冨田正次:疋田流向上極意之巻

先日、伝書類を点検していると、新たな虫食いを発見
もう何年も前に購入した伝書で、今さら虫が出るなど考えもしなかった
所蔵する伝書は、ほとんどのものを個別に管理しているため、他所から虫が入り込む可能性は無い

とすれば、ずっと以前に産み付けられた卵が有ったとしか考えられない
何年経っても油断するなということ

推測の域を出ないが、乾燥状態で卵は休眠しており、何らかの条件を満たして孵化するものか

というわけで、点検を兼ねて個別に投稿を開始
さして需要があるとも思われないが、いくつか投稿する

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

題簽は紙魚に舐められ文字は掠れている
通常よりも大振りな題簽は、表具と共に原装
紐も、この時代のものとして違和感無く、原装と見ている

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

外気に晒される面は、どうしても紙魚に舐められやすい
紺地のところよりも題簽の舐められ方が酷いのは、題簽を貼る際に使われる糊の所為

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

表具の見返しは在り来りな金地ではなく、緑地に型押しの金の花紋
なんとなく古風な印象
これは本紙の金箔散らしとの対比を狙ったものか

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

これでもかと散らされた金箔
相手への敬意を込めて、特注で誂えた伝書に見られる

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

華やかな金の中に、銀による彩色
目に鮮やかな色を使わないところが好ましい

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵
『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

本書を伝授した冨田正次は池田家の家臣、高三百石
池田利隆公・輝政公に仕えた

伝わっている履歴は少ない
十六歳のとき大坂夏の陣、父と共に利隆公に随い、追首ながらも手柄を挙げた

この伝書の四年後、寛永十九年江戸平川の普請に出張
山内忠義公への使者として土佐に下る
そして、国許の検見を数度勤める
慶安四年八月二十日病歿

本書を伝授された薄田兵衛門についても伝わっている履歴は少ない

冨田正次と同じく池田家の家臣、高四百二十石
慶長十二年に家督を相続
承応三年江戸留守番のため出張
度々検見を勤め、鉄炮引廻を命じられ、後ち二つの組頭を勤めた
寛文九年二月歿

巻末伝系や署名・宛名の書式が少し変っている
これは疋田栖雲斎のころの書式の名残か

参考文献『薄田家文書』『岡山藩家中諸士家譜五音寄』『吉備群書集成』『鳥取藩史』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

大聖寺藩の風傳流師範-3

六代 橋本國久 享保十年~文化二年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

橋本國久は、実は奥村家房の次男
長男の奥村嘉包より六歳下
先に触れた通り、奥村家房の妻が橋本郷右衛門の娘であったから、叔父さんの家を継いだことになる
橋本家の三代目当主

享保七年橋本家の養子となり、五人扶持・組外として召し出され
その後御帳横目、表御土蔵御目付を経て御馬廻組となり勤める
享和元年隠居、文化二年病没、享年八十一歳

七代 橋本郢興 明和四年~天保五年

橋本家の四代目当主
享和元年、橋本國久の隠居によって跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
天保四年病身になり隠居、翌年六十八歳にて病没

八代 橋本國輝 享和三年~

『風傳流指南之巻』筆者蔵

橋本家の五代目当主
天保四年、隠居した父郢興に代って跡式を相続、跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
安政元年江戸表へ御使、同四年摂州西宮御陣屋へ御固めに出張
また慶応元年京都へ御使、明治元年御供役、同二年東京へ御使と度々出張の御用を勤めた
東京から帰国すると御役を解かれて鎗術稽古示談相手を命じられた
(記録はこゝまで)

まとめ

1 奥村家幾 平士 御馬廻組 80石 御武具土蔵奉行
2 奥村家房 平士 御馬廻組 100石 御郡奉行
3 生駒氏以 平士 御馬廻組 170石 御馬廻頭
4 飯田良有 平士 御馬廻組 50石
5 奥村嘉包 平士 御馬廻組 100石 割場奉行
6 橋本國久 平士 御馬廻組 28俵
7 橋本郢興 平士 御馬廻組 28俵
8 橋本國輝 平士 御馬廻組 31俵

