姫路藩不易流炮術の門弟-6

前回の九代目師役に続き、今回は十代目師役への起請文です。これは入門のときに差し出されたものでは無く「慎申再誓之事」と題し卯可のときに差し出された起請文です。十代目就任後の天保10年(1839)、そして海岸防禦が強化される嘉永3年(1850)、嘉永4年(1851)、あわせて8名が名を列ねています。この内4名の履歴が分っています。

十代目師役は三俣義陳と云い、先述のごとく九代目のとき殿様の炮術指南御相手を勤めた人物で、伊勢津藩の佐藤家に留学して不易流の卯可を相傳されました。師役となったのは天保8年11月18日31歳のとき。翌年亡父の跡式高三百石を相続し御書院へ御番入り。御近習席(天保10年)、御城内外火之番、御中小姓組頭御取次兼勤(天保12年)、御物頭御取次兼勤(弘化2年)、室津家嶋臺場見分・伊勢津藩不易流師家へ留学(嘉永3年)、異国舩渡来の節御手當御人数在番(嘉永6年)、公儀より鉄炮稽古四季共勝手次第・不易流炮術願いに付好古堂藝同様の御取扱となる(安政2年)、井上流炮術世話番外・不易流炮術御用に付江戸在番(安政3年)、大炮合一(安政4年)、病死(安政6年)、不易流減流(安政7年)。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

 天保10年8月19日

福田市太郎 福田佐登助の長男。文政11年に不易流の世話役を命じられ天保12年まで勤めます。本人の履歴は無く、父の履歴が分っています。
父佐登助は享和2年に家督を相続、拾石減らされ百四拾石を下されます。御城内外火之番、御在城中御供番、奉行・大名が領内通行のおり道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(文化12年)、家嶋勤番(文化14年)、飾万津御番方(文政元年)、御城内外火之番(文政3年)など勤めました。記録はこゝまで。

福嶋長助 文化4年に跡式百三拾石を相続、御焼火の間へ御番入り。以降、御城内外火之番、飾万津御番方(文化9年)、御在城中御次番など勤め文政3年に至ります。不易流へ入門した文化9年は飾万津御番方を勤めていました。今回の起請文の時期の履歴は分っていません。
父傳五左衛門は安永5年に家督を相続し百三拾石を下され、御焼火御番入り。以降、御城内外火之番、奉行が領内通行のおり道奉行時役・道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(安永6年)、御武具方(安永9年)、藝事指南出精につき褒美(天明元年)、多年の功労によって御使番格(天明7年)、御中小姓組頭・御取次兼帯(寛政5年)、金原助左衛門跡の鎗術指南役(享和2年)、病死(文化3年)。

柴田太郎左衛門 七代目師役の四男にて、嫡子午之助の急死によって嫡子となります。この急死した午之助、文政9年福田市太郎・福嶋長助と共に鉄炮稽古料を下されており、もし存命であれば間違いなく流派内において重きをなした筈の人物です。
太郎左衛門が嫡子となったのは文政9年、二年後の文政11年に父が病死し跡式を相続、十弐人扶持を下され御主殿へ御番入りします。天保5年に飾万津御番を命じられてより以降は高砂御番、家嶋御番方など勤め、天保8年江戸表へ引っ越し御主殿へ御番入り、御城内外火之番。嘉永6年8月22日に不易流指南差添となり、同日当分の間は御宝器掛・御数寄屋方兼帯を命じられます。これは黒舩来航の影響によって、炮術に熟練した者を急遽抜擢した為と考えられます。翌年には異国舩渡来の節御固人数として姫路の室津へ派遣されます。突然の国許派遣は海岸防禦の方法について、地元の炮術家などゝ相談するためでしょう、9月22日に出立して10月8日には帰っています。不易流指南差添が御免となったのは安政2年のこと。
万延元年閏3月23日に不易流は減流となり、11月21日太郎左衛門は江戸表御臺場御固御人数となり、翌年在番を解かれ国許へ戻ります。国許に於いては御臺場并金杉御陣屋勤番。文久2年不易流再興の建言書を藩へ提出します。文久3年御中小姓組頭格・御鉄炮奉行となり勤役中弐拾人扶持を下されます。役職はこれまでの通り御宝器掛り・御数寄屋方兼帯、御腰物掛兼とのこと。同年8月摂州御持場へ御固人数として出張、文久4年には大炮鋳立に出精によって褒美を下されます。同年公方様が軍艦で播州・淡州・泉州辺の海岸炮臺築造場を御覧のとき、大目付代となり出張します。慶應3年正月、京摂辺が不容易な形勢となると姫路藩は派兵、太郎左衛門は大炮役として室津の警衛を任されます。慶應4年6月出京し御使番役兼勤、後に好古堂学問所肝煎兼勤、明治元年年来の出精の功績よって刑御奉行となり勤役中弐百石を下されます。明治2年邊叟と改名。
実に大まかな履歴ですが、このように柴田太郎左衛門は大炮・鉄炮に熟練した者として藩より信頼されていたようです。なお、幕末の騒然とした時期は、太郎左衛門の息子たちも武官として各地に派遣されるなどしていました。

 嘉永3年11月29日

塩山半次郎/惣太兵衛/豫助/峯八/峯右衛門 文政5年に不易流へ入門。文政10年に跡式を相続し百四拾石を下され、御焼火へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御次番(文政12年)、御城内外火之番(天保7年)、不易流炮術世話役(天保7年)、無邊流仮世話役(天保8年)、宝山流柔術仮世話役(天保8年)、御城内外火之番(天保9年)、御在城中御供番(天保12年)、不易流炮術手傳(天保13年)、豫助事惣太兵衛と改名・宝山流柔術世話役(弘化2年)、御使番(弘化3年)、不易流炮術指南差添(弘化3年)、町奉行時役(嘉永6年)、勘略奉行(嘉永7年)、高増弐拾石・町奉行(文久元年)、御物頭役・御取次兼勤(文久2年)、御上洛につき四ヶ所浦手固(文久3年)、摂州御持場固(文久3年)、若殿様御城着の節鉄炮組を率いて加古川驛まで迎えに行く(元治元年9月)、摂州御持場御固の節大目付兼勤(元治元年)、摂州御持場御固につき褒美(慶應元年)、奏者番(慶應4年)、御城番・御次詰(明治2年)。 世忰半次郎

鶴田次太右衛門 家臣録の失われた”ツ”の部。
不易流へ入門(文政6年)、修行を命じられる(天保6年)、世話役(天保7年)、手傳(弘化3年)、師範差添(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

 嘉永4年11月27日

福嶋傳九蔵 不易流仮世話役(天保10年)、指南手傳(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

高須傳内 家臣録の失われた”タ”の部。当分不易流手傳(嘉永5年4月26日)。

小笠原槌次/助之進 卯可起請文の当時は家督以前。不易流世話役(天保14年)、小笠原躾方世話役(弘化2年)、家の名に付き助之進と改名(弘化3年)、不易流指南手傳(嘉永2年)、国学指南手傳(嘉永6年)、不易流大筒手傳(嘉永7年6月)、異国舩渡来の節御手當人数江戸在番(嘉永7年)、江戸在番中姫路同様に不易流手傳(安政2年)、跡式弐百石を相続・江戸在番御免・小笠原躾方世話役・不易流手傳・国学指南手傳これまでの通り(安政2年)、不易流指南差添、御城内外火之番、十代目師役が出府につき躾方・国学より不易流を優先すべき命あり(安政3年8月)、好古堂肝煎(安政4年)、京都御留守居(安政7年)、摂州御持場御固御人数(文久3年)、好古堂掛(元治元年)、御進發御用掛(慶應元年)、町奉行・御進發御用掛(慶應2年)、病死(慶應3年)。 世忰勝弥
父新兵衛が跡式を相続したのは天保12年のこと、百七拾石を下され好古堂肝煎・御数寄屋方仮役兼勤となる、翌日御焼火へ御番入り。御使番格・勘畧奉行・御数寄屋方兼勤(天保13年)、室津交易會所懸り、倹約方年番、奉行・御物頭兼勤・勤役中弐百石(弘化3年)、宗門奉行年番、御作事年番(嘉永2年)、御加増三拾石(嘉永6年)、勘略方掛(嘉永7年)、宗門奉行年番、御用兼取扱、御勝手御用につき出坂、新開絵図御用掛、病死(安政2年)。

各人の履歴をまとめると斯うです。

 三俣義陳   三百拾石 番方 不易流十代目師役 御物頭筆頭 御取次
 福田佐登助  百四拾石 番方 市太郎の父
 福田市太郎     ? ?  不易流世話役
 福嶋長助   百三拾石 番方 不易流指南差添
 柴田太郎左衛門 弐百石 番方 不易流指南差添 御使番役 刑御奉行
 塩山惣太兵衛 百六拾石 番方 不易流指南差添 御城番 御次詰
 鶴田次太右衛門   ? ?  不易流指南差添
 福嶋傳九蔵     ? ?  不易流指南手傳
 高須傳内      ? ?  不易流指南手傳
 小笠原助之進  弐百石 番方 不易流指南差添 町奉行 御進發御用掛

