風傳流の流祖中山吉成の行跡-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成の行跡-はじめに

これまでに幾度も取り上げた『風傳流元祖生涯之書』*1に基づき、その他の史料・資料をもって補足し中山吉成生涯の行跡をこゝにまとめる。

『風傳流元祖生涯之書』は、中山吉成の高弟菅沼政辰の著書。流祖中山吉成の行跡を記したもので、後世の失傳に備え、菅沼政辰の最晩年に執筆された*1。
その特徴として、基本は編年体でありながら、それぞれの出来事は年代を明示せず、また所々に著者菅沼政辰自身の行跡も入るため、史料の正確性において少なからず弱い点がある。たゞこれほどに中山吉成の行跡を伝えた史料は他に見当らず、行跡を知る上で貴重な情報であることは言うまでもない。

1・・・同書中に「つらゝゝ考ふに、元祖風傳流を建立せられしより以来、今漸九十年に近し」との述懐があることから、菅沼政辰隠居後、最晩年の執筆と見られる。

中山吉成誕生 幼名不詳 1歳 元和七年

A1「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成出生地は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」において述べたように、矛盾が生じる。よって、推論のごとく「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は仮に「美濃国大垣」とする。

A2「[中山]源兵衛は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」<風傳流元祖生涯之書>

『風傳流免許巻』部分 筆者蔵
中山吉成 ~28歳 元和~慶安元年

B1「父中山角兵衛竹内流の鑓を修練し、則源兵衛も早歳より父角兵衛に此鑓術を傳授して、十六歳より他国へ發向し弟子を取事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、若年の頃より父中山家吉に師事して竹内流の鑓術を修行する。そして、十六歳のとき独立し、諸国を遍歴して修行を重ねつゝ、弟子を取った。

『林鵞峰序:鑓書記』
中山吉成 29歳~30代 慶安二年~明暦

C1「古流を数多ひ又竹内流へ復て弥修行を重て工夫を積て、終に於江府一流を建立す。則風傳流是也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・竹内流を研鑽し古流を取り入れ、風傳流を建立する。風傳流を建立した正確な年代は伝えられていない。

C2「林道春法印に對談して鑓の意味を語るに、法印深く感して自右の趣を文に作りて送る。吉成則是を序文として一巻を顕はす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・幕府の儒官林鵞峰によって撰文された「鑓書記」。これを風傳流の基礎伝書、免許六巻の中の一巻に取り入れた。「鑓書記」の撰文は、慶安二年。則ち、この年を風傳流の成立と考えるのが妥当か。

C3「此時吉成假名を新左衛門と云。其後又名を中山一傳と改」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「一傳」に改名後、中山吉成の弟が「新左衛門」の称を継いだ。

C4「館様の御屋鋪に居なから、鑓の弟子を取の初に酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「館様の御屋鋪に居なから」とあるのみにもかゝわらず、『明石名勝古事談』には「徳川綱吉(後の将軍)の館に居り」と記されている。単に「館様」という語から拡大解釈したものか、明らかでない。

C5「中持市郎左衛門と云人有、是は管鑓の上手といひて此弟子も多く稽古甚有しに、右市郎左衛門が弟子と又一傳の弟子の内にも互に鑓の咄雑談し、又外にもいひ傳る人有て、市郎左衛門と一傳と勝負仕合を望む人多く、既に一傳も仕合をすへき心に決したるに...則四本迄仕合、四本共に一傳突勝れたり。則其鑓の業切組くきりを我らに語られたり。其勝負仕廻て一傳は早速其場を立、十郎兵衛ともに足早に帰りしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・江戸で風傳流中山吉成の名が知られたのは、おそらくこの中持市郎左衛門との仕合によるところが大きいと考えられる。

C6「猶一傳弟子益多くして国々へ風傳流を廣めたると也。勿論其内諸大名衆にも御歴々の方、又御旗本衆にも弟子多く有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中持市郎左衛門との仕合後、大名衆・旗本衆の弟子も多くなったと。

中山吉成 40歳前後 美濃~彦根滞在 明暦~万治

D1「[中山]一傳名を中山源右衛門と改め、江府を出て濃州へ立寄、又江州彦根の御家中には縁家の人も有故に、則立寄滞留せられしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・濃州へ立ち寄ったのは、やはり出身地ゆえか?

