無邊無極流の印可伝授

今回は、酒井雅楽頭家(姬路藩)における無邊無極流の印可伝授について書きます
なお、同家において無邊無極流は殿様も修行するため「御流義」という位置づけでした
記録には、単に「無邊流」と記されることもあります

こゝでは酒井雅楽頭家の家臣三俣氏の古文書を取り上げ、無邊無極流の印可伝授の様子を見ます

印可起請文

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

印可伝授に際して、師家である山本家に起請文を提出します

起請文は遵守すへき箇條文言を云い、神文に前置します
故に、この文言を神文前書とも云います
本則は牛王を用い、このような白紙の者は白紙誓詞と云って午王の本誓詞に対して略式なるが故に仮誓詞とも云いました
略式とは雖も時代が降って一般にこれを用ひるようになったと見られます

内容は下記の通り

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

天明二年、三俣義行は二十九歳、酒井忠以公の家臣、未だ家督を継いでおらず、御用人並格・奉行添役を勤めていました
家中においては、金原宗豐に師事しており、江戸に在府の機会があれば山本氏に直接指導を受けたものと見られます
基本的に伝書の伝授は、山本家に依頼します

宛名の山本久忠は四十一歳、将軍家の御旗本であり無邊無極流の鎗術師範

印可伝授の手配

『金原宗豊書簡案』筆者蔵
『金原宗豊書簡案』筆者蔵

姫路にいる家臣たちは、江戸で直接山本氏に伝授を受けるわけにはいかないので、印可の巻物を送ってもらいます
上に掲げた書簡案は、その山本氏に印可巻物の手配を依頼したときの下書です

無邊無極流の伝書作成」にあるように、無邊無極流の伝授を受ける家臣たちは、それぞれ印可伝書を作成し、前の起請文を添えて江戸の山本氏へ送りました

受け取った山本氏は、それぞれの巻物に名前と判形を書き込み、送り返します

この伝授形態は、一般に行われるものとは少々異なると思われます

御礼

『三俣義行書簡案』筆者蔵
『三俣義行書簡案』筆者蔵

印可巻物を送られたことに対し、山本久忠に御礼状を認めます

先ほどの『金原宗豊書簡案』といゝ、この『三俣義行書簡案』といゝ、宛名の書き方に注目すると、山本氏の方が身分制度上の立場は下の扱いだったようです
『金原宗豊書簡案』では、「山 嘉兵衛様」と苗字を略されており、『三俣義行書簡案』では、「嘉兵衛様」と苗字さえ省略しています

印可伝授の儀式

酒井家の御流義たる無邊無極流の伝授は、一般の伝授と異なり、姫路の国許では藩主自ら伝授の儀式を行います

印可の伝授を受けた三俣義武がそのときの様子を日記に記録しています
惜しむらくは、虫食いによる欠損が著しく、読めないところがあることです

印可伝授の一ヶ月ほど前のこと
(文政三年十一月八日)
「無邊流鎗術印可御傳授被仰付」<日記>

三俣義武は、無邊無極流印可傳授の内意を承けました
そして、印可伝授の儀式に臨む前日、十二月四日藝事奉行より手紙をもって稽古場へ呼び出されます
おそらくこのとき儀式の予行演習があったものと思われます

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

(文政三年十二月五日)
「一東御屋鋪へ五つ時ゟ熨斗目着用の者着用其外服紗小袖にて罷出る」<日記>

東屋敷は藩主が日常の住居としていた下屋敷のこと
印可の伝授を受ける家臣たちは、殿様の住む東屋敷へ集合します

『姫路城史』

「一御稽古場にて左の通り二席に仰せ渡し之れ有り」<日記>

印可伝授の儀式を図解で説明していますが、細字に虫食いと判読が難しいです
「二席」というのは、「印可」の伝授と、「目付」の伝授です

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

図中「御」の一字は殿様を表していて、「印可傳授差免(さしゆるす)と御意」と家臣にかけられた言葉が記されています
因みに、このときの殿様は祇徳君(酒井忠實君、四十二歳)

殿様の右下に藝事奉行が控えていて、「藝事奉行御取合」とあり、この儀式の進行役を勤めたものと思われます

「三」「内」「金」「原」と下に書かれているのが伝授を受ける家臣たち、苗字の一字目で表しています
後で名前が出てきます、「三俣」「内藤」「金原」「原田」の四名

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

一旦、席を改めて、次は「目付」の伝授の面々へ「目付傳授差免(さしゆるす)との御意有之」と再び伝授を許すとの言葉がありました

印可の伝授の日と同じく、目付の伝授の儀式も併せて行われていました
「目付」は、印可の前段階にあり、目録一巻が伝授されます

「御」殿様の左傍に「高須七郎大夫」が来て言葉をかけられた?