因陽隠士記す
2025.9/30

姫路藩不易流炮術の門弟-5

前回が七代目でしたから今回は八代目の番なのですが、この師役への起請文は確認できていません。元から無いのか或いは失われたのか、兎も角一通も伝えられていないのです。八代目の名は福嶋善兵衛と云って家禄はおそらく百四拾石、祖父と思しき(直系であることは確認済み)市郎兵衛が三代目師役の高弟でした。四代目から五代目へ代替りする期間に行われた火業記録のなかに福嶋善兵衛の名が度々登場しており、高弟に位置しています。まだ詳しいことが分っていません。

 福嶋善兵衛  百四拾石 八代目師役 番方 道奉行

さて、今回は八代目を飛ばして九代目師役への起請文です。この人のことは以前にも述べた通りです。文政3年までの履歴が分っています。

 森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用

師役に就任してから三年後に隠居しますので、高齢であったと察せられます。
起請文の日付、天保4年5月15日は実は師役就任の四ヶ月前です。八代目が3月29日に病歿した為、その間も師役同様の立場だったのでしょう。また、藩主 酒井忠学公へ炮術を指南しました。藩主への炮術指南は、記録に見るかぎり四代目が酒井忠以公へ指南して以来久しく無かったことだと思います。酒井忠学公へ指南のおり御相手に抜擢されたのが後の十代目三俣義陳でした。ブログにおいて、これまで天保5.6年の義陳の日記を紹介しており、このなかに度々森先生が登場します。

斎藤鑒介益友 起請文を提出したとき13歳という若さでした。兄の斎藤幾之進が当主としてあり、当時家嶋御番、飾万津御番方などを勤めていました。翌年に高砂御番方、さらに翌年室津御番方、浦手精勤とのことで褒美を下されます。しかし番方の武人気質というより学者であったらしく天保8年に国学肝煎を命じられています。よほど熱心だったのでしょう、百日の猶予をもらい仙臺藩士のもとへ修行に出掛けるほどでした(後年、再び他家の学者のもとへ修行に行きます)。このような兄の影響があったものか弟斎藤鑒介も学問に取り組み、文政13年(1830)に句読手伝を命じられ、天保13年に仁壽山へ入り、同14年に学問所指南手傳兼勤、弘化3年寄宿寮肝煎兼勤などを命じられています。嘉永3年兄幾之進の病死によって養子となり、その跡式五拾石を相続します。なぜ不易流に入門したのかちょっと不思議です、後年兄と同じく浦手の番方につきますので炮術が役に立ちました。特に文久のころから海防に関わる役職を勤めており、その方面ではかなり活躍します。神護丸の製造に際しては諸事肝煎元方を兼勤し、元治元年に格段出精とのことで褒美を下されました。大筒の技術にも期待されていたようで、同年特に藩より諸事心得油断無く申し合わせるようにと命じられています。またこの年、長州藩士側用人・側役の両人が来舩したときは応接して使者を断るようにと重職たちに言い含められています。元治元年は多忙にて、京都へ緊急に内々の御用で上京、帰藩して首尾よく報告しその功労が認められました。元治2年に御進発御用掛、慶応元年御目付役助勤・中御徒士頭格となり再び御進発御用掛を命じられて、諸藩応接をよく勤めます。以後も勤務に忙しく長文となりますので、こゝでは割愛しましょう。姫路藩が官軍に恭順したとき、その使者に立ったのがこの人と亀山美和です。

森精次範景

森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
西澤枝次    六拾石 番方 若くして隠居
森伊野右衛門  五拾石 番方 海岸防禦 神護丸製造諸事肝煎元方兼勤 御進発御用掛

『不易流起請文』筆者蔵

起請文には12名が名を列ねた連名による一括提出。起請文前書は前回掲げた「六剋一如之放銃御傳授」と同一です。
この内二名の履歴が分っています。

 天保4年5月15日(1833)

笹沼留次資之
朝比奈勝吉利貞
利根川敬作景福
林平太郎信郷
清埜弥三二正生
原田笹吉言機

西澤枝次兼行 養父十右衛門は兼ての持病によって33歳の若さで養子を貰うことにして、三浦彦次郎の二男枝次を迎えます。これが天保2年7月のこと、枝次は17歳。同年12月養父の願いによって枝次が番代となります。これは養父の代理で勤めるというこでしょうか、養父は氣鬱の病いで出勤することもまゝならい状態であったと記されています。結局、養父は天保4年4月16日に隠居(この三年後に病歿)、家督は三拾石減らされ西澤枝次へ六拾石下されます。起請文を提出したのはこの一か月後です。家督の一年前に御城内外火之番を命じられ、その年に無邊流の数入身を行いました。天保7年に御在城中御次番、翌年無邊流の仮世話役となります。しかし、天保14年に痛症が悪化、実子もおらず養子をもらい隠居します。

原田益次章報
宇敷誠一郎陳戒
福嶋佳名蔵重遠

因陽隠士記す
2025.9.30

富永軉翁:神明剣秘説

『神明剣秘説』筆者蔵

史料発見

所蔵する古文書を整理していたところ、『神明剣秘説』と題された一冊の古文書を見付けました
これは数年前に複数の古文書を購入したとき含まれていたもので、ざっと見たところ、なんとなく神道関係の古文書かと思い、今日まで看過していました(迂闊なことに)

『神明剣秘説』筆者蔵

序文

巻頭にこの本を執筆した理由が述べられています
所々虫食いのために判読できず、如何せん、細かいところは分りません

『神明剣秘説』筆者蔵

この序文は『神明剣秘説』の著者富永軉翁の子参孝(しげたか)の撰によります
署名のところ「克長(よします)」とあるのは富永参孝の前名で、「當傳弐世正嫡」というのは富永軉翁が開いた「神明和光傳」という流派の正統なる二代目継承者であることを指しています

『神明剣秘説』筆者蔵

富永軉翁

『神明剣秘説』の著者富永軉翁は将軍家の御旗本、徳川家重公に仕え西丸御書院の番士を勤めました
実名は泰欽(やすのり)と云い、采地四百石、安永五年四月四日致仕後に軉翁と号し、それ以前は大学と称していました

軉翁の事歴はいくつか伝わっており、兵法の方面ではやゝ入り組んでいて難解です
武藝の面でこれらをまとめると
1.佐々木家伝の兵法を継承している
2.直清流剣術・神道流を継承している
3.本心流剣術を継承している
4.三十余流を学ぶ
5.神明和光傳を創始する
6.起倒流を学ぶ

1の佐々木家伝の兵法というものは、軉翁より数えて五代前の富永重吉が佐々木秀義の正統京極氏信の庶流富永泰行の五代の後胤を称し佐々木家伝の兵法として伝えたものです

2の直清流剣術・神道流は、東照神君に召し抱えられた富永重吉が指南していました
直清流剣術は、『大日本剣道史』に記載があり、「流祖は高極佐渡判官高氏、下総に流された時、戦場の経験による剣法を更に工夫したと見えて、同国の富永主膳正参吉に伝へた」と記されています
「高極」とあるのは恐らく「京極」の誤植、富永参吉は重吉同人

神道流についてはご存じの通り、こゝから本心流剣術を創始したとの旨が『神明剣秘説』に記されています
なお、富永重吉は東照神君の兵法指南役を勤めていました

3の本心流剣術は、2で述べたように神道流を元に創始された流派です
居合・剣術・柔術が複合されています

4の三十余流には富永家の家伝の兵法も含まれており、中でも本心流・起倒流・山ノ井流が重きを成したとされています
また、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、「随翁当流、三浦流柔術にも達した」とされます

5の神明和光傳は、『増補大改訂武藝流派大事典』によれば、正式には「神武大和止戈防険正儀直授神道本心神明和光傳軉法」と云い、剱術を主体とする流派であったようです
こゝに紹介する『神明剣秘説』は、この新興の流派の教義を伝えたものです

6.起倒流はご存じのごとく著名な柔術の流派です
富永軉翁はこれを佐々木蟠龍軒・滝野遊軒に学びました

総じて言えば、富永軉翁という人物は、兵法の家柄であることに並々ならぬ自負があり、家伝の兵法のみに慊(あきた)らず、諸流をよく学びこれを取り入れ工夫して、新たに一派を立てる才覚を有していたものと思われます

『神明剣秘説』筆者蔵
『神明剣秘説』筆者蔵

神明剣秘説

この『神明剣秘説』は、富永軉翁が開いた神明和光伝という流派の教義書に分類され、儒仏に仮託せず、神に仮託して神明剣の深理を説いたもので、後半には富永家の流儀についても触れられています

「武韴神君の釼とは神武帝より申来是を今剱術の極意とす名けて神明剣といふ」

依拠するところは、主に武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)の二柱(合わせて武韴神君という)にて、その伝説を辿りつゝ霊威を讃え、時々これを剣術に結び付けて語ります

また数多ある流派も遡源すれば、一つのことから出たもので、それが神明剣であると提唱しています

『神明剣秘説』に語られる内容について知るには、なお数日を要するため軽く触れる程度に止めて置きます

 

起倒流

『起倒流傳書』筆者蔵

今回、これが神道関係ではなく武術関係の古文書と気付いた背景には、別に所蔵する肥前島原藩古野家文書の存在がありました
この古野家の当主が幕府の旗本富永参忠に起倒流を学び、皆伝を許されており、その伝系に富永軉翁の名を見ました、最近のことです
則ち、この富永軉翁の名が『神明剣秘説』に記されていると気付き、武術の古文書に類すると分ったのです

