姫路藩不易流炮術の門弟-6

前回の九代目師役に続き、今回は十代目師役への起請文です。これは入門のときに差し出されたものでは無く「慎申再誓之事」と題し卯可のときに差し出された起請文です。十代目就任後の天保10年(1839)、そして海岸防禦が強化される嘉永3年(1850)、嘉永4年(1851)、あわせて8名が名を列ねています。この内4名の履歴が分っています。

十代目師役は三俣義陳と云い、先述のごとく九代目のとき殿様の炮術指南御相手を勤めた人物で、伊勢津藩の佐藤家に留学して不易流の卯可を相傳されました。師役となったのは天保8年11月18日31歳のとき。翌年亡父の跡式高三百石を相続し御書院へ御番入り。御近習席(天保10年)、御城内外火之番、御中小姓組頭御取次兼勤(天保12年)、御物頭御取次兼勤(弘化2年)、室津家嶋臺場見分・伊勢津藩不易流師家へ留学(嘉永3年)、異国舩渡来の節御手當御人数在番(嘉永6年)、公儀より鉄炮稽古四季共勝手次第・不易流炮術願いに付好古堂藝同様の御取扱となる(安政2年)、井上流炮術世話番外・不易流炮術御用に付江戸在番(安政3年)、大炮合一(安政4年)、病死(安政6年)、不易流減流(安政7年)。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

 天保10年8月19日

福田市太郎 福田佐登助の長男。文政11年に不易流の世話役を命じられ天保12年まで勤めます。本人の履歴は無く、父の履歴が分っています。
父佐登助は享和2年に家督を相続、拾石減らされ百四拾石を下されます。御城内外火之番、御在城中御供番、奉行・大名が領内通行のおり道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(文化12年)、家嶋勤番(文化14年)、飾万津御番方(文政元年)、御城内外火之番(文政3年)など勤めました。記録はこゝまで。

福嶋長助 文化4年に跡式百三拾石を相続、御焼火の間へ御番入り。以降、御城内外火之番、飾万津御番方(文化9年)、御在城中御次番など勤め文政3年に至ります。不易流へ入門した文化9年は飾万津御番方を勤めていました。今回の起請文の時期の履歴は分っていません。
父傳五左衛門は安永5年に家督を相続し百三拾石を下され、御焼火御番入り。以降、御城内外火之番、奉行が領内通行のおり道奉行時役・道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(安永6年)、御武具方(安永9年)、藝事指南出精につき褒美(天明元年)、多年の功労によって御使番格(天明7年)、御中小姓組頭・御取次兼帯(寛政5年)、金原助左衛門跡の鎗術指南役(享和2年)、病死(文化3年)。

柴田太郎左衛門 七代目師役の四男にて、嫡子午之助の急死によって嫡子となります。この急死した午之助、文政9年福田市太郎・福嶋長助と共に鉄炮稽古料を下されており、もし存命であれば間違いなく流派内において重きをなした筈の人物です。
太郎左衛門が嫡子となったのは文政9年、二年後の文政11年に父が病死し跡式を相続、十弐人扶持を下され御主殿へ御番入りします。天保5年に飾万津御番を命じられてより以降は高砂御番、家嶋御番方など勤め、天保8年江戸表へ引っ越し御主殿へ御番入り、御城内外火之番。嘉永6年8月22日に不易流指南差添となり、同日当分の間は御宝器掛・御数寄屋方兼帯を命じられます。これは黒舩来航の影響によって、炮術に熟練した者を急遽抜擢した為と考えられます。翌年には異国舩渡来の節御固人数として姫路の室津へ派遣されます。突然の国許派遣は海岸防禦の方法について、地元の炮術家などゝ相談するためでしょう、9月22日に出立して10月8日には帰っています。不易流指南差添が御免となったのは安政2年のこと。
万延元年閏3月23日に不易流は減流となり、11月21日太郎左衛門は江戸表御臺場御固御人数となり、翌年在番を解かれ国許へ戻ります。国許に於いては御臺場并金杉御陣屋勤番。文久2年不易流再興の建言書を藩へ提出します。文久3年御中小姓組頭格・御鉄炮奉行となり勤役中弐拾人扶持を下されます。役職はこれまでの通り御宝器掛り・御数寄屋方兼帯、御腰物掛兼とのこと。同年8月摂州御持場へ御固人数として出張、文久4年には大炮鋳立に出精によって褒美を下されます。同年公方様が軍艦で播州・淡州・泉州辺の海岸炮臺築造場を御覧のとき、大目付代となり出張します。慶應3年正月、京摂辺が不容易な形勢となると姫路藩は派兵、太郎左衛門は大炮役として室津の警衛を任されます。慶應4年6月出京し御使番役兼勤、後に好古堂学問所肝煎兼勤、明治元年年来の出精の功績よって刑御奉行となり勤役中弐百石を下されます。明治2年邊叟と改名。
実に大まかな履歴ですが、このように柴田太郎左衛門は大炮・鉄炮に熟練した者として藩より信頼されていたようです。なお、幕末の騒然とした時期は、太郎左衛門の息子たちも武官として各地に派遣されるなどしていました。

