風傳流の流祖中山吉成の弟子-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-濱嶋加右衛門 ?

L1「酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・酒井家の家来。中山吉成が風傳流を建立して初めての弟子。「酒井雅楽頭様」は、権勢を誇った酒井忠清公。
慶安四年の酒井家『御分限帳』を見たところ、「濱嶋加右衛門」の名は見当らず。

流祖中山吉成直伝の弟子-草芥弥九郎 印可

L2「井伊掃部様の御屋敷八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる御家来に草芥[侭]弥九郎と云者も弟子にて」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。草芥弥九郎は後に印可を許された人物。彦根の井伊直興公が幼名吉十郎といった若いときに風傳流を指南した。このため後々彦根の井伊家において風傳流の勢いが盛んになったという。

さて、「草芥」と原文のまゝ表記したが、正しくは「草刈」。原本に「草苅」と書かれていたものを誤写したのだろう。
「八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる」という文言からして、承応二年に八丁堀御屋敷(彦根藩の江戸蔵屋敷)を預けられた草刈家の初代次郎右衛門が該当すると見られる。
また、草刈次郎右衛門は寛文三年、井伊直興公が八丁堀御屋敷へ移ってきたとき、その御付となっているから間違いない。但し「弥九郎」の称は記録されていない。

流祖中山吉成直伝の弟子-曽我権之丞 中書

L3「其比曽我権之丞殿は御歩行頭役を勤られ、一傳の弟子にて、書院の前に鑓小屋を立て日々稽古はけまれたる」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。曽我権之丞、鑓免許の御祝儀の席のこと、集った高弟たちに仕合を挑み、免許の相弟子二三人を破って増長し、さらに印可持の弟子に挑んだ。そこで受けて立ったのが遠藤半之丞。勢いづいた曽我権之丞だったが、技倆の差は歴然たるもので、八本の仕合で八本とも遠藤半之丞に敗れた。流祖中山吉成はこの時の遠藤半之丞の駆け引きに殊の外感心して、後々弟子たちに語って聞かせたという。
曽我権之丞は、この仕合のあとに心を改め、風傳流に精進し「中書」を伝授された。

流祖中山吉成直伝の弟子-遠藤半之丞 印可

L4「[遠藤]半之丞初は斎藤摂津守様に奉公せしに、外へ出て一傳[中山吉成]に慕ひ鑓修行せん為に、十八歳にて元服し、又其後暇願ひ浪人して只鑓の深く志し、一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」<風傳流元祖生涯之書>

L5「一傳[中山吉成]印可を渡され後に越後村上の御城主榊原熊之助様へ被召抱」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼政辰が「一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」と絶賛する風傳流の遣い手。流祖直伝の中で随一の遣い手と思われる。
中山吉成に印可を伝授された後、越後村上の城主榊原熊之助に召し抱えられた。そして、榊原熊之助が十五歳になったとき、その指南役となる。榊原家は姬路に転封となり、遠藤半之丞は同地で病死した。
「榊原の御家は古く、古侍多く勿論藝者も多き中に半之丞か鑓術の位なる藝は無之のよし」と、榊原家中の士より伝え聞いたという。

上記の内、「榊原熊之助」というのは著者菅沼政辰の記憶違いで、代を取り違えたのだろう、正しくは「榊原虎之助」。越後村上から播磨姬路に転封となった式部太輔は「榊原政邦」一人ゆえに。
とすれば、若君が十五歳になったのは元禄二年のこと。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野与一郎 印可

L6「上野与一郎も一傳[中山吉成]印可の弟子にて、其比は近藤登様の御組にて勤たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「近藤登様」は脱字で、幕府の旗本「近藤登助」のことかと。年代から察するに「貞用」が該当する。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野伊大夫 免許

L7「同弟[上野]伊大夫も免許の鑓也。此外免許の鑓有。伊大夫は其比御歩行衆にて其比六百人の御歩行衆の内にて六人に撰れたる水の上手也」<風傳流元祖生涯之書>

L8「後に石貝十蔵殿御取持にて、禁裏様御守京都に御詰被成る久留嶋出雲守様の御組へ入与力にて京詰せしなり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「久留嶋出雲守様」は、幕府の旗本「久留島通貞」が該当する。この人が禁裏附に転じたのは天和二年六月二十七日のこと。つまり、その頃から上野伊大夫は京詰の与力となった。このとき「八郎右衛門」と改め、元百万遍の屋鋪の内に居住し、多くの弟子をとって風傳流を弘めたという。そして同地において病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-奥山治右衛門 ?

L9「奥山治右衛門殿と云御旗本衆も一傳[中山吉成]の弟子にて稽古被成候に、又勝れて馬をすかれ乗馬の上手にて」<風傳流元祖生涯之書>

L10「「さてもヶ様に可有とは知らすして、前に過言推参申たる也。此上は是非馬上の鑓を深望に存候間、未御免許は得す候へ共、馬上の鑓一通りの御相傳を偏に願ひ候」と御申有に、一傳[中山吉成]「心有て堅き御ちかひの上にて、馬上の鑓一通り迄を傳へたる」となり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・馬術に長けた奥山治右衛門、ある日中山吉成に馬上の鑓合を申し込む。風傳流において馬上鑓は免許の後に伝授されるもの、本来であれば断られるところ、中山吉成は承諾した。四本の鑓合の結果、四本とも中山吉成に敗れ、奥山治右衛門は非礼を詫び、是非とも馬上鑓の伝授をと願い許された。

