姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

姫路藩真下貫兵衛の金赦し

宇田川武久氏の著書『江戸の炮術―継承される武芸』に「姫路藩真下貫兵衛の金赦し」と題された項がある。
そのまゝ引用するわけにはいかないので、こゝでは要点のみを述べよう。
(1) 土浦藩の関流炮術師範関家へ入門した姫路藩士真下貫兵衛の稽古日数が短いにもかかわらず赦状と捨傳書を伝授されたこと
(2) その謝礼が多額であること
宇田川武久氏は上記二点を根拠として、真下貫兵衛は金赦しであるとされている。

私は姫路藩の炮術について調べている最中であり、その一連の作業のなかで同書に目を通した。そして思った、この項については全くの誤解である、真下氏の名誉のためにもこの誤解を明らかにしておこうと。

真下家

そもそも姫路藩士 真下貫兵衛の家柄とはどのようなものか。『姫路藩家臣録』を元にその履歴を追う。

祖父 真下藤兵衛は安永8年(1779)御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、そのほか諸役を勤め寛政4年(1792)隠居。(※御持筒組とは藩主直属の鉄炮足軽隊)

父 真下政太夫は天明2年(1782)藤兵衛と同様に御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、寛政4年(1792)舩手之者鉄炮稽古世話に転じ、家督(2人扶持 組外)を相続、御土蔵御番入。その後は諸役を勤めつヽも舩手之者へ鉄砲を指南、享和1年(1801)他の役務に差し支えるときは息子真下貫兵衛(当時は幸助)を稽古世話に立てるべき命があった。結局、真下政太夫が舩手之者鉄炮稽古世話の任を解かれたのは文政3年(1820)のこと、およそ38年間師範を勤めた。

真下貫兵衛は先にも記したように享和1年(1801)には舩手之者鉄炮稽古世話を手伝うようになり、文化2年(1805)5月20日に舩手鉄炮稽古指南見習となり、文化4年(1807)4月29日には大日河原において壱貫目鉄炮角前を藩主の御覧に入れ”貫”の文字を授与される
そして同年5月11日この壱貫目玉鉄炮の放方の功績によって弐人扶持下され御徒士格として召し出された。

以上、問題とされた関家入門までを掻い摘んで記したが、このように履歴を確認できる祖父 真下藤兵衛父 真下政太夫真下貫兵衛と三代にわたって、鉄炮足軽を指南する稽古世話の師範職を世襲している。真下貫兵衛に至っては見事壱貫目放方を御覧に入れ二人扶持を下され御徒士格に召し出された(これは家督を相続する以前のことで、純粋に彼の功績による)炮術を家業とする家柄である。
それと、姫路藩において足軽指南は従来より関流で統一されていたことを考え合わせれば(*1)、真下氏は姫路藩において従来より行われていた小屋関流または野口関流を学んでいたことは明白である。
つまり、真下貫兵衛は関家へ入門する以前から、関流炮術について少なくとも六年以上の修錬を積み、且つ指南する立場としても経験を積んでいた。(いつの頃から修行を開始したのか記録には見えないので、父政太夫の手伝いを命じられた年を下限とする)

入門から相伝

さて問題とされた関家への入門から帰国までの動向を各書より一部抜粋する。

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化4年(1807)7月朔日の真下政太夫・真下貫兵衛の両人である。
酒井雅楽頭様の御家来真下貫兵衛・真下政太夫のふたりが炮術に入門したいと同藩の御留守居役を通して、(土浦藩の)御留守居にいってきた。自分は入門を許したいので、このことを月番の又兵衛殿と列座にうかがった。十五日の朝、治兵衛から手紙で酒井衆両人の入門は支障がないから、入門の日取を取り極めるように申してきた。十八日のそこで都合がよければ、御前十時こと、こちらに出かけるように酒井衆に申し遣わした。
なお、十八日の条にふたりが肴代二百疋を持参して入門の手続が終った、とある。

『姫陽秘鑑』
一、文化4年(1807)7月28日土屋相模守様御家来関内蔵助方江炮術入門被 仰付、同年8月2日より御客箭繰方忰貫兵衛江被 仰付、右手伝ニ罷出候ニ付御肩衣被下置、右之節着用仕相勤申候

