無邊無極流の稽古

千本入身(享和三年)

入身稽古とは、素鎗に対して長刀・十文字・鍵鎗・太刀などを以て入身を行い、鎗に突き止められず勝てるか否かという稽古です
千本入身とはその名の通り、入身稽古を千本行うことを指しています

あまり詳しくありませんが、入身側は長刀を使う場合が多かったように思います

『入身千本幟』筆者蔵
『入身千本幟』筆者蔵

三俣家の旧蔵文書にこの『入身千本幟』が残されていました
紙製の幟で、おそらく千本入身当日に目立つところへ掲げられたものと思われます
そう考えると、なかなかの一大行事だったのではないかと...
記念にとっておいたのでしょう

『三俣義行日記:享和三年三月十七日部分』筆者蔵

その日の様子は、日記にも録されています
千本入身は好古堂において行われており、参加する門人たち九十一人には、三俣家から弁当が提供されました

因みに、この千本入身を行った当事者「冨之進」というのは、三俣家の五代目当主義武のことで、前回「無邊無極流の印可伝授」の「印可伝授の儀式」に参加した人物です

入身稽古(文政十年)

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

これは日々の入身稽古数を記録した冊子です
所有者は、先ほど千本入身で登場した「冨之進」の息子義陳ですね
確認できる範囲でいえば、義陳の曽祖父のときから無邊無極流の門下ですから、三俣一族は必ず同流に入門するようです

三俣義陳は、当時二十一歳

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵
『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

上の画像は稽古数を表にしたものです
私の解釈が間違っていなければ、三俣義陳が入身で勝った割合の方が多いです
使用した武器は、たぶんに長刀

なお、特別に冊子として記録された理由は、翌年の千本入身を控えてのことゝ思われます

千本入身(文政十一年)

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

父親と同様に千本入身を行った三俣義陳、当時二十二歳
家督を継ぐ以前のことであり、様々な武術を修め、学問にも励んでいました

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

前半に出席者の名前と本数が記録されています
酒井家の重職の名があり、参加人数も多く、無邊無極流は酒井家で盛況だった様子が窺えます

なお、この年殿様は江戸に在府で国許にはいなかったので、国詰の門弟たちは総出だったかもしれません

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

三俣義陳は入身長刀です
入身勝なら白丸なので、大半は入身長刀の勝利だったようです

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

巻末に通算されていて、入身1015本中、入身勝は723本、突身勝は292本という結果
突身側は入れ代わり立ち代わりで体力を温存できるのに対して、入身側の三俣義陳は一人で1015本立ち合ったわけですから、相当な力量だったと思われます

とはいえ、家中の者同士の稽古ゆえに、真剣に突身側が勝ちに拘ったのかどうか、一大行事ゆえに少しは三俣氏に華を持たせようという配慮があったのかもしれないと、想像したりもします
しかし、前年の『鎗術入身稽古數扣』もあるように、熱心に稽古に励んでいた様子も分るため、このような想像自体が失礼にあたりそうです

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

三俣義陳の父義武の日記に、千本入身のことが録されています

それによると、千本入身の前日に師家や手傳、世話役のところへ挨拶に行っています

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

千本入身終了後は、関係各所へ挨拶廻り
帰宅後は、師家や世話役などを酒肴で労い
翌日、再び関係各所へ御礼廻り

この辺りの流れは、平常運転といった様子

おわりに

当時の鎗術の稽古がいかなるものだったのか、その実態について私は詳しく知りません

たゞこの千本入身といった稽古を見ていると、どうも入身長刀の方を重視しているようで、いかに素鑓を攻略するかという執念を感じます

なぜ突身側の稽古記録が無いのか、なぜ千本突身ではないのか、といった疑問が浮かびます

もちろん、突身の稽古もしていたのは間違いないでしょう、無邊無極流は素鑓の流儀ですから
それなのにどうして入身側の勝利で飾る行事が行われるのか、ちょっと不思議ですね