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』『金沢市史』
因陽隠士
令和七年八月朔日記す

大聖寺藩の風傳流師範-2

初代 奥村家幾 正保二年~享保五年

大聖寺前田家における風傳流の祖、その立場は他流において御家祖などゝ称される

武術の分野では、不思議なほど奥村家幾について語られることはなく、ほゞ触れられることもない
おそらく語るべき逸話の類いがほとんど伝わっていないのだと思う
もしくはその逸話が発見されていない

奥村家幾の家は、父平左衛門のとき前田利治公に召し抱えられ、大聖寺前田家の家臣となった

奥村平左衛門の祖父は勢州長嶋合戦のとき討死、父は末森城主奥村助右衛門を頼り、末森城の戦いに参加するがその後召し抱えられることはなく、浪人のまゝ大聖寺に病死した

そして、奥村家幾
寛文二年御歩行児小姓に召し出され
父の隠居後は家督五十石を継ぎ御郡横目となる
次いで御貸銀米奉行・御用米・闕所銀・御郡除米残金奉行を兼任し
享保三年御武具土蔵奉行となる
二年後に体調を崩したものか隠居して、三ヶ月後に病没した
享年七十六歳

家格は父の代より上り、御歩行から御馬廻組に昇進
知行は五十石から八十石に加増された

二代 奥村家房 元禄五年~享保十三年

享保五年、父奥村家幾が隠居して家督を継ぐ
御帳横目、御郡横目、御郡奉行を勤め百石に加増されるも、享保十三年三十七歳という若さで病没

風傳流門下にとって、師範奥村家房の早世は誤算にて、その子が成長するまで高弟が師範代理を勤めることになったと考えられる

奥村家房の妻は、橋本郷右衛門の娘
橋本家は後々風傳流と深く関わる

三代 生駒氏以 元禄元年~延享四年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟
元禄十年、新知百五十石を下され前田利直公の御近習として取り立てられ新たに一家を立て
江戸において利直公の御近習として勤める
よほど殿様に気に入られていたものか、父源五兵衛の屋敷を拝領するも、過分といゝ返却し別の屋敷を拝領している
御近習の次に御使小姓となり、また御供役、御中小姓となるなど殿様に近侍した

宝永七年利直公が没すると、翌年利章公の御入部に御供して帰国し、御徒頭となる
その後、大御目付・御鉄炮土蔵裁許を兼任、組外頭へ経て御小姓頭となり
延享四年、隠居することなく六十歳にて病没

四十一歳のとき奥村家房が急逝したことで
享保十三年より延享四年まで指南したと見られる
なお、風傳流の師範を勤めた時期は、大聖寺において組外頭~御小姓頭のころか

上載の伝書の系図に「奥村家幾-生駒氏以」とあって「奥村家房」の名が無いのは、生駒氏以は奥村家幾に師事したのであって、家房に師事していないことによる
たゞ、風傳流の系図上は、後世の師弟関係を考慮して「奥村家幾-奥村家房-生駒氏以」と記される

四代 飯田良有 元禄十二年~宝暦十二年

『風傳流免許巻』筆者蔵

飯田良有は、享保五年家督を相続し五十石を下され御馬廻組に御番入り

宝暦十二年病に罹り隠居、二ヶ月後に病没、享年六十四歳

生駒氏以が隠居前に病死したことで、代りに風傳流の師範になったと見られる
この時点で奥村家房の子嘉包は二十九歳になっているから、師範になることも出来たように思えるが、なにか事情があったものか、飯田良有が師範になった

飯田良有が師範になったのは、察するに四十九歳のとき

五代 奥村嘉包 享保四年 ~寛政七年

享保十四年、十一歳のとき父が病没し急遽その跡を継ぎ、同十八年家督を相続する
それから二十二年後の宝暦元年、三河・駿河方面に出張し普請を勤め、帰国後は割場奉行となり、その間度々江戸詰を命じられた
寛政元年隠居、同七年病没、享年七十七歳

宝暦十二年病に罹った飯田良有の跡を受けて風傳流の師範になったと見られる
見られる、というのは師範を継いだ年が明らかでないため

前掲の画像「飯田良有-橋本国久」の系図のごとく、奥村嘉包を省く伝書もある
三代生駒氏以のときに二代奥村家房を系図に入れないのと同様か
奥村家房の長男と次男とで、風傳流の系が分れたと見られる
とはいえ、系図に入れたり入れなかったり、扱いに悩んだものか?

