無雙直傳流心慮之卷

帋本墨書 17.9 × 72.0 cm 江戶時代 元祿拾六癸未歲十一月吉日付 筆者藏
無雙直傳流心慮之卷. Edo period. dated 1703.
Hand scroll. Ink on paper. 17.9 × 72.0 cm. Private collection.
● 後世、傳書によっては、「和・水」の二字を冒頭に掲げる。

因陽隱士
令和五年四月晦日編
帋本墨書 17.9 × 72.0 cm 江戶時代 元祿拾六癸未歲十一月吉日付 筆者藏
無雙直傳流心慮之卷. Edo period. dated 1703.
Hand scroll. Ink on paper. 17.9 × 72.0 cm. Private collection.
帋本墨書 15.2 × 72.6 cm 江戶時代 天和元十一月吉日付 筆者藏
水野流居合彌和羅卷. Edo period. dated 1681.
Hand scroll. Ink on paper. 15.2 × 72.6 cm. Private collection.
水野流は安藝の人水野重治の創めし所で、大矢木正次其の直弟子を以て、之を藩士奧田正武と木戶正時とに傳へ、兩系相竝んで繼續し、木戶等は晚年更に一技を生じ、藩末に及んだ。 -鳥取縣鄕土史-
帋本墨書 17.8 × 266.4 cm 江戶時代 元祿拾六癸未歲十二月朔日付 筆者藏
長谷川流居合拔劍卷. Edo period. dated 1703.
Hand scroll. Ink on paper. 17.8 × 266.4 cm. Private collection.
こゝに取り上げる傳書は、長谷川流の『居合根元之卷:安政二乙卯年八月吉日付』(筆者藏)です。これは土佐藩士下村茂市が傳授した傳書數卷の中の一卷にて、文面に據れば、その卷頭に記される所の根元之卷は元來印可に相當するものゝ、いつの頃にか再編され初傳相當として傳授されたものと考えられます。
抑(そもそも)此の居合と申す者は、日本奧州林の大明神より、夢想に之れを傳へ奉る。
そもそもこの居合というものは、日本奧州の林大明神より、夢想の中にこれを傳えられた。
夫れ兵術は、上古・中古、數多の佗流に違ひ有ると雖も、大人・小人・無力・剛力と嫌はず兵用に合すと云へり。末代、相應の太刀に爲ると尓(しか)云ふ。
そもそも兵術というものは、上古・中古のころ、數多の流儀があって、それぞれに差違が有ったものだが、大人・小人、無力・剛力といった區別はなく、皆な同樣の兵器を用ゐたと云う。そして末代のころになり、その人の体格や膂力に相應しい太刀が用ゐられるようになったと云う。
手近に勝つこと、一命の有無、之れ此の居合に極る。恐は粟散邊土の堺に於いても、不審の儀は之れ有るべからず。唯(たゞ)靈夢に依る處也。
近接の戰い方や生死を分ける機微は、この居合によって極致に至った。これは恐らく邊疆の地に於いても、不審に思われることはないだろう。なぜなら、この居合は靈夢によって成立した。
*粟散邊土・・・<平家物語>「此國乃粟散邊土、憂心浮世之地...」
此の始尋ぬれば、奧州林崎神助重信と云ふ者、兵術を之れ林の明神に望むこと有るに因て、一百有日、今參籠其の滿曉の夢中に老翁重信に吿て日く
その根元を尋ねてみれば、奧州の林崎神助重信という者が、林明神に兵術の極意を望み、參籠すること一百有日、遂に滿曉せんとするその夢中に老翁が顯われ、重信に吿げて言うには、
「汝(なんぢ)此の太刀を以て、常に胸中に憶持すれば、怨敵に勝つことを得る」と云へり。則ち靈夢に大利を得ること有るが如し。
「汝、この太刀を以て、常に胸中に憶持すれば、怨敵(仇)に勝てる。」と。これはつまり、靈夢に大利を得たようなものである。
