姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

姫路藩真下貫兵衛の金赦し

宇田川武久氏の著書『江戸の炮術―継承される武芸』に「姫路藩真下貫兵衛の金赦し」と題された項がある。
そのまゝ引用するわけにはいかないので、こゝでは要点のみを述べよう。
(1) 土浦藩の関流炮術師範関家へ入門した姫路藩士真下貫兵衛の稽古日数が短いにもかかわらず赦状と捨傳書を伝授されたこと
(2) その謝礼が多額であること
宇田川武久氏は上記二点を根拠として、真下貫兵衛は金赦しであるとされている。

私は姫路藩の炮術について調べている最中であり、その一連の作業のなかで同書に目を通した。そして思った、この項については全くの誤解である、真下氏の名誉のためにもこの誤解を明らかにしておこうと。

真下家

そもそも姫路藩士 真下貫兵衛の家柄とはどのようなものか。『姫路藩家臣録』を元にその履歴を追う。

祖父 真下藤兵衛は安永8年(1779)御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、そのほか諸役を勤め寛政4年(1792)隠居。(※御持筒組とは藩主直属の鉄炮足軽隊)

父 真下政太夫は天明2年(1782)藤兵衛と同様に御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、寛政4年(1792)舩手之者鉄炮稽古世話に転じ、家督(2人扶持 組外)を相続、御土蔵御番入。その後は諸役を勤めつヽも舩手之者へ鉄砲を指南、享和1年(1801)他の役務に差し支えるときは息子真下貫兵衛(当時は幸助)を稽古世話に立てるべき命があった。結局、真下政太夫が舩手之者鉄炮稽古世話の任を解かれたのは文政3年(1820)のこと、およそ38年間師範を勤めた。

真下貫兵衛は先にも記したように享和1年(1801)には舩手之者鉄炮稽古世話を手伝うようになり、文化2年(1805)5月20日に舩手鉄炮稽古指南見習となり、文化4年(1807)4月29日には大日河原において壱貫目鉄炮角前を藩主の御覧に入れ”貫”の文字を授与される
そして同年5月11日この壱貫目玉鉄炮の放方の功績によって弐人扶持下され御徒士格として召し出された。

以上、問題とされた関家入門までを掻い摘んで記したが、このように履歴を確認できる祖父 真下藤兵衛父 真下政太夫真下貫兵衛と三代にわたって、鉄炮足軽を指南する稽古世話の師範職を世襲している。真下貫兵衛に至っては見事壱貫目放方を御覧に入れ二人扶持を下され御徒士格に召し出された(これは家督を相続する以前のことで、純粋に彼の功績による)炮術を家業とする家柄である。
それと、姫路藩において足軽指南は従来より関流で統一されていたことを考え合わせれば(*1)、真下氏は姫路藩において従来より行われていた小屋関流または野口関流を学んでいたことは明白である。
つまり、真下貫兵衛は関家へ入門する以前から、関流炮術について少なくとも六年以上の修錬を積み、且つ指南する立場としても経験を積んでいた。(いつの頃から修行を開始したのか記録には見えないので、父政太夫の手伝いを命じられた年を下限とする)

入門から相伝

さて問題とされた関家への入門から帰国までの動向を各書より一部抜粋する。

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化4年(1807)7月朔日の真下政太夫・真下貫兵衛の両人である。
酒井雅楽頭様の御家来真下貫兵衛・真下政太夫のふたりが炮術に入門したいと同藩の御留守居役を通して、(土浦藩の)御留守居にいってきた。自分は入門を許したいので、このことを月番の又兵衛殿と列座にうかがった。十五日の朝、治兵衛から手紙で酒井衆両人の入門は支障がないから、入門の日取を取り極めるように申してきた。十八日のそこで都合がよければ、御前十時こと、こちらに出かけるように酒井衆に申し遣わした。
なお、十八日の条にふたりが肴代二百疋を持参して入門の手続が終った、とある。

『姫陽秘鑑』
一、文化4年(1807)7月28日土屋相模守様御家来関内蔵助方江炮術入門被 仰付、同年8月2日より御客箭繰方忰貫兵衛江被 仰付、右手伝ニ罷出候ニ付御肩衣被下置、右之節着用仕相勤申候

『姫陽秘鑑』
一、同年同月21日奥於 御居間、壱貫目玉鉄炮繰方被仰付入 御覧候処御小袖被下置、其上貫叟之実名御直筆ニ而拝領仕候

『姫路藩家臣録』
文化4年(1807)9月11日御参府御供ニ罷出候処、御客前薬方度々相勤、諸家様へも罷出候ニ付御家中諸藝励二も有之候間、格段之 思召を以並御供番格被 仰付、金四両三人扶持被下置候、10月4日爰元ニ罷在候内奥御番方被 仰付候-同7年8月17日奥番御免

