白井亨:一刀流兵法別傳天真傳兵法目録明道論

今回焦点を当てるのは、現存数の極めて少ない天真白井流兵法の開祖、白井亨(義謙)の伝書についてゞす。

私の伝書の蒐集歴は約十二年になりますが、これまでに白井亨の伝書を目にしたのは、今回取り上げる伝書を含めわずか二度のみと記憶しています(一度は今回の伝書、二度目はオークションでの確認)。管見の限り、資料にもその伝書大系に関する詳細な記載が見当たらず、はたしてどのような構成になっていたのかは、未だ解明されていません。

この謎を解き明かす上で、吉田有恒が書写した伝書群が重要な手掛かりになると考えられます。

現在のところ、巻子として装幀された伝書としては、『真剣拂捨刀』と『目録明道論』の二種類が確認されています。

『一刀流兵法別傳天真傳兵法目録明道論』筆者蔵
『一刀流兵法別傳天真傳兵法目録明道論』筆者蔵
『一刀流兵法別傳天真傳兵法目録明道論』筆者蔵
『一刀流兵法別傳天真傳兵法目録明道論』筆者蔵

白井亨という人物像から、私はその伝授するところの伝書を武骨で簡素なものであろうと想像していました。しかし、実際に目にした伝書は予想外に稀有な趣を備えており、少なからず衝撃を受けました。

装幀(表裂や軸)は現存しないものの、料紙の様式は仏教の経典を彷彿とさせます。その厳粛な雰囲気は、上下の境界、行ごとの罫引き、謹直な楷書によって形作られており、特に境界の外側に細かく施された金銀粉や箔(緑青の粉末も散らされています)が荘厳さを際立たせています。当時の一般に普及していた伝書とは一線を画す異例な趣であり、奇異と評しても過言ではないでしょう。

初見の際には、私が抱いていた先入観とは異なりましたが、今振り返れば、一筆一筆を疎かにしない謹直な書風と、この異風な様式こそが、剣術を道として極めた白井亨という孤高の人物の精神を体現しているように感じられます。

因陽隠士記す
2025.12.4

猿木宗那:小堀流踏水術游術腰水之巻

前回の更新から一ヶ月ほどの時日が過ぎ去り、季節はすっかり冬の様相を呈してきました。
夜な夜なウォーキングをしており、季節の移ろいを如実に感じております。

本編とはまったく関係のない私事ですが、私には二つの趣味があります。
一つは武術に関する古文書、これは言うまでも無く御察しのことかと、そしてもう一つ同じくらい熱量をもって取り組んでいる趣味があり、サイトの更新が滞っているときは、大体そちらの趣味に注力しています。

さて、今回は猿木宗那翁の『小堀流踏水術游術腰水之巻』を。
書かれていることについては言及せず、小堀流踏水術と猿木宗那翁について、その概要をAIによって出力してみました。『肥後武道史』辺りを取り込めば、もっと確度の高い情報になるのかな?と思いつゝ、今回は試みに運用してみます。

『小堀流踏水術游術腰水之巻』筆者蔵
『小堀流踏水術游術腰水之巻』筆者蔵

小堀流踏水術

1. 創始と伝承地:熊本藩の武術としての確立

小堀流踏水(とうすい)術は、江戸時代初期に小堀長次によって創始されました、日本の伝統的な水泳術、すなわち日本泳法の一流派です。その主な伝承地は、肥後国熊本藩(現在の熊本県)であり、藩主である細川家によって保護・奨励されました。この流儀は、藩校である時習館において、武士が習得すべき武術・軍事技術として正式に採用され、単なる泳ぎではなく、武士道の精神を養う修練としても位置づけられていました。

2. 技術的特徴:実戦と水上での活動能力の重視

江戸時代の小堀流は、その技術体系において実戦性を徹底的に追求していました。最大の特徴は、水中で足を絶えず動かし、水面に身体を垂直に浮かせたまま両手を自由にする「踏水」の技術です。これにより、武士は鎧兜(甲冑)を着用したまま、あるいは武器を保持した状態で、水上で長時間活動・戦闘を行うことが可能でした。さらに、水に浮いたまま静止する「浮身」の技術や、敵船破壊や水中での組討を目的とした潜水術も重視されていました。

3. 役割と教育:武士の精神修養と鍛錬

小堀流の稽古は、単に泳ぎを覚える以上に、武士の精神修養という重要な役割を担っていました。特に、厳冬期に行われる寒中水泳(寒稽古)は、水に対する恐怖心を克服し、極限状況での耐性や胆力を鍛えるための重要な行事でした。また、藩主の御前での水練披露など、格式を重んじる場では、厳格な作法と礼法が要求され、流儀の伝統と武士の品格を維持する要素となっていました。

