無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

過去の日記 2023/04/23~

『神林流印可』筆者蔵

2025/8/15
この頃ようやくサイト更新の熱が高まってきました
しきりと伝書を点検しては、この筆跡はどうかな、この年代にこの紙質か、などゝ思索しつゝ日々を過しています

そのような日々を過す中、懐かしさを覚える伝書が出てきました、上掲画像

何が懐かしいのかというと、私が初めて買った時代小説が戸部新十郎氏の『幻剣 蜻蛉』だったのです
当時、剣道部に属していた私にとって、剣豪や剣術という存在は憧れそのものでした
本の内容こそあまり覚えていませんが、中条流(富田流)の富田一放が主人公の話
表記こそ違いますが、「富田一宝」は同人でしょう
まさか数十年後にその人物の古文書を手に取って眺めることになるとは、想像だにしなかったことです

かつて記した「大嶋流『印可』を讀む」に「富田一宝斎」の名が登場します

大島流の月瀬清信は、流祖大島吉綱に奥義を伝授された人物ですが、大島吉綱に師事する以前、慶長年のころ「富田一宝斎」に学んだと記されています

「富田」「戸田」「一宝」「一放」のような表記ゆれについては謎が多く、「富田一宝斎」本人の伝書をもう一巻所蔵しており、そこには「戸田一寶久次」と署名されています
何か事情があって表記を変えるのか、年代によって名乗りを変えるのか、よく分りませんね

因みに「富田一宝斎」は「神林流」という鎗術の一派を開いて指南していました
「神林流」は、『武藝流派大事典』にも載っていないため、早い段階で失伝したものと思われます

『神道流兵法之序』筆者蔵

2025/8/12
「伝書を眺める-〇〇流」、もう少し続ける積りです

気になる方もいるかもしれないので、ちょっと話して置きます
画像、手に取って撮影する意図は、そのものゝ質感を伝えるにはこの方が良いと判断したからです
平置きで物だけ撮った画像よりも、なんとなく臨場感を得られるのではないかと愚考しました

たゞ欠点として、この撮影の仕方は、文書そのものを傷める可能性があります
私はもう二十年以上毎日のように古文書を触っているので、よほどのことが無ければ、追ったり曲げたりするようなことは無いと思いますが、それでもかなり注意して撮影しています

2025/8/11
近ごろ、日課の習字を怠りがちです
進歩が見えず、毎日せずとも実力は変らないのではないかという疑念

このような愚痴をこぼしていると、なぜか少し気持ちが前向きになってきました
もう一度初心にかえって習字に取り組みます

2025/7/30
届きました『侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)』
これで既刊は全巻揃いました
売り切れてなくて良かったです
『侍中由緒帳』は井伊直興公のとき編纂され以後書き継がれたそうで
井伊直興公といえばちょうど風傳流の草刈次郎右衛門が指南役を勤めた若様ですね

彦根城博物館のページを貼っておきます
刊行物一覧
在庫状況が分らないのは不便
それとこの現代においてFAXや現金書留で購入という旧態依然とした取引方法です
なぜメールや銀行振込が出来ないのかと

連日暑いですね
剣道場で汗を流していたころを思えばこれぐらいの暑さ
なんてことはないと言いたいところですがその頃よりずいぶんと暑い気がします

2025/3/14

『蝙也齋行狀』を讀む

夢想願流松林左馬助の行狀を記した『蝙也齋行狀』を讀むを投稿しました。

令和七年三月十四日 因陽隱士

2025/3/11

所藏史料紹介:伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡
所藏史料紹介:疋田流三卷

次回は願立剣術の『蝙也齋行狀』を讀む、を投稿豫定です。

令和七年三月十一日 因陽隱士

2025/3/10

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

久しぶりの更新です。去年病を患い、身邊の環境も變化し、しばらく更新が滯っていました。
その間、このサイト「武術史料拾遺」について、存在の意義は有るか無いかなど、遲疑逡巡し、まことに病によって心まで弱くなるものかなと實感しました。
またその一方で、そもそもこのサイトは見返りなど一切期待しない、只管自分の好奇心と向上心とを滿たすことを目的として作ったのだと、改めて思い至り、今後も續けることを決意しました。
諸兄の期待の萬分の一にも沿うことのできない蕪穢のみ、淺學菲才の身を恥じ入るばかりです、どうか御容赦を。

令和七年三月十日 因陽隱士

7/28

武術史料拾遺餘滴-2

同じ餘滴を二つ作るという一見して無駄な行爲なのですが、實はサイトのデザイン變更には、非常な手間がゝゝるため、餘儀なく別サイトを立てることにしました。

筆蹟の良さを傳えたいとか、畫像とテキストとの配置を斯うしたいとか思うと、それに最適なデザインというものは、また一から構築しなければならず、そこに從來の內容をそのまゝ移すことも出來ず、とそんな次第です。

サイトの仕立を別角度にしてありますので、ほんの少し樂しめるのではないかと思います。

令和六年七月廿八日 因陽隱士

3/31

所藏史料紹介:御傳授居合極意大橫物幷神號

姬路藩三代藩主酒井忠道公、林崎流居合の極意を傳授、當大橫物を揮毫。
當時、公は在府しており、幕臣に傳授したものか、同藩に該當する人物はいない、箱書は幕府の御右筆靑木半藏の筆になる。
なお、公が林崎流の極意を傳授するほどの達人であったことは、記錄に見出せず、新たな發見と言える。
公について傳わるところは、天性學問を好み博識であったこと、筆蹟は見事で隸書を能くしたと。

