『國友一貫齋書簡』を讀む

『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏

今囘、こゝに紹介する古文書は、『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』です。

○ 沿革
この手紙は越前大野藩、土井家の家来中村家が所藏していたものです。中村氏といえば彼の明君土井利忠公の側近中村重助が世に知られています。その中村重助の父には軍學者の弟がおりました。これが初代中村志津摩です。その初代志津摩は次男坊なので家督を繼ぐことは出来ず、軍學を以て身を立て、また良いところの家柄でしたから特別に別祿を賜り一家を立てられました。これを假に中村志津摩家としておきましょう。二代目、三代目も志津摩と名乘ります。その軍學者初代志津摩の子二代目志津摩こそ、今囘紹介する書簡の嘗ての持ち主でした。

〇 二代目中村志津摩
二代目志津摩は父のように軍學はやらなかったようです、そういった形跡は見當たりません。彼は砲術家としての道を撰びました。自由齋流という歷史があって著名な流派を修行し、遠境の京都に住まう津田算緜という人物に師事して印可を相傳されます。
印可というのはつまり、その流派の全てを學び終えて獨立し、一家を立てゝ弟子を敎え、目錄や免許を與えることが出來る立場のことです。この段階に至ることは實に難しく、ただ伎倆が優れていてもなれるものではありません。流派の身分にもよりますし、さまざまな條件によっても異なるのですが、自由齋流の場合は士筒ですから、印可を得るには伎倆・經驗・智識・人格に加え、指導者として相應しい家柄が必要だったと考えられます。この點、彼は重臣の家から一つ分かれた家柄であり、身分も用人に昇るほどですから全く問題なかったと思います。

〇 國友藤兵衞
扨て、本書簡を認めた國友藤兵衞のことです。國友藤兵衞といえば國友鍛冶の一家を指し、代々藤兵衞を名乘るものが多くいました。そのため書簡などの名を見ても、はたしてその人物が何代目に該當するものか、一見して判斷の付きかねるものです。
今囘こゝに紹介する書簡は『能當流鑄筒製作法』と題する一冊に挾み込まれていたもので、且つ書中に鑄筒製作本を送ったとありますから、書簡と冊子と共に同一人物・同時期の作成であることが明らかです。
しかし、國友藤兵衞の筆蹟を確認し得る資料が見當りません、つまり筆蹟を見るかぎりにおいては何代目なのか比定できないのです。けれども『能當流鑄筒製作法』には年號が書かれています、文政十二年八月、この年國友一貫齋(九代目重恭)は五十二歲、現役でありました。そして八代目重倫は寬政十一年歿、十代目元俶が跡を繼ぐのは天保十一年のこと、すなわち『能當流鑄筒製作法』は間違いなく國友一貫齋の作成にして、手紙もまた同一人物の作成だと云えるのです。

以上、書簡の差出人・受取人について知った上で讀んでみましょう。

一、鑄筒製作本、先達て飛脚差し上せ申し上げ候節、差し上げ候と存じ奉り候所、取り殘し置候間、此度差し上げ奉り候御落手願ひ上げ奉候。 『鑄筒製作本』、題名通り鑄筒の製作方法を著した本。文政十二年八月、國友一貫齋の手によって記され、本書翰と共に中村志津摩に贈られた。もう少し以前に贈るはずだったが、忘れていたとのこと。
『能當流鑄筒製作法』筆者藏

一、釷■御入れ遊ばされ候節、錫も入れ湯能くさへ候時、繪形に印し置き申し候穴より釷■御入れ遊ばさるべく候。
『鑄筒製作本』の內容を補足。釷■の「■」の文字が表示されず、「金」へんに「丹」か、造語歟。金屬の名。

