神道一心流の金銭出納-3 奉納額

神道一心流開祖櫛渕虚冲軒の跡を継いだ櫛渕宣猶は、九年後の文政十一年、王子稲荷に武道額を奉納しました。
この奉納額とはどういうものか?

「奉納額は絵馬と同じように祈願を目的としたり、神仏への奏上・奉献を目的としており、奉納目的は絵馬とおなじ場合も多々あるし、このなかに絵が描かれていることもあって、必ずしも絵馬との区別が明確に行い得るものではない。」<綾瀬の絵馬>

「武士が剣の上達を祈願したり、試合に勝った際の記念、あるいは自分の流派を誇示して「武道額」を奉納することが江戸時代はよくあった。剣術のほか、柔術・弓術・砲術、各種の武道に関するものがある。」<絵馬と信仰展>

とこのように説明されるもので、今回の王子稲荷奉納額は、開祖櫛渕虚冲軒が浅草観音に武道額を奉納したことに倣ったものと思われます。しかし、開祖のころは451人が名を列ねた奉納額も、二代目宣猶のときは315人となり、門人の数が減っています。それはやはり開祖の声望に二代目は及ばないという避けては通れない普遍的な結果かもしれません。とはいえ、136人しか減っていないとも見れますし、「左程振わず当流の盛りも短かったと伝えられる」と大袈裟に云うほどは減っていないように思います。

さて、武道額を奉納するにあたって、奉納の前年、文政十年の正月から献金を募っています。
以下、文政十、十一年の『湯島天満宮へ奉納閣出銀姓名帳』より。

湯島天満宮へ奉納額出銀姓名帳

文政十年  
正月廿一日金百疋上州吾妻 小栗卯之五郎
三月金壱分閣奉納金 小栗卯之五郎 [*別項より]
六月十一日金百疋寺嶋坎六
七月十日金弐朱福田常太郎(安兵衛と改)
七月十一日金弐朱栗原吉次郎
金壱朱秋田清五郎(神戸勇次郎)
七月十三日金弐朱大熊鐸之助
七月十七日金弐朱平塚弥五郎
七月十七日金弐朱杉山傳次郎
八月朔日金弐朱持田鎌太郎・三浦直郷
十一月銀三匁中嶋久喜蔵
金弐朱高橋孝蔵・同忠蔵
十月廿八日金壱両弐分百六十六文笠原出雲世話にて取立持参
十一月五日来金三両壱分鈴木倉蔵世話にて相届
十一月廿八日金壱両弐分弐朱と銭弐百七拾八文下川田村平井新右衛門・深代徳右衛門取立の者より出銀、右両人より書状添、鈴木倉蔵持参
十一月廿九日金三分弐朱と七百文上川田 小林和司馬世話の分相届
文政十一年  
正月五日金弐朱奥村六太郎
壱朱玉村甚太夫
正月相届金壱朱櫛渕主税
々相届金弐分弐朱遠藤傳蔵取立門人
金壱両弐朱右同様に後閑より相届
二月八日金弐朱並木助次郎
金弐朱野田六兵衛
金弐朱岩本五兵衛
金百疋渡辺源左衛門・同銀之助
金百疋伊波佐吉・同半次
金弐朱山田四郎兵衛
金弐朱青原市十郎
金壱朱柳惣兵衛
右[二月八日分]拾人分子の二月八日高木より請取置候
二月廿五日金壱両弐分壱朱武井政吉・大竹道蔵取立、書状添相届候
二月廿六日金壱両壱分織田良之助取立の分出銀薗原源之助持参
金三両弐分弐朱、外に弐百文薗原連中出銀、前同人持参
三月二日金弐朱と六百文真庭伊左衛門持参、後閑より書状添来る、沼田町 池田要吉・金子仙次郎・横坂代吉・櫛渕乙八
三月七日金弐分今井吉兵衛
金壱分川湯村 関喜四郎
右[三月七日分]は金井兵作・中澤猪之吉より書状添至着
三月十日金百疋関根鉄之助
金壱朱小峯勇三郎
三月十六日金百疋友山幸次郎・友山勝次
三月十八日金弐朱行方六郎
壱朱堀口十太夫
三月十九日金百疋浅田進次郎
青銅弐拾疋石井お氏
三月廿七日金弐朱斎藤鎌次郎
金弐朱松野勝太郎
 金弐朱柳田熊之助
 金弐朱斎藤大助
 金弐朱増田桂蔵
 金弐百疋本多家より
 金壱分渡辺源左衛門
 金弐朱福田龜太郎
 金弐朱奥山浅次郎
 金壱分山崎孫四郎
 金壱分稲垣・小松・本間・木村・渡辺
 金弐朱野田六兵衛
 金弐朱王子着宿酒切手代
 金弐朱前田■右衛門・野崎啓助
 金壱両高木より

上表は『湯島天満宮へ奉納閣出銀姓名帳』と題された記録に拠ります。題名から分るように、当初は湯島天満宮へ奉納する予定だったようです。しかし、巻末に「王子着宿酒切手代」とある事から、奉納は王子稲荷に変更されたと分ります。その理由については伝えられていません。

そして上表を合計すると、金20両2分3朱、銭1貫944文、金900疋、青銅20疋。
分りやすく換算すると、金百疋は金壱分ですので弐両壱分、青銅壱疋を拾文として弐百文、これを加えて金22両3分3朱と銭2貫144文が奉納閣の為に集められました。

次いでその用途について見ると下記の通り。

「剱術薙刀閣王子稲荷へ今日奉納に付太左衛門[櫛渕不争軒]門人凡百人余罷越、閣面高さ六尺四寸横二間半六寸門人姓三百五拾人、清水太郎認の惣入用金三拾両余。 當日入用左の通、金五両金輪寺奉納金、足代足立候人足弐人金弐朱、堂番へ金弐分、同所掃除人へ金壱分、王子二ヶ村若者へ酒肴代金壱両、王子世話人へ金弐分、其外手達人へ金壱分壱朱、當日罷越候惣門人へ差出候膳部酒肴諸入用金三両弐分余。」<神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯>

先ず奉納閣自体に30両余掛っており、そして当日の入用が10両3朱余。18両近くも不足しています、外にも帳面が存在したのか、或いは宣猶自身の貯金を宛てたのか、いかにして不足を補ったか定かでありません。

以上、武道奉納額の一例として何かの参考になれば幸いです。

参考シ料

『諸入金之覺其外覚留 文化十四丑年より』筆者蔵
『文政三辰年諸覺』筆者蔵
『諸覺 文政六未年より』筆者蔵
『覺留 文政八酉年正月より同九戌年・文政十亥年十二月迄』筆者蔵
『金銀出入帳 天保十二丑年正月より同十三寅年』筆者蔵
『諸覚留 天保十四卯年・天保十五辰年・弘化二巳年・弘化三午年・同四未年・同五申年・嘉永二酉年・同三戌年』筆者蔵

『轉宅に付諸入用覺 文政十二丑年十二月四日より』筆者蔵
『轉宅に付諸入用其外覚 文政十三寅年三月二日より』筆者蔵
『谷中三崎地面譲諸覺 天保三壬辰年八月吉祥日』筆者蔵

『惣門人姓名扣帳 文化七午年七月』筆者蔵
『寛政二庚戌年以来入門姓名帳 享和元酉年初夏』筆者蔵
『湯島天満宮へ奉納閣出銀姓名帳 文政十丁亥年』筆者蔵
『王子稲荷剱術薙刀閣奉納姓名帳 文政十一戊子年』筆者蔵
『道場控書并出席姓名取調 安政七申年三月改明治二巳年八月再改』筆者蔵

『諸覺 天保五年より天保十一年迄』筆者蔵
『諸覺留 安政五午年正月より同六未同七申年十二月迄』筆者蔵
『勤用覺留 文久三亥年七月より元治元年至同二丑年』筆者蔵
『御用日記 元治元年三月』筆者蔵
『御上京御供諸覺 文久二戌年九月』筆者蔵
『勤用之覺 慶應元丑年九月より』筆者蔵

『神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡』加藤寛著
『神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯』加藤寛著

