竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25

片山伯耆守久安:片山流居合免状

『片山流居合免状』筆者蔵

已に「『片山流免狀』を讀む」で取り上げた古文書です
この記事を改めて見直すと、文脈に不自然なところがあり、訂正しようと思いつゝそのまゝになっています、すみません

表装などは撮影していなかったので、今回は雰囲気さえ伝われば良いかな、と思っています

『片山流居合免状』筆者蔵

星野家旧蔵文書の中に、数点この手の表装がされています
そのどれもが画像のように、バラバラになっています
糊が弱過ぎた所為かな?
さほど古いものではないのですが...
あまり良い仕立てゞはないのかもしれません

『片山流居合免状』筆者蔵

この料紙と筆跡の組み合わせは、いつ見ても抜群に良い雰囲気です

『片山流居合免状』筆者蔵
巻末のところも少し臺紙から剥がれています この剥がれたところが、巻くとき引っ掛かるので、傷まないように注意しなければなりません
因陽隠士記す
2025.8.22

窪田清音の書簡を読む

はじめに

今回は幕末における兵学の権威窪田清音の書簡を読みます

窪田清音は、禄二百五十俵(役高千五百俵、文久三年時)を食む将軍家の旗本にて、武藝諸流を極め、就中山鹿流の兵学を以て世に知られた人物です
天保から慶應にかけて活躍し、数多くの著書を残しました

さて、今回取り上げる窪田清音の書簡は、信州松代真田家の臣飯島勝休へ宛てゝ認められたものです

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

いつごろ書かれたものか?

はじめに、この書簡はいつ書かれたものか?という点を明らかにしなければなりません

書中に「追々年とり近来七十七才に相成り」と記されているから簡単、寛政三年の生年に照らして「慶應二年」と推定できそうです

しかし、そうでしょうか?
仮に「七十七歳=慶応二年」として書面を見ると、「御用多の本勤御持筒頭勤の義、泊り斗り相勤め」という点に引っ掛ります
というのも、窪田清音が「御持筒頭」を勤めていた時期は、『柳営補任』によれば文久三年正月十三日から元治元年九月廿日の間、すなわち慶應二年は「御持筒頭」ではないため、「七十七歳=慶応二年」という仮定は成り立ちません

そこで『江戸幕臣人名事典』に目を通すと、「亥七十六歳」という記述を見出せます
「亥年=文久三年=七十六歳」、これは「生年」でなく「官年」というものです
官年はイコール実年齢ではなく、公的年齢というものですね

その官年に基づいて、仮に「文久四年=七十七歳」とすれば、先ほどの「御持筒頭」を勤めた期間に符合します
また「御本丸二丸炎上」や「御上洛被仰出」といった記述も文久三年の出来事として符合します
つまり、私的書簡においても表向きは官年で通していたということでしょう

以上の事から、本書簡は「文久四年」に認められたと推定できます

さらに、書中の「當正月廿八日初めて佛参に出で候斗り」という文言を考慮すると、実際に書簡が認められた日付は「文久四年正月廿八日」以降と考えられますが、書簡自体は「文久四年正月三日付」にて認められたということです

前置きはこの辺にして、いよいよ文面について見てみましょう

*御持筒頭とは、平たく言えば将軍直属の鉄炮隊の隊長であり、平時は江戸城本丸の「中之門」と西丸の「中仕切門」、二丸の「銅門」などの警備に当りました
およそ四組で固定されていて、窪田清音の場合は「與力十騎、同心五十五人」を預かる頭職でした

近海御備場見分御用

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『浦賀猿島上総房州台場絵図』国立国会図書館蔵+臺場筆者註

上に掲げた『浦賀猿島上総房州台場絵図』には、「近海御備場見分御用」によって窪田清音が見分した場所を書き込んであります(左=北)

*臺場とは、異国舩を砲撃するため沿岸に設けられた砲臺場を指します
臺場は地形に応じて設計され、敵船からの砲撃を防ぐ外壁を回らし、周辺に火薬庫や人足寄場などが併設されました

