土屋将監:柳生流長刀目録

『柳生流長刀目録』筆者蔵
『柳生流長刀目録』筆者蔵

柳生流の長刀目録はこの伝書のほかに未見です
数多ある長刀を七つに窮めておいたと記述されているので、土屋将監のときに編まれた伝書かもしれません
しかし、先代のときの文言をそのまゝ踏襲しているのかもしれず、この辺のことは分らないです

伝書の様式そのものは、後世の土屋系に引き継がれています

『柳生流長刀目録』筆者蔵

伝書にこの大きな赤丸を描くのは、いつに始まったことだろう?
所蔵する慶長十八年の夢想願流伝書には、塗り潰さない赤丸が大きく描かれていたり、寛永頃の念流の伝書にも塗り潰された赤丸が見られる

流派の垣根を超えて、採り入れられているこの赤丸はどこから来たのか?
考えるとおもしろいですね

『柳生流長刀目録』筆者蔵

右のこの哥の心もちに能々鍛錬肝要に候
他流には堅躰に致す共、必ず右無躰の心持にて如何にも神妙
秘すべし秘すべし
右の通り一心を肝要に候

『柳生流長刀目録』筆者蔵

土屋将監、名は景次
詳しい履歴は伝わっていません
神後伊豆に学ぶと云われますが、確認されている慶長十八年の柳生流伝書や、こゝに紹介する伝書においても、伝系は「柳生五郎右衛門」を師としています

また、「心陰流」という流名についても、土屋将監のとき名乗っていた史料が見当りません
秋田の系では後世「心陰柳生流」の称があります

因陽隠士記す
2025.8.30

竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25

片山伯耆守久安:片山流居合免状

『片山流居合免状』筆者蔵

已に「『片山流免狀』を讀む」で取り上げた古文書です
この記事を改めて見直すと、文脈に不自然なところがあり、訂正しようと思いつゝそのまゝになっています、すみません

表装などは撮影していなかったので、今回は雰囲気さえ伝われば良いかな、と思っています

『片山流居合免状』筆者蔵

星野家旧蔵文書の中に、数点この手の表装がされています
そのどれもが画像のように、バラバラになっています
糊が弱過ぎた所為かな?
さほど古いものではないのですが...
あまり良い仕立てゞはないのかもしれません

『片山流居合免状』筆者蔵

この料紙と筆跡の組み合わせは、いつ見ても抜群に良い雰囲気です

『片山流居合免状』筆者蔵
巻末のところも少し臺紙から剥がれています この剥がれたところが、巻くとき引っ掛かるので、傷まないように注意しなければなりません
因陽隠士記す
2025.8.22

窪田清音:田宮流剣法道具之記

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

窪田清音の著作

窪田清音は数多の著書を残しており、その中で武道関係といえば『劒道集義』『續劒道集義』に数多く採録されていることはご存じのとおり
また、国立国会図書館に堀江四郎宛の写本が数多く所蔵されているようです*1

今回こゝに紹介する『田宮流剣法道具之記』もまた窪田清音の数多ある著作の中の一つで、尾張藩付家老成瀬家の家臣が所持した写本です
ざっと調べたところ、類似の写本を見出せないことから、こゝで紹介して置こうと思いました

私の調べ方が甘いせいで見付けられていない丈けかもしれません
既出の文書であれば教えてください

1…『剣道の技の大系と技術化について-田宮流窪田清音の著作『形状記』を中心として-』

何が書かれているのか?

書かれている内容は、上掲の画像に説明されている通り、窪田清音の教え子たちに向けて、古製の稽古道具を図入りで解説したものです

清音の教え子たちは、清音が改良した稽古道具を使っていたゝめ、古製の稽古道具を知らなかったという事情により

『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵
『田宮流剣法道具之記』筆者蔵

文政元年の著作となれば、窪田清音の年齢は二十八歳
写されたのは安政のころ

巻末には「追加」として、後年の武術上覧の様子が綴られています

因陽隠士記す
2025.8.20

上泉孫四郎:上泉流居合目録巻

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

表具はありません、はじめから表装されていなかったと考えられます
古伝書*4にまゝ見受けられる仕様で、伝書を表装することがまだ一般的でなかったのでしょう

私が調べた範囲では、寛永のころから伝書に表具するという観念が広まったように思います

4…古伝書という言葉は存在しませんが、私は元和以前のものを古伝書と呼んでいます

『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵
『上泉流居合目録』筆者蔵

「上泉孫四郎 藤原胤綱」と署名されています
上泉孫四郎は多くの別名を持つが、「胤綱」の実名はこの伝書のほかに確認されていません

実名と花押のところに捺された印章は、おそらく「知識明」と彫られています

なお、この伝書は彦根井伊家の念流指南役上坂家の旧蔵文書です
上泉孫四郎は、井伊直政公に寄食していたという*1から、そのころ彦根家中の上坂氏に伝授したものかと推測しています*2(推測の域を出ません)

