姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

無邊無極流の伝書作成

伝書の作成について、詳しく知っている人は少ないでしょう
それは史料が少ないことや、関心をもつ人が少ないことによると思います
私は昔から伝書の作成に関心があり、僅かな情報でも得られるように努めてきました

『無邊流印可下書』筆者蔵

伝書作成に直接関係する史料があります
『無邊流印可下書』と題された包紙に収納されていて、同流の印可伝書の見本や図法師を書くための型紙などが一式揃っています

『無邊流印可下書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵

図法師を書くための型紙には使用の痕跡が認められます
竹串のようなものは鑓などの武器を書くために用いたと思われます

『無邊流印可下書』筆者蔵

無邊無極流の印可は、『手次』『鎗合』『十文字合』『太刀合』『長刀合』の五巻をもって一揃いとします

『無邊流印可下書』にはこれら各巻の雛形があります

『無邊無極流伝書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵
「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」などの指示
『無邊流印可下書』筆者蔵

『無邊流印可下書』は、そもそも酒井雅楽頭家の家臣三俣氏が所蔵したものです

三俣氏は無邊無極流の師範ではありませんが、このような『無邊流印可下書』を所持していました
それはなぜか?
酒井家においては、印可のとき巻物を自前で用意すると決められていました
おそらく、師範家に負担をかけないよう配慮したものと思われます
というのも、酒井家における同流の伝授形態はちょっと特殊なもので、無邊無極流の宗家ともいうべき幕府旗本の山本家に伝授を依頼していたからです

つまり、印可の段階に至れば、家臣たちは各々が巻物を用意して神文を提出し、山本家に実名・判形を求めたのです

印可伝書は、下書の通りに作成され、実名・判形のところを空白にしておいて、江戸に送られました
そして、後日公式の場でそれぞれの家臣に伝授されます

因陽隠士記す
2025.9/2

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

姫路藩真下貫兵衛の金赦し

宇田川武久氏の著書『江戸の炮術―継承される武芸』に「姫路藩真下貫兵衛の金赦し」と題された項がある。
そのまゝ引用するわけにはいかないので、こゝでは要点のみを述べよう。
(1) 土浦藩の関流炮術師範関家へ入門した姫路藩士真下貫兵衛の稽古日数が短いにもかかわらず赦状と捨傳書を伝授されたこと
(2) その謝礼が多額であること
宇田川武久氏は上記二点を根拠として、真下貫兵衛は金赦しであるとされている。

私は姫路藩の炮術について調べている最中であり、その一連の作業のなかで同書に目を通した。そして思った、この項については全くの誤解である、真下氏の名誉のためにもこの誤解を明らかにしておこうと。

真下家

そもそも姫路藩士 真下貫兵衛の家柄とはどのようなものか。『姫路藩家臣録』を元にその履歴を追う。

祖父 真下藤兵衛は安永8年(1779)御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、そのほか諸役を勤め寛政4年(1792)隠居。(※御持筒組とは藩主直属の鉄炮足軽隊)

父 真下政太夫は天明2年(1782)藤兵衛と同様に御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、寛政4年(1792)舩手之者鉄炮稽古世話に転じ、家督(2人扶持 組外)を相続、御土蔵御番入。その後は諸役を勤めつヽも舩手之者へ鉄砲を指南、享和1年(1801)他の役務に差し支えるときは息子真下貫兵衛(当時は幸助)を稽古世話に立てるべき命があった。結局、真下政太夫が舩手之者鉄炮稽古世話の任を解かれたのは文政3年(1820)のこと、およそ38年間師範を勤めた。

真下貫兵衛は先にも記したように享和1年(1801)には舩手之者鉄炮稽古世話を手伝うようになり、文化2年(1805)5月20日に舩手鉄炮稽古指南見習となり、文化4年(1807)4月29日には大日河原において壱貫目鉄炮角前を藩主の御覧に入れ”貫”の文字を授与される
そして同年5月11日この壱貫目玉鉄炮の放方の功績によって弐人扶持下され御徒士格として召し出された。