なお富永参忠は軉翁の孫にあたり、韴太郎の「韴」の字は神明剣の説に登場する「武韴神君」にあやかったものかと思われます

因陽隠士記す
2025.9.28

姫路藩不易流炮術の門弟-4

 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

前回は六代目師役へ提出した起請文について述べました。
今回は七代目師役へ提出した起請文について述べます。但し、一枚起請文の形式で提出されているため、いくつか紛失したことも考えられます、よって現存する史料のみ。

七代目師役の柴田権五郎は、文化4年4月17日より文政11年11月30日まで、22年間師役を勤めました。
五代目が14年間、六代目が7年間、八代目が5年間、九代目が4年間、十代目が23年間勤めており、各代の師役在任期間のなかでは柴田権五郎は長期に類しています。履歴については以前に記しましたので今回は省きます。

起請文は各人一帋づゝ提出しており、七名分現存しています。この七名について調べたところ、三名の履歴が分りました。尤も家臣録を精読すれば、某次男、某三男という記録が見当たるのではないかと思います。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

文化9年8月
 石川一兵衛政央 「御許容以前は」「許容状神文」

文化9年8月19日
 森五百八政鶴 「御許容以前は」
 根岸恒六直益 「御許容以前は」

文政2年3月
 岩松九右衛門重矩 「御許容以前は」

文政8年1月8日
 河合槌弥宗之 「六剋一如之放銃御傳授」
 福田市太郎繁茂 「六剋一如之放銃御傳授」
 石川平之丞正教 「六剋一如之放銃御傳授」

 文化9年8月(1812)

石川一兵衛は安永9年に亡父の跡式百石を下されます。前髪執の翌年、寛政5年に御主殿へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御供番、御在城中御近習御小姓、御鉄炮方時役などを勤め、文化7年に御鉄炮方を命じられます。起請文のときは此の鉄炮方でした。記録は文政3年まで。附けたり、父市兵衛は安永3年から同8年までの間、飾間津御蔵方、舩場御蔵方などを勤めていました。病没したとき、一兵衛は未だ若年であったようです。

文化9年8月19日(1812)

森五百八、此の人は不易流の九代目師役森助右衛門(旧五百八)の嫡子です。ちょうど此の起請文が提出された文化9年8月5日に届けを出して長吉改め五百八と名乗ります。文化5年袖附、文化7年前髪執、そして 文化9年不易流へ入門。後の文化13年に学問所検讀手傳となり、翌年出精との事によって褒美を下されます。また文政元年にもその方面に出精との理由で褒美を下されており、学問に熱心であった様子です。記録は文政3年まで。父の履歴は以前に述べた通りです。

 森助右衛門  百石 九代目師役

根岸恒六

文政2年3月(1819)

岩松九右衛門は天明5年に亡父の跡式(石高無記録)を下され御消火御番入りします。以降、御在城中御供番、御城内外火之番、御在城中御次番、道奉行代、道奉行時役、大目付役(助役)、御供・見分度々、奉行兼帯、*神戸四方之助出坂中奉行方相談、弐拾石加増、御物頭、大目付御免・奏者番兼勤、学問所肝煎、好古堂肝煎、御物頭役御免・奏者番一通り。起請文ときのは御物頭役・奏者番・好古堂肝煎を勤めていたようです。父九右衛門は室津御目付、御山奉行、病歿直近は御使番格となり御役人番へ御番入り。

文政8年1月8日(1825)

河合槌弥

福田市太郎

石川平之丞は先述の石川一兵衛の子だと思います。一兵衛の前名が平之丞でした。

 石川一兵衛  百石 御鉄炮方 御蔵方
 森五百八   九代目師役の嫡子
 岩松九右衛門 御物頭 奏者番

因陽隠士記す
2025.9.25

姫路藩不易流炮術の門弟-3

『不易流起證文』筆者蔵

     起證文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別而八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰可奉蒙
  立所者也

寛政十二庚申年
    閏四月廿一日  斎藤太助
             政利(判)

同年同月同日      大橋寛吾
             應喬(判)

寛政十三酉年正月十六日
            武友之進
             重僖(判)

同年同月同日      松崎市二
             昌樹(判)

同年同月同日     籠谷十郎兵衛
             高駕(判)

同年同月同日      塩山吉十郎
             善富(判)

同年同月同日      細野幸助
             信成(判)

同年同月同日      有馬武一郎
             勝許(判)

同年同月同日      三俣惣之進
             義武(判)

享和二戌年正月廿日  伊舟城久太夫
             景中(判)

同年同月同日      志水為景
               (判)

同年同月同日      杉幸八郎
             銃置(判)

同年同月同日      河合武八郎
             宗旭(判)

同年七月廿日      小川平内
             正大(判)

享和三亥年正月八日   磯田剛助
             勝宗(判)

同年同月同日      大橋覺太夫
             次元(判)

同年同月同日      原田伸吉
             高堅(判)

同年同月同日      鈴木整蔵
             守一(判)

同年同月同日      福田市太郎
             繁茂(判)

同年同月同日      清野源三郎
             政史(判)

文化三丙寅年正月八日  福嶋伊八郎
             元先(判)

この起請文は前回述べた大橋八郎次(このときの名乗りは角左衛門)の師役在任七年間に作成されました。21名の入門者が名を列ねています。この中の三俣義武という者は三俣義行の子にて、義行の娘と前師役前田十左衛門の忰又久が夫婦でしたから近しい親戚といえます。後に義武の子が十代目の師役となりますので、ずいぶん以前からそういった伏線が張られていたわけです(六代目大橋角左衛門は再従弟)。ちょっと話しが逸れました。今回もまたこゝに掲げた入門者たちの履歴を辿ります。21名のうち9名の履歴が分っています。人数が多いので掻い摘んで記します。(各人の役職は年代順に列挙してあります)

寛政12年閏4月21日(1800)

斎藤太助の家は、父皆右衛門の代に出奔者探索のため江戸より国元へ移住しました。寛政6年のことです、このとき大目付を免ぜられますが格式はそのまゝとのことでした。斎藤太助が家督を相続するのは不易流入門から二年後の文化2年、九拾石を下されます。以降、御城内外火之番、鉄炮方仮役、御鉄炮方福嶋善兵衛跡役、小笠原助之進次男岩蔵を聟養子とする、学問所肝煎、好古堂并稽古場肝煎出精褒美、宝山流柔術稽古世話役など。

寛政13年1月16日(1801)

籠谷十郎兵衛、跡式を相続したのは寛政5年のこと、二拾石減らされ六拾石下されます。以降、御城内外火之番、御次番、室津御番方などを勤めました。父は御代官、安永7年新知五拾石を下され吟味役(御役料四拾石)、大目付(御役料百三拾石)、御用米廻舩御用、林田領御加勢、町奉行(御役料十人扶持)など。

塩山吉十郎、父嶺右衛門のとき江戸より国元へ移住しました。不易流入門のときは父が健在にて御在城中御供番を勤めていました。殿様に随従する勤めが多かったようです。吉十郎が跡式を相続するのは文化8年のこと、百四拾石下されます。以降、宝山流時世話役、御城内外火之番、室津勤番、飾間津御番方、家嶋御番方、御小姓供番仮役、宝山流世話役など。

細野幸助、寛政9年(1797)に跡式米拾五俵四人扶持下され、御廣間御番入り。不易流入門のときは御在城中並御供番、同年2月御参勤御供。以降、御在城中並御供番、御武具方改立合、御勘定所立合年番、御作事年番元方兼勤、御作事立合年番、御勘定所年番、御城内外并御領中忍廻、天保4年東都物騒につき別手御人数として出張。御中小姓御取立、御作事立合元方兼勤、給人格、拾壱人扶持、御参府之節御供度々、弐人扶持加増、安政4年隠居。幸助は新規取り立てのため経歴は少々異例です。

有馬武一郎、跡式を相続したのは寛政6年(1794)、百石を下され御主殿御番入。以降、御城内外火之番、御在城中御次番、高砂御番、室津御番、御鉄炮方時役、大橋角左衛門跡御鉄炮方、京都御留守居仮役、好古堂掛り、稽古場懸り、倹約年番、好古堂年番、三拾石加増、御作事年番、御休所掛り、切手掛り、格式御鎗奉行、御舟奉行時役、石州御銀舩御用度々、御用米御上納御用御廻舩度々、二拾石加増、天保11年没。

三俣惣之進、先述した通り前師役前田十左衛門の親戚にして、息子が後の不易流十代目師役となります。三俣惣之進本人は武藝全般に長じた人で武官の中の武官と云えます、御物頭役にて鉄炮組を支配しました。但し、亡父遺言によって藩へ千両献金という少々謎の件もあってか、家禄を三百石から四百石に加増され、御物頭・勘略奉行・御取次の三役を兼勤。しかし後に「勤方御手薄役柄不似合之儀」とのことで百石を減らされます。不易流入門のとき18歳。亡父が家督を相続した二年後にあたります。

享和2年1月20日(1802)