 嘉永3年11月29日

塩山半次郎/惣太兵衛/豫助/峯八/峯右衛門 文政5年に不易流へ入門。文政10年に跡式を相続し百四拾石を下され、御焼火へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御次番(文政12年)、御城内外火之番(天保7年)、不易流炮術世話役(天保7年)、無邊流仮世話役(天保8年)、宝山流柔術仮世話役(天保8年)、御城内外火之番(天保9年)、御在城中御供番(天保12年)、不易流炮術手傳(天保13年)、豫助事惣太兵衛と改名・宝山流柔術世話役(弘化2年)、御使番(弘化3年)、不易流炮術指南差添(弘化3年)、町奉行時役(嘉永6年)、勘略奉行(嘉永7年)、高増弐拾石・町奉行(文久元年)、御物頭役・御取次兼勤(文久2年)、御上洛につき四ヶ所浦手固(文久3年)、摂州御持場固(文久3年)、若殿様御城着の節鉄炮組を率いて加古川驛まで迎えに行く(元治元年9月)、摂州御持場御固の節大目付兼勤(元治元年)、摂州御持場御固につき褒美(慶應元年)、奏者番(慶應4年)、御城番・御次詰(明治2年)。 世忰半次郎

鶴田次太右衛門 家臣録の失われた”ツ”の部。
不易流へ入門(文政6年)、修行を命じられる(天保6年)、世話役(天保7年)、手傳(弘化3年)、師範差添(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

 嘉永4年11月27日

福嶋傳九蔵 不易流仮世話役(天保10年)、指南手傳(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

高須傳内 家臣録の失われた”タ”の部。当分不易流手傳(嘉永5年4月26日)。

小笠原槌次/助之進 卯可起請文の当時は家督以前。不易流世話役(天保14年)、小笠原躾方世話役(弘化2年)、家の名に付き助之進と改名(弘化3年)、不易流指南手傳(嘉永2年)、国学指南手傳(嘉永6年)、不易流大筒手傳(嘉永7年6月)、異国舩渡来の節御手當人数江戸在番(嘉永7年)、江戸在番中姫路同様に不易流手傳(安政2年)、跡式弐百石を相続・江戸在番御免・小笠原躾方世話役・不易流手傳・国学指南手傳これまでの通り(安政2年)、不易流指南差添、御城内外火之番、十代目師役が出府につき躾方・国学より不易流を優先すべき命あり(安政3年8月)、好古堂肝煎(安政4年)、京都御留守居(安政7年)、摂州御持場御固御人数(文久3年)、好古堂掛(元治元年)、御進發御用掛(慶應元年)、町奉行・御進發御用掛(慶應2年)、病死(慶應3年)。 世忰勝弥
父新兵衛が跡式を相続したのは天保12年のこと、百七拾石を下され好古堂肝煎・御数寄屋方仮役兼勤となる、翌日御焼火へ御番入り。御使番格・勘畧奉行・御数寄屋方兼勤(天保13年)、室津交易會所懸り、倹約方年番、奉行・御物頭兼勤・勤役中弐百石(弘化3年)、宗門奉行年番、御作事年番(嘉永2年)、御加増三拾石(嘉永6年)、勘略方掛(嘉永7年)、宗門奉行年番、御用兼取扱、御勝手御用につき出坂、新開絵図御用掛、病死(安政2年)。

各人の履歴をまとめると斯うです。

 三俣義陳   三百拾石 番方 不易流十代目師役 御物頭筆頭 御取次
 福田佐登助  百四拾石 番方 市太郎の父
 福田市太郎     ? ?  不易流世話役
 福嶋長助   百三拾石 番方 不易流指南差添
 柴田太郎左衛門 弐百石 番方 不易流指南差添 御使番役 刑御奉行
 塩山惣太兵衛 百六拾石 番方 不易流指南差添 御城番 御次詰
 鶴田次太右衛門   ? ?  不易流指南差添
 福嶋傳九蔵     ? ?  不易流指南手傳
 高須傳内      ? ?  不易流指南手傳
 小笠原助之進  弐百石 番方 不易流指南差添 町奉行 御進發御用掛

因陽隠士記す
2025.9/30

姫路藩不易流炮術の門弟-5

前回が七代目でしたから今回は八代目の番なのですが、この師役への起請文は確認できていません。元から無いのか或いは失われたのか、兎も角一通も伝えられていないのです。八代目の名は福嶋善兵衛と云って家禄はおそらく百四拾石、祖父と思しき(直系であることは確認済み)市郎兵衛が三代目師役の高弟でした。四代目から五代目へ代替りする期間に行われた火業記録のなかに福嶋善兵衛の名が度々登場しており、高弟に位置しています。まだ詳しいことが分っていません。

