風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す