同じく素鑓の流派である風傳流でも、流祖が入身長刀を披露していましたし、相当習熟していた様子が伝えられています

基本的に素鑓よりも長刀の方が有利であり、強いという前提があるような気がします
しかし、江戸時代の武士の慣習で、鑓という武器を用いることが重要ですし、どうしても鑓を使わなければならないという制約から素鑓の技を磨く流派が広く行われるようになったのかなと想像します

因陽隠士記す
2025.9/6

無邊無極流の印可伝授

今回は、酒井雅楽頭家(姬路藩)における無邊無極流の印可伝授について書きます
なお、同家において無邊無極流は殿様も修行するため「御流義」という位置づけでした
記録には、単に「無邊流」と記されることもあります

こゝでは酒井雅楽頭家の家臣三俣氏の古文書を取り上げ、無邊無極流の印可伝授の様子を見ます

印可起請文

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

印可伝授に際して、師家である山本家に起請文を提出します

起請文は遵守すへき箇條文言を云い、神文に前置します
故に、この文言を神文前書とも云います
本則は牛王を用い、このような白紙の者は白紙誓詞と云って午王の本誓詞に対して略式なるが故に仮誓詞とも云いました
略式とは雖も時代が降って一般にこれを用ひるようになったと見られます

内容は下記の通り

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

天明二年、三俣義行は二十九歳、酒井忠以公の家臣、未だ家督を継いでおらず、御用人並格・奉行添役を勤めていました
家中においては、金原宗豐に師事しており、江戸に在府の機会があれば山本氏に直接指導を受けたものと見られます
基本的に伝書の伝授は、山本家に依頼します

宛名の山本久忠は四十一歳、将軍家の御旗本であり無邊無極流の鎗術師範

印可伝授の手配

『金原宗豊書簡案』筆者蔵
『金原宗豊書簡案』筆者蔵

姫路にいる家臣たちは、江戸で直接山本氏に伝授を受けるわけにはいかないので、印可の巻物を送ってもらいます
上に掲げた書簡案は、その山本氏に印可巻物の手配を依頼したときの下書です

無邊無極流の伝書作成」にあるように、無邊無極流の伝授を受ける家臣たちは、それぞれ印可伝書を作成し、前の起請文を添えて江戸の山本氏へ送りました

受け取った山本氏は、それぞれの巻物に名前と判形を書き込み、送り返します

この伝授形態は、一般に行われるものとは少々異なると思われます

御礼

『三俣義行書簡案』筆者蔵
『三俣義行書簡案』筆者蔵

印可巻物を送られたことに対し、山本久忠に御礼状を認めます

先ほどの『金原宗豊書簡案』といゝ、この『三俣義行書簡案』といゝ、宛名の書き方に注目すると、山本氏の方が身分制度上の立場は下の扱いだったようです
『金原宗豊書簡案』では、「山 嘉兵衛様」と苗字を略されており、『三俣義行書簡案』では、「嘉兵衛様」と苗字さえ省略しています

印可伝授の儀式

酒井家の御流義たる無邊無極流の伝授は、一般の伝授と異なり、姫路の国許では藩主自ら伝授の儀式を行います

印可の伝授を受けた三俣義武がそのときの様子を日記に記録しています
惜しむらくは、虫食いによる欠損が著しく、読めないところがあることです

印可伝授の一ヶ月ほど前のこと
(文政三年十一月八日)
「無邊流鎗術印可御傳授被仰付」<日記>

三俣義武は、無邊無極流印可傳授の内意を承けました
そして、印可伝授の儀式に臨む前日、十二月四日藝事奉行より手紙をもって稽古場へ呼び出されます
おそらくこのとき儀式の予行演習があったものと思われます