 福嶋善兵衛  百四拾石 八代目師役 番方 道奉行

さて、今回は八代目を飛ばして九代目師役への起請文です。この人のことは以前にも述べた通りです。文政3年までの履歴が分っています。

 森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用

師役に就任してから三年後に隠居しますので、高齢であったと察せられます。
起請文の日付、天保4年5月15日は実は師役就任の四ヶ月前です。八代目が3月29日に病歿した為、その間も師役同様の立場だったのでしょう。また、藩主 酒井忠学公へ炮術を指南しました。藩主への炮術指南は、記録に見るかぎり四代目が酒井忠以公へ指南して以来久しく無かったことだと思います。酒井忠学公へ指南のおり御相手に抜擢されたのが後の十代目三俣義陳でした。ブログにおいて、これまで天保5.6年の義陳の日記を紹介しており、このなかに度々森先生が登場します。

斎藤鑒介益友 起請文を提出したとき13歳という若さでした。兄の斎藤幾之進が当主としてあり、当時家嶋御番、飾万津御番方などを勤めていました。翌年に高砂御番方、さらに翌年室津御番方、浦手精勤とのことで褒美を下されます。しかし番方の武人気質というより学者であったらしく天保8年に国学肝煎を命じられています。よほど熱心だったのでしょう、百日の猶予をもらい仙臺藩士のもとへ修行に出掛けるほどでした(後年、再び他家の学者のもとへ修行に行きます)。このような兄の影響があったものか弟斎藤鑒介も学問に取り組み、文政13年(1830)に句読手伝を命じられ、天保13年に仁壽山へ入り、同14年に学問所指南手傳兼勤、弘化3年寄宿寮肝煎兼勤などを命じられています。嘉永3年兄幾之進の病死によって養子となり、その跡式五拾石を相続します。なぜ不易流に入門したのかちょっと不思議です、後年兄と同じく浦手の番方につきますので炮術が役に立ちました。特に文久のころから海防に関わる役職を勤めており、その方面ではかなり活躍します。神護丸の製造に際しては諸事肝煎元方を兼勤し、元治元年に格段出精とのことで褒美を下されました。大筒の技術にも期待されていたようで、同年特に藩より諸事心得油断無く申し合わせるようにと命じられています。またこの年、長州藩士側用人・側役の両人が来舩したときは応接して使者を断るようにと重職たちに言い含められています。元治元年は多忙にて、京都へ緊急に内々の御用で上京、帰藩して首尾よく報告しその功労が認められました。元治2年に御進発御用掛、慶応元年御目付役助勤・中御徒士頭格となり再び御進発御用掛を命じられて、諸藩応接をよく勤めます。以後も勤務に忙しく長文となりますので、こゝでは割愛しましょう。姫路藩が官軍に恭順したとき、その使者に立ったのがこの人と亀山美和です。

森精次範景

森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
西澤枝次    六拾石 番方 若くして隠居
森伊野右衛門  五拾石 番方 海岸防禦 神護丸製造諸事肝煎元方兼勤 御進発御用掛

『不易流起請文』筆者蔵

起請文には12名が名を列ねた連名による一括提出。起請文前書は前回掲げた「六剋一如之放銃御傳授」と同一です。
この内二名の履歴が分っています。

 天保4年5月15日(1833)

笹沼留次資之
朝比奈勝吉利貞
利根川敬作景福
林平太郎信郷
清埜弥三二正生
原田笹吉言機

西澤枝次兼行 養父十右衛門は兼ての持病によって33歳の若さで養子を貰うことにして、三浦彦次郎の二男枝次を迎えます。これが天保2年7月のこと、枝次は17歳。同年12月養父の願いによって枝次が番代となります。これは養父の代理で勤めるというこでしょうか、養父は氣鬱の病いで出勤することもまゝならい状態であったと記されています。結局、養父は天保4年4月16日に隠居(この三年後に病歿)、家督は三拾石減らされ西澤枝次へ六拾石下されます。起請文を提出したのはこの一か月後です。家督の一年前に御城内外火之番を命じられ、その年に無邊流の数入身を行いました。天保7年に御在城中御次番、翌年無邊流の仮世話役となります。しかし、天保14年に痛症が悪化、実子もおらず養子をもらい隠居します。

原田益次章報
宇敷誠一郎陳戒
福嶋佳名蔵重遠

因陽隠士記す
2025.9.30

姫路藩不易流炮術の門弟-4

 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

前回は六代目師役へ提出した起請文について述べました。
今回は七代目師役へ提出した起請文について述べます。但し、一枚起請文の形式で提出されているため、いくつか紛失したことも考えられます、よって現存する史料のみ。

七代目師役の柴田権五郎は、文化4年4月17日より文政11年11月30日まで、22年間師役を勤めました。
五代目が14年間、六代目が7年間、八代目が5年間、九代目が4年間、十代目が23年間勤めており、各代の師役在任期間のなかでは柴田権五郎は長期に類しています。履歴については以前に記しましたので今回は省きます。