『姫陽秘鑑』
一、同年同月21日奥於 御居間、壱貫目玉鉄炮繰方被仰付入 御覧候処御小袖被下置、其上貫叟之実名御直筆ニ而拝領仕候

『姫路藩家臣録』
文化4年(1807)9月11日御参府御供ニ罷出候処、御客前薬方度々相勤、諸家様へも罷出候ニ付御家中諸藝励二も有之候間、格段之 思召を以並御供番格被 仰付、金四両三人扶持被下置候、10月4日爰元ニ罷在候内奥御番方被 仰付候-同7年8月17日奥番御免

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化6年(1809)12月11日真下貫兵衛へ赦状と捨傳書が傳授される。相傳の謝礼として関内蔵助信貞に金千疋、関昇信臧に金二百疋、信貞の妻に金五百疋、家来二人に金二朱を贈る。
文化7年(1810)7月30日炮術稽古の打納めに出席、真下貫兵衛250目玉・100目玉を放つ。
文化7年(1810)8月17日真下貫兵衛、国許に帰るので関家へ挨拶に行く。

以上を踏まえた上で話しを進める。
壱貫目放方を見事御覧に入れ扶持を下された真下貫兵衛は、その二ヵ月後、藩主の江戸出府の御供となりそこで土浦藩の鉄炮師役 関内蔵助へ入門する。「真下政太夫忰貫兵衛大筒繰方被仰付候事(『姫陽秘鑑』)」
文化4年(1807)7月に入門した真下貫兵衛は文化6年(1809)12月に赦状と捨傳書を伝授された。つまり彼が享和1年(1801)に舩手之者鉄炮稽古世話手伝となってから八年後のことである。無論、家元とも云うべき関家での修行と、国元に従来より伝承されている分派の小屋関流・野口関流では修行の程度に少しく違いがあるとは思う、しかしこの両派は素より関家に学んだ分派であるから、一から修行をし直す必要はなかっただろう。

稽古日数

さて、宇田川氏は著書の中で、真下貫兵衛が入門から二年で伝書を相傳されたことについて「貫兵衛の稽古の年数は足りないから、これはまさに金赦しといわざるをえない」と述べられている。たしかに通常の入門であれば、たったの二年で傳授されるものではない。
しかし、先述のごとく真下貫兵衛は関家入門以前から姫路藩内で関流を修行しており(*1)、且つ壱貫目放方の功によって召し出されたほどの人物であったから、この点を考慮すれば入門二年で傳授されて然るべき技倆は充分に備えていたと考えられる。藩内において修行し、後に他家の士に入門して短期間で免状・印可を傳授されることは珍しいことではない。

謝礼

又、謝礼について宇田川氏は横田平内・近藤亘理助の謝礼額と比較して「これが常識の範囲とすれば、いかに貫兵衛の謝礼が高額であったかがわかる。」との見解を示されている。
なるほど、比較に提示された両者は三百疋、真下貫兵衛の謝礼は千七百疋を超える。内訳を見ると、関内蔵助信貞に金千疋、信貞の妻に金五百疋、関昇信臧に金二百疋、そして周辺人物にもいくらか渡した。当時の事例とくらべて異常に高いということはない、最大限に礼を尽した結果だと思う。これら進物の額は右記の通り、金千疋=金2両2歩、金五百疋=金1両1歩、金二百疋=金2歩。

おわりに

結局、真下貫兵衛の履歴の有無が、宇田川氏の判断を誤らせたのではないかと思う。且つ姫路藩で主流を占める関流の存在はあまり取り上げられていないので、その点も見落とされていたのかもしれない。
その不十分な条件をもとに真下貫兵衛を金赦し扱いにされたことは残念でならない。真下氏にもおそらく子孫の方々がいることだろう、金赦しと云われて何を思うか、察するに余りある。また、関家においても金銭にかえて家伝の大切な流義の伝書を与えたとあっては不名誉なことではないか。
先述のとおり真下貫兵衛は金赦しではない、藩内において関流を修行し壱貫目玉を見事に放す技倆を備え、その後で関家へ入門しその修行のほど、技倆のほどを認められたからこそ赦状と捨傳書を伝授されたのだ。

*1 姫路藩ではその当時、小屋関流、野口関流が行われていた。この両派はもともと元禄のころに、土屋相模守家来 関軍兵衛の世子であった三俣惣太夫(世子のときの名乗りは伝えられていない)が酒井家中で関流を教えたことに始まる。そして小屋幸太夫、野口磯太夫の二人は三俣惣太夫に関流を学び、次いで土屋家の関軍兵衛に学んだ。その後両者が足軽の鉄炮指南に抜擢されたことで、酒井家の軍制は関流を基礎とするようになる。

