無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

鐵舟山岡高步筆直幅

註一幅 絹本墨書 縱二〇六・五 橫五九・一 明治時代・明治十六年 梅園方竹舊藏 筆者藏/ 此の書は.明治十六年の夏.全生庵の建立に際して越叟義格禅師の需めに應じて揮毫された.

淸きこと玉壺の氷の如し.癸未初夏日.越叟禪師の囑の爲に.鐵舟居士書く.

印文.擔雪塡井.山岡鐵太郞印.荷華團.

因陽隱士
令和五年十一月十一日編

泥舟高橋政晃筆排悶詩幅

註泥舟高橋政晃筆排悶詩幅 一幅 絹本墨書 縱一三九・四 橫五一・四 明治時代 筆者藏/ 高橋泥舟[1835~1903].德川家の旗本.天保六年二月十七日.德川家の旗本山岡正 業の次男として生れる.德川家定[1824~1858]・德川家茂[1846~1866]・德川慶喜[1837~1913]に仕え.講武所の鎗術指南役を 勤める.自得院流を號し.鎗術を以て世に稱される.從五位下伊勢守に敍任し,浪士取扱を兼ね.後ち德川慶喜の恭順を首唱し.その謹愼に隨って駿府に隱遁す る.明治三十六年二月十三日歿.享年六十九./ 此の排悶詩は.慶應四年十二月.高橋泥舟三十四歲の時の作.小島成齋[1797~1862]に師事して精 通した虞法を以て楷書を書く.

折葦, 影亂,斜陽の路.風潮岸を嚙む,吞み又た吐く.鏡裏流年何そ瞬息.寒雁群飛,歲將に暮れなんとす.沙塵面を撲つ,髮已に皤し.十年陸沈として意蹉跎たり. 橫ふ磨劍膏に在りて得す.言はす,淚痕日〃更に多し.食盡き力窮り猶ほ忍ふへし.兒啼き妻悲しむ,袖爭てか引かん.滿腔の苦辛も亦た安んすへし.人世限り 有るも名盡くること無し.昨日偶然故人を訪ふ.奴粱肉に飽き婢絳裙す.我か平素の活計の拙きを嘲る.今日猶ほ笵叔の貧に苦しみ.造化小兒の禍福を弄ふかこ とし.窮達に關せさるも遲速有り.歸り來る晚村何の看る所か.蕭蕭,翠罩,一叢の竹.
戊辰晚冬排悶.澁谷君の矚の爲に.泥舟眞逸.

印文.獺是眞.執中庵主.泥舟閑漁.

因陽隱士
令和五年十一月九日編

靜脩山人桃井直正筆自新主一二箴帖

帋本墨書 28.3 x 686.0 cm 明治十七年二月 筆者藏

Chinese poem.
By 桃井直正 (1825 – 1885). Meiji period, dated 明治 17 (1884).
Hand scroll. Ink on paper. 28.3 x 686.0 cm. Private collection.

明治十七年二月、奧野氏の爲に、前半に明の李迪の「自新箴」を、後半に宋の張南軒の「主一箴」を揮毫。桃井直正の最晚年に當り、この年十一月大阪府御用掛劍道指南方に任じられる。
因陽隱士
令和五年十月二十九日編

無名老翁岡本宣就筆唐詩卷

一卷 帋本墨書 36.1 × 239.6 cm 江戶時代 筆者藏

Chinese poem.
By 岡本宣就 (1575 – 1657). Edo period, dated 17th century.
Hand scroll. Ink on paper. 36.1 × 239.6 cm. Private collection.

「早春遊望」杜審言、「七里灘」許渾、「題僊遊觀」韓翃、「宮詞」王建、以上四詩を採錄した書卷。跋に曰く「所望に依て、象眼の老翳を掃ひ、龜手の禿毫を揮ひ、書以てこれを授く。聊かも外看を禁ず。」と。

因陽隱士
令和五年十月二十九日編

翠樹靑木重威筆一鶚直幅

一幅 帋本墨書  × cm 江戶時代 文化十二年 筆者藏

Lesson on Calligraphy.
By 靑木重威 (1786 – 1859). Edo period, dated 文化 12 (1815).
Hand scroll. Ink on paper. × cm. Private collection.