当時の「奥山治右衛門」といえば、「奥山重治」が該当する。御書院番に列し、後ち番を辞して小普請となった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿七日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-3

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 年不詳

K1「一傳[中山吉成]は又鑓の外に念流の釼術を深く修行して、下手の打太刀は無刀にても取られたる上手なりといへ共、鑓は自己に立られたる風傳流なるに況や戦場にて鑓は別て諸士の武功を達器なる故に、望にまかせて是を廣くとり、又太刀術も弟子望み多しといへ共、是は断てあへて取合れす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・鑓術のみならず、釼術も相当な遣い手だった様子を伝えている。念流は、友松偽庵が彦根藩士であったことから、同藩において盛んに行われていた釼術の流派。無関係ではないかもしれない。

K2「玄関の内の連子まとにすかしの有る紙を張り置て、折ふし此すかしより見られたるを門弟は知らさる也。如此免許の鑓におしへすして免許せられたる事には皆人不審なしたる事也。是にはふかき事有。其免許を得たる人の鑓を遣ふを見ては皆人不審をはれたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・ちょっと面白い話。中山吉成は、こっそりと門弟の技倆を見て、その技倆有りと見れば免許を与えた。周囲の門弟たちは不審に思うが、その技倆を見て納得したという。

『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

K3「自然まれに元祖竹刀を持れて門弟の内を相手にしてからし物の業遣ひて見せられたるに其業のさへたる事其内に程をよくしてかね合をたかへす拍子の自由を遣はれし事勿論強柔の位過所及なく全躰の業うつくしくてさとく見へたり...幾度も右のことく拍子をたかへす遣ひて見せられたり。門弟真似て仕習ふに及はすして感したる事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「からし物の業」は、別に『風傳流からし物傳』と題する六冊が著されていることからして、風傳流にとって重要な技の仕組であったらしい。同流にとって重要な仕組であったが、この仕組の道理は難しく、菅沼政辰が見る限り、真に遣える者は少なかったという。晩年には、間違った形で遣われるようになっていたようで、おそらく、早々に本来の道理は失われたと思われる。

K4「元祖[中山吉成]の遺言よく残されし鑓屋田中喜左衛門に被申付たる鑓也。此鑓の柄天草の樫也。二十角にけつり惣鑓の形は外に道具の書と題したる内に記したることく也。身は両しのぎ長さ三寸五分也。是元祖吟味の上に長さ三寸と申付られたるに、鍛冶あやまりて三寸五分に出来たるに突ぬけ共に勝れたる故元祖五分長きをかまはすして其侭用ひられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の持鎗は、遺言によって月正寺に預けられた。その鑓について語られている。入念に吟味して鑓の身の長さ三寸と指定したにもかゝわらず、鍛冶が誤って三寸五分に作ってしまう、それでも中山吉成はそのまゝ用いたというから、昔の大らかな風情を感じさせる。
風傳流の鑓については、別に『風傳流素鑓真剱之形』という伝書が有って、流儀の指定する寸法というものがある。とはいえ、弟子の中には敢えて身の長さを「壱寸八分」に作るものも現れる。中山吉成は実見して「此通にて御用ひ候へ」と許したというから、何か目論見があってのことであれば、寸法の加減は許容されていた様子。

おまけ

中山吉成の実名は、「吉成」として知られている。
それは、ほとんどの伝書には系譜に「吉成」と記すし、種々の書籍にも「吉成」とのみ記されているから、当然といえば当然。

ところが、この頃所蔵の風傳流の伝書を見ていると、二つの発見があった。
「中山源大夫重昌」と書かれている。
「重昌」という実名は一時的に用いられたものか、「吉成」と改名する以前の実名なのか、定かではないが、たしかに実名「重昌」の時期があったと分る。

『風傳流仕合之巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
参考文献参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『曽我家文書』『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』
因陽隠士
令和七年七月廿五日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 ~60歳 大垣藩士~赤坂 寛文~延宝八年

F1「元祖[中山吉成]は其後加藤内蔵助様の御取斗ひにて濃州大垣の御城主戸田采女正氏信公へ被召抱たり。知行弐百五拾石被下、鑓は申立すして外様組に出る...此時は又元祖名を中山源兵衛と改む」<風傳流元祖生涯之書>

F2「[戸田]氏信公へ[中山]源兵衛身上相済たるには子細有。是は右内蔵助様兼て源兵衛を御懇意に思召て、則采女[戸田氏信]様へ御参會被仰しは、則御望の通[中山]源兵衛に知行三百石申付て可召抱と被仰て[加藤]内蔵助様御満足被成」<風傳流元祖生涯之書>
・・・加藤内蔵助の仲介によって知行三百石を以て召し抱えられるはずが、知行二百五十石になった子細について語られる。その内容は省くとして、結局「間もなく濃州大垣へ[中山]源兵衛妻子共に引越て勤めたり」と落ち着く。

F3「[中山]源兵衛は只風傳流の鑓を廣くする事をたのしまれて、此御家[戸田家]てにも三四年、又七八年の内には鑓免許の弟子も出来て所々国へも風傳流を廣めたる事有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・大垣戸田家に召し抱えられた年代は定かでないものゝ、少なくとも七八年以上は同家に仕えていた。

F4「大垣に勤られし時、『中書』といふ一冊を編て我々に渡されたる時」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の傳書『中書』が編まれたのは、この時期。