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化6年(1809)12月11日真下貫兵衛へ赦状と捨傳書が傳授される。相傳の謝礼として関内蔵助信貞に金千疋、関昇信臧に金二百疋、信貞の妻に金五百疋、家来二人に金二朱を贈る。
文化7年(1810)7月30日炮術稽古の打納めに出席、真下貫兵衛250目玉・100目玉を放つ。
文化7年(1810)8月17日真下貫兵衛、国許に帰るので関家へ挨拶に行く。

以上を踏まえた上で話しを進める。
壱貫目放方を見事御覧に入れ扶持を下された真下貫兵衛は、その二ヵ月後、藩主の江戸出府の御供となりそこで土浦藩の鉄炮師役 関内蔵助へ入門する。「真下政太夫忰貫兵衛大筒繰方被仰付候事(『姫陽秘鑑』)」
文化4年(1807)7月に入門した真下貫兵衛は文化6年(1809)12月に赦状と捨傳書を伝授された。つまり彼が享和1年(1801)に舩手之者鉄炮稽古世話手伝となってから八年後のことである。無論、家元とも云うべき関家での修行と、国元に従来より伝承されている分派の小屋関流・野口関流では修行の程度に少しく違いがあるとは思う、しかしこの両派は素より関家に学んだ分派であるから、一から修行をし直す必要はなかっただろう。

稽古日数

さて、宇田川氏は著書の中で、真下貫兵衛が入門から二年で伝書を相傳されたことについて「貫兵衛の稽古の年数は足りないから、これはまさに金赦しといわざるをえない」と述べられている。たしかに通常の入門であれば、たったの二年で傳授されるものではない。
しかし、先述のごとく真下貫兵衛は関家入門以前から姫路藩内で関流を修行しており(*1)、且つ壱貫目放方の功によって召し出されたほどの人物であったから、この点を考慮すれば入門二年で傳授されて然るべき技倆は充分に備えていたと考えられる。藩内において修行し、後に他家の士に入門して短期間で免状・印可を傳授されることは珍しいことではない。

謝礼

又、謝礼について宇田川氏は横田平内・近藤亘理助の謝礼額と比較して「これが常識の範囲とすれば、いかに貫兵衛の謝礼が高額であったかがわかる。」との見解を示されている。
なるほど、比較に提示された両者は三百疋、真下貫兵衛の謝礼は千七百疋を超える。内訳を見ると、関内蔵助信貞に金千疋、信貞の妻に金五百疋、関昇信臧に金二百疋、そして周辺人物にもいくらか渡した。当時の事例とくらべて異常に高いということはない、最大限に礼を尽した結果だと思う。これら進物の額は右記の通り、金千疋=金2両2歩、金五百疋=金1両1歩、金二百疋=金2歩。

おわりに

結局、真下貫兵衛の履歴の有無が、宇田川氏の判断を誤らせたのではないかと思う。且つ姫路藩で主流を占める関流の存在はあまり取り上げられていないので、その点も見落とされていたのかもしれない。
その不十分な条件をもとに真下貫兵衛を金赦し扱いにされたことは残念でならない。真下氏にもおそらく子孫の方々がいることだろう、金赦しと云われて何を思うか、察するに余りある。また、関家においても金銭にかえて家伝の大切な流義の伝書を与えたとあっては不名誉なことではないか。
先述のとおり真下貫兵衛は金赦しではない、藩内において関流を修行し壱貫目玉を見事に放す技倆を備え、その後で関家へ入門しその修行のほど、技倆のほどを認められたからこそ赦状と捨傳書を伝授されたのだ。

*1 姫路藩ではその当時、小屋関流、野口関流が行われていた。この両派はもともと元禄のころに、土屋相模守家来 関軍兵衛の世子であった三俣惣太夫(世子のときの名乗りは伝えられていない)が酒井家中で関流を教えたことに始まる。そして小屋幸太夫、野口磯太夫の二人は三俣惣太夫に関流を学び、次いで土屋家の関軍兵衛に学んだ。その後両者が足軽の鉄炮指南に抜擢されたことで、酒井家の軍制は関流を基礎とするようになる。

参考資料
. 『江戸の炮術―継承される武芸』宇田川武久著
. 『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
. 『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
因陽隠士記す
2016.7.13

井上外記正継:井上流小筒構堅之圖巻

今回は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術の伝書

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13

伊勢流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡 一卷 帋本墨書 18.0 x 123.3 cm 慶長九年正月朔日付 筆者藏

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡. Edo period. dated 慶長 9 (1601).
Hand scroll. Ink on paper. 18.0 x 123.3 cm. Private collection.