腰刀三尺三寸を以て、九寸五分に勝つ。柄口六寸を事(つか)ひて勝つことの妙は、不思義の極意にして、一國一人の相傳也。
腰刀三尺三寸を以て、脇差九寸五分に勝つ。柄口六寸を使って勝つことの妙は、不思義の極意にして、一國一人の相傳なり。
*「事」・・・こゝでは動詞として「使用」の意にとる。
腰刀三尺三寸の三毒は、則ち三部のみ。但(たゞ)脇差九寸五分の九曜は、五古の內證のみ。
腰刀三尺三寸の三毒(人の三惡、貪・瞋・癡)は、三部(佛の三德、大定・大智・大悲)に、脇差九寸五分の九曜(人の九執)は、五古(五智)に昇華することを自ずと悟る。
*「腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇差九寸五分九曜五古之內證也」・・・「三毒」「三部」と「九曜」「五古」とを如何に解釋すべきか惱み、譯文を書き終えた今となっても、解讀出來ていません。取り敢えず、前文の「不思義之極意一國一人之相傳也」を受けて、論を展開したものと捉えました。
敵・味方事を成す。是も亦た前生の業感也。生死は一體、戰場は淨土也。
敵と味方とになって爭うこともまた、前生の報いである。ゆえに生死は一體にして、戰場は淨土である。
此くの如く觀れば、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙り、來世に成佛・成綠の事、豈に疑ひ有らんや。
このようにして觀れば、現世において大聖摩利支尊天の加護を蒙り、來世に成佛・成綠する事は、疑う餘地がない。
此の居合は、千金を積むと雖も、不眞實の人には堅く之れを授くべからず。天罰を恐れよ。唯(たゞ)一人に授けて之れを傳へよと云へり。
この居合は、千金を積まれたとしても、決して不眞實の人に授けてはならない。天罰を恐れなさい。唯一人に授けてこれを傳えなさい。
古語に日く、「其の進むこと疾き者は、其の退くこと速かなり。」と云へり。
古語に日く、「その進むこと疾(はや)き者は、その退くことも速かである。」と。
*「其進疾者其退速云云」・・・<孟子/盡心上>孟子曰、「於不可已而已者、無所不已。於所厚者薄、無所不薄也。其進銳者、其退速。」。
此の意は貴賤・尊卑を以て隔て無く、前後輩を謂はず。
この意は、貴賤・尊卑を以て隔てることなく、前後輩を問わない。
其の所作に達する者は、目錄・印可等を許すこと相違無し。
その所作に達した者には、差別無く目錄・印可等を許す。
*この段、見たところ提示された古語とその意が嚙み合っていないようです。
又た古語に日く、「夫れ百鍊の搆へ在るは、則ち茅莊鄙と兵利とを心懸ける者なり。」と。
また古語に日く、「それ百鍊の構へ在るということは、則ち茅莊鄙と兵利とを心懸けることである。」と。
*この段、古語に曰くと云うものゝ、出典は明らかならず。故に「茅莊鄙」は未解決。
夜白之れを思ひ、神明・佛に祈る者は、則ち忽ち利方を得る。是れ心に依て身を濟ふ事燦然たり。
晝夜これを思ひ、神明・佛に祈る者は、則ち忽ち利方(法)を得る。これは、心に依て身を救うという事、歴然たり。
貴殿多年御深望に付、相傳せしめ候。猶ほ向後御修行すれば、其の功に依て、極意・印可等授くべく者也。厚く御心懸肝要の事に候。仍て奧書件の如し。
貴殿が多年にわたり懇望につき、相傳するものである。猶、これからの修行の成果によっては、極意・印可等を授けるものである。厚く心懸けることが肝要である。仍て奧書件の如し。
註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註 /前記の如く、「腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇差九寸五分九曜五古之內證也」の所は、手元の史料而已では到底字義を解き難く、かといって史料を探し出すこともまた難しく、一旦保留します。
