形狀
本心鏡智流の鎗の穗は、およそ蕎麥三角の形を流儀の規格とする。これは同流の傳書『本心鏡智流鍵鎗拵樣之卷』を見れば明らかなこと。
しかし、丹波篠山藩において同流の指南役を勤めた佐藤信成が著した『傳聞集』を見れば、「當流用る所、ソバ三角、或は兩シノキ」と記されており、必ずしも蕎麥三角のみを規格とした訣では無かったと知れる。(兩鎬は本心鏡智流の源、樫原系の穗にも見られる)
蕎麥三角・兩鎬というほか、形狀について、同流の穗は薄く尖るものを嫌い、一見して通り難きものを好む。
一見して通り難きものとは、丸みあるものを云う。これは、地に擦ったとて鋒を損じることなく、堅物に當って最も通りが良いという利點があるとされる。
そして長く作られた莖は、太刀打に刄が當ったとき切り難く、また鎗の釣合が良いとも『傳聞集』に記されている。
藤原國住とは?
天保十二丑年八月日に作られたこの鎗は、豫州松山臣山城守百國の末と冠する藤原國住の銘在り。
「豫州松山臣山城守百國末藤原國住七十七歲作之/天保十二丑年八月日」
奈良縣の登錄證が付いている。奈良は、嘗て本心鏡智流が盛んに行われていた地域であり、江戶時代以來そのまゝ同地に眠っていたものか。
藤原國住、『刀工槪覽』には、「豫州松山臣藤原國住、江戶住、國吉門、寬政頃」とあり。
このほか、藤原國住について探すと、明治三十五年、昭和二,三年の帝室博物館列品目錄にその名を見る。これは打根や十文字鎗の作にて、藤原國住は、刀工というより鎗工というべき人物か。
いずれにしても、藤原國住という人物の委しい履歷は分らず、その銘に據って、山城守藤原百國に師事し、豫州松山侯の扶持を受けていたと分るのみ。
令和五年四月廿五日 因陽隱士著