春原幸前:神道流兵法序之巻

『神道流伝書』筆者蔵

当時の箱入りの伝書は意外なほど数が少ない
所蔵する伝書を数えても両手で足るほど
今回はその伝書の中からこの三巻揃いを

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

目にも眩しい金襴の表裂
パリッとして強(こわ)い、中に固い芯を使っているのか

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

罫引に金泥の絵
この様式は、知る限り承応のころまで遡る

筆耕の手跡も上手
藩の右筆方の仕事か

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

信州松代の真田家の佐分利流槍術指南役として知られる春原幸前
この伝書によって、神道流も指南していたと判る

宛名の「幸栄公」は、真田幸良公のこと
幸栄は前名
真田幸貫公の世嗣、松平定信公の孫にあたるが、公式には定信公の末男ということに
伝書を伝授された文政十三年は、十七歳の年
天保十五年、家督を継ぐ前に早世した、享年三十一

伝系に「落合瀬左衛門」の名がある
この名を見て思い出すのは、数年前の落合家文書散逸事件
勝手に事件と呼んでいる
覚ている方もいると思う

推測するに、東京方面で売りに出され、散り散りになり
さらにヤフーオークションで細切れに散逸したのかなと

せっかく現代までまとまって伝わってきたのに、バラバラに売り散らかさされるのはどうなのかなと思いつゝ眺めていたことを覚えている

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.11

猪多重良:新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書

疋田流に続いて出すべきものは、この新陰之流の伝書
『疋田流向上極意之巻』から十三年後の慶安四年に伝授された

『新陰之流伝書』筆者蔵

紺紙金泥の表具
金泥が掠れて見えにくいが、流水に草花、上下にそれぞれ向い合う蝶が描かれている
これは「対(むか)い蝶」といって、ご存じの通り池田家の副紋として用いられた

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

されに展(ひら)くと、擦れずに残った金泥で描かれた蝶があらわれる

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

巻頭に題などは無く、唐突に絵から始まる

伝書を眺める-疋田流」の絵に近しいものを感じ、また別の伝書に似たものを見た気がする

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

本書を伝授した猪多重良は言わずと知れた新陰疋田流刀槍二術の精妙を極め指南した人物

池田家に仕えたとされるが、同家の侍帳にその名は見当らず
また、『鳥取藩史』の記述には不可解な点があり*1、はたして池田家に仕えたものか疑わしい

1…『鳥取藩史』の編者も、侍帳に「猪多伊折佐」の名が無いことを不審に思っていた

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

さて、伝書の年号に注目してほしい
慶安四年とある
定説によれば、猪多重良の没年は寛永十年九月二十九日とされる

つまり、没後九年を経て伝授された伝書ということになる

これについては以前あれこれと調べた結果、『本藩武藝伝統録』に手掛かりがあった

「重良死去の後免状を送りし例、今以伊豫にては其通り也と云へり」<本藩武藝伝統録>

「八田正吉へ免状は 承應三年也」<本藩武藝伝統録>

「貞享二乙丑猪多重良灌頂之巻相傳」<本藩武藝伝統録>

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

死去後に伝授されている、けれどもそれを否定しない
そこに何らかの事情があったと読み取れる

しかし
「文筆に通じ、諸流の伝書を閲し、各師範家の伝説を聞き、墳墓を調べ、先輩故老に質し、「武藝伝統録」を著した*2」西田紅山*3でさえ言葉を濁しているから、現代の私が調べたところでこれ以上のことは分らないだろう

2…『三百藩家臣人名事典』

3…西山紅山は、疋田流を伝える八田家の生れであり、殊に疋田流に詳しい

最後に宛名の人物について

「池田掃部頭」とある
該当する人物は一人しかいない
「池田掃部長重」
池田長吉の孫で、寛永十九年鳥取において池田光仲公に三十人扶持を以て召し抱えられた
後ち五十人扶持七百俵を下されるが、京都に出て浪人となる
この浪人となった年が慶安三四年の頃とされているので、鳥取を離れる餞別として伝授されたものかと想像する

参考文献『鳥取藩史』『本藩武藝伝統録』『侍帳』『三百藩家臣人名事典』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

冨田正次:疋田流向上極意之巻

先日、伝書類を点検していると、新たな虫食いを発見
もう何年も前に購入した伝書で、今さら虫が出るなど考えもしなかった
所蔵する伝書は、ほとんどのものを個別に管理しているため、他所から虫が入り込む可能性は無い

とすれば、ずっと以前に産み付けられた卵が有ったとしか考えられない
何年経っても油断するなということ

推測の域を出ないが、乾燥状態で卵は休眠しており、何らかの条件を満たして孵化するものか

というわけで、点検を兼ねて個別に投稿を開始
さして需要があるとも思われないが、いくつか投稿する

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

題簽は紙魚に舐められ文字は掠れている
通常よりも大振りな題簽は、表具と共に原装
紐も、この時代のものとして違和感無く、原装と見ている

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

外気に晒される面は、どうしても紙魚に舐められやすい
紺地のところよりも題簽の舐められ方が酷いのは、題簽を貼る際に使われる糊の所為

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

表具の見返しは在り来りな金地ではなく、緑地に型押しの金の花紋
なんとなく古風な印象
これは本紙の金箔散らしとの対比を狙ったものか

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

これでもかと散らされた金箔
相手への敬意を込めて、特注で誂えた伝書に見られる

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

華やかな金の中に、銀による彩色
目に鮮やかな色を使わないところが好ましい

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵
『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

本書を伝授した冨田正次は池田家の家臣、高三百石
池田利隆公・輝政公に仕えた

伝わっている履歴は少ない
十六歳のとき大坂夏の陣、父と共に利隆公に随い、追首ながらも手柄を挙げた

この伝書の四年後、寛永十九年江戸平川の普請に出張
山内忠義公への使者として土佐に下る
そして、国許の検見を数度勤める
慶安四年八月二十日病歿

本書を伝授された薄田兵衛門についても伝わっている履歴は少ない

冨田正次と同じく池田家の家臣、高四百二十石
慶長十二年に家督を相続
承応三年江戸留守番のため出張
度々検見を勤め、鉄炮引廻を命じられ、後ち二つの組頭を勤めた
寛文九年二月歿

