櫛渕不争軒 1819~1869
文政二年四月廿九日一橋家御徒目付筆頭 櫛渕宣猶の次男として生れる。通称は長次郎、弥吉、太左衛門と改める。諱は盛宣、號は不争軒。
一橋慶喜公、一橋茂榮公に仕え、都合十九年の御奉公。主に御番方として御番・御警衛を専らとし、慶喜公二度の上洛に警衛を勤めました。その実績に依って一橋家の軍制改革が進むにつれ、陸軍御取立御用取扱、歩兵差圖役頭取勤方 兼歩兵組頭役を経て、教衛隊頭取を勤めるようになります。また、その傍ら父祖伝来の神道一心流剱術・戸田流薙刀を一橋家に於いて指南しました。また、家伝の兵法のみならず、水練の達者であり、拳法も修めました。特に薙刀の名人であったと伝えられています。明治二年十月廿八日病歿、五十一歳。
櫛渕不争軒年譜

文政二年四月廿三日 | 櫛渕虚中軒、歿す |
文政二年四月廿九日 | 一橋家 御徒目付筆頭 櫛渕宣猶の次男として生れる |
文政十一年 | 湯島天満宮へ奉納閣 |
文政十一年 | 王子稲荷へ剱術薙刀奉納閣 |
文政十二年十二月十六日 | 父宣猶、下谷山下八軒町(御徒小野左太夫組太田竜之進地の内家作)へ引越す |
文政十三年三月二日 | 父宣猶、和泉橋通十番組御徒小川重兵衛地の内御普請役村上量平家作を譲り受ける 三月七日引越す |
天保二年 | 薗原騒動 |
天保三年八月十四日 | 父宣猶、薗原騒動の一件にて外聞を失った為、田安家に仕える上田重次郎所持の谷中三崎六阿弥横町地面の内百姓地三百坪余を譲り請ける 八月廿六日下谷和泉橋三枚橋より引越す |
天保五年十一月十三日 | 奥口御番並であった従弟 櫛渕重太郎が病氣に付き永の御暇を申し渡され、代って厄介養育のため御物頭組同心へ御抱え入れを申し渡される |
天保六年二月七日 | 長男斧太郎、浅草一件を起す |
天保六年二月晦日 | 長男斧太郎、願いによって病氣に付き御番御免、父へ御戻しを仰せ付かる 七月廿一日失踪 九月二日着の後閑よりの書状によれば、宣猶の許から忽然と姿を消した斧太郎は八月二日まで後閑に滞留し、それから越後岡之町へ移った由、その際稽古道具や着物などを与え、繁野代作(繁野は櫛渕氏の旧姓)と改め微塵流と名乗るよう申し付けた由 後ち天保七年後閑よりの書状によれば、斧太郎は要助と称し岡田勘右衛門家を相続の由 |
天保八年四月十一日より | 父宣猶、傷寒にて大難渋、九死に一生 同月廿七日長男斧太郎見舞いに来り看病、五月十三日出立帰村 その頃より宣猶の病氣快方に趣く |
天保九年四月廿八日より | 長男斧太郎、勘当される 八月十一日斧太郎召し捕えられ入牢、盗賊火附方改落合長門守より身許の問い合わせ来る、武士道に有る間敷き働きにつき死罪の処、久離勘当の届けによって御咎も軽く済むも十月十一日斧太郎病死 |
天保九年十月廿九日より | 父宣猶の願いによって、長次郎病氣に付き永の御暇を下され、厄介養育の為母方従兄弟 祖谷和助へ御番代を仰せ付かる |
天保十年四月八日 | 父宣猶、長次郎を惣領とする届けを出す |
天保十二年六月廿七日 | 父宣猶、一橋家早稲田御屋敷内 堅田吉十郎より家作を譲り請ける 八月七日・八日・十一日谷中三崎より引越す |
天保十三年三月二日 | 武術御覧あり、父宣猶の打太刀を勤め、父より金弐朱を遣わされる 三月二日 慶壽、邸臣の鎗術・剱術・柔術・薙刀・居合・棒術を覧る。(番頭用人日記) |
弘化五年八月三日 | 須崎長命寺下にて馬川渡し御覧を勤め、同月十五日銀二枚を下される 八月三日 慶喜、須崎村長命寺下にて邸臣の水馬・水泳を覧る。(用人部屋「嘉永日記」) |
嘉永三年十一月廿一日 | 門弟弓術御覧あり、皆中に付き郡内嶋一反代金弐百疋を御馬場に於て下される 十一月廿一日 慶喜、外庭馬場に於て部屋住の者の武術を覧る。(番頭用人日記) |
嘉永三年十一月廿六日 | 釼術薙刀御覧あり、御好みに付き釼術仕合仕る 薙刀打太刀は父宣猶、釼術打太刀は今村鏡次郎が勤める 父宣猶へ郡内嶋一反代金弐百疋を下され、又御好みを勤めたことで御鼻紙代金五拾疋を下される 十一月廿六日 慶喜、外庭馬場にて部屋住の者の武術を覧る。但、二男以下及び目見以下の者の子は透見の體をとる。(番頭用人日記) |