一、タメル又はトリベ候湯を受け、繼ぎ込み候には、トリベにて釷■をわかし置き、其內へ湯を受け申し候。タメルにては、本に印し候通り、直に留壺より形へ繼ぎ込み候時は、穴より土釷■を入れ申し候。此品御承知遊ばさるべく候。
「タメル」とは「タメ留」と書く、金屬製の鍋。留壺(ルツボ/坩堝)から一旦これに流し込み、溫度を調整したり藁灰を入れたりする、そして鑄型に注ぎ込む。
「トリベ」とは「取鍋」と書く、金屬製の鍋で取っ手に竿を二本通したもの。湯二十貫目入。用途は「タメ留」と似たようなものか、少し小型なようです。

鑄筒の儀は、尊前樣方にて手間料入らず、御なぐさみに遊ばされ候には甚が宜敷く、私共にて千萬人手にて致させ、高手間出し候ては何れそん[損]仕り候。廿貫已上なれば宜敷く候。何卒御憐愍御執成し偏に願ひ上げ奉り候。
鑄筒は、ある程度なら外註せず、自前で製作した方が出費を抑えられる。言外に、特別に製作方法を敎示する。代りに、難しい大型の製作であれば、是非とも當方へ註文してくだされ、との意歟。*こゝの解釋は推測です。

『鑄筒製作本』筆者藏

一、御約束の三匁玉筒のきり[錐]、漸く出來仕り候間、獻上仕り候。さびきりにても御入れ遊ばされ候節、カリ竹の先少し厚く遊ばされ候て、元先一めんに掛り候樣に遊ばさるべく候。
三匁玉筒の手入れ用具ですね。

一、御申し上げ候筋の儀、病後にて鍛へ存意にも相叶はず候得共、先づ獻上仕り候。御收納願ひ上げ奉り候。此度は參上仕り、山々御物語仕りたく、又は御目見等の儀願ひ上げ奉りたく、相樂み居り候所、心外の仕合、御察し下さるべく候。
顧客との取引に至って丁寧な一貫斎。後段のごとく、どうしても体調不良で参上できないとのこと。

私三拾年此方、半時わづらひ候事御座無く候。此度は誠に心外に存じ奉り候。色々申し上げ奉りたき御儀御座候得共、とかく氣六ヶ敷く候間、入用迄申し上げ奉り候。已上。
頑健な方だったようですが、何らかの患いによって參上できず、用件のみを傳える。

註 太字:譯文 赤字:解說

『一貫齋國友藤兵衞傳』を引っ張り出し「一貫齋文書」を見ますと、當時國友に依賴された諸方面からの註文書のなかに中村志津摩の名を見付けることができます(「鐵炮製作關係:其一、註文書」)。
中村志津摩の註文は76.77そして84の項目にあり、その間同流と書かれているものや前後も大野藩關係の註文だと思います。そのなかには殿樣御筒も見られます(同書中、津田流と記されているのは、自由齋流の別名です)。

令和五年十月二十八日 因陽隱士著

參考史料 『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏 /『能當流鑄筒製作法』筆者藏 /『越前大野藩中村家文書』筆者藏 /『大野市史:藩政史料編一』大野市 /『一貫齋國友藤兵衞傳』有馬成甫著

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

今囘は『齋藤龍善書簡:十一月三十日付』を取り上げます。齋藤龍善、この人物は齋藤彌九郞の稱でよく知られる篤信齋の子です、恐らくご存じでしょう。神道無念流、練兵館の二代目として、彌九郞の稱を繼ぎ、 門下より數多の名士を輩出。講武所劍術師範・幕府遊擊隊肝煎役・幕府步兵指南役竝等を歷任しました。

扨て、この『齋藤龍善書簡』は、丹波龜山藩士垪和氏へ宛てたもので、當時盛んに行われていた尊攘活動のために、ともすれば脫藩し兼ねない樣子の垪和氏を案じて認められました。練兵館に尊攘派の人物が多かったことゝ無關係ではないでしょう。

爾後は久々御無音罷り過ぎ恐縮此事に存じ奉り候。先以て春暖の節御座候處、益御勇健拜賀し奉り候。
定型の挨拶です。

愈々此度源海禮次郞殿御供にて、一寸歸宅成され候に付、一寸申し上げ候。
はじめに、宛名の垪和氏や源海氏は丹波龜山藩の士です。そして、こゝの文意は宛名の垪和氏が源海禮次郞の御供で歸宅するようにも捉えられますが、垪和氏は國許の龜山に居りますから、源海氏は殿樣の御供として江戶から龜山へ歸國するという文意が正しいです。そこで、齋藤氏は言いたいことがある、と。