そして、長野無楽斎もまた井伊直政公に仕え、五百石、九十餘歳で没したと云います3

風傳流の元祖中山吉成も井伊家に出入りしており、念流の友松偽庵も仕えていたりと、武術方面では有名な人物たちがいたのですね

1…『武藝流派大事典』
2…宛名の部分が無いという点を考慮すると、全く別の可能性も考えられます
たとえば、1)身分の高い人物に差し上げた、2)内密に伝書を譲るとき宛名部分を切り取った
3…『武藝流派大事典』、このくだりは『会津藩教育考』を出典とする

*流名については「夢想流」とすべきか悩みましたが、当時の称が分らないため、仮に「上泉流」としました

参考文献『武藝流派大事典』
因陽隠士記す
2025.8.17

小菅精哲:無双直伝流心慮之巻

『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵
『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵

湿気によって傷んだものか、ほんの少しの力でも破れかねないほど料紙が脆弱になっています

これ以上損傷させないために、裏打ちを依頼した方が良いかなと思うも、その一方で伝書の類いの料紙はきつく巻き込むように癖がついているため、上手く裏打ちできるのだろうかという一抹の不安を覚え、現状のまゝ保管しています

裏打ちの何が不安なのかというと
これまでに裏打ちした伝書をいくつか見てきましたが、どれも綺麗に裏打ちできているという雰囲気ではなく、何か違和感を覚える裏打ちばかりでした
妙にゴワゴワしていたり、料紙の巻き癖に馴染まず反りかえるようなものなど

現在のところ、極力触らないようにしています
触れば触るほど傷むため、購入してから三度しか開いていません(涙)

『無雙直傳流心慮之卷』筆者蔵

小菅精哲(荒井政次)
居合・剣術・和の三術を江府に於いて教え、門下五千余、その内八百三拾七人に和の免許を与え、五百三人に和の印可を与え.四十三人に三術を許したと手元の剱雄源海流伝書に記されています

「因て茲に僕、和・水の二字を以て証し抒[の]へ、事理を演説して心慮の軸と為し、之れを授け畢ぬ」
なお、『心慮之巻』は小菅精哲以降も同流において踏襲され伝授されました

印章は耳壺に「寶」の字か
耳壺形は師である長谷川英信に倣ったものかもしれませんね

『江戸時代村落における武術の一事例-滝沢家文書について-』榎本鐘司著
参考文献『江戸時代村落における武術の一事例-滝沢家文書について-』
因陽隠士記す
2025.8.18

煤孫信重:長谷川流居合抜剣巻

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

この辺は落書きされています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていてもそのまゝにしています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

煤孫信重、通称の多兵衛は太兵衛とも書く
陸奥仙臺伊達家の家臣
伊達綱村公のとき、元禄八年九月十八日跡式を相続した
今見られる資料で分る履歴はこれだけです

なお、煤孫氏は元を辿れば須々孫(すすまご)氏といって和賀氏の一族で、須々孫義和のとき、煤孫を名乗ったとされています
煤孫信重もこの一族の血をひくと思われます

『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』国立国会図書館000001792456

『長谷川流居合抜剣巻』は、『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』に採録されています

その翻刻文の中、「剣要構図」の手前に「一筆啓上~」云々と落書きされている部分もそのまゝ翻刻されているので注意してください

因陽隠士記す
2025.8.17

長谷川英信:長谷川流兵法剱術極意巻

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

過去、伝書の購入に際して甚しく高揚した伝書が三つあります
一つは柳生新陰流、一つは北辰一刀流、そしてもう一つが今回取り上げる長谷川流の伝書です
因みに先の二つは購入出来ませんでした

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川流の伝書は二巻あり、もう片方の一巻は『長谷川流兵法剱術圖法師卷』に掲載済みです
二巻共に表具は失われ、虫害著しいのは残念でなりません

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川英信については皆さんご存じの通り、断片的に傳承を記した史料こそ見付かってはいるものゝ、諸々の傳承が錯綜しており、真偽を決し難く確証を得られないという段階にあります
新史料の登場を期待するしかありません

印章、方印の方は門構えに秸の字、壺印の方は「回」「實」とあるようです

因陽隠士記す
2025.8.16

井上外記正継:井上流小筒構堅之圖巻

今回は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術の伝書

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13

鈴木清兵衛邦教:起倒流天巻

『起倒流天巻』筆者蔵
『起倒流天巻』筆者蔵

表裂には、鳳凰と龍に加えて宝尽しの文様

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙の金泥に調和するよう配慮された見返し

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙は上下罫引に金泥絵、そして霞のように撒かれた金砂子
裏には金箔を散らす

『起倒流天巻』筆者蔵

金砂子は光の加減によって青緑色に光る

『起倒流天巻』筆者蔵

起倒流「神武の道」で知られる鈴木邦教の伝授
「貟逸」とあるのはその前名

鈴木邦教(くにたか)
将軍家の旗本、この伝書当時は御勘定、年齢は五十歳
瀧野遊軒の道統を継ぎ起倒流を指南していた
松平定信公の師としてその名声は今日に至るまで伝わっている

「防長侍従」というのは、周防・長門を治める太守毛利重就公のこと
宝暦元年、従四位下侍従に昇進し大膳大夫と称した
鈴木邦教より二つ年下で、明和九年当時は四十八歳
通常大名が武藝を習う年齢ではなく、松平定信公が鈴木邦教に師事していたことゝ無関係ではないかもしれない

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.12