因陽隠士記す
2025.8.17

神道一心流の金銭出納-2 後編



天保十二年 谷中三崎より牛込早稲田へ移転

三月九日弐朱年始状・肴代 鈴木倉蔵より
六月廿三日金三両和泉屋より
 金弐分
 金壱両弐分杉山より御用代借用
 金弐両本所より
六月廿七日金五両早稲田御屋敷内堅田吉十郎家作譲請候手附相渡す
七月四日金弐朱入門金 上刕群馬郡中山村 林若狭取立門人、美濃吉・与太夫
七月壱朱と三百文梅木弐本・芝代 浅野
壱分藤浪へ石類 三右衛門世話
植木類品々 花久
梯木二本 平
七月廿五日三朱と弐百文大松二本拂代
八月七日金四両弐朱三崎家作拂代 須田半之助より受取
金弐分弐朱畳十畳・襖四枚・障子十四枚、拂代
八月七日八日十一日金壱両弐分谷中より引移荷物車力代、都合六車
八月八日六百文三崎より早稲田迄あんぽつ駕籠
 金壱分百六十四文御屋敷内所々遣いもの代
八月十一日金弐分大工要蔵へ渡す
 金弐分家根屋藤五郎へ渡す
八月十三日金弐朱伊勢屋文七より轉宅祝儀
 金三朱弐百文引移に付品々世話いたし候に付久米吉へ遣す
八月十九日金拾九両五匁家作引建直しに付拝借金請取、十五ヶ年賦
金六両家作七両の内壱両引、六両幸田へ渡す
八月廿日弐百廿四文久米吉へ渡す 内廿四文鍔代
 金壱両家作代 幸田へ渡す
 金弐両本所より借用金相返す
 金壱両弐分杉山へ返済
 金壱両蔵宿へ返す
 金弐分家根屋へ廿日に相渡す
 四百文本所・杉山へ餅菓子
八月廿三日弐朱と六十文鶴三羽
八月廿五日弐匁五分杉丸太一本
 六匁四分杉小割二束
 壱匁八分中貫弐丁
 金弐朱大工へ渡す
 金壱分縁替新規張替に付 手間共壱分壱朱の処、右の通壱分渡す
 金弐分表蔀天井用 天井張替三分弐朱の内 手間共三分弐朱内右の通渡す
八月廿七日金壱分雪隠松板調候節、大工へ渡す
九月四日六百四十八文蔀古板
 九分中貫壱丁
 百二十四文二寸釘三百本
九月十日百十六文
九月十一日金弐両杉山より借用
九月十三日金弐分大工要蔵妻へ渡す
九月十四日金弐朱畳縁八畳分本場麻
九月十五日金弐朱張付紙つのはた共
 百十六文中ぬりねば砂半荷つゝ
九月廿日金弐朱障子紙・しょうぶ 畳五畳代
九月廿二日金壱両幸田持参
九月五日壱朱赤飯餅米
 百文さゝげ一升
 十二文紅がら[紅殻]
 百八十文からし二升
 三朱稽古始諸入用
 三朱畳十五畳
 壱分直し手間
 三匁三分床壱畳
 三匁六分飯米代三人
九月廿五日金壱分大工要蔵・吉五郎・久米吉参る、作料残り遣す
九月廿七日金壱朱四分一三十四本、釘百八十本
弐拾壱匁九分畳屋拂
金壱分弐朱張付紙、其外唐紙縁共
十月五日壱朱入門金 石岡庄次郎
十月十三日金壱両杉山へ返済

天保十二年は谷中三崎から牛込早稲田へ移転した為、多額の費用が掛りました。


天保十三年 牛込早稲田

正月廿六日金弐両壱分弐朱祝義 御厩稽古始に付入門并外より
二月朔日三朱神文金 御厩稽古
三月二日郡内縞壱反代
金弐分
剱術・薙刀御覧
金弐朱武術御覧打太刀を勤めた長次郎へ遣す
金壱朱武術御覧拝領物の節、表坊主へ祝儀として
三月六日金弐朱入門金 近藤徳太郎・同与五郎
三月十四日弐分弐朱入門金 深代取立、下川田村三人、今井村三人
金弐分目録・哥目録傳授謝礼 和平司より受取
三月廿四日金弐分目録・哥目録傳授謝礼
三月廿六日金弐朱入門金 薙刀 高野清女
三月廿九日金弐朱肴代 鈴木倉蔵出府
四月朔日壱朱入門金 薙刀 都甲ぎん
壱朱入門金 塚田すま
四月三日金弐朱入門金 山口たほ・萩原ふき
五月壱朱入門金 板垣玄貞
七月三日百文盆中に付馬術出銭
七月十五日三両弐分壱朱中元祝儀 門人中より
九月六日弐朱入門金 浅見猪之助
十月十三日弐分壱朱緞子巻物九巻
十月壱分三枚継緞子巻物四巻、一巻壱朱つゝ
百六十文小奉書十三枚
三十九文帖入十三枚
廿六文水引十三把
六十四文朱肉練り直し
十月廿六日百六十文備十三居
 神酒 一合
十一月五日金壱両弐分哥目録傳授謝礼 御厩十三人分 馬場龍蔵持参
十一月十三日四朱金入巻物弐枚継 青梅や
十一月廿日壱分免許傳授謝礼 津田猪三郎
十一月廿三日三百文稽古場火鉢
十二月廿八日壱貫百四十文御厩稽古納 餅菓子一人へ七つづゝ、数二百、丸屋へ申付る
弐両弐分弐朱
壱朱と四百文其外共
歳暮祝儀 諸門人より

天保十三年の入金は「金三拾両弐分余」、その内門人からの入金は「金拾三両壱分三朱余」でした。


天保十四年 牛込早稲田 道場再建、稽古再開

五月廿九日壱両壱分弐朱と銭五百文稽古始肴代 門人中より
七月金弐両弐分弐朱中元祝儀 門人中より
八月金弐朱入門金 横山長蔵
九月五日弐朱入門金 松原靏蔵・同龜蔵
十一月廿二日金三分と七百四十文上州沼須・糸井・戸鹿の門人稽古所入用として出す
十二月八日金弐朱[歳暮] 鈴木倉蔵
十二月十九日三両弐朱と四百文稽古歳暮 門人より


天保十五年 牛込早稲田

正月六日金弐朱歳暮 松原靏蔵
二月八日金弐朱年玉 鈴木倉蔵
四月十五日金五百疋切紙傳授謝礼 中川靏蔵・村田鍵吉・都甲駒三郎・竹田庄吉・小泉又蔵・今村鏡次郎・馬場龍蔵・斎藤小忠次
七月金弐両壱分中元祝儀 門人中より
七月十九金弐朱中元 松原靏蔵
九月十三日金弐朱哥目録傳授謝礼 小松兼太郎
金弐朱・酒壱升切手[哥目録傳授謝礼] 北村熊之助
金壱分・大鰹節一[哥目録傳授謝礼] 横山長蔵
十一月十二日金百疋川上村 中嶋仲右衛門出府に付
十二月十五日金壱分歳暮 小松兼太郎・同万次郎
金弐朱[歳暮] 幸田おしげ
金弐両弐分弐朱歳暮祝儀 門人より


弘化二年 牛込早稲田

正月十五日金壱分稽古始 竹田父子
金弐朱平塚・小松・渡辺・木村
四百文内川・金永
三月廿日金壱分傳授謝礼 原甚一郎
金壱分傳授謝礼 高木弥太郎
金弐朱・酒二升傳授謝礼 武嶋鉄五郎
金弐朱・酒壱升傳授謝礼 岡田邦吉
金弐朱傳授謝礼 小松万次郎
金壱分傳授謝礼 幸田おしげ
六日朔日金弐朱入門金 中嶋慶太郎
七月六日四百文[中元] 金永常次郎・同おさだ
金弐朱[中元] 松下万次郎
七月金三分中元祝義 手習子供より
七月金弐両壱分中元 門人より
九月廿二日金壱分入門金 上州上發知 斎藤代次郎
十二月中金三両稽古謝礼


弘化三年 牛込早稲田

正月廿六日金弐分塚原宿 原澤徳太郎・同安良松
金壱分弐朱小日向 木村藤兵衛
金弐朱稽古始 小松・渡邊・木村
三月節句弐百文金永熊太郎
三月四日金弐朱香奠 金井兵作事山田寛山より斧太郎・お久へ
五月節句弐百文金永熊太郎
四百文金永常次郎・同おさだ
十月廿八日金三分切紙傳授謝礼 小松兼太郎・横山長蔵・武嶋鉄五郎
金弐朱哥目録傳授謝礼 服部銀次郎
十一月廿三日金弐朱入門金 糸井村 竹吉・米吉
金壱分入門金 沼須 大竹政次郎・須田彦三郎
十一月廿三日金壱分謝礼 斎藤代次郎帰国に付
金弐朱入門金 糸井村 竹吉・米吉
金壱分入門金 沼須 大竹政次郎・須田彦三郎
金弐朱亡父追善 武井右吉・石井要蔵
弐百文亡父追善 武井荘吉・永井寅吉
十二月三日金弐朱[歳暮] 中嶋仲右衛門
十二月金弐両三分弐朱歳暮 門人より