巻末伝系や署名・宛名の書式が少し変っている
これは疋田栖雲斎のころの書式の名残か

参考文献『薄田家文書』『岡山藩家中諸士家譜五音寄』『吉備群書集成』『鳥取藩史』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編

過去の日記 2023/04/23~

『神林流印可』筆者蔵

2025/8/15
この頃ようやくサイト更新の熱が高まってきました
しきりと伝書を点検しては、この筆跡はどうかな、この年代にこの紙質か、などゝ思索しつゝ日々を過しています

そのような日々を過す中、懐かしさを覚える伝書が出てきました、上掲画像

何が懐かしいのかというと、私が初めて買った時代小説が戸部新十郎氏の『幻剣 蜻蛉』だったのです
当時、剣道部に属していた私にとって、剣豪や剣術という存在は憧れそのものでした
本の内容こそあまり覚えていませんが、中条流(富田流)の富田一放が主人公の話
表記こそ違いますが、「富田一宝」は同人でしょう
まさか数十年後にその人物の古文書を手に取って眺めることになるとは、想像だにしなかったことです

かつて記した「大嶋流『印可』を讀む」に「富田一宝斎」の名が登場します

大島流の月瀬清信は、流祖大島吉綱に奥義を伝授された人物ですが、大島吉綱に師事する以前、慶長年のころ「富田一宝斎」に学んだと記されています

「富田」「戸田」「一宝」「一放」のような表記ゆれについては謎が多く、「富田一宝斎」本人の伝書をもう一巻所蔵しており、そこには「戸田一寶久次」と署名されています
何か事情があって表記を変えるのか、年代によって名乗りを変えるのか、よく分りませんね

因みに「富田一宝斎」は「神林流」という鎗術の一派を開いて指南していました
「神林流」は、『武藝流派大事典』にも載っていないため、早い段階で失伝したものと思われます

『神道流兵法之序』筆者蔵

2025/8/12
「伝書を眺める-〇〇流」、もう少し続ける積りです

気になる方もいるかもしれないので、ちょっと話して置きます
画像、手に取って撮影する意図は、そのものゝ質感を伝えるにはこの方が良いと判断したからです
平置きで物だけ撮った画像よりも、なんとなく臨場感を得られるのではないかと愚考しました

たゞ欠点として、この撮影の仕方は、文書そのものを傷める可能性があります
私はもう二十年以上毎日のように古文書を触っているので、よほどのことが無ければ、追ったり曲げたりするようなことは無いと思いますが、それでもかなり注意して撮影しています

2025/8/11
近ごろ、日課の習字を怠りがちです
進歩が見えず、毎日せずとも実力は変らないのではないかという疑念

このような愚痴をこぼしていると、なぜか少し気持ちが前向きになってきました
もう一度初心にかえって習字に取り組みます

2025/7/30
届きました『侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)』
これで既刊は全巻揃いました
売り切れてなくて良かったです
『侍中由緒帳』は井伊直興公のとき編纂され以後書き継がれたそうで
井伊直興公といえばちょうど風傳流の草刈次郎右衛門が指南役を勤めた若様ですね

彦根城博物館のページを貼っておきます
刊行物一覧
在庫状況が分らないのは不便
それとこの現代においてFAXや現金書留で購入という旧態依然とした取引方法です
なぜメールや銀行振込が出来ないのかと

連日暑いですね
剣道場で汗を流していたころを思えばこれぐらいの暑さ
なんてことはないと言いたいところですがその頃よりずいぶんと暑い気がします

2025/3/14

『蝙也齋行狀』を讀む

夢想願流松林左馬助の行狀を記した『蝙也齋行狀』を讀むを投稿しました。

令和七年三月十四日 因陽隱士

2025/3/11

所藏史料紹介:伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡
所藏史料紹介:疋田流三卷

次回は願立剣術の『蝙也齋行狀』を讀む、を投稿豫定です。

令和七年三月十一日 因陽隱士

2025/3/10

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

久しぶりの更新です。去年病を患い、身邊の環境も變化し、しばらく更新が滯っていました。
その間、このサイト「武術史料拾遺」について、存在の意義は有るか無いかなど、遲疑逡巡し、まことに病によって心まで弱くなるものかなと實感しました。
またその一方で、そもそもこのサイトは見返りなど一切期待しない、只管自分の好奇心と向上心とを滿たすことを目的として作ったのだと、改めて思い至り、今後も續けることを決意しました。
諸兄の期待の萬分の一にも沿うことのできない蕪穢のみ、淺學菲才の身を恥じ入るばかりです、どうか御容赦を。

令和七年三月十日 因陽隱士

7/28

武術史料拾遺餘滴-2

同じ餘滴を二つ作るという一見して無駄な行爲なのですが、實はサイトのデザイン變更には、非常な手間がゝゝるため、餘儀なく別サイトを立てることにしました。

筆蹟の良さを傳えたいとか、畫像とテキストとの配置を斯うしたいとか思うと、それに最適なデザインというものは、また一から構築しなければならず、そこに從來の內容をそのまゝ移すことも出來ず、とそんな次第です。

サイトの仕立を別角度にしてありますので、ほんの少し樂しめるのではないかと思います。

令和六年七月廿八日 因陽隱士

3/31

所藏史料紹介:御傳授居合極意大橫物幷神號

姬路藩三代藩主酒井忠道公、林崎流居合の極意を傳授、當大橫物を揮毫。
當時、公は在府しており、幕臣に傳授したものか、同藩に該當する人物はいない、箱書は幕府の御右筆靑木半藏の筆になる。
なお、公が林崎流の極意を傳授するほどの達人であったことは、記錄に見出せず、新たな發見と言える。
公について傳わるところは、天性學問を好み博識であったこと、筆蹟は見事で隸書を能くしたと。