D2「[彦根]御家中にて歴々共に鑓の弟子多く付て、稽古はけみたり」<風傳流元祖生涯之書>

D3「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」
・・・追々、彦根家中に風傳流が普及し、中山吉成をして「御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」と言わしめるほど隆盛を誇る。先の江戸滞在のとき既に彦根藩士に指南していた。

D4「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・彦根家中の数多の弟子の内、最も風傳流を極められた人は八田左近右衛門と云い、「御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」と。後ち浪人して越前福井藩へ行き、同地で病死する。

D5「十一ヶ所の鑓小屋は、[中山]源右衛門直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之書>

D6「其比元祖も浪人故に、播州尼崎の御城主其比は青山大膳様の御家中へ行れたるに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・尼崎藩武藝奉行役 本庄九左衛門と内談して、浪人中の元彦根藩士三浦三郎左衛門の仕官をまとめようと画策するも、本人の拒絶によって破談となる。三浦三郎左衛門は、元宝蔵院流の遣い手で、中山吉成に師事して後ちに印可を傳授された。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山源右衛門 40代 大野藩士~浪人 寛文

E1「元祖[中山]源右衛門は越前大野へゆかれしに、其比大野の御城主松平但馬守[忠良]様の御家へ源右衛門を被召抱知行弐百石被下、鑓は申立すして外様組に出る」<風傳流元祖生涯之書>

E2「元祖[中山]源右衛門後に但馬守様軍使役被仰付て勤む」<風傳流元祖生涯之書>

「[松平忠良の]御意有しは、「[中山]源右衛門其方は鑓を一流心得たると聞、鑓には入道具有に入身に鑓有ると心得たるか?又は素鑓に勝の有と心得たるか?」と御尋有しに、源右衛門御返答申上るは、「入身には損多く御座候て。素鑓に徳多く御座候。此故に私儀素鑓の一流を仕候」と申上る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「鑓は申立すして」仕官した中山吉成であったが、やはり殿様の耳に入ったようで、御目見のときに質問され、その後立合の運びとなった。殿様は木下淡路守に師事した鑓の遣い手、これに対し中山吉成は要望によって長刀の入身をなし、二度とも入身勝となる。結果、「其方は聞及びしよりは名人也。骨折たり。帰りて休めよと御意有」と。

E3「其後但馬守[松平忠良]様御家の老中丹羽彦左衛門[好覩]娘を御意を添られて、則源右衛門妻女とす。此後に男子三人女子弐人生る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の子たちは、いずれも凡庸な性質で、それについて菅沼政辰は「元祖[中山]源兵衛程の人も不幸にて、子の縁うすき事、門弟等迄もくゆる処也。右のことく元祖子孫の趣迄を知らせん為に、吉凶の事ともに過もなく、勿論残さす全ふ記し置なり」と各人の消息の締めくゝりに述べている。

E4「[中山]源兵衛は其後又所存有て但馬守[松平忠良]様へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・菅沼政辰の記述によれば、中山吉成が官を辞して浪人の身となるのは、流儀を弘めるためであったと云う。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿三日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-5

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
現在見られる流祖中山吉成の伝記について

風傳流の流祖中山吉成に関する記事は意外なほど少ない。
そこで、記述内容から引用元を遡ると、二系統に分類される。
則ち、出典不明の『日本武道大系 第七巻』を引用する記事と、『風傳流元祖生涯之書』を引用元にする記事とに分れる。

出典不明

『日本武道大系 第七巻』

├── 一閑斎の隠居所_風傳流鑓術

└── 日本武道協会_風傳流槍術

『風傳流元祖生涯之書』

└── 『明石名勝古事談』 ── 『三百藩家臣人名事典 第七巻』

正直に言うと、『日本武道大系』の記述は信用できない。その理由は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」「風傳流の流祖中山吉成について考える-3」に述べた通り、第一に根拠が分らない、第二に辻褄が合わない、そして第三に高弟菅沼政辰が著した中山吉成の行跡と相違する。

なお、『増補大改訂 武芸流派大事典』の風傳流の項では、「彦根藩士、中山源兵衛吉成が祖。もと勢州長島の松平佐渡の士」とその行跡を淡泊に伝えているが、これまでに調べた結果、全て誤りと考えている。
中山吉成は、彦根藩に仕えていないし、松平佐渡守にも仕えていない。彦根に滞在して風傳流を指南していたが、仕官はしていない。そして、松平佐渡守に仕えていたのは、父の中山家吉。
中山吉成は二男だったので、「二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」と伝えられている。