嘉永四年八月二日 | 一橋慶喜公大川筋へ入らせられ馬川渡し御徒水泳御覧あり、同月十一日御褒美として白銀二枚を下される 八月二日 慶喜、大川筋に遊び、須崎村長命寺下に於て邸臣の水馬・水泳を覧る。(番頭用人日記) |
嘉永四年十月八日 | 父宣猶数年精勤により、新規に召し出され小十人組見習過人を仰せ付かる、御扶持方五人扶持下される 33歳 |
嘉永五年十一月十日 | 父宣猶、歿す |
嘉永六年七月 | 跡式相続 35歳 |
安政二年十二月 | 小十人組を仰せ付かる |
安政五年十一月十一日 | 御書院番並過人を仰せ付かる 40歳 |
安政六年二月廿二日 | 大火によって牛込早稲田町の道場が類焼する 今暁青山辺より出火、一橋邸早稲田・大久保抱屋敷類焼す。(番頭・用人日記) |
安政六年四月八日 | 桜井鋋之丞地の内 深田吉右衛門の家作を譲り請ける 同月十六日引越す |
安政六年十二月廿六日 | 御書院番を仰せ付かる |
文久二年五月 | 書院番櫛渕太左衛門に剣術・薙刀の師範を命ず。(御手前書付留) |
文久二年九月 | 御上京御供を仰せ付かる |
文久二年十二月 | 御上京御供 京に於て慶喜公諸々へ御出の節御警衛、及び御殿の御番を勤める |
文久三年五月八日 | 江戸に帰着 |
文久三年七月廿三日 | 御徒頭を仰せ付かる |
文久三年七月廿四日 | 御上京御供を仰せ付かる |
文久三年八月廿六日 | 陸軍御取立御用取扱を仰せ付かる |
文久三年九月朔日 | 釼術教授方を仰せ付かる |
文久三年十月十一日 | 御稽古所にて教授方・世話心得の三本勝負あり、勝利に付き翌十二日小菊壱束・大小御下釼・御扇子を拝領する |
文久三年十月廿一日 | 鎗釼方頭取を仰せ付かる |
文久三年十月廿六日 | 一橋慶喜公御發駕、上京に御供し御警衛を勤める 45歳 |
元治元年三月廿八日 | 江戸表諸士槍釼見分御用を仰せ付かり、四月十二日江戸着 四月十三日 槍剣方警衛士を壹番床机隊と改称し、水戸家より附けられし警衛士を貮番床机隊と唱ふ。(御手前書付留) |
慶應二年九月七日 | 両御番格歩兵差圖役頭取勤方・兼歩兵組頭役を仰せ付かる |
慶應二年十一月廿三日 | 一橋家、稽古所御開 十二月十六日稽古所御開後骨折に付き銀三枚を下される |
慶應三年五月廿一日 | 奥御馬場にて野仕合御透見あり、一統へ砂糖五斤を下される |
慶應三年六月十九日 | 御廣敷御用人格を仰せ付けられ、釼術師範格別骨折に付き年々銀五枚つゝ下される |
慶應三年十一月廿二日 | 去る六月十五日拝借の御銃を返納する |
慶應四年二月廿七日 | 御廣敷御用人格教衛隊頭取を仰せ付けられ、御役金拾両を下される、釼術師範役是迄の通り 50歳 二月廿六日 一橋邸軍制を改編し、教衛隊・大砲方・銃隊を編成し、諸役よりの轉役を以て頭以下隊員を任命す。此日より廿八日に至る。(番頭・用人日記・支配向被仰渡書付留) |
慶應四年三月 | 一橋玄同公東海道へ入らせられるに付き御供を仰せ付かる |
明治二年二月廿三日 | 師範役格別骨折、修業人教授も行届に付き取米弐百俵・御手當銀五枚・外御手當銀並の通り下される |
明治二年二月廿三日 | 小石川におゐて野仕合あり |
明治二年三月廿二日 | 小石川御屋敷におゐて誠順院様・徳信院様野仕合御透見あり、一統へ振飯御煮染付折詰、弐朱充下される |
明治二年四月七日 | 小石川中隊運動後野仕合あり、弁當料三匁つゝ下される |
明治二年五月二日 | 小石川野仕合俄かに御両方様御透見あり、砂糖を下される |
明治二年八月廿五日 | 一橋家、佛式銃隊御開 |
明治二年九月十三日 | 惣髪御届を出す |
明治二年十月廿八日 | 朝俄かに不快、御殿当番御醫師小原昇春、卒中にて最早致し方もなしと診断、御近所御醫師糟川袋庵も同断 病歿 51歳 |
明治二年十二月十三日 | 養子重之助(一橋家近習鈴木政之丞の子)、櫛渕家に引き移る 同月十五日勤め向き是迄の通り仰せ付かる |
明治三年三月三日 | 養子重之助、家督を相違無く下し置かれ、教衛隊指揮役を命ぜらる 21歳 |
神道一心流の道場移転歴