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

(文政三年十二月五日)
「一東御屋鋪へ五つ時ゟ熨斗目着用の者着用其外服紗小袖にて罷出る」<日記>

東屋敷は藩主が日常の住居としていた下屋敷のこと
印可の伝授を受ける家臣たちは、殿様の住む東屋敷へ集合します

『姫路城史』

「一御稽古場にて左の通り二席に仰せ渡し之れ有り」<日記>

印可伝授の儀式を図解で説明していますが、細字に虫食いと判読が難しいです
「二席」というのは、「印可」の伝授と、「目付」の伝授です

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

図中「御」の一字は殿様を表していて、「印可傳授差免(さしゆるす)と御意」と家臣にかけられた言葉が記されています
因みに、このときの殿様は祇徳君(酒井忠實君、四十二歳)

殿様の右下に藝事奉行が控えていて、「藝事奉行御取合」とあり、この儀式の進行役を勤めたものと思われます

「三」「内」「金」「原」と下に書かれているのが伝授を受ける家臣たち、苗字の一字目で表しています
後で名前が出てきます、「三俣」「内藤」「金原」「原田」の四名

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

一旦、席を改めて、次は「目付」の伝授の面々へ「目付傳授差免(さしゆるす)との御意有之」と再び伝授を許すとの言葉がありました

印可の伝授の日と同じく、目付の伝授の儀式も併せて行われていました
「目付」は、印可の前段階にあり、目録一巻が伝授されます

「御」殿様の左傍に「高須七郎大夫」が控えています
後の図解にも登場しており、なんらかの重要な立場だったようです

下の方に「小」「本」「天」「三」と四人の家来が控えています
こゝの四名は「小野田」「本城」「天野」「三浦」

再び「藝事奉行御取合」として説明がされていますが、この部分は虫食いのため判読できず
断片的に拾うと、「始に先生二本遣」「勇之進二本遣ふ」「先生二本遣ふ」「御前へ拜礼し引込む」「先生直に引込む」云々と、何かしら無邊無極流の型の伝授が行われた様子が記されています

「一右目印御傳授遣ひ終て御装束之御間へ入らせらる、印可面々罷出て□□□拜礼、尤も進み出て神酒頂戴、一座に血判、先生手次之巻讀む、其□□□□□□服紗に包み□□□開き聞せ引込む、右装束之御間圖左の通り、尤も解□」<日記>

「手次之巻」というのは、印可五巻の内の一巻目、これを「先生」が読み聞かせるなど一連の儀式が記されています

こゝでもう一度図解へ

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

「御」とあるのは殿様、その向いに「御床御餝」があって、殿様の隣にいる「先生」のところへ「進出拜礼」の文字、その向いに「高須七郎大夫」
そして「門人」たち四人が並んでいます

「右印可面々、自分・内藤千太郎・金□[原]□左衛門・原田仲吉、右圖の通り、并に答へ拜礼神□□□、先生三方持参、面々頂戴、右圖の通り一座一度に神文血判、針、神文猿[懐か]中持参、夫□手次之巻先生読み聞せる、手次の巻猿[懐か]中より出□□□□□□開き聞せ候、直に引込む」<日記>

こゝで印可誓紙に血判して差し出したようです
そして、先生が印可の一巻目「手次之巻」を読み聞かせ退出

以上の儀式を終えると、稽古場へ移動します

「右畢て御稽古場へ御入らせ目印の通り先生弐本遣ひ見せ、門人遣ひ、又先生二本遣ひ見せ、門人遣ひ、三度にも四邊に遣ひ仕廻ひ、御前へ拜礼引込む、二人目より先生遣ひ見せす、先生遣ひ候内目印の通り」<日記>

先生が遣って見せ、それを門人が模倣、これを繰り返す

「一相済み御側御用人へ御役所へ御礼に罷出て候、藝事奉行役所へ断り」<日記>
「一鈴木□兵衛、高須七郎大夫、天野小平太、森文七郎、麻上下にて出席」<日記>
「一右の面々へ礼に罷越し候」<日記>

一連の儀式を終えると、三俣氏は関係各所へ御礼廻りに出掛けます

「一御頭并に印可面々、追々吹聴に罷越し候」<日記>
「一先生へ右四人より鰭節壱匹・酒礼十五枚遣はし候」<日記>

印可を伝授された、と家中の者たちへ知らせ、先生には御礼として「鰭節壱匹・酒礼十五枚」が贈られました

(文政三年十二月七日)
「一御屋敷御稽古に罷出て候処、先日の印可の節御餝りの餅頂戴」<日記>

一ヶ月後、儀式のとき飾られていた「御床御餝」の「餅」を頂戴
これで印可傳授の一連の出来事が終りました

『無邊無極流伝書』筆者蔵

おわりに

印可伝授の儀式について、日記の細字部分が虫食いで読めないというのは、とても残念でした
こういった出来事は文字にして記録されることが珍しいので、せっかくの好例だったのですが...