4. 明治期への継承:伝統の維持と近代への適応

江戸時代を通じて確立された小堀流の技術と伝統は、明治時代に入り、日本の近代化と西洋水泳の導入という大きな変化の中でも存続しました。これは、猿木宗那などの後継者が、その実用性に着目し、教育機関の体育や大日本武徳会などの武道団体を通じて、その価値を再認識・普及させた結果です。小堀流は、江戸時代の実戦的な水術としての性格を保ちつつ、近代の遊泳術教育への橋渡し役も担ったと言えます。

『小堀流踏水術游術腰水之巻』筆者蔵
『小堀流踏水術游術腰水之巻』筆者蔵
『小堀流踏水術游術腰水之巻』筆者蔵

猿木宗那

1. 時代背景と流派の継承

猿木宗那(1849–1912)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した日本の水泳家(水泳師範)です。熊本藩に伝わる小堀流踏水術を、第5代師範の小堀水翁から学び、明治9年(1876年)に第6代師範を継承しました。宗那の時代は、武士の時代が終わり、西洋式の体育や水泳が導入される激動の時期であり、伝統的な水術をいかに次世代に継承するかが大きな課題となっていました。

2. 近代教育への貢献と指導法の確立

宗那の最大の功績は、伝統的な小堀流の技術を近代的な指導体系へと進化させた点にあります。彼は熊本県立中学の水泳教師を務めるなど、教育現場で指導にあたり、1901年(明治34年)には『小堀流踏水術遊泳教範』を出版しました。この教範は、従来の口伝中心の指導から脱却し、泳法を分解して段階的に教えるという、近代的な団体訓練に適した教授法を採用しており、日本の水泳指導法に大きな影響を与えました。

3. 武術的権威の確立と「浮身書」の妙技

宗那は、伝統的な水術の価値を公的に認めさせることにも成功しました。明治42年(1909年)には、当時の武術の統括団体である大日本武徳会から、最高位の称号の一つである遊泳術範士の称号を授与されました。また、彼は小堀流の精髄である浮身(水面に安定して浮く)の技術を極め、水に浮いたまま筆で文字を書く「浮身書」の妙技を披露した記録が残されています。この「浮身書」は、小堀流が単なる速泳ではなく、水上での静的安定性や操縦性を極めた武術であることを象徴しています。

4. 総括:伝統と近代の架け橋

猿木宗那は、小堀流踏水術という伝統武術を、明治期という近代化の波の中で消滅させることなく、その技術と精神を体系化し、学校教育や公的な武道団体を通じて次世代へとつなぎました。彼は、江戸時代の武術としての水術と、近代のスポーツ・体育としての水泳との架け橋となった、日本の水泳史において極めて重要な人物であると言えます。

こゝに掲載の『小堀流踏水術游術腰水之巻』は、多分に猿木宗那翁の自筆と見られます。上質にして平滑な料紙に鋭く端正な筆跡、さながら一つの作品を見るようで、とても気に入っている伝書の一つです。
画像だけ掲載しようとしたのですが、何か物足りずAIを使ってみようと思った次第です。

因陽隠士記す
2025.12.3

唯心一刀流の伝書

唯心一刀流を代々継承した杉浦家(本家)は、『八風切紙』『理盡得心卷』『劍法卷』『家傳卷』『事理決心卷』『本目錄』を門弟に傳授しました。
このほか、別傳として『唯心流劍法初學書』を傳授することもあります。

▶ 神文

入門する者は、師家の「神文」に署名・書判・血判して門弟になります。入門して未だ伝書を伝授されていない門弟を「初学」と云います。

『唯心一刀流神文』筆者蔵

この神文には、丹波綾部藩唯心一刀流師範田口氏に入門した家中の士たちが名を列ねています。

『唯心一刀流神文』筆者蔵
▶ 八風

『八風』は『八風切紙』とも云い、初学の門弟に伝授されます。これは奧書によれば、初学の者の修行を励ますことを目的として細分化されたもので、杉浦家の四代目当主杉浦景健が新たに加えた伝書と考えられます。

『唯心一刀流八風切紙』筆者蔵
杉浦素水とは、杉浦家の四代目当主杉浦景健の隠居後の名乗りです。丹波綾部藩の家臣宛。
▶ 理盡得心巻

『理盡得心巻』は、「得心」の位と云い、修行することおよそ三~四年で傳授されます。その主旨たる「必勝之事」は杉浦家二代目当主杉浦正本の創出であると『唯心一刀流伝書(無題)』に記されています。則ち『理盡得心巻』は初代正景のときには存在し無かった伝書であり、杉浦正本が新たに加えた伝書ということです。
因みに、杉浦正本は初代杉浦正景の子にて、家伝の一刀流を継承して、牧野侯に仕え一刀流の指南役を勤めました。

こゝまでの伝授段階にある門弟は、階級で言えば「初入」と云う扱いでした。

『唯心一刀流理盡得心巻』筆者蔵
▶ 剣法巻

『剣法巻』は、「九曜」の位と云い、「得心」から修行することおよそ五~八年で伝授されます。これは「中極意」に相当し、「中格」と云う扱いでした。これは流儀の基礎伝書であったと考えられます。