因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-4

『明石名勝古事談』より中山吉成の伝記
『明石名勝古事談』の中山吉成伝記について考える

『明石名勝古事談』の中山吉成伝記は、その内容を見れば『風傳流元祖生涯之書』を底本として作文されたことが明白であり、中山吉成の行跡をよくまとめているように思う。けれども、下記に抜粋した二箇所の記述には大きな誤りがあるため、訂正して置く。

H「お暇を貰ひ岩手藩主竹中左京の家に留り又同國加納城主松平丹波守光永の指南役となり藩中の子弟に風傳流の槍術を指南す」<明石名勝古事談>

K「光永光廣光慈三代に用ゐらる其際光慈信州松本へ國替となる時に松本藩中に風傳流大に廣まり其術を師範する者出て」<明石名勝古事談>

H・Kともに、流祖中山吉成の行跡として記述されているが、実はこの部分は高弟菅沼政辰の行跡である。中山吉成の行跡として鵜呑みにすると、とんでもない矛盾が生じてしまう。
「光永光廣光慈三代に用ゐらる」とあれば、中山吉成の没後にまで話が及んでおり、なぜ、筆者はこの簡単な矛盾に気が付かなかったのか...

それと、Kに言うところの「岩手藩」というものは存在しない。

『風傳流元祖生涯之事』の原文を見れば、誤りは明白

前に抜粋したH・Kそれぞれに対応する原文をこゝに抜粋する。

HQ1「某[菅沼政辰]も所存有て左門様[戸田氏西]へ御暇申上首尾好御暇被下浪人して、則同国の内不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留せしに此御家中の諸士一圓に某[菅沼政辰]か弟子と成て」

HQ2「某[菅沼政辰]を右加納より招く人有て行しに、右[丹羽]新兵衛[中山吉成の妻の弟]取立たる弟子を初て指南せしに、段々弟子重りて稽古をはけむ内に終に某[菅沼政辰]事、[松平]光永様御家へ被召抱て今に勤む」

HQ1は、菅沼政辰が浪人して、実父竹中助大夫の元へ滞留した話。
HQ2は、菅沼政辰が加納藩主松平光永に仕官するという話。
『明石名勝古事談』の筆者は、おそらく「某」を中山吉成と誤認したのだろう。とはいえ、HQ1の「某か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る」と書かれているのだから、気が付きそうなものだけど。

KQ1「其後[松平]光永様御逝去有て、[松平]光廣様御家督有て後城州淀へ御所替被仰付、則淀にても某[菅沼政辰]屋鋪の内に鑓小屋廣く被仰付御家中諸士不絶稽古励」

KQ2「其後[松平]光廣様御逝去有て今又[松平]光慈様御家督[享保二年]有て志州鳥羽へ御所替[享保二年]被仰付鳥羽にても某[菅沼政辰]か弟子共の稽古場廣く被仰付日々に稽古はけみ」

KQ3「其後[松平]光慈様未鳥羽へ御入部不被成に信州松本へ御所替[享保十年]被仰付、享保十一年に御家中諸士松本へ引越、則某[菅沼政辰]か弟子共稽古場を先當分御借し被仰付、日々不絶稽古をはけむ」

KQ4「右のことく濃州加納、次に城州淀、又志州鳥羽、今又信州松本、右四ヶ所にて御家中の諸士風傳流を学ひしは右の趣也」

KQ1~KQ4は、前に抜粋したKの「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分に当る。つまり、菅沼政辰は松平光永・松平光熙・松平光慈の三君に亘って仕えたということ。もちろん、中山吉成は天和四年に没しているので、松平光熙・松平光慈の時代には生きていない。

 
『三百藩家臣人名事典』
『三百藩家臣人名事典』の誤りもまた明白

確かなことは分らないが、『明石名勝古事談』の孫引きと見られる『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の行跡。

F「美濃大垣藩主戸田氏信に招かれて家臣となったが、四、五年を経ると仕えを辞して、隣接する岩手陣屋の竹中左京重高のもとに寄寓し」

G「同国加納藩主松平光永の指南役となった」

前のHQ1・HQ2に説明した通り、F・G共に菅沼政辰の行跡である。
さすがに「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分はおかしいと気付いたのか省かれている。

