった。

居を卜(ほく)し廬を結び敎て歲月を歷者其の數少からす。至若(しかのみならす)伊奈氏の佳招に因て。居を武州赤山に移して。家住すること十有餘歲。其の後府君(ふくん)忠宗(たゝむね)公彼の術の奇なるを聞て。伊奈氏に謂(いつ)て曰く。願くは蝙也を城下に招いて。適子光宗(みつむね)の師と爲さん。奈何哉(いかんそや)。伊奈氏卽ち其の命に應して。蝙也をして仙臺に使いせしむ。
居所を定め廬(いおり)を結び敎授していると、長い歲月が經った。そればかりでなく、伊奈氏の厚い招きによって、居を武州赤山に移して、住むこと十年餘り。その後、府君伊達忠宗公が蝙也の術の珍しきことを聞き、伊奈氏に言うには、「願くは、蝙也を城下に招いて、嫡子光宗の師にしたい、どうであろうか?」と。伊奈氏は直ちにその命に應じて、蝙也を仙臺に招聘した。

寬永二十年癸未の歲。果して光宗君の師と爲る。時に五十一歲也。光宗君不幸短命にして早く。簀(せき)を易(か)ゆると雖も。常に忠宗公に侍(はんへつ)て。劍術を說くこと多年。これを懷(なつ)くるに和を以てし。これを養ふに安を以てす。恩惠(をんけい)勝(あけ)て算(かそ)ふへからす。
寬永二十年、果して蝙也は光宗君の師となった、時に五十一歲。光宗君は不幸短命にして早く逝ってしまったが、蝙也は常に忠宗公の近くに仕え、長い年月劍術を說き、和をもって親しみ、安をもって成長を促した。忠宗公から受けた恩惠を殘らず數えることはできないだろう。
○易簀・・・「曾子易簀」

慶安四年辛卯の歲。蝙也劍術を以て世に鳴る。其の聲高く將軍家光公の台聞に達して。乃(すなは)ち忠宗を仰て召してこれを照覽す。討太刀は弟子阿倍道是といふ者也。渠(かれ)と共に極至(きよくじ)向上の祕術を盡すときは。將軍家太(はなはた)これを奇として。三ひ退出するときは三ひこれを召す。便(すなは)ち安藤右京亮に命して。吳服三つこれを拜領す。中か一つ赤裡(あかうら)也。右京亮且つ吿けて曰く。將軍家汝の妙術賞美(せうび)の餘り。忝(かたしけな)くも此の赤裡を賜ふ。蓋し赤裡は人を賞して賜ふ所の服なりと云云。時に五十九歲也。美譽(びよ)芳聲(はうせい)數車(すしや)有りと謂つへし。
慶安四年、蝙也は劍術を以て世に知られた。その聲名は高く、將軍家光公の耳にも屆き、忠宗を召して蝙也を招きこれを照覽した。討太刀は弟子の阿倍道是というものが勤め、彼と共に極致向上の祕術を盡したところ、將軍家は甚だこれを珍しく思われ、三たび退出すると、三たびこれを繰り返させた。そして安藤右京亮に命じて、吳服三つを與えた。その中一つは赤裡(あかうら)であった。右京亮が吿げるには、「將軍家は汝の妙術を賞美のあまり、忝くもこの赤裡を賜ったのだ、察するに赤裡は人を賞して賜ふ所の服であろう」と云々。きっと、車に積むほどの名聲を得て天下に知られたことだろう。
○<贈魏三十七:李羣玉>「名珪似玉淨無瑕。美譽芳聲有數車。」

斯の翁嗣(つく)子無し。其の子(むすめ)を以てこれを仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て。家督に立つ。其の氏を同じうし其の家を讓る。退(しりそい)て隱居す。明曆元年乙未の歲。時に六十三歲也。
蝙也には嗣子が無く、その娘を仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て家を相續させ、その氏を同じくしその家を讓り、自身は隱居した。明曆元年、時に六十三歲。

實吉本姓は橫尾也。昔年(そのかみ)當家伊達氏の祖先藤原朝宗公。始て奧州下向の時。近臣有り扈從(こせふ)する者十七騎。橫尾右兵衞實充(さねみつ)其の一(いつ)に居れり。前(さき)の橫尾勢州實綱(さねつな)は。實充十五代の末裔(ばつえい)也。實吉又實綱季子(きし)也。
實吉、本姓は橫尾という。昔、當家伊達氏の祖先藤原朝宗公が始めて奧州に下向した時、近臣として扈從する者が十七騎あり、その中に橫尾右兵衞實充がいた。先代の橫尾勢州實綱は、實充より數えて十五代後の末裔であり、實吉は實綱の末子である。