一連の流れをまとめると
1.印可伝授の沙汰(内定)
2.雛形を使って印可巻物を作成する
3.印可神文を作成する
3.御旗本山本家に印可巻物と神文を送付する
4.返送された印可巻物の御礼状を送る
5.印可伝授の儀式★
6.関係各所へ御礼廻り
7.家中の者たちへ印可伝授の件を吹聴する
およそこのような流れだったと思います

酒井家中の師範に師事して、認められゝば山本家から伝授されるという形態は、なんとなく、運転免許の取得に似ているかもしれません

因陽隠士記す
2025.9/4

無邊無極流の伝書作成

伝書の作成について、詳しく知っている人は少ないでしょう
それは史料が少ないことや、関心をもつ人が少ないことによると思います
私は昔から伝書の作成に関心があり、僅かな情報でも得られるように努めてきました

『無邊流印可下書』筆者蔵

伝書作成に直接関係する史料があります
『無邊流印可下書』と題された包紙に収納されていて、同流の印可伝書の見本や図法師を書くための型紙などが一式揃っています

『無邊流印可下書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵

図法師を書くための型紙には使用の痕跡が認められます
竹串のようなものは鑓などの武器を書くために用いたと思われます

『無邊流印可下書』筆者蔵

無邊無極流の印可は、『手次』『鎗合』『十文字合』『太刀合』『長刀合』の五巻をもって一揃いとします

『無邊流印可下書』にはこれら各巻の雛形があります

『無邊無極流伝書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵
「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」などの指示
『無邊流印可下書』筆者蔵

『無邊流印可下書』は、そもそも酒井雅楽頭家の家臣三俣氏が所蔵したものです

三俣氏は無邊無極流の師範ではありませんが、このような『無邊流印可下書』を所持していました
それはなぜか?
酒井家においては、印可のとき巻物を自前で用意すると決められていました
おそらく、師範家に負担をかけないよう配慮したものと思われます
というのも、酒井家における同流の伝授形態はちょっと特殊なもので、無邊無極流の宗家ともいうべき幕府旗本の山本家に伝授を依頼していたからです

つまり、印可の段階に至れば、家臣たちは各々が巻物を用意して神文を提出し、山本家に実名・判形を求めたのです

印可伝書は、下書の通りに作成され、実名・判形のところを空白にしておいて、江戸に送られました
そして、後日公式の場でそれぞれの家臣に伝授されます

因陽隠士記す
2025.9/2

冨田正次:疋田流向上極意之巻

先日、伝書類を点検していると、新たな虫食いを発見
もう何年も前に購入した伝書で、今さら虫が出るなど考えもしなかった
所蔵する伝書は、ほとんどのものを個別に管理しているため、他所から虫が入り込む可能性は無い

とすれば、ずっと以前に産み付けられた卵が有ったとしか考えられない
何年経っても油断するなということ

推測の域を出ないが、乾燥状態で卵は休眠しており、何らかの条件を満たして孵化するものか

というわけで、点検を兼ねて個別に投稿を開始
さして需要があるとも思われないが、いくつか投稿する

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

題簽は紙魚に舐められ文字は掠れている
通常よりも大振りな題簽は、表具と共に原装
紐も、この時代のものとして違和感無く、原装と見ている

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

外気に晒される面は、どうしても紙魚に舐められやすい
紺地のところよりも題簽の舐められ方が酷いのは、題簽を貼る際に使われる糊の所為

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

表具の見返しは在り来りな金地ではなく、緑地に型押しの金の花紋
なんとなく古風な印象
これは本紙の金箔散らしとの対比を狙ったものか

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

これでもかと散らされた金箔
相手への敬意を込めて、特注で誂えた伝書に見られる

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

華やかな金の中に、銀による彩色
目に鮮やかな色を使わないところが好ましい

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵
『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