令和六年三月丗一日 因陽隱士

3/30

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

去年十一月、雜記に觸れた甲乙流七卷を揭載。
關聯文書は無く、何れの家中の士か。

令和六年三月晦日 因陽隱士

昨今、NVIDIAの躍進たるや筆舌に盡くし難いものがあり、日々心を躍らせています。
AIの進化は著しく、世に、AI元年と言われるほどの隆盛ぶり。
破壞的イノベーション、產業革命。
今、私たちは途轍もない進步の出發點にいるのかもしれません。
一體、人類はどこまで行くのか、生きている間にその發展を見たいと思います。

12/24

所藏史料紹介:禰津流鷹序拔書斷卷

鷹術の傳書は一點のみ藏す。
祢津常安、德川家時代のものではなく、武田家時代のものである點に注目。

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

再び揭載。

令和五年十二月二十四日 因陽隱士

12/22

所藏史料紹介:禰津流獫牽祕書四卷

寒風吹きすさぶ本日、仕事納め。
寒威の衰えるまで籠城の構えです。

さて、改めて「獫牽(いぬひき)」の傳書を揭載。
今日、「犬牽」「犬引」の文字が普通ですが、當時の傳書には「獫牽」の字が宛てられています。

「獫牽」の職は、「鷹匠」の派生。狩に用いる犬の管理職ですね。ざっくり言うと。
それが、御犬さま・犬公方でお馴染み、あの時代になると、保護犬たちの管理職にもなります。これは狩で用いるわけではありませんね。

急遽、たくさんの犬を保護しようという流れから、「獫牽」の人員を增すため、鷹狩場の管理職「鳥見」の方面から、轉職させられた者もちらほらいたようです。
本傳書の「飯田長左衞門」もその一人。
「鳥見」から四谷の「犬小屋支配」を任されました。

あまり詳しいことは分っていません。
本傳書の時期は、旣に犬小屋を廢していたようですが、犬の扱い方を傳授していたようです。

宛名の人物について調べるため少々時間をかけました。
かけたほどの成果はなく、推測の域を出ない情報しか集められませんでした。

そもそも、本傳書の內、宛名を一にする三卷は、加賀八家の一つ前田近江守に仕えた武士が所藏していたものです。
そこから類推すれば、かつて大聖寺藩主前田利直公が四谷犬小屋の普請に關わっており、こゝで交りが出來、その後、家中の「獫牽」への傳授という流れがあったのではないかと。

『稿本金澤市史』に「犬牽」の記述があり、これは慶長まで遡ります。狩のため唐犬を用いていました。
その「犬牽」に、「才次郞」・「才兵衞」兄弟の名があり、何やら本傳書「才助」と關係があるのかな?と思わせます。
(この場合、大聖寺藩ではなく加賀藩の方です)

もう少し丹念に資料を探せば、あるいは「獫牽才助」を見付けることができるかもしれません、が取り敢えずこゝまで。

推測は推測、確證を得るまで現實とは關係ありません。

令和五年十二月二十二日 因陽隱士

追而。
宛名を一にする三卷の外、「伊藤才一郞」宛の一卷があります。
この人物は、加賀藩の「手明足輕」の名と一致します。
通稱が「才」ではじまり、もしかすると「獫牽才助」の苗字も「伊藤」かもしれませんね。
記憶が確かであれば、この一卷も同所から出たものです。

『獫名所』は、はじめ犬の部分名稱について觸れ、その後天竺より日本へ傳來した三つの犬の經緯について述べます、これは他人より尋ねられた際の答えとして。
『獫請取渡之卷』は、その題が示すように犬の請け渡しの作法、その際の應答などについて。
『唯授一人犬飼傳書』は、印可の證として傳授されました。
『祢津家獫之祕書』は、犬の日本への傳來にはじまり、繩の解釋や杖、犬の膳の組み樣、ツボに關する繪圖などが記されています。

12/18

所藏史料紹介:井上流二卷

そろそろ、劍術以外のものを揭載します。
手始めに、井上流砲術の傳書を。

令和五年十二月十八日 因陽隱士

12/16

日課の習字を始めて二年を經過。
每日一時間を費やし、運筆の術を學ぶわけですが、漫然としていても學びは無く、得られるものは”慣れ”のみ。
新たに何かを習得するためには、積極的に先達の術を見て眞似することが捷徑となります。
しかし、每日每日集中力を切らさず、習字に取り組めるかといえば、そうではなく、當然、たゞ”慣れ”るだけの漫然とした習字になることもあります。
これが全く駄目かといえばそうではなく、單純に筆を遣って書くという動作が、體と腦との連攜に確かな經驗を與えて吳れます(最善とは言えませんが、無駄ではないという逃げ場)。

私の習字の目的は、名人や達人と呼ばれるような能書を目指しているわけではありません(自身にその才能が無いことは、重々承知しています)。
習字によって得られた經驗が、古文書の筆蹟判別に大きく寄與することを期待しています。特に、筆の働きというものに注意していれば、微かな轉折にさえも氣付くべきものがあると思うのです。

取り敢えず、一萬時間を目標として、日々習字に取り組む積りです。

畫像の扇面は、先日臨書の最後にそのまゝの流れで書いたものです。
書道の方面では、淸書や作品として丹精込めて書くものがあるように思いますが、恐らく、私は一生そういう書き方をしないでしょう(わざわざ他人に上手だろうと見せるほどの字は書けませんし、それに相應しい人格も持っていません)。
敢えて、こゝに蕪穢を載せた心意は、習字に取り組む活力を得ることにあり、且つこのサイトは無機質に過ぎるので、ちょっと蛇足として。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

今年、殘すところ僅か半月。
振り返れば、SVB破綻、プリゴジンの亂、イスラエルと肝を冷やすこともありましたが、米國のCPIは順調に低下、先日のFOMCも無事通過しました。
先月、ほゞ仕事を終えたので、そろそろサイトを更新しようかと...

