內海流『中堀語傳る覺』を讀む

『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、內海流の『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』(筆者藏)です。『中堀語傳る覺』は、流祖內海重次が師事した中堀玄淸が語ったことを覺書にしたものです。故に題名は『中堀 語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)』と讀めます。中堀玄淸とは、戶田淸玄に學んだ人で、通稱は彥右衞門と云い、當時蒲生飛驒守氏鄕に仕えていたというほか、詳しいことは傳えられていません。內海重次もまた、藤堂高虎に仕える以前、蒲生氏鄕に仕えていましたので、同じ家中に居たとき敎えを受けたものと思われます。

それでは、『中堀語傳る覺』の文面を讀みます。今人に讀み易いよう、適宜漢字に換え、讀み假名を振り、句讀點を打ち、濁點を附けました。赤字は『古傳集解』より拔萃。

中堀語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)

一、戶田淸玄は常に語りしは、長道具をも殘さず得たりといへど(雖)も、九尺柄のす(素)鑓にま(增)す事はな(無)きと覺たるとい(云)ふ。諸道具とも穿鑿よくして見る程、かち(勝)つよ(强)し。然れども、我ほどにたんれん(鍛鍊)したる者とよ(能)くきんみ(吟味)してみれば、これはかたば(片端)にか(勝)つ事なく、あいつき(相突)になるにより、其(それ)以後方々しゆぎやう(修行)し、かたば(片端)にか(勝)つ事をくふう(工夫)し出し、かき(鉤)鑓といふこと、其(その)時よりつかひ出し、さて諸道具とよ(能)くせんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、かたは(片端)にか(勝)つ事かち(勝)つよ(强)し其(それ)により、目くら(盲)鑓と名付(なづく)也。

「戶田は富田と書くがよし。淸玄先生は五郞左衞門入道と云。越前宇阪庄一乘淨敎寺村の產。」『古傳集解』

「かたはは片端(かたば)也。胴を捨て面とかゆるは當流の主意にて、他に皮肉骨などいふと同じ。」『古傳集解』

「盲鎗とは、此鉤を盲人の杖と見て、無分別に進み入るに、勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ事と見てよし。深く工夫を凝らさば、此うちより玄妙の微意を探り得べし。」『古傳集解』

*註 「勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ」とは、「一、分紅梅の事 愚曰、紅梅は屋作りの勾倍のごとし。先師絕妙の工夫にて、初て此鉤鎗を造り給ふ。矩合勾倍を以てわり進むに從ふて、敵の鎗自然と分れ散る也。」『古傳集解』

*註 戶田淸玄は當初九尺柄の素鎗を以て無上と爲すも、同格を相手にしてよくよく吟味したところ、片端を用ゐられゝば相突となり、全き勝を得られず。これによって淸玄は遠近修行して、鉤鎗を以て片端に全き勝を得るところに達したという。

一、長鑓は大勢うち(打)合(あひ)候所へ、持(もち)とゞく人は、長き次第にか(勝)つといふ。

一、一人けんくわ(喧嘩)などし(仕)出し、たぜ(多勢)にあ(合)い候時は長鑓あ(惡)しき、其(その)時はみしか(短)き鑓り(利)おゝ(大)きといふ。

一、人事(ごと)に持(もつ)道具には、あ(有)りよ(善)きにきはま(極)りたるやう(樣)にい(云)ふ。其(それ)はへた(下手)口なり。長き鑓にても利をすれば、みちか(短)鑓にてもり(利)をする。長鑓にて利をうしな(失)へば、みちか(短)鑓にても利をうしの(失)ふ。其(それ)は其(その)ば(場)により所により、利おゝ(大)ければそん(損)おゝ(大)く、そん(損)おゝ(大)ければ、利おゝ(大)し。よくそん(損)利せんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、目くら(盲)鑓に利おゝ(大)きかと覺(おほへ)たるとい(云)ふ。

一、長刀・十もんし(文字)、いづれも諸道具そん(損)利右同前也。

「扨是までを中堀翁が其(その)師のこと(言)葉を口うつしに紹節(內海重行)君に語られし也。」『古傳集解』

一、中堀はげんせい(玄淸)になり候てよりは、常につくほう(突棒)をもた(持)せたる。年より(寄)出家の身として、人をころ(殺)す事大とか(科)也。人の中(ちう)人に入(いり)、いたづら者有(あら)ば、とら(捕)やうと、いつもしやれ(洒落)事をい(云)ふたぞ。