弘化四年 牛込早稲田

正月十五日金弐朱稽古始 小松仲右衛門・渡辺猪十郎・木村勘右衛門
正月十七日弐百文金永熊太郎
正月廿一日金壱分御厩稽古始 中嶋慶太郎
二月廿五日金三分湯原村 須藤長太郎
三月二日金壱両長次郎帰府持参
金壱分哥目録傳授謝礼 發知村 斎藤代次郎
金壱分哥目録傳授謝礼 沼須村 武井英之助
七月金壱両三分四百文中元 門人より
十二月中金壱両弐分と四百文歳暮祝儀 門人より


弘化五年 牛込早稲田

正月十五日金弐朱稽古始 小松仲右衛門
三月廿三日金弐分肴代 山田寛山[金井兵作]
四月廿七日金壱分切紙傳授謝礼 小松万次郎
金弐朱哥目録傳授謝礼 金永常次郎
五月五日弐百文節句 [金永]おさだ
七月金壱両弐分弐朱弐百文中元祝儀 門弟中より
九月十日金弐分弐朱中元祝儀 御厩・加藤久次郎・高井卯之吉より
十二月廿二日金弐両三分弐朱傳授謝礼・例暮祝儀 門人より


嘉永二年 牛込早稲田

正月弐百文年玉 金永おさだ
正月廿日弐百文年玉 林銀次郎・竹田慶太郎
三月十二日金弐朱[糸井 ]加藤磯吉
三月廿七日金壱分弐朱加藤磯吉帰国に付
閏四月三日金弐朱土産 下發知村 八右衛門出府に付
九月十五日金弐朱入門金 相馬庄吉・石井愛之助
十月四日金弐朱摩利支天へ閣奉納に付 小川本村 鈴木倉蔵より
十二月金弐朱糸井 加藤磯吉より、沼須 喜太郎持参
金弐両歳暮謝礼 門人より


嘉永三年 牛込早稲田

二月四日金弐朱入門金 園原半兵衛忰
六月廿一日金三百疋切紙傳授謝礼 上州上發知村 斎藤代次郎
金壱両哥目録傳授謝礼 上州下發知村 松井元蔵
金百疋入門金 上州下發知村 角田甚蔵
七月十日金百疋中元 小松兼太郎・小松万次郎
七月金壱両壱分三百八十六文中元祝儀 門人中より
八月廿二日金弐両弐朱傳授謝礼 十一人分

先ず、流義に関する金銭の収入について。
入門時に差し出す入門金(または神文金とも云う)があり、「哥目録」「切紙」「目録」「免許」などの各種巻物傳授に対する傳授謝礼があります。

次いで、流義に関する交際費について。
正月の稽古始に贈られる肴代、七月の中元祝儀、十二月の稽古納に贈られる肴代、歳暮の祝儀(稽古歳暮・例募祝儀・稽古謝礼)があります。稽古始と稽古納は門人各々が行い、中元祝儀・歳暮祝儀は門人達がまとめて贈りました(中には個人で贈る者もあり)。なお、文政期にはほとんど見られない「御厩稽古」と云うのは一橋家の稽古所を指しており、櫛渕家の道場が牛込早稲田へ移転して以降「御厩稽古始」「御厩稽古納」という言葉が表われ、こちらの御厩の門人からも謝礼が贈られるようになりました。

亦た、櫛渕氏の出身地である上州から出府した人々が持参する、取立門人の神文金・傳授謝礼・土産や滞在中の飯料と云ったようなものが不時にあり、且つ江戸に於ける門人からの送り物等があります。

扨て、傳授事の謝礼は儀礼的でありながら、その額は各人夫々に任されていたものか一定していません。兎も角、最低でも巻物代(緞子巻物は壱朱、金入りは弐朱)・筆写料を納めなければ失礼にあたるのではないか、また普段の指南に対し、傳授に対する謝意を加味したものかと想像します。

よく見ると、上州の熱心な門人や主立った門人が江戸に出府し、しばらく滞在して指南を受け、ある程度進んだ後ちに帰国する、という流れがあったようです。斯うした門人たちが在所において門人を取り立てゝ指南し、流義を弘めて行ったと察せられます。

以上がおよそ日常的に行われた金銭の出納であります。

最期に附言すると、こゝに抽出したものが全てゞはありません。傳授事があるにも関わらず巻物の購入が少ないこと、また傳授謝礼が少ないこと、道場の諸費用がほとんど挙げられていないことから推して、帳面には記録されていない用件が多くあったと考えられます。

参考シ料

『諸入金之覺其外覚留 文化十四丑年より』筆者蔵
『文政三辰年諸覺』筆者蔵
『諸覺 文政六未年より』筆者蔵
『覺留 文政八酉年正月より同九戌年・文政十亥年十二月迄』筆者蔵
『金銀出入帳 天保十二丑年正月より同十三寅年』筆者蔵
『諸覚留 天保十四卯年・天保十五辰年・弘化二巳年・弘化三午年・同四未年・同五申年・嘉永二酉年・同三戌年』筆者蔵

『轉宅に付諸入用覺 文政十二丑年十二月四日より』筆者蔵
『轉宅に付諸入用其外覚 文政十三寅年三月二日より』筆者蔵
『谷中三崎地面譲諸覺 天保三壬辰年八月吉祥日』筆者蔵

『惣門人姓名扣帳 文化七午年七月』筆者蔵
『寛政二庚戌年以来入門姓名帳 享和元酉年初夏』筆者蔵
『湯島天満宮へ奉納閣出銀姓名帳 文政十丁亥年』筆者蔵
『王子稲荷剱術薙刀閣奉納姓名帳 文政十一戊子年』筆者蔵
『道場控書并出席姓名取調 安政七申年三月改明治二巳年八月再改』筆者蔵

『諸覺 天保五年より天保十一年迄』筆者蔵
『諸覺留 安政五午年正月より同六未同七申年十二月迄』筆者蔵
『勤用覺留 文久三亥年七月より元治元年至同二丑年』筆者蔵
『御用日記 元治元年三月』筆者蔵
『御上京御供諸覺 文久二戌年九月』筆者蔵
『勤用之覺 慶應元丑年九月より』筆者蔵

『神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡』加藤寛著
『神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯』加藤寛著

因陽隠士記す
2025.8.17

神道一心流の金銭出納-1 前編

神道一心流の的伝を継承する櫛渕家の記録の内、流義に関する金銭の出納をこゝへ抽き出し表にしました。武藝の分野は、伝書を手掛かりとして技法・心法の面に言及されること頻りでありますが、その内実となるや史料が乏しいため言及されることが甚だ少ないように思います。

櫛渕家文書には、幸いにして金銀の出入を記した帳面やそれに関わる記録が数冊現存しており、これらから得られる情報は多いのではないかと愚考し表にして掲げた次第です。

文政三年 下谷三味線堀

二月十二日弐朱高木卯之吉
三月三日金弐朱高木卯之吉・今福常吉
七月弐朱[中元] 渡辺又市
弐朱[中元] 柄井[玄達か]
文政四年 下谷三味線堀

四月廿四日弐朱香奠 山崎孫四郎
六月廿六日金壱分今井[吉兵衛]
十月廿一日金壱分入門金 粟津文三
十二月八日金壱両飯料 中澤猪之吉
十二月金壱分飯料 高田小次郎 柳弥兵衛より請取
十二月廿六日弐朱[歳暮] 下川田村 深代幸蔵より
十二月弐朱[歳暮] 渡辺又市
弐朱[歳暮] 粟津文三
文政五年 下谷三味線堀

正月四日金壱分年頭 今井吉兵衛
七月十三日金百疋[中元] 高木卯之吉
七月金壱分[中元] 今井[吉兵衛]
金壱分[中元] 野間・米倉
十月壱分弐朱山孫[山崎孫四郎]
壱分入門金
十一月弐分飯料 鈴木倉蔵
十一月晦日壱両目録傳授謝礼・飯料 小林熊蔵
十二月弐分傳授謝礼 金井代蔵
十二月十日弐分哥目録傳授謝礼 高橋牧太
壱分弐朱切紙傳授謝礼 市川吉之丞
十二月壱両[歳暮] 高木卯之吉
十二月壱分弐朱[歳暮] 増田
文政六年 下谷三味線堀

十一月金壱分役替祝儀 今井吉兵衛
十二月壱分巻物代 玉村甚太夫
十二月十一日壱分巻物代 杉山傳次郎
壱分[歳暮] 高木卯之吉
十二月十九日金壱分[歳暮] 高橋牧太
金壱分[歳暮] 杉山傳次郎・同熊次郎
金壱分[歳暮] 今井吉兵衛
金壱分[歳暮] 金井兵作
弐朱[歳暮] 寺嶋祐八
文政七年 下谷三味線堀