起請文は各人一帋づゝ提出しており、七名分現存しています。この七名について調べたところ、三名の履歴が分りました。尤も家臣録を精読すれば、某次男、某三男という記録が見当たるのではないかと思います。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

文化9年8月
 石川一兵衛政央 「御許容以前は」「許容状神文」

文化9年8月19日
 森五百八政鶴 「御許容以前は」
 根岸恒六直益 「御許容以前は」

文政2年3月
 岩松九右衛門重矩 「御許容以前は」

文政8年1月8日
 河合槌弥宗之 「六剋一如之放銃御傳授」
 福田市太郎繁茂 「六剋一如之放銃御傳授」
 石川平之丞正教 「六剋一如之放銃御傳授」

 文化9年8月(1812)

石川一兵衛は安永9年に亡父の跡式百石を下されます。前髪執の翌年、寛政5年に御主殿へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御供番、御在城中御近習御小姓、御鉄炮方時役などを勤め、文化7年に御鉄炮方を命じられます。起請文のときは此の鉄炮方でした。記録は文政3年まで。附けたり、父市兵衛は安永3年から同8年までの間、飾間津御蔵方、舩場御蔵方などを勤めていました。病没したとき、一兵衛は未だ若年であったようです。

文化9年8月19日(1812)

森五百八、此の人は不易流の九代目師役森助右衛門(旧五百八)の嫡子です。ちょうど此の起請文が提出された文化9年8月5日に届けを出して長吉改め五百八と名乗ります。文化5年袖附、文化7年前髪執、そして 文化9年不易流へ入門。後の文化13年に学問所検讀手傳となり、翌年出精との事によって褒美を下されます。また文政元年にもその方面に出精との理由で褒美を下されており、学問に熱心であった様子です。記録は文政3年まで。父の履歴は以前に述べた通りです。

 森助右衛門  百石 九代目師役

根岸恒六

文政2年3月(1819)

岩松九右衛門は天明5年に亡父の跡式(石高無記録)を下され御消火御番入りします。以降、御在城中御供番、御城内外火之番、御在城中御次番、道奉行代、道奉行時役、大目付役(助役)、御供・見分度々、奉行兼帯、*神戸四方之助出坂中奉行方相談、弐拾石加増、御物頭、大目付御免・奏者番兼勤、学問所肝煎、好古堂肝煎、御物頭役御免・奏者番一通り。起請文ときのは御物頭役・奏者番・好古堂肝煎を勤めていたようです。父九右衛門は室津御目付、御山奉行、病歿直近は御使番格となり御役人番へ御番入り。

文政8年1月8日(1825)

河合槌弥

福田市太郎

石川平之丞は先述の石川一兵衛の子だと思います。一兵衛の前名が平之丞でした。

 石川一兵衛  百石 御鉄炮方 御蔵方
 森五百八   九代目師役の嫡子
 岩松九右衛門 御物頭 奏者番

因陽隠士記す
2025.9.25

姫路藩不易流炮術の門弟-3

『不易流起證文』筆者蔵

     起證文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別而八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰可奉蒙
  立所者也

寛政十二庚申年
    閏四月廿一日  斎藤太助
             政利(判)

同年同月同日      大橋寛吾
             應喬(判)

寛政十三酉年正月十六日
            武友之進
             重僖(判)

同年同月同日      松崎市二
             昌樹(判)

同年同月同日     籠谷十郎兵衛
             高駕(判)

同年同月同日      塩山吉十郎
             善富(判)

同年同月同日      細野幸助
             信成(判)

同年同月同日      有馬武一郎
             勝許(判)

同年同月同日      三俣惣之進
             義武(判)

享和二戌年正月廿日  伊舟城久太夫
             景中(判)

同年同月同日      志水為景
               (判)

同年同月同日      杉幸八郎
             銃置(判)

同年同月同日      河合武八郎
             宗旭(判)

同年七月廿日      小川平内
             正大(判)

享和三亥年正月八日   磯田剛助
             勝宗(判)

同年同月同日      大橋覺太夫
             次元(判)

同年同月同日      原田伸吉
             高堅(判)

同年同月同日      鈴木整蔵
             守一(判)

同年同月同日      福田市太郎
             繁茂(判)

同年同月同日      清野源三郎
             政史(判)

文化三丙寅年正月八日  福嶋伊八郎
             元先(判)

この起請文は前回述べた大橋八郎次(このときの名乗りは角左衛門)の師役在任七年間に作成されました。21名の入門者が名を列ねています。この中の三俣義武という者は三俣義行の子にて、義行の娘と前師役前田十左衛門の忰又久が夫婦でしたから近しい親戚といえます。後に義武の子が十代目の師役となりますので、ずいぶん以前からそういった伏線が張られていたわけです(六代目大橋角左衛門は再従弟)。ちょっと話しが逸れました。今回もまたこゝに掲げた入門者たちの履歴を辿ります。21名のうち9名の履歴が分っています。人数が多いので掻い摘んで記します。(各人の役職は年代順に列挙してあります)