扨て、一別以來世變申し盡し難く候。先々御安泰、大慶此事壽ぎ奉り候。
幕末、何かと異變のある時勢ですが、兩者とも安泰、無事で何よりです、と。

彌御盛んに釼術御引き立ての段、重疊の御儀と存じ奉り候。然る處、遠境にて何事も碇と致し候事、相聞へ申さず、
先ず、宛名の垪和氏は別項「所藏史料紹介:神道無念流三卷」を相傳された神道無念流免許皆傳の人物。國許へ歸って藩士たちを敎導していました。「御盛んに釼術御引き立ての段」とは、そのことを指しています。「遠境にて」、江戶と龜山とは遠隔、確かな情報ではないと前置き。

去り乍ら、當時尊公にて何角御不都合思し召し候事共これ有り候哉にて、時々御不平の御樣子も相見へ候段、薄々承知仕り候。
「當時」とは、垪和氏が江戶の練兵館で修行中のことでしょう。齋藤氏は、垪和氏が日頃不滿を募らせている樣子を心配していました。

何等の儀に候哉、相心得ず候得共、今日世に處するものは人間而巳に相抱らず、出役變地の儀は當然にて、自然に相任せ自己の了簡相用ひず候樣仕りたく、壯年血氣は甚だ事に害これ有り、宜しからずと存じ奉り候。
「何等の儀に候哉」とはいえども、ある程度豫想はついているけれども、本人から確かなことを聞いたわけではないため、遠廻しに垪和氏の不滿を宥める論調です。後段に仔細あり。

何分此上の處、拾ヶ年今身を守り、御辛抱これ有りたく、小生儀も猶ほ愚案もこれ有り候間、追々御志も相達し申すべく、必ず不平御ならしこれ無く、默々然と御藝術御出精を祈念し奉り候。
國許の龜山に戾された垪和氏の不滿は、江戶滯在中よりも膨れ上がっていたのかもしれません。劍術の敎導にのみ力を盡して、無謀なことをしてくれるな、と。

今日人情天下の形勢、何方も同斷にて或は御脫藩等の御趣意等これ有り候ては、以ての外御不存意と存じ奉り候間、是よりは小生老馬□に御面じ、前段宜敷く御承知願ひ奉り候。御許容もこれ有り候はゞ、實に大慶至極存じ奉り候。吳々惡しからず承知下さるべく候。
齋藤氏は、垪和氏が尊王攘夷の思想に同調するあまり、脫藩するのではないかと危惧していました。僕の顏に免じて、是非とも思い止まってくれと懇願。

一、源海君御修行、追々御上達候處、此度御歸國は甚だ宜しからず候得共、是非に及ばず。
御供のため歸國する源海氏。滯府していれば、もっと劍術が上達していたはず。

倂し乍ら、猶又御同人・御一門樣へ御出會ひ早々出府これ有り候樣、御傳聲願ひ上げ奉候。
今度歸國する人たちに出會ったら、できればまた出府するように勸めてほしい、と。

右の段申し上げたく、誠に繁用尙々日勤同樣寸暇を得ず、亂筆を顧りみず我が赤志申し述べ候。猶ほ後便の時を期し候。恐々頓首。
齋藤氏、日勤同樣の忙しさ。取り急ぎ、垪和氏の脫藩を止めたかったのでしょう。

尙々、末乍ら御惣容樣宜しき哉、傳聲願ひ上げ奉候。猶ほ以て時下折角御厭ひ御座候樣祈念し奉り候。以上。
定型の締め。

註 太字:譯文 赤字:解說

二代目齋藤彌九郞は、初代が有名なあまり、その事績に注目する人は少ないように思います。私もそうでした。しかし、よくよく事蹟を調べてみると、勤王の志が篤く、また劍術という限られた範圍に終始することなく西洋流の調練・火器に關しても詳しく、有爲の人々と交わり父篤信齋讓りの進步的な精神を持ち、何より人材を育成することに熱意を持った人物でした。