「此一段は紹節(內海重次)君の御こと(言)葉にて、中堀翁のひとゝなり(爲人)、又此(この)ものがたり(物語)ありしさま(樣)などをあらまし(荒增)しる(記)し給ひたる也。」『古傳集解』 *この一條、『古傳集解』にはもう少し詳しく記されていて、「...いつもざれごと(戲れ言)をい(云)ひ、せけん(世間)のことをおかし(可笑し)がり、わら(笑)ひゝゝ申されし也。」とつゞく。

一、かぎ(鉤)ゆらい(由來)、もし(若)きゝ(聞)たがり申さる方候はゞ、あらゝゝ(粗々)御物がた(語)り有るべく候。

*註 他者に鉤の由來を語り聞かせて宜しい、というこの文言から察するに、『中堀語傳る覺』は流儀の免許以上に相當するものかと思われます。

註 平假名・漢字の表記によっては、やゝもすれば文言の意味を取り違えてしまうことがあり、特に類似の傳書が無い孤立した傳書の場合は、その意味を考えるとき全き讀を得ること難しいものです。私の周圍を見渡すと、『中堀語傳る覺』と類似の傳書は見當らないのですが、幸いに內海家八代目當主內海重陳の著『古傳集解(冩)』(筆者藏)にその註釋があり、これと照らし合わせて文面を見ることで、ある程度讀み誤りを避けられたと思います。

その一二を例せば。「一、中堀はけんせいになり候てよりは常につくほうをもたせたる年より出家の身として」のところ、「けんせい」という語を、入道してから名乘った「玄淸」とすべきか、なにか流儀の階級と見て「見性(或は別字)」とすべきか決めかねます。

また、「もたせたる年より出家の身」は一續きの文と見え、「持たせたる年より、出家の身」と讀んでしまいそうですが、『古傳集解』を見ると「持たせたり年寄出家の身」と記されており、「持たせたる年より」と讀まぬように配慮されています。これは『古傳集解』が無ければ、誤讀を避け難いところです。

奧書の署名は、どのように解釋するべきか、少し調べた程度ではどうもはっきりとしません。一見したところ、「栗田五右衞門」「栗田淸左衞門」が連署したところに、後から「內海左門」の名が書き加えられた樣です。そして、その名の下に一度抹消した形跡が認められます。この抹消部分には何が書かれていたのか、傳系を記すにしては餘白が狹く、また消された文字數も少なく、單に書き損じたものか、なぜこゝに「內海左門」の署名が加えられたのでしょうか?筆蹟は、栗田二氏と別人にて、內海左門本人の筆蹟と見えます。

「內海左門」家は代々(二代目は名乘らず歟)が「左門」の稱を用ゐており、「重時」も「內海左門」家の人と思われますが、ざっと資料を見たところ實名が一致しません。そこで、私藏の傳書に貞享貳年付の『內海流目錄』あり、これを見ると「內海左門」の署名に『中堀語傳る覺』と同じ花押が書かれています。實名は屢々改名されるものにて、單に記錄されていない丈けとすれば、年代から推して、この「內海左門」は三代目の內海重直が該當すると思われます。內海重直は、萬治元年藤堂高久に召し出され、延寳六年家督を相續し、長らく主に御使番向きの役儀に攜わり、寳永八年病歿。

一つ分っていることがあり、同藩の士「保田次右衞門」の『親類書(元祿十六年付)』(筆者藏)に、「內海左門」の名が「從弟 實方も同斷」として記載され、その名の橫に「內海左門姉」を妻とする「栗田淸左衞門」の名が記されてます。(栗田淸左衞門は「高次公へ讓り玉ふ諸士分限」を見ると高「四百石」。)更にその名の橫には「從弟 實方も同斷 內海左門弟 內海玄休(牢人)」の名あり。宛名の「內海五右衞門」は、或はこの「內海玄休」なのかと想像しますが、裏付けとなる史料を得られず何とも言えません。

こゝで改めて、奧書の署名を見て推測すると、當時高弟であった栗田二氏が內海五右衞門に傳授し、その後內海左門が長じてこの傳授を追認して、署名を加えたものかと察せられます。しかし、假にそうだとすれば、なぜ敢えて別帋を用ゐず、本文と栗田二氏の署名との狹い隙間に署名したのか、どうも異例なことにて判然としません。