参考資料
. 『江戸の炮術―継承される武芸』宇田川武久著
. 『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
. 『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
因陽隠士記す
2016.7.13

過去の日記 2023/04/23~

『神林流印可』筆者蔵

2025/8/15
この頃ようやくサイト更新の熱が高まってきました
しきりと伝書を点検しては、この筆跡はどうかな、この年代にこの紙質か、などゝ思索しつゝ日々を過しています

そのような日々を過す中、懐かしさを覚える伝書が出てきました、上掲画像

何が懐かしいのかというと、私が初めて買った時代小説が戸部新十郎氏の『幻剣 蜻蛉』だったのです
当時、剣道部に属していた私にとって、剣豪や剣術という存在は憧れそのものでした
本の内容こそあまり覚えていませんが、中条流(富田流)の富田一放が主人公の話
表記こそ違いますが、「富田一宝」は同人でしょう
まさか数十年後にその人物の古文書を手に取って眺めることになるとは、想像だにしなかったことです

かつて記した「大嶋流『印可』を讀む」に「富田一宝斎」の名が登場します

大島流の月瀬清信は、流祖大島吉綱に奥義を伝授された人物ですが、大島吉綱に師事する以前、慶長年のころ「富田一宝斎」に学んだと記されています

「富田」「戸田」「一宝」「一放」のような表記ゆれについては謎が多く、「富田一宝斎」本人の伝書をもう一巻所蔵しており、そこには「戸田一寶久次」と署名されています
何か事情があって表記を変えるのか、年代によって名乗りを変えるのか、よく分りませんね

因みに「富田一宝斎」は「神林流」という鎗術の一派を開いて指南していました
「神林流」は、『武藝流派大事典』にも載っていないため、早い段階で失伝したものと思われます

『神道流兵法之序』筆者蔵

2025/8/12
「伝書を眺める-〇〇流」、もう少し続ける積りです

気になる方もいるかもしれないので、ちょっと話して置きます
画像、手に取って撮影する意図は、そのものゝ質感を伝えるにはこの方が良いと判断したからです
平置きで物だけ撮った画像よりも、なんとなく臨場感を得られるのではないかと愚考しました

たゞ欠点として、この撮影の仕方は、文書そのものを傷める可能性があります
私はもう二十年以上毎日のように古文書を触っているので、よほどのことが無ければ、追ったり曲げたりするようなことは無いと思いますが、それでもかなり注意して撮影しています

2025/8/11
近ごろ、日課の習字を怠りがちです
進歩が見えず、毎日せずとも実力は変らないのではないかという疑念

このような愚痴をこぼしていると、なぜか少し気持ちが前向きになってきました
もう一度初心にかえって習字に取り組みます

2025/7/30
届きました『侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)』
これで既刊は全巻揃いました
売り切れてなくて良かったです
『侍中由緒帳』は井伊直興公のとき編纂され以後書き継がれたそうで
井伊直興公といえばちょうど風傳流の草刈次郎右衛門が指南役を勤めた若様ですね

彦根城博物館のページを貼っておきます
刊行物一覧
在庫状況が分らないのは不便
それとこの現代においてFAXや現金書留で購入という旧態依然とした取引方法です
なぜメールや銀行振込が出来ないのかと

連日暑いですね
剣道場で汗を流していたころを思えばこれぐらいの暑さ
なんてことはないと言いたいところですがその頃よりずいぶんと暑い気がします

2025/3/14

『蝙也齋行狀』を讀む

夢想願流松林左馬助の行狀を記した『蝙也齋行狀』を讀むを投稿しました。

令和七年三月十四日 因陽隱士

2025/3/11

所藏史料紹介:伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡
所藏史料紹介:疋田流三卷

次回は願立剣術の『蝙也齋行狀』を讀む、を投稿豫定です。

令和七年三月十一日 因陽隱士

2025/3/10

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

久しぶりの更新です。去年病を患い、身邊の環境も變化し、しばらく更新が滯っていました。
その間、このサイト「武術史料拾遺」について、存在の意義は有るか無いかなど、遲疑逡巡し、まことに病によって心まで弱くなるものかなと實感しました。
またその一方で、そもそもこのサイトは見返りなど一切期待しない、只管自分の好奇心と向上心とを滿たすことを目的として作ったのだと、改めて思い至り、今後も續けることを決意しました。
諸兄の期待の萬分の一にも沿うことのできない蕪穢のみ、淺學菲才の身を恥じ入るばかりです、どうか御容赦を。