寛政12年閏4月21日(1800)

斎藤太助の家は、父皆右衛門の代に出奔者探索のため江戸より国元へ移住しました。寛政6年のことです、このとき大目付を免ぜられますが格式はそのまゝとのことでした。斎藤太助が家督を相続するのは不易流入門から二年後の文化2年、九拾石を下されます。以降、御城内外火之番、鉄炮方仮役、御鉄炮方福嶋善兵衛跡役、小笠原助之進次男岩蔵を聟養子とする、学問所肝煎、好古堂并稽古場肝煎出精褒美、宝山流柔術稽古世話役など。

寛政13年1月16日(1801)

籠谷十郎兵衛、跡式を相続したのは寛政5年のこと、二拾石減らされ六拾石下されます。以降、御城内外火之番、御次番、室津御番方などを勤めました。父は御代官、安永7年新知五拾石を下され吟味役(御役料四拾石)、大目付(御役料百三拾石)、御用米廻舩御用、林田領御加勢、町奉行(御役料十人扶持)など。

塩山吉十郎、父嶺右衛門のとき江戸より国元へ移住しました。不易流入門のときは父が健在にて御在城中御供番を勤めていました。殿様に随従する勤めが多かったようです。吉十郎が跡式を相続するのは文化8年のこと、百四拾石下されます。以降、宝山流時世話役、御城内外火之番、室津勤番、飾間津御番方、家嶋御番方、御小姓供番仮役、宝山流世話役など。

細野幸助、寛政9年(1797)に跡式米拾五俵四人扶持下され、御廣間御番入り。不易流入門のときは御在城中並御供番、同年2月御参勤御供。以降、御在城中並御供番、御武具方改立合、御勘定所立合年番、御作事年番元方兼勤、御作事立合年番、御勘定所年番、御城内外并御領中忍廻、天保4年東都物騒につき別手御人数として出張。御中小姓御取立、御作事立合元方兼勤、給人格、拾壱人扶持、御参府之節御供度々、弐人扶持加増、安政4年隠居。幸助は新規取り立てのため経歴は少々異例です。

有馬武一郎、跡式を相続したのは寛政6年(1794)、百石を下され御主殿御番入。以降、御城内外火之番、御在城中御次番、高砂御番、室津御番、御鉄炮方時役、大橋角左衛門跡御鉄炮方、京都御留守居仮役、好古堂掛り、稽古場懸り、倹約年番、好古堂年番、三拾石加増、御作事年番、御休所掛り、切手掛り、格式御鎗奉行、御舟奉行時役、石州御銀舩御用度々、御用米御上納御用御廻舩度々、二拾石加増、天保11年没。

三俣惣之進、先述した通り前師役前田十左衛門の親戚にして、息子が後の不易流十代目師役となります。三俣惣之進本人は武藝全般に長じた人で武官の中の武官と云えます、御物頭役にて鉄炮組を支配しました。但し、亡父遺言によって藩へ千両献金という少々謎の件もあってか、家禄を三百石から四百石に加増され、御物頭・勘略奉行・御取次の三役を兼勤。しかし後に「勤方御手薄役柄不似合之儀」とのことで百石を減らされます。不易流入門のとき18歳。亡父が家督を相続した二年後にあたります。

享和2年1月20日(1802)

小川平内、寛政5年(1793)に跡式を相続、弐拾石を減らされ弐百拾石を下され御書院御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御近習御小姓(このとき不易流へ入門)、御供度々、異国舩漂着之節御人数、御写物御用、御使番、学問所肝煎、好古堂肝煎など。父与惣左衛門は御小姓頭格御籏奉行、御勝手御用を度々勤めました。寛政4年のこと、本来の嫡子が急死した為、長沢源十郎方へ養子に出していた三男平内を熟談のうえ引き取り嫡子とします。

享和3年1月8日(1803)

大橋覺太夫、寛政3年(1791)に家督を相続、五拾石減らされ百弐拾石を下されます。父郡蔵は隠居前、御城内外火之番、御門固などを勤めていました。覺太夫もまた本起請文のとき御城内外火之番。以降、御在城中御次番、御城内外火之番、室津御番所御目付、家嶋勤番など。

鈴木整蔵、跡式を相続するのは文化2年(1805)、六拾石を下されます。本起請文のときは父小右衛門が健在にて御城内外火之番を勤めていました。それ以前は御在城中御次詰、御主殿御番入り、高砂御番、室津御番、飾間津御蔵方、下三方御蔵方、高砂南御蔵方、御用米御蔵方、室津御目付など。整蔵もまた父と同じく御城内外火之番にはじまり見分御用を度々勤め、飾間津御蔵方、室津御番方、高砂御番方、籾米御蔵御用など。

以上、判明している者たちの経歴をまとめると斯うです。以前の者たちも足しましょう。

下田與曽五郎 百四拾石 番方 御中小姓組格御舩奉行 四代目師役の養子
本多悦蔵 五両三人扶持 急死 父は蔵方
森五百八     百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
林源蔵      百石 番方 蔵方 御番所御目付

