所藏史料紹介:水野流居合彌和羅卷

水野流居合彌和羅卷

帋本墨書 15.2 × 72.6 cm 江戶時代 天和元十一月吉日付 筆者藏

水野流居合彌和羅卷. Edo period. dated 1681.
Hand scroll. Ink on paper. 15.2 × 72.6 cm. Private collection.

● 鳥取池田家の臣依藤家舊藏文書.嘗て依藤氏は水流居合彌和羅[奧田の系]の指南役を勤めた.
● 當文書の序文は.疋田流向上極意之卷の序文に似る.
● 大矢木又左衞門正次・・・川越の人.水野流師範.池田光仲公に殊遇され捨扶持を受け江戶に住す.
因陽隱士
令和五年四月廿六日編
大矢木正次
水野流は安藝の人水野重治の創めし所で、大矢木正次其の直弟子を以て、之を藩士奧田正武と木戶正時とに傳へ、兩系相竝んで繼續し、木戶等は晚年更に一技を生じ、藩末に及んだ。 -鳥取縣鄕土史-

所藏史料紹介:長谷川流居合拔劍卷

長谷川流居合拔劍卷

帋本墨書 17.8 × 266.4 cm 江戶時代 元祿拾六癸未歲十二月朔日付 筆者藏

長谷川流居合拔劍卷. Edo period. dated 1703.
Hand scroll. Ink on paper. 17.8 × 266.4 cm. Private collection.

● 武道史硏究家の舊藏品。近年緣有って、私藏に歸す。
● 傳承地域は明らかでなく、煤孫という苗字に着目すると、岩手・南部・仙臺邊にその名を多く見ることから、その邊に傳承したものかと推測するに止む。
因陽隱士
令和五年四月廿六日編

長谷川流『居合根元之卷』を讀む

『居合根元之卷:安政二乙卯年八月吉日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、長谷川流の『居合根元之卷:安政二乙卯年八月吉日付』(筆者藏)です。これは土佐藩士下村茂市が傳授した傳書數卷の中の一卷にて、文面に據れば、その卷頭に記される所の根元之卷は元來印可に相當するものゝ、いつの頃にか再編され初傳相當として傳授されたものと考えられます。

抑(そもそも)此の居合と申す者は、日本奧州林の大明神より、夢想に之れを傳へ奉る。
そもそもこの居合というものは、日本奧州の林大明神より、夢想の中にこれを傳えられた。

夫れ兵術は、上古・中古、數多の佗流に違ひ有ると雖も、大人・小人・無力・剛力と嫌はず兵用に合すと云へり。末代、相應の太刀に爲ると尓(しか)云ふ。
そもそも兵術というものは、上古・中古のころ、數多の流儀があって、それぞれに差違が有ったものだが、大人・小人、無力・剛力といった區別はなく、皆な同樣の兵器を用ゐたと云う。そして末代のころになり、その人の体格や膂力に相應しい太刀が用ゐられるようになったと云う。

手近に勝つこと、一命の有無、之れ此の居合に極る。恐は粟散邊土の堺に於いても、不審の儀は之れ有るべからず。唯(たゞ)靈夢に依る處也。
近接の戰い方や生死を分ける機微は、この居合によって極致に至った。これは恐らく邊疆の地に於いても、不審に思われることはないだろう。なぜなら、この居合は靈夢によって成立した。
*粟散邊土・・・<平家物語>「此國乃粟散邊土、憂心浮世之地...」

此の始尋ぬれば、奧州林崎神助重信と云ふ者、兵術を之れ林の明神に望むこと有るに因て、一百有日、今參籠其の滿曉の夢中に老翁重信に吿て日く
その根元を尋ねてみれば、奧州の林崎神助重信という者が、林明神に兵術の極意を望み、參籠すること一百有日、遂に滿曉せんとするその夢中に老翁が顯われ、重信に吿げて言うには、