令和七年三月十日 因陽隱士

7/28

武術史料拾遺餘滴-2

同じ餘滴を二つ作るという一見して無駄な行爲なのですが、實はサイトのデザイン變更には、非常な手間がゝゝるため、餘儀なく別サイトを立てることにしました。

筆蹟の良さを傳えたいとか、畫像とテキストとの配置を斯うしたいとか思うと、それに最適なデザインというものは、また一から構築しなければならず、そこに從來の內容をそのまゝ移すことも出來ず、とそんな次第です。

サイトの仕立を別角度にしてありますので、ほんの少し樂しめるのではないかと思います。

令和六年七月廿八日 因陽隱士

3/31

所藏史料紹介:御傳授居合極意大橫物幷神號

姬路藩三代藩主酒井忠道公、林崎流居合の極意を傳授、當大橫物を揮毫。
當時、公は在府しており、幕臣に傳授したものか、同藩に該當する人物はいない、箱書は幕府の御右筆靑木半藏の筆になる。
なお、公が林崎流の極意を傳授するほどの達人であったことは、記錄に見出せず、新たな發見と言える。
公について傳わるところは、天性學問を好み博識であったこと、筆蹟は見事で隸書を能くしたと。

令和六年三月丗一日 因陽隱士

3/30

所藏史料紹介:甲乙流兵書七卷

去年十一月、雜記に觸れた甲乙流七卷を揭載。
關聯文書は無く、何れの家中の士か。

令和六年三月晦日 因陽隱士

昨今、NVIDIAの躍進たるや筆舌に盡くし難いものがあり、日々心を躍らせています。
AIの進化は著しく、世に、AI元年と言われるほどの隆盛ぶり。
破壞的イノベーション、產業革命。
今、私たちは途轍もない進步の出發點にいるのかもしれません。
一體、人類はどこまで行くのか、生きている間にその發展を見たいと思います。

12/24

所藏史料紹介:禰津流鷹序拔書斷卷

鷹術の傳書は一點のみ藏す。
祢津常安、德川家時代のものではなく、武田家時代のものである點に注目。

所藏史料紹介:竹內流捕手腰廻之事

再び揭載。

令和五年十二月二十四日 因陽隱士

12/22

所藏史料紹介:禰津流獫牽祕書四卷

寒風吹きすさぶ本日、仕事納め。
寒威の衰えるまで籠城の構えです。

さて、改めて「獫牽(いぬひき)」の傳書を揭載。
今日、「犬牽」「犬引」の文字が普通ですが、當時の傳書には「獫牽」の字が宛てられています。

「獫牽」の職は、「鷹匠」の派生。狩に用いる犬の管理職ですね。ざっくり言うと。
それが、御犬さま・犬公方でお馴染み、あの時代になると、保護犬たちの管理職にもなります。これは狩で用いるわけではありませんね。

急遽、たくさんの犬を保護しようという流れから、「獫牽」の人員を增すため、鷹狩場の管理職「鳥見」の方面から、轉職させられた者もちらほらいたようです。
本傳書の「飯田長左衞門」もその一人。
「鳥見」から四谷の「犬小屋支配」を任されました。

あまり詳しいことは分っていません。
本傳書の時期は、旣に犬小屋を廢していたようですが、犬の扱い方を傳授していたようです。

宛名の人物について調べるため少々時間をかけました。
かけたほどの成果はなく、推測の域を出ない情報しか集められませんでした。

そもそも、本傳書の內、宛名を一にする三卷は、加賀八家の一つ前田近江守に仕えた武士が所藏していたものです。
そこから類推すれば、かつて大聖寺藩主前田利直公が四谷犬小屋の普請に關わっており、こゝで交りが出來、その後、家中の「獫牽」への傳授という流れがあったのではないかと。

『稿本金澤市史』に「犬牽」の記述があり、これは慶長まで遡ります。狩のため唐犬を用いていました。
その「犬牽」に、「才次郞」・「才兵衞」兄弟の名があり、何やら本傳書「才助」と關係があるのかな?と思わせます。
(この場合、大聖寺藩ではなく加賀藩の方です)