奧書の人名については追々調べることにして、本文についてはおよそ前記の通りの讀み方で良いものかと思い、こゝで記述を止めます。

令和三年七月三十一日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏/『內海流目錄:貞享貳年七月吉日付』筆者藏/『保田次右衞門親類書(案):元祿十六年二月晦日付』筆者藏/『古傳集解(冩)』內海重棟著 筆者藏/『三重縣史 史料編近世2』三重縣編/『日本武道大系 第七卷』/『〔增補〕藤堂高虎家臣辭典 附分限帳等』佐伯朗編/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

大嶋流『印可』を讀む

『印可:明曆第三十二月十三日』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、大嶋流の『印可:明曆第三十二月十三日付』(筆者藏)です。この『印可』は、同流の流祖大嶋吉綱に師事した月瀨淸信が平手忠左衞門に奧儀を殘さず傳授したことを證すものです。

軒轅の合戰より以來、干戈多しと雖も、鑓を最として其甲と爲す。
故に士爲る者は、車馬より之れに先んじて之れを操る。

古代の帝王軒轅の合戰より以來、多くの干戈(兵器)が用いられるようになった。中ん就く鑓が最も重んじられ、第一のものとして扱われた。
故に士たる者は、車馬より先驅けて鑓を操った。

*軒轅は、屢々傳書にも登場する傳說上の皇帝。例せば、『風傳流傳來之卷』に「嘗て中華の昔、義農干戈を造り、軒轅槍を作り、蚩尤も戈・殳・戟・酋矛・夷矛を作り、之れを五兵と謂ふ。」とあり。
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然れども、自由に使ふ者少なし。
慶長年、戶田一寶齋其玅を得る。予之れに從ひ、之れに習熟して眞を受けて、日月祕す。

それほど重視され用ゐられたにもかゝわらず、これを自由に使いこなす者は少なかった。
慶長年、戶田一寶齋という者がその玄妙を得ていた。予(月瀨淸信)はこの人に師事して、鑓術に習熟して眞の傳を受けて、暫くそのことを祕していた。

*鑓の最も古いところから說き起こして、近くは慶長年の話しに轉じる。
*戶田一寶齋は富田氏、名は久次と云い、富田淸源に學び、神林流槍術を指南した。<『神林流印可狀:元和八年五月吉日付』筆者藏>
*「予」は一人稱、月瀨淸信自身のこと。月瀨淸信は大嶋吉綱の高弟にして、大嶋流の達人、種田流の流祖種田正幸の師とされる。しかし、幾つかの種田流の傳書を閱しても、何れの國の人か誰に仕えたのか傳えられていない。そして、なぜか種田流の傳書の傳系に於いては、通稱を「伊左衞門」と記す。また、一部の流派の傳系に於いては、月瀨淸信を外して、大嶋吉綱-大島高賢-種田正幸とするものがある(後代村上義直)。そして、大嶋吉綱・種田正幸については、それなりの經歷が示されるのに對して、その間の月瀨淸信についての經歷が殆ど示されない。これは、やゝ穿った見方をすれば、そこに何らかの意圖があるように思われる。月瀨淸信が陪臣の身分であったことが關係したものか、傳系に於いて通稱を變える必要に迫られるほどの事情があったのか、後考を竢つ。
*平田の系の傳書に、月瀨氏は大嶋吉綱が德川賴宣に召し抱えられたとき、隨身したとの記述あり。しかし、本傳書の「明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き...」という記述に符合しない。
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而して後、元和比大島氏吉綱なる者は、此道に於いて世に鳴る者也。
予も亦心を盡すこと年久くして、神玅蘊奧を得る。

それから後ち、元和の頃、大島吉綱という者が、この鑓術の道に於いて世に知られていた。
予もまた(大島吉綱に師事して)長年鑓術に心を盡して、ようやく神玅蘊奧を會得した。

*この段、原文には大島吉綱に師事したと明記していない。しかし、「以二師」と續くことから、師事したものとして扱う。
猶、月瀨淸信は、大嶋吉綱が前田利長に仕えていたとき師事したのではないか、と『日本武道大系』に於いて推論あり。
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二師の餘力を以て、造次顚沛に愚意を起て、勉力して以て常山・金翅・不測の三術を推出するに類す。