12/16

戶田一寶=富田一放?
上に揭げた傳書は、慶長七年のもの。
この時は、戶田氏を名乘っていますが、元和七年の傳書では富田一寶齋と名乘っています。實名は變らず同じ。
神林流の祖となる。

一放の名乘りは、同一人か?

富田流・戶田流・留田流、系譜が紛らわしいですね。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

12/15

所藏史料紹介、今年は劍術關係の史料のみに絞っていたゝめ、鎗術や柔術など、未だ揭載していない史料が數多あります。

こゝに擧げた傳書は、寳永の留田當流。
少しネットで檢索すると、Wikipediaの戶田當流がヒット、服部是右衞門正長まで同じです。

「現在は宮崎縣高千穗に祭りの棒術として殘っている」という、その關聯畫像と、この傳書の棒が似ていますね。

令和五年十二月十五日 因陽隱士

11/9

武術史料拾遺餘滴 / 古文書を讀む爲に
長らく放置したまゝ忘れていました。ログイン出来るか心配です。

 ○
寒くなってきました。
ふと氣がつき、所藏する文書群を點檢していると、蟲が湧いていました。
これは九年前に購入した家文書で、何事もなく保存していたものが、なぜ今になって蟲が湧くのか不思議でなりません。正月か春ぐらいにも點檢したのですが...
蟲が外から入ったという可能性は限りなく低いので、ちょっと困りましたね。

所藏する古文書は、大きい古文書箱だけでも百箱を超えています。これら全てを一人で點檢し續けるというのは、相當難義で、どうしても期間が空いてしまい結果蟲の浸蝕を許す。
そろそろ所藏文書を減らした方が良さそうです。

(卷物は滅多なことで蟲に喰われませんね。見たところ、裂で覆われていることが幸いしているようです)

令和五年十一月九日 因陽隱士

11/9

古文書蒐集のために活動中のこと、何氣なく目に入った額に途轍もない逸品がありました。
大鹽平八郞の書です。
「大袈裟なことを言うな、よく有る」と思われるかもしれません。

私が大鹽平八郞に興味を覺えたのは、八年前、書翰を購入したことがきっかけでした。
以來、書翰・掛軸・額など、數多く觀て得た結論は、本物は少ないということです。
特に、本物に相違なし、100%本物と言い切れるものは、更に少なく、これは自身の見識の低さゆえのことですが...
とはいえ、贋物が多いのは間違いなく、
世の中に「よく有る」と思われる大鹽の書は、ほとんど贋物と言って良いでしょう。
そういうわけで、本物に相違なし、100%本物と言い切れるこの大鹽の書は、途轍もない逸品と稱しても過言ではないのです。

關係ない話しですが、大鹽は佐分利流の鎗術を能く遣ったと傳えられています。

令和五年十一月九日 因陽隱士

「格物者格其心之物也。其意之物也。格其知之物也。正心正其物之心也。誠意者誠其物之意也。致知致其物之知也。自有大學以來。無此議論。此高明獨得之妙。夫豈淺陋之所能窺也邪。」

11/5

所藏史料紹介:新影流起請文
所藏史料の劍術關係の中、この史料は最も古く、年代順目次の先頭に配置。
古い時代の文書は冩が多く、兎角注意が必要です。

令和五年十一月五日 因陽隱士

11/3

本日は「所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷」を掲載。
圖卷は値が張りますね。近頃は散財を控えるため、倹約を旨としていますが、珍しい流派だと思いつい購入。
直近購入した新陰甲乙流の傳書も揭載したいですが、七卷あるため、ちょっと遲くなりそうです。畫像の取り込みとか色々と。

令和五年十一月三日 因陽隱士

11/2

所藏史料紹介:山野流斬法手前圖卷

備前岡山藩の繪師による圖。傳授された人は岡山藩の士かもしれませんね。
山野流は文字通り山野氏の開いた流派ですが、それ以前に師事した人物がおり、それが中川左平太。山田淺右衞門と山野氏とは同門だったようです。

令和五年十一月二日 因陽隱士

10/29

本日は「無名老翁岡本宣就筆唐詩卷」を揭載。これを揮毫した年月は明らかでないものゝ、原裝に着目すると、寬永の末から明曆の間、宣就晚年の筆と考えられます。跋にも「象嵌の老翳」「龜手の禿毫」の文言あり、老年であることを示しています。

令和五年十月二十九日 因陽隱士

10/28

本日は「國友一貫齋書簡を讀む」を揭載。これは以前揭載したものを改めたものです。
姬路藩の方の一貫齋書簡も追って揭載します。今囘の大野藩のように(この時は頓挫)、一貫齋は姬路にも訪れ、交涉を重ねて筒の註文を受けていました。姬路藩士の日記にその一聯の流れが、大まかではありますが記錄されています。

今囘の大野藩の時は、一貫齋患いのため訪問できなかったのですが、姬路藩の方なら訪問時の動向を知ることが出來るので、面白いはずです。

令和五年十月二十八日 因陽隱士

10/25

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

齋藤彌九郞龍善、練兵館の二代目。書は卷菱湖に學んだと傳えられています。菱湖は當時書壇において一世を風靡した人物ですが、卷菱湖(1777-1843)、齋藤龍善(1828-1888)、兩者の年齡を考慮すると、龍善元服頃まで學んだということ哉。或いは、菱湖流を能くする人物に繼續して師事したものか、詳しいことは傳わっていません。


書簡の文面ばかりでなく、その筆蹟を樂しむことも私の趣味の一つです。そのため、書幅も倂せて揭載しました。これは龍善四十三歲、明治三年五月の揮毫。その冠帽に捺された印文には「道理貫心肝」の一文が引かれており、これは『蘇軾文集卷五十一』の一節。「道理貫心肝.忠義塡骨髓」と續き、當時から好まれた文言で、水戶烈公や松平春嶽もこの一節を揮毫しています。