「汝(なんぢ)此の太刀を以て、常に胸中に憶持すれば、怨敵に勝つことを得る」と云へり。則ち靈夢に大利を得ること有るが如し。
「汝、この太刀を以て、常に胸中に憶持すれば、怨敵(仇)に勝てる。」と。これはつまり、靈夢に大利を得たようなものである。

腰刀三尺三寸を以て、九寸五分に勝つ。柄口六寸を事(つか)ひて勝つことの妙は、不思義の極意にして、一國一人の相傳也。
腰刀三尺三寸を以て、脇差九寸五分に勝つ。柄口六寸を使って勝つことの妙は、不思義の極意にして、一國一人の相傳なり。
*「事」・・・こゝでは動詞として「使用」の意にとる。

腰刀三尺三寸の三毒は、則ち三部のみ。但(たゞ)脇差九寸五分の九曜は、五古の內證のみ。
腰刀三尺三寸の三毒(人の三惡、貪・瞋・癡)は、三部(佛の三德、大定・大智・大悲)に、脇差九寸五分の九曜(人の九執)は、五古(五智)に昇華することを自ずと悟る。
*「腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇差九寸五分九曜五古之內證也」・・・「三毒」「三部」と「九曜」「五古」とを如何に解釋すべきか惱み、譯文を書き終えた今となっても、解讀出來ていません。取り敢えず、前文の「不思義之極意一國一人之相傳也」を受けて、論を展開したものと捉えました。

敵・味方事を成す。是も亦た前生の業感也。生死は一體、戰場は淨土也。
敵と味方とになって爭うこともまた、前生の報いである。ゆえに生死は一體にして、戰場は淨土である。

此くの如く觀れば、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙り、來世に成佛・成綠の事、豈に疑ひ有らんや。
このようにして觀れば、現世において大聖摩利支尊天の加護を蒙り、來世に成佛・成綠する事は、疑う餘地がない。

此の居合は、千金を積むと雖も、不眞實の人には堅く之れを授くべからず。天罰を恐れよ。唯(たゞ)一人に授けて之れを傳へよと云へり。
この居合は、千金を積まれたとしても、決して不眞實の人に授けてはならない。天罰を恐れなさい。唯一人に授けてこれを傳えなさい。

古語に日く、「其の進むこと疾き者は、其の退くこと速かなり。」と云へり。
古語に日く、「その進むこと疾(はや)き者は、その退くことも速かである。」と。
*「其進疾者其退速云云」・・・<孟子/盡心上>孟子曰、「於不可已而已者、無所不已。於所厚者薄、無所不薄也。其進銳者、其退速。」。

此の意は貴賤・尊卑を以て隔て無く、前後輩を謂はず。
この意は、貴賤・尊卑を以て隔てることなく、前後輩を問わない。

其の所作に達する者は、目錄・印可等を許すこと相違無し。
その所作に達した者には、差別無く目錄・印可等を許す。
*この段、見たところ提示された古語とその意が嚙み合っていないようです。

又た古語に日く、「夫れ百鍊の搆へ在るは、則ち茅莊鄙と兵利とを心懸ける者なり。」と。
また古語に日く、「それ百鍊の構へ在るということは、則ち茅莊鄙と兵利とを心懸けることである。」と。
*この段、古語に曰くと云うものゝ、出典は明らかならず。故に「茅莊鄙」は未解決。

夜白之れを思ひ、神明・佛に祈る者は、則ち忽ち利方を得る。是れ心に依て身を濟ふ事燦然たり。
晝夜これを思ひ、神明・佛に祈る者は、則ち忽ち利方(法)を得る。これは、心に依て身を救うという事、歴然たり。

貴殿多年御深望に付、相傳せしめ候。猶ほ向後御修行すれば、其の功に依て、極意・印可等授くべく者也。厚く御心懸肝要の事に候。仍て奧書件の如し。
貴殿が多年にわたり懇望につき、相傳するものである。猶、これからの修行の成果によっては、極意・印可等を授けるものである。厚く心懸けることが肝要である。仍て奧書件の如し。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註 /前記の如く、「腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇差九寸五分九曜五古之內證也」の所は、手元の史料而已では到底字義を解き難く、かといって史料を探し出すこともまた難しく、一旦保留します。