神道一心流櫛渕家の道場は幾度も移転しました。こゝでは道場移転の足跡を記録によって辿ります。

寛政二年三月 | 1)小石川 |
寛政四年二月 | 2)下谷御徒町 (現在の台東区一丁目西辺) |
文化三年三月 | 3)小川町広小路 (現在の上野二丁目・四丁目辺) |
文化十二年六月 | 4)下谷三味線堀 (現在の小島一丁目の西辺) |
文政十二年十二月 | 5)下谷山下八軒町 (現在の東上野二丁目の北西辺) |
文政十三年三月 | 6)下谷和泉橋三枚橋 (現在の御徒町台東中学校の北西辺) |
天保三年八月 | 7)谷中三崎六阿弥横町 (現在の谷中霊園辺) |
天保十二年八月 | 8)牛込早稲田 (現在の早稲田駅辺) |
安政六年四月十六日 | 9)牛込山伏町 (現在の市谷小学校の地) |
明治五年六月朔日 | 10)牛込山伏町 (道場を改築し私学育幼舎となる) |

初代櫛渕虚中軒が江戸に出た当初、1)寛政二年三月小石川に於て嶋田甚五郎の長屋を借りて取り敢えずの稽古場としました。
そして二年を俟たず、2)寛政四年二月下谷御徒町に稽古場を普請しこゝへ移轉します。
しかし十五年後の大火によって類焼した為、3)文化三年三月小川町広小路に轉居し、文化四年正月から稽古を始めます。
それから八年後、4)文化十二年六月下谷三味線堀へ移転。これは地主の川村安之丞の求めによって地面を返す為であったとされています。

文政二年に虚中軒が歿し、二代目宣猶の代となってから十年が経った5)文政十二年十二月太田竜之進(御徒小野左太夫組)より下谷山下八軒町の家作を譲り請け道場を移轉します。このとき道場の普請や諸々の費用を含めて三十八両掛りました。
しかし僅か三ヶ月後、6)文政十三年三月二日御普請役村上量平より下谷和泉橋通の家作を譲り請け、同七日移轉します。このときは六十二両掛りました。
ところが落ち着く間もなく二年後、薗原騒動の一件にて外聞を失い人氣のない田舎(宣猶云う処の)へ引っ越します、7)天保三年八月十四日田安家に勤める上田重次郎より谷中三崎六阿弥横町の地面の内百姓地三百坪余家作共に譲り請け、同廿六日移轉。