斯の翁功成り身退くと雖も。弄(ろふ)するに劍術を以てすること日日に千有七百。年數の足らさることを知らす。復た謂つへし能く勤めを務めたりと。又每日念佛を唱(との)ふこと六萬返。疾病なりと雖も易(か)ゑす。彼の水鳥樹林念佛念法と曰ふか如きは。祖師禪法也。一念彌陀佛卽滅無量罪と曰ふか如きは。如來の敎法也。
蝙也は功を立て致仕した後も、劍術に沒頭し、日々劍を振ること千七百囘、壽命というものを知らないようだった。また勤めをよく果したと言うべきだろう。また、每日念佛を唱へること六萬返、病を患っても止めなかった。あの「水鳥樹林念佛念法」と云うものは、祖師の禪法である。「一念彌陀佛卽滅無量罪」と云うものは、如來の敎法である。
○「功成身退天之道也」
○「弄以劍術日日千有七百」の「千有七百」は、假に劍を振った囘數とする。
○<南浦文集:轉讀般若配帙>「有純一之敬心能務于勤」

梁山に頌(じゆ)有り曰く。金烏(きんう)東上人皆貴く。玉兎(きよくと)西沈(せいじん)佛祖迷ふ。擧(こ)す看(み)よ禪や敎や本二致無し。斯の翁知(しん)ぬ茲に通達すること。寬文七年丁未之歲閏二月朔日。行年七十五。臨終正念にして卒す。諡(をくりな)す洞雲月公(とううんけつこう)と曰ふ。元祿六年癸酉十二月二十四日これを書く。
梁山の頌(じゅ)に、「金烏(日)が東に上れば人皆貴く、玉兎(月)が西に沈めば佛祖迷ふ」と云う。禪といゝ敎といゝ、元から異なることは無い。蝙也は悟った、この境地に達したことを。寬文七年閏二月朔日、行年七十五。末期に臨んで心は平らかにして逝く。諡は洞雲月公。元祿六年十二月二十四日、これを書く。
○<禪林類聚>「梁山僧問祖意敎意是同是別師云金烏東上人皆貴玉兎西佛祖迷」

註 太字:譯文 赤字:解說

現代語譯の難しさを改めて實感しました。
何が難しいのか?
一つに、どの程度の現代語に譯すのが適切かということ。これは歷史小說を讀める人なら讀めるだろうと想定して。ただ、見慣れない單語が頻出して讀みにくいのは仕方なしと諦めました。
一つに、私自身の語彙力の無さ。日頃から、古文書を讀んでも現代語に置き換えないので、そう容易く適切な譯が思い付かない。恐らく、原文への理解の淺さが露呈したものかと思いつゝ、自身の勉强にもなると思い譯しました。
一つに、この手の傳書は、根柢に漢籍や唐詩、禪語への理解を求められます。つまり、讀者は敎養として知っているだろうという前提のもと、漢籍・唐詩・禪語などから語句を引用するので、短い語句といえども、それを用いた意圖が壓縮されている爲、一つ一つ調べなければなりません。

難しいと言っても、これらは特別なことではなく、當然のことであり、漢文を讀むときは、およそ斯ういった過程を踏みますが、今囘は取り分けて讀みやすい現代語譯を試みた結果、悩みました。

令和七年三月十四日 因陽隱士著

參考史料 『蝙也齋行狀』筆者藏

所藏史料紹介:疋田流三卷

疋田流强弱之卷

疋田流强弱之卷 一卷 帋本墨書 17.6 × 281.7 cm 寛永拾五年十二月吉辰付 筆者藏 備前岡山藩薄田家文書之內

疋田流强弱之卷. Edo period. dated 寛永 15 (1629).
Hand scroll. Ink on paper. 17.6 × 281.7 cm. Private collection.

疋田流向上極意之卷
疋田流向上極意之卷 一卷 帋本墨書 15.0 × 160.2 cm 寛永拾五年十二月吉辰付 筆者藏 備前岡山藩薄田家文書之內 疋田流向上極意之卷. Edo period. dated 寛永 15 (1629). Hand scroll. Ink on paper. 15.0 × 160.2 cm. Private collection.
疋田流諸學集

疋田流諸學集 一卷 帋本墨書 17.7 × 229.9 cm 貞享四丁卯年十月吉辰付 筆者藏

疋田流諸學集. Edo period. dated 貞享 4 (1687).
Hand scroll. Ink on paper. 17.7 × 229.9 cm. Private collection.