もう少し丹念に資料を探せば、あるいは「獫牽才助」を見付けることができるかもしれません、が取り敢えずこゝまで。

推測は推測、確證を得るまで現實とは關係ありません。

令和五年十二月二十二日 因陽隱士

追而。
宛名を一にする三卷の外、「伊藤才一郞」宛の一卷があります。
この人物は、加賀藩の「手明足輕」の名と一致します。
通稱が「才」ではじまり、もしかすると「獫牽才助」の苗字も「伊藤」かもしれませんね。
記憶が確かであれば、この一卷も同所から出たものです。

『獫名所』は、はじめ犬の部分名稱について觸れ、その後天竺より日本へ傳來した三つの犬の經緯について述べます、これは他人より尋ねられた際の答えとして。
『獫請取渡之卷』は、その題が示すように犬の請け渡しの作法、その際の應答などについて。
『唯授一人犬飼傳書』は、印可の證として傳授されました。
『祢津家獫之祕書』は、犬の日本への傳來にはじまり、繩の解釋や杖、犬の膳の組み樣、ツボに關する繪圖などが記されています。

12/18

所藏史料紹介:井上流二卷

そろそろ、劍術以外のものを揭載します。
手始めに、井上流砲術の傳書を。

令和五年十二月十八日 因陽隱士

12/16

日課の習字を始めて二年を經過。
每日一時間を費やし、運筆の術を學ぶわけですが、漫然としていても學びは無く、得られるものは”慣れ”のみ。
新たに何かを習得するためには、積極的に先達の術を見て眞似することが捷徑となります。
しかし、每日每日集中力を切らさず、習字に取り組めるかといえば、そうではなく、當然、たゞ”慣れ”るだけの漫然とした習字になることもあります。
これが全く駄目かといえばそうではなく、單純に筆を遣って書くという動作が、體と腦との連攜に確かな經驗を與えて吳れます(最善とは言えませんが、無駄ではないという逃げ場)。

私の習字の目的は、名人や達人と呼ばれるような能書を目指しているわけではありません(自身にその才能が無いことは、重々承知しています)。
習字によって得られた經驗が、古文書の筆蹟判別に大きく寄與することを期待しています。特に、筆の働きというものに注意していれば、微かな轉折にさえも氣付くべきものがあると思うのです。

取り敢えず、一萬時間を目標として、日々習字に取り組む積りです。

畫像の扇面は、先日臨書の最後にそのまゝの流れで書いたものです。
書道の方面では、淸書や作品として丹精込めて書くものがあるように思いますが、恐らく、私は一生そういう書き方をしないでしょう(わざわざ他人に上手だろうと見せるほどの字は書けませんし、それに相應しい人格も持っていません)。
敢えて、こゝに蕪穢を載せた心意は、習字に取り組む活力を得ることにあり、且つこのサイトは無機質に過ぎるので、ちょっと蛇足として。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

今年、殘すところ僅か半月。
振り返れば、SVB破綻、プリゴジンの亂、イスラエルと肝を冷やすこともありましたが、米國のCPIは順調に低下、先日のFOMCも無事通過しました。
先月、ほゞ仕事を終えたので、そろそろサイトを更新しようかと...

12/16

戶田一寶=富田一放?
上に揭げた傳書は、慶長七年のもの。
この時は、戶田氏を名乘っていますが、元和七年の傳書では富田一寶齋と名乘っています。實名は變らず同じ。
神林流の祖となる。

一放の名乘りは、同一人か?

富田流・戶田流・留田流、系譜が紛らわしいですね。

令和五年十二月十六日 因陽隱士

12/15

所藏史料紹介、今年は劍術關係の史料のみに絞っていたゝめ、鎗術や柔術など、未だ揭載していない史料が數多あります。

こゝに擧げた傳書は、寳永の留田當流。
少しネットで檢索すると、Wikipediaの戶田當流がヒット、服部是右衞門正長まで同じです。

「現在は宮崎縣高千穗に祭りの棒術として殘っている」という、その關聯畫像と、この傳書の棒が似ていますね。

令和五年十二月十五日 因陽隱士

11/9

武術史料拾遺餘滴 / 古文書を讀む爲に
長らく放置したまゝ忘れていました。ログイン出来るか心配です。

 ○
寒くなってきました。
ふと氣がつき、所藏する文書群を點檢していると、蟲が湧いていました。
これは九年前に購入した家文書で、何事もなく保存していたものが、なぜ今になって蟲が湧くのか不思議でなりません。正月か春ぐらいにも點檢したのですが...
蟲が外から入ったという可能性は限りなく低いので、ちょっと困りましたね。