F5「[嫡子中山喜六]子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山父子の仲は険悪であり、中山吉成末期に及び、親類縁家の者が嫡子喜六の儀絶を解くよう頼んだが、中山の姓を名乗ることを許すのみだった。結局、嫡子中山喜六は浪人のまゝ江戸で病死する。

F6「[三男中山弥左衛門]鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

F7「[竹中]助大夫は某[菅沼政辰]か父故に元祖も兼て互に書通して出合ん事を念し、ある時元祖[中山]源兵衛思ひ立れ某[菅沼政辰]共に種々もてなし、則躮竹中弥左衛門も初て元祖へ對面す...某[菅沼政辰]も同道して大垣へ帰られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・元祖が不破郡岩手の竹中家を訪問したときの話。これは「風傳流の流祖中山吉成について考える-4」の「おまけ-竹中左京様」で触れた通り。

F8「[菅沼政辰]大垣にて暇を取たる比は菅沼与市と改めて大垣へも出入せしに、元祖[中山]源兵衛某[菅沼政辰]へ指圖せられしは、「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」と被申て」<風傳流元祖生涯之書>
・・・一足先に戸田家を辞していた菅沼政辰、師中山吉成より勢州津藩に風傳流を弘めるよう依頼される。当時、菅沼政辰の年齢は二十代半ばから後半。既に中山吉成の信任厚い。

F9「左門[戸田氏西]様御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝに面々の組頭より御意の趣を一札宛に記し是を渡し面々請取て浪人す...右の通の一札を請取て何れも大垣を出るに元祖[中山吉成]も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す。右大勢御暇被下候事」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の流祖中山吉成について考える-3において触れたように、延宝の大暇によって暇を出された話。家督を継いで三四年経ったころから藩財政が悪化し、延宝八年、大規模な解雇につながった様子を伝えている。
当時の組頭戸田権兵衛は、八百五十石戸田芳雄が該当する。

F10「其比某[菅沼政辰]桑名に居て右の沙汰を聞、元祖の事無覚束思ひ、即刻發足し夜通しに大垣へ行翌朝五つ時に直に元祖[中山]源兵衛宅へ見廻しに、はや元祖は屋鋪をあけ御城下より一里半北に「赤坂」と云所に仁科才兵衛と云人の方迄先程行かれたるよし」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成が浪人したという話を聞きつけた菅沼政辰は、急遽桑名から大垣へ急行し、中山吉成の無事を確かめた。

中山吉成 61歳 垂井滞在 天和元年

G1「其後同国の内往還に「たる井の宿」のうら静なる所に先年岡田将監殿といひし御役人の居られし明屋敷の有を元祖買とゝのへられ暫住居せられたるに」<風傳流元祖生涯之書>

G2「諸国より鑓の門弟等も多く見廻ふ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、一先ず「たる井」の地に腰を落ち着け、諸国の門弟に風傳流を指南していた。

G3「某[菅沼政辰]も又桑名より見廻たるに兼て拵へ置れて風傳流の印可の二巻此時某[菅沼政辰]へくれられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・おそらく、この時期に風傳流の印可二巻が成立したのではないかと。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 62~64歳 明石藩士 天和二年~貞享元年

H1「播州明石の御城主松平若狭守[直明]様の御家に右にも記したる元祖縁家の丹羽氏なと居る故に、ある時明石へ行れしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・丹羽氏は中山吉成妻寿貞の実家。また、中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽家の養子となり家督を継いだ。

H2「日数をへて明石へ行着れたるに間もなく若狭守[松平直明]様御家へ可被召抱由にて、此時知行三百石源兵衛へ可被下の御内意有之に...則御城の戊亥にあたる勘手新田にて十町の所を茶代として物外に被下御家中の内にて家屋敷を被下度々登城して」<風傳流元祖生涯之書>
・・・知行三百石を固辞して、勘手新田に十町の地を下された。これには理由があって、中山吉成は「知行を得て勤るには諸士の次第有て、上に立つ人多し、知行をうけす物外と成て家老中にも同位に語る事是物外長袖分の徳也。殊に年寄存生の程も知れたるに仕廻をよくして後に末弟等迄の知る所有り、物外か仕廻の程を必末々語り聞せ」と菅沼政辰に語ったという。つまり、身分によって生じる格式に煩わされたくなかったと。
なお、松平直明が明石の地に転封となったのは天和二年のこと。つまり仕官の話は天和二年頃と考えられる。

H3「[中山]源兵衛其比の名は物外といひ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・上にいう「長袖分の徳」。

H4「戸田左門[氏西]様へ御手寄の御老中御光来の節、御咄の序に被仰しは「何として上聞に達したるか、頃日上意に左門は中山源兵衛といふ家来に暇を出し則若狭守[松平直明]召抱たるよし、若狭守は能者を召抱たる」と上意有しと御語被成たると也。是聞ゆる筋有て元祖[中山吉成]我々へも語られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・どのような経緯で将軍様のお耳に入ったものかと、暇を出されて浪人となった中山吉成を松平直明が召し抱えた件について、老中から戸田氏西に語られた。
将軍に「能者」と言われことは無論名誉なことであり、中山吉成にとって嬉しくないはずがない。よって門弟たちにも語られた。