前田十左衛門 百七拾石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

斎藤太助    九拾石 番方 学問所・好古堂肝煎
籠谷十郎兵衛  六拾石 番方 町奉行
塩山吉十郎  百四拾石 番方
細野幸助  拾三人扶持 給人格
有馬武一郎  百弐拾石 御鎗奉行 御舟奉行など
三俣惣之進   三百石 御物頭鉄炮組 十代目師役の父
小川平内   弐百拾石 御小姓頭格御籏奉行 番方 御勝手御用
大橋覺太夫  百弐拾石 番方
鈴木整蔵    六拾石 番方 蔵方

皆、嫡子であることが大きなポイントで家中においてそれなりに身分の高い士たち、番方に属する者が多いのも特色です。炮術の性質から鉄炮組はもちろんですが、舩や港の番方を勤めるのも無関係ではないでしょう。番方とか蔵方とか暫定的にそう呼称しているだけで、以後門弟たちをさらに調べ職制と照らし合わせて考えようと思います。
格式についても詳しく知りたかったのですが、家臣録は断片的な情報しか得られず、さらに史料を調べなければならないと気が付きました。

本起請文が提出されたころ、大日河原に於いて殿様が不易流を御覧になりました。御覧は一大行事ですから、その時々の情報が記録されています。下記は享和1年4月27日(1801)の記録です。翌年に起請文を提出する伊舟城久太夫・川合武八郎・磯田剛助などが既に不易流の行事に参加していることを確認できます。これはちょっと意外でした。考えを改めてみると、こゝに掲げた起請文は入門時のものではなく、流派内の何かしらの階級に昇進したときに提出するものかもしれません。そうでなければ、このような行事に参加できる技術を習得する期間の説明がつかなくなります。

享和元酉年四月廿七日於大日河原
殿様 御覧扣

   抱放鏃矢
三拾筋   萩原貫太夫
弐拾筋   福嶋善兵衛
三十入箇 矢八本
大火箭   大橋角左衛門

   御意ニテ放
拾筋    笹沼團六
      伊舟城久太夫
弐拾筋   有馬武一郎
      籠谷十郎兵衛
三拾筋   武 友之進
弐拾筋   三俣富之進
三拾筋   塩山吉十郎
      宇野左馬蔵
      川合武八郎
拾筋    松崎市二
      志水百助
三拾筋   齋藤太助
      森 長吉
拾筋    磯田剛助
同     細野幸助
三拾筋   大橋官吾
      三俣惣太夫
      下田源太夫
      福嶋善兵衛
      森 助右衛門
      林 郷太夫
      萩原貫太夫
 右之通書上候扣
     大橋角左衛門

大日河原に於いて抱放鏃矢を行ったのは高弟の面々です。

萩原貫太夫は四代目師役に免許を傳授された古参の門弟。三年後に世話役となりますが、その二年後に病死します。『家臣録』では安永以前の記録が分らないため想像ですが、酒井家の慣例として「貫太夫」の名乗りは一貫目放を御前において成功させるなどの実績がなければ名乗れなかったはずです。おそらく炮術に熟練した人物なのでしょう。

福嶋善兵衛は当時、百四拾石 御武具方本役、それまでは御城内外火之番、道奉行など。父の福嶋市郎兵衛は三代目師役の高弟でした。

大橋角左衛門とは六代目師役、前回述べた大橋八郎次のことです。

萩原貫太夫 拾五俵五人扶持 閉門・病気 不易流世話役
福嶋善兵衛  百四拾石 御中小姓組頭御取次兼勤
大橋角左衛門 百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方

因陽隠士記す
2025.9.25

姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

姫路藩真下貫兵衛の金赦し

宇田川武久氏の著書『江戸の炮術―継承される武芸』に「姫路藩真下貫兵衛の金赦し」と題された項がある。
そのまゝ引用するわけにはいかないので、こゝでは要点のみを述べよう。
(1) 土浦藩の関流炮術師範関家へ入門した姫路藩士真下貫兵衛の稽古日数が短いにもかかわらず赦状と捨傳書を伝授されたこと
(2) その謝礼が多額であること
宇田川武久氏は上記二点を根拠として、真下貫兵衛は金赦しであるとされている。

私は姫路藩の炮術について調べている最中であり、その一連の作業のなかで同書に目を通した。そして思った、この項については全くの誤解である、真下氏の名誉のためにもこの誤解を明らかにしておこうと。

真下家

そもそも姫路藩士 真下貫兵衛の家柄とはどのようなものか。『姫路藩家臣録』を元にその履歴を追う。

祖父 真下藤兵衛は安永8年(1779)御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、そのほか諸役を勤め寛政4年(1792)隠居。(※御持筒組とは藩主直属の鉄炮足軽隊)