『唯心一刀流剣法巻』筆者蔵
▶ 家傳巻

『家傳巻』は「五位」の位と云い、「九曜」から修行すること長くておよそ六年ほどで伝授されます(この参考年数はとても長い場合)。これは「免許」に相当し、「上達」と云う扱いでした。通常の修行者はこの位より上には上れず、これを以て上限の位です。なお、『家傳巻』には初代杉浦正景の記述があり、曰く「右師傳の趣傳授有ると雖も、實志の者は鮮(すくな)し。或は初學にして廢(すた)れ、或は半途にして止む。是れ則ち吾か師の患ふ所也、故に其の心を摭て、以て之れを辨へ、後來兄弟子孫に傳へ、長へに断絶無きことを希ふ也。仍て家傳の巻件の如し」と。則ち、『家傳巻』は初代杉浦正景已來の基礎伝書と考えられます。

この位に至るまで、門弟は伝授に及び『起請文』を師家に申請(此語今樣に聞へ候へ共神文前書に有之)します。恐らく、『起請文』は『劍法巻』『家傳巻』の伝授のとき師家に申請したものと思われます。

『唯心一刀流家傳巻』筆者蔵
▶ 事理決心巻+本目録

『事理決心巻』『本目録』は、「両度の伝授」と称される一対の伝授にて、師範家として認められる門弟のみに伝授されます。およそ「五位」から修行することおよそ一~四年で傳授されました。これは一般的「皆傳」或は「印可」に相当し、基礎伝書の一つであったと考られます。なお、『本目録』は古藤田系の『唯心流目録伝授之巻』に杉浦氏が工夫を加えたものと見られ、杉浦家(分家)の『唯心一刀流太刀之巻』もまた似た仕様です。

更にこの「両度の伝授」を済ませた者は、特別に師範家の秘蔵書を閱し写すことを許されました。これによって師範家の者は、流儀について門弟たちより遥かに豊富な知識を得られたわけです。田口家文書には、そういった写本類が多く殘されています。

『唯心一刀流事理決心巻』筆者蔵
『唯心一刀流本目録』筆者蔵

『事理決心巻』『本目録』は、「両度の伝授」と称される一対の伝授にて、師範家として認められる門弟のみに伝授されます。およそ「五位」から修行することおよそ一~四年で傳授されました。これは一般的「皆傳」或は「印可」に相当し、基礎伝書の一つであったと考られます。なお、『本目録』は古藤田系の『唯心流目録伝授之巻』に杉浦氏が工夫を加えたものと見られ、杉浦家(分家)の『唯心一刀流太刀之巻』もまた似た仕様です。

更にこの「両度の伝授」を済ませた者は、特別に師範家の秘蔵書を閱し写すことを許されました。これによって師範家の者は、流儀について門弟たちより遥かに豊富な知識を得られたわけです。田口家文書には、そういった写本類が多く殘されています。

▶ 伝授起請文

伝授起請文は、入門時に師家へ提出する起請文ではなく、伝授を承ける際に師家へ提出する起請文です。流派や師範によって弟子に伝授起請文を求めるか求めないか異なります。

『唯心一刀流起請文』筆者蔵
▶ 初学之巻

『初学之巻』は、通常初学の門弟に冊子で与えられるものと考えられます。奥書はされず写本の形式で現存しており、初学の門弟に自身で写させたものかと想像しています。

こゝに掲げた『初学之巻』は、九鬼式部少輔隆郷侯に伝授された『理盡得心巻』に別伝として付属したもので、通常とは異なる伝授かと思われます。

『唯心一刀流別伝初学之巻』筆者蔵

唯心一刀流の伝授の節、精進日

『唯心一刀流極秘傳品々書留』筆者蔵

各伝授に際して、夫々精進日が定められていました。『八風』は何もなし、『得心』は三日精進、『九曜』は三日別火(べっか)精進、『五位』は七日別火精進、『事理決心卷』は七日別火精進、『本目錄』は七日別火精進。
なお、『九曜』~『本目録』は、精進落ちに酒・吸物を出す事、とされていました。これらの精進の仕来りは、時代を下るに従って簡略化されていったようです。

唯心一刀流の伝授日

伝書の伝授日は「二月二十八日」「八月十五日」と定められていました。伝書には「○○年二月二十八日」「○○年八月十五日」と書かれます。しかし、現実的に必ずしもその日に門弟に伝授するというわけではなく、伝書上はその日付という体裁を取るものです。

唯心一刀流の各伝位と人数

一、上表は文久四年の『一刀流剣術傳授済覚』と『綾部藩田口家文書』の伝書をもとに作成しました。(傳書と階級の関係を示すような史料は残されていなかったので配置は推測です)