以上、問題とされた関家入門までを掻い摘んで記したが、このように履歴を確認できる祖父 真下藤兵衛父 真下政太夫真下貫兵衛と三代にわたって、鉄炮足軽を指南する稽古世話の師範職を世襲している。真下貫兵衛に至っては見事壱貫目放方を御覧に入れ二人扶持を下され御徒士格に召し出された(これは家督を相続する以前のことで、純粋に彼の功績による)炮術を家業とする家柄である。
それと、姫路藩において足軽指南は従来より関流で統一されていたことを考え合わせれば(*1)、真下氏は姫路藩において従来より行われていた小屋関流または野口関流を学んでいたことは明白である。
つまり、真下貫兵衛は関家へ入門する以前から、関流炮術について少なくとも六年以上の修錬を積み、且つ指南する立場としても経験を積んでいた。(いつの頃から修行を開始したのか記録には見えないので、父政太夫の手伝いを命じられた年を下限とする)

入門から相伝

さて問題とされた関家への入門から帰国までの動向を各書より一部抜粋する。

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化4年(1807)7月朔日の真下政太夫・真下貫兵衛の両人である。
酒井雅楽頭様の御家来真下貫兵衛・真下政太夫のふたりが炮術に入門したいと同藩の御留守居役を通して、(土浦藩の)御留守居にいってきた。自分は入門を許したいので、このことを月番の又兵衛殿と列座にうかがった。十五日の朝、治兵衛から手紙で酒井衆両人の入門は支障がないから、入門の日取を取り極めるように申してきた。十八日のそこで都合がよければ、御前十時こと、こちらに出かけるように酒井衆に申し遣わした。
なお、十八日の条にふたりが肴代二百疋を持参して入門の手続が終った、とある。

『姫陽秘鑑』
一、文化4年(1807)7月28日土屋相模守様御家来関内蔵助方江炮術入門被 仰付、同年8月2日より御客箭繰方忰貫兵衛江被 仰付、右手伝ニ罷出候ニ付御肩衣被下置、右之節着用仕相勤申候

『姫陽秘鑑』
一、同年同月21日奥於 御居間、壱貫目玉鉄炮繰方被仰付入 御覧候処御小袖被下置、其上貫叟之実名御直筆ニ而拝領仕候

『姫路藩家臣録』
文化4年(1807)9月11日御参府御供ニ罷出候処、御客前薬方度々相勤、諸家様へも罷出候ニ付御家中諸藝励二も有之候間、格段之 思召を以並御供番格被 仰付、金四両三人扶持被下置候、10月4日爰元ニ罷在候内奥御番方被 仰付候-同7年8月17日奥番御免

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化6年(1809)12月11日真下貫兵衛へ赦状と捨傳書が傳授される。相傳の謝礼として関内蔵助信貞に金千疋、関昇信臧に金二百疋、信貞の妻に金五百疋、家来二人に金二朱を贈る。
文化7年(1810)7月30日炮術稽古の打納めに出席、真下貫兵衛250目玉・100目玉を放つ。
文化7年(1810)8月17日真下貫兵衛、国許に帰るので関家へ挨拶に行く。

以上を踏まえた上で話しを進める。
壱貫目放方を見事御覧に入れ扶持を下された真下貫兵衛は、その二ヵ月後、藩主の江戸出府の御供となりそこで土浦藩の鉄炮師役 関内蔵助へ入門する。「真下政太夫忰貫兵衛大筒繰方被仰付候事(『姫陽秘鑑』)」
文化4年(1807)7月に入門した真下貫兵衛は文化6年(1809)12月に赦状と捨傳書を伝授された。つまり彼が享和1年(1801)に舩手之者鉄炮稽古世話手伝となってから八年後のことである。無論、家元とも云うべき関家での修行と、国元に従来より伝承されている分派の小屋関流・野口関流では修行の程度に少しく違いがあるとは思う、しかしこの両派は素より関家に学んだ分派であるから、一から修行をし直す必要はなかっただろう。