参考文献『加賀市史料』『大聖寺藩生駒家文書』『大聖寺藩本山家文書』
因陽隠士
令和七年七月三十一日記す

大聖寺藩の風傳流師範-1

はじめに

大聖寺藩の風傳流は、奥村家幾に始まるとされる
あまり詳しい話は伝わっていない
たゞ大聖寺系の風傳流の伝書を見れば、一目瞭然にてさして疑うべき点もなく、それで良いと思う

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『武藝流派大事典』の風傳流系図に着目したい

中山源兵衛吉成-丹羽新兵衛重直-奥村助六家茂

この系図の特異な点は、「丹羽新兵衛重直」の名があること
普通に見られる系図は、およそ下記のごとく記され、その名は無い

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

『武藝流派大事典』の編集中、たまたま採用された伝書に記されていたと考えられるが、たしかめる術はない

さて、「丹羽新兵衛重直」
先日来、投稿してきた風傳流関係の記事でお気づきの方もいるだろう

大野藩時代に中山吉成が娶った妻は、丹羽彦左衛門の娘であり
中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽彦左衛門の養子となって家督を継ぐ
そして、「丹羽新兵衛」となる
管見の限り、実名は「重應」と伝わっている
「重直」と名乗っていた時期があっても不審はない

この中山吉成の三男「丹羽新兵衛」は
「人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て後猶巧者になりて」と伝えられている

そして、「丹羽新兵衛」が仕えていた越前大野藩と、大聖寺藩との地理的距離を見てほしい

「大聖寺藩」から南に下ると「越前福井藩」があり、そこから東の山間へ入れば「越前大野藩」に着く

奥村家幾が、「丹羽新兵衛」に風傳流を師事したとしても不自然ではない

なぜ、普通の系図に「丹羽新兵衛」の名が無いのか?
二つの可能性がある

1.元から「丹羽新兵衛」は間に存在しない
2.「丹羽新兵衛」に師事した後、中山吉成に直傳を承けた

このどちらか
私は、2の可能性は充分あると考えている

流派によって扱いは異なると思うが、風傳流はわりと中山吉成が積極的に指南する人物であり
他所から訪れる孫弟子に直接指南した様子を菅沼政辰が伝えている

自分の立場に置き換えてみると分るかもしれない
孫弟子だったら、流祖の直伝を受けたいと思うし、免許や印可を伝授されゝば、これに勝るものはない

つまり、奥村家幾は当初丹羽新兵衛に師事して免許以上を伝授されていた
後ほど、中山吉成に師事する機会を得られて、免許以上を追認されたとなれば
当然系図は下記の通り変更されるだろう

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月晦日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-濱嶋加右衛門 ?

L1「酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・酒井家の家来。中山吉成が風傳流を建立して初めての弟子。「酒井雅楽頭様」は、権勢を誇った酒井忠清公。
慶安四年の酒井家『御分限帳』を見たところ、「濱嶋加右衛門」の名は見当らず。

流祖中山吉成直伝の弟子-草芥弥九郎 印可

L2「井伊掃部様の御屋敷八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる御家来に草芥[侭]弥九郎と云者も弟子にて」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。草芥弥九郎は後に印可を許された人物。彦根の井伊直興公が幼名吉十郎といった若いときに風傳流を指南した。このため後々彦根の井伊家において風傳流の勢いが盛んになったという。