令和六年三月丗一日 因陽隱士

3/30

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

去年十一月、雜記に觸れた甲乙流七卷を揭載。
關聯文書は無く、何れの家中の士か。

令和六年三月晦日 因陽隱士

昨今、NVIDIAの躍進たるや筆舌に盡くし難いものがあり、日々心を躍らせています。
AIの進化は著しく、世に、AI元年と言われるほどの隆盛ぶり。
破壞的イノベーション、產業革命。
今、私たちは途轍もない進步の出發點にいるのかもしれません。
一體、人類はどこまで行くのか、生きている間にその發展を見たいと思います。

12/24

所藏史料紹介:禰津流鷹序拔書斷卷

鷹術の傳書は一點のみ藏す。
祢津常安、德川家時代のものではなく、武田家時代のものである點に注目。

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

再び揭載。

令和五年十二月二十四日 因陽隱士

12/22

所藏史料紹介:禰津流獫牽祕書四卷

寒風吹きすさぶ本日、仕事納め。
寒威の衰えるまで籠城の構えです。

さて、改めて「獫牽(いぬひき)」の傳書を揭載。
今日、「犬牽」「犬引」の文字が普通ですが、當時の傳書には「獫牽」の字が宛てられています。

「獫牽」の職は、「鷹匠」の派生。狩に用いる犬の管理職ですね。ざっくり言うと。
それが、御犬さま・犬公方でお馴染み、あの時代になると、保護犬たちの管理職にもなります。これは狩で用いるわけではありませんね。

急遽、たくさんの犬を保護しようという流れから、「獫牽」の人員を增すため、鷹狩場の管理職「鳥見」の方面から、轉職させられた者もちらほらいたようです。
本傳書の「飯田長左衞門」もその一人。
「鳥見」から四谷の「犬小屋支配」を任されました。

あまり詳しいことは分っていません。
本傳書の時期は、旣に犬小屋を廢していたようですが、犬の扱い方を傳授していたようです。

宛名の人物について調べるため少々時間をかけました。
かけたほどの成果はなく、推測の域を出ない情報しか集められませんでした。

そもそも、本傳書の內、宛名を一にする三卷は、加賀八家の一つ前田近江守に仕えた武士が所藏していたものです。
そこから類推すれば、かつて大聖寺藩主前田利直公が四谷犬小屋の普請に關わっており、こゝで交りが出來、その後、家中の「獫牽」への傳授という流れがあったのではないかと。

『稿本金澤市史』に「犬牽」の記述があり、これは慶長まで遡ります。狩のため唐犬を用いていました。
その「犬牽」に、「才次郞」・「才兵衞」兄弟の名があり、何やら本傳書「才助」と關係があるのかな?と思わせます。
(この場合、大聖寺藩ではなく加賀藩の方です)

もう少し丹念に資料を探せば、あるいは「獫牽才助」を見付けることができるかもしれません、が取り敢えずこゝまで。

推測は推測、確證を得るまで現實とは關係ありません。

令和五年十二月二十二日 因陽隱士

追而。
宛名を一にする三卷の外、「伊藤才一郞」宛の一卷があります。
この人物は、加賀藩の「手明足輕」の名と一致します。
通稱が「才」ではじまり、もしかすると「獫牽才助」の苗字も「伊藤」かもしれませんね。
記憶が確かであれば、この一卷も同所から出たものです。

『獫名所』は、はじめ犬の部分名稱について觸れ、その後天竺より日本へ傳來した三つの犬の經緯について述べます、これは他人より尋ねられた際の答えとして。
『獫請取渡之卷』は、その題が示すように犬の請け渡しの作法、その際の應答などについて。
『唯授一人犬飼傳書』は、印可の證として傳授されました。
『祢津家獫之祕書』は、犬の日本への傳來にはじまり、繩の解釋や杖、犬の膳の組み樣、ツボに關する繪圖などが記されています。

12/18

所藏史料紹介:井上流二卷

そろそろ、劍術以外のものを揭載します。
手始めに、井上流砲術の傳書を。

令和五年十二月十八日 因陽隱士

12/16

日課の習字を始めて二年を經過。
每日一時間を費やし、運筆の術を學ぶわけですが、漫然としていても學びは無く、得られるものは”慣れ”のみ。
新たに何かを習得するためには、積極的に先達の術を見て眞似することが捷徑となります。
しかし、每日每日集中力を切らさず、習字に取り組めるかといえば、そうではなく、當然、たゞ”慣れ”るだけの漫然とした習字になることもあります。
これが全く駄目かといえばそうではなく、單純に筆を遣って書くという動作が、體と腦との連攜に確かな經驗を與えて吳れます(最善とは言えませんが、無駄ではないという逃げ場)。

私の習字の目的は、名人や達人と呼ばれるような能書を目指しているわけではありません(自身にその才能が無いことは、重々承知しています)。
習字によって得られた經驗が、古文書の筆蹟判別に大きく寄與することを期待しています。特に、筆の働きというものに注意していれば、微かな轉折にさえも氣付くべきものがあると思うのです。

取り敢えず、一萬時間を目標として、日々習字に取り組む積りです。

畫像の扇面は、先日臨書の最後にそのまゝの流れで書いたものです。
書道の方面では、淸書や作品として丹精込めて書くものがあるように思いますが、恐らく、私は一生そういう書き方をしないでしょう(わざわざ他人に上手だろうと見せるほどの字は書けませんし、それに相應しい人格も持っていません)。
敢えて、こゝに蕪穢を載せた心意は、習字に取り組む活力を得ることにあり、且つこのサイトは無機質に過ぎるので、ちょっと蛇足として。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

今年、殘すところ僅か半月。
振り返れば、SVB破綻、プリゴジンの亂、イスラエルと肝を冷やすこともありましたが、米國のCPIは順調に低下、先日のFOMCも無事通過しました。
先月、ほゞ仕事を終えたので、そろそろサイトを更新しようかと...