● 冨田伊兵衞正次・・・關ヶ原歸陣後.家督二百石を相續.大坂兩御陣の時.池田利隆公に御供.後江戶在番となる.明曆二年歿.池田輝政公・利隆公・光政公に仕えた.
● 薄田兵衞門殿・・・備前少將池田光政公の臣.高四百石.兵衞門或は兵右衞門とも記す.
因陽隱士
令和六年三月十一日編

所藏史料紹介:伊勢流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡 一卷 帋本墨書 18.0 x 123.3 cm 慶長九年正月朔日付 筆者藏

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡. Edo period. dated 慶長 9 (1601).
Hand scroll. Ink on paper. 18.0 x 123.3 cm. Private collection.

● 毛利伊勢守藤原朝臣高政・・・本名友重。姓藤原氏。字九郞左衞門。從五位下伊勢守。豐臣秀吉に仕え後豐後佐伯藩の初代藩主となる。伊勢守流炮術の祖。
因陽隱士
令和七年三月十一日編

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

『瀧野遊軒墓誌銘』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、起倒流を弘めた瀧野遊軒の墳墓を描いた『瀧野遊軒墳墓圖』です。瀧野遊軒については、このサイトを訪れる方々ならばご存じかと思います。依て、先ず『瀧野遊軒墳墓圖』について、槪要を述べます。

▽瀧野遊軒墳墓圖の槪要
1.本圖は、瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺に在った墓の圖。
2.全得寺の墓は、寳曆十二年門人等によって建てられた。
3.本圖を記した者は、瀧野遊軒の門人藤堂安貞。但し、本圖はその寫。
4.本圖のほかに、類似の圖を見ない。
5.本圖は丹波篠山藩の起倒流指南役の鈴木家が所藏した。鈴木家の四代目は瀧野遊軒の直弟子。
6.瀧野遊軒の墓は、全得寺のほかに數箇所在る。

瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺は、江戶切繪圖の中に見出せる。圖中には「全徳寺」とある。書家として名を馳せた市河米庵の居處に近い。現代ならば、東京都臺東區入谷一丁目にある入谷驛の北北東250mほどの場所か。

『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション
『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション

『諸宗作事圖帳』に、全得寺が寺社奉行へ提出した寺圖面を見出せる。これによれば、墓所は隣接する本間意格抱屋敷の側に在った。

『諸宗作事圖帳 [127] (百七十七)(000007297828) 』國立國會圖書館デジタルコレクション

扨て、今囘の本題はその墓の右側面に記された「瀧野遊軒墓誌銘」です。墓誌は、もと支那の傳統にて形式あり、古代より甚だ多く、その文を名家に依賴するものは唐代より盛んになったと云われています。

柔の剛を制するは天理令然なり、兵に柔術有れば能く驍勇を挫く
柔が剛を制するのは、天の理がそうさせる。ゆえに、一兵卒といえども柔術が有れば驍勇の者さえ挫くことができる。

其の業に粹なる者は先つ福野氏有り、これを起倒流と謂ふ
その業(柔術)を極めた者に先づ福野氏有り、これを起倒流と謂う。

福野は三浦氏・茨木氏に傳ふ、茨木は寺田氏に傳ふ、寺田は其の子正重に傳ふ、正重は吉村扶壽に傳ふ、扶壽は堀田賴庸に傳ふ、賴庸は瀧野擧嶢に傳ふ
福野は三浦氏・茨木氏に傳え、茨木は寺田氏に傳え、寺田はその子正重に傳え、正重は吉村扶壽に傳え、扶壽は堀田賴庸に傳え、賴庸は瀧野擧嶢に傳えた。

擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號す、西京に浪華に其の術大ひに行はる、後來東都に弟子增〃多く其の門に登る者蓋し三千餘
瀧野擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號した。西京に浪華にその術は大いに行はれた。後來東都に行き弟子增々多くなり、その門に入るものは三千餘を數えるだろう。

寳曆壬午疾を以て卒す、春秋六十八、下谷金峯山全得寺に葬る、東都門人等寘墓に刻銘し、以て碩恩に酬んと欲す
寳曆壬午の年、疾(やま)いによって卒する。この時六十八、下谷金峯山全得寺に葬る。東都の門人たちは、寘墓にその事績を刻み、以て師の碩恩に酬いようと考えた。