令和五年十月二十五日 因陽隱士

10/24

『物外不遷書簡』を讀む

本日は物外和尙の書簡を揭載。これを篋中に見出したときの喜び、古文書を蒐集している方ならば、察してくれるでしょう。
本項に書き洩らした點を補足すると、物外和尙が濟法寺から發した書簡です。

令和五年十月二十四日 因陽隱士

5/27 更新

所藏史料紹介に「圓明流三卷」を加えました。

全てのページの西曆換算について、一部誤差があると氣付きました。
未訂正です。

不正アクセスの爲、サイトの表示が重くなっているようです。

令和五年五月廿七日 因陽隱士

5/24 更新

所藏史料紹介に「一刀流兵法別傳天眞傳兵法二卷」を加えました。

令和五年五月廿四日 因陽隱士

5/20 更新豫定

今日は、吉岡憲法流の傳書を史料紹介に加えようと思います。

令和五年五月廿日 因陽隱士

5/15 更新

傳書の傳授日には、特別な意味をもつものがあり、また特別な意味をもたないものもあり、師弟間の調整で日付を決めることもあります。
槪して、傳書には傳授の年月日が記されるものですが、傳授されたにもかゝわらず、傳授日が記されいないものを稀に見ます。
本日更新した『念流正法兵法未來記卷』はその一つです。敢えて傳授日を記さない理由は?

令和五年五月十五日 因陽隱士

5/13 更新

所藏史料紹介に幕末の有名所を追加しました。當分の間、劍術に絞って更新します。

令和五年五月十三日 因陽隱士

5/6

現在、サイトは「所藏史料紹介」「~を讀む」「觀賞」の三つに分けて構成しています。
本來、「所藏史料紹介」は『武術史料拾遺』の中核として、全文飜刻、註釋付きで揭載するものですが、前記の如く、海外に丸ごとコピーしたページを作られるため、大幅に省略しています。

また、アクセス制限や閱覽制限付きといった適切な環境が整えば、本來の「所藏史料紹介」が出來ると考えています。

令和五年五月六日 因陽隱士

4/23 江戶時代の武術に關する古文書・古記錄を讀む。

現在、サーバの移行を完了し、表字速度は大幅に改善されました。
これに伴い、サイトの記事を見直しています。

サイトの設立は平成二十六年七月七日のこと、当初は「武術の古文書」と題していました。
その頃は、多くの方々に傳書の存在を廣めたく、またその內容が何かの役に立てばと思い、代價を求めず、多くの傳書を揭載し、譯文を作成して附し公開していました。
これは全て私の趣味であり娛樂として...

しかし、追々、海外にコピーサイトに類するものを作られ、甚だ不快な思いをしたことから、サイトの方針を轉換し、大幅に傳書の揭載を縮小することにしました。

それまで閲覧することを樂しみに來てくださっていた方々には申し譯なく思います。

海外からアクセス出來ないようにしたかったのですが、それも難しく、誰でも自由に閱覽できる環境が、無斷で丸ごとコピーしても良いという思い違いを生むのかもしれず、現在は何かアクセス制限や閲覧制限付きという形で公開できれば善いと考え、その適切な方法を模索しています。

なお、熱心に問い合わせて下さった方々に對し、諸々の事情によって返事できないまゝ、音沙汰無く今日に至り、申し譯なく思います。

令和五年四月廿三日 因陽隱士

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流史料の蒐集

風傳流史料の蒐集
『風傳流傳書五巻』筆者蔵

私が風傳流について調べようと思ったきっかけは、2015年夏のある出来事。
ある日、知人から連絡がきた。
「武道書を引き取ってもらいたい」と。

後日、喫茶店に会して話を聞いたところ、私が武道書を蒐集していると伝え聞いた知り合いに頼まれたとのこと。
そうして見せられた武道書は全部で十二巻あり、その内の数巻に風傳流の文字がある、なるほど槍術の一派かと気付く。
当時、風傳流についてはその存在を知るぐらいで、大した知識は無く、そのほかの巻物についても、知らない流派の砲術だった。

武道書を引き取るに際し、もちろん貰って帰るわけにはいかない、幾許かの謝礼金を渡し、しばらく雑談して家路につく。

帰宅して調べてみると、風傳流の傳書は、大聖寺藩の鎗術師範橋本助六が傳授したものだと判明する。
そして、傳授を承けた人物も大聖寺藩士だと。
また更に仔細に調べたところ、本来八巻揃いの傳書が、どうやら二巻欠けていることも判った。

仕方ない、二巻欠けていても構わない、さっそく翻刻に取り組み、七巻の翻刻を終え、風傳流や師範、被傳授者について調べた結果をサイトにまとめて公開した。

その翌年夏のこと、衝撃的出来事が起る。

欠けていた『風傳流外物合』の一巻が、ヤフーオークションに出品されているのを発見してしまう。
さらに、説明文には私のサイトの文章がまるまるコピーされていることに驚いた。因みに引用元の表記は無し。

どういう経緯で一巻だけ分れてしまったのか、釈然としない気持ちを抑えつゝ、落札するぞと意気込んでオークションに参加したものゝ、結果は驚きの十五万円だった。

高い、高過ぎる、その認識が誤っているのか、落札できなかったのは悔しいけれども、それほど評価されているのだから、喜ぶべきかもしれない、と思い直し涙を飲む。

 

このような事情があって、私の風傳流への関心は一層強くなり、後々まで風傳流の史料を探す原動力となった。

真夏の暑い日差しを浴びると思いだす風傳流史料蒐集の始まり。

『風傳流素人書 五巻』筆者蔵
『風傳流鑓免許次第 全』筆者蔵
『風傳流十文字之傳 上下』筆者蔵
『風傳流素鑓一切留身並突身之次第 五巻』筆者蔵
『風傳流元祖生涯之書 上中下』筆者蔵
『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