本書簡の如く、遠隔の地にある門人の動向にも憂慮していた樣子、當時の師弟の親密な間柄を窺い知ることができます。

また、本書簡において、齋藤龍善が垪和氏の不滿を宥めることに苦心する一方で、久保無二三の如き尊攘派の志士は、頻りと京都へ出て勤王のために盡そうと呼びかけていたようです。(そのように行動を促す無二三の書簡が保存されていますが、時代の前後は未考)

令和五年十月二十五日 因陽隱士著

參考史料 『齋藤龍善書簡:二月十一日付』筆者藏

東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀

『東洋齋藤龍善先生筆孫子兵勢第五帋本直幀』筆者藏

夫れ兵は勢弩を彍るが如く.節機に發するが如し.紛々紜々として戰い亂るれども.亂る可からざるなり.

『物外不遷書簡』を讀む

『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、物外不遷の書簡です。津本陽の小說『拳豪傳』に、その生涯が描かれており、武術にさほど興味が無い人々にも「拳骨和尙」として廣く知られていると思います。

物外不遷の筆蹟は、主に掛軸や扁額として、その筆蹟が今日に保存され、目にする機會が多く、特に隸書の大字が珎重されています。

しかし、掛軸や扁額の筆蹟が世に知られこそするものゝ、日常の筆蹟というものは、掛軸や扁額の筆蹟の多さに比べて、極めて少なく目にする機會が稀と言えます。なぜ、今日に書簡の類が保存されていないのか、あるいは篋中に眠ったまゝなのか、その邊りのことを知る術はありません。

そこで私は積年、物外不遷の日常の筆蹟を探索してきました。そして過般、ようやくこれを發掘する機會を得た爲、此度、こゝに紹介しよういうわけです。それでは讀んでみましょう。

二白、時氣御用愼專一祈る處に御坐候。珎敷き品、數々相求め申し候。
「二白」というのは追伸のことです。冒頭に書かれていますが、本文を書いたあとに付け足すもので、「追而書」「尙々書」に類するものです。

幸便を以て貴意を得候。時に薄暑に相成り候處、彌御厚安賀し奉り候。
「薄暑」「猶淸和月」といゝ、初夏の氣配、陰曆の四月。時候の挨拶に始まるのは、現代と同じく定型。

山僧事も無事にて御存じの樂しみ捨て難く、定て足下も何ぞ珎しき物御手に入りこれ有り候や。
そして、自身の無事を傳えるところまで定型。「山僧」は、自身を遜っていう一人稱。「御存の樂しみ捨て難く」とは、骨董蒐集のことを指しています。物外和尙に骨董蒐集の趣味があったとは知らなかったですね。とはいえ、佛敎系の古物を求めていた樣子です。「足下」、貴方もきっと何か珍しいものを入手していることでしょう、いかゞですか?、と。

何卒近年の內御尋ね申したく存じ奉り候へども、參り兼ね申候。其內一度は是非と存じ奉り候。
遊びに行きたいのは山々ですが、行けそうにありません。その內一度は是非行きたいと思っています、と。

然ば去春は御出で下され候處、何の風情も致さず、殘念に存じ奉り候。
去年の春、來訪のことを振り返る。

扨て、おこまどのへよろしく御鶴聲御賴み上げ候。
「おこまどの」とは恐らく奧さんのことでしょう。

先づ長命の御用愼第一の事に存じ奉り候。壹人も命あれば驕り逢ふ。
「長命の御用愼第一」、健康第一。健康であることを當たり前に思って、不攝生してはならないという戒め歟。「壹人も」の「壹」の字の判讀は、不確かです。