所藏する古文書は、大きい古文書箱だけでも百箱を超えています。これら全てを一人で點檢し續けるというのは、相當難義で、どうしても期間が空いてしまい結果蟲の浸蝕を許す。
そろそろ所藏文書を減らした方が良さそうです。

(卷物は滅多なことで蟲に喰われませんね。見たところ、裂で覆われていることが幸いしているようです)

令和五年十一月九日 因陽隱士

11/9

古文書蒐集のために活動中のこと、何氣なく目に入った額に途轍もない逸品がありました。
大鹽平八郞の書です。
「大袈裟なことを言うな、よく有る」と思われるかもしれません。

私が大鹽平八郞に興味を覺えたのは、八年前、書翰を購入したことがきっかけでした。
以來、書翰・掛軸・額など、數多く觀て得た結論は、本物は少ないということです。
特に、本物に相違なし、100%本物と言い切れるものは、更に少なく、これは自身の見識の低さゆえのことですが...
とはいえ、贋物が多いのは間違いなく、
世の中に「よく有る」と思われる大鹽の書は、ほとんど贋物と言って良いでしょう。
そういうわけで、本物に相違なし、100%本物と言い切れるこの大鹽の書は、途轍もない逸品と稱しても過言ではないのです。

關係ない話しですが、大鹽は佐分利流の鎗術を能く遣ったと傳えられています。

令和五年十一月九日 因陽隱士

「格物者格其心之物也。其意之物也。格其知之物也。正心正其物之心也。誠意者誠其物之意也。致知致其物之知也。自有大學以來。無此議論。此高明獨得之妙。夫豈淺陋之所能窺也邪。」

11/5

所藏史料紹介:新影流起請文
所藏史料の劍術關係の中、この史料は最も古く、年代順目次の先頭に配置。
古い時代の文書は冩が多く、兎角注意が必要です。

令和五年十一月五日 因陽隱士

11/3

本日は「所藏史料紹介:新影治源流圖法師卷」を掲載。
圖卷は値が張りますね。近頃は散財を控えるため、倹約を旨としていますが、珍しい流派だと思いつい購入。
直近購入した新陰甲乙流の傳書も揭載したいですが、七卷あるため、ちょっと遲くなりそうです。畫像の取り込みとか色々と。

令和五年十一月三日 因陽隱士

11/2

所藏史料紹介:山野流斬法手前圖卷

備前岡山藩の繪師による圖。傳授された人は岡山藩の士かもしれませんね。
山野流は文字通り山野氏の開いた流派ですが、それ以前に師事した人物がおり、それが中川左平太。山田淺右衞門と山野氏とは同門だったようです。

令和五年十一月二日 因陽隱士

10/29

本日は「無名老翁岡本宣就筆唐詩卷」を揭載。これを揮毫した年月は明らかでないものゝ、原裝に着目すると、寬永の末から明曆の間、宣就晚年の筆と考えられます。跋にも「象嵌の老翳」「龜手の禿毫」の文言あり、老年であることを示しています。

令和五年十月二十九日 因陽隱士

10/28

本日は「國友一貫齋書簡を讀む」を揭載。これは以前揭載したものを改めたものです。
姬路藩の方の一貫齋書簡も追って揭載します。今囘の大野藩のように(この時は頓挫)、一貫齋は姬路にも訪れ、交涉を重ねて筒の註文を受けていました。姬路藩士の日記にその一聯の流れが、大まかではありますが記錄されています。

今囘の大野藩の時は、一貫齋患いのため訪問できなかったのですが、姬路藩の方なら訪問時の動向を知ることが出來るので、面白いはずです。

令和五年十月二十八日 因陽隱士

10/25

『齋藤彌九郞龍善書簡』を讀む

齋藤彌九郞龍善、練兵館の二代目。書は卷菱湖に學んだと傳えられています。菱湖は當時書壇において一世を風靡した人物ですが、卷菱湖(1777-1843)、齋藤龍善(1828-1888)、兩者の年齡を考慮すると、龍善元服頃まで學んだということ哉。或いは、菱湖流を能くする人物に繼續して師事したものか、詳しいことは傳わっていません。


書簡の文面ばかりでなく、その筆蹟を樂しむことも私の趣味の一つです。そのため、書幅も倂せて揭載しました。これは龍善四十三歲、明治三年五月の揮毫。その冠帽に捺された印文には「道理貫心肝」の一文が引かれており、これは『蘇軾文集卷五十一』の一節。「道理貫心肝.忠義塡骨髓」と續き、當時から好まれた文言で、水戶烈公や松平春嶽もこの一節を揮毫しています。