おまけ-竹中左京様

HQ1の「不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留」に言う「竹中左京様」は、竹中左京重高のこと。竹中重高は、不破郡岩手の領主。彼の竹中半兵衛重治の曾孫に当る。幕府の交代寄合に列しており、普段は領地に居住し参勤交代の義務がある、ちょっと珍しい旗本。

当時、菅沼政辰の実父竹中勝正が竹中重高に仕えており、その血縁から浪人後に身を寄せ、こゝでも風傳流を指南する。
実父の屋敷に鑓小屋を設け、家中の士に指南、中でも領主竹中重高の弟竹中重紀や、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門など合わせて三名に免許が傳授された。
そんなある日、流祖中山吉成が岩手の地に訪れる。それは菅沼政辰の実父竹中助大夫に会うためだった。それまでに、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門はしばしば大垣を訪れて、中山吉成の元で風傳流の教えを受けており、岩手訪問を打診されていたのだろう。
岩手を訪れた中山吉成は竹中家に歓待され、終日語り合ったという。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『明石名勝古事談』『三百藩家臣人名事典』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流史料の蒐集

風傳流史料の蒐集
『風傳流傳書五巻』筆者蔵

私が風傳流について調べようと思ったきっかけは、2015年夏のある出来事。
ある日、知人から連絡がきた。
「武道書を引き取ってもらいたい」と。

後日、喫茶店に会して話を聞いたところ、私が武道書を蒐集していると伝え聞いた知り合いに頼まれたとのこと。
そうして見せられた武道書は全部で十二巻あり、その内の数巻に風傳流の文字がある、なるほど槍術の一派かと気付く。
当時、風傳流についてはその存在を知るぐらいで、大した知識は無く、そのほかの巻物についても、知らない流派の砲術だった。

武道書を引き取るに際し、もちろん貰って帰るわけにはいかない、幾許かの謝礼金を渡し、しばらく雑談して家路につく。

帰宅して調べてみると、風傳流の傳書は、大聖寺藩の鎗術師範橋本助六が傳授したものだと判明する。
そして、傳授を承けた人物も大聖寺藩士だと。
また更に仔細に調べたところ、本来八巻揃いの傳書が、どうやら二巻欠けていることも判った。

仕方ない、二巻欠けていても構わない、さっそく翻刻に取り組み、七巻の翻刻を終え、風傳流や師範、被傳授者について調べた結果をサイトにまとめて公開した。

その翌年夏のこと、衝撃的出来事が起る。

欠けていた『風傳流外物合』の一巻が、ヤフーオークションに出品されているのを発見してしまう。
さらに、説明文には私のサイトの文章がまるまるコピーされていることに驚いた。因みに引用元の表記は無し。

どういう経緯で一巻だけ分れてしまったのか、釈然としない気持ちを抑えつゝ、落札するぞと意気込んでオークションに参加したものゝ、結果は驚きの十五万円だった。

高い、高過ぎる、その認識が誤っているのか、落札できなかったのは悔しいけれども、それほど評価されているのだから、喜ぶべきかもしれない、と思い直し涙を飲む。

 

このような事情があって、私の風傳流への関心は一層強くなり、後々まで風傳流の史料を探す原動力となった。

真夏の暑い日差しを浴びると思いだす風傳流史料蒐集の始まり。

『風傳流素人書 五巻』筆者蔵
『風傳流鑓免許次第 全』筆者蔵
『風傳流十文字之傳 上下』筆者蔵
『風傳流素鑓一切留身並突身之次第 五巻』筆者蔵
『風傳流元祖生涯之書 上中下』筆者蔵
『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

その後も順調に?風傳流史料の蒐集は続いた。
時に先を越され、時に予算のために諦めるなどしつゝ。

直近、数年前に蒐集した風傳流の史料は、流祖中山吉成の高弟菅沼政辰の著書の写本群。蟲に喰われて酷い有り様。数日かけて慎重に紙と紙との癒着を剥して、殺虫処理するなど、手間がかゝった。けれども大満足。

蒐集癖の根本には、どうも狩猟本能があるらしい、と最近思い至った。

この写本群、調べてみると、どうも藤堂家の家来が風傳流の門弟で、これら写本を書き残したらしい。

藤堂家には菅沼政辰が流儀の普及に赴き努めた結果、藤堂侯の上聞に達し、下屋敷で風傳流上覧の流れとなり首尾能く勤め、のち家老藤堂仁右衛門が弟子となる約束をしたという。