● 毛利伊勢守藤原朝臣高政・・・本名友重。姓藤原氏。字九郞左衞門。從五位下伊勢守。豐臣秀吉に仕え後豐後佐伯藩の初代藩主となる。伊勢守流炮術の祖。
因陽隱士
令和七年三月十一日編

井上流二卷

井上流威風提擊構堅之圖

井上流威風提擊構堅之圖 一卷 帋本墨書 19.4 x 334.0 cm 寬永三年六月日付 松平家舊藏 筆者藏

井上流威風提擊構堅之圖. Edo period. dated 寬永3 (1626).
Hand scroll. Ink on paper. 19.4 x 334.0 cm. Private collection.

井上流小筒構堅之圖

井上流小筒構堅之圖 一卷 帋本墨書 22.3 × 845.1 cm 寬永三年六月日付 松平家舊藏 筆者藏

井上流威風提擊構堅之圖. Edo period. dated 寬永3 (1626).
Hand scroll. Ink on paper. 22.3 × 845.1 cm. Private collection.

● 松平家舊藏文書.卷子裝.原裝:藍色地に三つ葉葵紋草花散文樣金襴の表裂.元は御三家舊藏歟.
● 小筒構堅之圖・・・類本を見ず井上流草創期のものか.正保三年に著される『調積集』の圖示と考えられる.
● 井上外記正繼・・・池田輝政公の臣井上正俊の子.祖父は豐臣秀吉公の臣にして播州英賀の城主井上正信.大坂兩度の陣に戰功あり.將軍德川秀忠公・家光公に仕え.屢々御銃砲を製して獻上する.寬永十五年御鐵炮役となり智行千石.正保三年九月十日歿. 當文書の二ヶ月前.寬永三年五月.將軍德川秀忠公の上洛に隨從す.
因陽隱士
令和五年十二月十八日編

『國友一貫齋書簡』を讀む

『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏

今囘、こゝに紹介する古文書は、『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』です。

○ 沿革
この手紙は越前大野藩、土井家の家来中村家が所藏していたものです。中村氏といえば彼の明君土井利忠公の側近中村重助が世に知られています。その中村重助の父には軍學者の弟がおりました。これが初代中村志津摩です。その初代志津摩は次男坊なので家督を繼ぐことは出来ず、軍學を以て身を立て、また良いところの家柄でしたから特別に別祿を賜り一家を立てられました。これを假に中村志津摩家としておきましょう。二代目、三代目も志津摩と名乘ります。その軍學者初代志津摩の子二代目志津摩こそ、今囘紹介する書簡の嘗ての持ち主でした。

〇 二代目中村志津摩
二代目志津摩は父のように軍學はやらなかったようです、そういった形跡は見當たりません。彼は砲術家としての道を撰びました。自由齋流という歷史があって著名な流派を修行し、遠境の京都に住まう津田算緜という人物に師事して印可を相傳されます。
印可というのはつまり、その流派の全てを學び終えて獨立し、一家を立てゝ弟子を敎え、目錄や免許を與えることが出來る立場のことです。この段階に至ることは實に難しく、ただ伎倆が優れていてもなれるものではありません。流派の身分にもよりますし、さまざまな條件によっても異なるのですが、自由齋流の場合は士筒ですから、印可を得るには伎倆・經驗・智識・人格に加え、指導者として相應しい家柄が必要だったと考えられます。この點、彼は重臣の家から一つ分かれた家柄であり、身分も用人に昇るほどですから全く問題なかったと思います。

〇 國友藤兵衞
扨て、本書簡を認めた國友藤兵衞のことです。國友藤兵衞といえば國友鍛冶の一家を指し、代々藤兵衞を名乘るものが多くいました。そのため書簡などの名を見ても、はたしてその人物が何代目に該當するものか、一見して判斷の付きかねるものです。
今囘こゝに紹介する書簡は『能當流鑄筒製作法』と題する一冊に挾み込まれていたもので、且つ書中に鑄筒製作本を送ったとありますから、書簡と冊子と共に同一人物・同時期の作成であることが明らかです。
しかし、國友藤兵衞の筆蹟を確認し得る資料が見當りません、つまり筆蹟を見るかぎりにおいては何代目なのか比定できないのです。けれども『能當流鑄筒製作法』には年號が書かれています、文政十二年八月、この年國友一貫齋(九代目重恭)は五十二歲、現役でありました。そして八代目重倫は寬政十一年歿、十代目元俶が跡を繼ぐのは天保十一年のこと、すなわち『能當流鑄筒製作法』は間違いなく國友一貫齋の作成にして、手紙もまた同一人物の作成だと云えるのです。