この地に於て宣猶は重度の傷寒を患い急死に一生を得ます。
この病中に認めた遺言書によると、どのような考えを以てこの地へ移転したのか分ります。宣猶曰く「我等儀、ヶ様の所へ引き移り候存念もこれ無く候へども、薗原一件にて外聞を失い、其の上轉役仰せ付けられ、甚だ面白くもこれ無く、右に付き暫くの内田舎住居致すべく存じ此処へ参り候処、稽古に参り候者も辺鄙故これ無く、所地者増々禄盗人斗りにて稽古致すべく候者これ無く候、追て都合次第、今少し賑か成る処へ轉宅、稽古初められ候様致したく候」と。
一時は遺言書まで認めるほどに危うかった宣猶ですが、追々快方に向い自ら道場の移転を果しました。
8)天保十二年六月廿七日一橋家早稲田御屋敷内 堅田吉十郎より牛込早稲田の家作を譲り請け、八月七,八,十一日移転。

それから十八年の歳月が経ち、三代目不争軒のとき、9)安政六年二月廿二日大火によって早稲田の道場が類焼した為、四月八日やゝ南に位置する牛込山伏町の家作を深田吉右衛門より譲り請け、同十六日この地へ移轉します。
尤も稽古道具等も焼けてしまった為、稽古が始められたのは翌年の萬延元年四月五日のことでありました。このとき七十一人が出席したと記録されています。
これ以降道場は移轉されず、四代目宣秀のとき、10)明治五年六月朔日道場を改築し私学育幼舎を開いたとされています。明治六年幼童学舎と改め、そして明治七年第三中學四番小学市谷学校となり、これが後に市谷小学校になったとのことです。
五冊の不争軒史料

慶喜公が一橋家を相続した四年後、櫛渕不争軒は三十三歳のとき新規に召し出され「小十人組見習過人」を仰せ付かります。
その翌年に父宣猶が病歿し、次の年には「跡式」を相続、「小十人組」を経て後ち、安政五年十一月「御書院番並過人」、安政六年十二月廿六日「御書院番」を仰せ付かります。この時不争軒四十一歳。「御書院番」は曾て父宣猶が晩年の格式であります。
扨て、櫛渕不争軒が「御書院番並過人」を仰せ付かった安政五年の正月から明治二年の十月まで、現存する五冊の史料によって不争軒の日々の勤務状況等を知ることができます。これは不争軒自身の筆による日々の記録です。
これらに目を通すと、不争軒の主たる御奉公は主君の御警衛あるいは御番方、与けられた組士たちの支配でありました。順を追って史料を挙げ、若干の説明を附して行きます。

一冊目の『諸覺留』は、安政五年正月元日より萬延元年十二月廿七日までの出来事が記録されています。
幕末の動乱真っ只中であり、井伊直弼が大老職に就任、水戸の徳川斉昭公(慶喜公の実父)の永蟄居、一橋慶喜公の登城見合せ処分、戊午の密勅、日米修好通商條約、将軍徳川家定公の薨去、徳川家茂公の将軍宣下、安政の大獄による一橋慶喜公の隠居謹慎、桜田門外の変、徳川斉昭公の逝去、一橋慶喜公の謹慎御免等々、世間は騒然としておりました。
この時期の不争軒は、道場が大火によって類焼し移転を余儀なくされます。また、「小十人組」から「御書院番並過人」となり、「御書院番」へと出世しました。

二冊目の『御上京御供諸覺』は、文久二年九月八日より元治元年三月廿一日まで。
その題名が示す通り、一橋慶喜公の御上京に御警衛のため御供した際の記録です。御書院番であった不争軒は、御上京に御供した士分の者五十二人の内の一人に数えられます。着京後、年が明けると御駕籠臺前にて稽古を命ぜられ、慶喜公の御透見がありました。平時は、慶喜公が処々へ出掛ける際の御警衛を勤めるなどしました。
この記録の直前に、慶喜公は勅諚により将軍後見職となり、一橋家を再び相続しました。そして上京し、京都において朝廷と攘夷問題について折衝し、一旦江戸へ帰ったあとに再び上京します。この二度目の上京に関する記録は、次の『勤用覺留』とやゝ重複します。