そのようなわけで、藤堂家には風傳流が行われていた。

久しぶりにサイトを更新しようと思い立ったのは、以前からこの写本群の中の『風傳流元祖生涯之事』が気になっていたから。

因陽隱士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-3

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』の中山吉成伝記について考える-浪人

流祖中山吉成の享年は六十四歳、その生涯の中、仕官していた年数はおそらく二十年に満たないと考えられる。そして、若年のころを除けば、長らく浪人の身分で将軍の旗本や大名の家来に風傳流を指南した。

さて、『日本武道大系』には中山吉成が三度浪人となったという記述がある。(CDは別件)

A「関宿藩主小笠原政信が寛永十七年(一六四〇)に没すると、中山父子は浪人し」<日本武道大系>

B「ここに仕えること十数年、寛文二年(一六六二)松平忠良が没するとまたまた浪人し」<日本武道大系>

C「江州彥根に行き、ここに滯留して藩士の間に槍術を弘めたが、井伊家に奉公の望みを達せず」<日本武道大系>

D「翌年江戸に下ってこの地で槍術を教えることになった。ここで四年を過ごし」

E「かくて十五年間大垣にあったが、天和元年(一六八一)十一月戸田氏信が卒すると、吉成はまたも浪人して」<日本武道大系>

ABEいずれも、仕官した際の主君の卒年=浪人という話。
しかし、致命的な記述の誤りがあり、その結果、論述に矛盾を生じてしまう。

先ず、Bの松平忠良の没年は、正しくは延宝六年(一六七八)。よって、Eのごとく戸田氏信の卒年まで十五年も大垣に仕えたとなると、彦根に行った期間や江戸に滞在した期間について説明がつかず、松平直良の卒年より前に戸田氏信に仕官していたことになる。

誤った卒年に、空白を埋めるように加算される年数、主君の卒年=浪人という安易な発想、<日本武道大系>の記述は、資料として信頼に足る情報なのか?、よく調べた方が良いかもしれない。

 
 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』の中山吉成伝記について考える-修正

前記のごとく、『日本武道大系』の記述が、我々に信頼に足る情報を与えているのかというと、どうもそうではないらしいと分かったところで、『風傳流元祖生涯之事』を参照しよう。

BQ「源兵衛[中山吉成]は其後又所存有て但馬守様[松平直良]へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之事>

EQ「左門様[戸田氏西]御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝ...元祖も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す」<風傳流元祖生涯之事>

BQは、越前大野藩主松平直良に暇を願って、無事浪人したときの話。年代は記されていないが、『日本武道大系』が言う松平直良の卒年ではなく、存命のときに浪人となった。

EQは、美濃大垣藩主戸田氏西に暇を出されて、不本意ながらも浪人となったときの話。「延宝の大暇」という歴史に残る大規模リストラ。これは藩財政の窮乏のために暇を出されたもので、各人には何の落ち度も無いと証明書が発行された。これもまた『日本武道大系』が言う戸田氏信の卒年とは関係が無い。

『風傳流元祖生涯之事』を子細に読み込み、得られた情報を簡単にまとめると、
 1.江戸  浪人 風傳流を将軍の家来や大名の家来に弘める
 2.彦根藩 浪人 風傳流を弘める
 3.大野藩 仕官・二百石 風傳流を弘める
 4.江戸  浪人 風傳流を弘める
 5.大垣藩 仕官・二百五十石 風傳流を弘める
 6.垂井  浪人 諸国の門弟に風傳流を指南する
 7.明石藩 仕官・勘手新田十町 風傳流を指南する
それぞれ、その藩に仕えているときも他所へ出向して風傳流を弘めることもあり、土地に縛られず流儀の普及に努めていた。

こゝで一旦『日本武道大系』の記述に遡り、Cの「井伊家に奉公の望みを達せず」というのは、どうも創作ではないかと見られる。中山吉成に「奉公の望み」が有ったのかどうか、何らかの史料に記されているのか、疑わしい。
そもそも当時の状況を見ると、

「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之事>
「十一ヶ所の鑓小屋は、源右衛門[中山吉成]直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也。といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之事>
「彦根の御家中は一圓に風傳流を予[中山吉成]か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」<風傳流元祖生涯之事>

と記されるほど彦根家中において風傳流が盛況であり、当然流祖であり師範である中山吉成推挙の話も出たことだろう。そのような状況であるにもかゝわらず「奉公の望みを達せず」と言うのは正しいだろうか。