先づは御見舞旁々此くの如く御坐候。不備。
締めの定型。

龜太郞樣
丹波龜山藩の所領は、備中淺口郡にもあり、いわゆる飛び地、こゝに詰めていた藩士の一人が淺野龜太郞。物外和尙の居處「濟生寺」からもほど近く、兩者は古物の蒐集という共通する趣味を持っていたと分ります。
實は、同封にもう一通あり、近ごろ手に入れた珎物として、達磨大師立像や古銅の楊柳觀音像、唐物の宣德湯わかしといったものが擧げられています。

註 太字:譯文 赤字:解說

以上、物外不遷の書簡、いかゞだったでしょうか。本書簡は、同封の一通によって、安政三年、物外和尙六十二歲の筆と考えられます。なんとなく、もっと破天荒な文字を書きそうな數々の逸話を殘していますが、實際のところ書風は尋常そのもの。たゞ當時普通の俗體とは趣が違う大らかさがあるように感じます。

後段に掛軸を載せています。書簡の筆蹟と見比べて下さい。

令和五年十月二十四日 因陽隱士著

參考史料 『物外不遷書簡:猶淸和月付』筆者藏

物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀

『物外不遷和尙書三社託宣帋本直幀』筆者藏

天照皇太神宮
 謀計雖爲眼前之利潤.必當神明之罰.正直雖非一旦依怙.終蒙日月憐.
八幡大菩薩
 雖食鐵丸不受汚人之處.雖坐銅焰.不到意穢人之處.
春日大明神
 雖曳千日注連.不到邪見之家.雖爲重服深厚、可赴慈悲室.
乙卯[安政二年]六十一翁物外謹書.

『桃井春藏直正書簡』を讀む

『桃井直正書簡:十一月三十日付』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、『桃井直正書簡:十一月三十日付』です。桃井直正、この人は桃井春藏の名でよく知られており、ご存じのごとく鏡心明智流四世、士學館の主です。
桃井春藏は、文久二年、幕府に召し出され諸組與力格を仰せ付かり、御切米二百俵を下され、翌年劒術敎授方出役を仰せ付かりました。委しい履歷は諸書に讓り、爰に贅せず。

偖て、この『桃井直正書簡』は、同門の出石藩士西川富次郞が獨立し、藩内に於いて流儀を指南する立場になったことを祝したものです。前後の關係や、兩者の間に直接的師弟關係があったのかなど、明らかでないことは多くありますが、讀んでみましょう。

九月朔日御認めの尊書、拜見仕り候。向寒の砌に御坐候得共、高堂愈御淸福に渡らせられ珎重拜壽奉り候。
先ず、九月朔日の書信を受け取ったことゝ、定例の挨拶とを述べています。相手から受け取った書信の日付を明記することで、書信未着による齟齬を生じさせないことは、江戶時代の通例でした(その發生年代や普及の程度は未考)。

陳れば、御細翰の趣、逐一拜承。今般彌御開流に相成り、且又御見分等も之れ有り、御性名書・組合付御遣し、篤と拜見仕り候。
御細翰は事情を詳細に傳える書信のこと。これによって、書簡の差出人西川富次郞の開流と、見分のときの門弟の性名書と組合付とを知り得た、と前置きです。
西川富次郞は、桃井直正の門弟西川八十之進の後繼者にて、但馬國出石藩の士。
次に、開流というのは、はじめて師範となって門弟をとることを指すものかと推察します。また、見分・性名書・組合付は、武藝見分と、それに備えた文書とを指すものと考えられます。斯ういった見分時の樣子を記錄した文書と性名書・組合付の文書とを、これまでに幾例か目にしました。

誠に多年の間御懈怠無く御出精、御厚志の貫徹する處にて、流儀祖先に對する御功德、此上無く、小生に於いても歡喜雀躍、紙上に申し盡しがたく存じ奉り候。猶ほ此上の盛業を祈念奉り候。
此段こそ、桃井直正が傳えたかった本書翰の主旨にて、注目すべきところです。