令和五年十月二十五日 因陽隱士

10/24

『物外不遷書簡』を讀む

本日は物外和尙の書簡を揭載。これを篋中に見出したときの喜び、古文書を蒐集している方ならば、察してくれるでしょう。
本項に書き洩らした點を補足すると、物外和尙が濟法寺から發した書簡です。

令和五年十月二十四日 因陽隱士

5/27 更新

所藏史料紹介に「圓明流三卷」を加えました。

全てのページの西曆換算について、一部誤差があると氣付きました。
未訂正です。

不正アクセスの爲、サイトの表示が重くなっているようです。

令和五年五月廿七日 因陽隱士

5/24 更新

所藏史料紹介に「一刀流兵法別傳天眞傳兵法二卷」を加えました。

令和五年五月廿四日 因陽隱士

5/20 更新豫定

今日は、吉岡憲法流の傳書を史料紹介に加えようと思います。

令和五年五月廿日 因陽隱士

5/15 更新

傳書の傳授日には、特別な意味をもつものがあり、また特別な意味をもたないものもあり、師弟間の調整で日付を決めることもあります。
槪して、傳書には傳授の年月日が記されるものですが、傳授されたにもかゝわらず、傳授日が記されいないものを稀に見ます。
本日更新した『念流正法兵法未來記卷』はその一つです。敢えて傳授日を記さない理由は?

令和五年五月十五日 因陽隱士

5/13 更新

所藏史料紹介に幕末の有名所を追加しました。當分の間、劍術に絞って更新します。

令和五年五月十三日 因陽隱士

5/6

現在、サイトは「所藏史料紹介」「~を讀む」「觀賞」の三つに分けて構成しています。
本來、「所藏史料紹介」は『武術史料拾遺』の中核として、全文飜刻、註釋付きで揭載するものですが、前記の如く、海外に丸ごとコピーしたページを作られるため、大幅に省略しています。

また、アクセス制限や閱覽制限付きといった適切な環境が整えば、本來の「所藏史料紹介」が出來ると考えています。

令和五年五月六日 因陽隱士

4/23 江戶時代の武術に關する古文書・古記錄を讀む。

現在、サーバの移行を完了し、表字速度は大幅に改善されました。
これに伴い、サイトの記事を見直しています。

サイトの設立は平成二十六年七月七日のこと、当初は「武術の古文書」と題していました。
その頃は、多くの方々に傳書の存在を廣めたく、またその內容が何かの役に立てばと思い、代價を求めず、多くの傳書を揭載し、譯文を作成して附し公開していました。
これは全て私の趣味であり娛樂として...

しかし、追々、海外にコピーサイトに類するものを作られ、甚だ不快な思いをしたことから、サイトの方針を轉換し、大幅に傳書の揭載を縮小することにしました。

それまで閲覧することを樂しみに來てくださっていた方々には申し譯なく思います。

海外からアクセス出來ないようにしたかったのですが、それも難しく、誰でも自由に閱覽できる環境が、無斷で丸ごとコピーしても良いという思い違いを生むのかもしれず、現在は何かアクセス制限や閲覧制限付きという形で公開できれば善いと考え、その適切な方法を模索しています。

なお、熱心に問い合わせて下さった方々に對し、諸々の事情によって返事できないまゝ、音沙汰無く今日に至り、申し譯なく思います。

令和五年四月廿三日 因陽隱士

『瀧野遊軒墓誌銘』を讀む

『瀧野遊軒墓誌銘』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、起倒流を弘めた瀧野遊軒の墳墓を描いた『瀧野遊軒墳墓圖』です。瀧野遊軒については、このサイトを訪れる方々ならばご存じかと思います。依て、先ず『瀧野遊軒墳墓圖』について、槪要を述べます。

▽瀧野遊軒墳墓圖の槪要
1.本圖は、瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺に在った墓の圖。
2.全得寺の墓は、寳曆十二年門人等によって建てられた。
3.本圖を記した者は、瀧野遊軒の門人藤堂安貞。但し、本圖はその寫。
4.本圖のほかに、類似の圖を見ない。
5.本圖は丹波篠山藩の起倒流指南役の鈴木家が所藏した。鈴木家の四代目は瀧野遊軒の直弟子。
6.瀧野遊軒の墓は、全得寺のほかに數箇所在る。