下の方に「小」「本」「天」「三」と四人の家来が控えています
こゝの四名は「小野田」「本城」「天野」「三浦」

再び「藝事奉行御取合」として説明がされていますが、この部分は虫食いのため判読できず
断片的に拾うと、「始に先生二本遣」「勇之進二本遣ふ」「先生二本遣ふ」「御前へ拜礼し引込む」「先生直に引込む」云々と、何かしら無邊無極流の型の伝授が行われた様子が記されています

「一右目印御傳授遣ひ終て御装束之御間へ入らせらる、印可面々罷出て□□□拜礼、尤も進み出て神酒頂戴、一座に血判、先生手次之巻讀む、其□□□□□□服紗に包み□□□開き聞せ引込む、右装束之御間圖左の通り、尤も解□」<日記>

「手次之巻」というのは、印可五巻の内の一巻目、これを「先生」が読み聞かせるなど一連の儀式が記されています

こゝでもう一度図解へ

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

「御」とあるのは殿様、その向いに「御床御餝」があって、殿様の隣にいる「先生」のところへ「進出拜礼」の文字、その向いに「高須七郎大夫」
そして「門人」たち四人が並んでいます

「右印可面々、自分・内藤千太郎・金□[原]□左衛門・原田仲吉、右圖の通り、并に答へ拜礼神□□□、先生三方持参、面々頂戴、右圖の通り一座一度に神文血判、針、神文猿[懐か]中持参、夫□手次之巻先生読み聞せる、手次の巻猿[懐か]中より出□□□□□□開き聞せ候、直に引込む」<日記>

こゝで印可誓紙に血判して差し出したようです
そして、先生が印可の一巻目「手次之巻」を読み聞かせ退出

以上の儀式を終えると、稽古場へ移動します

「右畢て御稽古場へ御入らせ目印の通り先生弐本遣ひ見せ、門人遣ひ、又先生二本遣ひ見せ、門人遣ひ、三度にも四邊に遣ひ仕廻ひ、御前へ拜礼引込む、二人目より先生遣ひ見せす、先生遣ひ候内目印の通り」<日記>

先生が遣って見せ、それを門人が模倣、これを繰り返す

「一相済み御側御用人へ御役所へ御礼に罷出て候、藝事奉行役所へ断り」<日記>
「一鈴木□兵衛、高須七郎大夫、天野小平太、森文七郎、麻上下にて出席」<日記>
「一右の面々へ礼に罷越し候」<日記>

一連の儀式を終えると、三俣氏は関係各所へ御礼廻りに出掛けます

「一御頭并に印可面々、追々吹聴に罷越し候」<日記>
「一先生へ右四人より鰭節壱匹・酒礼十五枚遣はし候」<日記>

印可を伝授された、と家中の者たちへ知らせ、先生には御礼として「鰭節壱匹・酒礼十五枚」が贈られました

(文政三年十二月七日)
「一御屋敷御稽古に罷出て候処、先日の印可の節御餝りの餅頂戴」<日記>

一ヶ月後、儀式のとき飾られていた「御床御餝」の「餅」を頂戴
これで印可傳授の一連の出来事が終りました

『無邊無極流伝書』筆者蔵

おわりに

印可伝授の儀式について、日記の細字部分が虫食いで読めないというのは、とても残念でした
こういった出来事は文字にして記録されることが珍しいので、せっかくの好例だったのですが...

一連の流れをまとめると
1.印可伝授の沙汰(内定)
2.雛形を使って印可巻物を作成する
3.印可神文を作成する
3.御旗本山本家に印可巻物と神文を送付する
4.返送された印可巻物の御礼状を送る
5.印可伝授の儀式★
6.関係各所へ御礼廻り
7.家中の者たちへ印可伝授の件を吹聴する
およそこのような流れだったと思います

酒井家中の師範に師事して、認められゝば山本家から伝授されるという形態は、なんとなく、運転免許の取得に似ているかもしれません

因陽隠士記す
2025.9/4

姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

無邊無極流の伝書作成

伝書の作成について、詳しく知っている人は少ないでしょう
それは史料が少ないことや、関心をもつ人が少ないことによると思います
私は昔から伝書の作成に関心があり、僅かな情報でも得られるように努めてきました

『無邊流印可下書』筆者蔵

伝書作成に直接関係する史料があります
『無邊流印可下書』と題された包紙に収納されていて、同流の印可伝書の見本や図法師を書くための型紙などが一式揃っています

『無邊流印可下書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵

図法師を書くための型紙には使用の痕跡が認められます
竹串のようなものは鑓などの武器を書くために用いたと思われます

『無邊流印可下書』筆者蔵

無邊無極流の印可は、『手次』『鎗合』『十文字合』『太刀合』『長刀合』の五巻をもって一揃いとします

『無邊流印可下書』にはこれら各巻の雛形があります

『無邊無極流伝書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵
「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」などの指示
『無邊流印可下書』筆者蔵

『無邊流印可下書』は、そもそも酒井雅楽頭家の家臣三俣氏が所蔵したものです

三俣氏は無邊無極流の師範ではありませんが、このような『無邊流印可下書』を所持していました
それはなぜか?
酒井家においては、印可のとき巻物を自前で用意すると決められていました
おそらく、師範家に負担をかけないよう配慮したものと思われます
というのも、酒井家における同流の伝授形態はちょっと特殊なもので、無邊無極流の宗家ともいうべき幕府旗本の山本家に伝授を依頼していたからです

つまり、印可の段階に至れば、家臣たちは各々が巻物を用意して神文を提出し、山本家に実名・判形を求めたのです

印可伝書は、下書の通りに作成され、実名・判形のところを空白にしておいて、江戸に送られました
そして、後日公式の場でそれぞれの家臣に伝授されます

因陽隠士記す
2025.9/2

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31