書中にいう「鋸山」と「浦山」はもっと南にあります

窪田清音が命じられた「近海御備場見分御用」とはどういった御用でしょうか?
そのまゝ読むと「[江戸]近海の御備場を見分する御用」です

何を見分したのでしょうか?
具体的史料は見当たりませんが、ペリー来航以前、幕府は「近海御備向見分御用」という名目にて、勘定奉行・目付・老中・鉄炮方・浦賀奉行・代官等を度々派遣しており
このときの御用向きから推測すると、「近海御備場見分御用」とは外寇に備えて防禦の要地をを固めるため兵士を置く場所「御固向」、その人数の配分「御固人数割」、異国舩を砲撃するための「御臺場」、その火砲火力の配分「御筒配り等然るべき場所」等を見分していたと考えられます

今回の窪田清音の場合は、従来の「御備向」を見直すことに眼目があったと見るべきでしょう
そしておそらくは二~三人がこの任に当ったと思われます

『浦賀猿島上総房州台場絵図』中、「籏山」の直ぐ右に「観音崎臺場」があります
この辺りと対岸の「冨津(ふっつ)」辺とを結ぶ線は、江戸湾防禦上、最も重要と認識されてきた要害の地です
すなわち、「近海御備場見分御用」を仰せ付かった窪田清音は、江戸湾防禦の要「観音崎~冨津」の臺場群辺りとそれより南の臺場とを視察する任を与えられたわけです
このことから幕閣は、彼の兵学の知識と経験とに期待していたものと察せられます

これ以前、湾口には多数の臺場が築造され、異国舩に備えていました
しかし通商條約締結後、「観音崎~冨津」の線より南はほとんど顧みられなくなり、かわって内海の品川辺の臺場が重要視され活発に築造されるようになりました

 
Google地図+筆者註

文久三年三月廿日、窪田清音は「近海御備場見分御用」を仰せ付かり、同月晦日昼頃に御朱印を渡され直ちに見分のため出立しました
「相模の浦賀西・東」を初め、「猿嶌邊の海陸」「上総の竹か岡」へ廻り、「冨津邊の出洲・隠し洲左右舟路の前後」を廻り、それから「安房の海岸」と「房総の境,鋸山前後」、さらに「浦山」へ乗り戻って、再び「旗山邊」「猿嶌」を一周して「浦賀」へ立ち帰り、一泊して取り調べ、そして四月十八日江戸に到着、十九日には登城して届けをし御朱印を返納しました
御朱印はどうやら身元証明と通行証を兼ねるもので一時的に貸与されたようです

御朱印を返納した後は、調査結果をまとめ「進達書・繪圖面等」を提出しました
これによって清音は後日「海陸御備向御用掛」を仰せ付かります

清音が見分御用を勤めたこの時期、幕閣は江戸湾防禦の見直しを計っていたようで、文久三年五月、それまで熊本藩が警衛を担当していた「西岸(観音崎辺)」の警衛を佐賀藩・松本藩・佐倉藩に替え、「品川臺場」の警衛についても同年八月~十月に四ヶ所の担当藩を替え、「神奈川・横浜」の警衛も担当藩を大幅に替えるなどしています

窪田清音が幕府へ提出した調査結果がどのようなものだったのか明らかでありませんが、報告の後ち「海陸御備向御用掛」に任じられていることからして、幕閣に認められる内容だったと考えて良さそうです

然れども、窪田清音の本勤は「御持筒頭」でしたから、「海陸御備向御用掛」と兼勤ということになります
これによって本勤の方は泊り番を専らすることになり、朝から夕方までは「海陸御備向御用掛」を勤めることになりました
これがよほど忙しかったらしく、「昨三月廿日前文近海見分仰せ付けられ候後、いまたに手透之れ無き次第に付き」や「去三月廿二日後は書籍も壱枚見候寸暇も之れ無く、困労斗りいたし申し候」などゝ,当時の繁忙ぶりを伝えています

御持筒頭の本勤

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
Google地図+筆者註
『御城御玄関より大下馬迄之圖』国立国会図書館蔵+筆者註