傳系について、長谷川流は已に硏究も進んでおりますので、私が敢えてこゝに附言することはなく、文面の譯(拙讀)を濟ませたところで、今囘は筆を閣きます。
令和三年八月十四日 因陽隱士著
參考史料 『居合根元之卷:安政二乙卯年八月吉日付』筆者藏
本心鏡智流の鎗の穗は、およそ蕎麥三角の形を流儀の規格とする。これは同流の傳書『本心鏡智流鍵鎗拵樣之卷』を見れば明らかなこと。
しかし、丹波篠山藩において同流の指南役を勤めた佐藤信成が著した『傳聞集』を見れば、「當流用る所、ソバ三角、或は兩シノキ」と記されており、必ずしも蕎麥三角のみを規格とした訣では無かったと知れる。(兩鎬は本心鏡智流の源、樫原系の穗にも見られる)
蕎麥三角・兩鎬というほか、形狀について、同流の穗は薄く尖るものを嫌い、一見して通り難きものを好む。
一見して通り難きものとは、丸みあるものを云う。これは、地に擦ったとて鋒を損じることなく、堅物に當って最も通りが良いという利點があるとされる。
そして長く作られた莖は、太刀打に刄が當ったとき切り難く、また鎗の釣合が良いとも『傳聞集』に記されている。
天保十二丑年八月日に作られたこの鎗は、豫州松山臣山城守百國の末と冠する藤原國住の銘在り。
「豫州松山臣山城守百國末藤原國住七十七歲作之/天保十二丑年八月日」
奈良縣の登錄證が付いている。奈良は、嘗て本心鏡智流が盛んに行われていた地域であり、江戶時代以來そのまゝ同地に眠っていたものか。
藤原國住、『刀工槪覽』には、「豫州松山臣藤原國住、江戶住、國吉門、寬政頃」とあり。
このほか、藤原國住について探すと、明治三十五年、昭和二,三年の帝室博物館列品目錄にその名を見る。これは打根や十文字鎗の作にて、藤原國住は、刀工というより鎗工というべき人物か。
いずれにしても、藤原國住という人物の委しい履歷は分らず、その銘に據って、山城守藤原百國に師事し、豫州松山侯の扶持を受けていたと分るのみ。
令和五年四月廿五日 因陽隱士著
今囘こゝに取り上げる古文書は、『桃井直正書簡:十一月三十日付』です。桃井直正、この人は桃井春藏の名でよく知られており、ご存じのごとく鏡心明智流四世、士學館の主です。
桃井春藏は、文久二年、幕府に召し出され諸組與力格を仰せ付かり、御切米二百俵を下され、翌年劒術敎授方出役を仰せ付かりました。委しい履歷は諸書に讓り、爰に贅せず。
偖て、この『桃井直正書簡』は、同門の出石藩士西川富次郞(御一新後、出石藩少參事)が獨立し、藩内に於いて流儀を指南する立場になったことを祝したものです。前後の關係や、兩者の間に直接的師弟關係があったのかなど、明らかでない點は多くありますが、讀んでみましょう。
九月朔日御認めの尊書、拜見仕り候。向寒の砌に御坐候得共、高堂愈御淸福に渡らせられ珎重拜壽奉り候。
先ず、九月朔日の書信を受け取ったことゝ、定例の挨拶とを述べています。相手から受け取った書信の日付を明記することで、書信未着による齟齬を生じさせないことは、江戶時代の通例でした(その發生年代や普及の程度は未考)。
陳れば、御細翰の趣、逐一拜承。今般彌御開流に相成り、且又御見分等も之れ有り、御性名書・組合付御遣し、篤と拜見仕り候。
御細翰は事情を詳細に傳える書信のこと。これによって、書簡の差出人西川富次郞の開流と、見分のときの門弟の性名書と組合付とを知り得た、と前置きです。
西川富次郞は、桃井直正の門弟西川八十之進の後繼者にて、但馬國出石藩の士。