父 真下政太夫は天明2年(1782)藤兵衛と同様に御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、寛政4年(1792)舩手之者鉄炮稽古世話に転じ、家督(2人扶持 組外)を相続、御土蔵御番入。その後は諸役を勤めつヽも舩手之者へ鉄砲を指南、享和1年(1801)他の役務に差し支えるときは息子真下貫兵衛(当時は幸助)を稽古世話に立てるべき命があった。結局、真下政太夫が舩手之者鉄炮稽古世話の任を解かれたのは文政3年(1820)のこと、およそ38年間師範を勤めた。

真下貫兵衛は先にも記したように享和1年(1801)には舩手之者鉄炮稽古世話を手伝うようになり、文化2年(1805)5月20日に舩手鉄炮稽古指南見習となり、文化4年(1807)4月29日には大日河原において壱貫目鉄炮角前を藩主の御覧に入れ”貫”の文字を授与される
そして同年5月11日この壱貫目玉鉄炮の放方の功績によって弐人扶持下され御徒士格として召し出された。

以上、問題とされた関家入門までを掻い摘んで記したが、このように履歴を確認できる祖父 真下藤兵衛父 真下政太夫真下貫兵衛と三代にわたって、鉄炮足軽を指南する稽古世話の師範職を世襲している。真下貫兵衛に至っては見事壱貫目放方を御覧に入れ二人扶持を下され御徒士格に召し出された(これは家督を相続する以前のことで、純粋に彼の功績による)炮術を家業とする家柄である。
それと、姫路藩において足軽指南は従来より関流で統一されていたことを考え合わせれば(*1)、真下氏は姫路藩において従来より行われていた小屋関流または野口関流を学んでいたことは明白である。
つまり、真下貫兵衛は関家へ入門する以前から、関流炮術について少なくとも六年以上の修錬を積み、且つ指南する立場としても経験を積んでいた。(いつの頃から修行を開始したのか記録には見えないので、父政太夫の手伝いを命じられた年を下限とする)

入門から相伝

さて問題とされた関家への入門から帰国までの動向を各書より一部抜粋する。

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化4年(1807)7月朔日の真下政太夫・真下貫兵衛の両人である。
酒井雅楽頭様の御家来真下貫兵衛・真下政太夫のふたりが炮術に入門したいと同藩の御留守居役を通して、(土浦藩の)御留守居にいってきた。自分は入門を許したいので、このことを月番の又兵衛殿と列座にうかがった。十五日の朝、治兵衛から手紙で酒井衆両人の入門は支障がないから、入門の日取を取り極めるように申してきた。十八日のそこで都合がよければ、御前十時こと、こちらに出かけるように酒井衆に申し遣わした。
なお、十八日の条にふたりが肴代二百疋を持参して入門の手続が終った、とある。

『姫陽秘鑑』
一、文化4年(1807)7月28日土屋相模守様御家来関内蔵助方江炮術入門被 仰付、同年8月2日より御客箭繰方忰貫兵衛江被 仰付、右手伝ニ罷出候ニ付御肩衣被下置、右之節着用仕相勤申候

『姫陽秘鑑』
一、同年同月21日奥於 御居間、壱貫目玉鉄炮繰方被仰付入 御覧候処御小袖被下置、其上貫叟之実名御直筆ニ而拝領仕候

『姫路藩家臣録』
文化4年(1807)9月11日御参府御供ニ罷出候処、御客前薬方度々相勤、諸家様へも罷出候ニ付御家中諸藝励二も有之候間、格段之 思召を以並御供番格被 仰付、金四両三人扶持被下置候、10月4日爰元ニ罷在候内奥御番方被 仰付候-同7年8月17日奥番御免

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化6年(1809)12月11日真下貫兵衛へ赦状と捨傳書が傳授される。相傳の謝礼として関内蔵助信貞に金千疋、関昇信臧に金二百疋、信貞の妻に金五百疋、家来二人に金二朱を贈る。
文化7年(1810)7月30日炮術稽古の打納めに出席、真下貫兵衛250目玉・100目玉を放つ。
文化7年(1810)8月17日真下貫兵衛、国許に帰るので関家へ挨拶に行く。

以上を踏まえた上で話しを進める。
壱貫目放方を見事御覧に入れ扶持を下された真下貫兵衛は、その二ヵ月後、藩主の江戸出府の御供となりそこで土浦藩の鉄炮師役 関内蔵助へ入門する。「真下政太夫忰貫兵衛大筒繰方被仰付候事(『姫陽秘鑑』)」
文化4年(1807)7月に入門した真下貫兵衛は文化6年(1809)12月に赦状と捨傳書を伝授された。つまり彼が享和1年(1801)に舩手之者鉄炮稽古世話手伝となってから八年後のことである。無論、家元とも云うべき関家での修行と、国元に従来より伝承されている分派の小屋関流・野口関流では修行の程度に少しく違いがあるとは思う、しかしこの両派は素より関家に学んだ分派であるから、一から修行をし直す必要はなかっただろう。