本書を伝授した冨田正次は池田家の家臣、高三百石
池田利隆公・輝政公に仕えた

伝わっている履歴は少ない
十六歳のとき大坂夏の陣、父と共に利隆公に随い、追首ながらも手柄を挙げた

この伝書の四年後、寛永十九年江戸平川の普請に出張
山内忠義公への使者として土佐に下る
そして、国許の検見を数度勤める
慶安四年八月二十日病歿

本書を伝授された薄田兵衛門についても伝わっている履歴は少ない

冨田正次と同じく池田家の家臣、高四百二十石
慶長十二年に家督を相続
承応三年江戸留守番のため出張
度々検見を勤め、鉄炮引廻を命じられ、後ち二つの組頭を勤めた
寛文九年二月歿

巻末伝系や署名・宛名の書式が少し変っている
これは疋田栖雲斎のころの書式の名残か

参考文献『薄田家文書』『岡山藩家中諸士家譜五音寄』『吉備群書集成』『鳥取藩史』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

大聖寺藩の風傳流師範-3

六代 橋本國久 享保十年~文化二年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

橋本國久は、実は奥村家房の次男
長男の奥村嘉包より六歳下
先に触れた通り、奥村家房の妻が橋本郷右衛門の娘であったから、叔父さんの家を継いだことになる
橋本家の三代目当主

享保七年橋本家の養子となり、五人扶持・組外として召し出され
その後御帳横目、表御土蔵御目付を経て御馬廻組となり勤める
享和元年隠居、文化二年病没、享年八十一歳

七代 橋本郢興 明和四年~天保五年

橋本家の四代目当主
享和元年、橋本國久の隠居によって跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
天保四年病身になり隠居、翌年六十八歳にて病没

八代 橋本國輝 享和三年~

『風傳流指南之巻』筆者蔵

橋本家の五代目当主
天保四年、隠居した父郢興に代って跡式を相続、跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
安政元年江戸表へ御使、同四年摂州西宮御陣屋へ御固めに出張
また慶応元年京都へ御使、明治元年御供役、同二年東京へ御使と度々出張の御用を勤めた
東京から帰国すると御役を解かれて鎗術稽古示談相手を命じられた
(記録はこゝまで)

まとめ

1 奥村家幾 平士 御馬廻組 80石 御武具土蔵奉行
2 奥村家房 平士 御馬廻組 100石 御郡奉行
3 生駒氏以 平士 御馬廻組 170石 御馬廻頭
4 飯田良有 平士 御馬廻組 50石
5 奥村嘉包 平士 御馬廻組 100石 割場奉行
6 橋本國久 平士 御馬廻組 28俵
7 橋本郢興 平士 御馬廻組 28俵
8 橋本國輝 平士 御馬廻組 31俵

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』『金沢市史』
因陽隠士
令和七年八月朔日記す

大聖寺藩の風傳流師範-2

初代 奥村家幾 正保二年~享保五年

大聖寺前田家における風傳流の祖、その立場は他流において御家祖などゝ称される

武術の分野では、不思議なほど奥村家幾について語られることはなく、ほゞ触れられることもない
おそらく語るべき逸話の類いがほとんど伝わっていないのだと思う
もしくはその逸話が発見されていない

奥村家幾の家は、父平左衛門のとき前田利治公に召し抱えられ、大聖寺前田家の家臣となった

奥村平左衛門の祖父は勢州長嶋合戦のとき討死、父は末森城主奥村助右衛門を頼り、末森城の戦いに参加するがその後召し抱えられることはなく、浪人のまゝ大聖寺に病死した

そして、奥村家幾
寛文二年御歩行児小姓に召し出され
父の隠居後は家督五十石を継ぎ御郡横目となる
次いで御貸銀米奉行・御用米・闕所銀・御郡除米残金奉行を兼任し
享保三年御武具土蔵奉行となる
二年後に体調を崩したものか隠居して、三ヶ月後に病没した
享年七十六歳