『八風得心九曜人名書付』筆者蔵
『一刀流釼術傳授済覚』筆者蔵

『一刀流剣術傳授済覚』とは、文久四年二月田口重良が藩へ提出した伝授者一覧です。これに「初學」の未伝授者は数えられていません。

唯心一刀流の伝授年数

一、『事理決心』と『本目録』は”両度の傳授”と称され、伝授する者に一対で伝授されます。この段階は特別なものであり、通常は伝授されません。
一、田口重信の場合、天明五年二月廿八日『理盡得心巻』→寛政二年八月十五日『剣法巻』→寛政八年二月廿八日『家傳巻』へと進みました。
一、『剣法巻』→『家傳巻』の年数は、田口重信(他藩士であるため出府時のみ素水と接触)の情報しかないため、実際はもっと短い年数だったと考えられます。

唯心一刀流の伝書箇條

一、上表は各傳書で増加する箇條を抽出し作成しました。同じく古藤田氏に学び一流を開いた人物も似たような箇條の傳書を作成しています。
一、青字は”仕組目録”と云われます。
一、”仕組目録”の中、「表五段之仕組」「裏五天之位」「三行之位」は”表十六本”と呼び、一通りを続けて行う”早遣”がありました。さらに”九曜傳之外附傳”の遣い方があります。
一、”必勝之事”は二代杉浦與三兵衛正本の創出と伝えられています。
一、上表は伝書をもとに作成したので記載していませんが、九代目杉浦景高の留書には”天狗象””センユ””小太刀仕組”がありました。『丹波綾部藩田口家文書』によれば、”小太刀仕組”は”裏”、”天狗象”は往古”表”であったと記されています。そして、唯心一刀流の『兵法太刀之巻』には”進退屈伸連続之仕組 天狗象”と”小太刀連續之仕組 旋移”があります。
一、四代目杉浦景健の高弟白井克明が傳授した『剣法巻』には、「小太刀事理之位 序之勝 破之勝 急之勝 一字之位 十字之位」が付加されています。

因陽隠士記す
2025.10.3

富永軉翁:神明剣秘説

『神明剣秘説』筆者蔵

史料発見

所蔵する古文書を整理していたところ、『神明剣秘説』と題された一冊の古文書を見付けました
これは数年前に複数の古文書を購入したとき含まれていたもので、ざっと見たところ、なんとなく神道関係の古文書かと思い、今日まで看過していました(迂闊なことに)

『神明剣秘説』筆者蔵

序文

巻頭にこの本を執筆した理由が述べられています
所々虫食いのために判読できず、如何せん、細かいところは分りません

『神明剣秘説』筆者蔵

この序文は『神明剣秘説』の著者富永軉翁の子参孝(しげたか)の撰によります
署名のところ「克長(よします)」とあるのは富永参孝の前名で、「當傳弐世正嫡」というのは富永軉翁が開いた「神明和光傳」という流派の正統なる二代目継承者であることを指しています

『神明剣秘説』筆者蔵

富永軉翁

『神明剣秘説』の著者富永軉翁は将軍家の御旗本、徳川家重公に仕え西丸御書院の番士を勤めました
実名は泰欽(やすのり)と云い、采地四百石、安永五年四月四日致仕後に軉翁と号し、それ以前は大学と称していました

軉翁の事歴はいくつか伝わっており、兵法の方面ではやゝ入り組んでいて難解です
武藝の面でこれらをまとめると
1.佐々木家伝の兵法を継承している
2.直清流剣術・神道流を継承している
3.本心流剣術を継承している
4.三十余流を学ぶ
5.神明和光傳を創始する
6.起倒流を学ぶ

1の佐々木家伝の兵法というものは、軉翁より数えて五代前の富永重吉が佐々木秀義の正統京極氏信の庶流富永泰行の五代の後胤を称し佐々木家伝の兵法として伝えたものです

2の直清流剣術・神道流は、東照神君に召し抱えられた富永重吉が指南していました
直清流剣術は、『大日本剣道史』に記載があり、「流祖は高極佐渡判官高氏、下総に流された時、戦場の経験による剣法を更に工夫したと見えて、同国の富永主膳正参吉に伝へた」と記されています
「高極」とあるのは恐らく「京極」の誤植、富永参吉は重吉同人

神道流についてはご存じの通り、こゝから本心流剣術を創始したとの旨が『神明剣秘説』に記されています
なお、富永重吉は東照神君の兵法指南役を勤めていました

3の本心流剣術は、2で述べたように神道流を元に創始された流派です
居合・剣術・柔術が複合されています

4の三十余流には富永家の家伝の兵法も含まれており、中でも本心流・起倒流・山ノ井流が重きを成したとされています
また、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、「随翁当流、三浦流柔術にも達した」とされます

5の神明和光傳は、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、正式には「神武大和止戈防険正儀直授神道本心神明和光傳軉法」と云い、剱術を主体とする流派であったようです
こゝに紹介する『神明剣秘説』は、この新興の流派の教義を伝えたものです

6.起倒流はご存じのごとく著名な柔術の流派です
富永軉翁はこれを佐々木蟠龍軒・滝野遊軒に学びました

総じて言えば、富永軉翁という人物は、兵法の家柄であることに並々ならぬ自負があり、家伝の兵法のみに慊(あきた)らず、諸流をよく学びこれを取り入れ工夫して、新たに一派を立てる才覚を有していたものと思われます