不遜ながら、二師に指南して瞬時も怠りなく鍛鍊して着想を得、さらに努力して常山・金翅・不測の三術を發明した。

*「類」字は、謙遜して「~に似たり」の語感として用ゐたものかと想像するも、如何にして「以二師餘力」を解釋するか未だ確信を得ず。
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然りと雖も、琢磨の功止むを得ず、
明曆初元末秋比、紀州若山に到りて吉綱に對して、右道の旨趣を告ぐ。
師云く「嗚呼奇哉、微玅哉、庸人及ぶ所にあらざる也。當に國を治るに小補すべし。」と。

長年鍛鍊工夫を重ねたとはいえ、終りというものなく、
明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き、大島吉綱に對して、自ら得心した鑓術の旨趣を吿げたところ、
師は云った、「嗚呼奇なるかな、微玅なるかな、凡人の及ぶ所ではない。少しく治國に益するものだろう。」と。

*大嶋吉綱は大坂の役の後牢人となり、寬永十一年德川賴宣に召し抱えられ、正保三年に隱居、明曆三年十一月六日七十歲にて歿す。その父大嶋光義は關藩の初代藩主、弓の名手として名高い。
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爰に平手氏言賴、此道に志深く功を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り。術は予に同じ。

さて、この平手言賴という者は、この道に志深く、鍛鍊を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り、というほどの境地に至った。これは予の術に等しい。

*「有前忽然有後」は、捉え難く、推し量り難い、深淵なものゝ如く、出典は論語の「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。」。
*平手言賴は、本傳書の宛名の通り、通稱を忠左衞門と稱す。加賀藩家老橫山家(當時の當主は橫山忠次、明年小松城代となる。)の家來にて、平手政秀の子孫と云われる。
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故に奧を殘さず、之れを授け畢ぬ。
若し毫釐の祕する者有らば、豈に日本大小神祇の罸を蒙る者ならん。印可斯くの如し。

故に奧儀を殘さず傳授し終えた。
若し予が極く僅かの術でも傳授せず隱していれば、日本大小神祇の罸を蒙ることになるだろう。印可はこの通りである。

*「(イ)」字は「養也。室之東北隅,食所居。」<『說文解字』>。段玉裁の『說文解字注』に「東北陽氣始起。育養萬物。」とある如く、屢々傳書に見られる「閫奧(學問或は事理の深奧の所在を云う。)」に近い語感と思われる。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

『印可:明曆第三十二月十三日付』は、『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』の項に於いて觸れた通り、類似の文書が見當らない孤立した傳書です。
見比べるものがなく、何より訓點が無いため、私にとって讀み難いものでした。
愚見を述べれば、語順の誤り、語句の不足を感じられ、漢文として不備があるのではないかと思います。
しかし、勉强している者が見れば、これは文意を汲みさえすれば、自ずから讀みを確定し得るものにて、己の不勉强を恥じるほかありません。

こゝに取り上げた『印可』は、前段に記したように、大嶋吉綱-月瀨淸信-平手言賴へと至る大嶋流相傳の經緯を明らかにし、殘さず相傳したことを證すもので、その文面より察するに、月瀨淸信の編出と考えられます。猶、餘談ながら、平手言賴は承應三年に『中目錄』を傳授されています。

令和三年八月五日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『印可:明曆第三十二月十三日付』筆者藏/『中目錄:承應三年八月吉日付』筆者藏/『鎗術種田流祕書:安政七庚申歲閏三月付』筆者藏/『種田流祕極之卷口傳書』筆者藏/『種田流鎗術傳書:天保十三壬寅八月吉日付』筆者藏/『無題(種田流傳書、村上の系)』筆者藏/『無題(種田流傳書、平田の系)』筆者藏/『金澤市史資料編5近世三』金澤市/『日本武道大系 第七卷』/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

『大內流長刀目錄』を讀む

『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』(筆者藏)です。この流義を知る人は、おそらく殆どいないと思います。『武藝流派大事典』にその流名を見ないことから、極めて少數の者たちが相傳したものと思われます。

未だよく知られていないこの大內流長刀という流儀成立の由來が、當傳書目錄序に記されているので、讀んでみましょう。

大内流長刀目録の序
<夫れ大內流長刀なる者は、周防國の住大內式部正忠、嘗て能くする所也。>
そもそも大內流長刀というものは、周防國に住む大內式部正忠が、嘗て能く遣ったものである。