同様に、Dの「ここで四年を過ごし」というのも適当に年数を合わせたゞけで根拠が分らない。そして、その年数さえ没年の誤算によって破綻している。

今日はこゝまで。

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月十九日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-2

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地について

「[中山]家吉は元和五年から七年の頃高崎藩主安藤対馬守重信に仕えていたが、この時高崎で中山吉成は生まれたという。」「一説には中山吉成は関宿で生まれたともいう。」

一つ目は、中山吉成の生れた土地はどこかという点。
『風傳流元祖生涯之事』の記述によると、「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也。」とあり、全く異なる出生の地を唱えている。

先ず、『日本武道大系』の「高崎(或関宿)説」について、これは出典が明らかにされていない。また、これを裏付ける史料も未見。

一方、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島説」。これについて調べると、中山吉成の生年である元和七年、勢州長島は天領となっており、且つ「松平佐渡守様」が「勢州長嶋」と関係するのは、二十八年後の慶安二年、松平佐渡守康尚の長島藩転封を待たなければならない。

中山吉成の生年である元和七年の前年であれば、伊勢長島藩主は菅沼定芳であり、「松平佐渡守様」とは関係ない。

つまり、『日本武道大系』・『風傳流元祖生涯之事』共に、中山吉成出生の地について確かなことを伝えているか、疑問が残る。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-再考

『風傳流元祖生涯之事』は、中山吉成の高弟菅沼政辰が著したにも関わらず、なぜこのような齟齬を生じるのか?

私は一つの可能性を考えている。
それは菅沼政辰の年齢と関係するかもしれない。
そもそも菅沼政辰が中山吉成と面識を得たのは、寛文の頃。当時、菅沼政辰は大垣藩主であった戸田氏信に子小姓奉公していた、十四,五歳前後の年齢と見られる。
そして、中山吉成もまた戸田氏信に仕えており、この頃両者は知り合った。為に、菅沼政辰は中山吉成の父中山家吉は「松平佐渡守様」に仕えていると知ったことだろう。
つまり、この認識が後年に尾を引き、中山吉成の出生は「松平佐渡守様」の「勢州長嶋」と記憶に刷り込まれたのではないかと思われる。
つまりは、菅沼政辰の勘違い。

因みに、寛文当時、伊勢長島藩主の「松平佐渡守様」は、松平康尚。中山吉成の生年元和七年となれば、その二代前に遡り、松平忠良と言って、大垣藩の藩主だった。

全くの推論になるが、以上のことを踏まえて修正すると、「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は、「美濃大垣」と考えらえる。後年、藩主は代わりこそすれ、大垣の地で中山吉成と菅沼政辰が知り合ったのも土地の縁があったからかもしれない。
いずれ確たる史料の出現を願い、後考を竢つ。

 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-補足

なぜ私が『日本武道大系』の「中山吉成高崎[或関宿]出生説」を採らず、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島出生説」の方を採り、再考するに至ったのか触れておきたい。

その最たる要因は、『風傳流元祖生涯之事』が、流祖中山吉成の家族について比較的詳らかに記している点にある。中山吉成の直弟子として長年に亘って師弟の交誼があった菅沼政辰だからこそ知り得て、後世に伝えられた情報であると考える。
情報の出典を明らかにしていない『日本武道大系』の記述とどちらが信頼に値するのか、言うまでもないだろう。

たとえば、『風傳流元祖生涯之事』の中、中山吉成の家族に関する記述を引くと、
「源兵衛[中山吉成]兄弟の内、兄を中山傳右衛門といひて、父角兵衛か家督を得て前に記したることく松平佐渡守様に勤て死後に躮[せがれ]十兵衛家督して勤む。」や、
「[中山吉成の]弟を新左衛門といひし也。此名は兄[中山吉成]の元祖新左衛門[中山吉成の三十歳頃の名乗り]名を一傳と改られて後つきたり。」や、
「此新左衛門鑓術は後々迄竹内流にて是又所々にて弟子を取たり。右のことく源兵衛[中山吉成]は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり。」や、
「[中山吉成の]嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共、子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり。」といった記述がある。
また、中山吉成の妻の実家丹羽家に関することや、中山吉成の子たちの消息についても詳しく触れられており、記述の信頼性を高めている。

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月十八日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-1