三冊目の『勤用覺留』は、文久三年七月廿三日より慶應元年八月丗日まで。
再び上京した一橋慶喜公は長州問題について取り組むも参豫会議を瓦解させ、禁裏御守衛総督・摂海防禦御指揮に任ぜられ、禁門の変、天狗党の乱などに対処します。またこの頃、一橋家において西洋式への軍制改革が行われました。禁門の変にて実戦を経験したことが主たる原因でしょう。
この間、不争軒は「御徒頭」になり、二度目の御上京御供を仰せ付かり、次いで「陸軍御取立御用取扱」「釼術教授方」「鎗釼方頭取」を仰せ付かり、慶喜公の御上京に御供します。
先年に御供した際は組頭の支配下にある一人の士として御警衛を勤めましたが、今度は数名の士を支配する組頭として同役の組頭と連携し御警衛を勤めました。御上京に御供した組は三組にて、不争軒はその内の一組を与っておりました、不穏な情勢下の京都に於ては重要なる御役目です。
しかし、その滞京中俄かに「江戸表諸士槍釼見分御用」を仰せ付かり、江戸へ舞い戻って「諸士撰」を担当することになります。この間の記録は次の『御用日記』にあり。そして、その後の江戸に於ける記録へと移ります。余談ながら、大変が発生する直前に京都を離れてしまったことで、不争軒は御番方として活躍する絶好の機会に居合わせず、その後の京都に於ける一橋家の軍制改革からも外れてしまいます。これについて不争軒の門人千葉鶴鳴が後年語るには、一橋慶喜公の行き過ぎた西洋かぶれを不争軒が直諫したことによって勘気を蒙り江戸に戻されたのではないかという噂話を耳にしたそうです。実際のところを考えると、元治元年三月二十五日一橋慶喜公が「禁裏御守衛総督・摂海防禦御指揮」の任に就いたことによって、遽かに人材を補充する必要に迫られ、不争軒に「江戸表諸士槍釼見分御用」を命じて江戸に帰したのだと思われます。西洋かぶれの直諫云々は記録上には見られず、たとえそのようなことが有ったとしても、それであたら有為の人材を遠ざけるような人物だろうか?と疑わしいです。

四冊目の『御用日記』は、元治元年三月廿八日より元治元年十一月六日まで。
先の『勤用覺留』の期間内ながら、「江戸表諸士槍釼見分御用」を仰せ付かったことから別に分けて作成された記録です。
「江戸表諸士槍釼見分御用」とは、一橋家に限らず武藝に長けた士を見付け登用することを目的とした「諸士撰御用」であります。これは、京都に於ける一橋家の人材不足を補うためであったと考えられます。丁度同じころに、渋沢成一郎・渋澤篤太夫(栄一)が「人撰御用」を仰せ付かっています。
「諸士撰」のため不争軒は様々な人々と面会し交流します。どのようなことを相談したのか詳らかではありませんが、その中には名の知られた柳剛流の岡田十内、北辰一刀流の真田範之助・梅原鉄之助と云った人物も見受けられます。尤も、この「人撰御用」は京都の方から度重なる延引を命ぜられ、結局沙汰止みとなってしまいました。

五冊目の『勤用之覺』は、慶應元年九月三日より明治二年十月廿四日まで。
第二次長州征討、将軍徳川家茂公の薨去、玄同公の一橋家相続、主上(孝明天皇)崩御、新帝(明治天皇)践祚、一橋慶喜公の将軍宣下、大政奉還、戊辰戦争、御一新、歴史の大きな転換期に位置するこの記録が不争軒最後の筆です。
「人撰御用」が不首尾に終わった不争軒は江戸に居続けとなり、京都の変動とはちょっと距離を置いた日常をしばらく過します。将軍徳川家茂公が薨去し、京地に於ける一橋家の戦力が幕府へ委譲された翌月の慶應二年九月、不争軒は「歩兵差圖役頭取勤方」兼「歩兵組頭役」となります。
また、茂榮公が一橋家を相続するや、「御廣敷御用人格」へと出世し、慶應四年二月に行われた軍制改革では「教衛隊頭取」を仰せ付かります。この直後、徳川慶喜公に寛大の処置あらんことを官軍へ嘆願するため、茂榮公が東海道へ下るときの御警衛を勤めました。以後は、主に新政府に恭順したことで生ずる種々の変化に対応し、教衛隊頭取として隊士の管理に努める日々を送ります。
神道一心流釼術・戸田流薙刀道場掟