稽古日数

さて、宇田川氏は著書の中で、真下貫兵衛が入門から二年で伝書を相傳されたことについて「貫兵衛の稽古の年数は足りないから、これはまさに金赦しといわざるをえない」と述べられている。たしかに通常の入門であれば、たったの二年で傳授されるものではない。
しかし、先述のごとく真下貫兵衛は関家入門以前から姫路藩内で関流を修行しており(*1)、且つ壱貫目放方の功によって召し出されたほどの人物であったから、この点を考慮すれば入門二年で傳授されて然るべき技倆は充分に備えていたと考えられる。藩内において修行し、後に他家の士に入門して短期間で免状・印可を傳授されることは珍しいことではない。

謝礼

又、謝礼について宇田川氏は横田平内・近藤亘理助の謝礼額と比較して「これが常識の範囲とすれば、いかに貫兵衛の謝礼が高額であったかがわかる。」との見解を示されている。
なるほど、比較に提示された両者は三百疋、真下貫兵衛の謝礼は千七百疋を超える。内訳を見ると、関内蔵助信貞に金千疋、信貞の妻に金五百疋、関昇信臧に金二百疋、そして周辺人物にもいくらか渡した。当時の事例とくらべて異常に高いということはない、最大限に礼を尽した結果だと思う。これら進物の額は右記の通り、金千疋=金2両2歩、金五百疋=金1両1歩、金二百疋=金2歩。

おわりに

結局、真下貫兵衛の履歴の有無が、宇田川氏の判断を誤らせたのではないかと思う。且つ姫路藩で主流を占める関流の存在はあまり取り上げられていないので、その点も見落とされていたのかもしれない。
その不十分な条件をもとに真下貫兵衛を金赦し扱いにされたことは残念でならない。真下氏にもおそらく子孫の方々がいることだろう、金赦しと云われて何を思うか、察するに余りある。また、関家においても金銭にかえて家伝の大切な流義の伝書を与えたとあっては不名誉なことではないか。
先述のとおり真下貫兵衛は金赦しではない、藩内において関流を修行し壱貫目玉を見事に放す技倆を備え、その後で関家へ入門しその修行のほど、技倆のほどを認められたからこそ赦状と捨傳書を伝授されたのだ。

*1 姫路藩ではその当時、小屋関流、野口関流が行われていた。この両派はもともと元禄のころに、土屋相模守家来 関軍兵衛の世子であった三俣惣太夫(世子のときの名乗りは伝えられていない)が酒井家中で関流を教えたことに始まる。そして小屋幸太夫、野口磯太夫の二人は三俣惣太夫に関流を学び、次いで土屋家の関軍兵衛に学んだ。その後両者が足軽の鉄炮指南に抜擢されたことで、酒井家の軍制は関流を基礎とするようになる。

参考資料
. 『江戸の炮術―継承される武芸』宇田川武久著
. 『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
. 『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
因陽隠士記す
2016.7.13

土屋将監:柳生流長刀目録

『柳生流長刀目録』筆者蔵
『柳生流長刀目録』筆者蔵

柳生流の長刀目録はこの伝書のほかに未見です
数多ある長刀を七つに窮めておいたと記述されているので、土屋将監のときに編まれた伝書かもしれません
しかし、先代のときの文言をそのまゝ踏襲しているのかもしれず、この辺のことは分らないです

伝書の様式そのものは、後世の土屋系に引き継がれています

『柳生流長刀目録』筆者蔵

伝書にこの大きな赤丸を描くのは、いつに始まったことだろう?
所蔵する慶長十八年の夢想願流伝書には、塗り潰さない赤丸が大きく描かれていたり、寛永頃の念流の伝書にも塗り潰された赤丸が見られる

流派の垣根を超えて、採り入れられているこの赤丸はどこから来たのか?
考えるとおもしろいですね

『柳生流長刀目録』筆者蔵

右のこの哥の心もちに能々鍛錬肝要に候
他流には堅躰に致す共、必ず右無躰の心持にて如何にも神妙
秘すべし秘すべし
右の通り一心を肝要に候

『柳生流長刀目録』筆者蔵

土屋将監、名は景次
詳しい履歴は伝わっていません
神後伊豆に学ぶと云われますが、確認されている慶長十八年の柳生流伝書や、こゝに紹介する伝書においても、伝系は「柳生五郎右衛門」を師としています