家格は父の代より上り、御歩行から御馬廻組に昇進
知行は五十石から八十石に加増された

二代 奥村家房 元禄五年~享保十三年

享保五年、父奥村家幾が隠居して家督を継ぐ
御帳横目、御郡横目、御郡奉行を勤め百石に加増されるも、享保十三年三十七歳という若さで病没

風傳流門下にとって、師範奥村家房の早世は誤算にて、その子が成長するまで高弟が師範代理を勤めることになったと考えられる

奥村家房の妻は、橋本郷右衛門の娘
橋本家は後々風傳流と深く関わる

三代 生駒氏以 元禄元年~延享四年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟
元禄十年、新知百五十石を下され前田利直公の御近習として取り立てられ新たに一家を立て
江戸において利直公の御近習として勤める
よほど殿様に気に入られていたものか、父源五兵衛の屋敷を拝領するも、過分といゝ返却し別の屋敷を拝領している
御近習の次に御使小姓となり、また御供役、御中小姓となるなど殿様に近侍した

宝永七年利直公が没すると、翌年利章公の御入部に御供して帰国し、御徒頭となる
その後、大御目付・御鉄炮土蔵裁許を兼任、組外頭へ経て御小姓頭となり
延享四年、隠居することなく六十歳にて病没

四十一歳のとき奥村家房が急逝したことで
享保十三年より延享四年まで指南したと見られる
なお、風傳流の師範を勤めた時期は、大聖寺において組外頭~御小姓頭のころか

上載の伝書の系図に「奥村家幾-生駒氏以」とあって「奥村家房」の名が無いのは、生駒氏以は奥村家幾に師事したのであって、家房に師事していないことによる
たゞ、風傳流の系図上は、後世の師弟関係を考慮して「奥村家幾-奥村家房-生駒氏以」と記される

四代 飯田良有 元禄十二年~宝暦十二年

『風傳流免許巻』筆者蔵

飯田良有は、享保五年家督を相続し五十石を下され御馬廻組に御番入り

宝暦十二年病に罹り隠居、二ヶ月後に病没、享年六十四歳

生駒氏以が隠居前に病死したことで、代りに風傳流の師範になったと見られる
この時点で奥村家房の子嘉包は二十九歳になっているから、師範になることも出来たように思えるが、なにか事情があったものか、飯田良有が師範になった

飯田良有が師範になったのは、察するに四十九歳のとき

五代 奥村嘉包 享保四年 ~寛政七年

享保十四年、十一歳のとき父が病没し急遽その跡を継ぎ、同十八年家督を相続する
それから二十二年後の宝暦元年、三河・駿河方面に出張し普請を勤め、帰国後は割場奉行となり、その間度々江戸詰を命じられた
寛政元年隠居、同七年病没、享年七十七歳

宝暦十二年病に罹った飯田良有の跡を受けて風傳流の師範になったと見られる
見られる、というのは師範を継いだ年が明らかでないため

前掲の画像「飯田良有-橋本国久」の系図のごとく、奥村嘉包を省く伝書もある
三代生駒氏以のときに二代奥村家房を系図に入れないのと同様か
奥村家房の長男と次男とで、風傳流の系が分れたと見られる
とはいえ、系図に入れたり入れなかったり、扱いに悩んだものか?