正月金弐分哥目録傳授謝礼 野間末之丞
正月十五日金三分目録傳授謝礼 高木卯之吉
正月十五日金三分免許傳授謝礼 金井兵作
七月六日金弐百疋薗原連中より
七月九日壱朱[中元] 玉村甚太夫
壱分[中元] 今井[吉兵衛]
壱分[中元] 高木[卯之吉]
壱分[中元] 杉山[傳次郎]
閏八月百疋祝儀 今井吉兵衛
十一月八日壱両神文金 小川村の者 鈴木倉蔵より来る
弐分切紙傳授謝礼 深代幸蔵より来る
十二月朔日金弐分免許傳授謝礼 今井吉兵衛
金壱両目録傳授謝礼 鈴木倉蔵
金弐分飯米料 鈴木倉蔵
十二月廿二日壱分[歳暮] 高木卯之吉
十二月廿六日金弐朱歳暮 神戸勇次郎 兄芹沢七郎より来る
十二月金壱分[歳暮] 杉山[傳次郎]
十二月壱朱[歳暮] 玉村[甚太夫]
文政八年 下谷三味線堀

正月五日金壱分[稽古始] 今井吉兵衛
正月廿二日金弐分入門金・肴代 四人分 吉野伊惣吉より届く
正月廿五日金壱分入門金 和田重次郎
金壱朱入門金 栗原吉次郎
二月朔日金弐朱歳暮 野間末之丞
二月十二日弐朱薗原 中澤伊兵衛より
二月金弐朱新井傳兵衛出府に付
金弐朱中沢丈助出府に付
弐朱入門金 野田六兵衛
弐朱入門金 奥山浅次郎
弐朱遠藤傳蔵出府に付
壱分畳代 遠藤傳蔵帰国の節
四月廿二日四両壱分余御七回忌に付、門人其外香奠
五月十七日弐朱寺嶋祐八出府に付
七月十一日壱分[中元] 野田六兵衛
壱分[中元] 高橋金十郎
壱分[中元] 中嶋久喜蔵
弐朱[中元] 寺嶋祐八
弐朱[中元] 山崎孫四郎
弐朱[中元] 神戸勇次郎
弐朱[中元] 持田鎌太郎
壱朱[中元] 粟津吉次郎
壱朱[中元] 玉村甚太夫
壱分[中元] 杉山傳次郎
弐朱[中元] 伊波佐吉
壱分[中元] 今井[吉兵衛]
壱分[中元] 高木[卯之吉]
壱分[中元] 和田[重次郎]
九月弐分哥目録傳授謝礼 野田[六兵衛]
弐分哥目録傳授謝礼 伊波[佐吉]
三分[傳授謝礼か] 山崎孫四郎
三百疋哥目録・切紙・目録傳授謝礼 寺嶋貫内
弐分哥目録傳授謝礼 神戸勇次郎
壱分[傳授謝礼か] 持田鎌太郎
弐分哥目録傳授謝礼 和田重次郎
十一月初旬金壱両弐分切紙傳授謝礼 四人分 鈴木倉蔵持参
金弐分土産 鈴木倉蔵
十一月廿九日金弐分入門金 四人分 星野桂蔵持参
十二月二日金壱分歳暮 野田六兵衛
十二月廿二日壱朱[歳暮] 伊波佐吉
弐朱[歳暮] 猪飼熊蔵
金弐分[歳暮] 小林熊蔵 廿六日帰国
金壱分[歳暮] 星野桂蔵
金弐分[歳暮] 高橋孝蔵・同忠蔵
金弐朱[歳暮] 杉山傳次郎
金壱朱[歳暮] 玉村甚太夫
壱分[歳暮] 高木卯之吉
壱分[歳暮] 行方六郎
弐朱[歳暮] 持田鎌太郎
弐朱[歳暮] 栗原吉次郎
弐朱[歳暮] 柳惣兵衛
壱分[歳暮] 寺嶋貫内
十二月晦日七匁五分哥目録巻物代 栗原[吉次郎]より
壱匁五分箱代 栗原[吉次郎]より
文政九年 下谷三味線堀

正月十七日金壱分入門金 宇土忠介
金壱分入門金 竹内岩吉
金弐朱山内宗馬
壱朱柄井玄達
正月金壱分和田重次郎
正月金弐分肴代 薗原 中沢佐兵衛着に付
二月金弐分神文金 川田新右衛門・幸蔵取立門人 大熊鐸之助より来る
三月朔日金壱朱入門金 大熊澤之助
三月弐朱肴代 山崎金太郎
四月金弐朱と壱朱切紙傳授謝礼 越後五泉近藤常蔵
七月金壱分中元 寺嶋坎六
金弐朱中元 持田鎌太郎
金弐朱中元 大熊鐸之助
金弐朱中元 栗原吉次郎
金弐朱中元 神戸勇次郎
金壱分中元 高橋両人
金壱分中元 行方[六郎]
金弐朱中元 杉山傳次郎
金壱分中元 今井吉兵衛
金壱分中元 高木卯之吉
十月金壱分弐朱友山道具代
十二月二日金壱分[歳暮] 野田六兵衛
金壱分[歳暮] 渡辺源左衛門・同銀之助
金壱両[歳暮] 中澤猪之吉
十二月十五日金百疋・金弐朱[歳暮] 高木卯之吉
十二月廿二日百疋歳暮 今井吉兵衛
百疋歳暮 行方[六郎]
十二月廿四日金弐朱[歳暮] 神戸勇次郎
金壱分弐朱[歳暮] 寺嶋坎六
文政十年 下谷三味線堀

正月七日金壱分稽古始鰹節代 稲垣勝左衛門・小松源三郎・本間理兵衛・奥村六太郎・渡辺猪十郎・村山大次郎
壱朱[稽古始] 柳惣兵衛
壱朱[稽古始] 伊波佐吉
弐朱[稽古始] 山内宗馬
金壱分[稽古始] 和田重次郎
壱朱[稽古始] 栗原吉次郎
正月廿一日金壱分弐朱入門金 佐藤作蔵・高橋小市・池田要吉 上州沼田
三月金壱分閣奉納金 小栗卯之五郎
四月五日金弐朱神文金 上州 勅使川原和多吉 後閑より来る
三月金壱分近藤常蔵出府の節
四月金弐朱近藤常蔵帰国の節
四月廿五日金弐分切紙傳授謝礼 田村惣次郎 鈴木倉蔵取立門人
五月五日金弐朱入門金 福田龜太郎
五月八日金弐朱土産 中沢丈助出府
五月九日金弐分弐朱入門金 中村伊勢吉・同万吉・同常吉・中沢霍吉・同三次郎 中沢丈助持参
五月十五日金壱分入門金 関根鉄之助
六月金壱分
内弐朱餞別として遣す
肴代 寺嶋坎六帰国に付
七月七日金弐朱福田龜太郎
金弐朱中沢猪之吉着の節
七月十一日金壱分[中元] 高橋孝蔵
金弐朱[中元] 栗原吉次郎
七月十三日金弐朱[中元] 杉山傳次郎
金弐朱[中元] 大熊鐸之助
金弐朱[中元] 友山[幸次郎]
七月十七日金百疋[中元] 関根鉄之助
金百疋[中元] 今井吉兵衛
金弐朱[中元] 野田六兵衛
八月金弐朱入門金 熊之助
金壱分高木卯之吉
九月十九日金三百疋入門金 吉野浅次郎・小嶋・栄八・中村圓蔵・松永寅松・染谷恒吉 織田沢虎之助取立門人
十一月廿八日金壱分鈴木倉蔵出府に付
十二月朔日金弐朱飯料 武井喜平太
十二月七日金弐分切紙傳授謝礼 倉澤半次郎
金壱分弐朱飯料 倉澤半次郎
金壱朱稽古納肴代 関根鉄之助
十二月廿三日金弐朱歳暮 福田龜太郎
十二月廿六日金壱分[歳暮] 今井[吉兵衛]
金壱分[歳暮] 行方[六郎]
十二月廿八日金弐朱[歳暮] 福田安兵衛
金弐朱[歳暮] 大熊鐸之助
金弐朱[歳暮] 柳田熊之助
金弐朱[歳暮] 杉山傳次郎
金弐朱[歳暮] 栗原吉次郎
金壱分[歳暮] 高橋孝蔵・同忠蔵
金弐朱[歳暮] 持田鎌太郎
金壱分[歳暮] 高木卯之吉
金弐朱[歳暮] 友山幸次郎