H5「貞享元甲子年七月十四日に病死せらる、行年六十四、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則兼ての法名「物外獨翁居士」と号す」<風傳流元祖生涯之書>
・・・松平直明に召し抱えられて僅か二三年、流祖中山吉成はその生涯を明石の地で終えた。
中山吉成の遺言によって、持鑓は月正寺に残し置かれた。
『風傳流元祖生涯之書』の著者である菅沼政辰は、後日月正寺に参り、中山吉成の墓に参り位牌を拝し、涙ながらに香典をさゝげた。そして遺族と対談し、桑名へ帰るに「道すから力なく元祖久敷つかわれし若黨に左次兵衛といふ者元祖にはなれ美濃の内在所へ帰るを幸に召つれ唯元祖こし方の物語りせめては旅のつかれのまきれとしてすごゝゝと桑名へ帰りし也」としめくゝった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『新修大垣市史』
因陽隠士
令和七年七月廿四日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成の行跡-はじめに

これまでに幾度も取り上げた『風傳流元祖生涯之書』*1に基づき、その他の史料・資料をもって補足し中山吉成生涯の行跡をこゝにまとめる。

『風傳流元祖生涯之書』は、中山吉成の高弟菅沼政辰の著書。流祖中山吉成の行跡を記したもので、後世の失傳に備え、菅沼政辰の最晩年に執筆された*1。
その特徴として、基本は編年体でありながら、それぞれの出来事は年代を明示せず、また所々に著者菅沼政辰自身の行跡も入るため、史料の正確性において少なからず弱い点がある。たゞこれほどに中山吉成の行跡を伝えた史料は他に見当らず、行跡を知る上で貴重な情報であることは言うまでもない。

1・・・同書中に「つらゝゝ考ふに、元祖風傳流を建立せられしより以来、今漸九十年に近し」との述懐があることから、菅沼政辰隠居後、最晩年の執筆と見られる。

中山吉成誕生 幼名不詳 1歳 元和七年

A1「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成出生地は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」において述べたように、矛盾が生じる。よって、推論のごとく「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は仮に「美濃国大垣」とする。

A2「[中山]源兵衛は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」<風傳流元祖生涯之書>

『風傳流免許巻』部分 筆者蔵
中山吉成 ~28歳 元和~慶安元年

B1「父中山角兵衛竹内流の鑓を修練し、則源兵衛も早歳より父角兵衛に此鑓術を傳授して、十六歳より他国へ發向し弟子を取事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、若年の頃より父中山家吉に師事して竹内流の鑓術を修行する。そして、十六歳のとき独立し、諸国を遍歴して修行を重ねつゝ、弟子を取った。

『林鵞峰序:鑓書記』
中山吉成 29歳~30代 慶安二年~明暦

C1「古流を数多ひ又竹内流へ復て弥修行を重て工夫を積て、終に於江府一流を建立す。則風傳流是也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・竹内流を研鑽し古流を取り入れ、風傳流を建立する。風傳流を建立した正確な年代は伝えられていない。

C2「林道春法印に對談して鑓の意味を語るに、法印深く感して自右の趣を文に作りて送る。吉成則是を序文として一巻を顕はす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・幕府の儒官林鵞峰によって撰文された「鑓書記」。これを風傳流の基礎伝書、免許六巻の中の一巻に取り入れた。「鑓書記」の撰文は、慶安二年。則ち、この年を風傳流の成立と考えるのが妥当か。

C3「此時吉成假名を新左衛門と云。其後又名を中山一傳と改」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「一傳」に改名後、中山吉成の弟が「新左衛門」の称を継いだ。

C4「館様の御屋鋪に居なから、鑓の弟子を取の初に酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「館様の御屋鋪に居なから」とあるのみにもかゝわらず、『明石名勝古事談』には「徳川綱吉(後の将軍)の館に居り」と記されている。単に「館様」という語から拡大解釈したものか、明らかでない。

C5「中持市郎左衛門と云人有、是は管鑓の上手といひて此弟子も多く稽古甚有しに、右市郎左衛門が弟子と又一傳の弟子の内にも互に鑓の咄雑談し、又外にもいひ傳る人有て、市郎左衛門と一傳と勝負仕合を望む人多く、既に一傳も仕合をすへき心に決したるに...則四本迄仕合、四本共に一傳突勝れたり。則其鑓の業切組くきりを我らに語られたり。其勝負仕廻て一傳は早速其場を立、十郎兵衛ともに足早に帰りしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・江戸で風傳流中山吉成の名が知られたのは、おそらくこの中持市郎左衛門との仕合によるところが大きいと考えられる。

C6「猶一傳弟子益多くして国々へ風傳流を廣めたると也。勿論其内諸大名衆にも御歴々の方、又御旗本衆にも弟子多く有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中持市郎左衛門との仕合後、大名衆・旗本衆の弟子も多くなったと。

中山吉成 40歳前後 美濃~彦根滞在 明暦~万治

D1「[中山]一傳名を中山源右衛門と改め、江府を出て濃州へ立寄、又江州彦根の御家中には縁家の人も有故に、則立寄滞留せられしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・濃州へ立ち寄ったのは、やはり出身地ゆえか?