<弘治之亂後、四方を周游するの後、其の技を大內太郞左衞門正直に傳ふ。>
弘治の亂の後、大內正忠は四方を周游した後に、その技を大內太郞左衞門正直に傳えた。
註:「弘治之亂」・・・弘治元年大內家滅亡。

<其の後、正直出羽國に住して、名を無邊と改む。>
その後、大內正直は出羽國に住み、名を無邊と改めた。

<同國橫手郡仙北眞弓山に籠居の砌、忽然として夢想に槍の一流を開く。所謂無邊流也。>
同國橫手郡仙北眞弓山に籠居していたとき、忽然として夢想に悟り、槍の一流を開いた。これが所謂無邊流である。

<其の子上右衞門、其子淸右衞門之れを傳來す。淸右衞門長刀を眞田一藤太秀興に傳ふ。>
大內正直の子上右衞門と、その子淸右衞門がこの流義を相傳した。そして淸右衞門は長刀を眞田一藤太秀興に傳えた。

<秀興復た古傳の儘なるに因て、私意を加へて、其の形章を增して、以て大內新流と稱す。爾來、槍と長刀と兩流に分る。>
眞田秀興は更に古傳に私意を加えて、その條目を增し、大內新流と稱した。それから、流儀は槍と長刀とに分れた。

<余秀興先生に從ひて之れを學ぶこと年有り。其の術奇々妙々にして、而して鬱陶已に散じ、雾を披きて靑天を覩るが如し。>
余(私)は秀興先生に從って、長年大內流を學んだ。その術の奇々妙々なことに、心の雲は已に散り、さながら霧が披けて靑天を覩るようである。
*「鬱陶已散」・・・<明衡往來>「伏奉嚴旨、鬱陶已散。」
*「如披雾覩靑天」・・・<晉書/樂廣列傳>「命諸子造焉曰、此人之水鏡、見之瑩然、若披雲霧而靑天也。」

<是(こゝ)に至て必勝の理を示さるゝも亦た豁然として明らかなり。吁(あゝ)先生の術は神仙の傳と謂つべき者歟。>
この境地に至って必勝の理を示されゝば、何の疑いもなく悟ることができる。嗚呼、先生の術は神仙の傳えたものだと謂うべきものだ。
*「必勝之理」・・・<商君書/畫策>「虎豹熊羆、鷙而無敵、有必勝之理也。」
*「豁然明矣」・・・<朱熹/大學章句>「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。」
*「吁」・・・<操觚字訣>「吁は、驚也。疑怪之辭、歎と註す、嗚呼よりは、その意稍輕し。」

<爾りと雖も、窮玄極妙の處に到るには、日夜怠らず、切磋琢磨の功非ざれば、其の位を得ること最も難し。其の淺深を辨へるも亦た難し。>
そうではあるが、深奧を窮め、妙を極めるという境地に到るには、日夜怠らずして切磋琢磨しなければ、その位に到ることはとても難しく、またその淺深を知ることも難しい。

<因て茲に余序以て其の傳來を後輩に示す者也。于時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹て誌す。>
因ってこゝに余(私)が序をもって、その傳來を後輩に示すものである。この時元祿三年庚午之秋九月、小幡權內一巳謹みて誌(しる)す。

註 < >:譯文 赤字:意譯文 *解說

今囘は「序」に注目して、その後の目錄・印可の記述を省きました。これは箇條につき、その解釋をし得ないためです。若干附言すると、序の後は「目錄槍合表・裏」「中奧太刀合・十文字」「大奧」「印可口訣」と傳授箇條を列擧し、その後に傳系を記しています。

なお、この傳書は岡山藩士梶田淸右衞門の娘富貴に傳授されました。

令和三年八月十五日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『大內流長刀目錄:慶應元年乙丑年十月廿四日付』筆者藏

『片山流免狀』を讀む

『片山流免狀:元和貳年卯月吉日付』筆者藏

この『片山流免狀』は、肥後熊本藩(細川家)において三藝の師役を勤めた星野家舊藏、という特筆すべき由緖があります。
三藝とは、伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀の三つの流儀にて、その中の伯耆流居合は、「如何樣、古伯耆遍歷の節よりの御傳統にて御坐有るべくと推察致し候得共...<『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』>」と、岩國片山家の四代目片山久義が書中に述べる所の流儀にて、詳しい傳來の經緯こそ傳えられていませんが、細川家に傳承するもので、星野家初代の星野實員は、流祖片山久安より數えて九代目の江口之昌に免許を相傳され、後ち同流の師役となりました。