次に、開流というのは、はじめて師範となって門弟をとることを指すものかと推察します。また、見分・性名書・組合付は、武藝見分と、それに備えた文書とを指すものと考えられます。斯ういった見分時の樣子を記錄した文書と性名書・組合付の文書とを、これまでに幾例か目にしました。
誠に多年の間御懈怠無く御出精、御厚志の貫徹する處にて、流儀祖先に對する御功德、此上無く、小生に於いても歡喜雀躍、紙上に申し盡しがたく存じ奉り候。猶ほ此上の盛業を祈念奉り候。
此段こそ、桃井直正が傳えたかった本書翰の主旨にて、注目すべきところです。
一、每々遠路の處、御書下され候處、公私繁用にて、存じ乍ら一々御返書も差出さず、甚だ不本意の至り、恐れ入り候得共、此段は御賢察、御海容下さるべく候。
桃井直正という人物の立場を考えれば、よほど繁多であったことは想像に難くなく、また當時の書信に於いて、このように返信の延引を詫びた文面を少なからず見ます。
將又先般御賴みの拙書、早々相認め差出し申すべく候處、前件の通りにて執筆の間も御坐無く、追々延々に相成り、漸く寸暇に相認め別して不出來、恐れ入り候得共、呈上奉り候。御落手下さるべく候。
この段、西川富次郞の揮毫依賴に應えて、ようやく書き上げ作品を送付したとの旨を述べています。桃井直正は、劍術家としては珍しいことに、數多くの作品が現存しており、當時に於ける知名度の高さや、當人の書に於ける自負のほどが窺えます。
右、一應の御請旁御歡び申し述べたく斯くの如くに御坐候。書餘後便萬縷、匆々不具、謹言。
「書餘後便萬縷」は、「書き餘した話しは後の便(たより)に萬縷(詳しく)申し上げます。」の意。
尙ほ以て、端書乍ら御惣君樣へ冝鋪く御通聲願ひ奉り候。家族共同樣申し上げたき旨申し出で候。折角時候御自愛專用に存じ奉り候、已上。
この段は追伸です。「御家族の皆さまへもよろしく傳えてください。私の家族も同樣によろしくと申しております。」と、この追伸もまた當時における定例の挨拶です。
註 太字:譯文 赤字:解說
桃井直正の筆蹟は、一際見事に書かれた隸書の作品がよく知られる一方で、行書作品も少なからず現存しています。今人の目には、特に隸書の方が奇異に映ることから、行書の作品は隸書に比べてやゝ人氣が無いように感じられますが、その端正な書風は桃井直正という人物の人柄をよく表しているように思われ、私は好んで偶にこれを床の間に掛けて觀賞しております。
今囘こゝに取り上げた『桃井直正書簡』を觀ると、行書作品の筆蹟と氣脉を一にしており、當時の俗態に泥まない韻致を、その筆蹟に見ることができるかと思います。
尙々、この書簡の記された年代は、西川富次郞を調べれば判明すると分り乍ら、未だ資料を閱する機を得ず、そのため取り敢えず、舊幕時代の筆ではないかということ丈け付言して置きます。
令和三年八月十九日 因陽隱士著
參考史料 『桃井直正書簡:十一月三十日付』筆者藏
性を得る所を知んと欲して、來て仁智の情を尋ぬ。氣爽にして山川麗はしく、風高して物候芳ばし。燕巢夏色を辭し、雁渚秋聲を聽く。茲に因て竹林の友、榮辱相驚ること莫し。己卯孟秋中旬書す、靜脩山人桃正。
『懷風藻』に收める所の吳學生釋智藏が二首の中の一首「五言秋日言志」。明治十二年七月中旬の筆。
一心
惟ふに心の德は至虛至靈。其の本體を原[たつ]ぬれば廣大高明。內衆理を具へ、外萬變に應ず。之れを六合に放ち、之れを方寸に斂む。善く養ひて害無くんば、天地と似たり。之れを伊何[いか]に養ふか、日々敬ふのみ。之れを伊何に敬ふか、惟[たゞ]誠の一字のみ。萬變是れ鑒するに、一以て之れを貫く。明治十四年暮冬中浣書す、河南隱士靜脩山人桃直正。
長谷川流兵法剱術圖法師卷 一卷 帋本墨書 15.3 × 236.8 cm 江戶時代 萬治四辛丑年三月吉日付 筆者藏
長谷川流兵法剱術圖法師卷. Edo period, dated 萬治 4 (1661).