12/16

戶田一寶=富田一放?
上に揭げた傳書は、慶長七年のもの。
この時は、戶田氏を名乘っていますが、元和七年の傳書では富田一寶齋と名乘っています。實名は變らず同じ。
神林流の祖となる。

一放の名乘りは、同一人か?

富田流・戶田流・留田流、系譜が紛らわしいですね。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

12/15

所藏史料紹介、今年は劍術關係の史料のみに絞っていたゝめ、鎗術や柔術など、未だ揭載していない史料が數多あります。

こゝに擧げた傳書は、寳永の留田當流。
少しネットで檢索すると、Wikipediaの戶田當流がヒット、服部是右衞門正長まで同じです。

「現在は宮崎縣高千穗に祭りの棒術として殘っている」という、その關聯畫像と、この傳書の棒が似ていますね。

令和五年十二月十五日 因陽隱士

11/9

武術史料拾遺餘滴 / 古文書を讀む爲に
長らく放置したまゝ忘れていました。ログイン出来るか心配です。

 ○
寒くなってきました。
ふと氣がつき、所藏する文書群を點檢していると、蟲が湧いていました。
これは九年前に購入した家文書で、何事もなく保存していたものが、なぜ今になって蟲が湧くのか不思議でなりません。正月か春ぐらいにも點檢したのですが...
蟲が外から入ったという可能性は限りなく低いので、ちょっと困りましたね。

所藏する古文書は、大きい古文書箱だけでも百箱を超えています。これら全てを一人で點檢し續けるというのは、相當難義で、どうしても期間が空いてしまい結果蟲の浸蝕を許す。
そろそろ所藏文書を減らした方が良さそうです。

(卷物は滅多なことで蟲に喰われませんね。見たところ、裂で覆われていることが幸いしているようです)

令和五年十一月九日 因陽隱士

11/9

古文書蒐集のために活動中のこと、何氣なく目に入った額に途轍もない逸品がありました。
大鹽平八郞の書です。
「大袈裟なことを言うな、よく有る」と思われるかもしれません。

私が大鹽平八郞に興味を覺えたのは、八年前、書翰を購入したことがきっかけでした。
以來、書翰・掛軸・額など、數多く觀て得た結論は、本物は少ないということです。
特に、本物に相違なし、100%本物と言い切れるものは、更に少なく、これは自身の見識の低さゆえのことですが...
とはいえ、贋物が多いのは間違いなく、
世の中に「よく有る」と思われる大鹽の書は、ほとんど贋物と言って良いでしょう。
そういうわけで、本物に相違なし、100%本物と言い切れるこの大鹽の書は、途轍もない逸品と稱しても過言ではないのです。

關係ない話しですが、大鹽は佐分利流の鎗術を能く遣ったと傳えられています。

令和五年十一月九日 因陽隱士

「格物者格其心之物也。其意之物也。格其知之物也。正心正其物之心也。誠意者誠其物之意也。致知致其物之知也。自有大學以來。無此議論。此高明獨得之妙。夫豈淺陋之所能窺也邪。」

11/5

所藏史料紹介:新影流起請文
所藏史料の劍術關係の中、この史料は最も古く、年代順目次の先頭に配置。
古い時代の文書は冩が多く、兎角注意が必要です。

令和五年十一月五日 因陽隱士

11/3

本日は「所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷」を掲載。
圖卷は値が張りますね。近頃は散財を控えるため、倹約を旨としていますが、珍しい流派だと思いつい購入。
直近購入した新陰甲乙流の傳書も揭載したいですが、七卷あるため、ちょっと遲くなりそうです。畫像の取り込みとか色々と。

令和五年十一月三日 因陽隱士

11/2

所藏史料紹介:山野流斬法手前圖卷

備前岡山藩の繪師による圖。傳授された人は岡山藩の士かもしれませんね。
山野流は文字通り山野氏の開いた流派ですが、それ以前に師事した人物がおり、それが中川左平太。山田淺右衞門と山野氏とは同門だったようです。

令和五年十一月二日 因陽隱士

10/29

本日は「無名老翁岡本宣就筆唐詩卷」を揭載。これを揮毫した年月は明らかでないものゝ、原裝に着目すると、寬永の末から明曆の間、宣就晚年の筆と考えられます。跋にも「象嵌の老翳」「龜手の禿毫」の文言あり、老年であることを示しています。

令和五年十月二十九日 因陽隱士

10/28

本日は「國友一貫齋書簡を讀む」を揭載。これは以前揭載したものを改めたものです。
姬路藩の方の一貫齋書簡も追って揭載します。今囘の大野藩のように(この時は頓挫)、一貫齋は姬路にも訪れ、交涉を重ねて筒の註文を受けていました。姬路藩士の日記にその一聯の流れが、大まかではありますが記錄されています。

今囘の大野藩の時は、一貫齋患いのため訪問できなかったのですが、姬路藩の方なら訪問時の動向を知ることが出來るので、面白いはずです。

令和五年十月二十八日 因陽隱士

10/25

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

齋藤彌九郞龍善、練兵館の二代目。書は卷菱湖に學んだと傳えられています。菱湖は當時書壇において一世を風靡した人物ですが、卷菱湖(1777-1843)、齋藤龍善(1828-1888)、兩者の年齡を考慮すると、龍善元服頃まで學んだということ哉。或いは、菱湖流を能くする人物に繼續して師事したものか、詳しいことは傳わっていません。