上に掲げた『御城御玄関より大下馬迄之圖』には窪田清音が本勤として勤めていた「大手三の御門」を、「Google地図」には「大手三の御門」と「新規下乗所[場所不明・推測地]」を書き込んであります

窪田清音は昼から夕まで「海陸御備向御用掛」を勤め、暮れ六つ[午後五時から七時]から朝四つ半[午前十時半から十一時]までは「御持筒頭の本勤」、すなわち門番に従事していました

「御持筒頭」の勤めは、同役が七人いたと記されています
推測するに、「御持弓頭」「御持筒頭」の七人が該当すると思われます

御持弓頭
 内藤矩正[63歳]
 市橋長賢[45歳]
 水野勝賢[60歳]
御持筒頭
 門奈直知
 松前廣茂[78歳]
 和田惟明[55歳]
 窪田清音[76歳]

窪田清音は高齢ですが、さらに高齢の人物もいました
「頭」という職分ゆえ高齢の人物が多かったのかもしれません

文久三年十二月までは「大手三の御門」の当番をこの七人で勤めていました
おそらく二人から三人が交代で休みをとったものと思われます

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

同年十二月廿一日になると、将軍上洛の御供として当番七人の内四人が旅立つことになります
またその上、残された江戸勤め三人の内一人が病氣のため引っ込み、たった二人で当番を勤めることになってしまいます
このため餘程忙しかったらしく、二日続きの泊り番にて帰宅の間が半日も無いほどだった、と清音は知らせています

そのような忙しい勤務状況を上役が考慮したものか、火事の後に新設されたと思しき「新規植溜御屋敷下下乗の方」の勤めは御免となり、隔日の勤めとなったところ、病氣の一人も復帰しようやく三番勤めとなり、やゝ忙しさも緩和したかに思われましたが...
清音は御供で旅立ったあとの留守組を二組与り「御切米御扶持家事万事引き受け」世話もしていたゝめ、「十二月廿一日より御城に斗り詰め切り」という勤務の状況でした

結局、文久三年三月廿日「近海御備場見分御用」を仰せ付かって以来、繁忙のまゝ日々を送り、文久四年正月廿八日に初めて佛参に行ったきり、ほかには何の餘暇も無いほど勤めが忙しく、書簡を差し出すことさえ出来なかったと事情を説明し、遅れに遅れた非礼を詫びるなどして、この書簡を締め括っています

伊勢貞丈の筆跡

『伊勢貞丈書付:宝暦辛巳秋九月望日付』筆者蔵

軸装された書簡の最上段に配置されたこの書付についても簡単に触れて置きます

この書付は、書中に記されていた「貞丈師の真筆、又々かきすて物のはし」です
貞丈師というのは将軍家の旗本伊勢貞丈のこと、故実の権威ですね

そして書簡を送られた飯島勝休もまた故実家で、その伊勢家に師事し武家故実の奥秘を極めました
勝休以前の代も伊勢家に師事しており、伊勢貞丈にも師事しています
このようなことから、先師伊勢貞丈の筆跡を求めたのではないでしょうか

伊勢貞丈の筆跡には何が書かれているのか?

書付に登場する「佐橋佳栄」、この人は村上正直の次男
村上正直は徳川家宣公に仕え、御家人の身分から累進し千五百五十石を知行した旗本です
次男として生れた佳栄は、同じく幕府の旗本である佐橋佳周の遺跡を継ぎ、御小姓組に列なりました
書付には「同僚」と記されています

佐橋佳栄はある日、先祖伝来の馬鎧馬面のことを伊勢貞丈に語り、これを聞いた貞丈は是非とも見たいと佳栄に頼みました
願いが叶って馬鎧馬面を実見し作図して、後日この通りの物を作って馬に装着し騎乗したいものだ、と貞丈は記しています

この書付は、元は馬鎧馬面の図に附属したものと思われます

おわりに

窪田清音の書簡を読んでみて、いかゞでしたか?
今回の書簡を”読む”は、たゞ読むのではなく、そのもう一つ向う側を読むという趣旨です

窪田清音は武藝者としての面ばかり注目される人物ですが、その一方幕府の海防に携わり、高齢にもかゝわらず繁忙な日々を送っていた
このような知られざる一面を知ってもらえたら嬉しい限りです