Hand scroll. Ink on paper. 15.3 × 236.8 cm. Private collection.
上泉流居合目錄卷 一卷 帋本墨書 17.6 × 84.1 cm 江戶時代 元和七辛酉極月吉日付 筆者藏 近江彥根藩上坂家文書
上泉流居合目錄卷. Edo period, dated 元和 7 (1621).
Hand scroll. Ink on paper. 17.6 × 84.1 cm. Private collection.
こゝに取り上げる傳書は、無雙英信流柔術の『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』(筆者藏)です。この『印歌之卷』は、已に外題を失っており、その本来の題名を知らず、爲に同時に傳授された『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』に依て、仮に『印歌之卷』と呼びます。
無雙英信流の柔術や、往昔の藤原勝負の流也。
無雙英信流の柔術というものは、往昔の藤原勝負の流である。
*「藤原勝負之流」・・・小菅精哲の『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』(筆者藏)に曰く、「無雙藤原勝負直傳末派正統一流之和」と。
足下多年意を此藝に適(ゆ)き、飄然として群ならず。得る所の術も亦た密ならずと爲さゞる也。
足下は多年意(こゝろ)をこの藝に傾け、一頭地を拔く。會得した術もまた熟達していないものはない。
*「適意」・・・「適」は「歸向」、心がある方向に向うこと。
*「飄然不群」・・・杜甫の「春日憶李白」の一節、「白也詩無敵、飄然思不群。」。
*「密」・・・「稠密」。
猶ほ能く朝磨夕鍛して、卽ち旣に龍を掣すに至る。洵(まこと)に誣(あざむ)かざる也。
更に朝磨夕鍛した結果、旣に龍を掣すいう境地に至っている。これは虛言ではない。
「誣」・・・「欺瞞」、あざむく。
故に今、先師より傳ふる所の規矩を以て。盡く諸れを足下に授く。
故に今、予が先師より傳えられた規矩を盡く足下に授ける。
*「諸」・・・「之於」。
*「規矩」・・・《荀子・王霸篇》「猶ほ規矩の方圓に於けるがごときなり。」*これは同流『印歌祕密切紙無雙安全之卷』の言に籍れば「武法」。
足下も亦た他に儻(も)し悃詣の人有らば、舊に依て之れを傳へれば、自らの榮久し。
已後、足下もまた、儻(も)し他に懇望の人が有れば、舊に依てこれを傳えることで、自身の名譽を後世に傳えられるだろう。
*「悃詣」・・・「懇望」。
印歌の卷の如きは、尤も當に其の人を斟酌すべき也。
中ん就く、印歌の卷の如きは、最も授與する弟子の人格を考慮しなければならない。
爲に言ふ。必ず、己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ。術を放(ほしい)まゝにして人を誣(あざむ)くこと無かれ。
その爲に言う。必ず己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ、術を放(ほしい)まゝにして人を誣くこと無かれ。
*「放」・・・《操觚字訣》「自由氣まゝにすること也。放はうちやる意也。」
不者(しからず)んば、唯將に人を掣(制)さんとして、却て人に掣せらるゝの悔有り。慎まざるべからず。
そうでなければ、いざ人を掣(制)そうとして、反って人に掣される恐れが有る。愼まずにいられようか。