さて、「草芥」と原文のまゝ表記したが、正しくは「草刈」。原本に「草苅」と書かれていたものを誤写したのだろう。
「八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる」という文言からして、承応二年に八丁堀御屋敷(彦根藩の江戸蔵屋敷)を預けられた草刈家の初代次郎右衛門が該当すると見られる。
また、草刈次郎右衛門は寛文三年、井伊直興公が八丁堀御屋敷へ移ってきたとき、その御付となっているから間違いない。但し「弥九郎」の称は記録されていない。

流祖中山吉成直伝の弟子-曽我権之丞 中書

L3「其比曽我権之丞殿は御歩行頭役を勤られ、一傳の弟子にて、書院の前に鑓小屋を立て日々稽古はけまれたる」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。曽我権之丞、鑓免許の御祝儀の席のこと、集った高弟たちに仕合を挑み、免許の相弟子二三人を破って増長し、さらに印可持の弟子に挑んだ。そこで受けて立ったのが遠藤半之丞。勢いづいた曽我権之丞だったが、技倆の差は歴然たるもので、八本の仕合で八本とも遠藤半之丞に敗れた。流祖中山吉成はこの時の遠藤半之丞の駆け引きに殊の外感心して、後々弟子たちに語って聞かせたという。
曽我権之丞は、この仕合のあとに心を改め、風傳流に精進し「中書」を伝授された。

流祖中山吉成直伝の弟子-遠藤半之丞 印可

L4「[遠藤]半之丞初は斎藤摂津守様に奉公せしに、外へ出て一傳[中山吉成]に慕ひ鑓修行せん為に、十八歳にて元服し、又其後暇願ひ浪人して只鑓の深く志し、一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」<風傳流元祖生涯之書>

L5「一傳[中山吉成]印可を渡され後に越後村上の御城主榊原熊之助様へ被召抱」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼政辰が「一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」と絶賛する風傳流の遣い手。流祖直伝の中で随一の遣い手と思われる。
中山吉成に印可を伝授された後、越後村上の城主榊原熊之助に召し抱えられた。そして、榊原熊之助が十五歳になったとき、その指南役となる。榊原家は姬路に転封となり、遠藤半之丞は同地で病死した。
「榊原の御家は古く、古侍多く勿論藝者も多き中に半之丞か鑓術の位なる藝は無之のよし」と、榊原家中の士より伝え聞いたという。

上記の内、「榊原熊之助」というのは著者菅沼政辰の記憶違いで、代を取り違えたのだろう、正しくは「榊原虎之助」。越後村上から播磨姬路に転封となった式部太輔は「榊原政邦」一人ゆえに。
とすれば、若君が十五歳になったのは元禄二年のこと。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野与一郎 印可

L6「上野与一郎も一傳[中山吉成]印可の弟子にて、其比は近藤登様の御組にて勤たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「近藤登様」は脱字で、幕府の旗本「近藤登助」のことかと。年代から察するに「貞用」が該当する。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野伊大夫 免許

L7「同弟[上野]伊大夫も免許の鑓也。此外免許の鑓有。伊大夫は其比御歩行衆にて其比六百人の御歩行衆の内にて六人に撰れたる水の上手也」<風傳流元祖生涯之書>

L8「後に石貝十蔵殿御取持にて、禁裏様御守京都に御詰被成る久留嶋出雲守様の御組へ入与力にて京詰せしなり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「久留嶋出雲守様」は、幕府の旗本「久留島通貞」が該当する。この人が禁裏附に転じたのは天和二年六月二十七日のこと。つまり、その頃から上野伊大夫は京詰の与力となった。このとき「八郎右衛門」と改め、元百万遍の屋鋪の内に居住し、多くの弟子をとって風傳流を弘めたという。そして同地において病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-奥山治右衛門 ?