稽古日数

さて、宇田川氏は著書の中で、真下貫兵衛が入門から二年で伝書を相傳されたことについて「貫兵衛の稽古の年数は足りないから、これはまさに金赦しといわざるをえない」と述べられている。たしかに通常の入門であれば、たったの二年で傳授されるものではない。
しかし、先述のごとく真下貫兵衛は関家入門以前から姫路藩内で関流を修行しており(*1)、且つ壱貫目放方の功によって召し出されたほどの人物であったから、この点を考慮すれば入門二年で傳授されて然るべき技倆は充分に備えていたと考えられる。藩内において修行し、後に他家の士に入門して短期間で免状・印可を傳授されることは珍しいことではない。

謝礼

又、謝礼について宇田川氏は横田平内・近藤亘理助の謝礼額と比較して「これが常識の範囲とすれば、いかに貫兵衛の謝礼が高額であったかがわかる。」との見解を示されている。
なるほど、比較に提示された両者は三百疋、真下貫兵衛の謝礼は千七百疋を超える。内訳を見ると、関内蔵助信貞に金千疋、信貞の妻に金五百疋、関昇信臧に金二百疋、そして周辺人物にもいくらか渡した。当時の事例とくらべて異常に高いということはない、最大限に礼を尽した結果だと思う。これら進物の額は右記の通り、金千疋=金2両2歩、金五百疋=金1両1歩、金二百疋=金2歩。

おわりに

結局、真下貫兵衛の履歴の有無が、宇田川氏の判断を誤らせたのではないかと思う。且つ姫路藩で主流を占める関流の存在はあまり取り上げられていないので、その点も見落とされていたのかもしれない。
その不十分な条件をもとに真下貫兵衛を金赦し扱いにされたことは残念でならない。真下氏にもおそらく子孫の方々がいることだろう、金赦しと云われて何を思うか、察するに余りある。また、関家においても金銭にかえて家伝の大切な流義の伝書を与えたとあっては不名誉なことではないか。
先述のとおり真下貫兵衛は金赦しではない、藩内において関流を修行し壱貫目玉を見事に放す技倆を備え、その後で関家へ入門しその修行のほど、技倆のほどを認められたからこそ赦状と捨傳書を伝授されたのだ。

*1 姫路藩ではその当時、小屋関流、野口関流が行われていた。この両派はもともと元禄のころに、土屋相模守家来 関軍兵衛の世子であった三俣惣太夫(世子のときの名乗りは伝えられていない)が酒井家中で関流を教えたことに始まる。そして小屋幸太夫、野口磯太夫の二人は三俣惣太夫に関流を学び、次いで土屋家の関軍兵衛に学んだ。その後両者が足軽の鉄炮指南に抜擢されたことで、酒井家の軍制は関流を基礎とするようになる。

参考資料
. 『江戸の炮術―継承される武芸』宇田川武久著
. 『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
. 『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
因陽隠士記す
2016.7.13

井上外記正継:井上流小筒構堅之圖巻

今回は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術の伝書

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13

伊勢流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡 一卷 帋本墨書 18.0 x 123.3 cm 慶長九年正月朔日付 筆者藏

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡. Edo period. dated 慶長 9 (1601).
Hand scroll. Ink on paper. 18.0 x 123.3 cm. Private collection.

● 毛利伊勢守藤原朝臣高政・・・本名友重。姓藤原氏。字九郞左衞門。從五位下伊勢守。豐臣秀吉に仕え後豐後佐伯藩の初代藩主となる。伊勢守流炮術の祖。
因陽隱士
令和七年三月十一日編

井上流二卷

井上流威風提擊構堅之圖

井上流威風提擊構堅之圖 一卷 帋本墨書 19.4 x 334.0 cm 寬永三年六月日付 松平家舊藏 筆者藏

井上流威風提擊構堅之圖. Edo period. dated 寬永3 (1626).
Hand scroll. Ink on paper. 19.4 x 334.0 cm. Private collection.

井上流小筒構堅之圖

井上流小筒構堅之圖 一卷 帋本墨書 22.3 × 845.1 cm 寬永三年六月日付 松平家舊藏 筆者藏

井上流威風提擊構堅之圖. Edo period. dated 寬永3 (1626).
Hand scroll. Ink on paper. 22.3 × 845.1 cm. Private collection.

● 松平家舊藏文書.卷子裝.原裝:藍色地に三つ葉葵紋草花散文樣金襴の表裂.元は御三家舊藏歟.
● 小筒構堅之圖・・・類本を見ず井上流草創期のものか.正保三年に著される『調積集』の圖示と考えられる.
● 井上外記正繼・・・池田輝政公の臣井上正俊の子.祖父は豐臣秀吉公の臣にして播州英賀の城主井上正信.大坂兩度の陣に戰功あり.將軍德川秀忠公・家光公に仕え.屢々御銃砲を製して獻上する.寬永十五年御鐵炮役となり智行千石.正保三年九月十日歿. 當文書の二ヶ月前.寬永三年五月.將軍德川秀忠公の上洛に隨從す.
因陽隱士
令和五年十二月十八日編