一、每々遠路の處、御書下され候處、公私繁用にて、存じ乍ら一々御返書も差出さず、甚だ不本意の至り、恐れ入り候得共、此段は御賢察、御海容下さるべく候。
桃井直正という人物の立場を考えれば、よほど繁多であったことは想像に難くなく、また當時の書信に於いて、このように返信の延引を詫びた文面を少なからず見ます。

將又先般御賴みの拙書、早々相認め差出し申すべく候處、前件の通りにて執筆の間も御坐無く、追々延々に相成り、漸く寸暇に相認め別して不出來、恐れ入り候得共、呈上奉り候。御落手下さるべく候。
この段、西川富次郞の揮毫依賴に應えて、ようやく書き上げ作品を送付したとの旨を述べています。桃井直正は、劍術家としては珍しいことに、數多くの作品が現存しており、當時に於ける知名度の高さや、當人の書に於ける自負のほどが窺えます。

右、一應の御請旁御歡び申し述べたく斯くの如くに御坐候。書餘後便萬縷、匆々不具、謹言。
「書餘後便萬縷」は、「書き餘した話しは後の便(たより)に萬縷(詳しく)申し上げます。」の意。

尙ほ以て、端書乍ら御惣君樣へ冝鋪く御通聲願ひ奉り候。家族共同樣申し上げたき旨申し出で候。折角時候御自愛專用に存じ奉り候、已上。
この段は追伸です。「御家族の皆さまへもよろしく傳えてください。私の家族も同樣によろしくと申しております。」と、この追伸もまた當時における定例の挨拶です。

註 太字:譯文 赤字:解說

桃井直正の筆蹟は、一際見事に書かれた隸書の作品がよく知られる一方で、行書作品も少なからず現存しています。今人の目には、特に隸書の方が奇異に映ることから、行書の作品は隸書に比べてやゝ人氣が無いように感じられますが、その端正な書風は桃井直正という人物の人柄をよく表しているように思われ、私は好んで偶にこれを床の間に掛けて觀賞しております。
今囘こゝに取り上げた『桃井直正書簡』を觀ると、行書作品の筆蹟と氣脉を一にしており、當時の俗態に泥まない韻致を、その筆蹟に見ることができるかと思います。

尙々、この書簡の記された年代は、西川富次郞を調べれば判明すると分り乍ら、未だ資料を閱する機を得ず、そのため取り敢えず、舊幕時代の筆ではないかということ丈け付言して置きます。

令和三年八月十九日 因陽隱士著

參考史料 『桃井直正書簡:十一月三十日付』筆者藏

靜脩山人桃井直正行書秋日言志帋本直幀

『靜脩山人桃井直正行書秋日言志帋本直幀』筆者藏

性を得る所を知んと欲して、來て仁智の情を尋ぬ。氣爽にして山川麗はしく、風高して物候芳ばし。燕巢夏色を辭し、雁渚秋聲を聽く。茲に因て竹林の友、榮辱相驚ること莫し。己卯孟秋中旬書す、靜脩山人桃正。

『懷風藻』に收める所の吳學生釋智藏が二首の中の一首「五言秋日言志」。明治十二年七月中旬の筆。

靜脩山人桃井直正隸書一心

『靜脩山人桃井直正隸書一心』筆者藏

一心
惟ふに心の德は至虛至靈。其の本體を原[たつ]ぬれば廣大高明。內衆理を具へ、外萬變に應ず。之れを六合に放ち、之れを方寸に斂む。善く養ひて害無くんば、天地と似たり。之れを伊何[いか]に養ふか、日々敬ふのみ。之れを伊何に敬ふか、惟[たゞ]誠の一字のみ。萬變是れ鑒するに、一以て之れを貫く。明治十四年暮冬中浣書す、河南隱士靜脩山人桃直正。

『高島秋帆書簡』を讀む

『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏

今囘取り上げる古文書は、『高島秋帆書簡:十月十三日付』(筆者藏)です。高島秋帆の名は、恐らく幕末史を好む人ならば、旣にご存じかと思います。ご存じない人のために少し觸れると。高島秋帆は、西洋流(高島流)砲術の開祖として知られています。この西洋流は、單に從來の砲術諸流派の中に出現した新しい一派としてのみ語られるべきものではなく、從來の砲術を舊時代の遺物にしてしまうほど劃期的なものでした。當時の日本の情勢に於いて、西洋流という媒体は軍制改革のために最適だったのでしょう。