小川平内、寛政5年(1793)に跡式を相続、弐拾石を減らされ弐百拾石を下され御書院御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御近習御小姓(このとき不易流へ入門)、御供度々、異国舩漂着之節御人数、御写物御用、御使番、学問所肝煎、好古堂肝煎など。父与惣左衛門は御小姓頭格御籏奉行、御勝手御用を度々勤めました。寛政4年のこと、本来の嫡子が急死した為、長沢源十郎方へ養子に出していた三男平内を熟談のうえ引き取り嫡子とします。

享和3年1月8日(1803)

大橋覺太夫、寛政3年(1791)に家督を相続、五拾石減らされ百弐拾石を下されます。父郡蔵は隠居前、御城内外火之番、御門固などを勤めていました。覺太夫もまた本起請文のとき御城内外火之番。以降、御在城中御次番、御城内外火之番、室津御番所御目付、家嶋勤番など。

鈴木整蔵、跡式を相続するのは文化2年(1805)、六拾石を下されます。本起請文のときは父小右衛門が健在にて御城内外火之番を勤めていました。それ以前は御在城中御次詰、御主殿御番入り、高砂御番、室津御番、飾間津御蔵方、下三方御蔵方、高砂南御蔵方、御用米御蔵方、室津御目付など。整蔵もまた父と同じく御城内外火之番にはじまり見分御用を度々勤め、飾間津御蔵方、室津御番方、高砂御番方、籾米御蔵御用など。

以上、判明している者たちの経歴をまとめると斯うです。以前の者たちも足しましょう。

下田與曽五郎 百四拾石 番方 御中小姓組格御舩奉行 四代目師役の養子
本多悦蔵 五両三人扶持 急死 父は蔵方
森五百八     百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
林源蔵      百石 番方 蔵方 御番所御目付

前田十左衛門 百七拾石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

斎藤太助    九拾石 番方 学問所・好古堂肝煎
籠谷十郎兵衛  六拾石 番方 町奉行
塩山吉十郎  百四拾石 番方
細野幸助  拾三人扶持 給人格
有馬武一郎  百弐拾石 御鎗奉行 御舟奉行など
三俣惣之進   三百石 御物頭鉄炮組 十代目師役の父
小川平内   弐百拾石 御小姓頭格御籏奉行 番方 御勝手御用
大橋覺太夫  百弐拾石 番方
鈴木整蔵    六拾石 番方 蔵方

皆、嫡子であることが大きなポイントで家中においてそれなりに身分の高い士たち、番方に属する者が多いのも特色です。炮術の性質から鉄炮組はもちろんですが、舩や港の番方を勤めるのも無関係ではないでしょう。番方とか蔵方とか暫定的にそう呼称しているだけで、以後門弟たちをさらに調べ職制と照らし合わせて考えようと思います。
格式についても詳しく知りたかったのですが、家臣録は断片的な情報しか得られず、さらに史料を調べなければならないと気が付きました。

本起請文が提出されたころ、大日河原に於いて殿様が不易流を御覧になりました。御覧は一大行事ですから、その時々の情報が記録されています。下記は享和1年4月27日(1801)の記録です。翌年に起請文を提出する伊舟城久太夫・川合武八郎・磯田剛助などが既に不易流の行事に参加していることを確認できます。これはちょっと意外でした。考えを改めてみると、こゝに掲げた起請文は入門時のものではなく、流派内の何かしらの階級に昇進したときに提出するものかもしれません。そうでなければ、このような行事に参加できる技術を習得する期間の説明がつかなくなります。

享和元酉年四月廿七日於大日河原
殿様 御覧扣

   抱放鏃矢
三拾筋   萩原貫太夫
弐拾筋   福嶋善兵衛
三十入箇 矢八本
大火箭   大橋角左衛門

   御意ニテ放
拾筋    笹沼團六
      伊舟城久太夫
弐拾筋   有馬武一郎
      籠谷十郎兵衛
三拾筋   武 友之進
弐拾筋   三俣富之進
三拾筋   塩山吉十郎
      宇野左馬蔵
      川合武八郎
拾筋    松崎市二
      志水百助
三拾筋   齋藤太助
      森 長吉
拾筋    磯田剛助
同     細野幸助
三拾筋   大橋官吾
      三俣惣太夫
      下田源太夫
      福嶋善兵衛
      森 助右衛門
      林 郷太夫
      萩原貫太夫
 右之通書上候扣
     大橋角左衛門

大日河原に於いて抱放鏃矢を行ったのは高弟の面々です。

萩原貫太夫は四代目師役に免許を傳授された古参の門弟。三年後に世話役となりますが、その二年後に病死します。『家臣録』では安永以前の記録が分らないため想像ですが、酒井家の慣例として「貫太夫」の名乗りは一貫目放を御前において成功させるなどの実績がなければ名乗れなかったはずです。おそらく炮術に熟練した人物なのでしょう。

福嶋善兵衛は当時、百四拾石 御武具方本役、それまでは御城内外火之番、道奉行など。父の福嶋市郎兵衛は三代目師役の高弟でした。

大橋角左衛門とは六代目師役、前回述べた大橋八郎次のことです。

萩原貫太夫 拾五俵五人扶持 閉門・病気 不易流世話役
福嶋善兵衛  百四拾石 御中小姓組頭御取次兼勤
大橋角左衛門 百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方

因陽隠士記す
2025.9.25

居合の伝書、何れの流派か?

『當流居合歌集』筆者蔵

肥前島原藩(深溝松平家)の家臣の古文書を整理していると、流派不明の伝書が出てきました

『當流居合歌集』筆者蔵

後段に出てくる年紀の通り、時代に相応しい表具です
表具の露出していたところは虫舐めのため、裏地が露わになっており、せっかくの銀彩は僅かにその痕跡を残すのみ

『當流居合歌集』筆者蔵

この奥極秘傳の巻一軸は、懇望の人が有るといえども、軽々な判断で授けてはならないと序文に語られています
残念ながら、流派の推定につながる文言は見られません

『當流居合歌集』筆者蔵
『當流居合歌集』筆者蔵

居合百首、流派を推定し得るとすれば、これらの歌を手掛かりにするほか手段は無さそうです

『當流居合歌集』筆者蔵

本来、最も有力な手掛かりとなる伝系には二人の名が列なるのみ
あるいはこの「平田弥市兵衛尉」を流祖とする一派なのかと思われます
武光権大平、「ごんたべえ」と読むのでしょうか、「権太兵衛」など別表記の線も調べましたが該当なし

花押はなぜ入れられなかったのか?
古野氏が所蔵していたことから、この伝書は伝授されたものに相違無く、考えられるとすれば他数巻の伝書と共に伝授されたから、一巻にのみ花押を入れたパターンかと考えています

そして奥書にもう一つの手がゝりが有ります
「コタマヒリヨウケン青葉キヨウロクインタイトラツメ極意なり」
この型の名に共通する流派があれば、推定できそうです
コタマ、ヒリヨウケン、青葉、キヨウロク、インタイ、トラツメの六つに分けられるでしょうか

数日前に発見して、一当て調べましたが、どうも百首から辿るほか答えを得る手段は無さそうです

因陽隠士記す
2025.9.23

多宮流居合指南役 生沼素行伝

生沼素行(1787~1851)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家九代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役(在任期間:文政4年3月21日~嘉永4年7月18日)

源姓
通称 虎之助・新八郎・作左衛門
実名 曹傳(トモツク)
号 素行館・素行軒・素行

父曹照に多宮流居合を学び印可を相傳される
軍学に精通しており、数多くの文書が現存している
このほかの藝事については明らかでない

寛政10年(1798)12歳のとき御中小将組に召し出され弐人扶持方下され、当時わずか五歳の前田直時公の御附を命じられる
文化1年(1804)壱人扶持方御加増

文化9年(1812)前田直時公が家督を相続したとき、奥詰御近習御装束方を命じられ、三日後に給人列に上げられた
その後、御稽古所主附、同所御目附役、御馬方御取次役を勤め、文化13年・14年は江戸への御供を勤める

文政2年(1819)には前田直時公の御前において多宮流居合師範を命じられ、格別の趣を以て御刀を拝領する

文政4年(1821)35歳のとき父曹照の隠居によって家督を相続する
これまで前田直時公の御側によく仕えたことから拾石を加増され七十石を下された
同月21日父の跡役として経武館の居合師範を命じられる

文政5年(1822)奥御用人、文政6年(1823)御番頭へと進むも文政8年(1825)前田直時公の最晩年、役向に不相應の儀あり一旦役務を退けられる
同年(1825)前田直時公病歿の五日後に奥御用人に復職、文政11年(1828)御番頭に復帰
文政13年(1830)前田直時公の三回御忌御法事の支配を勤めた

天保7年(1836)前田直時公の弟主鈴が越中古國府勝奥寺に入寺する際の御用主付を命じられ度々これを勤める
天保11年(1840)御組頭・御組御取次役兼帯を命じられ、天保12年には白鳳院様七回御忌御法事の支配を勤める

嘉永4年(1851)前田直良公が江戸表に於いて卒去、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配を勤めた
同年歿す、65歳