参考文献『加賀市史料』『大聖寺藩生駒家文書』『大聖寺藩本山家文書』
因陽隠士
令和七年七月三十一日記す

大聖寺藩の風傳流師範-1

はじめに

大聖寺藩の風傳流は、奥村家幾に始まるとされる
あまり詳しい話は伝わっていない
たゞ大聖寺系の風傳流の伝書を見れば、一目瞭然にてさして疑うべき点もなく、それで良いと思う

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『武藝流派大事典』の風傳流系図に着目したい

中山源兵衛吉成-丹羽新兵衛重直-奥村助六家茂

この系図の特異な点は、「丹羽新兵衛重直」の名があること
普通に見られる系図は、およそ下記のごとく記され、その名は無い

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

『武藝流派大事典』の編集中、たまたま採用された伝書に記されていたと考えられるが、たしかめる術はない

さて、「丹羽新兵衛重直」
先日来、投稿してきた風傳流関係の記事でお気づきの方もいるだろう

大野藩時代に中山吉成が娶った妻は、丹羽彦左衛門の娘であり
中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽彦左衛門の養子となって家督を継ぐ
そして、「丹羽新兵衛」となる
管見の限り、実名は「重應」と伝わっている
「重直」と名乗っていた時期があっても不審はない

この中山吉成の三男「丹羽新兵衛」は
「人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て後猶巧者になりて」と伝えられている

そして、「丹羽新兵衛」が仕えていた越前大野藩と、大聖寺藩との地理的距離を見てほしい

「大聖寺藩」から南に下ると「越前福井藩」があり、そこから東の山間へ入れば「越前大野藩」に着く

奥村家幾が、「丹羽新兵衛」に風傳流を師事したとしても不自然ではない

なぜ、普通の系図に「丹羽新兵衛」の名が無いのか?
二つの可能性がある

1.元から「丹羽新兵衛」は間に存在しない
2.「丹羽新兵衛」に師事した後、中山吉成に直傳を承けた

このどちらか
私は、2の可能性は充分あると考えている

流派によって扱いは異なると思うが、風傳流はわりと中山吉成が積極的に指南する人物であり
他所から訪れる孫弟子に直接指南した様子を菅沼政辰が伝えている

自分の立場に置き換えてみると分るかもしれない
孫弟子だったら、流祖の直伝を受けたいと思うし、免許や印可を伝授されゝば、これに勝るものはない

つまり、奥村家幾は当初丹羽新兵衛に師事して免許以上を伝授されていた
後ほど、中山吉成に師事する機会を得られて、免許以上を追認されたとなれば
当然系図は下記の通り変更されるだろう

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月晦日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-濱嶋加右衛門 ?

L1「酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・酒井家の家来。中山吉成が風傳流を建立して初めての弟子。「酒井雅楽頭様」は、権勢を誇った酒井忠清公。
慶安四年の酒井家『御分限帳』を見たところ、「濱嶋加右衛門」の名は見当らず。

流祖中山吉成直伝の弟子-草芥弥九郎 印可

L2「井伊掃部様の御屋敷八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる御家来に草芥[侭]弥九郎と云者も弟子にて」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。草芥弥九郎は後に印可を許された人物。彦根の井伊直興公が幼名吉十郎といった若いときに風傳流を指南した。このため後々彦根の井伊家において風傳流の勢いが盛んになったという。

さて、「草芥」と原文のまゝ表記したが、正しくは「草刈」。原本に「草苅」と書かれていたものを誤写したのだろう。
「八丁堀の御屋敷守に被仰付置たる」という文言からして、承応二年に八丁堀御屋敷(彦根藩の江戸蔵屋敷)を預けられた草刈家の初代次郎右衛門が該当すると見られる。
また、草刈次郎右衛門は寛文三年、井伊直興公が八丁堀御屋敷へ移ってきたとき、その御付となっているから間違いない。但し「弥九郎」の称は記録されていない。

流祖中山吉成直伝の弟子-曽我権之丞 中書

L3「其比曽我権之丞殿は御歩行頭役を勤られ、一傳の弟子にて、書院の前に鑓小屋を立て日々稽古はけまれたる」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。曽我権之丞、鑓免許の御祝儀の席のこと、集った高弟たちに仕合を挑み、免許の相弟子二三人を破って増長し、さらに印可持の弟子に挑んだ。そこで受けて立ったのが遠藤半之丞。勢いづいた曽我権之丞だったが、技倆の差は歴然たるもので、八本の仕合で八本とも遠藤半之丞に敗れた。流祖中山吉成はこの時の遠藤半之丞の駆け引きに殊の外感心して、後々弟子たちに語って聞かせたという。
曽我権之丞は、この仕合のあとに心を改め、風傳流に精進し「中書」を伝授された。