書簡の文面ばかりでなく、その筆蹟を樂しむことも私の趣味の一つです。そのため、書幅も倂せて揭載しました。これは龍善四十三歲、明治三年五月の揮毫。その冠帽に捺された印文には「道理貫心肝」の一文が引かれており、これは『蘇軾文集卷五十一』の一節。「道理貫心肝.忠義塡骨髓」と續き、當時から好まれた文言で、水戶烈公や松平春嶽もこの一節を揮毫しています。

令和五年十月二十五日 因陽隱士

10/24

『物外不遷書簡』を讀む

本日は物外和尙の書簡を揭載。これを篋中に見出したときの喜び、古文書を蒐集している方ならば、察してくれるでしょう。
本項に書き洩らした點を補足すると、物外和尙が濟法寺から發した書簡です。

令和五年十月二十四日 因陽隱士

5/27 更新

所藏史料紹介に「圓明流三卷」を加えました。

全てのページの西曆換算について、一部誤差があると氣付きました。
未訂正です。

不正アクセスの爲、サイトの表示が重くなっているようです。

令和五年五月廿七日 因陽隱士

5/24 更新

所藏史料紹介に「一刀流兵法別傳天眞傳兵法二卷」を加えました。

令和五年五月廿四日 因陽隱士

5/20 更新豫定

今日は、吉岡憲法流の傳書を史料紹介に加えようと思います。

令和五年五月廿日 因陽隱士

5/15 更新

傳書の傳授日には、特別な意味をもつものがあり、また特別な意味をもたないものもあり、師弟間の調整で日付を決めることもあります。
槪して、傳書には傳授の年月日が記されるものですが、傳授されたにもかゝわらず、傳授日が記されいないものを稀に見ます。
本日更新した『念流正法兵法未來記卷』はその一つです。敢えて傳授日を記さない理由は?

令和五年五月十五日 因陽隱士

5/13 更新

所藏史料紹介に幕末の有名所を追加しました。當分の間、劍術に絞って更新します。

令和五年五月十三日 因陽隱士

5/6

現在、サイトは「所藏史料紹介」「~を讀む」「觀賞」の三つに分けて構成しています。
本來、「所藏史料紹介」は『武術史料拾遺』の中核として、全文飜刻、註釋付きで揭載するものですが、前記の如く、海外に丸ごとコピーしたページを作られるため、大幅に省略しています。

また、アクセス制限や閱覽制限付きといった適切な環境が整えば、本來の「所藏史料紹介」が出來ると考えています。

令和五年五月六日 因陽隱士

4/23 江戶時代の武術に關する古文書・古記錄を讀む。

現在、サーバの移行を完了し、表字速度は大幅に改善されました。
これに伴い、サイトの記事を見直しています。

サイトの設立は平成二十六年七月七日のこと、当初は「武術の古文書」と題していました。
その頃は、多くの方々に傳書の存在を廣めたく、またその內容が何かの役に立てばと思い、代價を求めず、多くの傳書を揭載し、譯文を作成して附し公開していました。
これは全て私の趣味であり娛樂として...

しかし、追々、海外にコピーサイトに類するものを作られ、甚だ不快な思いをしたことから、サイトの方針を轉換し、大幅に傳書の揭載を縮小することにしました。

それまで閲覧することを樂しみに來てくださっていた方々には申し譯なく思います。

海外からアクセス出來ないようにしたかったのですが、それも難しく、誰でも自由に閱覽できる環境が、無斷で丸ごとコピーしても良いという思い違いを生むのかもしれず、現在は何かアクセス制限や閲覧制限付きという形で公開できれば善いと考え、その適切な方法を模索しています。

なお、熱心に問い合わせて下さった方々に對し、諸々の事情によって返事できないまゝ、音沙汰無く今日に至り、申し譯なく思います。

令和五年四月廿三日 因陽隱士

『蝙也齋行狀』を讀む

『蝙也齋行狀』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、『蝙也齋行狀』です。蝙也齋は、夢想願流を開いた松林左馬助のこと。同流七巻の伝書や英名録と共に保管されていたものです。『所藏史料紹介:夢想願流居合次第』は、その七巻の内の一巻。

『蝙也齋行狀』に書かれていることは、既に知られていると思いますが、これ自体を取り上げた記事を見なかった爲、拙劣ながらも敢えて現代語訳を試みました。またその原文と、傳書中に書き込まれた朱筆に依って書き下しも載せてありますので、それぞれ見比べて文意を汲み取ってもらえれば幸いです。

蝙也齋行狀 松林氏左馬助永吉。別稱を無雲と曰ふ。晚年隱退して蝙也齋と號す。父は松林權左衞門永常。世〃(よゝ)上杉家に屬して景勝に使ふ。文祿二年癸巳の歲を以って、蝙也を信州川中嶋松代に生(むめ)り。
蝙也齋の行狀(生前の事蹟・言行を敍述した文章) 松林氏左馬助永吉は別稱を無雲と云う。晚年隱退して蝙也齋と號す。父松林權左衞門永常は代々上杉家に屬し景勝に仕えた。文祿二年癸巳の歲、信州川中嶋松代に蝙也を生む。

蝙也少(わか)かりしときより志を劍術に屬(はけま)し。常に自ら以爲(おもいらく)。夫れ劍術は兵家の先務也。士たらん者(もの)學ばずんはあるへからす。遠く劍術の濫觴(らんせう)を原(たつぬ)るに。其の源(みなもと)蚩尤(しゆう)より起れり。昔葛天廬(かつてんろ)の山發(ひら)けて金出づ。蚩尤受てこれを制して。以て劍鎧(けんかい)を爲せり。此れ劍の始り也。
蝙也は若かりしときより志を劍術に勵まし、常に考えていた。劍術というものは兵家が第一に爲すべき務めであり、士でありたい者は學ばないわけにはいかない、と。劍術の起源を原(たづ)ねれば、その源は蚩尤(しゆう)のときに始まる。昔、葛天廬(かつてんろ)という山から金が掘り出され、蚩尤はこれをもって劍や鎧を製造した。これが劍の始りである。
○<管子:數地篇>「昔葛天廬之山。發而出金。蚩尤受而制之。以爲劍・鎧・矛・戟。此劍之始也。」