傳系について、長谷川流は已に硏究も進んでおりますので、私が敢えてこゝに附言することはなく、文面の譯(拙讀)を濟ませたところで、今囘は筆を閣きます。

令和三年八月十四日 因陽隱士著

參考史料 『居合根元之卷:安政二乙卯年八月吉日付』筆者藏

所藏史料紹介:長谷川流兵法剱術圖法師卷

長谷川流兵法剱術圖法師卷 一卷 帋本墨書 15.3 × 236.8 cm 江戶時代 萬治四辛丑年三月吉日付 筆者藏

長谷川流兵法剱術圖法師卷. Edo period, dated 萬治 4 (1661).
Hand scroll. Ink on paper. 15.3 × 236.8 cm. Private collection.

● 題假稱。元は『九要圖卷』・『八方崩卷』等と題したもの歟。
● 別に『長谷川流兵法剱術極意卷』という目錄一卷在り。この目錄中の「八方崩」を圖解し、且つ構を附圖する。
因陽隱士
令和五年四月廿五日編

所藏史料紹介:上泉流居合目錄卷

上泉流居合目錄卷 一卷 帋本墨書 17.6 × 84.1 cm 江戶時代 元和七辛酉極月吉日付 筆者藏 近江彥根藩上坂家文書

上泉流居合目錄卷. Edo period, dated 元和 7 (1621).
Hand scroll. Ink on paper. 17.6 × 84.1 cm. Private collection.

● 彥根藩念流指南役上坂家舊藏文書。
● 宛名を缺くため、何人に相傳されたものか明らかでない。 假に、この卷を傳授された者が上坂家の人とすれば、井伊直孝に召し抱えられた初代辰信が該當する。
初代辰信は、生國大和、元和三年に召し出され御番を勤め、後二百石を拜領、江戶御賄方を十六年間勤め、井伊直澄のとき彥根御奧御用に轉じ更に十五年間同役を勤める。延寳五年歿。
因陽隱士
令和五年四月廿五日編
『昔咄第七卷前篇』近松茂矩著
『史料柳生新陰流下卷』今村嘉雄篇

無雙英信流柔術『印歌之卷』を讀む

『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、無雙英信流柔術の『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』(筆者藏)です。この『印歌之卷』は、已に外題を失っており、その本来の題名を知らず、爲に同時に傳授された『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』に依て、仮に『印歌之卷』と呼びます。

無雙英信流の柔術や、往昔の藤原勝負の流也。
無雙英信流の柔術というものは、往昔の藤原勝負の流である。
*「藤原勝負之流」・・・小菅精哲の『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』(筆者藏)に曰く、「無雙藤原勝負直傳末派正統一流之和」と。

足下多年意を此藝に適(ゆ)き、飄然として群ならず。得る所の術も亦た密ならずと爲さゞる也。
足下は多年意(こゝろ)をこの藝に傾け、一頭地を拔く。會得した術もまた熟達していないものはない。
*「適意」・・・「適」は「歸向」、心がある方向に向うこと。
*「飄然不群」・・・杜甫の「春日憶李白」の一節、「白也詩無敵、飄然思不群。」。
*「密」・・・「稠密」。

猶ほ能く朝磨夕鍛して、卽ち旣に龍を掣すに至る。洵(まこと)に誣(あざむ)かざる也。
更に朝磨夕鍛した結果、旣に龍を掣すいう境地に至っている。これは虛言ではない。
「誣」・・・「欺瞞」、あざむく。

故に今、先師より傳ふる所の規矩を以て。盡く諸れを足下に授く。
故に今、予が先師より傳えられた規矩を盡く足下に授ける。
*「諸」・・・「之於」。
*「規矩」・・・《荀子・王霸篇》「猶ほ規矩の方圓に於けるがごときなり。」*これは同流『印歌祕密切紙無雙安全之卷』の言に籍れば「武法」。