神道一心流釼術・戸田流薙刀道場掟
一、抑(そもそも)当流の儀は、忠孝・五常の道を守り、御修行これ有るべき事肝要なり
一、不倫貴賤先輩を重んじ、禮義正しく致さるべき事
但し、稽古の儀、差至る順に成さるべき事
一、道場に於ひて世上の雑談、他流の善悪、無益の説話禁制の事
一、仕合の儀は相互に励み合ひ稽古成さるべく候、併せて勝負の異論これ有る間敷く、尤も先後を分かち、唯一心に御修行成さるべく候事
一、他流仕合の儀、猥りに致す間敷き事
一、帯釼の儀、長短・軽重はその身の手に応じ候品相用ひ、拵の儀は流義に順じ御吟味これ有るべき事
一、当流甲冑着用并びに当身殺活等の儀は御出精次第、追々御伝授申すべき事
一、御相伝申し候口傳は勿論、意味等の義、他言これ有る間敷き事
一、他流の者道場へ立入り稽古致したき由申し入れ候共、改流これ無く候ては断りに及び候事
一、免許前の仁、稽古中絶候か、又は他流御修行成されたき仁は、当流の未熟たるべく候間、目録并びに諸書物御返却の上、返神文を以て御断りこれ有るべき事
一、稽古見物の儀、皆相断り候事
一、世話役の儀は新古を論ぜず、その時々出精の仁に任すべく候事
一、稽古道具、御銘々御用意これ有るべき事
一、竹刀御借受け損じ候はゞ、早々竹御入替へ置き成さるべき事
一、火の元の儀、相互に心附け入念申すべき事
但し、稽古相済み候はゞ、跡(後)取り片付け万端心付け御引払ひ成さるべき事
右の條々、御会得これ有るべきもの也
安政七申年三月改む 不争軒
明治二巳年八月又候改
但し、先古帳は仕舞ひ置く
父宣猶の遺言書に見る、若き不争軒