また、「心陰流」という流名についても、土屋将監のとき名乗っていた史料が見当りません
秋田の系では後世「心陰柳生流」の称があります

因陽隠士記す
2025.8.30

竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25

片山伯耆守久安:片山流居合免状

『片山流居合免状』筆者蔵

已に「『片山流免狀』を讀む」で取り上げた古文書です
この記事を改めて見直すと、文脈に不自然なところがあり、訂正しようと思いつゝそのまゝになっています、すみません

表装などは撮影していなかったので、今回は雰囲気さえ伝われば良いかな、と思っています

『片山流居合免状』筆者蔵

星野家旧蔵文書の中に、数点この手の表装がされています
そのどれもが画像のように、バラバラになっています
糊が弱過ぎた所為かな?
さほど古いものではないのですが...
あまり良い仕立てゞはないのかもしれません

『片山流居合免状』筆者蔵

この料紙と筆跡の組み合わせは、いつ見ても抜群に良い雰囲気です

『片山流居合免状』筆者蔵
巻末のところも少し臺紙から剥がれています この剥がれたところが、巻くとき引っ掛かるので、傷まないように注意しなければなりません
因陽隠士記す
2025.8.22

窪田清音の書簡を読む

はじめに

今回は幕末における兵学の権威窪田清音の書簡を読みます

窪田清音は、禄二百五十俵(役高千五百俵、文久三年時)を食む将軍家の旗本にて、武藝諸流を極め、就中山鹿流の兵学を以て世に知られた人物です
天保から慶應にかけて活躍し、数多くの著書を残しました

さて、今回取り上げる窪田清音の書簡は、信州松代真田家の臣飯島勝休へ宛てゝ認められたものです

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

いつごろ書かれたものか?

はじめに、この書簡はいつ書かれたものか?という点を明らかにしなければなりません

書中に「追々年とり近来七十七才に相成り」と記されているから簡単、寛政三年の生年に照らして「慶應二年」と推定できそうです

しかし、そうでしょうか?
仮に「七十七歳=慶応二年」として書面を見ると、「御用多の本勤御持筒頭勤の義、泊り斗り相勤め」という点に引っ掛ります
というのも、窪田清音が「御持筒頭」を勤めていた時期は、『柳営補任』によれば文久三年正月十三日から元治元年九月廿日の間、すなわち慶應二年は「御持筒頭」ではないため、「七十七歳=慶応二年」という仮定は成り立ちません

そこで『江戸幕臣人名事典』に目を通すと、「亥七十六歳」という記述を見出せます
「亥年=文久三年=七十六歳」、これは「生年」でなく「官年」というものです
官年はイコール実年齢ではなく、公的年齢というものですね

その官年に基づいて、仮に「文久四年=七十七歳」とすれば、先ほどの「御持筒頭」を勤めた期間に符合します
また「御本丸二丸炎上」や「御上洛被仰出」といった記述も文久三年の出来事として符合します
つまり、私的書簡においても表向きは官年で通していたということでしょう

以上の事から、本書簡は「文久四年」に認められたと推定できます

さらに、書中の「當正月廿八日初めて佛参に出で候斗り」という文言を考慮すると、実際に書簡が認められた日付は「文久四年正月廿八日」以降と考えられますが、書簡自体は「文久四年正月三日付」にて認められたということです

前置きはこの辺にして、いよいよ文面について見てみましょう

*御持筒頭とは、平たく言えば将軍直属の鉄炮隊の隊長であり、平時は江戸城本丸の「中之門」と西丸の「中仕切門」、二丸の「銅門」などの警備に当りました
およそ四組で固定されていて、窪田清音の場合は「與力十騎、同心五十五人」を預かる頭職でした

近海御備場見分御用

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『浦賀猿島上総房州台場絵図』国立国会図書館蔵+臺場筆者註