前田土佐守家 七代直時公(万法院様)・八代直良公(本学院様)に仕え、都合五十四年の御奉公

生沼素行年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
天明7年 八代生沼善兵衛の子として生れる
寛政10年1月15日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ、万法院様[前田直時公]御部屋住の内御附仰せ付けらる 12歳
享和1年4月16日 角入候様仰せ付けらる
享和1年4月20日 前髪執候様仰せ付けられ、虎之助と申し候處、新八郎と相改め候様仰せ付けらる
文化1年4月20日 壱人扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人御扶持方下し置かる
文化4年4月25日 名作左衛門と相改め候様仰せ付けらる 21歳
文化9年(1812)12月 万法院様御家督御相續、御表へ御引移の上
文化9年12月25日 奥詰御近習御装束方相勤め候様仰せ付けらる
文化9年12月28日 給人列仰せ付けらる 26歳
文化10年2月5日 御稽古所主附仰せ付けらる
文化10年11月16日 同所御目附役仰せ付けらる
文化11年4月29日 御馬方御取次役仰せ付けらる
文化13年7月 芳春院様弐百回御忌御法事に付、万法院様御上京の節御往来御供仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為、江戸表へ御出府の節御往来御供仰せ付けらる
文政2年1月28日 万法院様御前に於いて居合御師範仰せ付けられ置き候付、格別の趣を以て御道具の内下し置かれ候旨、段々御書立を以て御刀拝領仰せ付けらる 33歳
文政2年6月5日 深き思召在らせられ候旨にて御稽古方主付御免仰せ付けらる、但御目附の儀は只今迄の通り相勤め候様仰せ付けらる
文政4年3月10日 父善兵衛儀隠居仰せ付けられ、善兵衛へ下し置かれ候御知行六拾石相違無く相續仰せ付けらる、其節御書立を以て万法院様御部屋住以来久々側近く召し仕えられ候處、不調法無く相勤め候付、拾石御加増仰せ付けられ都合七拾石下し置かる 35歳
文政4年3月21日 武学校に於いて父善兵衛代りとして居合師範仰せ付けらる
文政5年6月15日 奥御用人仰せ付けられ、勤方の儀は只今迄の通り奥詰の方相勤め申すべき旨仰せ渡さる
文政5年6月17日 居屋鋪の後御馬場の内地面百弐歩拝領仰せ付けらる
文政5年6月28日 失念の趣御座候付、自分指扣え罷り在り候處、翌29日其儀に及ばざる旨仰せ渡さる
文政6年11月3日 万法院様御前に於いて御番頭仰せ付けらる
文政8年6月20日 役向不相應の儀これ有り思召に相叶わず、役儀御指除き遠慮仰せ付けらる
文政8年8月12日 遠慮御免許、奥御用人仰せ付けらる
文政11年7月21日 御番頭帰役仰せ付けらる
文政12年8月28日 本学院様[前田直良公]御代 御番頭にて御用所仰せ付けらる
文政13年8月 万法院様三回御忌御法事支配仰せ付けらる
天保3年12月11日 御文庫御土蔵主付仰せ付けらる
天保7年 主鈴様御儀、越中古國府勝奥寺へ御入寺仰せを蒙り候付
天保7年12月29日 右御用主付仰せ付けらる
天保8年2月22日 御當地御發足、其節御見送りの為勝奥寺へ罷り越す
天保8年3月1日 罷り帰り候處、本学院様御前に於いて御目録を以て金弐百疋下し置かる
天保8年3月29日 重ねて御用これ有り勝奥寺へ御使仰せ付けらる
天保8年4月6日 罷り帰り申し候
天保11年1月18日 重ねて勝奥寺へ御使御用仰せ付けられ發足仕り
天保11年2月13日 罷り帰り申し候
天保11年9月1日 本学院様御組頭仰せ付けを蒙られ候付、同日御組御取次役兼帯仰せ付けらる
天保12年4月25日 白鳳院様七回御忌御法事支配仰せ付けらる
嘉永1年5月 清寥院様御幟御用主付仰せ付けられ、右御用相勤め候付、御目録を以て金子下し置かる
嘉永4年4月 本学院様江戸表に於いて御卒去に付、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配仰せ付けらる
嘉永4年7月18日 病死仕り候 65歳

井口新左衛門改易

『願書』筆者蔵

井口如毛の後裔、井口新左衛門は主家である深見兵庫より改易を申し付けられ、多宮流居合差引方の任から外れることになりました
このことを学校方へ申請した際の文書です

多宮流居合相傳之次第

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

多宮流居合が相伝する伝書五巻をまとめた冊子
また、伝授における決り事など若干の説明が附されています

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵
『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

1810. 多宮流居合秘歌私解 文化7年12月

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

生沼素行の著書、免状に付された秘歌を解説した一冊

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵
『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

1821. 経武舘居合師範役拝命 文政4年3月21日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

父生沼曹照が経武館出座を命じられてより一年未満で病のため隠退
忰生沼素行が代って師範役となり、その跡を継ぎました

1821. 多宮流居合極意 文政4年8月

『多宮流居合極意』筆者蔵

生沼素行の著書、問答形式で多宮流居合の大要を語った一冊

『多宮流居合極意』筆者蔵
『多宮流居合極意』筆者蔵

1825. 多宮流居合極意之解 文政8年3月

『多宮流居合極意之解』筆者蔵

『多宮流居合相傳之次第』の巻末に触れられていた一冊
主に「外物」についての解説
既に伝書五巻を相伝された者が写すことを許されます

『多宮流居合極意之解』筆者蔵
『多宮流居合極意之解』筆者蔵

1831. 多宮流居合の門弟騒動 天保2年

『故河地右仲多宮流居合跡稽古之儀に付』筆者蔵
『生沼素行書簡』筆者蔵

八代生沼曹照に免許皆伝を許され、同流の指引人を勤めていた河地右仲が急逝したことによって、その門弟たちが起こした一連の騒動について、数点の文書が残されています
この騒動について簡単にまとめると

1.河地右仲は、未だ門弟に免許皆伝を許しておらず、後継者がいないまゝ急逝したことによってその門弟たちは新たな師範を求めた
2.残された主だった門弟たちは、河地右仲の師である八代生沼曹照を師範にしたいと働きかける
3.しかし、八代生沼曹照は既に隠居しており、子息の九代生沼素行にその座を譲ったとして、申し出を断わり、生沼素行の弟子になるよう勧めた
4.ところが、故河地右仲の門弟たちは納得しない、どうしても生沼曹照に師事したいと、隠居の身分であっても師範は可能という故例を引いて説得に努めた
5.両者の主張は平行線を辿り、議論は紛糾した

同流の近しい門弟たちが、なぜこゝまで生沼曹照師範にこだわったのか
彼ら故河地右仲の門弟たちの主張は、子息である生沼素行の教授方針をどうしても受け入れられなかったのです
結果、生沼曹照以外の選択肢は無いということでした

河地右仲、生沼素行、両人とも生沼曹照の直弟子であるにも関わらず、教授方針がそこまで違うものかと思われるでしょう
どうも生沼素行という人物は、流儀の研鑽に非常な熱意をもっており、その研究心から稽古方法が従来のものと異なってきたのではないかと思われます

『山田武左衛門・岡部屯書簡』筆者蔵
『断簡』筆者蔵

1832. 養子願書 天保3年5月8日

『養子願書』筆者蔵

後の十代生沼曹貫を養子に迎えるときの願書
生沼曹貫は当時十七歳
願書には、多宮流居合を稽古させ、いずれ師範を相続する旨も記されています

学校御横目觸書

『学校御横目觸書』筆者蔵

経武館出座の師範役は、門弟を管理する責任があり、門弟たちの役職の変更や家督の相続、養子や縁組といったことまで事細かく届け出する必要がありました
しかし、あまりにも届け出が煩雑で届け出漏れがあったゝめ、学校御横目からしっかりと届け出るように触れたときの文書です

いわゆる「不届者(ふとゞけもの)」とお叱りの言葉が聞えそうです

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.9

多宮流居合指南役 生沼曹照伝

生沼曹照(1764~1830)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家八代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役

通称 與三兵衛・与三兵衛・善兵衛
実名 曹孝(トモノリ)・曹照(トモテル)
実は中嶋武兵衛の二男
実兄は中嶋七次

篠原尚賢に多宮流居合を学び印可を相傳される
そのほかの藝事については明らかでありません

天明3年(1783)加賀八家の筆頭たる前田土佐守家来生沼浅之進(当時、御目附役)の養子となり、天明5年(1785年)御中小将組に召し出され、御料理之間詰、御式臺御中小将番、御角番を勤めた

寛政6年(1794)養父浅之進(当時、御臺所奉行)の病死によってその遺知を相続、同年御時宜役となる

文化10年(1813)御目附役を命じられ、翌年には頭並となり御用所勤め、御武具方・宗門方を兼帯。文化13年(1815)足軽頭に進む

文化14年(1817)には殿様の江戸御供を無事に勤め、同年名を善兵衛と改めるよう命じられた

文政3年(1820)藩の武学校「経武館」の居合師範役を命じられ、定日に出座することゝなる
これは前年に嫡子の曹傳が殿様の居合御師範を命じられたことが背景にあると思われる

翌年、家中の定によるものか隠居を命じられ弐人扶持を下された
文政13年(1830)歿、67歳
前田土佐守家 六代直方公・七代直時公に仕え、都合三十七年の御奉公

生沼家の系譜(初代~七代)