天保八年、不争軒十九歳のとき、父宣猶が重病を患い遺言書を認めました。このとき、すでに長男斧太郎は父の元を嫌って江戸を離れており、二男の不争軒(当時は長次郎と云う)が跡を継ぐべき立場でありました。とはいえども、まだ十九歳の長次郎は地元の御家人と付き合い、武藝・学問を疎かにして父の言うことに耳を傾けず遊藝に耽っていたそうです。余命も知れぬ病いの中で、父宣猶はこのような長次郎の行く末をたいへん心配し、今後は武藝・学問に励み益友と付き合うよう遺言しました。尤も、宣猶は九死に一生を得、以後十六年間、嘉永五年に歿するまで壮健でありました。
以下、宣猶の『遺言書』より抜粋
一、長次郎様には学問を御出精致され候様御進め成さるべく旨、在所弥五左衛門より書状にて申し越し候義もこれ有り候得共一向取り用いず、其許在所へ罷り越し候節無学者と見抜かれ候事と存知、親の身になり候ては赤面の次第恥入り事に御座候、
学問手習等嫌い抔と言は我侭千万の事に候、侍と生まれ候ては侍らしく武藝は勿論手習読物も人並にいたしたき事に候、却ってこの辺の若者、其許友といたし候ものに一人も人間らしき者これ無し、無学にて武術を学び候者もこれ無し、御家人の申し訳に帯刀はいたし候得共抜き様も存ぜず、唯申し訳に大小差し候者ばかり、禄盗人とも申すべく候、
一体平生宜しき人の付き合いも致さず井の内の鮒にて、何ぞと申せば長唄を習い寄合にて酒宴付き合い、大小にも構わず下駄手拭等に心を尽し可笑の第一なり
本所辺または山の手の御家人軽き身分の者は何れもこの辺の風俗同様に候、右様の人々の行常、夜遊びに長く朝寝いたし候ものに候、その軽きばかり中にも立身出世致す者希にはこれ有り候、
その者は所地の風俗に染まず、手跡学問等も心掛け忠孝を守り利発の者に候、並の人は禄を戴きながら御奉公を怠り孝の道も忘却いたし、父母の申す事も気に入らざる時は聊かの事にも癇癪を落し立腹いたし、親に向い雑言抔申す者もこれ有り候、
その親の不行届きに候とも聖人孔子の教えの如く、主へは主の様に忠を尽し、親に孝は出来申す間敷候得共、せめての事にさからい申さゞる様にいたしたき事に御座候、
武藝并びに神道佛道儒道にも忠孝の教訓は解き有る事に候、人間と生まれこの道を忘却致さば人面獣心も同前なり
血に交われば赤くなると申す故言もこれ有り候えば、悪友に交わる共心までそれにひかれざる様にいたしたき事に御座候、何卒能き人に付き合い能き事は見るに及び聞くに及び覚え申さるべく候、悪しき事は承け及び候共その時と取り捨て申さるべく候、
相成るべくは夜遊び朝寝は御無用、その隙には手習学問を心掛け申さるべく候、学問とて多く書物を読むに及ばず、孝経一巻にても大学一札にても見、忠孝五条の道、仁義礼知信の教訓を全く守りさえすれば宜しき事に御座候、手跡はその人その人の位、手紙一通にても善悪顕わるゝものに候間、手は能く書きたきものに御座候、
もし右の条々相用いずこの侭に置くばかり重ね候はゞ、末に至り人の中にて恥をかきその時後悔いたす共詮なき事に御座候
病中長文侭退屈、其許見るも面倒に有るべく候得共、人に勝れ能き人物となり 上の御用弁にも相成り、先祖并びに親類縁者迄の外聞もよろしく、依って右の通り相認め入る、一読候ものなり
一、猶長次郎へ申し聞かせ候、其許も存ぜられ候上村傳次郎義、三味線を好み日夜それのみに凝り固まり武士道を失い、近所とは申しながら短刀一本にて下駄をはき出で歩き行く、御附人にて家柄も足りしく候得共風聞悪しく候、御屋形人に候えばとくに小普請入りにも仰せ付けらるべくとの皆の評判に御座候、
身持ち持たざると申すにはこれ無く候得共、身分不相応の身形り、その上心掛け候藝宜しからず候に付、立身も相成らず候、御附人の事にも候えば武士道を守り勤めはとくに御目付にも御徒頭にも仰せ付けらるべく処、心懸け宜しからざる故恥をさらし不忠不孝の者に御座候
これ等を見るにつけても、長唄・浄瑠璃・三味線抔稽古は厳しく相止め、決して致されまじく候、近所は格別、上野より先へ出で参り候節は大小差し雪駄相用い申さるべく候、近辺安御家人のまね決して致されまじく候
櫛淵不争軒、歿す

一橋慶喜公の御上洛以後、着々と地歩を固め御一新を迎えた不争軒は一橋家の教衛隊頭取の勤務中、俄かに卒中を起し泉下の客となったことが『盛宣院悔入来人名留』に記録されています。
以下、該当箇所抜粋
十月廿八日
一、櫛渕先生昨日御當番の処、今朝俄に御不快に付、御殿當番御醫師小原昇春相廻り候処、御病躰ソツチフ[卒中]にて最早薬養も届難く、外手當致し方も無之旨、尤薬弐服被贈早々下宿可然旨被申、依之詰合指揮役倉田謙三并調所田中源蔵隊中より加藤源次郎先は相越、倉田大濱田中差添御帰宅の事
一、御近所御醫師糟川袋庵被相越候処、是又ソツチフに無相違、最早手當致方も無之旨被申聞候事
不争軒櫛渕君墓誌銘