匄(こ)ふ、足下勉めて誨(おし)へよ、勉めて誨へよ。
足下が敎誨に努めることを願う。
*「匄」・・・「乞」。
註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註。
傳書は、單に切紙・目錄・免許・印可などゝ言いますが、その名稱やその內容が一定していないことはご存じの通りです。今囘の『印歌之卷』は、上記のごとく指南免許として傳授されたものです。この形式は、かなり古くからある標準的なものと言えるでしょう。
この無雙英信流柔術は、何處のものか未だ調べ終えていませんが、一連の史料に據って師弟共に但馬國出石藩の士であると考えられます。
令和三年八月十一日 因陽隱士著
參考史料 『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』筆者藏/『兵庫縣史史料編近世一』兵庫縣史編輯專門委員會編
こゝに取り上げる傳書は、『念流正法兵法未來記兵書』(筆者藏)です。念流は兵法諸流派の源流の一つとされ、武術に興味をもつ人ならば、知らないということないでしょう。
この『念流正法兵法未來記兵書』は、入門卷・獅子卷・豹卷・象卷・龍卷・後序を合して成る長卷にて、念流未來記七代の知識友松僞庵(當時彥根井伊家の臣、祿三百石)の筆により、年月日を缺くも、寬永期のものと推測され、脇豐次(彥根井伊家の臣)に傳授されたものです。
今囘はその中の『獅子卷:小笠原東泉坊源甲明謹序』を讀みます。
この「小笠原東泉坊源甲明謹序」には、念流正法兵法未來記の高祖念大和尙が、摩利支尊天より劒術を傳えられ開悟したという傳說が記されています。
小笠原東泉坊源甲明謹みて序す
*「小笠原東泉坊源甲明」・・・序に登場する「慈三(赤松三首坐禪師)」の後繼者。
○獅子の卷
夫れ劍は金剛全躰三摩耶の尊形也。之れを喚びて三尺の寶釼と號し、五塵六欲の煩惱を截り斷つ。
そもそも劍というものは、諸佛諸尊の請願を象った毀壞しない法器である。名付けて三尺の寶釼と稱し、五塵六欲の煩惱を截り斷つものである。
空中に向ひ之れを振へば、則ち塵沙無明の魔黨を降伏す。軍中に向ひ之れを振へば、則ち三軍之れが爲に大に敗る。
空中に向って振るえば、塵沙無明の魔黨を降伏し、軍中に向って振るえば、三軍を大敗させる。
或る時は巖窟に入り猛虎を斬り、或る時は滄溟に臨み蛟龍を截る。之れに加へて金鞭と爲り、畜趣を穢土に制す。以て行へば自由三昧なり。
ある時は、巖窟に入って猛虎を斬り、ある時は滄溟に臨んで蛟龍を截る。それだけでなく、金鞭と爲して惡業を働く者共を現世に制すれば、自由三昧に至る。
*この段まで劍の靈威を說き、次段より高祖念大和尙が、摩利支尊天に因って開悟した光劍光身の位の話へと移る。
高祖奧山念、相陽壽福禪寺に於いて、神僧より過去現在の二術を傳へらる。過去の術は、魔法也、亂故等の流れ也。現在の劍術は、東西南北の諸士之れを傳へ、家名を立て、世[よゝ]擧て知る所也。
高祖(念流の元祖)奧山念は、(十六歲のとき)相模國壽福禪寺に於いて、神僧より過去・現在の二術を傳えられた。過去の術は魔法であり、亂故(・古江・玄心)等(など)がこの末流である。現在の劍術は、東西南北の諸士が承傳して、家名を立てた。これは世間に知られている。
*「高祖奧山念」・・・幼少のとき父を亡し、游行上人の門弟となり念阿彌陀佛と稱す。後ち還俗して相馬四郞義元と稱し、亡父の仇を討ち、再び禪門に入り慈恩と稱し、また念大和尙とも稱す。諸國修行の末、晚年波合に住む。