上に掲げた『浦賀猿島上総房州台場絵図』には、「近海御備場見分御用」によって窪田清音が見分した場所を書き込んであります(左=北)

*臺場とは、異国舩を砲撃するため沿岸に設けられた砲臺場を指します
臺場は地形に応じて設計され、敵船からの砲撃を防ぐ外壁を回らし、周辺に火薬庫や人足寄場などが併設されました

書中にいう「鋸山」と「浦山」はもっと南にあります

窪田清音が命じられた「近海御備場見分御用」とはどういった御用でしょうか?
そのまゝ読むと「[江戸]近海の御備場を見分する御用」です

何を見分したのでしょうか?
具体的史料は見当たりませんが、ペリー来航以前、幕府は「近海御備向見分御用」という名目にて、勘定奉行・目付・老中・鉄炮方・浦賀奉行・代官等を度々派遣しており
このときの御用向きから推測すると、「近海御備場見分御用」とは外寇に備えて防禦の要地をを固めるため兵士を置く場所「御固向」、その人数の配分「御固人数割」、異国舩を砲撃するための「御臺場」、その火砲火力の配分「御筒配り等然るべき場所」等を見分していたと考えられます

今回の窪田清音の場合は、従来の「御備向」を見直すことに眼目があったと見るべきでしょう
そしておそらくは二~三人がこの任に当ったと思われます

『浦賀猿島上総房州台場絵図』中、「籏山」の直ぐ右に「観音崎臺場」があります
この辺りと対岸の「冨津(ふっつ)」辺とを結ぶ線は、江戸湾防禦上、最も重要と認識されてきた要害の地です
すなわち、「近海御備場見分御用」を仰せ付かった窪田清音は、江戸湾防禦の要「観音崎~冨津」の臺場群辺りとそれより南の臺場とを視察する任を与えられたわけです
このことから幕閣は、彼の兵学の知識と経験とに期待していたものと察せられます

これ以前、湾口には多数の臺場が築造され、異国舩に備えていました
しかし通商條約締結後、「観音崎~冨津」の線より南はほとんど顧みられなくなり、かわって内海の品川辺の臺場が重要視され活発に築造されるようになりました

 
Google地図+筆者註

文久三年三月廿日、窪田清音は「近海御備場見分御用」を仰せ付かり、同月晦日昼頃に御朱印を渡され直ちに見分のため出立しました
「相模の浦賀西・東」を初め、「猿嶌邊の海陸」「上総の竹か岡」へ廻り、「冨津邊の出洲・隠し洲左右舟路の前後」を廻り、それから「安房の海岸」と「房総の境,鋸山前後」、さらに「浦山」へ乗り戻って、再び「旗山邊」「猿嶌」を一周して「浦賀」へ立ち帰り、一泊して取り調べ、そして四月十八日江戸に到着、十九日には登城して届けをし御朱印を返納しました
御朱印はどうやら身元証明と通行証を兼ねるもので一時的に貸与されたようです

御朱印を返納した後は、調査結果をまとめ「進達書・繪圖面等」を提出しました
これによって清音は後日「海陸御備向御用掛」を仰せ付かります

清音が見分御用を勤めたこの時期、幕閣は江戸湾防禦の見直しを計っていたようで、文久三年五月、それまで熊本藩が警衛を担当していた「西岸(観音崎辺)」の警衛を佐賀藩・松本藩・佐倉藩に替え、「品川臺場」の警衛についても同年八月~十月に四ヶ所の担当藩を替え、「神奈川・横浜」の警衛も担当藩を大幅に替えるなどしています

窪田清音が幕府へ提出した調査結果がどのようなものだったのか明らかでありませんが、報告の後ち「海陸御備向御用掛」に任じられていることからして、幕閣に認められる内容だったと考えて良さそうです