D2「[彦根]御家中にて歴々共に鑓の弟子多く付て、稽古はけみたり」<風傳流元祖生涯之書>

D3「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」
・・・追々、彦根家中に風傳流が普及し、中山吉成をして「御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」と言わしめるほど隆盛を誇る。先の江戸滞在のとき既に彦根藩士に指南していた。

D4「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・彦根家中の数多の弟子の内、最も風傳流を極められた人は八田左近右衛門と云い、「御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」と。後ち浪人して越前福井藩へ行き、同地で病死する。

D5「十一ヶ所の鑓小屋は、[中山]源右衛門直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之書>

D6「其比元祖も浪人故に、播州尼崎の御城主其比は青山大膳様の御家中へ行れたるに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・尼崎藩武藝奉行役 本庄九左衛門と内談して、浪人中の元彦根藩士三浦三郎左衛門の仕官をまとめようと画策するも、本人の拒絶によって破談となる。三浦三郎左衛門は、元宝蔵院流の遣い手で、中山吉成に師事して後ちに印可を傳授された。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山源右衛門 40代 大野藩士~浪人 寛文

E1「元祖[中山]源右衛門は越前大野へゆかれしに、其比大野の御城主松平但馬守[忠良]様の御家へ源右衛門を被召抱知行弐百石被下、鑓は申立すして外様組に出る」<風傳流元祖生涯之書>

E2「元祖[中山]源右衛門後に但馬守様軍使役被仰付て勤む」<風傳流元祖生涯之書>

「[松平忠良の]御意有しは、「[中山]源右衛門其方は鑓を一流心得たると聞、鑓には入道具有に入身に鑓有ると心得たるか?又は素鑓に勝の有と心得たるか?」と御尋有しに、源右衛門御返答申上るは、「入身には損多く御座候て。素鑓に徳多く御座候。此故に私儀素鑓の一流を仕候」と申上る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「鑓は申立すして」仕官した中山吉成であったが、やはり殿様の耳に入ったようで、御目見のときに質問され、その後立合の運びとなった。殿様は木下淡路守に師事した鑓の遣い手、これに対し中山吉成は要望によって長刀の入身をなし、二度とも入身勝となる。結果、「其方は聞及びしよりは名人也。骨折たり。帰りて休めよと御意有」と。

E3「其後但馬守[松平忠良]様御家の老中丹羽彦左衛門[好覩]娘を御意を添られて、則源右衛門妻女とす。此後に男子三人女子弐人生る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の子たちは、いずれも凡庸な性質で、それについて菅沼政辰は「元祖[中山]源兵衛程の人も不幸にて、子の縁うすき事、門弟等迄もくゆる処也。右のことく元祖子孫の趣迄を知らせん為に、吉凶の事ともに過もなく、勿論残さす全ふ記し置なり」と各人の消息の締めくゝりに述べている。

E4「[中山]源兵衛は其後又所存有て但馬守[松平忠良]様へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・菅沼政辰の記述によれば、中山吉成が官を辞して浪人の身となるのは、流儀を弘めるためであったと云う。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿三日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-5

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
現在見られる流祖中山吉成の伝記について

風傳流の流祖中山吉成に関する記事は意外なほど少ない。
そこで、記述内容から引用元を遡ると、二系統に分類される。
則ち、出典不明の『日本武道大系 第七巻』を引用する記事と、『風傳流元祖生涯之書』を引用元にする記事とに分れる。

出典不明

『日本武道大系 第七巻』

├── 一閑斎の隠居所_風傳流鑓術

└── 日本武道協会_風傳流槍術

『風傳流元祖生涯之書』

└── 『明石名勝古事談』 ── 『三百藩家臣人名事典 第七巻』

正直に言うと、『日本武道大系』の記述は信用できない。その理由は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」「風傳流の流祖中山吉成について考える-3」に述べた通り、第一に根拠が分らない、第二に辻褄が合わない、そして第三に高弟菅沼政辰が著した中山吉成の行跡と相違する。

なお、『増補大改訂 武芸流派大事典』の風傳流の項では、「彦根藩士、中山源兵衛吉成が祖。もと勢州長島の松平佐渡の士」とその行跡を淡泊に伝えているが、これまでに調べた結果、全て誤りと考えている。
中山吉成は、彦根藩に仕えていないし、松平佐渡守にも仕えていない。彦根に滞在して風傳流を指南していたが、仕官はしていない。そして、松平佐渡守に仕えていたのは、父の中山家吉。
中山吉成は二男だったので、「二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」と伝えられている。

因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-4

『明石名勝古事談』より中山吉成の伝記
『明石名勝古事談』の中山吉成伝記について考える

『明石名勝古事談』の中山吉成伝記は、その内容を見れば『風傳流元祖生涯之書』を底本として作文されたことが明白であり、中山吉成の行跡をよくまとめているように思う。けれども、下記に抜粋した二箇所の記述には大きな誤りがあるため、訂正して置く。

H「お暇を貰ひ岩手藩主竹中左京の家に留り又同國加納城主松平丹波守光永の指南役となり藩中の子弟に風傳流の槍術を指南す」<明石名勝古事談>

K「光永光廣光慈三代に用ゐらる其際光慈信州松本へ國替となる時に松本藩中に風傳流大に廣まり其術を師範する者出て」<明石名勝古事談>

H・Kともに、流祖中山吉成の行跡として記述されているが、実はこの部分は高弟菅沼政辰の行跡である。中山吉成の行跡として鵜呑みにすると、とんでもない矛盾が生じてしまう。
「光永光廣光慈三代に用ゐらる」とあれば、中山吉成の没後にまで話が及んでおり、なぜ、筆者はこの簡単な矛盾に気が付かなかったのか...