櫛淵不争軒という人物
櫛淵不争軒という人物について、門弟千葉鶴鳴の咄が伝えられいます*1。
「[櫛淵不争軒は]水戸の武田耕雲斎などゝ非常に懇意で、そんなら勤王家かといふとさうでもない。攘夷かといふと攘夷家でもない。慶喜様には初めのうちは近づくことが出来なかつたが、慶喜様が暗殺されるとか何とかいふ噂のあつた時に、自分が遠見をして保護したといふことが分つて、それで急に慶喜様から信用を得て、御供頭に一足飛びした人です。」
「櫛淵[不争軒]の屋敷には、水戸の武田耕雲斎又は荘内藩士から、深川御船蔵で斬殺された千葉周作の高弟真田範之助抔が往来したが、どんな咄があつたかは知らぬが、櫛渕が常に語る所を想起すれば、攘夷の咄であつたらうと推測される。」
千葉鶴鳴の主観に基づいて語られていることなので、事実と相違する点もあるかもしれませんが、なんとなく不争軒という人物像が見えてくるのではないでしょうか。
「勤王家かといふとさうでもない。攘夷かといふと攘夷家でもない」という点について察するに、主君一橋慶喜公の微妙な政治的立ち位置に起因するものと思われます。不争軒は一橋家の剣術師範役ですから、勝手に思想を吹聴して、何かしらの災いを招くことを避けたのではないかと。
とはいえ、武田耕雲斎や真田範之助と付き合いがあったことを見れば、尊王攘夷の思想に傾いていた様子はなんとなく感じられます。
1…『池袋祥雲寺に関する研究』

久二年九月八日より元治元年三月廿一日に記された『諸覺留』の巻末に「餞別之覚」という記事があり、餞別というのは京都から江戸へ帰る際の餞別、そこに「沖田惣司」「近藤勇」の名が記されており不争軒とは面識があったようです。
またその左方には「鵜殿鳩翁組 みぶ新徳寺 片山庄左衛門」の覚書があり、何かの折に知ったか面会したかして記録したのでしょう。
当時の「沖田総司」「近藤勇」は、尊王攘夷の浪士組に所属しており、鵜殿鳩翁が慶喜派の人物ですから、一橋家の剣術師範と面識を得たとしても不思議ではありません。

元治元年五月十日、柳剛流の岡田十内と面会しており、石井豊吉の件で来たとあります。たまたま同名なのか、後に箱館戦争に参加した陸軍隊に石井豊吉という人物がいます。

元治元年五月十六日、渋沢成一郎・渋沢篤太夫(渋沢栄一の前名)と面会。
以後、書類の申請や宿の手配など度々接触があります。

元治元年五月廿三日、千葉周作の高弟真田範之助と面会し、藤田小四郎の上京、渋沢出生の地について話したことが記録されています。
真田範之助は、前年渋沢栄一に誘われ高崎城乗っ取りや横浜外国人居留地襲撃計画に加わっており、思想的には尊王攘夷の過激派といって良いでしょう。
不争軒が「武田耕雲斎などゝ非常に懇意」という話が本当だとすれば、不争軒自身も相当そちらの思想に傾倒していたのかもしれません。

元治元年六月廿日には、仕官を望む古矢太左衛門と面会し、そのとき話題に出たものか、「因循」「鎖港」「攘夷」の文字が記されています。
六月三日に横浜鎖港問題で、政治総裁職松平忠克公と幕閣とが衝突した件でしょうか。

参考シ料
『轉宅に付諸入用覺 文政十二丑年十二月四日より』筆者蔵
『轉宅に付諸入用其外覚 文政十三寅年三月二日より』筆者蔵
『谷中三崎地面譲諸覺 天保三壬辰年八月吉祥日』筆者蔵
『明細書 寛政十一未年以来』筆者蔵
『諸覺 天保五年より天保十一年迄』筆者蔵
『諸覺留 安政五午年正月より同六未同七申年十二月迄』筆者蔵
『勤用覺留 文久三亥年七月より元治元年至同二丑年』筆者蔵
『御用日記 元治元年三月』筆者蔵
『御上京御供諸覺 文久二戌年九月』筆者蔵
『勤用之覺 慶應元丑年九月より』筆者蔵
『神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡』加藤寛著
『神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯』加藤寛著
『一橋家臣 脇坂圓蔵について』筒井稔著
『嘉永御江戸絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:根岸谷中辺絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:下谷絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:駿河台小川町絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:市ヶ谷牛込絵図』国立国会図書館蔵