『神明剣秘説』筆者蔵
『神明剣秘説』筆者蔵

神明剣秘説

この『神明剣秘説』は、富永軉翁が開いた神明和光伝という流派の教義書に分類され、儒仏に仮託せず、神に仮託して神明剣の深理を説いたもので、後半には富永家の流儀についても触れられています

「武韴神君の釼とは神武帝より申来是を今剱術の極意とす名けて神明剣といふ」

依拠するところは、主に武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)の二柱(合わせて武韴神君という)にて、その伝説を辿りつゝ霊威を讃え、時々これを剣術に結び付けて語ります

また数多ある流派も遡源すれば、一つのことから出たもので、それが神明剣であると提唱しています

『神明剣秘説』に語られる内容について知るには、なお数日を要するため軽く触れる程度に止めて置きます

 

起倒流

『起倒流傳書』筆者蔵

今回、これが神道関係ではなく武術関係の古文書と気付いた背景には、別に所蔵する肥前島原藩古野家文書の存在がありました
この古野家の当主が幕府の旗本富永参忠に起倒流を学び、皆伝を許されており、その伝系に富永軉翁の名を見ました、最近のことです
則ち、この富永軉翁の名が『神明剣秘説』に記されていると気付き、武術の古文書に類すると分ったのです

なお富永参忠は軉翁の孫にあたり、韴太郎の「韴」の字は神明剣の説に登場する「武韴神君」にあやかったものかと思われます

因陽隠士記す
2025.9.28

居合の伝書、何れの流派か?

『當流居合歌集』筆者蔵

肥前島原藩(深溝松平家)の家臣の古文書を整理していると、流派不明の伝書が出てきました

『當流居合歌集』筆者蔵

後段に出てくる年紀の通り、時代に相応しい表具です
表具の露出していたところは虫舐めのため、裏地が露わになっており、せっかくの銀彩は僅かにその痕跡を残すのみ

『當流居合歌集』筆者蔵

この奥極秘傳の巻一軸は、懇望の人が有るといえども、軽々な判断で授けてはならないと序文に語られています
残念ながら、流派の推定につながる文言は見られません

『當流居合歌集』筆者蔵
『當流居合歌集』筆者蔵

居合百首、流派を推定し得るとすれば、これらの歌を手掛かりにするほか手段は無さそうです

『當流居合歌集』筆者蔵

本来、最も有力な手掛かりとなる伝系には二人の名が列なるのみ
あるいはこの「平田弥市兵衛尉」を流祖とする一派なのかと思われます
武光権大平、「ごんたべえ」と読むのでしょうか、「権太兵衛」など別表記の線も調べましたが該当なし

花押はなぜ入れられなかったのか?
古野氏が所蔵していたことから、この伝書は伝授されたものに相違無く、考えられるとすれば他数巻の伝書と共に伝授されたから、一巻にのみ花押を入れたパターンかと考えています

そして奥書にもう一つの手がゝりが有ります
「コタマヒリヨウケン青葉キヨウロクインタイトラツメ極意なり」
この型の名に共通する流派があれば、推定できそうです
コタマ、ヒリヨウケン、青葉、キヨウロク、インタイ、トラツメの六つに分けられるでしょうか

数日前に発見して、一当て調べましたが、どうも百首から辿るほか答えを得る手段は無さそうです

因陽隠士記す
2025.9.23

無邊無極流の稽古

千本入身(享和三年)

入身稽古とは、素鎗に対して長刀・十文字・鍵鎗・太刀などを以て入身を行い、鎗に突き止められず勝てるか否かという稽古です
千本入身とはその名の通り、入身稽古を千本行うことを指しています

あまり詳しくありませんが、入身側は長刀を使う場合が多かったように思います

『入身千本幟』筆者蔵
『入身千本幟』筆者蔵

三俣家の旧蔵文書にこの『入身千本幟』が残されていました
紙製の幟で、おそらく千本入身当日に目立つところへ掲げられたものと思われます
そう考えると、なかなかの一大行事だったのではないかと...
記念にとっておいたのでしょう

『三俣義行日記:享和三年三月十七日部分』筆者蔵

その日の様子は、日記にも録されています
千本入身は好古堂において行われており、参加する門人たち九十一人には、三俣家から弁当が提供されました

因みに、この千本入身を行った当事者「冨之進」というのは、三俣家の五代目当主義武のことで、前回「無邊無極流の印可伝授」の「印可伝授の儀式」に参加した人物です

入身稽古(文政十年)

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

これは日々の入身稽古数を記録した冊子です
所有者は、先ほど千本入身で登場した「冨之進」の息子義陳ですね
確認できる範囲でいえば、義陳の曽祖父のときから無邊無極流の門下ですから、三俣一族は必ず同流に入門するようです

三俣義陳は、当時二十一歳

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵
『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

上の画像は稽古数を表にしたものです
私の解釈が間違っていなければ、三俣義陳が入身で勝った割合の方が多いです
使用した武器は、たぶんに長刀

なお、特別に冊子として記録された理由は、翌年の千本入身を控えてのことゝ思われます

千本入身(文政十一年)