『生沼家由緒帳』筆者蔵

初代 一木善左衛門
微妙院様御代、御当地に罷り越し願い奉り候ところ、御元祖本多安房守様へ御招き堪忍分として新知二百石を下される
寛永13年12月14日歿

二代 生沼十兵衛
長安寺様御代、寛永15年召し出され新知百五十石を下される
苗字を”生沼”に改める(その子細は伝えられず)
寛文1年12月5日歿

三代 生沼善兵衛
長安寺様御代、父十兵衛跡目として召し出され百石を下され、小松御城中御作事御用
佛心院様御代、御普請会所下奉行
元禄6年12月2日歿

四代 生沼善兵衛
御中小将組(御近習)-遺知百石御式臺御取次番-大御目附役(御算用所詰)-御普請会所下奉行-大銀支配・御借用銀方・御倹約之節御作事方(頭並)-御臺所奉行-御組御取次役・大銀支配・御借用銀方・宗門御用-足軽頭
正徳6年5月8日歿

五代 生沼善兵衛保久
中川式部様御家来野崎弥兵衛二男
元禄9年(1696)生-寛延3年(1750)3月15日歿、55歳
末期聟養子、跡目として召し出され遺知百石を相続
御式臺御取次番-足軽頭-御組御取次役・御用人-御歩頭-御組御取次役-御小将頭-中症煩いにつき改役のほか免許、保養-隠居
寛延3年3月15日歿

六代 生沼十兵衛
五代善兵衛の嫡子
御中小将組(御次詰)-御式臺番-御次詰-御前御納戸御奉行・御目附御倹約方御用-御知行百石相続-御前御普請請会所下奉行役-不調法の趣御座候につき逼塞-逼塞免許、御式臺番-不調法の趣御座候而、御知行御取上げ、八人扶持下され逼塞-逼塞免許、御中小将組(御式臺御中小将番)-江戸御供-御簾番-御国目附(御用津幡への御供)-御供方御目附
宝暦8年11月歿

七代 生沼小右衛門-浅之進曹久(トモヒサ)
五代善兵衛の三男
享保19年(1734)生-寛政6年(1794)5月4日歿、61歳
御歩頭-詠帰院様(三左衛門様)御幼年につき御附-御小将組-御中式臺番-御先供役-御角番-御中小将組-遺知百石の内五拾石下される、残知は勤方次第-御時宜役-御目附役-御叙爵御供-御引足知拾石下される-御式臺番-御臺所奉行
寛政6年5月4日歿

1783. 聟養子願い 天明3年7月28日

『聟養子願書』筆者蔵

七代生沼曹久のとき、男子の跡継ぎがいないため、中嶋家から聟養子をとりたいと主家に許可を願いました
その聟養子が後の八代生沼曹照です

文中に「養娘」とありますので、実質的には家名を存続させるための処置だったようです

1787. 養父加増の沙汰 天明7年9月3日

『加増切紙』筆者蔵

生沼曹照の養父曹久が加増されたときの切紙

陪臣の身分

陪臣とは又家来・又者などゝとも呼称され、家来の家来を意味します
生沼曹照は加賀八家の筆頭前田土佐守の家来でありましたから、その身分は藩士(直臣)の下に位置しました

加賀藩の場合、千石以下は若党(士分)・小者(草履取など)を数人召し抱え、千石以上は給人(騎士)・中小将・小将・徒組・足軽・小者を召し抱え
四,五千石以上となればその上に家老や用人が置かれます
その中において、生沼善兵衛は中小将にはじまり、給人(騎士)へと出世したことから、上級の家臣と云って良いでしょう

殿様
────
家老
────
用人
────
給人  ↑騎士 ↑
────    │生沼曹照の身分
中小将     │
────
小将  ↑士分
────
徒組  ↓士分以下
────
足軽
────
小者

さて、これら陪臣の身分は小将以上が士分であり、小将・中小将は名跡を相続できました
その上の給人は与力並の扱いを受け、名跡と家禄を相続できる譜代の臣が多かったと云います

生沼曹照の主人前田土佐守家の場合、石高は一万一千石、大名クラスだったので、家臣も多く召し抱えていました
前田土佐守家の家臣構成は不明なので、目安としてちょうど二倍の石高をもつ本多家の家臣団(正保-元禄)を二分の一にすると、給人70人・中小将16人・徒組20人・醫師など47人・足軽75人ほどかと思われます

生沼曹照年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
明和1年 中嶋武兵衛の二男として生る
天明3年7月 生沼浅之進養娘へ聟養子願い奉り候處、願いの通り仰せ出ださる 20歳
天明5年9月1日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ御料理之間詰仰せ付けらる
天明5年10月 御式臺御中小将番仰せ付けらる
天明6年 篠原権五郎尚賢より印可相伝 23歳
天明6年5月19日 御角番仰せ付けらる
寛政3年12月21日 壱人御扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人扶持方下し置かる
寛政6年7月11日 養父浅之進遺知[六十石]相違無く相續仰せ付けらる 31歳
寛政6年9月27日 御時宜役仰せ付けらる
文化10年7月14日 御目附役仰せ付けらる 50歳
文化11年3月24日 頭並仰せ付けられ御用所相勤め候様仰せ付けられ、御武具方・宗門方兼帯相勤め候様仰せ付けらる
文化13年閏8月17日 足軽頭仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為江戸表へ御出府の節、江戸表貸小屋請取り并びに御宿見分を為す
文化14年3月19日 發足仰せ付けられ御帰りの節、御供御先祓い御宿相勤め候様仰せ付けらる
文化14年6月19日 名與三兵衛と申し候處、改名仕り候様仰せ付けられ善兵衛と相改め申し候
文政3年8月8日 武学校に於ける多宮流居合師範方仰せ付けらる 57歳
文政3年10月23日 御歩頭仰せ付けらる
文政4年3月10日 御番定を以て善兵衛儀極老と申すにてはこれ無く候得共、是迄数役相勤め御師範も申し上げ候に付き隠居仰せ付けられ、弐人扶持方下し置かる 58歳
文政13年7月5日 病死仕り候 67歳

多宮流居合の系譜

『多宮流居會傳来覺書』筆者蔵

生沼家十代曹貫に至るまでの多宮流居合の系譜

1705. 多宮流居合傳書 宝永2年12月

『多宮流居合目録』筆者蔵

河井重寛より小川嶢智に相伝された目録
後に小川嶢智の子息と思しき人物に相伝されました

この目録が生沼家の所蔵に帰した経緯は二通り考えられます
1.篠原尚賢より印可を伝授されたとき、この目録も引き継がれた
2.生沼家が多宮流師範となった後、小川家より返還された、これは被伝授者が他界した後は師筋に返還するか火中に投じる規定により

 
 
『多宮流居合目録』筆者蔵

宮北定由書簡:恐るゝ 流儀はこれ無く候

『宮北定由書簡:十月三日付』筆者蔵

差出人の宮北定由、受取人の小川嶢智、共に河井重寛に多宮流居合を学んだ同門の士であり、同流における師範の立場でした

なお、宮北定由は越前福井藩士、高弐百五十石、江戸留守居役
小川嶢智は元越前松岡藩士、食禄百石、後ち浪人して加賀の弓箆町に住し三術を教授した、「無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称される

書中「他流も見及申候へ共深ましき事も相見へ不申候恐るゝ流儀は無之候」と高言し、つゞけて自身の工夫を教え、これは弟子たちへは極密にし、子息へ傳授する扱いであることを教えています
このことから、宮北定由は兄弟子にあたるらしい

江戸時代の武藝というのは閉鎖的印象をもたれがちですが、師範同士、昵懇の者へは書簡を以て秘密を教えることが珍しくありませんでした
また、そういった例は、お互いの主家が異なる場合、より親切に対応したように思います

また書中において、「御當地へ若御出被成候ても御面談の義は少々遠慮にも御座候間御用捨可被下候」と云い、小川嶢智の訪問を断っています
推察するに、他家の者との面倒事は御免ということかと
他家の者が来れば、主家への届けもして宿の手配も必要となる
加えて初対面の者が好ましい人物とも限らず、何らかのトラブルが生じれば、主家から責められる
斯ういったときは、あらかじめ断るのが妥当であったと考えられます

たとえば、熊本藩の三藝師役星野實員が、防州岩国の片山流師家を訪問しようとしたとき一旦断られています
あるいは、仙臺藩の五藝師範石川光實が、他家の剱術修行者を独断で泊めた後にトラブルを起し、主家より罰せられています
この場合、たとえ藩へ届けていたとしても、周旋した石川光實は何らかの罰を受ける可能性があり、他家の人物を引き受ける危険性を示しています

 

宮北定由書簡:伝書の存在

『宮北定由書簡:八月廿一日付』筆者蔵

特筆すべきは、書中「印可并高上極意の免状」について言及していることです

小川嶢智は、自身が伝授された伝書の奥書に示される「印可并高上極意の免状」の存在について不審に感じ、宮北定由にその存在の有無を問います
問われた宮北定由は、他の門弟や土屋市兵衛の子などにも確認して「印可并高上極意」が実質的には存在しないことを明らかにしました
「惣て高上極意印可状定て傳受せしむべし、とこれ有るは書物柄の文躰とて外に傳授の義はこれ無く候」と