参考シ料

『諸入金之覺其外覚留 文化十四丑年より』筆者蔵
『文政三辰年諸覺』筆者蔵
『諸覺 文政六未年より』筆者蔵
『覺留 文政八酉年正月より同九戌年・文政十亥年十二月迄』筆者蔵
『金銀出入帳 天保十二丑年正月より同十三寅年』筆者蔵
『諸覚留 天保十四卯年・天保十五辰年・弘化二巳年・弘化三午年・同四未年・同五申年・嘉永二酉年・同三戌年』筆者蔵

『轉宅に付諸入用覺 文政十二丑年十二月四日より』筆者蔵
『轉宅に付諸入用其外覚 文政十三寅年三月二日より』筆者蔵
『谷中三崎地面譲諸覺 天保三壬辰年八月吉祥日』筆者蔵

『惣門人姓名扣帳 文化七午年七月』筆者蔵
『寛政二庚戌年以来入門姓名帳 享和元酉年初夏』筆者蔵
『湯島天満宮へ奉納閣出銀姓名帳 文政十丁亥年』筆者蔵
『王子稲荷剱術薙刀閣奉納姓名帳 文政十一戊子年』筆者蔵
『道場控書并出席姓名取調 安政七申年三月改明治二巳年八月再改』筆者蔵

『諸覺 天保五年より天保十一年迄』筆者蔵
『諸覺留 安政五午年正月より同六未同七申年十二月迄』筆者蔵
『勤用覺留 文久三亥年七月より元治元年至同二丑年』筆者蔵
『御用日記 元治元年三月』筆者蔵
『御上京御供諸覺 文久二戌年九月』筆者蔵
『勤用之覺 慶應元丑年九月より』筆者蔵

『神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡』加藤寛著
『神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯』加藤寛著

因陽隠士記す
2025.10.4

姫路藩不易流炮術の門弟-6

前回の九代目師役に続き、今回は十代目師役への起請文です。これは入門のときに差し出されたものでは無く「慎申再誓之事」と題し卯可のときに差し出された起請文です。十代目就任後の天保10年(1839)、そして海岸防禦が強化される嘉永3年(1850)、嘉永4年(1851)、あわせて8名が名を列ねています。この内4名の履歴が分っています。

十代目師役は三俣義陳と云い、先述のごとく九代目のとき殿様の炮術指南御相手を勤めた人物で、伊勢津藩の佐藤家に留学して不易流の卯可を相傳されました。師役となったのは天保8年11月18日31歳のとき。翌年亡父の跡式高三百石を相続し御書院へ御番入り。御近習席(天保10年)、御城内外火之番、御中小姓組頭御取次兼勤(天保12年)、御物頭御取次兼勤(弘化2年)、室津家嶋臺場見分・伊勢津藩不易流師家へ留学(嘉永3年)、異国舩渡来の節御手當御人数在番(嘉永6年)、公儀より鉄炮稽古四季共勝手次第・不易流炮術願いに付好古堂藝同様の御取扱となる(安政2年)、井上流炮術世話番外・不易流炮術御用に付江戸在番(安政3年)、大炮合一(安政4年)、病死(安政6年)、不易流減流(安政7年)。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

 天保10年8月19日

福田市太郎 福田佐登助の長男。文政11年に不易流の世話役を命じられ天保12年まで勤めます。本人の履歴は無く、父の履歴が分っています。
父佐登助は享和2年に家督を相続、拾石減らされ百四拾石を下されます。御城内外火之番、御在城中御供番、奉行・大名が領内通行のおり道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(文化12年)、家嶋勤番(文化14年)、飾万津御番方(文政元年)、御城内外火之番(文政3年)など勤めました。記録はこゝまで。

福嶋長助 文化4年に跡式百三拾石を相続、御焼火の間へ御番入り。以降、御城内外火之番、飾万津御番方(文化9年)、御在城中御次番など勤め文政3年に至ります。不易流へ入門した文化9年は飾万津御番方を勤めていました。今回の起請文の時期の履歴は分っていません。
父傳五左衛門は安永5年に家督を相続し百三拾石を下され、御焼火御番入り。以降、御城内外火之番、奉行が領内通行のおり道奉行時役・道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(安永6年)、御武具方(安永9年)、藝事指南出精につき褒美(天明元年)、多年の功労によって御使番格(天明7年)、御中小姓組頭・御取次兼帯(寛政5年)、金原助左衛門跡の鎗術指南役(享和2年)、病死(文化3年)。

柴田太郎左衛門 七代目師役の四男にて、嫡子午之助の急死によって嫡子となります。この急死した午之助、文政9年福田市太郎・福嶋長助と共に鉄炮稽古料を下されており、もし存命であれば間違いなく流派内において重きをなした筈の人物です。
太郎左衛門が嫡子となったのは文政9年、二年後の文政11年に父が病死し跡式を相続、十弐人扶持を下され御主殿へ御番入りします。天保5年に飾万津御番を命じられてより以降は高砂御番、家嶋御番方など勤め、天保8年江戸表へ引っ越し御主殿へ御番入り、御城内外火之番。嘉永6年8月22日に不易流指南差添となり、同日当分の間は御宝器掛・御数寄屋方兼帯を命じられます。これは黒舩来航の影響によって、炮術に熟練した者を急遽抜擢した為と考えられます。翌年には異国舩渡来の節御固人数として姫路の室津へ派遣されます。突然の国許派遣は海岸防禦の方法について、地元の炮術家などゝ相談するためでしょう、9月22日に出立して10月8日には帰っています。不易流指南差添が御免となったのは安政2年のこと。
万延元年閏3月23日に不易流は減流となり、11月21日太郎左衛門は江戸表御臺場御固御人数となり、翌年在番を解かれ国許へ戻ります。国許に於いては御臺場并金杉御陣屋勤番。文久2年不易流再興の建言書を藩へ提出します。文久3年御中小姓組頭格・御鉄炮奉行となり勤役中弐拾人扶持を下されます。役職はこれまでの通り御宝器掛り・御数寄屋方兼帯、御腰物掛兼とのこと。同年8月摂州御持場へ御固人数として出張、文久4年には大炮鋳立に出精によって褒美を下されます。同年公方様が軍艦で播州・淡州・泉州辺の海岸炮臺築造場を御覧のとき、大目付代となり出張します。慶應3年正月、京摂辺が不容易な形勢となると姫路藩は派兵、太郎左衛門は大炮役として室津の警衛を任されます。慶應4年6月出京し御使番役兼勤、後に好古堂学問所肝煎兼勤、明治元年年来の出精の功績よって刑御奉行となり勤役中弐百石を下されます。明治2年邊叟と改名。
実に大まかな履歴ですが、このように柴田太郎左衛門は大炮・鉄炮に熟練した者として藩より信頼されていたようです。なお、幕末の騒然とした時期は、太郎左衛門の息子たちも武官として各地に派遣されるなどしていました。

 嘉永3年11月29日

塩山半次郎/惣太兵衛/豫助/峯八/峯右衛門 文政5年に不易流へ入門。文政10年に跡式を相続し百四拾石を下され、御焼火へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御次番(文政12年)、御城内外火之番(天保7年)、不易流炮術世話役(天保7年)、無邊流仮世話役(天保8年)、宝山流柔術仮世話役(天保8年)、御城内外火之番(天保9年)、御在城中御供番(天保12年)、不易流炮術手傳(天保13年)、豫助事惣太兵衛と改名・宝山流柔術世話役(弘化2年)、御使番(弘化3年)、不易流炮術指南差添(弘化3年)、町奉行時役(嘉永6年)、勘略奉行(嘉永7年)、高増弐拾石・町奉行(文久元年)、御物頭役・御取次兼勤(文久2年)、御上洛につき四ヶ所浦手固(文久3年)、摂州御持場固(文久3年)、若殿様御城着の節鉄炮組を率いて加古川驛まで迎えに行く(元治元年9月)、摂州御持場御固の節大目付兼勤(元治元年)、摂州御持場御固につき褒美(慶應元年)、奏者番(慶應4年)、御城番・御次詰(明治2年)。 世忰半次郎

鶴田次太右衛門 家臣録の失われた”ツ”の部。
不易流へ入門(文政6年)、修行を命じられる(天保6年)、世話役(天保7年)、手傳(弘化3年)、師範差添(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