それと、Kに言うところの「岩手藩」というものは存在しない。

『風傳流元祖生涯之事』の原文を見れば、誤りは明白

前に抜粋したH・Kそれぞれに対応する原文をこゝに抜粋する。

HQ1「某[菅沼政辰]も所存有て左門様[戸田氏西]へ御暇申上首尾好御暇被下浪人して、則同国の内不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留せしに此御家中の諸士一圓に某[菅沼政辰]か弟子と成て」

HQ2「某[菅沼政辰]を右加納より招く人有て行しに、右[丹羽]新兵衛[中山吉成の妻の弟]取立たる弟子を初て指南せしに、段々弟子重りて稽古をはけむ内に終に某[菅沼政辰]事、[松平]光永様御家へ被召抱て今に勤む」

HQ1は、菅沼政辰が浪人して、実父竹中助大夫の元へ滞留した話。
HQ2は、菅沼政辰が加納藩主松平光永に仕官するという話。
『明石名勝古事談』の筆者は、おそらく「某」を中山吉成と誤認したのだろう。とはいえ、HQ1の「某か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る」と書かれているのだから、気が付きそうなものだけど。

KQ1「其後[松平]光永様御逝去有て、[松平]光廣様御家督有て後城州淀へ御所替被仰付、則淀にても某[菅沼政辰]屋鋪の内に鑓小屋廣く被仰付御家中諸士不絶稽古励」

KQ2「其後[松平]光廣様御逝去有て今又[松平]光慈様御家督[享保二年]有て志州鳥羽へ御所替[享保二年]被仰付鳥羽にても某[菅沼政辰]か弟子共の稽古場廣く被仰付日々に稽古はけみ」

KQ3「其後[松平]光慈様未鳥羽へ御入部不被成に信州松本へ御所替[享保十年]被仰付、享保十一年に御家中諸士松本へ引越、則某[菅沼政辰]か弟子共稽古場を先當分御借し被仰付、日々不絶稽古をはけむ」

KQ4「右のことく濃州加納、次に城州淀、又志州鳥羽、今又信州松本、右四ヶ所にて御家中の諸士風傳流を学ひしは右の趣也」

KQ1~KQ4は、前に抜粋したKの「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分に当る。つまり、菅沼政辰は松平光永・松平光熙・松平光慈の三君に亘って仕えたということ。もちろん、中山吉成は天和四年に没しているので、松平光熙・松平光慈の時代には生きていない。

 
『三百藩家臣人名事典』
『三百藩家臣人名事典』の誤りもまた明白

確かなことは分らないが、『明石名勝古事談』の孫引きと見られる『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の行跡。

F「美濃大垣藩主戸田氏信に招かれて家臣となったが、四、五年を経ると仕えを辞して、隣接する岩手陣屋の竹中左京重高のもとに寄寓し」

G「同国加納藩主松平光永の指南役となった」

前のHQ1・HQ2に説明した通り、F・G共に菅沼政辰の行跡である。
さすがに「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分はおかしいと気付いたのか省かれている。

おまけ-竹中左京様

HQ1の「不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留」に言う「竹中左京様」は、竹中左京重高のこと。竹中重高は、不破郡岩手の領主。彼の竹中半兵衛重治の曾孫に当る。幕府の交代寄合に列しており、普段は領地に居住し参勤交代の義務がある、ちょっと珍しい旗本。

当時、菅沼政辰の実父竹中勝正が竹中重高に仕えており、その血縁から浪人後に身を寄せ、こゝでも風傳流を指南する。
実父の屋敷に鑓小屋を設け、家中の士に指南、中でも領主竹中重高の弟竹中重紀や、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門など合わせて三名に免許が傳授された。
そんなある日、流祖中山吉成が岩手の地に訪れる。それは菅沼政辰の実父竹中助大夫に会うためだった。それまでに、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門はしばしば大垣を訪れて、中山吉成の元で風傳流の教えを受けており、岩手訪問を打診されていたのだろう。
岩手を訪れた中山吉成は竹中家に歓待され、終日語り合ったという。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『明石名勝古事談』『三百藩家臣人名事典』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流史料の蒐集

風傳流史料の蒐集
『風傳流傳書五巻』筆者蔵

私が風傳流について調べようと思ったきっかけは、2015年夏のある出来事。
ある日、知人から連絡がきた。
「武道書を引き取ってもらいたい」と。

後日、喫茶店に会して話を聞いたところ、私が武道書を蒐集していると伝え聞いた知り合いに頼まれたとのこと。
そうして見せられた武道書は全部で十二巻あり、その内の数巻に風傳流の文字がある、なるほど槍術の一派かと気付く。
当時、風傳流についてはその存在を知るぐらいで、大した知識は無く、そのほかの巻物についても、知らない流派の砲術だった。

武道書を引き取るに際し、もちろん貰って帰るわけにはいかない、幾許かの謝礼金を渡し、しばらく雑談して家路につく。

帰宅して調べてみると、風傳流の傳書は、大聖寺藩の鎗術師範橋本助六が傳授したものだと判明する。
そして、傳授を承けた人物も大聖寺藩士だと。
また更に仔細に調べたところ、本来八巻揃いの傳書が、どうやら二巻欠けていることも判った。

仕方ない、二巻欠けていても構わない、さっそく翻刻に取り組み、七巻の翻刻を終え、風傳流や師範、被傳授者について調べた結果をサイトにまとめて公開した。

その翌年夏のこと、衝撃的出来事が起る。

欠けていた『風傳流外物合』の一巻が、ヤフーオークションに出品されているのを発見してしまう。
さらに、説明文には私のサイトの文章がまるまるコピーされていることに驚いた。因みに引用元の表記は無し。