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

父親と同様に千本入身を行った三俣義陳、当時二十二歳
家督を継ぐ以前のことであり、様々な武術を修め、学問にも励んでいました

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

前半に出席者の名前と本数が記録されています
酒井家の重職の名があり、参加人数も多く、無邊無極流は酒井家で盛況だった様子が窺えます

なお、この年殿様は江戸に在府で国許にはいなかったので、国詰の門弟たちは総出だったかもしれません

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

三俣義陳は入身長刀です
入身勝なら白丸なので、大半は入身長刀の勝利だったようです

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

巻末に通算されていて、入身1015本中、入身勝は723本、突身勝は292本という結果
突身側は入れ代わり立ち代わりで体力を温存できるのに対して、入身側の三俣義陳は一人で1015本立ち合ったわけですから、相当な力量だったと思われます

とはいえ、家中の者同士の稽古ゆえに、真剣に突身側が勝ちに拘ったのかどうか、一大行事ゆえに少しは三俣氏に華を持たせようという配慮があったのかもしれないと、想像したりもします
しかし、前年の『鎗術入身稽古數扣』もあるように、熱心に稽古に励んでいた様子も分るため、このような想像自体が失礼にあたりそうです

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

三俣義陳の父義武の日記に、千本入身のことが録されています

それによると、千本入身の前日に師家や手傳、世話役のところへ挨拶に行っています

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

千本入身終了後は、関係各所へ挨拶廻り
帰宅後は、師家や世話役などを酒肴で労い
翌日、再び関係各所へ御礼廻り

この辺りの流れは、平常運転といった様子

おわりに

当時の鎗術の稽古がいかなるものだったのか、その実態について私は詳しく知りません

たゞこの千本入身といった稽古を見ていると、どうも入身長刀の方を重視しているようで、いかに素鑓を攻略するかという執念を感じます

なぜ突身側の稽古記録が無いのか、なぜ千本突身ではないのか、といった疑問が浮かびます

もちろん、突身の稽古もしていたのは間違いないでしょう、無邊無極流は素鑓の流儀ですから
それなのにどうして入身側の勝利で飾る行事が行われるのか、ちょっと不思議ですね

同じく素鑓の流派である風傳流でも、流祖が入身長刀を披露していましたし、相当習熟していた様子が伝えられています

基本的に素鑓よりも長刀の方が有利であり、強いという前提があるような気がします
しかし、江戸時代の武士の慣習で、鑓という武器を用いることが重要ですし、どうしても鑓を使わなければならないという制約から素鑓の技を磨く流派が広く行われるようになったのかなと想像します

因陽隠士記す
2025.9/6

無邊無極流の印可伝授

今回は、酒井雅楽頭家(姬路藩)における無邊無極流の印可伝授について書きます
なお、同家において無邊無極流は殿様も修行するため「御流義」という位置づけでした
記録には、単に「無邊流」と記されることもあります

こゝでは酒井雅楽頭家の家臣三俣氏の古文書を取り上げ、無邊無極流の印可伝授の様子を見ます

印可起請文

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

印可伝授に際して、師家である山本家に起請文を提出します

起請文は遵守すへき箇條文言を云い、神文に前置します
故に、この文言を神文前書とも云います
本則は牛王を用い、このような白紙の者は白紙誓詞と云って午王の本誓詞に対して略式なるが故に仮誓詞とも云いました
略式とは雖も時代が降って一般にこれを用ひるようになったと見られます

内容は下記の通り

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

天明二年、三俣義行は二十九歳、酒井忠以公の家臣、未だ家督を継いでおらず、御用人並格・奉行添役を勤めていました
家中においては、金原宗豐に師事しており、江戸に在府の機会があれば山本氏に直接指導を受けたものと見られます
基本的に伝書の伝授は、山本家に依頼します

宛名の山本久忠は四十一歳、将軍家の御旗本であり無邊無極流の鎗術師範

印可伝授の手配

『金原宗豊書簡案』筆者蔵
『金原宗豊書簡案』筆者蔵

姫路にいる家臣たちは、江戸で直接山本氏に伝授を受けるわけにはいかないので、印可の巻物を送ってもらいます
上に掲げた書簡案は、その山本氏に印可巻物の手配を依頼したときの下書です

無邊無極流の伝書作成」にあるように、無邊無極流の伝授を受ける家臣たちは、それぞれ印可伝書を作成し、前の起請文を添えて江戸の山本氏へ送りました

受け取った山本氏は、それぞれの巻物に名前と判形を書き込み、送り返します

この伝授形態は、一般に行われるものとは少々異なると思われます

御礼

『三俣義行書簡案』筆者蔵
『三俣義行書簡案』筆者蔵

印可巻物を送られたことに対し、山本久忠に御礼状を認めます

先ほどの『金原宗豊書簡案』といゝ、この『三俣義行書簡案』といゝ、宛名の書き方に注目すると、山本氏の方が身分制度上の立場は下の扱いだったようです
『金原宗豊書簡案』では、「山 嘉兵衛様」と苗字を略されており、『三俣義行書簡案』では、「嘉兵衛様」と苗字さえ省略しています

