『大內流長刀目錄』を讀む

『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』(筆者藏)です。この流義を知る人は、おそらく殆どいないと思います。『武藝流派大事典』にその流名を見ないことから、極めて少數の者たちが相傳したものと思われます。

未だよく知られていないこの大內流長刀という流儀成立の由來が、當傳書目錄序に記されているので、讀んでみましょう。

大内流長刀目録の序
<夫れ大內流長刀なる者は、周防國の住大內式部正忠、嘗て能くする所也。>
そもそも大內流長刀というものは、周防國に住む大內式部正忠が、嘗て能く遣ったものである。

<弘治之亂後、四方を周游するの後、其の技を大內太郞左衞門正直に傳ふ。>
弘治の亂の後、大內正忠は四方を周游した後に、その技を大內太郞左衞門正直に傳えた。
註:「弘治之亂」・・・弘治元年大內家滅亡。

<其の後、正直出羽國に住して、名を無邊と改む。>
その後、大內正直は出羽國に住み、名を無邊と改めた。

<同國橫手郡仙北眞弓山に籠居の砌、忽然として夢想に槍の一流を開く。所謂無邊流也。>
同國橫手郡仙北眞弓山に籠居していたとき、忽然として夢想に悟り、槍の一流を開いた。これが所謂無邊流である。

<其の子上右衞門、其子淸右衞門之れを傳來す。淸右衞門長刀を眞田一藤太秀興に傳ふ。>
大內正直の子上右衞門と、その子淸右衞門がこの流義を相傳した。そして淸右衞門は長刀を眞田一藤太秀興に傳えた。

<秀興復た古傳の儘なるに因て、私意を加へて、其の形章を增して、以て大內新流と稱す。爾來、槍と長刀と兩流に分る。>
眞田秀興は更に古傳に私意を加えて、その條目を增し、大內新流と稱した。それから、流儀は槍と長刀とに分れた。

<余秀興先生に從ひて之れを學ぶこと年有り。其の術奇々妙々にして、而して鬱陶已に散じ、雾を披きて靑天を覩るが如し。>
余(私)は秀興先生に從って、長年大內流を學んだ。その術の奇々妙々なことに、心の雲は已に散り、さながら霧が披けて靑天を覩るようである。
*「鬱陶已散」・・・<明衡往來>「伏奉嚴旨、鬱陶已散。」
*「如披雾覩靑天」・・・<晉書/樂廣列傳>「命諸子造焉曰、此人之水鏡、見之瑩然、若披雲霧而靑天也。」

<是(こゝ)に至て必勝の理を示さるゝも亦た豁然として明らかなり。吁(あゝ)先生の術は神仙の傳と謂つべき者歟。>
この境地に至って必勝の理を示されゝば、何の疑いもなく悟ることができる。嗚呼、先生の術は神仙の傳えたものだと謂うべきものだ。
*「必勝之理」・・・<商君書/畫策>「虎豹熊羆、鷙而無敵、有必勝之理也。」
*「豁然明矣」・・・<朱熹/大學章句>「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。」
*「吁」・・・<操觚字訣>「吁は、驚也。疑怪之辭、歎と註す、嗚呼よりは、その意稍輕し。」

<爾りと雖も、窮玄極妙の處に到るには、日夜怠らず、切磋琢磨の功非ざれば、其の位を得ること最も難し。其の淺深を辨へるも亦た難し。>
そうではあるが、深奧を窮め、妙を極めるという境地に到るには、日夜怠らずして切磋琢磨しなければ、その位に到ることはとても難しく、またその淺深を知ることも難しい。

<因て茲に余序以て其の傳來を後輩に示す者也。于時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹て誌す。>
因ってこゝに余(私)が序をもって、その傳來を後輩に示すものである。この時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹みて誌(しる)す。

註 < >:譯文 赤字:意譯文 *解說

今囘は「序」に注目して、その後の目錄・印可の記述を省きました。これは箇條につき、その解釋をし得ないためです。若干附言すると、序の後は「目錄槍合表・裏」「中奧太刀合・十文字」「大奧」「印可口訣」と傳授箇條を列擧し、その後に傳系を記しています。

なお、この傳書は岡山藩士梶田淸右衞門の娘富貴に傳授されました。

令和三年八月十五日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