 嘉永4年11月27日

福嶋傳九蔵 不易流仮世話役(天保10年)、指南手傳(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

高須傳内 家臣録の失われた”タ”の部。当分不易流手傳(嘉永5年4月26日)。

小笠原槌次/助之進 卯可起請文の当時は家督以前。不易流世話役(天保14年)、小笠原躾方世話役(弘化2年)、家の名に付き助之進と改名(弘化3年)、不易流指南手傳(嘉永2年)、国学指南手傳(嘉永6年)、不易流大筒手傳(嘉永7年6月)、異国舩渡来の節御手當人数江戸在番(嘉永7年)、江戸在番中姫路同様に不易流手傳(安政2年)、跡式弐百石を相続・江戸在番御免・小笠原躾方世話役・不易流手傳・国学指南手傳これまでの通り(安政2年)、不易流指南差添、御城内外火之番、十代目師役が出府につき躾方・国学より不易流を優先すべき命あり(安政3年8月)、好古堂肝煎(安政4年)、京都御留守居(安政7年)、摂州御持場御固御人数(文久3年)、好古堂掛(元治元年)、御進發御用掛(慶應元年)、町奉行・御進發御用掛(慶應2年)、病死(慶應3年)。 世忰勝弥
父新兵衛が跡式を相続したのは天保12年のこと、百七拾石を下され好古堂肝煎・御数寄屋方仮役兼勤となる、翌日御焼火へ御番入り。御使番格・勘畧奉行・御数寄屋方兼勤(天保13年)、室津交易會所懸り、倹約方年番、奉行・御物頭兼勤・勤役中弐百石(弘化3年)、宗門奉行年番、御作事年番(嘉永2年)、御加増三拾石(嘉永6年)、勘略方掛(嘉永7年)、宗門奉行年番、御用兼取扱、御勝手御用につき出坂、新開絵図御用掛、病死(安政2年)。

各人の履歴をまとめると斯うです。

 三俣義陳   三百拾石 番方 不易流十代目師役 御物頭筆頭 御取次
 福田佐登助  百四拾石 番方 市太郎の父
 福田市太郎     ? ?  不易流世話役
 福嶋長助   百三拾石 番方 不易流指南差添
 柴田太郎左衛門 弐百石 番方 不易流指南差添 御使番役 刑御奉行
 塩山惣太兵衛 百六拾石 番方 不易流指南差添 御城番 御次詰
 鶴田次太右衛門   ? ?  不易流指南差添
 福嶋傳九蔵     ? ?  不易流指南手傳
 高須傳内      ? ?  不易流指南手傳
 小笠原助之進  弐百石 番方 不易流指南差添 町奉行 御進發御用掛

因陽隠士記す
2025.9/30

姫路藩不易流炮術の門弟-5

前回が七代目でしたから今回は八代目の番なのですが、この師役への起請文は確認できていません。元から無いのか或いは失われたのか、兎も角一通も伝えられていないのです。八代目の名は福嶋善兵衛と云って家禄はおそらく百四拾石、祖父と思しき(直系であることは確認済み)市郎兵衛が三代目師役の高弟でした。四代目から五代目へ代替りする期間に行われた火業記録のなかに福嶋善兵衛の名が度々登場しており、高弟に位置しています。まだ詳しいことが分っていません。

 福嶋善兵衛  百四拾石 八代目師役 番方 道奉行

さて、今回は八代目を飛ばして九代目師役への起請文です。この人のことは以前にも述べた通りです。文政3年までの履歴が分っています。

 森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用

師役に就任してから三年後に隠居しますので、高齢であったと察せられます。
起請文の日付、天保4年5月15日は実は師役就任の四ヶ月前です。八代目が3月29日に病歿した為、その間も師役同様の立場だったのでしょう。また、藩主 酒井忠学公へ炮術を指南しました。藩主への炮術指南は、記録に見るかぎり四代目が酒井忠以公へ指南して以来久しく無かったことだと思います。酒井忠学公へ指南のおり御相手に抜擢されたのが後の十代目三俣義陳でした。ブログにおいて、これまで天保5.6年の義陳の日記を紹介しており、このなかに度々森先生が登場します。

斎藤鑒介益友 起請文を提出したとき13歳という若さでした。兄の斎藤幾之進が当主としてあり、当時家嶋御番、飾万津御番方などを勤めていました。翌年に高砂御番方、さらに翌年室津御番方、浦手精勤とのことで褒美を下されます。しかし番方の武人気質というより学者であったらしく天保8年に国学肝煎を命じられています。よほど熱心だったのでしょう、百日の猶予をもらい仙臺藩士のもとへ修行に出掛けるほどでした(後年、再び他家の学者のもとへ修行に行きます)。このような兄の影響があったものか弟斎藤鑒介も学問に取り組み、文政13年(1830)に句読手伝を命じられ、天保13年に仁壽山へ入り、同14年に学問所指南手傳兼勤、弘化3年寄宿寮肝煎兼勤などを命じられています。嘉永3年兄幾之進の病死によって養子となり、その跡式五拾石を相続します。なぜ不易流に入門したのかちょっと不思議です、後年兄と同じく浦手の番方につきますので炮術が役に立ちました。特に文久のころから海防に関わる役職を勤めており、その方面ではかなり活躍します。神護丸の製造に際しては諸事肝煎元方を兼勤し、元治元年に格段出精とのことで褒美を下されました。大筒の技術にも期待されていたようで、同年特に藩より諸事心得油断無く申し合わせるようにと命じられています。またこの年、長州藩士側用人・側役の両人が来舩したときは応接して使者を断るようにと重職たちに言い含められています。元治元年は多忙にて、京都へ緊急に内々の御用で上京、帰藩して首尾よく報告しその功労が認められました。元治2年に御進発御用掛、慶応元年御目付役助勤・中御徒士頭格となり再び御進発御用掛を命じられて、諸藩応接をよく勤めます。以後も勤務に忙しく長文となりますので、こゝでは割愛しましょう。姫路藩が官軍に恭順したとき、その使者に立ったのがこの人と亀山美和です。

森精次範景

森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
西澤枝次    六拾石 番方 若くして隠居
森伊野右衛門  五拾石 番方 海岸防禦 神護丸製造諸事肝煎元方兼勤 御進発御用掛

『不易流起請文』筆者蔵

起請文には12名が名を列ねた連名による一括提出。起請文前書は前回掲げた「六剋一如之放銃御傳授」と同一です。
この内二名の履歴が分っています。

 天保4年5月15日(1833)

笹沼留次資之
朝比奈勝吉利貞
利根川敬作景福
林平太郎信郷
清埜弥三二正生
原田笹吉言機

西澤枝次兼行 養父十右衛門は兼ての持病によって33歳の若さで養子を貰うことにして、三浦彦次郎の二男枝次を迎えます。これが天保2年7月のこと、枝次は17歳。同年12月養父の願いによって枝次が番代となります。これは養父の代理で勤めるというこでしょうか、養父は氣鬱の病いで出勤することもまゝならい状態であったと記されています。結局、養父は天保4年4月16日に隠居(この三年後に病歿)、家督は三拾石減らされ西澤枝次へ六拾石下されます。起請文を提出したのはこの一か月後です。家督の一年前に御城内外火之番を命じられ、その年に無邊流の数入身を行いました。天保7年に御在城中御次番、翌年無邊流の仮世話役となります。しかし、天保14年に痛症が悪化、実子もおらず養子をもらい隠居します。

原田益次章報
宇敷誠一郎陳戒
福嶋佳名蔵重遠

因陽隠士記す
2025.9.30

姫路藩不易流炮術の門弟-4

 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

前回は六代目師役へ提出した起請文について述べました。
今回は七代目師役へ提出した起請文について述べます。但し、一枚起請文の形式で提出されているため、いくつか紛失したことも考えられます、よって現存する史料のみ。

七代目師役の柴田権五郎は、文化4年4月17日より文政11年11月30日まで、22年間師役を勤めました。
五代目が14年間、六代目が7年間、八代目が5年間、九代目が4年間、十代目が23年間勤めており、各代の師役在任期間のなかでは柴田権五郎は長期に類しています。履歴については以前に記しましたので今回は省きます。

起請文は各人一帋づゝ提出しており、七名分現存しています。この七名について調べたところ、三名の履歴が分りました。尤も家臣録を精読すれば、某次男、某三男という記録が見当たるのではないかと思います。

『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵
『不易流起請文』筆者蔵

文化9年8月
 石川一兵衛政央 「御許容以前は」「許容状神文」

文化9年8月19日
 森五百八政鶴 「御許容以前は」
 根岸恒六直益 「御許容以前は」

文政2年3月
 岩松九右衛門重矩 「御許容以前は」

文政8年1月8日
 河合槌弥宗之 「六剋一如之放銃御傳授」
 福田市太郎繁茂 「六剋一如之放銃御傳授」
 石川平之丞正教 「六剋一如之放銃御傳授」

 文化9年8月(1812)