足下も亦た他に儻(も)し悃詣の人有らば、舊に依て之れを傳へれば、自らの榮久し。
已後、足下もまた、儻(も)し他に懇望の人が有れば、舊に依てこれを傳えることで、自身の名譽を後世に傳えられるだろう。
*「悃詣」・・・「懇望」。

印歌の卷の如きは、尤も當に其の人を斟酌すべき也。
中ん就く、印歌の卷の如きは、最も授與する弟子の人格を考慮しなければならない。

爲に言ふ。必ず、己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ。術を放(ほしい)まゝにして人を誣(あざむ)くこと無かれ。
その爲に言う。必ず己を高(たかし)として藝に傲ること無かれ、術を放(ほしい)まゝにして人を誣くこと無かれ。
*「放」・・・《操觚字訣》「自由氣まゝにすること也。放はうちやる意也。」

不者(しからず)んば、唯將に人を掣(制)さんとして、却て人に掣せらるゝの悔有り。慎まざるべからず。
そうでなければ、いざ人を掣(制)そうとして、反って人に掣される恐れが有る。愼まずにいられようか。

匄(こ)ふ、足下勉めて誨(おし)へよ、勉めて誨へよ。
足下が敎誨に努めることを願う。
*「匄」・・・「乞」。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註。

傳書は、單に切紙・目錄・免許・印可などゝ言いますが、その名稱やその內容が一定していないことはご存じの通りです。今囘の『印歌之卷』は、上記のごとく指南免許として傳授されたものです。この形式は、かなり古くからある標準的なものと言えるでしょう。

この無雙英信流柔術は、何處のものか未だ調べ終えていませんが、一連の史料に據って師弟共に但馬國出石藩の士であると考えられます。

令和三年八月十一日 因陽隱士著

參考史料 『印歌之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『印歌祕密切紙無雙安全之卷:明和四丁亥歲九月十九日付』筆者藏/『心慮之卷:元祿拾六癸未歲十一月吉日付』筆者藏/『兵庫縣史史料編近世一』兵庫縣史編輯專門委員會編

『念流正法兵法未來記:小笠原東泉坊源甲明謹序』を讀む

『念流正法兵法未來記兵書』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『念流正法兵法未來記兵書』(筆者藏)です。念流は兵法諸流派の源流の一つとされ、武術に興味をもつ人ならば、知らないということないでしょう。
この『念流正法兵法未來記兵書』は、入門卷・獅子卷・豹卷・象卷・龍卷・後序を合して成る長卷にて、念流未來記七代の知識友松僞庵(當時彥根井伊家の臣、祿三百石)の筆により、年月日を缺くも、寬永期のものと推測され、脇豐次(彥根井伊家の臣)に傳授されたものです。
今囘はその中の『獅子卷:小笠原東泉坊源甲明謹序』を讀みます。

この「小笠原東泉坊源甲明謹序」には、念流正法兵法未來記の高祖念大和尙が、摩利支尊天より劒術を傳えられ開悟したという傳說が記されています。

小笠原東泉坊源甲明謹みて序す
*「小笠原東泉坊源甲明」・・・序に登場する「慈三(赤松三首坐禪師)」の後繼者。

○獅子の卷
夫れ劍は金剛全躰三摩耶の尊形也。之れを喚びて三尺の寶釼と號し、五塵六欲の煩惱を截り斷つ。
そもそも劍というものは、諸佛諸尊の請願を象った毀壞しない法器である。名付けて三尺の寶釼と稱し、五塵六欲の煩惱を截り斷つものである。

空中に向ひ之れを振へば、則ち塵沙無明の魔黨を降伏す。軍中に向ひ之れを振へば、則ち三軍之れが爲に大に敗る。
空中に向って振るえば、塵沙無明の魔黨を降伏し、軍中に向って振るえば、三軍を大敗させる。