其の余に親しき者、これに勤めんことを乞ひ銘と爲す、銘に曰く、「術は無住に到り、鬼神も圖り難く 瞻れば前にあり忽ち後ろにあり 或は有或は無 瀧野の兵に於けるや 能く其の途に入る 三千の弟子 傳へて器は朽ちす」と
その中に余(私)に親しき者がいて、その銘文を考えてほしいと乞うので出來た銘文はこの通り。「術というものは無住に到れば、鬼神も圖(はか)り難く、瞻(み)れば前にあり忽ち後ろにあり、自由自在、或いは有、或いは無、捉えることなど出来ない、瀧野遊軒の兵術に於けるや、能くその域に達している、その兵術は三千の弟子が傳えて朽ちることはない」

寳曆癸未夏五、賜紫沙門濟松寺大鼎志(しる)す
寳曆癸未は、寳曆十三年。碑文の原文を書いたものは、濟松寺九世住職大鼎禪圭。

註 太字:譯文 赤字:解說

久しぶりの投稿です。
今囘は、柔術史を語る上で缺くことのできない起倒流、その瀧野遊軒に關する古文書を取り上げました。
墓誌そのものに何か新奇なことが書かれているわけではありません。しかし、瀧野の門人であった藤堂安貞が墓前において、暫しの間師に思いを馳せ、墓を寫し取った旨が記錄されており、今日においてもその樣子を思い浮かべることができます。
「若葉の木のもとにしはらく靜坐すれど音もなく香もなし」と、墓前に坐す藤堂安貞。そして、一句「ほとゝきす來て一聲ほとゝきす」。

この墓について詳らかにしたものを他に見なかったことから、拙いながらも敢えてこれを記事にした意圖を察してください。

令和六年三月十日 因陽隱士著

參考史料 『瀧野遊軒先生墳墓圖』筆者藏

所藏史料紹介:林崎流居合御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號 一幅 帋本墨書 40.0 x 104.0 cm 文化十一年甲戌正月二十五日付 筆者藏

御傳授居合極意大橫物幷神號. Edo period. dated 文化 11 (1814).
Hand scroll. Ink on paper. 40.0 x 104.0 cm. Private collection.

● 從四位下行雅樂頭源朝臣忠道・・・酒井忠道公.從四位下雅樂頭.播磨國姬路城主.櫻田御火消.當橫物揮毫の同年九月晦日隱居.天保八丁酉七月廿三日御逝去.御年六十一歲、法諡率性院殿曆堂源祁大居士.
因陽隱士
令和六年三月丗一日編

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

甲乙流兵書一

甲乙流兵書一 一卷 帋本墨書 18.1 x 180.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書一. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 180.3 cm. Private collection.

甲乙流兵書二

甲乙流兵書二 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.0 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書二. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.0 cm. Private collection.

甲乙流兵書三

甲乙流兵書三 一卷 帋本墨書 18.1 x 87.2 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書三. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 87.2 cm. Private collection.

甲乙流兵書四

甲乙流兵書四 一卷 帋本墨書 18.1 x 86.6 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書四. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 86.6 cm. Private collection.

甲乙流兵書五

甲乙流兵書五 一卷 帋本墨書 18.1 x 118.5 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書五. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 118.5 cm. Private collection.

甲乙流兵書六

甲乙流兵書六 一卷 帋本墨書 18.1 x 190.8 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書六. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 190.8 cm. Private collection.

甲乙流兵書七:神通之卷

甲乙流兵書七:神通之卷 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書七:神通之卷. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.3 cm. Private collection.

因陽隱士
令和六年三月晦日編

所藏史料紹介:大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
Hand scroll. Ink on paper. 30.2 x 596.7 cm. Private collection.

『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

所藏史料紹介:伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷 一卷 帋本墨書 16.4 x 351.7 cm 永祿七年九月十七日付 筆者藏

大坪流作之鞍鐙斷簡. Edo period. dated 永祿 7 (1564).
Hand scroll. Ink on paper. 16.4 x 351.7 cm. Private collection.

● 歸本軒宗仁・・・小笠原流の禮法書『宗仁聞書』を著す。長谷川宗仁同一人説あり。長谷川宗仁は、織田信長・豐臣秀吉・德川家康三公に仕える。茶法を武野紹鷗に受ける。
● 中嶋攝津守宗次・・・伊勢流の禮法書『中島攝津守宗次記』を著す。
因陽隱士
令和五年十二月廿四日編