L9「奥山治右衛門殿と云御旗本衆も一傳[中山吉成]の弟子にて稽古被成候に、又勝れて馬をすかれ乗馬の上手にて」<風傳流元祖生涯之書>

L10「「さてもヶ様に可有とは知らすして、前に過言推参申たる也。此上は是非馬上の鑓を深望に存候間、未御免許は得す候へ共、馬上の鑓一通りの御相傳を偏に願ひ候」と御申有に、一傳[中山吉成]「心有て堅き御ちかひの上にて、馬上の鑓一通り迄を傳へたる」となり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・馬術に長けた奥山治右衛門、ある日中山吉成に馬上の鑓合を申し込む。風傳流において馬上鑓は免許の後に伝授されるもの、本来であれば断られるところ、中山吉成は承諾した。四本の鑓合の結果、四本とも中山吉成に敗れ、奥山治右衛門は非礼を詫び、是非とも馬上鑓の伝授をと願い許された。

当時の「奥山治右衛門」といえば、「奥山重治」が該当する。御書院番に列し、後ち番を辞して小普請となった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿七日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-3

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 年不詳

K1「一傳[中山吉成]は又鑓の外に念流の釼術を深く修行して、下手の打太刀は無刀にても取られたる上手なりといへ共、鑓は自己に立られたる風傳流なるに況や戦場にて鑓は別て諸士の武功を達器なる故に、望にまかせて是を廣くとり、又太刀術も弟子望み多しといへ共、是は断てあへて取合れす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・鑓術のみならず、釼術も相当な遣い手だった様子を伝えている。念流は、友松偽庵が彦根藩士であったことから、同藩において盛んに行われていた釼術の流派。無関係ではないかもしれない。

K2「玄関の内の連子まとにすかしの有る紙を張り置て、折ふし此すかしより見られたるを門弟は知らさる也。如此免許の鑓におしへすして免許せられたる事には皆人不審なしたる事也。是にはふかき事有。其免許を得たる人の鑓を遣ふを見ては皆人不審をはれたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・ちょっと面白い話。中山吉成は、こっそりと門弟の技倆を見て、その技倆有りと見れば免許を与えた。周囲の門弟たちは不審に思うが、その技倆を見て納得したという。

『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

K3「自然まれに元祖竹刀を持れて門弟の内を相手にしてからし物の業遣ひて見せられたるに其業のさへたる事其内に程をよくしてかね合をたかへす拍子の自由を遣はれし事勿論強柔の位過所及なく全躰の業うつくしくてさとく見へたり...幾度も右のことく拍子をたかへす遣ひて見せられたり。門弟真似て仕習ふに及はすして感したる事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「からし物の業」は、別に『風傳流からし物傳』と題する六冊が著されていることからして、風傳流にとって重要な技の仕組であったらしい。同流にとって重要な仕組であったが、この仕組の道理は難しく、菅沼政辰が見る限り、真に遣える者は少なかったという。晩年には、間違った形で遣われるようになっていたようで、おそらく、早々に本来の道理は失われたと思われる。

K4「元祖[中山吉成]の遺言よく残されし鑓屋田中喜左衛門に被申付たる鑓也。此鑓の柄天草の樫也。二十角にけつり惣鑓の形は外に道具の書と題したる内に記したることく也。身は両しのぎ長さ三寸五分也。是元祖吟味の上に長さ三寸と申付られたるに、鍛冶あやまりて三寸五分に出来たるに突ぬけ共に勝れたる故元祖五分長きをかまはすして其侭用ひられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の持鎗は、遺言によって月正寺に預けられた。その鑓について語られている。入念に吟味して鑓の身の長さ三寸と指定したにもかゝわらず、鍛冶が誤って三寸五分に作ってしまう、それでも中山吉成はそのまゝ用いたというから、昔の大らかな風情を感じさせる。
風傳流の鑓については、別に『風傳流素鑓真剱之形』という伝書が有って、流儀の指定する寸法というものがある。とはいえ、弟子の中には敢えて身の長さを「壱寸八分」に作るものも現れる。中山吉成は実見して「此通にて御用ひ候へ」と許したというから、何か目論見があってのことであれば、寸法の加減は許容されていた様子。

おまけ

中山吉成の実名は、「吉成」として知られている。
それは、ほとんどの伝書には系譜に「吉成」と記すし、種々の書籍にも「吉成」とのみ記されているから、当然といえば当然。