石川一兵衛は安永9年に亡父の跡式百石を下されます。前髪執の翌年、寛政5年に御主殿へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御供番、御在城中御近習御小姓、御鉄炮方時役などを勤め、文化7年に御鉄炮方を命じられます。起請文のときは此の鉄炮方でした。記録は文政3年まで。附けたり、父市兵衛は安永3年から同8年までの間、飾間津御蔵方、舩場御蔵方などを勤めていました。病没したとき、一兵衛は未だ若年であったようです。

文化9年8月19日(1812)

森五百八、此の人は不易流の九代目師役森助右衛門(旧五百八)の嫡子です。ちょうど此の起請文が提出された文化9年8月5日に届けを出して長吉改め五百八と名乗ります。文化5年袖附、文化7年前髪執、そして 文化9年不易流へ入門。後の文化13年に学問所検讀手傳となり、翌年出精との事によって褒美を下されます。また文政元年にもその方面に出精との理由で褒美を下されており、学問に熱心であった様子です。記録は文政3年まで。父の履歴は以前に述べた通りです。

 森助右衛門  百石 九代目師役

根岸恒六

文政2年3月(1819)

岩松九右衛門は天明5年に亡父の跡式(石高無記録)を下され御消火御番入りします。以降、御在城中御供番、御城内外火之番、御在城中御次番、道奉行代、道奉行時役、大目付役(助役)、御供・見分度々、奉行兼帯、*神戸四方之助出坂中奉行方相談、弐拾石加増、御物頭、大目付御免・奏者番兼勤、学問所肝煎、好古堂肝煎、御物頭役御免・奏者番一通り。起請文ときのは御物頭役・奏者番・好古堂肝煎を勤めていたようです。父九右衛門は室津御目付、御山奉行、病歿直近は御使番格となり御役人番へ御番入り。

文政8年1月8日(1825)

河合槌弥

福田市太郎

石川平之丞は先述の石川一兵衛の子だと思います。一兵衛の前名が平之丞でした。

 石川一兵衛  百石 御鉄炮方 御蔵方
 森五百八   九代目師役の嫡子
 岩松九右衛門 御物頭 奏者番

因陽隠士記す
2025.9.25

姫路藩不易流炮術の門弟-3

『不易流起證文』筆者蔵

     起證文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別而八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰可奉蒙
  立所者也

寛政十二庚申年
    閏四月廿一日  斎藤太助
             政利(判)

同年同月同日      大橋寛吾
             應喬(判)

寛政十三酉年正月十六日
            武友之進
             重僖(判)

同年同月同日      松崎市二
             昌樹(判)

同年同月同日     籠谷十郎兵衛
             高駕(判)

同年同月同日      塩山吉十郎
             善富(判)

同年同月同日      細野幸助
             信成(判)

同年同月同日      有馬武一郎
             勝許(判)

同年同月同日      三俣惣之進
             義武(判)

享和二戌年正月廿日  伊舟城久太夫
             景中(判)

同年同月同日      志水為景
               (判)

同年同月同日      杉幸八郎
             銃置(判)

同年同月同日      河合武八郎
             宗旭(判)

同年七月廿日      小川平内
             正大(判)

享和三亥年正月八日   磯田剛助
             勝宗(判)

同年同月同日      大橋覺太夫
             次元(判)

同年同月同日      原田伸吉
             高堅(判)

同年同月同日      鈴木整蔵
             守一(判)

同年同月同日      福田市太郎
             繁茂(判)

同年同月同日      清野源三郎
             政史(判)

文化三丙寅年正月八日  福嶋伊八郎
             元先(判)

この起請文は前回述べた大橋八郎次(このときの名乗りは角左衛門)の師役在任七年間に作成されました。21名の入門者が名を列ねています。この中の三俣義武という者は三俣義行の子にて、義行の娘と前師役前田十左衛門の忰又久が夫婦でしたから近しい親戚といえます。後に義武の子が十代目の師役となりますので、ずいぶん以前からそういった伏線が張られていたわけです(六代目大橋角左衛門は再従弟)。ちょっと話しが逸れました。今回もまたこゝに掲げた入門者たちの履歴を辿ります。21名のうち9名の履歴が分っています。人数が多いので掻い摘んで記します。(各人の役職は年代順に列挙してあります)

寛政12年閏4月21日(1800)

斎藤太助の家は、父皆右衛門の代に出奔者探索のため江戸より国元へ移住しました。寛政6年のことです、このとき大目付を免ぜられますが格式はそのまゝとのことでした。斎藤太助が家督を相続するのは不易流入門から二年後の文化2年、九拾石を下されます。以降、御城内外火之番、鉄炮方仮役、御鉄炮方福嶋善兵衛跡役、小笠原助之進次男岩蔵を聟養子とする、学問所肝煎、好古堂并稽古場肝煎出精褒美、宝山流柔術稽古世話役など。

寛政13年1月16日(1801)

籠谷十郎兵衛、跡式を相続したのは寛政5年のこと、二拾石減らされ六拾石下されます。以降、御城内外火之番、御次番、室津御番方などを勤めました。父は御代官、安永7年新知五拾石を下され吟味役(御役料四拾石)、大目付(御役料百三拾石)、御用米廻舩御用、林田領御加勢、町奉行(御役料十人扶持)など。

塩山吉十郎、父嶺右衛門のとき江戸より国元へ移住しました。不易流入門のときは父が健在にて御在城中御供番を勤めていました。殿様に随従する勤めが多かったようです。吉十郎が跡式を相続するのは文化8年のこと、百四拾石下されます。以降、宝山流時世話役、御城内外火之番、室津勤番、飾間津御番方、家嶋御番方、御小姓供番仮役、宝山流世話役など。

細野幸助、寛政9年(1797)に跡式米拾五俵四人扶持下され、御廣間御番入り。不易流入門のときは御在城中並御供番、同年2月御参勤御供。以降、御在城中並御供番、御武具方改立合、御勘定所立合年番、御作事年番元方兼勤、御作事立合年番、御勘定所年番、御城内外并御領中忍廻、天保4年東都物騒につき別手御人数として出張。御中小姓御取立、御作事立合元方兼勤、給人格、拾壱人扶持、御参府之節御供度々、弐人扶持加増、安政4年隠居。幸助は新規取り立てのため経歴は少々異例です。

有馬武一郎、跡式を相続したのは寛政6年(1794)、百石を下され御主殿御番入。以降、御城内外火之番、御在城中御次番、高砂御番、室津御番、御鉄炮方時役、大橋角左衛門跡御鉄炮方、京都御留守居仮役、好古堂掛り、稽古場懸り、倹約年番、好古堂年番、三拾石加増、御作事年番、御休所掛り、切手掛り、格式御鎗奉行、御舟奉行時役、石州御銀舩御用度々、御用米御上納御用御廻舩度々、二拾石加増、天保11年没。

三俣惣之進、先述した通り前師役前田十左衛門の親戚にして、息子が後の不易流十代目師役となります。三俣惣之進本人は武藝全般に長じた人で武官の中の武官と云えます、御物頭役にて鉄炮組を支配しました。但し、亡父遺言によって藩へ千両献金という少々謎の件もあってか、家禄を三百石から四百石に加増され、御物頭・勘略奉行・御取次の三役を兼勤。しかし後に「勤方御手薄役柄不似合之儀」とのことで百石を減らされます。不易流入門のとき18歳。亡父が家督を相続した二年後にあたります。

享和2年1月20日(1802)

小川平内、寛政5年(1793)に跡式を相続、弐拾石を減らされ弐百拾石を下され御書院御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御近習御小姓(このとき不易流へ入門)、御供度々、異国舩漂着之節御人数、御写物御用、御使番、学問所肝煎、好古堂肝煎など。父与惣左衛門は御小姓頭格御籏奉行、御勝手御用を度々勤めました。寛政4年のこと、本来の嫡子が急死した為、長沢源十郎方へ養子に出していた三男平内を熟談のうえ引き取り嫡子とします。

享和3年1月8日(1803)

大橋覺太夫、寛政3年(1791)に家督を相続、五拾石減らされ百弐拾石を下されます。父郡蔵は隠居前、御城内外火之番、御門固などを勤めていました。覺太夫もまた本起請文のとき御城内外火之番。以降、御在城中御次番、御城内外火之番、室津御番所御目付、家嶋勤番など。