*「亂故等流也」・・・管見の限り、現在の諸書にはこの一節に關して諸說あり。しかし、同流の「入門卷」(筆者藏)または樋口家の『當流傳來覺書』を參照すれば、「次傳魔法亂故古江玄心等此末葉也」、「次傳魔法亂故古江玄心云者此末流也」の記述を約めたものであることが分る。則ち、鞍馬寺に於いて天狗より術を傳えられ判官流と號した。それから魔法を傳えられた。これは亂故・古江・玄心という者がこの末流である、ということ。
*この段、記述が錯誤していて、『入門卷』や『當流傳來覺書』に據れば、「魔法」を傳えられたのは十歲のとき鞍馬寺に於いて。十六歲のとき壽福禪寺に於いて神僧より傳えられたものが「現在」と考えられる。そして更に、十八歲のとき安樂寺に於いて觀音大菩薩より術を傳えられたとされる。更に諸傳を閱すると、紛糺するため、取り敢えず詮索をこゝに止む。
源叉那王以後の兵法は、皆以て念の末流也。粤(こゝ)に當家未來記の旨趣を見(あら)はさず。
つまり、源義經以後の兵法は、すべて念の末流であると言える。こゝには當家未來記の詳細を書き留めない。
*「當家未來記」・・・『念流正法兵法未來記:入門卷』の「小笠原備前守氏景序」に、「皆以て念の末流」たる所以が詳述されている。樋口定次が著した『當流傳來覺書』も同樣の內容が書かれている。則ち、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」に於いては、その所以が省略されている。故に「旨趣不見」と記される。尙、原文「奧當家未來記」と記されるが、諸書を閱すると「粤」字が正しいと考えられる。
念和尙年老ひて、而して大日本國信州伊那郡、波合に到て山居す。
嘗て、念和尙は年老いて、大日本國信州伊那郡の波合に山居した。
「波合」・・・現在の長野縣下伊那郡浪合村。念和尙は、こゝに摩利支尊天を本尊とする長福寺を建立したとされる。
一の弟子有り、慈三(赤松三首坐)と號す。時に六種震動、惡鬼飛來して.而して慈三を奪はんと欲す。
一人の弟子がいて、慈三(赤松三首坐)と號した。ある時、六種震動して、惡鬼が飛來して、慈三を奪おうとした。
*「慈三」・・・赤松三首坐禪師。奧山念の二番目の門弟にして舍弟。<『(樋口家)當流傳來覺書』>
*「六種震動」・・・佛が說法をする時の瑞相と說明されるが、後の惡鬼飛來と鑑みて、こゝではたゞ大地の震動のみを指すと考えられる。
念阿、口に呪を唱へ、手に釼を提(ひつさ)げて、過去現在の兵術を以て戰ふと雖も、渠(なん)ぞ遂げざらん、天を仰ぎ地に臥するや、七八歲の童子面前に來て.敎外別傳、以手傳手の密術を述(傳述)ぶ。
これに對して、念阿は口に呪を唱え、手に釼を提(ひつさ)げて、過去・現在の兵術を以って戰ったが、惡鬼に對抗できず、天を仰ぎ地に臥したところ、七,八歲の童子が面前に來て、敎外別傳、以手傳手の密術を敎えた。
*「七八歲の童子」・・・摩利支尊天の化身。
*「敎外別傳」・・・佛祖の心印を直傳するという佛語から轉じて用いられる語。
「禪林用語。不依文字、語言,直悟佛陀所悟之境界,卽稱爲敎外別傳。」<佛光大辭典>
*「以手傳手」・・・この語の典據を見ないが、劒術という實體に卽した敎えにつき、敢えて「以心傳心」の「心」と「手」とを入れ替えて用ゐたものかと察せられる。
念會(え)せずして、而して劍を取て、童子に向ひ打て問ふて云く、「敎外別傳の意旨如何(いかん)。」と。兒童忽ち狗(天狗)に變じて、劍を提げ起て丁と打つや.念劍下に大悟す。