このような実情は、伝書の奥書を全く鵜呑みにすることの危うさを端的に表わしており、また当時の門弟たちの認識や情報の共有を示す事例として参考になります

愚考するに、当初は「高上極意印可状」が存在したのかもしれません、いや代々が継承してきた奥書の記述に随えばたしかに存在していた筈です
しかし、いつの頃か傳落・途絶してしまったものと考えられます

1760. 小川則衡墓碑銘 宝暦10年

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

小川則衡に三藝を学んだ松井盛庸の撰文による墓碑銘
これによれば、小川則衡は延寳二甲寅之年(1674)生れる
父は松岡の中書侯(松平中務大輔昌勝)に仕え、食禄百五十石
家督は兄又左衛門が継ぐ

小川則衡は「性剛健篤實學びて倦まず、無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称され、また「小池氏に四傳之業を請て抜きんでたり」と礼法にも秀でた才を見せ、新恩百石をもって松岡氏に召し抱えられ、師範を勤めた
しかし、故有って僻邑に逃れ、享保十一年国を去る
後に金沢城下の弓箆町に廬を結び、凡そ二十三年、三藝を若干の弟子に授けた
寛延元戊辰年(1748)仲冬十六日に卒す

なお名乗りについて
通称は猪右衛門、金左衛門、弥左衛門と改め
実名は嶢智から則衡に改めたと見られます

後を継いだ小川則衡の息子は、子弟を育てること四年にして早世したという

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

虫食いのためささらのようになっています

無邊流鑓術

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵

村田正利より小川嶢智へ、そして松井盛庸から高田兵右衛門へ伝授された無邊流鑓術の伝書を控えた冊子
九代生沼曹傳のとき写されました

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵
『槍術秘伝書』筆者蔵

松井盛庸のころに作成されたと思しき無邊流鑓術の秘伝書
早田武節という人物が記したもので、どのような経緯があったものか生沼家の所蔵に帰す

1786. 多宮流居合印可口傳目録 天明6年

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

篠原尚賢より生沼曹照に伝授された『多宮流居合印可口傳目録』
本来、このほかにいくつかの伝書を所蔵していた筈ですが、散逸してしまったと思われます

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

~1817. 多宮流居合定書 文化14年以前

『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵
『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵

生沼善兵衛曹照が改名を命じられる以前、與三兵衛と称していたころに作成した定書
これによって前田土佐守家における多宮流居合の稽古日が明らかとなります

縁組願い

『縁組願書』筆者蔵

九代生沼曹傳縁組の願書

1817. 家督相続願い 文化14年3月

『跡式相続願書』筆者蔵

養子生沼曹傳に家督を譲りたいと当局に差し出された願書

願書を差し出した生沼曹照は、自身がいつ急死するか分らない、遺書も用意したと記しているので、なにか健康上の不安があったのかもしれません
結局、このときの願いは許可されず、文政四年に隠居します

1820. 加賀藩武学校「経武館」出座 文政3年

『経武館出座切紙写』筆者蔵

文政三年八月八日、生沼曹照五十七歳にして経武館出座の居合師範役に任じられました
この切紙は、主家である前田近江守宛に出されたもので、その写が生沼曹照に渡されました

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

『学校向達方等一巻留』は、経武館に出座し多宮流居合師範役を勤めた生沼家三代にわたる記録

八代生沼曹照が経武館出座を命じられた文政三年八月八日はじまり、経武館が廃館される慶応四年五月十七日至るまでの四十九年間、学校からの通達や頭衆・御用所・御横目所等との連絡、生沼家が仕えた前田土佐守家との連絡などが書き留められています

『門弟届出書雛形』筆者蔵

1820. 多宮流居合稽古道具新調 文政3年8月12日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

この日、稽古道具について、武学校に在るものでそのまゝ利用できるものを見分し、無いものは細工人へ相談、その寸法図を学校へ提出するよう告げられました

1820. 経武館定日初出座 文政3年8月26日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

初めて経武館に出座した生沼善兵衛の多宮流一門は六十一人を数えました

生沼曹照が経武館出座に抜擢されたのは、家中において多くの門弟を指南していたからでした
「武術に練達して門弟に教ふる者にても、其門弟極めて少数なれば、経武館の師範たることを得ざりしもの」と云い、経武舘の師範は武藝の練達のみで撰抜されず、門弟の人数が少ないため出座の撰に漏れた師範も多くいました

1821. 経武館居合師範隠退 文政4年

『経武館師範方指省願』筆者蔵

生沼曹照の居合師範役隠退願い
経武館出座居合師範となった翌年、病によって早々にその任を辞すことになります
師範役は、その後忰生沼曹傳に引き継がれました

1825. 跋多宮流居會勝口勝負傳来之書 文政8年

『跋多宮流居會勝口勝負傳来之書』筆者蔵

九代生沼曹傳の著書『多宮流居會勝口勝負傳来之書』に寄せられた跋文
撰文は井口如毛の曾孫にあたる井口當和です

基本的に『多宮流居會勝口勝負傳来之書』を讃える内容であり
筆者である生沼素行を中興の祖と称しています

また、文中において井口家の事情についても語られており
1.井口如毛の子當艾は多病によってその伝を継げなかった
2.井口如毛の孫は、生沼曹照に学び免状を相伝された
3.井口如毛の曾孫にあたる井口當和もまた生沼曹照父子に学んだ
ことなどが記されています

1830. 家督相続御礼 文政13年

『礼状案』筆者蔵

生沼曹照が病に伏していたとき、忰曹傳の家督相続を感謝した礼状
もはや花押を書くことすら儘ならない病態だった様子で、この一週間後に他界します

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.7

無邊無極流の稽古

千本入身(享和三年)

入身稽古とは、素鎗に対して長刀・十文字・鍵鎗・太刀などを以て入身を行い、鎗に突き止められず勝てるか否かという稽古です
千本入身とはその名の通り、入身稽古を千本行うことを指しています

あまり詳しくありませんが、入身側は長刀を使う場合が多かったように思います

『入身千本幟』筆者蔵
『入身千本幟』筆者蔵

三俣家の旧蔵文書にこの『入身千本幟』が残されていました
紙製の幟で、おそらく千本入身当日に目立つところへ掲げられたものと思われます
そう考えると、なかなかの一大行事だったのではないかと...
記念にとっておいたのでしょう

『三俣義行日記:享和三年三月十七日部分』筆者蔵

その日の様子は、日記にも録されています
千本入身は好古堂において行われており、参加する門人たち九十一人には、三俣家から弁当が提供されました

因みに、この千本入身を行った当事者「冨之進」というのは、三俣家の五代目当主義武のことで、前回「無邊無極流の印可伝授」の「印可伝授の儀式」に参加した人物です

入身稽古(文政十年)

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

これは日々の入身稽古数を記録した冊子です
所有者は、先ほど千本入身で登場した「冨之進」の息子義陳ですね
確認できる範囲でいえば、義陳の曽祖父のときから無邊無極流の門下ですから、三俣一族は必ず同流に入門するようです

三俣義陳は、当時二十一歳

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵
『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

上の画像は稽古数を表にしたものです
私の解釈が間違っていなければ、三俣義陳が入身で勝った割合の方が多いです
使用した武器は、たぶんに長刀

なお、特別に冊子として記録された理由は、翌年の千本入身を控えてのことゝ思われます

千本入身(文政十一年)

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

父親と同様に千本入身を行った三俣義陳、当時二十二歳
家督を継ぐ以前のことであり、様々な武術を修め、学問にも励んでいました

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

前半に出席者の名前と本数が記録されています
酒井家の重職の名があり、参加人数も多く、無邊無極流は酒井家で盛況だった様子が窺えます

なお、この年殿様は江戸に在府で国許にはいなかったので、国詰の門弟たちは総出だったかもしれません

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

三俣義陳は入身長刀です
入身勝なら白丸なので、大半は入身長刀の勝利だったようです

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

巻末に通算されていて、入身1015本中、入身勝は723本、突身勝は292本という結果
突身側は入れ代わり立ち代わりで体力を温存できるのに対して、入身側の三俣義陳は一人で1015本立ち合ったわけですから、相当な力量だったと思われます

とはいえ、家中の者同士の稽古ゆえに、真剣に突身側が勝ちに拘ったのかどうか、一大行事ゆえに少しは三俣氏に華を持たせようという配慮があったのかもしれないと、想像したりもします
しかし、前年の『鎗術入身稽古數扣』もあるように、熱心に稽古に励んでいた様子も分るため、このような想像自体が失礼にあたりそうです

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

三俣義陳の父義武の日記に、千本入身のことが録されています

それによると、千本入身の前日に師家や手傳、世話役のところへ挨拶に行っています

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

千本入身終了後は、関係各所へ挨拶廻り
帰宅後は、師家や世話役などを酒肴で労い
翌日、再び関係各所へ御礼廻り

この辺りの流れは、平常運転といった様子

おわりに

当時の鎗術の稽古がいかなるものだったのか、その実態について私は詳しく知りません

たゞこの千本入身といった稽古を見ていると、どうも入身長刀の方を重視しているようで、いかに素鑓を攻略するかという執念を感じます

なぜ突身側の稽古記録が無いのか、なぜ千本突身ではないのか、といった疑問が浮かびます

もちろん、突身の稽古もしていたのは間違いないでしょう、無邊無極流は素鑓の流儀ですから
それなのにどうして入身側の勝利で飾る行事が行われるのか、ちょっと不思議ですね