参考文献『維新史料綱要』『幕末海防史の研究』『勝海舟全集』『日本兵法全集5:山鹿流兵法』『大日本近世史料:柳営補任』『新訂寛政重修諸家譜』『江戸幕臣人名事典』『寛政譜以降旗本家百科事典』『日本史籍協會叢書134:鈴木大雜集』『東京市史外編:講武所』
因陽隠士記す
2025.8.21

窪田清音:田宮流剣法道具之記

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

窪田清音の著作

窪田清音は数多の著書を残しており、その中で武道関係といえば『劒道集義』『續劒道集義』に数多く採録されていることはご存じのとおり
また、国立国会図書館に堀江四郎宛の写本が数多く所蔵されているようです*1

今回こゝに紹介する『田宮流剣法道具之記』もまた窪田清音の数多ある著作の中の一つで、尾張藩付家老成瀬家の家臣が所持した写本です
ざっと調べたところ、類似の写本を見出せないことから、こゝで紹介して置こうと思いました

私の調べ方が甘いせいで見付けられていない丈けかもしれません
既出の文書であれば教えてください

1…『剣道の技の大系と技術化について-田宮流窪田清音の著作『形状記』を中心として-』

何が書かれているのか?

書かれている内容は、上掲の画像に説明されている通り、窪田清音の教え子たちに向けて、古製の稽古道具を図入りで解説したものです

清音の教え子たちは、清音が改良した稽古道具を使っていたゝめ、古製の稽古道具を知らなかったという事情により

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

文政元年の著作となれば、窪田清音の年齢は二十八歳
写されたのは安政のころ

巻末には「追加」として、後年の武術上覧の様子が綴られています

因陽隠士記す
2025.8.20

上泉孫四郎:上泉流居合目録巻

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

表具はありません、はじめから表装されていなかったと考えられます
古伝書*4にまゝ見受けられる仕様で、伝書を表装することがまだ一般的でなかったのでしょう

私が調べた範囲では、寛永のころから伝書に表具するという観念が広まったように思います

4…古伝書という言葉は存在しませんが、私は元和以前のものを古伝書と呼んでいます

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

「上泉孫四郎 藤原胤綱」と署名されています
上泉孫四郎は多くの別名を持つが、「胤綱」の実名はこの伝書のほかに確認されていません

実名と花押のところに捺された印章は、おそらく「知識明」と彫られています

なお、この伝書は彦根井伊家の念流指南役上坂家の旧蔵文書です
上泉孫四郎は、井伊直政公に寄食していたという*1から、そのころ彦根家中の上坂氏に伝授したものかと推測しています*2(推測の域を出ません)

そして、長野無楽斎もまた井伊直政公に仕え、五百石、九十餘歳で没したと云います3

風傳流の元祖中山吉成も井伊家に出入りしており、念流の友松偽庵も仕えていたりと、武術方面では有名な人物たちがいたのですね

1…『武藝流派大事典』
2…宛名の部分が無いという点を考慮すると、全く別の可能性も考えられます
たとえば、1)身分の高い人物に差し上げた、2)内密に伝書を譲るとき宛名部分を切り取った
3…『武藝流派大事典』、このくだりは『会津藩教育考』を出典とする

*流名については「夢想流」とすべきか悩みましたが、当時の称が分らないため、仮に「上泉流」としました

参考文献『武藝流派大事典』
因陽隠士記す
2025.8.17

小菅精哲:無双直伝流心慮之巻

『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵
『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵

湿気によって傷んだものか、ほんの少しの力でも破れかねないほど料紙が脆弱になっています

これ以上損傷させないために、裏打ちを依頼した方が良いかなと思うも、その一方で伝書の類いの料紙はきつく巻き込むように癖がついているため、上手く裏打ちできるのだろうかという一抹の不安を覚え、現状のまゝ保管しています