鈴木整蔵、跡式を相続するのは文化2年(1805)、六拾石を下されます。本起請文のときは父小右衛門が健在にて御城内外火之番を勤めていました。それ以前は御在城中御次詰、御主殿御番入り、高砂御番、室津御番、飾間津御蔵方、下三方御蔵方、高砂南御蔵方、御用米御蔵方、室津御目付など。整蔵もまた父と同じく御城内外火之番にはじまり見分御用を度々勤め、飾間津御蔵方、室津御番方、高砂御番方、籾米御蔵御用など。

以上、判明している者たちの経歴をまとめると斯うです。以前の者たちも足しましょう。

下田與曽五郎 百四拾石 番方 御中小姓組格御舩奉行 四代目師役の養子
本多悦蔵 五両三人扶持 急死 父は蔵方
森五百八     百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
林源蔵      百石 番方 蔵方 御番所御目付

前田十左衛門 百七拾石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

斎藤太助    九拾石 番方 学問所・好古堂肝煎
籠谷十郎兵衛  六拾石 番方 町奉行
塩山吉十郎  百四拾石 番方
細野幸助  拾三人扶持 給人格
有馬武一郎  百弐拾石 御鎗奉行 御舟奉行など
三俣惣之進   三百石 御物頭鉄炮組 十代目師役の父
小川平内   弐百拾石 御小姓頭格御籏奉行 番方 御勝手御用
大橋覺太夫  百弐拾石 番方
鈴木整蔵    六拾石 番方 蔵方

皆、嫡子であることが大きなポイントで家中においてそれなりに身分の高い士たち、番方に属する者が多いのも特色です。炮術の性質から鉄炮組はもちろんですが、舩や港の番方を勤めるのも無関係ではないでしょう。番方とか蔵方とか暫定的にそう呼称しているだけで、以後門弟たちをさらに調べ職制と照らし合わせて考えようと思います。
格式についても詳しく知りたかったのですが、家臣録は断片的な情報しか得られず、さらに史料を調べなければならないと気が付きました。

本起請文が提出されたころ、大日河原に於いて殿様が不易流を御覧になりました。御覧は一大行事ですから、その時々の情報が記録されています。下記は享和1年4月27日(1801)の記録です。翌年に起請文を提出する伊舟城久太夫・川合武八郎・磯田剛助などが既に不易流の行事に参加していることを確認できます。これはちょっと意外でした。考えを改めてみると、こゝに掲げた起請文は入門時のものではなく、流派内の何かしらの階級に昇進したときに提出するものかもしれません。そうでなければ、このような行事に参加できる技術を習得する期間の説明がつかなくなります。

享和元酉年四月廿七日於大日河原
殿様 御覧扣

   抱放鏃矢
三拾筋   萩原貫太夫
弐拾筋   福嶋善兵衛
三十入箇 矢八本
大火箭   大橋角左衛門

   御意ニテ放
拾筋    笹沼團六
      伊舟城久太夫
弐拾筋   有馬武一郎
      籠谷十郎兵衛
三拾筋   武 友之進
弐拾筋   三俣富之進
三拾筋   塩山吉十郎
      宇野左馬蔵
      川合武八郎
拾筋    松崎市二
      志水百助
三拾筋   齋藤太助
      森 長吉
拾筋    磯田剛助
同     細野幸助
三拾筋   大橋官吾
      三俣惣太夫
      下田源太夫
      福嶋善兵衛
      森 助右衛門
      林 郷太夫
      萩原貫太夫
 右之通書上候扣
     大橋角左衛門

大日河原に於いて抱放鏃矢を行ったのは高弟の面々です。

萩原貫太夫は四代目師役に免許を傳授された古参の門弟。三年後に世話役となりますが、その二年後に病死します。『家臣録』では安永以前の記録が分らないため想像ですが、酒井家の慣例として「貫太夫」の名乗りは一貫目放を御前において成功させるなどの実績がなければ名乗れなかったはずです。おそらく炮術に熟練した人物なのでしょう。

福嶋善兵衛は当時、百四拾石 御武具方本役、それまでは御城内外火之番、道奉行など。父の福嶋市郎兵衛は三代目師役の高弟でした。

大橋角左衛門とは六代目師役、前回述べた大橋八郎次のことです。

萩原貫太夫 拾五俵五人扶持 閉門・病気 不易流世話役
福嶋善兵衛  百四拾石 御中小姓組頭御取次兼勤
大橋角左衛門 百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方

因陽隠士記す
2025.9.25

無邊無極流の稽古

千本入身(享和三年)

入身稽古とは、素鎗に対して長刀・十文字・鍵鎗・太刀などを以て入身を行い、鎗に突き止められず勝てるか否かという稽古です
千本入身とはその名の通り、入身稽古を千本行うことを指しています

あまり詳しくありませんが、入身側は長刀を使う場合が多かったように思います

『入身千本幟』筆者蔵
『入身千本幟』筆者蔵

三俣家の旧蔵文書にこの『入身千本幟』が残されていました
紙製の幟で、おそらく千本入身当日に目立つところへ掲げられたものと思われます
そう考えると、なかなかの一大行事だったのではないかと...
記念にとっておいたのでしょう

『三俣義行日記:享和三年三月十七日部分』筆者蔵

その日の様子は、日記にも録されています
千本入身は好古堂において行われており、参加する門人たち九十一人には、三俣家から弁当が提供されました

因みに、この千本入身を行った当事者「冨之進」というのは、三俣家の五代目当主義武のことで、前回「無邊無極流の印可伝授」の「印可伝授の儀式」に参加した人物です

入身稽古(文政十年)

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

これは日々の入身稽古数を記録した冊子です
所有者は、先ほど千本入身で登場した「冨之進」の息子義陳ですね
確認できる範囲でいえば、義陳の曽祖父のときから無邊無極流の門下ですから、三俣一族は必ず同流に入門するようです

三俣義陳は、当時二十一歳

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵
『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

上の画像は稽古数を表にしたものです
私の解釈が間違っていなければ、三俣義陳が入身で勝った割合の方が多いです
使用した武器は、たぶんに長刀

なお、特別に冊子として記録された理由は、翌年の千本入身を控えてのことゝ思われます

千本入身(文政十一年)

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

父親と同様に千本入身を行った三俣義陳、当時二十二歳
家督を継ぐ以前のことであり、様々な武術を修め、学問にも励んでいました

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

前半に出席者の名前と本数が記録されています
酒井家の重職の名があり、参加人数も多く、無邊無極流は酒井家で盛況だった様子が窺えます

なお、この年殿様は江戸に在府で国許にはいなかったので、国詰の門弟たちは総出だったかもしれません

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

三俣義陳は入身長刀です
入身勝なら白丸なので、大半は入身長刀の勝利だったようです

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

巻末に通算されていて、入身1015本中、入身勝は723本、突身勝は292本という結果
突身側は入れ代わり立ち代わりで体力を温存できるのに対して、入身側の三俣義陳は一人で1015本立ち合ったわけですから、相当な力量だったと思われます

とはいえ、家中の者同士の稽古ゆえに、真剣に突身側が勝ちに拘ったのかどうか、一大行事ゆえに少しは三俣氏に華を持たせようという配慮があったのかもしれないと、想像したりもします
しかし、前年の『鎗術入身稽古數扣』もあるように、熱心に稽古に励んでいた様子も分るため、このような想像自体が失礼にあたりそうです

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

三俣義陳の父義武の日記に、千本入身のことが録されています

それによると、千本入身の前日に師家や手傳、世話役のところへ挨拶に行っています

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

千本入身終了後は、関係各所へ挨拶廻り
帰宅後は、師家や世話役などを酒肴で労い
翌日、再び関係各所へ御礼廻り

この辺りの流れは、平常運転といった様子

おわりに

当時の鎗術の稽古がいかなるものだったのか、その実態について私は詳しく知りません

たゞこの千本入身といった稽古を見ていると、どうも入身長刀の方を重視しているようで、いかに素鑓を攻略するかという執念を感じます

なぜ突身側の稽古記録が無いのか、なぜ千本突身ではないのか、といった疑問が浮かびます

もちろん、突身の稽古もしていたのは間違いないでしょう、無邊無極流は素鑓の流儀ですから
それなのにどうして入身側の勝利で飾る行事が行われるのか、ちょっと不思議ですね

同じく素鑓の流派である風傳流でも、流祖が入身長刀を披露していましたし、相当習熟していた様子が伝えられています

基本的に素鑓よりも長刀の方が有利であり、強いという前提があるような気がします
しかし、江戸時代の武士の慣習で、鑓という武器を用いることが重要ですし、どうしても鑓を使わなければならないという制約から素鑓の技を磨く流派が広く行われるようになったのかなと想像します

因陽隠士記す
2025.9/6

姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31