同じく素鑓の流派である風傳流でも、流祖が入身長刀を披露していましたし、相当習熟していた様子が伝えられています

基本的に素鑓よりも長刀の方が有利であり、強いという前提があるような気がします
しかし、江戸時代の武士の慣習で、鑓という武器を用いることが重要ですし、どうしても鑓を使わなければならないという制約から素鑓の技を磨く流派が広く行われるようになったのかなと想像します

因陽隠士記す
2025.9/6

無邊無極流の印可伝授

今回は、酒井雅楽頭家(姬路藩)における無邊無極流の印可伝授について書きます
なお、同家において無邊無極流は殿様も修行するため「御流義」という位置づけでした
記録には、単に「無邊流」と記されることもあります

こゝでは酒井雅楽頭家の家臣三俣氏の古文書を取り上げ、無邊無極流の印可伝授の様子を見ます

印可起請文

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

印可伝授に際して、師家である山本家に起請文を提出します

起請文は遵守すへき箇條文言を云い、神文に前置します
故に、この文言を神文前書とも云います
本則は牛王を用い、このような白紙の者は白紙誓詞と云って午王の本誓詞に対して略式なるが故に仮誓詞とも云いました
略式とは雖も時代が降って一般にこれを用ひるようになったと見られます

内容は下記の通り

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

天明二年、三俣義行は二十九歳、酒井忠以公の家臣、未だ家督を継いでおらず、御用人並格・奉行添役を勤めていました
家中においては、金原宗豐に師事しており、江戸に在府の機会があれば山本氏に直接指導を受けたものと見られます
基本的に伝書の伝授は、山本家に依頼します

宛名の山本久忠は四十一歳、将軍家の御旗本であり無邊無極流の鎗術師範

印可伝授の手配

『金原宗豊書簡案』筆者蔵
『金原宗豊書簡案』筆者蔵

姫路にいる家臣たちは、江戸で直接山本氏に伝授を受けるわけにはいかないので、印可の巻物を送ってもらいます
上に掲げた書簡案は、その山本氏に印可巻物の手配を依頼したときの下書です

無邊無極流の伝書作成」にあるように、無邊無極流の伝授を受ける家臣たちは、それぞれ印可伝書を作成し、前の起請文を添えて江戸の山本氏へ送りました

受け取った山本氏は、それぞれの巻物に名前と判形を書き込み、送り返します

この伝授形態は、一般に行われるものとは少々異なると思われます

御礼

『三俣義行書簡案』筆者蔵
『三俣義行書簡案』筆者蔵

印可巻物を送られたことに対し、山本久忠に御礼状を認めます

先ほどの『金原宗豊書簡案』といゝ、この『三俣義行書簡案』といゝ、宛名の書き方に注目すると、山本氏の方が身分制度上の立場は下の扱いだったようです
『金原宗豊書簡案』では、「山 嘉兵衛様」と苗字を略されており、『三俣義行書簡案』では、「嘉兵衛様」と苗字さえ省略しています

印可伝授の儀式

酒井家の御流義たる無邊無極流の伝授は、一般の伝授と異なり、姫路の国許では藩主自ら伝授の儀式を行います

印可の伝授を受けた三俣義武がそのときの様子を日記に記録しています
惜しむらくは、虫食いによる欠損が著しく、読めないところがあることです

印可伝授の一ヶ月ほど前のこと
(文政三年十一月八日)
「無邊流鎗術印可御傳授被仰付」<日記>

三俣義武は、無邊無極流印可傳授の内意を承けました
そして、印可伝授の儀式に臨む前日、十二月四日藝事奉行より手紙をもって稽古場へ呼び出されます
おそらくこのとき儀式の予行演習があったものと思われます

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

(文政三年十二月五日)
「一東御屋鋪へ五つ時ゟ熨斗目着用の者着用其外服紗小袖にて罷出る」<日記>

東屋敷は藩主が日常の住居としていた下屋敷のこと
印可の伝授を受ける家臣たちは、殿様の住む東屋敷へ集合します

『姫路城史』

「一御稽古場にて左の通り二席に仰せ渡し之れ有り」<日記>

印可伝授の儀式を図解で説明していますが、細字に虫食いと判読が難しいです
「二席」というのは、「印可」の伝授と、「目付」の伝授です

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

図中「御」の一字は殿様を表していて、「印可傳授差免(さしゆるす)と御意」と家臣にかけられた言葉が記されています
因みに、このときの殿様は祇徳君(酒井忠實君、四十二歳)

殿様の右下に藝事奉行が控えていて、「藝事奉行御取合」とあり、この儀式の進行役を勤めたものと思われます

「三」「内」「金」「原」と下に書かれているのが伝授を受ける家臣たち、苗字の一字目で表しています
後で名前が出てきます、「三俣」「内藤」「金原」「原田」の四名

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

一旦、席を改めて、次は「目付」の伝授の面々へ「目付傳授差免(さしゆるす)との御意有之」と再び伝授を許すとの言葉がありました

印可の伝授の日と同じく、目付の伝授の儀式も併せて行われていました
「目付」は、印可の前段階にあり、目録一巻が伝授されます

「御」殿様の左傍に「高須七郎大夫」が控えています
後の図解にも登場しており、なんらかの重要な立場だったようです

下の方に「小」「本」「天」「三」と四人の家来が控えています
こゝの四名は「小野田」「本城」「天野」「三浦」

再び「藝事奉行御取合」として説明がされていますが、この部分は虫食いのため判読できず
断片的に拾うと、「始に先生二本遣」「勇之進二本遣ふ」「先生二本遣ふ」「御前へ拜礼し引込む」「先生直に引込む」云々と、何かしら無邊無極流の型の伝授が行われた様子が記されています

「一右目印御傳授遣ひ終て御装束之御間へ入らせらる、印可面々罷出て□□□拜礼、尤も進み出て神酒頂戴、一座に血判、先生手次之巻讀む、其□□□□□□服紗に包み□□□開き聞せ引込む、右装束之御間圖左の通り、尤も解□」<日記>

「手次之巻」というのは、印可五巻の内の一巻目、これを「先生」が読み聞かせるなど一連の儀式が記されています

こゝでもう一度図解へ

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

「御」とあるのは殿様、その向いに「御床御餝」があって、殿様の隣にいる「先生」のところへ「進出拜礼」の文字、その向いに「高須七郎大夫」
そして「門人」たち四人が並んでいます

「右印可面々、自分・内藤千太郎・金□[原]□左衛門・原田仲吉、右圖の通り、并に答へ拜礼神□□□、先生三方持参、面々頂戴、右圖の通り一座一度に神文血判、針、神文猿[懐か]中持参、夫□手次之巻先生読み聞せる、手次の巻猿[懐か]中より出□□□□□□開き聞せ候、直に引込む」<日記>

こゝで印可誓紙に血判して差し出したようです
そして、先生が印可の一巻目「手次之巻」を読み聞かせ退出

以上の儀式を終えると、稽古場へ移動します

「右畢て御稽古場へ御入らせ目印の通り先生弐本遣ひ見せ、門人遣ひ、又先生二本遣ひ見せ、門人遣ひ、三度にも四邊に遣ひ仕廻ひ、御前へ拜礼引込む、二人目より先生遣ひ見せす、先生遣ひ候内目印の通り」<日記>

先生が遣って見せ、それを門人が模倣、これを繰り返す

「一相済み御側御用人へ御役所へ御礼に罷出て候、藝事奉行役所へ断り」<日記>
「一鈴木□兵衛、高須七郎大夫、天野小平太、森文七郎、麻上下にて出席」<日記>
「一右の面々へ礼に罷越し候」<日記>

一連の儀式を終えると、三俣氏は関係各所へ御礼廻りに出掛けます

「一御頭并に印可面々、追々吹聴に罷越し候」<日記>
「一先生へ右四人より鰭節壱匹・酒礼十五枚遣はし候」<日記>

印可を伝授された、と家中の者たちへ知らせ、先生には御礼として「鰭節壱匹・酒礼十五枚」が贈られました

(文政三年十二月七日)
「一御屋敷御稽古に罷出て候処、先日の印可の節御餝りの餅頂戴」<日記>

一ヶ月後、儀式のとき飾られていた「御床御餝」の「餅」を頂戴
これで印可傳授の一連の出来事が終りました

『無邊無極流伝書』筆者蔵

おわりに

印可伝授の儀式について、日記の細字部分が虫食いで読めないというのは、とても残念でした
こういった出来事は文字にして記録されることが珍しいので、せっかくの好例だったのですが...

一連の流れをまとめると
1.印可伝授の沙汰(内定)
2.雛形を使って印可巻物を作成する
3.印可神文を作成する
3.御旗本山本家に印可巻物と神文を送付する
4.返送された印可巻物の御礼状を送る
5.印可伝授の儀式★
6.関係各所へ御礼廻り
7.家中の者たちへ印可伝授の件を吹聴する
およそこのような流れだったと思います

酒井家中の師範に師事して、認められゝば山本家から伝授されるという形態は、なんとなく、運転免許の取得に似ているかもしれません

因陽隠士記す
2025.9/4