その後も順調に?風傳流史料の蒐集は続いた。
時に先を越され、時に予算のために諦めるなどしつゝ。

直近、数年前に蒐集した風傳流の史料は、流祖中山吉成の高弟菅沼政辰の著書の写本群。蟲に喰われて酷い有り様。数日かけて慎重に紙と紙との癒着を剥して、殺虫処理するなど、手間がかゝった。けれども大満足。

蒐集癖の根本には、どうも狩猟本能があるらしい、と最近思い至った。

この写本群、調べてみると、どうも藤堂家の家来が風傳流の門弟で、これら写本を書き残したらしい。

藤堂家には菅沼政辰が流儀の普及に赴き努めた結果、藤堂侯の上聞に達し、下屋敷で風傳流上覧の流れとなり首尾能く勤め、のち家老藤堂仁右衛門が弟子となる約束をしたという。

そのようなわけで、藤堂家には風傳流が行われていた。

久しぶりにサイトを更新しようと思い立ったのは、以前からこの写本群の中の『風傳流元祖生涯之事』が気になっていたから。

因陽隱士
令和七年七月廿日記す

『蝙也齋行狀』を讀む

『蝙也齋行狀』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、『蝙也齋行狀』です。蝙也齋は、夢想願流を開いた松林左馬助のこと。同流七巻の伝書や英名録と共に保管されていたものです。『所藏史料紹介:夢想願流居合次第』は、その七巻の内の一巻。

『蝙也齋行狀』に書かれていることは、既に知られていると思いますが、これ自体を取り上げた記事を見なかった爲、拙劣ながらも敢えて現代語訳を試みました。またその原文と、傳書中に書き込まれた朱筆に依って書き下しも載せてありますので、それぞれ見比べて文意を汲み取ってもらえれば幸いです。

蝙也齋行狀 松林氏左馬助永吉。別稱を無雲と曰ふ。晚年隱退して蝙也齋と號す。父は松林權左衞門永常。世〃(よゝ)上杉家に屬して景勝に使ふ。文祿二年癸巳の歲を以って、蝙也を信州川中嶋松代に生(むめ)り。
蝙也齋の行狀(生前の事蹟・言行を敍述した文章) 松林氏左馬助永吉は別稱を無雲と云う。晚年隱退して蝙也齋と號す。父松林權左衞門永常は代々上杉家に屬し景勝に仕えた。文祿二年癸巳の歲、信州川中嶋松代に蝙也を生む。

蝙也少(わか)かりしときより志を劍術に屬(はけま)し。常に自ら以爲(おもいらく)。夫れ劍術は兵家の先務也。士たらん者(もの)學ばずんはあるへからす。遠く劍術の濫觴(らんせう)を原(たつぬ)るに。其の源(みなもと)蚩尤(しゆう)より起れり。昔葛天廬(かつてんろ)の山發(ひら)けて金出づ。蚩尤受てこれを制して。以て劍鎧(けんかい)を爲せり。此れ劍の始り也。
蝙也は若かりしときより志を劍術に勵まし、常に考えていた。劍術というものは兵家が第一に爲すべき務めであり、士でありたい者は學ばないわけにはいかない、と。劍術の起源を原(たづ)ねれば、その源は蚩尤(しゆう)のときに始まる。昔、葛天廬(かつてんろ)という山から金が掘り出され、蚩尤はこれをもって劍や鎧を製造した。これが劍の始りである。
○<管子:數地篇>「昔葛天廬之山。發而出金。蚩尤受而制之。以爲劍・鎧・矛・戟。此劍之始也。」

爾來(しかしよりこのかた)天子より以て庶人に至るまてこれを用ひさると云ふこと無し。曾て聞く天子は二十にして冠(かんふり)して劍を帶び。諸侯は三十にして冠して劍を帶ひ。大夫は四十にして冠して劍を帶ひ。隸人は冠することを得す。庶人は事有れは劍を帶ることを得たり。禮の興(おこ)る所也。
それから天子より庶人に至るまで、劍を用いないということは無かった。曾て耳にした、天子は二十歲にして冠して劍を帶びる、諸侯は三十歲にして冠して劍を帶びる、大夫は四十歲にして冠して劍を帶びる、隸人は冠することはできない、庶人は事有れば劍を帶びることができた。この邊りから禮が興ったのである。
○<賈子>「古者天子二十而冠帶劍。諸侯三十而冠帶劍。大夫四十而冠帶劍。隸人不得冠。庶人有事得帶劍。無事不得帶劍。」

是の故に高祖は三尺の劍を提(ひつさ)けて、坐(いなか)ら天下を治む。此れ人君の[劍を]帶ふる所に非さるや。馮異(ひやうい)は玉具の劍を賜(たまはつ)て立(たちところ)に赤眉を擊つ。此れ武臣の帶ふる所に非さるや。
是に由てこれを觀れは古へより世〃重んする所貴と無く賤と無く。然れとも斯の翁始め師に從(したか)つて問はす。唯(たゝ)一旦豁然としてこれを得て自ら力を用ること久し。

こういうわけで、高祖は三尺の劍を提げて、居ながらにして天下を治められた。これこそ人君が劍を帶びる理由ではないだろうか。馮異(後漢の武將)は玉具の劍を賜り、たちどころに赤眉(叛亂軍)を擊った。これこそ武臣の劍を帶びる理由ではないだろうか。こういうわけで古(いにしへ)より世々劍を重んじる身分に貴賤は無かった。
しかしながら、蝙也翁は始め師に就いても問わず、唯(たゞ)ふとして悟り、これより自ら努力して長い時が經った。

○<史記>「高祖云吾以布衣提三尺劔取天下」
○<大學>「必使學者卽凡天下之物。莫不因其已知之理而益窮之。以求至乎其極。至於用力之久,而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗。無不到。而吾心之全體大用。無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。」