どういう経緯で一巻だけ分れてしまったのか、釈然としない気持ちを抑えつゝ、落札するぞと意気込んでオークションに参加したものゝ、結果は驚きの十五万円だった。

高い、高過ぎる、その認識が誤っているのか、落札できなかったのは悔しいけれども、それほど評価されているのだから、喜ぶべきかもしれない、と思い直し涙を飲む。

 

このような事情があって、私の風傳流への関心は一層強くなり、後々まで風傳流の史料を探す原動力となった。

真夏の暑い日差しを浴びると思いだす風傳流史料蒐集の始まり。

『風傳流素人書 五巻』筆者蔵
『風傳流鑓免許次第 全』筆者蔵
『風傳流十文字之傳 上下』筆者蔵
『風傳流素鑓一切留身並突身之次第 五巻』筆者蔵
『風傳流元祖生涯之書 上中下』筆者蔵
『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

その後も順調に?風傳流史料の蒐集は続いた。
時に先を越され、時に予算のために諦めるなどしつゝ。

直近、数年前に蒐集した風傳流の史料は、流祖中山吉成の高弟菅沼政辰の著書の写本群。蟲に喰われて酷い有り様。数日かけて慎重に紙と紙との癒着を剥して、殺虫処理するなど、手間がかゝった。けれども大満足。

蒐集癖の根本には、どうも狩猟本能があるらしい、と最近思い至った。

この写本群、調べてみると、どうも藤堂家の家来が風傳流の門弟で、これら写本を書き残したらしい。

藤堂家には菅沼政辰が流儀の普及に赴き努めた結果、藤堂侯の上聞に達し、下屋敷で風傳流上覧の流れとなり首尾能く勤め、のち家老藤堂仁右衛門が弟子となる約束をしたという。

そのようなわけで、藤堂家には風傳流が行われていた。

久しぶりにサイトを更新しようと思い立ったのは、以前からこの写本群の中の『風傳流元祖生涯之事』が気になっていたから。

因陽隱士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-3

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』の中山吉成伝記について考える-浪人

流祖中山吉成の享年は六十四歳、その生涯の中、仕官していた年数はおそらく二十年に満たないと考えられる。そして、若年のころを除けば、長らく浪人の身分で将軍の旗本や大名の家来に風傳流を指南した。

さて、『日本武道大系』には中山吉成が三度浪人となったという記述がある。(CDは別件)

A「関宿藩主小笠原政信が寛永十七年(一六四〇)に没すると、中山父子は浪人し」<日本武道大系>

B「ここに仕えること十数年、寛文二年(一六六二)松平忠良が没するとまたまた浪人し」<日本武道大系>

C「江州彥根に行き、ここに滯留して藩士の間に槍術を弘めたが、井伊家に奉公の望みを達せず」<日本武道大系>

D「翌年江戸に下ってこの地で槍術を教えることになった。ここで四年を過ごし」

E「かくて十五年間大垣にあったが、天和元年(一六八一)十一月戸田氏信が卒すると、吉成はまたも浪人して」<日本武道大系>

ABEいずれも、仕官した際の主君の卒年=浪人という話。
しかし、致命的な記述の誤りがあり、その結果、論述に矛盾を生じてしまう。

先ず、Bの松平忠良の没年は、正しくは延宝六年(一六七八)。よって、Eのごとく戸田氏信の卒年まで十五年も大垣に仕えたとなると、彦根に行った期間や江戸に滞在した期間について説明がつかず、松平直良の卒年より前に戸田氏信に仕官していたことになる。

誤った卒年に、空白を埋めるように加算される年数、主君の卒年=浪人という安易な発想、<日本武道大系>の記述は、資料として信頼に足る情報なのか?、よく調べた方が良いかもしれない。

 
 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』の中山吉成伝記について考える-修正

前記のごとく、『日本武道大系』の記述が、我々に信頼に足る情報を与えているのかというと、どうもそうではないらしいと分かったところで、『風傳流元祖生涯之事』を参照しよう。

BQ「源兵衛[中山吉成]は其後又所存有て但馬守様[松平直良]へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之事>

EQ「左門様[戸田氏西]御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝ...元祖も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す」<風傳流元祖生涯之事>

BQは、越前大野藩主松平直良に暇を願って、無事浪人したときの話。年代は記されていないが、『日本武道大系』が言う松平直良の卒年ではなく、存命のときに浪人となった。

EQは、美濃大垣藩主戸田氏西に暇を出されて、不本意ながらも浪人となったときの話。「延宝の大暇」という歴史に残る大規模リストラ。これは藩財政の窮乏のために暇を出されたもので、各人には何の落ち度も無いと証明書が発行された。これもまた『日本武道大系』が言う戸田氏信の卒年とは関係が無い。

『風傳流元祖生涯之事』を子細に読み込み、得られた情報を簡単にまとめると、
 1.江戸  浪人 風傳流を将軍の家来や大名の家来に弘める
 2.彦根藩 浪人 風傳流を弘める
 3.大野藩 仕官・二百石 風傳流を弘める
 4.江戸  浪人 風傳流を弘める
 5.大垣藩 仕官・二百五十石 風傳流を弘める
 6.垂井  浪人 諸国の門弟に風傳流を指南する
 7.明石藩 仕官・勘手新田十町 風傳流を指南する
それぞれ、その藩に仕えているときも他所へ出向して風傳流を弘めることもあり、土地に縛られず流儀の普及に努めていた。