爾來(しかしよりこのかた)天子より以て庶人に至るまてこれを用ひさると云ふこと無し。曾て聞く天子は二十にして冠(かんふり)して劍を帶び。諸侯は三十にして冠して劍を帶ひ。大夫は四十にして冠して劍を帶ひ。隸人は冠することを得す。庶人は事有れは劍を帶ることを得たり。禮の興(おこ)る所也。
それから天子より庶人に至るまで、劍を用いないということは無かった。曾て耳にした、天子は二十歲にして冠して劍を帶びる、諸侯は三十歲にして冠して劍を帶びる、大夫は四十歲にして冠して劍を帶びる、隸人は冠することはできない、庶人は事有れば劍を帶びることができた。この邊りから禮が興ったのである。
○<賈子>「古者天子二十而冠帶劍。諸侯三十而冠帶劍。大夫四十而冠帶劍。隸人不得冠。庶人有事得帶劍。無事不得帶劍。」

是の故に高祖は三尺の劍を提(ひつさ)けて、坐(いなか)ら天下を治む。此れ人君の[劍を]帶ふる所に非さるや。馮異(ひやうい)は玉具の劍を賜(たまはつ)て立(たちところ)に赤眉を擊つ。此れ武臣の帶ふる所に非さるや。
是に由てこれを觀れは古へより世〃重んする所貴と無く賤と無く。然れとも斯の翁始め師に從(したか)つて問はす。唯(たゝ)一旦豁然としてこれを得て自ら力を用ること久し。

こういうわけで、高祖は三尺の劍を提げて、居ながらにして天下を治められた。これこそ人君が劍を帶びる理由ではないだろうか。馮異(後漢の武將)は玉具の劍を賜り、たちどころに赤眉(叛亂軍)を擊った。これこそ武臣の劍を帶びる理由ではないだろうか。こういうわけで古(いにしへ)より世々劍を重んじる身分に貴賤は無かった。
しかしながら、蝙也翁は始め師に就いても問わず、唯(たゞ)ふとして悟り、これより自ら努力して長い時が經った。

○<史記>「高祖云吾以布衣提三尺劔取天下」
○<大學>「必使學者卽凡天下之物。莫不因其已知之理而益窮之。以求至乎其極。至於用力之久,而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗。無不到。而吾心之全體大用。無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。」

慶長十二丁未(ひのとのひつじ)の歲。年十有五の孟春二十三日の夜。靈夢を得て忽ち深居に入んこと思ふに。淺間嶽(あさまのたけ)南麓に往(ゆい)て。兩山の間に盤旋(はんせん)し。風飱(ぞん)露宿。努力すること三年。造次にも必す是に於てす。顚沛にも必す是に於てす。奇祥(きせう)異瑞(いつい)多は夢寐(むび)の間に在り。中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍を言はす。竟(つい)に自得活機(くはつき)の玅術を獲たり。
慶長十二年正月二十三日の夜、十五才のとき、靈夢に導かれるようにして、俄かに奧深い處に閉じ籠ろうと思い立ち、淺間嶽の南麓に往き、兩山の間を廻り、露に宿し、風を餐とし、努力すること三年。僅かの時にも必ずこれを忘れず、僅かの間にも必ずこれを忘れなかった。奇祥・異瑞の多くは夢寐の間に在るもので、中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍は言うまでもなく、竟(つい)に自得して活機の玅術を獲た。
○<論語>「君子無終食之間違仁。造次必於是。顚沛必於是。」

旣にして山を出て殺活(せつくはつ)兼ね施(ほとこ)し。進退時に中す。其の脫著(たつちやく)自由なること。譬(たと)へは雲無心にして岫(くき)を出つるか如し。僉(みな)曰ふ。無雲號名其の旨を得たり。又當流を謂(いつ)て自ら願立(くはんりう)と曰ふ。人其の故を問ふ。曰く吾今心の願ふ所を成就するを以て別に一流を立つる也。
やがて山を出て殺活を合わせて施し、進退見事であった。その脫著自由な樣は、譬(たと)えば、雲は無心にして岫(山穴)から出るが如く、皆が「無雲という號名は言い得て妙である」と稱した。また當流を自ら願立と言った。人がその譯を問うと、答えて言うには、「私は今心の願う所を成就したから、旣存の流儀とは別に一流を立てたのだ」と。
○<臨濟錄>「儞若慾得生死去往脫著自由卽今識取聽法底人無形無相無根無本無住處活鱍鱍地」
○<陶淵明:歸去來辭>「雲無心出岫。鳥倦飛忘歸。」
○<大藏經:閏六>「若慾成就別法。先誦此呪十萬遍。一日一夜必須斷食設大供養。取遏迦木作火。烏麻牛酪酥蜜呪一千八遍少少投其火中卽得成就。心所願者皆得圓滿。」

諸邦に之(ゆい)て他流と相對するときんは戦(たゝかつ)て勝たさると云ふこと無し。打て利せさると云ふこと無し。此の如く經行すること七年。或は初め從(よ)り學んて弟子と爲(な)り。或は自流を捨てゝ當流に降(かう)し。深く斯の術を慕ふか爲に。禮を設(まふ)けこれを招く者有るときは。經過(けいくは)せさると云ふこと無し。
諸國に往き他流と相對するときは、戰って勝たないということは無く、打って不利ということは無かった。此くの如く、修行すること七年。或は初めより學んで當流の弟子となり、或は自流を捨てゝ當流に降った。深くこの術を慕うあまり、禮を篤くして私を招く者がいるときは、決して見過ごすことは無かった。