或る時は巖窟に入り猛虎を斬り、或る時は滄溟に臨み蛟龍を截る。之れに加へて金鞭と爲り、畜趣を穢土に制す。以て行へば自由三昧なり。
ある時は、巖窟に入って猛虎を斬り、ある時は滄溟に臨んで蛟龍を截る。それだけでなく、金鞭と爲して惡業を働く者共を現世に制すれば、自由三昧に至る。
*この段まで劍の靈威を說き、次段より高祖念大和尙が、摩利支尊天に因って開悟した光劍光身の位の話へと移る。

高祖奧山念、相陽壽福禪寺に於いて、神僧より過去現在の二術を傳へらる。過去の術は、魔法也、亂故等の流れ也。現在の劍術は、東西南北の諸士之れを傳へ、家名を立て、世[よゝ]擧て知る所也。
高祖(念流の元祖)奧山念は、(十六歲のとき)相模國壽福禪寺に於いて、神僧より過去・現在の二術を傳えられた。過去の術は魔法であり、亂故(・古江・玄心)等(など)がこの末流である。現在の劍術は、東西南北の諸士が承傳して、家名を立てた。これは世間に知られている。
*「高祖奧山念」・・・幼少のとき父を亡し、游行上人の門弟となり念阿彌陀佛と稱す。後ち還俗して相馬四郞義元と稱し、亡父の仇を討ち、再び禪門に入り慈恩と稱し、また念大和尙とも稱す。諸國修行の末、晚年波合に住む。
*「亂故等流也」・・・管見の限り、現在の諸書にはこの一節に關して諸說あり。しかし、同流の「入門卷」(筆者藏)または樋口家の『當流傳來覺書』を參照すれば、「次傳魔法亂故古江玄心等此末葉也」、「次傳魔法亂故古江玄心云者此末流也」の記述を約めたものであることが分る。則ち、鞍馬寺に於いて天狗より術を傳えられ判官流と號した。それから魔法を傳えられた。これは亂故・古江・玄心という者がこの末流である、ということ。
*この段、記述が錯誤していて、『入門卷』や『當流傳來覺書』に據れば、「魔法」を傳えられたのは十歲のとき鞍馬寺に於いて。十六歲のとき壽福禪寺に於いて神僧より傳えられたものが「現在」と考えられる。そして更に、十八歲のとき安樂寺に於いて觀音大菩薩より術を傳えられたとされる。更に諸傳を閱すると、紛糺するため、取り敢えず詮索をこゝに止む。

源叉那王以後の兵法は、皆以て念の末流也。粤(こゝ)に當家未來記の旨趣を見(あら)はさず。
つまり、源義經以後の兵法は、すべて念の末流であると言える。こゝには當家未來記の詳細を書き留めない。
*「當家未來記」・・・『念流正法兵法未來記:入門卷』の「小笠原備前守氏景序」に、「皆以て念の末流」たる所以が詳述されている。樋口定次が著した『當流傳來覺書』も同樣の內容が書かれている。則ち、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」に於いては、その所以が省略されている。故に「旨趣不見」と記される。尙、原文「奧當家未來記」と記されるが、諸書を閱すると「粤」字が正しいと考えられる。

念和尙年老ひて、而して大日本國信州伊那郡、波合に到て山居す。
嘗て、念和尙は年老いて、大日本國信州伊那郡の波合に山居した。
「波合」・・・現在の長野縣下伊那郡浪合村。念和尙は、こゝに摩利支尊天を本尊とする長福寺を建立したとされる。

一の弟子有り、慈三(赤松三首坐)と號す。時に六種震動、惡鬼飛來して.而して慈三を奪はんと欲す。
一人の弟子がいて、慈三(赤松三首坐)と號した。ある時、六種震動して、惡鬼が飛來して、慈三を奪おうとした。
*「慈三」・・・赤松三首坐禪師。奧山念の二番目の門弟にして舍弟。<『(樋口家)當流傳來覺書』>
*「六種震動」・・・佛が說法をする時の瑞相と說明されるが、後の惡鬼飛來と鑑みて、こゝではたゞ大地の震動のみを指すと考えられる。