星野實員は、伯耆流居合の免許を相傳され師役となったことで、流儀が繼承していた片山久安の文書、則ちこの『片山流免狀』も受け繼いだと見られます。(歷代の指南役が所謂「指南送り」の扱いで流儀の重要文書を繼承する例は、他藩に認められます。)
受け繼いだか否か、それ自體を示す確たる史料は確認されていません。
しかし、この『片山流免狀』のほかに、「片山伯耆樣御書物」に該當する文書は星野家文書中に確認されておらず、また世に滅多に存在しない文書であることを考え合わせれば、やはり星野實員は流儀の繼承と共にこの『片山流免狀』も受け繼いだと推察されます。
また、この『片山流免狀』は、岩國の片山氏に送った書信において述べる所の「手前家筋に片山伯耆樣御書物傳來有之<『星野實員書翰:安永六年二月十七日付歟』>」に該當すると考えられます。
「御書物」という稱が卷物に相應しくないと思われるかもしれません。この點、片山久義の方の返信には「御傳軸の御冩等にても差し越され下され度く存じ奉り候。」と云い、「御傳軸」は「御書物」に對應しており、卷物であったことが分ります。

この『片山流免狀』の宛名の人物は「谷忠兵衞」と云い、元和二年、小倉藩の初代藩主細川三齋に仕えていた士にて、元和九年、御鐵砲頭衆に任じられ、その知行は加增を重ねて、五百石~壹千百石となった谷忠兵衞が該当するものと考えられます。

一、當流居合太刀の事、貴殿數年執心に遂げられ、其の上手前も我等に次ぎ、弟子多しと雖も、一段と勝り餘る御器用成る故に、我等手前相殘さず御相傳申す者也。
一、貴殿は當流の居合太刀を數年に亙り、他事を抛って執行され、その上所作も我等に次ぐものとなり、多くの弟子の中でも、その御器用は特別に抽んでたもの故に、我等の所作を殘さず相傳するものである。
*「其上手前次も我等」・・・こゝの「次も」は割書きされており、解釋に惱みました。先ず「手前」は相手のことを指すのでないことは、後に「御手前」とあることや、「我等手前不相殘御相傳」の文言によって分り、所作の類いを指すと考えられます。そして問題の「次も」ですが、こゝで敢えて割書きにする理由がなく、「も」字は「も」と讀まず、單なる書き損じであって、その右に「次」と書き直したもので、「其の上手前我等に次ぎ」と讀む方が妥當かもしれません。譯文においては、念のため「も」字を殘して、「其の上手前も我等に次ぎ」と譯しました。文意は變化しません。
*「手前次も」・・・筆者藏する所の『片山流居合序・免狀・歌之書・高上極意・居合目錄・印可之狀合卷:寬文拾二壬子曆十一月吉日付』に於いては、この文言が省かれています。

何方にても居合執心の旁〃之れ在るに於ては、堅く誓帋をさせ、其の上弟子の心を引見して、僞り之れ有る者に於ては、極意など相傳成され候事は、御無用にて候。
何方(いづかた)にても、居合に執心の者がいれば、必ず誓帋を差し出させて、更にその弟子の心中をよく觀察して、もし僞り有る者と分れば、極意などの相傳をしてはいけません。
*この段、「堅誓帋をさせ」と「其上弟子の心を引見」との間に文言を補い、「(堅く誓帋をさせ)御相傳有るべく、但し極意の位は(弟子の心を引見)」してと見る方が分りやすいと思います。

殊に御手前、彌〃夜白共に御心を懸けられ、他流の理方よりも非無き樣、御心持肝要たるべく候。仍て免狀件の如し。
殊に貴殿は、彌〃(いよいよ)晝夜共に心懸けて、他流の理法よりも劣ったところが無い樣にすべき心持を肝要とすべきである。仍って免狀はこの通りである。
*この段、もう少し分りやすい例を『尾州竹林派四巻書第四奥儀之巻:延寳七未ノ二月付』より引くと、「此書物御取候て後御油斷有間敷候。萬藝に免じ印加を取候ては、必々弓斷有物也。扨こそ羪由は百步に柳の葉を立、百々に百々矢を射に不外といえとも、三日の弓行を不成して三間の目中を射外といえり。是等を常に御心に被懸、彌々御嗜み候て、家傳の名を御下し有間敷候者也。」というような文意に近いと思われます。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