以上、書簡の差出人・受取人について知った上で讀んでみましょう。

一、鑄筒製作本、先達て飛脚差し上せ申し上げ候節、差し上げ候と存じ奉り候所、取り殘し置候間、此度差し上げ奉り候御落手願ひ上げ奉候。 『鑄筒製作本』、題名通り鑄筒の製作方法を著した本。文政十二年八月、國友一貫齋の手によって記され、本書翰と共に中村志津摩に贈られた。もう少し以前に贈るはずだったが、忘れていたとのこと。
『能當流鑄筒製作法』筆者藏

一、釷■御入れ遊ばされ候節、錫も入れ湯能くさへ候時、繪形に印し置き申し候穴より釷■御入れ遊ばさるべく候。
『鑄筒製作本』の內容を補足。釷■の「■」の文字が表示されず、「金」へんに「丹」か、造語歟。金屬の名。

一、タメル又はトリベ候湯を受け、繼ぎ込み候には、トリベにて釷■をわかし置き、其內へ湯を受け申し候。タメルにては、本に印し候通り、直に留壺より形へ繼ぎ込み候時は、穴より土釷■を入れ申し候。此品御承知遊ばさるべく候。
「タメル」とは「タメ留」と書く、金屬製の鍋。留壺(ルツボ/坩堝)から一旦これに流し込み、溫度を調整したり藁灰を入れたりする、そして鑄型に注ぎ込む。
「トリベ」とは「取鍋」と書く、金屬製の鍋で取っ手に竿を二本通したもの。湯二十貫目入。用途は「タメ留」と似たようなものか、少し小型なようです。

鑄筒の儀は、尊前樣方にて手間料入らず、御なぐさみに遊ばされ候には甚が宜敷く、私共にて千萬人手にて致させ、高手間出し候ては何れそん[損]仕り候。廿貫已上なれば宜敷く候。何卒御憐愍御執成し偏に願ひ上げ奉り候。
鑄筒は、ある程度なら外註せず、自前で製作した方が出費を抑えられる。言外に、特別に製作方法を敎示する。代りに、難しい大型の製作であれば、是非とも當方へ註文してくだされ、との意歟。*こゝの解釋は推測です。

『鑄筒製作本』筆者藏

一、御約束の三匁玉筒のきり[錐]、漸く出來仕り候間、獻上仕り候。さびきりにても御入れ遊ばされ候節、カリ竹の先少し厚く遊ばされ候て、元先一めんに掛り候樣に遊ばさるべく候。
三匁玉筒の手入れ用具ですね。

一、御申し上げ候筋の儀、病後にて鍛へ存意にも相叶はず候得共、先づ獻上仕り候。御收納願ひ上げ奉り候。此度は參上仕り、山々御物語仕りたく、又は御目見等の儀願ひ上げ奉りたく、相樂み居り候所、心外の仕合、御察し下さるべく候。
顧客との取引に至って丁寧な一貫斎。後段のごとく、どうしても体調不良で参上できないとのこと。

私三拾年此方、半時わづらひ候事御座無く候。此度は誠に心外に存じ奉り候。色々申し上げ奉りたき御儀御座候得共、とかく氣六ヶ敷く候間、入用迄申し上げ奉り候。已上。
頑健な方だったようですが、何らかの患いによって參上できず、用件のみを傳える。

註 太字:譯文 赤字:解說

『一貫齋國友藤兵衞傳』を引っ張り出し「一貫齋文書」を見ますと、當時國友に依賴された諸方面からの註文書のなかに中村志津摩の名を見付けることができます(「鐵炮製作關係:其一、註文書」)。
中村志津摩の註文は76.77そして84の項目にあり、その間同流と書かれているものや前後も大野藩關係の註文だと思います。そのなかには殿樣御筒も見られます(同書中、津田流と記されているのは、自由齋流の別名です)。

令和五年十月二十八日 因陽隱士著

參考史料 『國友一貫齋書簡:文政十二年十月廿七日付』筆者藏 /『能當流鑄筒製作法』筆者藏 /『越前大野藩中村家文書』筆者藏 /『大野市史:藩政史料編一』大野市 /『一貫齋國友藤兵衞傳』有馬成甫著