慶長十二丁未(ひのとのひつじ)の歲。年十有五の孟春二十三日の夜。靈夢を得て忽ち深居に入んこと思ふに。淺間嶽(あさまのたけ)南麓に往(ゆい)て。兩山の間に盤旋(はんせん)し。風飱(ぞん)露宿。努力すること三年。造次にも必す是に於てす。顚沛にも必す是に於てす。奇祥(きせう)異瑞(いつい)多は夢寐(むび)の間に在り。中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍を言はす。竟(つい)に自得活機(くはつき)の玅術を獲たり。
慶長十二年正月二十三日の夜、十五才のとき、靈夢に導かれるようにして、俄かに奧深い處に閉じ籠ろうと思い立ち、淺間嶽の南麓に往き、兩山の間を廻り、露に宿し、風を餐とし、努力すること三年。僅かの時にも必ずこれを忘れず、僅かの間にも必ずこれを忘れなかった。奇祥・異瑞の多くは夢寐の間に在るもので、中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍は言うまでもなく、竟(つい)に自得して活機の玅術を獲た。
○<論語>「君子無終食之間違仁。造次必於是。顚沛必於是。」

旣にして山を出て殺活(せつくはつ)兼ね施(ほとこ)し。進退時に中す。其の脫著(たつちやく)自由なること。譬(たと)へは雲無心にして岫(くき)を出つるか如し。僉(みな)曰ふ。無雲號名其の旨を得たり。又當流を謂(いつ)て自ら願立(くはんりう)と曰ふ。人其の故を問ふ。曰く吾今心の願ふ所を成就するを以て別に一流を立つる也。
やがて山を出て殺活を合わせて施し、進退見事であった。その脫著自由な樣は、譬(たと)えば、雲は無心にして岫(山穴)から出るが如く、皆が「無雲という號名は言い得て妙である」と稱した。また當流を自ら願立と言った。人がその譯を問うと、答えて言うには、「私は今心の願う所を成就したから、旣存の流儀とは別に一流を立てたのだ」と。
○<臨濟錄>「儞若慾得生死去往脫著自由卽今識取聽法底人無形無相無根無本無住處活鱍鱍地」
○<陶淵明:歸去來辭>「雲無心出岫。鳥倦飛忘歸。」
○<大藏經:閏六>「若慾成就別法。先誦此呪十萬遍。一日一夜必須斷食設大供養。取遏迦木作火。烏麻牛酪酥蜜呪一千八遍少少投其火中卽得成就。心所願者皆得圓滿。」

諸邦に之(ゆい)て他流と相對するときんは戦(たゝかつ)て勝たさると云ふこと無し。打て利せさると云ふこと無し。此の如く經行すること七年。或は初め從(よ)り學んて弟子と爲(な)り。或は自流を捨てゝ當流に降(かう)し。深く斯の術を慕ふか爲に。禮を設(まふ)けこれを招く者有るときは。經過(けいくは)せさると云ふこと無し。
諸國に往き他流と相對するときは、戰って勝たないということは無く、打って不利ということは無かった。此くの如く、修行すること七年。或は初めより學んで當流の弟子となり、或は自流を捨てゝ當流に降った。深くこの術を慕うあまり、禮を篤くして私を招く者がいるときは、決して見過ごすことは無かった。

居を卜(ほく)し廬を結び敎て歲月を歷者其の數少からす。至若(しかのみならす)伊奈氏の佳招に因て。居を武州赤山に移して。家住すること十有餘歲。其の後府君(ふくん)忠宗(たゝむね)公彼の術の奇なるを聞て。伊奈氏に謂(いつ)て曰く。願くは蝙也を城下に招いて。適子光宗(みつむね)の師と爲さん。奈何哉(いかんそや)。伊奈氏卽ち其の命に應して。蝙也をして仙臺に使いせしむ。
居所を定め廬(いおり)を結び敎授していると、長い歲月が經った。そればかりでなく、伊奈氏の厚い招きによって、居を武州赤山に移して、住むこと十年餘り。その後、府君伊達忠宗公が蝙也の術の珍しきことを聞き、伊奈氏に言うには、「願くは、蝙也を城下に招いて、嫡子光宗の師にしたい、どうであろうか?」と。伊奈氏は直ちにその命に應じて、蝙也を仙臺に招聘した。

寬永二十年癸未の歲。果して光宗君の師と爲る。時に五十一歲也。光宗君不幸短命にして早く。簀(せき)を易(か)ゆると雖も。常に忠宗公に侍(はんへつ)て。劍術を說くこと多年。これを懷(なつ)くるに和を以てし。これを養ふに安を以てす。恩惠(をんけい)勝(あけ)て算(かそ)ふへからす。
寬永二十年、果して蝙也は光宗君の師となった、時に五十一歲。光宗君は不幸短命にして早く逝ってしまったが、蝙也は常に忠宗公の近くに仕え、長い年月劍術を說き、和をもって親しみ、安をもって成長を促した。忠宗公から受けた恩惠を殘らず數えることはできないだろう。
○易簀・・・「曾子易簀」

慶安四年辛卯の歲。蝙也劍術を以て世に鳴る。其の聲高く將軍家光公の台聞に達して。乃(すなは)ち忠宗を仰て召してこれを照覽す。討太刀は弟子阿倍道是といふ者也。渠(かれ)と共に極至(きよくじ)向上の祕術を盡すときは。將軍家太(はなはた)これを奇として。三ひ退出するときは三ひこれを召す。便(すなは)ち安藤右京亮に命して。吳服三つこれを拜領す。中か一つ赤裡(あかうら)也。右京亮且つ吿けて曰く。將軍家汝の妙術賞美(せうび)の餘り。忝(かたしけな)くも此の赤裡を賜ふ。蓋し赤裡は人を賞して賜ふ所の服なりと云云。時に五十九歲也。美譽(びよ)芳聲(はうせい)數車(すしや)有りと謂つへし。
慶安四年、蝙也は劍術を以て世に知られた。その聲名は高く、將軍家光公の耳にも屆き、忠宗を召して蝙也を招きこれを照覽した。討太刀は弟子の阿倍道是というものが勤め、彼と共に極致向上の祕術を盡したところ、將軍家は甚だこれを珍しく思われ、三たび退出すると、三たびこれを繰り返させた。そして安藤右京亮に命じて、吳服三つを與えた。その中一つは赤裡(あかうら)であった。右京亮が吿げるには、「將軍家は汝の妙術を賞美のあまり、忝くもこの赤裡を賜ったのだ、察するに赤裡は人を賞して賜ふ所の服であろう」と云々。きっと、車に積むほどの名聲を得て天下に知られたことだろう。
○<贈魏三十七:李羣玉>「名珪似玉淨無瑕。美譽芳聲有數車。」