居を卜(ほく)し廬を結び敎て歲月を歷者其の數少からす。至若(しかのみならす)伊奈氏の佳招に因て。居を武州赤山に移して。家住すること十有餘歲。其の後府君(ふくん)忠宗(たゝむね)公彼の術の奇なるを聞て。伊奈氏に謂(いつ)て曰く。願くは蝙也を城下に招いて。適子光宗(みつむね)の師と爲さん。奈何哉(いかんそや)。伊奈氏卽ち其の命に應して。蝙也をして仙臺に使いせしむ。
居所を定め廬(いおり)を結び敎授していると、長い歲月が經った。そればかりでなく、伊奈氏の厚い招きによって、居を武州赤山に移して、住むこと十年餘り。その後、府君伊達忠宗公が蝙也の術の珍しきことを聞き、伊奈氏に言うには、「願くは、蝙也を城下に招いて、嫡子光宗の師にしたい、どうであろうか?」と。伊奈氏は直ちにその命に應じて、蝙也を仙臺に招聘した。

寬永二十年癸未の歲。果して光宗君の師と爲る。時に五十一歲也。光宗君不幸短命にして早く。簀(せき)を易(か)ゆると雖も。常に忠宗公に侍(はんへつ)て。劍術を說くこと多年。これを懷(なつ)くるに和を以てし。これを養ふに安を以てす。恩惠(をんけい)勝(あけ)て算(かそ)ふへからす。
寬永二十年、果して蝙也は光宗君の師となった、時に五十一歲。光宗君は不幸短命にして早く逝ってしまったが、蝙也は常に忠宗公の近くに仕え、長い年月劍術を說き、和をもって親しみ、安をもって成長を促した。忠宗公から受けた恩惠を殘らず數えることはできないだろう。
○易簀・・・「曾子易簀」

慶安四年辛卯の歲。蝙也劍術を以て世に鳴る。其の聲高く將軍家光公の台聞に達して。乃(すなは)ち忠宗を仰て召してこれを照覽す。討太刀は弟子阿倍道是といふ者也。渠(かれ)と共に極至(きよくじ)向上の祕術を盡すときは。將軍家太(はなはた)これを奇として。三ひ退出するときは三ひこれを召す。便(すなは)ち安藤右京亮に命して。吳服三つこれを拜領す。中か一つ赤裡(あかうら)也。右京亮且つ吿けて曰く。將軍家汝の妙術賞美(せうび)の餘り。忝(かたしけな)くも此の赤裡を賜ふ。蓋し赤裡は人を賞して賜ふ所の服なりと云云。時に五十九歲也。美譽(びよ)芳聲(はうせい)數車(すしや)有りと謂つへし。
慶安四年、蝙也は劍術を以て世に知られた。その聲名は高く、將軍家光公の耳にも屆き、忠宗を召して蝙也を招きこれを照覽した。討太刀は弟子の阿倍道是というものが勤め、彼と共に極致向上の祕術を盡したところ、將軍家は甚だこれを珍しく思われ、三たび退出すると、三たびこれを繰り返させた。そして安藤右京亮に命じて、吳服三つを與えた。その中一つは赤裡(あかうら)であった。右京亮が吿げるには、「將軍家は汝の妙術を賞美のあまり、忝くもこの赤裡を賜ったのだ、察するに赤裡は人を賞して賜ふ所の服であろう」と云々。きっと、車に積むほどの名聲を得て天下に知られたことだろう。
○<贈魏三十七:李羣玉>「名珪似玉淨無瑕。美譽芳聲有數車。」

斯の翁嗣(つく)子無し。其の子(むすめ)を以てこれを仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て。家督に立つ。其の氏を同じうし其の家を讓る。退(しりそい)て隱居す。明曆元年乙未の歲。時に六十三歲也。
蝙也には嗣子が無く、その娘を仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て家を相續させ、その氏を同じくしその家を讓り、自身は隱居した。明曆元年、時に六十三歲。

實吉本姓は橫尾也。昔年(そのかみ)當家伊達氏の祖先藤原朝宗公。始て奧州下向の時。近臣有り扈從(こせふ)する者十七騎。橫尾右兵衞實充(さねみつ)其の一(いつ)に居れり。前(さき)の橫尾勢州實綱(さねつな)は。實充十五代の末裔(ばつえい)也。實吉又實綱季子(きし)也。
實吉、本姓は橫尾という。昔、當家伊達氏の祖先藤原朝宗公が始めて奧州に下向した時、近臣として扈從する者が十七騎あり、その中に橫尾右兵衞實充がいた。先代の橫尾勢州實綱は、實充より數えて十五代後の末裔であり、實吉は實綱の末子である。

斯の翁功成り身退くと雖も。弄(ろふ)するに劍術を以てすること日日に千有七百。年數の足らさることを知らす。復た謂つへし能く勤めを務めたりと。又每日念佛を唱(との)ふこと六萬返。疾病なりと雖も易(か)ゑす。彼の水鳥樹林念佛念法と曰ふか如きは。祖師禪法也。一念彌陀佛卽滅無量罪と曰ふか如きは。如來の敎法也。
蝙也は功を立て致仕した後も、劍術に沒頭し、日々劍を振ること千七百囘、壽命というものを知らないようだった。また勤めをよく果したと言うべきだろう。また、每日念佛を唱へること六萬返、病を患っても止めなかった。あの「水鳥樹林念佛念法」と云うものは、祖師の禪法である。「一念彌陀佛卽滅無量罪」と云うものは、如來の敎法である。
○「功成身退天之道也」
○「弄以劍術日日千有七百」の「千有七百」は、假に劍を振った囘數とする。
○<南浦文集:轉讀般若配帙>「有純一之敬心能務于勤」