扨て、砲術家として知られた高島秋帆は、餘技として書を能くしたことから、揮毫を賴まれることが多かったと見え、今日數多くの作品が現存しています。當時、揮毫依賴というものは、たゞ職業書家にのみ依賴されるものではなく、その人物が有名でさえあれば、書の巧拙を問わず依賴されるものでした。これは有名人の書だから欲しいというやゝ低俗な面があったと思いますが、一方で社會的に認められた立派な人格者を慕って、その書を欲するという高尚な面もあったと思います。素より、高島秋帆は書を生業としていませんが、壯年の時は施南京・下硯香の書風に傾倒し、老年になると雲顧熙の書風に惹かれたと傳えられるごとく、唐樣を好んで學び研鑽して、當時行書を能くすると評判を得ていました(*1)。その上、砲術家として全國にその名を馳せていたことから、相當數の揮毫依賴があったものと察せられます。

揮毫依賴に對して、高島秋帆はどのような態度を以て依賴者に應えていたのか、その一端をこの『高島秋帆書簡』に見ることが出來ます。それでは讀んでみましょう。

御萬福賀し奉り候。昨日は御尊來の處、何の御風情なく失敬御免願ひ奉り候。
定例の挨拶にはじまり、前囘來訪時の風情の無さを詫びています。「何の御風情なく失敬御免」とは言え、これは當時の書信に屢々見られる言い廻しにて、實際に風情が無かったわけではないでしょう。

仰せられ候拙毫、今日間合も之れ有り候間、相認め候處、如何之れ有るべき哉、思召に相叶はず候はゞ、又々仰せ聞けられたく候。
前段來訪の三浦氏に依賴された揮毫の件について述べています。「この日は時間の都合がよく認められたのですが、貴方はこれを見てどう思うでしょうか?、氣に入らなければ、遠慮なく言ってください。」と親切な文言から察するに、よほど親しい間柄か、鄭重に接するべき相手だったとようです。

薄紙は、唐にて書を認め候紙にては之れ無く候。にじまぬ樣に認め候は、秋帆の手際に御座候。
揮毫依賴は、およそ依賴主の方で紙(或は絹)を用意することが多く、その紙の質によって思うように揮毫できない、ということは珍しくなかったと想像します。この段では、秋帆の揮毫のために用意された紙が、薄くて墨が滲みやすいものだったようで、これについて秋帆は「唐樣を書く自分にはちょっと書きにくいけれども、これを滲ませぬように書いたのだ。」と、やゝ得意氣に傳えることで、三浦氏の笑いを誘ったものと見えます。

神保氏書も如何に候哉。先づ相納め申し候間、敷く願ひ奉り候。頓首。
この段、神保氏に關する前後の事情は不明ながら、おそらく三浦氏を介して神保氏より依賴されていた揮毫も倂せて送ったのでしょう。よろしく渡してくださいと賴んだところで、この書狀が終わります。

全體を讀み終えて。やはり宛名の脇付に記された通り、「口上書」ゆえにざっくりと定型の文言は省かれており、直ちに意向を領得できるように認められたものと思われます。

註 太字:譯文 赤字:解說 *:筆者註 *1小西雅徳氏の著『高島秋帆の書画について(覺書)』

久しぶりに書簡を揭載しました。解讀は合っているでしょうか。インタ-ネットを使い、さまざまな記事を見ていると、このごろは古文書入門に關する記事がずいぶんと增えたと感じます。讀める人も增えているのでしょうか。私も日々古文書の解讀に勉めていますが、一向に上達せず、何か新たな試みをすべきかと思案しております。

令和三年八月十六日 因陽隱士著

參考史料 『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏/『集論 高島秋帆』板橋區立鄕土資料館