然れども、窪田清音の本勤は「御持筒頭」でしたから、「海陸御備向御用掛」と兼勤ということになります
これによって本勤の方は泊り番を専らすることになり、朝から夕方までは「海陸御備向御用掛」を勤めることになりました
これがよほど忙しかったらしく、「昨三月廿日前文近海見分仰せ付けられ候後、いまたに手透之れ無き次第に付き」や「去三月廿二日後は書籍も壱枚見候寸暇も之れ無く、困労斗りいたし申し候」などゝ,当時の繁忙ぶりを伝えています

御持筒頭の本勤

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
Google地図+筆者註
『御城御玄関より大下馬迄之圖』国立国会図書館蔵+筆者註

上に掲げた『御城御玄関より大下馬迄之圖』には窪田清音が本勤として勤めていた「大手三の御門」を、「Google地図」には「大手三の御門」と「新規下乗所[場所不明・推測地]」を書き込んであります

窪田清音は昼から夕まで「海陸御備向御用掛」を勤め、暮れ六つ[午後五時から七時]から朝四つ半[午前十時半から十一時]までは「御持筒頭の本勤」、すなわち門番に従事していました

「御持筒頭」の勤めは、同役が七人いたと記されています
推測するに、「御持弓頭」「御持筒頭」の七人が該当すると思われます

御持弓頭
 内藤矩正[63歳]
 市橋長賢[45歳]
 水野勝賢[60歳]
御持筒頭
 門奈直知
 松前廣茂[78歳]
 和田惟明[55歳]
 窪田清音[76歳]

窪田清音は高齢ですが、さらに高齢の人物もいました
「頭」という職分ゆえ高齢の人物が多かったのかもしれません

文久三年十二月までは「大手三の御門」の当番をこの七人で勤めていました
おそらく二人から三人が交代で休みをとったものと思われます

『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵

同年十二月廿一日になると、将軍上洛の御供として当番七人の内四人が旅立つことになります
またその上、残された江戸勤め三人の内一人が病氣のため引っ込み、たった二人で当番を勤めることになってしまいます
このため餘程忙しかったらしく、二日続きの泊り番にて帰宅の間が半日も無いほどだった、と清音は知らせています

そのような忙しい勤務状況を上役が考慮したものか、火事の後に新設されたと思しき「新規植溜御屋敷下下乗の方」の勤めは御免となり、隔日の勤めとなったところ、病氣の一人も復帰しようやく三番勤めとなり、やゝ忙しさも緩和したかに思われましたが...
清音は御供で旅立ったあとの留守組を二組与り「御切米御扶持家事万事引き受け」世話もしていたゝめ、「十二月廿一日より御城に斗り詰め切り」という勤務の状況でした

結局、文久三年三月廿日「近海御備場見分御用」を仰せ付かって以来、繁忙のまゝ日々を送り、文久四年正月廿八日に初めて佛参に行ったきり、ほかには何の餘暇も無いほど勤めが忙しく、書簡を差し出すことさえ出来なかったと事情を説明し、遅れに遅れた非礼を詫びるなどして、この書簡を締め括っています

伊勢貞丈の筆跡

『伊勢貞丈書付:宝暦辛巳秋九月望日付』筆者蔵

軸装された書簡の最上段に配置されたこの書付についても簡単に触れて置きます

この書付は、書中に記されていた「貞丈師の真筆、又々かきすて物のはし」です
貞丈師というのは将軍家の旗本伊勢貞丈のこと、故実の権威ですね

そして書簡を送られた飯島勝休もまた故実家で、その伊勢家に師事し武家故実の奥秘を極めました
勝休以前の代も伊勢家に師事しており、伊勢貞丈にも師事しています
このようなことから、先師伊勢貞丈の筆跡を求めたのではないでしょうか

伊勢貞丈の筆跡には何が書かれているのか?