こゝで一旦『日本武道大系』の記述に遡り、Cの「井伊家に奉公の望みを達せず」というのは、どうも創作ではないかと見られる。中山吉成に「奉公の望み」が有ったのかどうか、何らかの史料に記されているのか、疑わしい。
そもそも当時の状況を見ると、

「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之事>
「十一ヶ所の鑓小屋は、源右衛門[中山吉成]直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也。といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之事>
「彦根の御家中は一圓に風傳流を予[中山吉成]か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」<風傳流元祖生涯之事>

と記されるほど彦根家中において風傳流が盛況であり、当然流祖であり師範である中山吉成推挙の話も出たことだろう。そのような状況であるにもかゝわらず「奉公の望みを達せず」と言うのは正しいだろうか。

同様に、Dの「ここで四年を過ごし」というのも適当に年数を合わせたゞけで根拠が分らない。そして、その年数さえ没年の誤算によって破綻している。

今日はこゝまで。

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月十九日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-2

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地について

「[中山]家吉は元和五年から七年の頃高崎藩主安藤対馬守重信に仕えていたが、この時高崎で中山吉成は生まれたという。」「一説には中山吉成は関宿で生まれたともいう。」

一つ目は、中山吉成の生れた土地はどこかという点。
『風傳流元祖生涯之事』の記述によると、「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也。」とあり、全く異なる出生の地を唱えている。

先ず、『日本武道大系』の「高崎(或関宿)説」について、これは出典が明らかにされていない。また、これを裏付ける史料も未見。

一方、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島説」。これについて調べると、中山吉成の生年である元和七年、勢州長島は天領となっており、且つ「松平佐渡守様」が「勢州長嶋」と関係するのは、二十八年後の慶安二年、松平佐渡守康尚の長島藩転封を待たなければならない。

中山吉成の生年である元和七年の前年であれば、伊勢長島藩主は菅沼定芳であり、「松平佐渡守様」とは関係ない。

つまり、『日本武道大系』・『風傳流元祖生涯之事』共に、中山吉成出生の地について確かなことを伝えているか、疑問が残る。

『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-再考

『風傳流元祖生涯之事』は、中山吉成の高弟菅沼政辰が著したにも関わらず、なぜこのような齟齬を生じるのか?

私は一つの可能性を考えている。
それは菅沼政辰の年齢と関係するかもしれない。
そもそも菅沼政辰が中山吉成と面識を得たのは、寛文の頃。当時、菅沼政辰は大垣藩主であった戸田氏信に子小姓奉公していた、十四,五歳前後の年齢と見られる。
そして、中山吉成もまた戸田氏信に仕えており、この頃両者は知り合った。為に、菅沼政辰は中山吉成の父中山家吉は「松平佐渡守様」に仕えていると知ったことだろう。
つまり、この認識が後年に尾を引き、中山吉成の出生は「松平佐渡守様」の「勢州長嶋」と記憶に刷り込まれたのではないかと思われる。
つまりは、菅沼政辰の勘違い。

因みに、寛文当時、伊勢長島藩主の「松平佐渡守様」は、松平康尚。中山吉成の生年元和七年となれば、その二代前に遡り、松平忠良と言って、大垣藩の藩主だった。

全くの推論になるが、以上のことを踏まえて修正すると、「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は、「美濃大垣」と考えらえる。後年、藩主は代わりこそすれ、大垣の地で中山吉成と菅沼政辰が知り合ったのも土地の縁があったからかもしれない。
いずれ確たる史料の出現を願い、後考を竢つ。

 
『風傳流元祖生涯之事』筆者蔵
『日本武道大系』に記された流祖中山吉成出生の地-補足

なぜ私が『日本武道大系』の「中山吉成高崎[或関宿]出生説」を採らず、『風傳流元祖生涯之事』の「勢州長島出生説」の方を採り、再考するに至ったのか触れておきたい。

その最たる要因は、『風傳流元祖生涯之事』が、流祖中山吉成の家族について比較的詳らかに記している点にある。中山吉成の直弟子として長年に亘って師弟の交誼があった菅沼政辰だからこそ知り得て、後世に伝えられた情報であると考える。
情報の出典を明らかにしていない『日本武道大系』の記述とどちらが信頼に値するのか、言うまでもないだろう。

たとえば、『風傳流元祖生涯之事』の中、中山吉成の家族に関する記述を引くと、
「源兵衛[中山吉成]兄弟の内、兄を中山傳右衛門といひて、父角兵衛か家督を得て前に記したることく松平佐渡守様に勤て死後に躮[せがれ]十兵衛家督して勤む。」や、
「[中山吉成の]弟を新左衛門といひし也。此名は兄[中山吉成]の元祖新左衛門[中山吉成の三十歳頃の名乗り]名を一傳と改られて後つきたり。」や、
「此新左衛門鑓術は後々迄竹内流にて是又所々にて弟子を取たり。右のことく源兵衛[中山吉成]は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり。」や、
「[中山吉成の]嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共、子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり。」といった記述がある。
また、中山吉成の妻の実家丹羽家に関することや、中山吉成の子たちの消息についても詳しく触れられており、記述の信頼性を高めている。

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月十八日記す