ところが、この頃所蔵の風傳流の伝書を見ていると、二つの発見があった。
「中山源大夫重昌」と書かれている。
「重昌」という実名は一時的に用いられたものか、「吉成」と改名する以前の実名なのか、定かではないが、たしかに実名「重昌」の時期があったと分る。

『風傳流仕合之巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
参考文献参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『曽我家文書』『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』
因陽隠士
令和七年七月廿五日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 ~60歳 大垣藩士~赤坂 寛文~延宝八年

F1「元祖[中山吉成]は其後加藤内蔵助様の御取斗ひにて濃州大垣の御城主戸田采女正氏信公へ被召抱たり。知行弐百五拾石被下、鑓は申立すして外様組に出る...此時は又元祖名を中山源兵衛と改む」<風傳流元祖生涯之書>

F2「[戸田]氏信公へ[中山]源兵衛身上相済たるには子細有。是は右内蔵助様兼て源兵衛を御懇意に思召て、則采女[戸田氏信]様へ御参會被仰しは、則御望の通[中山]源兵衛に知行三百石申付て可召抱と被仰て[加藤]内蔵助様御満足被成」<風傳流元祖生涯之書>
・・・加藤内蔵助の仲介によって知行三百石を以て召し抱えられるはずが、知行二百五十石になった子細について語られる。その内容は省くとして、結局「間もなく濃州大垣へ[中山]源兵衛妻子共に引越て勤めたり」と落ち着く。

F3「[中山]源兵衛は只風傳流の鑓を廣くする事をたのしまれて、此御家[戸田家]てにも三四年、又七八年の内には鑓免許の弟子も出来て所々国へも風傳流を廣めたる事有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・大垣戸田家に召し抱えられた年代は定かでないものゝ、少なくとも七八年以上は同家に仕えていた。

F4「大垣に勤られし時、『中書』といふ一冊を編て我々に渡されたる時」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の傳書『中書』が編まれたのは、この時期。

F5「[嫡子中山喜六]子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山父子の仲は険悪であり、中山吉成末期に及び、親類縁家の者が嫡子喜六の儀絶を解くよう頼んだが、中山の姓を名乗ることを許すのみだった。結局、嫡子中山喜六は浪人のまゝ江戸で病死する。

F6「[三男中山弥左衛門]鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

F7「[竹中]助大夫は某[菅沼政辰]か父故に元祖も兼て互に書通して出合ん事を念し、ある時元祖[中山]源兵衛思ひ立れ某[菅沼政辰]共に種々もてなし、則躮竹中弥左衛門も初て元祖へ對面す...某[菅沼政辰]も同道して大垣へ帰られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・元祖が不破郡岩手の竹中家を訪問したときの話。これは「風傳流の流祖中山吉成について考える-4」の「おまけ-竹中左京様」で触れた通り。

F8「[菅沼政辰]大垣にて暇を取たる比は菅沼与市と改めて大垣へも出入せしに、元祖[中山]源兵衛某[菅沼政辰]へ指圖せられしは、「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」と被申て」<風傳流元祖生涯之書>
・・・一足先に戸田家を辞していた菅沼政辰、師中山吉成より勢州津藩に風傳流を弘めるよう依頼される。当時、菅沼政辰の年齢は二十代半ばから後半。既に中山吉成の信任厚い。

F9「左門[戸田氏西]様御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝに面々の組頭より御意の趣を一札宛に記し是を渡し面々請取て浪人す...右の通の一札を請取て何れも大垣を出るに元祖[中山吉成]も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す。右大勢御暇被下候事」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の流祖中山吉成について考える-3において触れたように、延宝の大暇によって暇を出された話。家督を継いで三四年経ったころから藩財政が悪化し、延宝八年、大規模な解雇につながった様子を伝えている。
当時の組頭戸田権兵衛は、八百五十石戸田芳雄が該当する。

