武術史料抄録



2019.1.8
播州姫路藩,酒井雅楽頭の家臣について調べています,年末年始,休暇はほゞ古文書の調べものに充てました,調べれば調べるほど新たなことが分り,好奇心は尽きることがありません,

今回は酒井家の江戸屋敷の話しです,[乍恐,文中の敬称を略します]

左『江戸切絵図:御江戸大名小路絵図』国立国会図書館蔵/中『江戸切絵図:日本橋北神田浜町絵図』同蔵/右『江戸切絵図:駒込絵図』同蔵

酒井雅楽頭家は,江戸に大手上屋敷(+添屋敷)・蠣殻中屋敷(+新屋敷)・巣鴨下屋敷の三つの拝領屋敷を持っており[但し隅田川屋敷は未確認],その場所は各時代に出版された絵図によって容易に確かめられます[上の写真三枚],
上に掲げた各絵図は,現代においてもよく知られている江戸切絵図の拡大です,つまり江戸時代後期,嘉永から文久のころの屋敷の場所を示しています,

先づは,酒井雅楽頭家の上屋敷です,正確な位置について言及した史料は見出せませんでした,明治初年の内務省の敷地がそれに相当するとされています,また現代における「平将門の首塚」の場所が,寛文年間に上屋敷の御庭であったとされています,寛文年間については史料が無いため何とも言えず後日の課題です,

こゝでは江戸時代後期の大手上屋敷の正確な場所について調べてみようと思います,

左『江戸切絵図:御江戸大名小路絵図』国立国会図書館蔵/右『五千分一東京図測量原図』国際日本文化研究センター蔵
明治十六年に刊行された『五千分一東京図測量原図』を見ると,御一新後,上屋敷が内務省に建て替えられたことが一目瞭然です[上の写真二枚],松平越前守の屋敷は大蔵省に建て替えられたわけです,酒井家と松平家の屋敷は隣接しています,
Googleの地図で見ると,先ほど触れた「平将門の首塚」が白丸の位置にあります[上の写真],上屋敷はこの辺に在ったという目安になります, さらに『五千分一東京図測量原図』を重ねてみましょう[下の写真],大蔵省の庭園の中に「平将門の首塚」が在ります,
扨てこゝで,拙生の手元にある宝暦年中に書かれた上屋敷絵図面の写を用います,
この絵図面は酒井雅楽頭の家臣三俣氏が所持したものにて,三俣氏は当時「江戸表御近習御用人兼帯帰役」を命じられ出府しておりました,絵図面が写された文化二年二月は三俣氏が帰国する一ヶ月前です,

上屋敷絵図面には実測と思しき敷地の距離が書き込まれており,この情報をもとにして『五千分一東京図測量原図』上に敷地を縁取り,そしてGoogleの地図に重ねるとこの通りです[下の写真],
宝暦年中の上屋敷絵図面[写]の情報を基にして書き込んだ敷地線[上の写真中の白線]は,『五千分一東京図測量原図』の内務省敷地とほゞ一致しますので,江戸時代の絵図面にはそれなりに確かな実測の情報が書き込まれていたと考えられます,

いざ書き込んでみると,ちょっと意外なほど道路にかゝっていたのですね,「平将門の首塚」は敷地の外です,寛文年間には酒井雅楽頭家屋敷の御庭だったそうです,いつの頃から他家の屋敷地となったのでしょうか?,いづれ史料に恵まれゝば餘暇に調べてみたいと思います,

これで今回調べたかった上屋敷の正確な位置は明らかとなりました,今後の調べものに役立ちそうです,

これまで取り上げてきた酒井雅楽頭家の上屋敷,実は安政二年の大地震のとき建物の多くが損壊し,且つ直後の火事で焼失してしまいます,
旧姫路藩士が往時を述懐した話しによると,この火事で大書院の柱にあった寛文騒動のときの刀キズが失われたそうです[但し本人は実見する機会を得られなかったようです],

左『両御屋鋪[辻番御廻り場]御持場繪圖并御成之節立切圖面』筆者蔵/右『明和七寅年御掃除御持場繪圖冩』同蔵
また余談ながら,各家に辻番の持場や掃除の持場というのがありまして,辻番の持場は辻番所のある角を起点にした上屋敷の西面の道と南面の道[上左の写真],掃除の持場は各家と道を半分にしていました[上中の写真],これらは幕閣から通達されたときの文書の写です,

斯ういった細かな決め事が,徳川幕府統治下においてはより一層安定した秩序作りに不可欠だったのでしょう,

左『江戸一目図屏風』津山郷土博物館/右『?』
辻番所とはどういう建物なのか?,『江戸一目図屏風』の中に上屋敷の辻番所が描かれており[上左の写真],大分簡素にされてはいるのでしょうが,およそこのような外観でしょうか,同じく出典は不明ながら浮世絵に上屋敷の辻番所が描かれています[上右の写真],こちらの方が実物に近いのではないかと思います,とはいえ辻番所横の長屋などが簡略され門までが短く描かれています,

宝暦年中の上屋敷絵図面から推測するに,辻番所の建物は5.4メートル四方にて,屋敷内からも出入りが可能な造りだったようです,そして屋敷との間に厠があったと見られます,