印可伝授の儀式

酒井家の御流義たる無邊無極流の伝授は、一般の伝授と異なり、姫路の国許では藩主自ら伝授の儀式を行います

印可の伝授を受けた三俣義武がそのときの様子を日記に記録しています
惜しむらくは、虫食いによる欠損が著しく、読めないところがあることです

印可伝授の一ヶ月ほど前のこと
(文政三年十一月八日)
「無邊流鎗術印可御傳授被仰付」<日記>

三俣義武は、無邊無極流印可傳授の内意を承けました
そして、印可伝授の儀式に臨む前日、十二月四日藝事奉行より手紙をもって稽古場へ呼び出されます
おそらくこのとき儀式の予行演習があったものと思われます

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

(文政三年十二月五日)
「一東御屋鋪へ五つ時ゟ熨斗目着用の者着用其外服紗小袖にて罷出る」<日記>

東屋敷は藩主が日常の住居としていた下屋敷のこと
印可の伝授を受ける家臣たちは、殿様の住む東屋敷へ集合します

『姫路城史』

「一御稽古場にて左の通り二席に仰せ渡し之れ有り」<日記>

印可伝授の儀式を図解で説明していますが、細字に虫食いと判読が難しいです
「二席」というのは、「印可」の伝授と、「目付」の伝授です

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

図中「御」の一字は殿様を表していて、「印可傳授差免(さしゆるす)と御意」と家臣にかけられた言葉が記されています
因みに、このときの殿様は祇徳君(酒井忠實君、四十二歳)

殿様の右下に藝事奉行が控えていて、「藝事奉行御取合」とあり、この儀式の進行役を勤めたものと思われます

「三」「内」「金」「原」と下に書かれているのが伝授を受ける家臣たち、苗字の一字目で表しています
後で名前が出てきます、「三俣」「内藤」「金原」「原田」の四名

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

一旦、席を改めて、次は「目付」の伝授の面々へ「目付傳授差免(さしゆるす)との御意有之」と再び伝授を許すとの言葉がありました

印可の伝授の日と同じく、目付の伝授の儀式も併せて行われていました
「目付」は、印可の前段階にあり、目録一巻が伝授されます

「御」殿様の左傍に「高須七郎大夫」が控えています
後の図解にも登場しており、なんらかの重要な立場だったようです

下の方に「小」「本」「天」「三」と四人の家来が控えています
こゝの四名は「小野田」「本城」「天野」「三浦」

再び「藝事奉行御取合」として説明がされていますが、この部分は虫食いのため判読できず
断片的に拾うと、「始に先生二本遣」「勇之進二本遣ふ」「先生二本遣ふ」「御前へ拜礼し引込む」「先生直に引込む」云々と、何かしら無邊無極流の型の伝授が行われた様子が記されています

「一右目印御傳授遣ひ終て御装束之御間へ入らせらる、印可面々罷出て□□□拜礼、尤も進み出て神酒頂戴、一座に血判、先生手次之巻讀む、其□□□□□□服紗に包み□□□開き聞せ引込む、右装束之御間圖左の通り、尤も解□」<日記>

「手次之巻」というのは、印可五巻の内の一巻目、これを「先生」が読み聞かせるなど一連の儀式が記されています

こゝでもう一度図解へ

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

「御」とあるのは殿様、その向いに「御床御餝」があって、殿様の隣にいる「先生」のところへ「進出拜礼」の文字、その向いに「高須七郎大夫」
そして「門人」たち四人が並んでいます

「右印可面々、自分・内藤千太郎・金□[原]□左衛門・原田仲吉、右圖の通り、并に答へ拜礼神□□□、先生三方持参、面々頂戴、右圖の通り一座一度に神文血判、針、神文猿[懐か]中持参、夫□手次之巻先生読み聞せる、手次の巻猿[懐か]中より出□□□□□□開き聞せ候、直に引込む」<日記>

こゝで印可誓紙に血判して差し出したようです
そして、先生が印可の一巻目「手次之巻」を読み聞かせ退出

以上の儀式を終えると、稽古場へ移動します

「右畢て御稽古場へ御入らせ目印の通り先生弐本遣ひ見せ、門人遣ひ、又先生二本遣ひ見せ、門人遣ひ、三度にも四邊に遣ひ仕廻ひ、御前へ拜礼引込む、二人目より先生遣ひ見せす、先生遣ひ候内目印の通り」<日記>

先生が遣って見せ、それを門人が模倣、これを繰り返す

「一相済み御側御用人へ御役所へ御礼に罷出て候、藝事奉行役所へ断り」<日記>
「一鈴木□兵衛、高須七郎大夫、天野小平太、森文七郎、麻上下にて出席」<日記>
「一右の面々へ礼に罷越し候」<日記>