念は會得できず、劍を取って、童子に向って打ちかゝり、「敎外別傳の意旨とはどのようなものか?」と問いかけたところ、兒童は忽ち天狗に變り、劍を提げ起って丁と念を打った、それで念は劍下に大悟した。
狗の云く、「汝が道は。」と。念屈屈して云く、「猛虎畫けども成らず、師に道を請ふ。」と。狗の云く、「識らず。」と。又た云く、「一鏃、三關を破る。」と。
天狗は尋ねた、「汝が道は?」と。念は畏服して答えた、「猛虎を畫こうとしても、その眞を畫くことはできない、師よ道を敎えて下さい。」と。天狗は「識らない。」と答え、次いで、「一鏃、三關を破る。」と答えた。
*「一鏃、三關を破る」・・・「欽山因巨良禪客參問、一鏃破三關時如何。師曰、放出關中主看。」。
「禪宗公案名。又作欽山一鏃破三關。以一箭射破三道關門,比喩一念超越三大阿僧祇劫、一心貫徹三觀、一棒打殺三世諸佛,不經任何階段而直參本來面目者。」<佛光大辭典>
是くの如く爲(す)ること數日、童子歸らんと欲す。念、出所を問へば、兒の云く、「我今姿を見(あら)はし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。
このようにして數日を過ごしたところ、童子が去ろうとしたので、念はその居所を尋ねたところ、兒が言うには、「我は今姿を現わし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。
殊勝なる佛恩也。聲を揚げて禮拜して、然り而して后ちに惡鬼退く。劍を光らし身を光らすの位、是れ也。
殊に勝れた佛の惠みである。聲を揚げて禮拜したところ、惡鬼は退いた。劍を光らし身を光らす(光劍光身)の位というものはこれである。
厥(そ)れ兵は十二時、劍を帶びざること莫し。仍て、當家此の術を以て第一の手傳、祕中の祕と爲す也。
兵というものは、常時劍を帶びるものであるから、當家はこの術を以て第一の手を以て手に傳える祕中の祕として扱うものである。
末葉、金銀珠玉を以て、不識の人に傳ふるに於いては、必ず天罰を蒙るべき者也。恐るべし、祕すべし。
後の代の者たちは、金銀珠玉と引き換えにして、流儀を傳えるに相應しくない者に傳えたならば、必ず天罰を蒙るから、恐れて祕すべきものである。
註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註
今囘の「小笠原東泉坊源甲明謹序」の讀解は、刊行圖書の恩惠に浴し、正確とは言えないまでも甚しくは過ったものにはならなかったと思います。全日本劍道聯盟の『劍術關係古文書解說』と『鈴鹿家文書解說(二)』とに於いては、樋口家の念流史料の圖版が載せられており、擴大複寫して利用することで、大に讀解の助けとなりました。そして、森田榮氏の著書『堤寶山流祕書』と『源流劍法平法史考』とに於いては、念流慈恩・奧山念阿彌に關する考證が詳しく述べられており、「小笠原東泉坊源甲明謹序」を讀み解く際の善き指針となりました。
『日本武道大系』に於いても、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」は收められていますが、その訓點に慊らず、これを采りませんでした。
令和三年八月三十一日 因陽隱士著
後年、彥根藩の念流指南役の古文書を得たことによって、この記事は大幅に改善の餘地があると分りましたが、現在はこのまゝにして置きます。
令和五年四月廿五日 附記
參考史料 『念流正法兵法未來記』筆者藏/『堤寶山流祕書』森田榮著/『源流劍法平法史考』森田榮/『劍術關係古文書解說』全日本劍道聯盟/『鈴鹿家文書解說(二)』全日本劍道聯盟