瀧野遊軒を葬った江戶下谷坂本の全得寺は、江戶切繪圖の中に見出せる。圖中には「全徳寺」とある。書家として名を馳せた市河米庵の居處に近い。現代ならば、東京都臺東區入谷一丁目にある入谷驛の北北東250mほどの場所か。

『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション
『江戶切繪圖: 今戶箕輪淺草繪圖(000007431699)』國立國會圖書館デジタルコレクション

『諸宗作事圖帳』に、全得寺が寺社奉行へ提出した寺圖面を見出せる。これによれば、墓所は隣接する本間意格抱屋敷の側に在った。

『諸宗作事圖帳 [127] (百七十七)(000007297828) 』國立國會圖書館デジタルコレクション

扨て、今囘の本題はその墓の右側面に記された「瀧野遊軒墓誌銘」です。墓誌は、もと支那の傳統にて形式あり、古代より甚だ多く、その文を名家に依賴するものは唐代より盛んになったと云われています。

柔の剛を制するは天理令然なり、兵に柔術有れば能く驍勇を挫く
柔が剛を制するのは、天の理がそうさせる。ゆえに、一兵卒といえども柔術が有れば驍勇の者さえ挫くことができる。

其の業に粹なる者は先つ福野氏有り、これを起倒流と謂ふ
その業(柔術)を極めた者に先づ福野氏有り、これを起倒流と謂う。

福野は三浦氏・茨木氏に傳ふ、茨木は寺田氏に傳ふ、寺田は其の子正重に傳ふ、正重は吉村扶壽に傳ふ、扶壽は堀田賴庸に傳ふ、賴庸は瀧野擧嶢に傳ふ
福野は三浦氏・茨木氏に傳え、茨木は寺田氏に傳え、寺田はその子正重に傳え、正重は吉村扶壽に傳え、扶壽は堀田賴庸に傳え、賴庸は瀧野擧嶢に傳えた。

擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號す、西京に浪華に其の術大ひに行はる、後來東都に弟子增〃多く其の門に登る者蓋し三千餘
瀧野擧嶢は西京の人、自ら遊軒と號した。西京に浪華にその術は大いに行はれた。後來東都に行き弟子增々多くなり、その門に入るものは三千餘を數えるだろう。

寳曆壬午疾を以て卒す、春秋六十八、下谷金峯山全得寺に葬る、東都門人等寘墓に刻銘し、以て碩恩に酬んと欲す
寳曆壬午の年、疾(やま)いによって卒する。この時六十八、下谷金峯山全得寺に葬る。東都の門人たちは、寘墓にその事績を刻み、以て師の碩恩に酬いようと考えた。

其の余に親しき者、これに勤めんことを乞ひ銘と爲す、銘に曰く、「術は無住に到り、鬼神も圖り難く 瞻れば前にあり忽ち後ろにあり 或は有或は無 瀧野の兵に於けるや 能く其の途に入る 三千の弟子 傳へて器は朽ちす」と
その中に余(私)に親しき者がいて、その銘文を考えてほしいと乞うので出來た銘文はこの通り。「術というものは無住に到れば、鬼神も圖(はか)り難く、瞻(み)れば前にあり忽ち後ろにあり、自由自在、或いは有、或いは無、捉えることなど出来ない、瀧野遊軒の兵術に於けるや、能くその域に達している、その兵術は三千の弟子が傳えて朽ちることはない」

寳曆癸未夏五、賜紫沙門濟松寺大鼎志(しる)す
寳曆癸未は、寳曆十三年。碑文の原文を書いたものは、濟松寺九世住職大鼎禪圭。

註 太字:譯文 赤字:解說

久しぶりの投稿です。
今囘は、柔術史を語る上で缺くことのできない起倒流、その瀧野遊軒に關する古文書を取り上げました。
墓誌そのものに何か新奇なことが書かれているわけではありません。しかし、瀧野の門人であった藤堂安貞が墓前において、暫しの間師に思いを馳せ、墓を寫し取った旨が記錄されており、今日においてもその樣子を思い浮かべることができます。
「若葉の木のもとにしはらく靜坐すれど音もなく香もなし」と、墓前に坐す藤堂安貞。そして、一句「ほとゝきす來て一聲ほとゝきす」。

この墓について詳らかにしたものを他に見なかったことから、拙いながらも敢えてこれを記事にした意圖を察してください。

令和六年三月十日 因陽隱士著

參考史料 『瀧野遊軒先生墳墓圖』筆者藏