一連の儀式を終えると、三俣氏は関係各所へ御礼廻りに出掛けます

「一御頭并に印可面々、追々吹聴に罷越し候」<日記>
「一先生へ右四人より鰭節壱匹・酒礼十五枚遣はし候」<日記>

印可を伝授された、と家中の者たちへ知らせ、先生には御礼として「鰭節壱匹・酒礼十五枚」が贈られました

(文政三年十二月七日)
「一御屋敷御稽古に罷出て候処、先日の印可の節御餝りの餅頂戴」<日記>

一ヶ月後、儀式のとき飾られていた「御床御餝」の「餅」を頂戴
これで印可傳授の一連の出来事が終りました

『無邊無極流伝書』筆者蔵

おわりに

印可伝授の儀式について、日記の細字部分が虫食いで読めないというのは、とても残念でした
こういった出来事は文字にして記録されることが珍しいので、せっかくの好例だったのですが...

一連の流れをまとめると
1.印可伝授の沙汰(内定)
2.雛形を使って印可巻物を作成する
3.印可神文を作成する
3.御旗本山本家に印可巻物と神文を送付する
4.返送された印可巻物の御礼状を送る
5.印可伝授の儀式★
6.関係各所へ御礼廻り
7.家中の者たちへ印可伝授の件を吹聴する
およそこのような流れだったと思います

酒井家中の師範に師事して、認められゝば山本家から伝授されるという形態は、なんとなく、運転免許の取得に似ているかもしれません

因陽隠士記す
2025.9/4

無邊無極流の伝書作成

伝書の作成について、詳しく知っている人は少ないでしょう
それは史料が少ないことや、関心をもつ人が少ないことによると思います
私は昔から伝書の作成に関心があり、僅かな情報でも得られるように努めてきました

『無邊流印可下書』筆者蔵

伝書作成に直接関係する史料があります
『無邊流印可下書』と題された包紙に収納されていて、同流の印可伝書の見本や図法師を書くための型紙などが一式揃っています

『無邊流印可下書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵

図法師を書くための型紙には使用の痕跡が認められます
竹串のようなものは鑓などの武器を書くために用いたと思われます

『無邊流印可下書』筆者蔵

無邊無極流の印可は、『手次』『鎗合』『十文字合』『太刀合』『長刀合』の五巻をもって一揃いとします

『無邊流印可下書』にはこれら各巻の雛形があります

『無邊無極流伝書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵
「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」などの指示
『無邊流印可下書』筆者蔵

『無邊流印可下書』は、そもそも酒井雅楽頭家の家臣三俣氏が所蔵したものです

三俣氏は無邊無極流の師範ではありませんが、このような『無邊流印可下書』を所持していました
それはなぜか?
酒井家においては、印可のとき巻物を自前で用意すると決められていました
おそらく、師範家に負担をかけないよう配慮したものと思われます
というのも、酒井家における同流の伝授形態はちょっと特殊なもので、無邊無極流の宗家ともいうべき幕府旗本の山本家に伝授を依頼していたからです

つまり、印可の段階に至れば、家臣たちは各々が巻物を用意して神文を提出し、山本家に実名・判形を求めたのです

印可伝書は、下書の通りに作成され、実名・判形のところを空白にしておいて、江戸に送られました
そして、後日公式の場でそれぞれの家臣に伝授されます

因陽隠士記す
2025.9/2

土屋将監:柳生流長刀目録

『柳生流長刀目録』筆者蔵
『柳生流長刀目録』筆者蔵

柳生流の長刀目録はこの伝書のほかに未見です
数多ある長刀を七つに窮めておいたと記述されているので、土屋将監のときに編まれた伝書かもしれません
しかし、先代のときの文言をそのまゝ踏襲しているのかもしれず、この辺のことは分らないです

伝書の様式そのものは、後世の土屋系に引き継がれています

『柳生流長刀目録』筆者蔵

伝書にこの大きな赤丸を描くのは、いつに始まったことだろう?
所蔵する慶長十八年の夢想願流伝書には、塗り潰さない赤丸が大きく描かれていたり、寛永頃の念流の伝書にも塗り潰された赤丸が見られる

流派の垣根を超えて、採り入れられているこの赤丸はどこから来たのか?
考えるとおもしろいですね

『柳生流長刀目録』筆者蔵

右のこの哥の心もちに能々鍛錬肝要に候
他流には堅躰に致す共、必ず右無躰の心持にて如何にも神妙
秘すべし秘すべし
右の通り一心を肝要に候

『柳生流長刀目録』筆者蔵

土屋将監、名は景次
詳しい履歴は伝わっていません
神後伊豆に学ぶと云われますが、確認されている慶長十八年の柳生流伝書や、こゝに紹介する伝書においても、伝系は「柳生五郎右衛門」を師としています

また、「心陰流」という流名についても、土屋将監のとき名乗っていた史料が見当りません
秋田の系では後世「心陰柳生流」の称があります

因陽隠士記す
2025.8.30

竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25