令和三年九月二十日 因陽隱士著

參考史料 『片山流免許之卷:元和貳年卯月吉日付』筆者藏/『肥後熊本藩星野家文書』筆者藏/『近世劍術における訪問修行に關する硏究―片山家文書『星野記』について―』和田哲也著/『新・肥後細川藩侍帳』谷忠兵衞履歷

『不遷流規定書』を讀む

『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏

今囘は不遷流の規定書(掟書)を取り上げます。不遷流については、ご存じの通り、物外和尙を祖とする體術(柔術)の流儀にて、この規定書が記された慶應二年九月は、田邊義貞が三世として名を列ねています。

田邊義貞は備中長尾村の人、初め二世武田貞治の門に入り、十八歲のとき初傳を得、翌年江府に遊學、後ち流祖物外和尙に師事し、また諸國を遍歷し硏鑽して奧儀を極め、二十九歲のとき不遷流三世の允可を傳授されました。則ち、この規定書は允可相傳の前年に當りますが、旣に三世と認められていたようです。

流儀の規定書(掟書)そのものは、取り立てゝ奇とするに足るものではありませんが、當時の不遷流の規定がどのようなものであったかを知るという點においては好史料と言って良いでしょう。道場內に揭げたものか、實際どのように用いられたものか定かでありません。

尋常な御家流の手です。それでは讀んでみましょう。

規定
一.御公儀御法度の趣.堅く相守り申すへく候事.
一.師弟相弟の禮儀.正鋪く仕るへく.勿論酒氣之れ有る節は.稽古無用の事.
附り.遊女噺等禁言.喧𠵅口論は勿論.他流を嗙る口外決して仕る間敷き事.
至って尋常な文言につき、何か說明することも無さそうですが、敢えて取り上げるとすれば、原文「嗙」の字は、「謗」の字義の方が相應しいように思われます。

一.他流出會稽古.猥りに仕る間敷く.且又淺心の輩.他流入門勝手次第.執心に依て目錄以上の輩は.故障筋之れ有り候共.流儀替へ堅く相成らす候事.
目錄以前の者は、流替しても構わない、しかし目錄以上の相傳を承けている者は、事情があったとしても流替は許されないということです。過去に見た、いくつかの流義に同樣の規定があり、當時としては普通かもしれません。一方、事情があれば許す、といった流儀も有ったと記憶しています。

一.當流入門は.先後に抱らす.鍊磨の功に依て目錄差し出し申すへき事.
「先後」と云うのは、先輩・後輩に關わらず、「鍊磨の功に依て」、修行の成果によって、ということでしょう。

一.御流義柔術.厚く執心に付き.御指南下さるへき旨.重々有り難き仕合に存し奉り候.斯に御入門仕り御傳授に預り候者は.自今以後.御敎恩忘却仕らす.素より御前書掟の趣.堅く相守り申すへく候.自然聊にても相背くに於いては.天神・地祇の罪・冥罪を蒙るへき者也.依て證文を起す.件の如し.
前段は物外和尙が定めた掟であり、この後段は三代目が傳承者の立場から定めたものです。物外和尙存生を前提とした文言につき、恐らく翌年には改められたと思われます。

註 赤字:解說

久しぶりの更新につき、作文に梃子摺りました。取り上げた規定書は、御手本のような書體・文體にて、最低限の言い廻しさえ知っていれば讀めるため、あまり言うべきことがなく、次囘はもう少し入り組んだものを取り上げたいと思います。

時代背景に思いを馳せると、やゝ興の湧くもので、この規定書が記された當時は、四境戰爭終結間もなく、國事に奔走していた物外和尙と付き隨っていた田邊義貞と共に、やゝ一息ついたところかと想像します。この頃の田邊義貞は、靑蓮院宮に仕えていて、その庇護によって諸國を往來していました。今にこの鑑札類が傳えられていて、當時これを用いて諸國を往來していたのかと思うと、何か感じるものがあります。

なお、この規定書は、龍谷大學の文學博士田中塊堂翁の父君が揮毫したと傳えられています。

令和四年八月七日 因陽隱士著
令和五年四月廿三日 校了

參考史料 『不遷流規定書:慶應二丙寅年九月吉旦付』筆者藏/『田邊義貞先生墓碑銘』筆者藏