流祖中山吉成直伝の弟子-遠藤半之丞 印可

L4「[遠藤]半之丞初は斎藤摂津守様に奉公せしに、外へ出て一傳[中山吉成]に慕ひ鑓修行せん為に、十八歳にて元服し、又其後暇願ひ浪人して只鑓の深く志し、一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」<風傳流元祖生涯之書>

L5「一傳[中山吉成]印可を渡され後に越後村上の御城主榊原熊之助様へ被召抱」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼政辰が「一傳の直弟子数千有内に勝れて鑓の事理共に風傳流に叶ひたる也」と絶賛する風傳流の遣い手。流祖直伝の中で随一の遣い手と思われる。
中山吉成に印可を伝授された後、越後村上の城主榊原熊之助に召し抱えられた。そして、榊原熊之助が十五歳になったとき、その指南役となる。榊原家は姬路に転封となり、遠藤半之丞は同地で病死した。
「榊原の御家は古く、古侍多く勿論藝者も多き中に半之丞か鑓術の位なる藝は無之のよし」と、榊原家中の士より伝え聞いたという。

上記の内、「榊原熊之助」というのは著者菅沼政辰の記憶違いで、代を取り違えたのだろう、正しくは「榊原虎之助」。越後村上から播磨姬路に転封となった式部太輔は「榊原政邦」一人ゆえに。
とすれば、若君が十五歳になったのは元禄二年のこと。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野与一郎 印可

L6「上野与一郎も一傳[中山吉成]印可の弟子にて、其比は近藤登様の御組にて勤たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「近藤登様」は脱字で、幕府の旗本「近藤登助」のことかと。年代から察するに「貞用」が該当する。

流祖中山吉成直伝の弟子-上野伊大夫 免許

L7「同弟[上野]伊大夫も免許の鑓也。此外免許の鑓有。伊大夫は其比御歩行衆にて其比六百人の御歩行衆の内にて六人に撰れたる水の上手也」<風傳流元祖生涯之書>

L8「後に石貝十蔵殿御取持にて、禁裏様御守京都に御詰被成る久留嶋出雲守様の御組へ入与力にて京詰せしなり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・「久留嶋出雲守様」は、幕府の旗本「久留島通貞」が該当する。この人が禁裏附に転じたのは天和二年六月二十七日のこと。つまり、その頃から上野伊大夫は京詰の与力となった。このとき「八郎右衛門」と改め、元百万遍の屋鋪の内に居住し、多くの弟子をとって風傳流を弘めたという。そして同地において病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-奥山治右衛門 ?

L9「奥山治右衛門殿と云御旗本衆も一傳[中山吉成]の弟子にて稽古被成候に、又勝れて馬をすかれ乗馬の上手にて」<風傳流元祖生涯之書>

L10「「さてもヶ様に可有とは知らすして、前に過言推参申たる也。此上は是非馬上の鑓を深望に存候間、未御免許は得す候へ共、馬上の鑓一通りの御相傳を偏に願ひ候」と御申有に、一傳[中山吉成]「心有て堅き御ちかひの上にて、馬上の鑓一通り迄を傳へたる」となり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・馬術に長けた奥山治右衛門、ある日中山吉成に馬上の鑓合を申し込む。風傳流において馬上鑓は免許の後に伝授されるもの、本来であれば断られるところ、中山吉成は承諾した。四本の鑓合の結果、四本とも中山吉成に敗れ、奥山治右衛門は非礼を詫び、是非とも馬上鑓の伝授をと願い許された。

当時の「奥山治右衛門」といえば、「奥山重治」が該当する。御書院番に列し、後ち番を辞して小普請となった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿七日記す