『高島秋帆書簡』を讀む

『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏

今囘取り上げる古文書は、『高島秋帆書簡:十月十三日付』(筆者藏)です。高島秋帆の名は、恐らく幕末史を好む人ならば、旣にご存じかと思います。ご存じない人のために少し觸れると。高島秋帆は、西洋流(高島流)砲術の開祖として知られています。この西洋流は、單に從來の砲術諸流派の中に出現した新しい一派としてのみ語られるべきものではなく、從來の砲術を舊時代の遺物にしてしまうほど劃期的なものでした。當時の日本の情勢に於いて、西洋流という媒体は軍制改革のために最適だったのでしょう。

扨て、砲術家として知られた高島秋帆は、餘技として書を能くしたことから、揮毫を賴まれることが多かったと見え、今日數多くの作品が現存しています。當時、揮毫依賴というものは、たゞ職業書家にのみ依賴されるものではなく、その人物が有名でさえあれば、書の巧拙を問わず依賴されるものでした。これは有名人の書だから欲しいというやゝ低俗な面があったと思いますが、一方で社會的に認められた立派な人格者を慕って、その書を欲するという高尚な面もあったと思います。素より、高島秋帆は書を生業としていませんが、壯年の時は施南京・下硯香の書風に傾倒し、老年になると雲顧熙の書風に惹かれたと傳えられるごとく、唐樣を好んで學び研鑽して、當時行書を能くすると評判を得ていました(*1)。その上、砲術家として全國にその名を馳せていたことから、相當數の揮毫依賴があったものと察せられます。

揮毫依賴に對して、高島秋帆はどのような態度を以て依賴者に應えていたのか、その一端をこの『高島秋帆書簡』に見ることが出來ます。それでは讀んでみましょう。

御萬福賀し奉り候。昨日は御尊來の處、何の御風情なく失敬御免願ひ奉り候。
定例の挨拶にはじまり、前囘來訪時の風情の無さを詫びています。「何の御風情なく失敬御免」とは言え、これは當時の書信に屢々見られる言い廻しにて、實際に風情が無かったわけではないでしょう。

仰せられ候拙毫、今日間合も之れ有り候間、相認め候處、如何之れ有るべき哉、思召に相叶はず候はゞ、又々仰せ聞けられたく候。
前段來訪の三浦氏に依賴された揮毫の件について述べています。「この日は時間の都合がよく認められたのですが、貴方はこれを見てどう思うでしょうか?、氣に入らなければ、遠慮なく言ってください。」と親切な文言から察するに、よほど親しい間柄か、鄭重に接するべき相手だったとようです。

薄紙は、唐にて書を認め候紙にては之れ無く候。にじまぬ樣に認め候は、秋帆の手際に御座候。
揮毫依賴は、およそ依賴主の方で紙(或は絹)を用意することが多く、その紙の質によって思うように揮毫できない、ということは珍しくなかったと想像します。この段では、秋帆の揮毫のために用意された紙が、薄くて墨が滲みやすいものだったようで、これについて秋帆は「唐樣を書く自分にはちょっと書きにくいけれども、これを滲ませぬように書いたのだ。」と、やゝ得意氣に傳えることで、三浦氏の笑いを誘ったものと見えます。

神保氏書も如何に候哉。先づ相納め申し候間、敷く願ひ奉り候。頓首。
この段、神保氏に關する前後の事情は不明ながら、おそらく三浦氏を介して神保氏より依賴されていた揮毫も倂せて送ったのでしょう。よろしく渡してくださいと賴んだところで、この書狀が終わります。

全體を讀み終えて。やはり宛名の脇付に記された通り、「口上書」ゆえにざっくりと定型の文言は省かれており、直ちに意向を領得できるように認められたものと思われます。

註 太字:譯文 赤字:解說 *:筆者註 *1小西雅徳氏の著『高島秋帆の書画について(覺書)』

久しぶりに書簡を揭載しました。解讀は合っているでしょうか。インタ-ネットを使い、さまざまな記事を見ていると、このごろは古文書入門に關する記事がずいぶんと增えたと感じます。讀める人も增えているのでしょうか。私も日々古文書の解讀に勉めていますが、一向に上達せず、何か新たな試みをすべきかと思案しております。

令和三年八月十六日 因陽隱士著

參考史料 『高島秋帆書簡:十月十三日付』筆者藏/『集論 高島秋帆』板橋區立鄕土資料館