書付に登場する「佐橋佳栄」、この人は村上正直の次男
村上正直は徳川家宣公に仕え、御家人の身分から累進し千五百五十石を知行した旗本です
次男として生れた佳栄は、同じく幕府の旗本である佐橋佳周の遺跡を継ぎ、御小姓組に列なりました
書付には「同僚」と記されています

佐橋佳栄はある日、先祖伝来の馬鎧馬面のことを伊勢貞丈に語り、これを聞いた貞丈は是非とも見たいと佳栄に頼みました
願いが叶って馬鎧馬面を実見し作図して、後日この通りの物を作って馬に装着し騎乗したいものだ、と貞丈は記しています

この書付は、元は馬鎧馬面の図に附属したものと思われます

おわりに

窪田清音の書簡を読んでみて、いかゞでしたか?
今回の書簡を”読む”は、たゞ読むのではなく、そのもう一つ向う側を読むという趣旨です

窪田清音は武藝者としての面ばかり注目される人物ですが、その一方幕府の海防に携わり、高齢にもかゝわらず繁忙な日々を送っていた
このような知られざる一面を知ってもらえたら嬉しい限りです

参考文献『維新史料綱要』『幕末海防史の研究』『勝海舟全集』『日本兵法全集5:山鹿流兵法』『大日本近世史料:柳営補任』『新訂寛政重修諸家譜』『江戸幕臣人名事典』『寛政譜以降旗本家百科事典』『日本史籍協會叢書134:鈴木大雜集』『東京市史外編:講武所』
因陽隠士記す
2025.8.21

窪田清音:田宮流剣法道具之記

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

窪田清音の著作

窪田清音は数多の著書を残しており、その中で武道関係といえば『劒道集義』『續劒道集義』に数多く採録されていることはご存じのとおり
また、国立国会図書館に堀江四郎宛の写本が数多く所蔵されているようです*1

今回こゝに紹介する『田宮流剣法道具之記』もまた窪田清音の数多ある著作の中の一つで、尾張藩付家老成瀬家の家臣が所持した写本です
ざっと調べたところ、類似の写本を見出せないことから、こゝで紹介して置こうと思いました

私の調べ方が甘いせいで見付けられていない丈けかもしれません
既出の文書であれば教えてください

1…『剣道の技の大系と技術化について-田宮流窪田清音の著作『形状記』を中心として-』

何が書かれているのか?

書かれている内容は、上掲の画像に説明されている通り、窪田清音の教え子たちに向けて、古製の稽古道具を図入りで解説したものです

清音の教え子たちは、清音が改良した稽古道具を使っていたゝめ、古製の稽古道具を知らなかったという事情により

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

文政元年の著作となれば、窪田清音の年齢は二十八歳
写されたのは安政のころ

巻末には「追加」として、後年の武術上覧の様子が綴られています

因陽隠士記す
2025.8.20

上泉孫四郎:上泉流居合目録巻

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

表具はありません、はじめから表装されていなかったと考えられます
古伝書*4にまゝ見受けられる仕様で、伝書を表装することがまだ一般的でなかったのでしょう

私が調べた範囲では、寛永のころから伝書に表具するという観念が広まったように思います

4…古伝書という言葉は存在しませんが、私は元和以前のものを古伝書と呼んでいます

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

「上泉孫四郎 藤原胤綱」と署名されています
上泉孫四郎は多くの別名を持つが、「胤綱」の実名はこの伝書のほかに確認されていません

実名と花押のところに捺された印章は、おそらく「知識明」と彫られています

なお、この伝書は彦根井伊家の念流指南役上坂家の旧蔵文書です
上泉孫四郎は、井伊直政公に寄食していたという*1から、そのころ彦根家中の上坂氏に伝授したものかと推測しています*2(推測の域を出ません)

そして、長野無楽斎もまた井伊直政公に仕え、五百石、九十餘歳で没したと云います3

風傳流の元祖中山吉成も井伊家に出入りしており、念流の友松偽庵も仕えていたりと、武術方面では有名な人物たちがいたのですね

1…『武藝流派大事典』
2…宛名の部分が無いという点を考慮すると、全く別の可能性も考えられます
たとえば、1)身分の高い人物に差し上げた、2)内密に伝書を譲るとき宛名部分を切り取った
3…『武藝流派大事典』、このくだりは『会津藩教育考』を出典とする

*流名については「夢想流」とすべきか悩みましたが、当時の称が分らないため、仮に「上泉流」としました

参考文献『武藝流派大事典』
因陽隠士記す
2025.8.17