F10「其比某[菅沼政辰]桑名に居て右の沙汰を聞、元祖の事無覚束思ひ、即刻發足し夜通しに大垣へ行翌朝五つ時に直に元祖[中山]源兵衛宅へ見廻しに、はや元祖は屋鋪をあけ御城下より一里半北に「赤坂」と云所に仁科才兵衛と云人の方迄先程行かれたるよし」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成が浪人したという話を聞きつけた菅沼政辰は、急遽桑名から大垣へ急行し、中山吉成の無事を確かめた。

中山吉成 61歳 垂井滞在 天和元年

G1「其後同国の内往還に「たる井の宿」のうら静なる所に先年岡田将監殿といひし御役人の居られし明屋敷の有を元祖買とゝのへられ暫住居せられたるに」<風傳流元祖生涯之書>

G2「諸国より鑓の門弟等も多く見廻ふ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、一先ず「たる井」の地に腰を落ち着け、諸国の門弟に風傳流を指南していた。

G3「某[菅沼政辰]も又桑名より見廻たるに兼て拵へ置れて風傳流の印可の二巻此時某[菅沼政辰]へくれられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・おそらく、この時期に風傳流の印可二巻が成立したのではないかと。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 62~64歳 明石藩士 天和二年~貞享元年

H1「播州明石の御城主松平若狭守[直明]様の御家に右にも記したる元祖縁家の丹羽氏なと居る故に、ある時明石へ行れしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・丹羽氏は中山吉成妻寿貞の実家。また、中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽家の養子となり家督を継いだ。

H2「日数をへて明石へ行着れたるに間もなく若狭守[松平直明]様御家へ可被召抱由にて、此時知行三百石源兵衛へ可被下の御内意有之に...則御城の戊亥にあたる勘手新田にて十町の所を茶代として物外に被下御家中の内にて家屋敷を被下度々登城して」<風傳流元祖生涯之書>
・・・知行三百石を固辞して、勘手新田に十町の地を下された。これには理由があって、中山吉成は「知行を得て勤るには諸士の次第有て、上に立つ人多し、知行をうけす物外と成て家老中にも同位に語る事是物外長袖分の徳也。殊に年寄存生の程も知れたるに仕廻をよくして後に末弟等迄の知る所有り、物外か仕廻の程を必末々語り聞せ」と菅沼政辰に語ったという。つまり、身分によって生じる格式に煩わされたくなかったと。
なお、松平直明が明石の地に転封となったのは天和二年のこと。つまり仕官の話は天和二年頃と考えられる。

H3「[中山]源兵衛其比の名は物外といひ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・上にいう「長袖分の徳」。

H4「戸田左門[氏西]様へ御手寄の御老中御光来の節、御咄の序に被仰しは「何として上聞に達したるか、頃日上意に左門は中山源兵衛といふ家来に暇を出し則若狭守[松平直明]召抱たるよし、若狭守は能者を召抱たる」と上意有しと御語被成たると也。是聞ゆる筋有て元祖[中山吉成]我々へも語られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・どのような経緯で将軍様のお耳に入ったものかと、暇を出されて浪人となった中山吉成を松平直明が召し抱えた件について、老中から戸田氏西に語られた。
将軍に「能者」と言われことは無論名誉なことであり、中山吉成にとって嬉しくないはずがない。よって門弟たちにも語られた。

H5「貞享元甲子年七月十四日に病死せらる、行年六十四、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則兼ての法名「物外獨翁居士」と号す」<風傳流元祖生涯之書>
・・・松平直明に召し抱えられて僅か二三年、流祖中山吉成はその生涯を明石の地で終えた。
中山吉成の遺言によって、持鑓は月正寺に残し置かれた。
『風傳流元祖生涯之書』の著者である菅沼政辰は、後日月正寺に参り、中山吉成の墓に参り位牌を拝し、涙ながらに香典をさゝげた。そして遺族と対談し、桑名へ帰るに「道すから力なく元祖久敷つかわれし若黨に左次兵衛といふ者元祖にはなれ美濃の内在所へ帰るを幸に召つれ唯元祖こし方の物語りせめては旅のつかれのまきれとしてすごゝゝと桑名へ帰りし也」としめくゝった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『新修大垣市史』
因陽隠士
令和七年七月廿四日記す