一鶚/ 翠樹書

● 一鶚・・・『漢書・鄒陽傳』の一節.「鷙鳥累百.不如一鶚.使衡立朝.必有可觀.」.「鶚」は「大鵰」を云うと註にあり.
● 翠樹・・・靑木重威.松平定永公の臣.嘉永元年祿百石・御徒頭席.念首坐流指南役.また鎗術指南役を兼ねたと云う.文武共に秀で.兵學を平山潛に學ぶ.
因陽隱士
令和五年五月五日編

運籌眞人平山潛筆怒鼃直幅

一幅 帋本墨書  × cm 江戶時代 筆者藏

Han Feizi ( 韓非子 ) words.
By 平山潛 (1759 – 1829). Edo period, dated 18th – 19th century.
Hanging scroll. Ink on paper. Private collection.

怒鼃.運籌眞人書.

● 鼃・・・古文においては「蛙」に同じ.『說文解字』に「虾蟇」を指すとも云う.
● 怒鼃・・・この二字は.蛙を賞した越王句踐の故事に基づくと考えられる.『韓非子:內儲說上』の一節.「鼓腹而怒之蛙.越王句踐見其氣盛而行禮.以昭禮賢下士之心.」.
因陽隱士
令和五年五月三日編
平山行藏
新篇先哲叢談卷之三

静斎男谷信友筆垂示直幀

一幅 帋本墨書  × cm 江戶時代 萬延庚申冬日 筆者藏

Lesson on Calligraphy.
By 男谷信友 (1798 – 1864). Edo period, dated 萬延 1 (1860).
Hand scroll. Ink on paper. × cm. Private collection.

武道を學ぶものは先萬事をさしをき胴骨を剛くする修行肝要たるべし是武の地盤也/ 萬延庚申冬日應需靜齋老人

因陽隱士
令和五年五月三日編

男谷精一郞
江戶時代、天保弘化の頃、天下の劍豪として、三羽烏と稱された名劍士があつた。男谷精一郞、大石進、島田虎之助である。男谷は靜齋と號し、名は信友と言つた、父新次郞信連は幕士であつた。男谷は二十歲の時、親族の男谷彥四郞の養子となつたが、精一郞は若年より武藝を好み、劍道を岡野眞帆齋、兵法を平山子龍に學び、智謀深く、膽力豪大而かも謹嚴にして稀に見る逸材であつた。<皇國劍道史>

本心鏡智流鎗の穗

『本心鏡智流鎗之穂:藤原國住作』筆者藏
『本心鏡智流鍵鎗拵様之巻』筆者藏
形狀

本心鏡智流の鎗の穗は、およそ蕎麥三角の形を流儀の規格とする。これは同流の傳書『本心鏡智流鍵鎗拵樣之卷』を見れば明らかなこと。
しかし、丹波篠山藩において同流の指南役を勤めた佐藤信成が著した『傳聞集』を見れば、「當流用る所、ソバ三角、或は兩シノキ」と記されており、必ずしも蕎麥三角のみを規格とした訣では無かったと知れる。(兩鎬は本心鏡智流の源、樫原系の穗にも見られる)

蕎麥三角・兩鎬というほか、形狀について、同流の穗は薄く尖るものを嫌い、一見して通り難きものを好む。
一見して通り難きものとは、丸みあるものを云う。これは、地に擦ったとて鋒を損じることなく、堅物に當って最も通りが良いという利點があるとされる。

そして長く作られた莖は、太刀打に刄が當ったとき切り難く、また鎗の釣合が良いとも『傳聞集』に記されている。

藤原國住とは?

天保十二丑年八月日に作られたこの鎗は、豫州松山臣山城守百國の末と冠する藤原國住の銘在り。
「豫州松山臣山城守百國末藤原國住七十七歲作之/天保十二丑年八月日」
奈良縣の登錄證が付いている。奈良は、嘗て本心鏡智流が盛んに行われていた地域であり、江戶時代以來そのまゝ同地に眠っていたものか。

藤原國住、『刀工槪覽』には、「豫州松山臣藤原國住、江戶住、國吉門、寬政頃」とあり。

このほか、藤原國住について探すと、明治三十五年、昭和二,三年の帝室博物館列品目錄にその名を見る。これは打根や十文字鎗の作にて、藤原國住は、刀工というより鎗工というべき人物か。

いずれにしても、藤原國住という人物の委しい履歷は分らず、その銘に據って、山城守藤原百國に師事し、豫州松山侯の扶持を受けていたと分るのみ。

令和五年四月廿五日 因陽隱士著

『本心鏡智流極意高上馬上鎗之巻』筆者藏