梁山に頌(じゆ)有り曰く。金烏(きんう)東上人皆貴く。玉兎(きよくと)西沈(せいじん)佛祖迷ふ。擧(こ)す看(み)よ禪や敎や本二致無し。斯の翁知(しん)ぬ茲に通達すること。寬文七年丁未之歲閏二月朔日。行年七十五。臨終正念にして卒す。諡(をくりな)す洞雲月公(とううんけつこう)と曰ふ。元祿六年癸酉十二月二十四日これを書く。
梁山の頌(じゅ)に、「金烏(日)が東に上れば人皆貴く、玉兎(月)が西に沈めば佛祖迷ふ」と云う。禪といゝ敎といゝ、元から異なることは無い。蝙也は悟った、この境地に達したことを。寬文七年閏二月朔日、行年七十五。末期に臨んで心は平らかにして逝く。諡は洞雲月公。元祿六年十二月二十四日、これを書く。
○<禪林類聚>「梁山僧問祖意敎意是同是別師云金烏東上人皆貴玉兎西佛祖迷」

註 太字:譯文 赤字:解說

現代語譯の難しさを改めて實感しました。
何が難しいのか?
一つに、どの程度の現代語に譯すのが適切かということ。これは歷史小說を讀める人なら讀めるだろうと想定して。ただ、見慣れない單語が頻出して讀みにくいのは仕方なしと諦めました。
一つに、私自身の語彙力の無さ。日頃から、古文書を讀んでも現代語に置き換えないので、そう容易く適切な譯が思い付かない。恐らく、原文への理解の淺さが露呈したものかと思いつゝ、自身の勉强にもなると思い譯しました。
一つに、この手の傳書は、根柢に漢籍や唐詩、禪語への理解を求められます。つまり、讀者は敎養として知っているだろうという前提のもと、漢籍・唐詩・禪語などから語句を引用するので、短い語句といえども、それを用いた意圖が壓縮されている爲、一つ一つ調べなければなりません。

難しいと言っても、これらは特別なことではなく、當然のことであり、漢文を讀むときは、およそ斯ういった過程を踏みますが、今囘は取り分けて讀みやすい現代語譯を試みた結果、悩みました。

令和七年三月十四日 因陽隱士著

參考史料 『蝙也齋行狀』筆者藏

伊勢流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡 一卷 帋本墨書 18.0 x 123.3 cm 慶長九年正月朔日付 筆者藏

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡. Edo period. dated 慶長 9 (1601).
Hand scroll. Ink on paper. 18.0 x 123.3 cm. Private collection.

● 毛利伊勢守藤原朝臣高政・・・本名友重。姓藤原氏。字九郞左衞門。從五位下伊勢守。豐臣秀吉に仕え後豐後佐伯藩の初代藩主となる。伊勢守流炮術の祖。
因陽隱士
令和七年三月十一日編

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

『瀧野遊軒墓誌銘』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、起倒流を弘めた瀧野遊軒の墳墓を描いた『瀧野遊軒墳墓圖』です。瀧野遊軒については、このサイトを訪れる方々ならばご存じかと思います。依て、先ず『瀧野遊軒墳墓圖』について、槪要を述べます。

▽瀧野遊軒墳墓圖の槪要
1.本圖は、瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺に在った墓の圖。
2.全得寺の墓は、寳曆十二年門人等によって建てられた。
3.本圖を記した者は、瀧野遊軒の門人藤堂安貞。但し、本圖はその寫。
4.本圖のほかに、類似の圖を見ない。
5.本圖は丹波篠山藩の起倒流指南役の鈴木家が所藏した。鈴木家の四代目は瀧野遊軒の直弟子。
6.瀧野遊軒の墓は、全得寺のほかに數箇所在る。

瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺は、江戶切繪圖の中に見出せる。圖中には「全徳寺」とある。書家として名を馳せた市河米庵の居處に近い。現代ならば、東京都臺東區入谷一丁目にある入谷驛の北北東250mほどの場所か。

『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション
『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション

『諸宗作事圖帳』に、全得寺が寺社奉行へ提出した寺圖面を見出せる。これによれば、墓所は隣接する本間意格抱屋敷の側に在った。

『諸宗作事圖帳 [127] (百七十七)(000007297828) 』國立國會圖書館デジタルコレクション

扨て、今囘の本題はその墓の右側面に記された「瀧野遊軒墓誌銘」です。墓誌は、もと支那の傳統にて形式あり、古代より甚だ多く、その文を名家に依賴するものは唐代より盛んになったと云われています。

柔の剛を制するは天理令然なり、兵に柔術有れば能く驍勇を挫く
柔が剛を制するのは、天の理がそうさせる。ゆえに、一兵卒といえども柔術が有れば驍勇の者さえ挫くことができる。

其の業に粹なる者は先つ福野氏有り、これを起倒流と謂ふ
その業(柔術)を極めた者に先づ福野氏有り、これを起倒流と謂う。

福野は三浦氏・茨木氏に傳ふ、茨木は寺田氏に傳ふ、寺田は其の子正重に傳ふ、正重は吉村扶壽に傳ふ、扶壽は堀田賴庸に傳ふ、賴庸は瀧野擧嶢に傳ふ
福野は三浦氏・茨木氏に傳え、茨木は寺田氏に傳え、寺田はその子正重に傳え、正重は吉村扶壽に傳え、扶壽は堀田賴庸に傳え、賴庸は瀧野擧嶢に傳えた。

擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號す、西京に浪華に其の術大ひに行はる、後來東都に弟子增〃多く其の門に登る者蓋し三千餘
瀧野擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號した。西京に浪華にその術は大いに行はれた。後來東都に行き弟子增々多くなり、その門に入るものは三千餘を數えるだろう。

寳曆壬午疾を以て卒す、春秋六十八、下谷金峯山全得寺に葬る、東都門人等寘墓に刻銘し、以て碩恩に酬んと欲す
寳曆壬午の年、疾(やま)いによって卒する。この時六十八、下谷金峯山全得寺に葬る。東都の門人たちは、寘墓にその事績を刻み、以て師の碩恩に酬いようと考えた。

其の余に親しき者、これに勤めんことを乞ひ銘と爲す、銘に曰く、「術は無住に到り、鬼神も圖り難く 瞻れば前にあり忽ち後ろにあり 或は有或は無 瀧野の兵に於けるや 能く其の途に入る 三千の弟子 傳へて器は朽ちす」と
その中に余(私)に親しき者がいて、その銘文を考えてほしいと乞うので出來た銘文はこの通り。「術というものは無住に到れば、鬼神も圖(はか)り難く、瞻(み)れば前にあり忽ち後ろにあり、自由自在、或いは有、或いは無、捉えることなど出来ない、瀧野遊軒の兵術に於けるや、能くその域に達している、その兵術は三千の弟子が傳えて朽ちることはない」

寳曆癸未夏五、賜紫沙門濟松寺大鼎志(しる)す
寳曆癸未は、寳曆十三年。碑文の原文を書いたものは、濟松寺九世住職大鼎禪圭。

註 太字:譯文 赤字:解說

久しぶりの投稿です。
今囘は、柔術史を語る上で缺くことのできない起倒流、その瀧野遊軒に關する古文書を取り上げました。
墓誌そのものに何か新奇なことが書かれているわけではありません。しかし、瀧野の門人であった藤堂安貞が墓前において、暫しの間師に思いを馳せ、墓を寫し取った旨が記錄されており、今日においてもその樣子を思い浮かべることができます。
「若葉の木のもとにしはらく靜坐すれど音もなく香もなし」と、墓前に坐す藤堂安貞。そして、一句「ほとゝきす來て一聲ほとゝきす」。

この墓について詳らかにしたものを他に見なかったことから、拙いながらも敢えてこれを記事にした意圖を察してください。

令和六年三月十日 因陽隱士著

參考史料 『瀧野遊軒先生墳墓圖』筆者藏

林崎流居合御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號 一幅 帋本墨書 40.0 x 104.0 cm 文化十一年甲戌正月二十五日付 筆者藏

御傳授居合極意大橫物幷神號. Edo period. dated 文化 11 (1814).
Hand scroll. Ink on paper. 40.0 x 104.0 cm. Private collection.

● 從四位下行雅樂頭源朝臣忠道・・・酒井忠道公.從四位下雅樂頭.播磨國姬路城主.櫻田御火消.當橫物揮毫の同年九月晦日隱居.天保八丁酉七月廿三日御逝去.御年六十一歲、法諡率性院殿曆堂源祁大居士.
因陽隱士
令和六年三月丗一日編

甲乙流兵書七卷

甲乙流兵書一

甲乙流兵書一 一卷 帋本墨書 18.1 x 180.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書一. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 180.3 cm. Private collection.

甲乙流兵書二

甲乙流兵書二 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.0 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書二. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.0 cm. Private collection.

甲乙流兵書三

甲乙流兵書三 一卷 帋本墨書 18.1 x 87.2 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書三. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 87.2 cm. Private collection.

甲乙流兵書四

甲乙流兵書四 一卷 帋本墨書 18.1 x 86.6 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書四. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 86.6 cm. Private collection.

甲乙流兵書五

甲乙流兵書五 一卷 帋本墨書 18.1 x 118.5 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書五. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 118.5 cm. Private collection.

甲乙流兵書六

甲乙流兵書六 一卷 帋本墨書 18.1 x 190.8 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書六. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 190.8 cm. Private collection.

甲乙流兵書七:神通之卷

甲乙流兵書七:神通之卷 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書七:神通之卷. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.3 cm. Private collection.

因陽隱士
令和六年三月晦日編

大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
Hand scroll. Ink on paper. 30.2 x 596.7 cm. Private collection.

『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷 一卷 帋本墨書 16.4 x 351.7 cm 天文廿年十二月日付 筆者藏

大坪流作之鞍鐙斷簡. Muromachi period. dated 天文 20 (1551).
Hand scroll. Ink on paper. 16.4 x 351.7 cm. Private collection.

● 歸本軒宗仁・・・小笠原流の禮法書『宗仁聞書』を著す。長谷川宗仁同一人説あり。長谷川宗仁は、織田信長・豐臣秀吉・德川家康三公に仕えた。茶法を武野紹鷗に學ぶ。
● 中嶋攝津守宗次・・・伊勢流の禮法書『中島攝津守宗次記』を著す。
因陽隱士
令和五年十二月廿四日編

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷 一卷 帋本墨書 20.2 x 350.5 cm 元祿十年卯の三月吉日付 筆者藏

天下無雙姉河流鑓外物卷. Edo period. dated 元祿 10 (1697).
Hand scroll. Ink on paper. 20.2 x 350.5 cm. Private collection.

● 姉川新左衛門安知・・・肥前の人。姉河流の祖。澁江公茂に寳藏院流を學ぶ。佐賀藩の多久邑・諫早に行われたと云う。
因陽隱士
令和五年十二月廿六日編