斯の翁嗣(つく)子無し。其の子(むすめ)を以てこれを仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て。家督に立つ。其の氏を同じうし其の家を讓る。退(しりそい)て隱居す。明曆元年乙未の歲。時に六十三歲也。
蝙也には嗣子が無く、その娘を仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て家を相續させ、その氏を同じくしその家を讓り、自身は隱居した。明曆元年、時に六十三歲。

實吉本姓は橫尾也。昔年(そのかみ)當家伊達氏の祖先藤原朝宗公。始て奧州下向の時。近臣有り扈從(こせふ)する者十七騎。橫尾右兵衞實充(さねみつ)其の一(いつ)に居れり。前(さき)の橫尾勢州實綱(さねつな)は。實充十五代の末裔(ばつえい)也。實吉又實綱季子(きし)也。
實吉、本姓は橫尾という。昔、當家伊達氏の祖先藤原朝宗公が始めて奧州に下向した時、近臣として扈從する者が十七騎あり、その中に橫尾右兵衞實充がいた。先代の橫尾勢州實綱は、實充より數えて十五代後の末裔であり、實吉は實綱の末子である。

斯の翁功成り身退くと雖も。弄(ろふ)するに劍術を以てすること日日に千有七百。年數の足らさることを知らす。復た謂つへし能く勤めを務めたりと。又每日念佛を唱(との)ふこと六萬返。疾病なりと雖も易(か)ゑす。彼の水鳥樹林念佛念法と曰ふか如きは。祖師禪法也。一念彌陀佛卽滅無量罪と曰ふか如きは。如來の敎法也。
蝙也は功を立て致仕した後も、劍術に沒頭し、日々劍を振ること千七百囘、壽命というものを知らないようだった。また勤めをよく果したと言うべきだろう。また、每日念佛を唱へること六萬返、病を患っても止めなかった。あの「水鳥樹林念佛念法」と云うものは、祖師の禪法である。「一念彌陀佛卽滅無量罪」と云うものは、如來の敎法である。
○「功成身退天之道也」
○「弄以劍術日日千有七百」の「千有七百」は、假に劍を振った囘數とする。
○<南浦文集:轉讀般若配帙>「有純一之敬心能務于勤」

梁山に頌(じゆ)有り曰く。金烏(きんう)東上人皆貴く。玉兎(きよくと)西沈(せいじん)佛祖迷ふ。擧(こ)す看(み)よ禪や敎や本二致無し。斯の翁知(しん)ぬ茲に通達すること。寬文七年丁未之歲閏二月朔日。行年七十五。臨終正念にして卒す。諡(をくりな)す洞雲月公(とううんけつこう)と曰ふ。元祿六年癸酉十二月二十四日これを書く。
梁山の頌(じゅ)に、「金烏(日)が東に上れば人皆貴く、玉兎(月)が西に沈めば佛祖迷ふ」と云う。禪といゝ敎といゝ、元から異なることは無い。蝙也は悟った、この境地に達したことを。寬文七年閏二月朔日、行年七十五。末期に臨んで心は平らかにして逝く。諡は洞雲月公。元祿六年十二月二十四日、これを書く。
○<禪林類聚>「梁山僧問祖意敎意是同是別師云金烏東上人皆貴玉兎西佛祖迷」

註 太字:譯文 赤字:解說

現代語譯の難しさを改めて實感しました。
何が難しいのか?
一つに、どの程度の現代語に譯すのが適切かということ。これは歷史小說を讀める人なら讀めるだろうと想定して。ただ、見慣れない單語が頻出して讀みにくいのは仕方なしと諦めました。
一つに、私自身の語彙力の無さ。日頃から、古文書を讀んでも現代語に置き換えないので、そう容易く適切な譯が思い付かない。恐らく、原文への理解の淺さが露呈したものかと思いつゝ、自身の勉强にもなると思い譯しました。
一つに、この手の傳書は、根柢に漢籍や唐詩、禪語への理解を求められます。つまり、讀者は敎養として知っているだろうという前提のもと、漢籍・唐詩・禪語などから語句を引用するので、短い語句といえども、それを用いた意圖が壓縮されている爲、一つ一つ調べなければなりません。

難しいと言っても、これらは特別なことではなく、當然のことであり、漢文を讀むときは、およそ斯ういった過程を踏みますが、今囘は取り分けて讀みやすい現代語譯を試みた結果、悩みました。

令和七年三月十四日 因陽隱士著

參考史料 『蝙也齋行狀』筆者藏

林崎流居合御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號 一幅 帋本墨書 40.0 x 104.0 cm 文化十一年甲戌正月二十五日付 筆者藏

御傳授居合極意大橫物幷神號. Edo period. dated 文化 11 (1814).
Hand scroll. Ink on paper. 40.0 x 104.0 cm. Private collection.

● 從四位下行雅樂頭源朝臣忠道・・・酒井忠道公.從四位下雅樂頭.播磨國姬路城主.櫻田御火消.當橫物揮毫の同年九月晦日隱居.天保八丁酉七月廿三日御逝去.御年六十一歲、法諡率性院殿曆堂源祁大居士.
因陽隱士
令和六年三月丗一日編