『風傳流素鑓真剱』筆者蔵
はじめに

ある日、私は風傳流の史料を発掘した。発掘というのは、もちろん土中より掘り出したという意味ではない。誰にもかえりみられず忘れ去られていた史料を、知識を持つ人が発見したというほどの意味合い。これによって、史料はその真価を発揮する。但し、私の知識ではその真価の半分も引き出せるかどうか心許ない。

さて、その史料は上中下三冊を以て揃い、『風傳流元祖生涯之事』と題す。著者は、風傳流の流祖中山吉成の高弟菅沼政辰という*1。

菅沼政辰は、元服以前から中山吉成とは知己にて、十六歳で元服したとき、正式に中山吉成の門弟となって風傳流を修行した。免許されて以降は各地で門人を育て、その間中山吉成が歿する貞享元年まで師弟の交誼を絶やすことは無かった。
中山吉成歿後も風傳流の高弟として流儀の普及に努め、なお晩年に至って流祖直伝の高弟たちが世を去る中、菅沼政辰は長寿を保ち流祖直伝の鑓術を世に伝え続けた。風傳流の歴史を語る上で欠くことのできない大きな存在であったと言える。

風傳流の普及に生涯を捧げたといっても過言ではない菅沼政辰は、その最晩年に至って、流儀の教えが正しく後世に伝わらないことを危惧した。その当時、既に流祖直伝の高弟たちは泉下の客となっており、その心配も無理からぬこと。そこで菅沼政辰は自身の知る流祖中山吉成に関わる事を後世に伝えようと書物を記した。それが『風傳流元祖生涯之事』である。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵

こゝに取り上げる『風傳流元祖生涯之事』は、実は初出ではない。『明石名勝古事談』という本の中、中山吉成伝記の底本として用いられている*2。但し、その典拠は明らかにされていないため、『風傳流元祖生涯之事』という書物の存在自体は世に知られていない*3。

さてさて、こゝからが本題。

『風傳流元祖生涯之事』には、断片的ながらも流祖中山吉成の一生について記されている。流祖の直弟であり印可を許された高弟でもある菅沼政辰という人物が、この書物を書いたことによって、その内容について大いに参考にすべき点があることは言うまでもないだろう。この史料を元に、現在知られる所の中山吉成という人物の説明や伝記を見直すと様々な発見がある。今回はその発見について記してみようと思う。

1・・・実名は「正辰」とも記す。

2・・・『明石名勝古事談』に記される中山吉成の伝記には、一部に錯誤が認められる。これは底本とした『風傳流元祖生涯之事』を正しく理解できていないことによる。錯誤というのは、主に中山吉成と菅沼政辰の事歴を混同している点にある。鵜呑みにすると齟齬が生じるので引用する方は注意されたし。なお、『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の項は、『明石名勝古事談』を参考にしたものと考えられる。概ね正しいが、これも前に記した同様の錯誤が見られる。

3・・・私が所蔵する『風傳流元祖生涯之事』は、菅沼政辰の孫弟子に当る小西正郁が写したものを、更にその門弟と思しき貝増盛武が写したものである。則ち、写本の写本。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『明石名勝古事談』『三百藩家臣人名事典』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月十七日記す

大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
Hand scroll. Ink on paper. 30.2 x 596.7 cm. Private collection.

『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷

天下無雙姉河流鑓外物卷 一卷 帋本墨書 20.2 x 350.5 cm 元祿十年卯の三月吉日付 筆者藏

天下無雙姉河流鑓外物卷. Edo period. dated 元祿 10 (1697).
Hand scroll. Ink on paper. 20.2 x 350.5 cm. Private collection.

● 姉川新左衛門安知・・・肥前の人。姉河流の祖。澁江公茂に寳藏院流を學ぶ。佐賀藩の多久邑・諫早に行われたと云う。
因陽隱士
令和五年十二月廿六日編

心形鎗流祕傳卷

心形鎗流祕傳卷

帋本墨書(影冩本) 29.7 x 42.0 cm 八帋 筆者藏

心形鎗流祕傳卷. Meiji period.
Hand scroll. Ink on paper. 29.7 x 42.0 cm. Private collection.

● 伊庭常全子・・・名秀保.伊庭秀明の嫡子.
● 予・・・「常智子忠辰」の印文に依て.伊庭秀明の高弟水谷忠辰と知れる.
因陽隱士
令和五年五月十三日編