裏打ちの何が不安なのかというと
これまでに裏打ちした伝書をいくつか見てきましたが、どれも綺麗に裏打ちできているという雰囲気ではなく、何か違和感を覚える裏打ちばかりでした
妙にゴワゴワしていたり、料紙の巻き癖に馴染まず反りかえるようなものなど

現在のところ、極力触らないようにしています
触れば触るほど傷むため、購入してから三度しか開いていません(涙)

『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵

小菅精哲(荒井政次)
居合・剣術・和の三術を江府に於いて教え、門下五千余、その内八百三拾七人に和の免許を与え、五百三人に和の印可を与え.四十三人に三術を許したと手元の剱雄源海流伝書に記されています

「因て茲に僕、和・水の二字を以て証し抒[の]へ、事理を演説して心慮の軸と為し、之れを授け畢ぬ」
なお、『心慮之巻』は小菅精哲以降も同流において踏襲され伝授されました

印章は耳壺に「寶」の字か
耳壺形は師である長谷川英信に倣ったものかもしれませんね

『江戸時代村落における武術の一事例-滝沢家文書について-』榎本鐘司著
参考文献『江戸時代村落における武術の一事例-滝沢家文書について-』
因陽隠士記す
2025.8.18

煤孫信重:長谷川流居合抜剣巻

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

この辺は落書きされています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていてもそのまゝにしています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

煤孫信重、通称の多兵衛は太兵衛とも書く
陸奥仙臺伊達家の家臣
伊達綱村公のとき、元禄八年九月十八日跡式を相続した
今見られる資料で分る履歴はこれだけです

なお、煤孫氏は元を辿れば須々孫(すすまご)氏といって和賀氏の一族で、須々孫義和のとき、煤孫を名乗ったとされています
煤孫信重もこの一族の血をひくと思われます

『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』国立国会図書館000001792456

『長谷川流居合抜剣巻』は、『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』に採録されています

その翻刻文の中、「剣要構図」の手前に「一筆啓上~」云々と落書きされている部分もそのまゝ翻刻されているので注意してください

因陽隠士記す
2025.8.17

長谷川英信:長谷川流兵法剱術極意巻

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

過去、伝書の購入に際して甚しく高揚した伝書が三つあります
一つは柳生新陰流、一つは北辰一刀流、そしてもう一つが今回取り上げる長谷川流の伝書です
因みに先の二つは購入出来ませんでした

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川流の伝書は二巻あり、もう片方の一巻は『長谷川流兵法剱術圖法師卷』に掲載済みです
二巻共に表具は失われ、虫害著しいのは残念でなりません

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川英信については皆さんご存じの通り、断片的に傳承を記した史料こそ見付かってはいるものゝ、諸々の傳承が錯綜しており、真偽を決し難く確証を得られないという段階にあります
新史料の登場を期待するしかありません

印章、方印の方は門構えに秸の字、壺印の方は「回」「實」とあるようです

因陽隠士記す
2025.8.16

井上外記正継:井上流小筒構堅之圖巻

今回は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術の伝書

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13

鈴木清兵衛邦教:起倒流天巻

『起倒流天巻』筆者蔵
『起倒流天巻』筆者蔵

表裂には、鳳凰と龍に加えて宝尽しの文様

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙の金泥に調和するよう配慮された見返し

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙は上下罫引に金泥絵、そして霞のように撒かれた金砂子
裏には金箔を散らす

『起倒流天巻』筆者蔵

金砂子は光の加減によって青緑色に光る

『起倒流天巻』筆者蔵

起倒流「神武の道」で知られる鈴木邦教の伝授
「貟逸」とあるのはその前名

鈴木邦教(くにたか)
将軍家の旗本、この伝書当時は御勘定、年齢は五十歳
瀧野遊軒の道統を継ぎ起倒流を指南していた
松平定信公の師としてその名声は今日に至るまで伝わっている

「防長侍従」というのは、周防・長門を治める太守毛利重就公のこと
宝暦元年、従四位下侍従に昇進し大膳大夫と称した
鈴木邦教より二つ年下で、明和九年当時は四十八歳
通常大名が武藝を習う年齢ではなく、松平定信公が鈴木邦教に師事していたことゝ無関係ではないかもしれない

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.12