念阿、口に呪を唱へ、手に釼を提(ひつさ)げて、過去現在の兵術を以て戰ふと雖も、渠(なん)ぞ遂げざらん、天を仰ぎ地に臥するや、七八歲の童子面前に來て.敎外別傳、以手傳手の密術を述(傳述)ぶ。
これに對して、念阿は口に呪を唱え、手に釼を提(ひつさ)げて、過去・現在の兵術を以って戰ったが、惡鬼に對抗できず、天を仰ぎ地に臥したところ、七,八歲の童子が面前に來て、敎外別傳、以手傳手の密術を敎えた。
*「七八歲の童子」・・・摩利支尊天の化身。
*「敎外別傳」・・・佛祖の心印を直傳するという佛語から轉じて用いられる語。
「禪林用語。不依文字、語言,直悟佛陀所悟之境界,卽稱爲敎外別傳。」<佛光大辭典>
*「以手傳手」・・・この語の典據を見ないが、劒術という實體に卽した敎えにつき、敢えて「以心傳心」の「心」と「手」とを入れ替えて用ゐたものかと察せられる。

念會(え)せずして、而して劍を取て、童子に向ひ打て問ふて云く、「敎外別傳の意旨如何(いかん)。」と。兒童忽ち狗(天狗)に變じて、劍を提げ起て丁と打つや.念劍下に大悟す。
念は會得できず、劍を取って、童子に向って打ちかゝり、「敎外別傳の意旨とはどのようなものか?」と問いかけたところ、兒童は忽ち天狗に變り、劍を提げ起って丁と念を打った、それで念は劍下に大悟した。

狗の云く、「汝が道は。」と。念屈屈して云く、「猛虎畫けども成らず、師に道を請ふ。」と。狗の云く、「識らず。」と。又た云く、「一鏃、三關を破る。」と。
天狗は尋ねた、「汝が道は?」と。念は畏服して答えた、「猛虎を畫こうとしても、その眞を畫くことはできない、師よ道を敎えて下さい。」と。天狗は「識らない。」と答え、次いで、「一鏃、三關を破る。」と答えた。
*「一鏃、三關を破る」・・・「欽山因巨良禪客參問、一鏃破三關時如何。師曰、放出關中主看。」。
「禪宗公案名。又作欽山一鏃破三關。以一箭射破三道關門,比喩一念超越三大阿僧祇劫、一心貫徹三觀、一棒打殺三世諸佛,不經任何階段而直參本來面目者。」<佛光大辭典>

是くの如く爲(す)ること數日、童子歸らんと欲す。念、出所を問へば、兒の云く、「我今姿を見(あら)はし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。
このようにして數日を過ごしたところ、童子が去ろうとしたので、念はその居所を尋ねたところ、兒が言うには、「我は今姿を現わし、手に劍を持て、光明を放ち、猪に乘て天に登る。」と。

殊勝なる佛恩也。聲を揚げて禮拜して、然り而して后ちに惡鬼退く。劍を光らし身を光らすの位、是れ也。
殊に勝れた佛の惠みである。聲を揚げて禮拜したところ、惡鬼は退いた。劍を光らし身を光らす(光劍光身)の位というものはこれである。

厥(そ)れ兵は十二時、劍を帶びざること莫し。仍て、當家此の術を以て第一の手傳、祕中の祕と爲す也。
兵というものは、常時劍を帶びるものであるから、當家はこの術を以て第一の手を以て手に傳える祕中の祕として扱うものである。

末葉、金銀珠玉を以て、不識の人に傳ふるに於いては、必ず天罰を蒙るべき者也。恐るべし、祕すべし。
後の代の者たちは、金銀珠玉と引き換えにして、流儀を傳えるに相應しくない者に傳えたならば、必ず天罰を蒙るから、恐れて祕すべきものである。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

今囘の「小笠原東泉坊源甲明謹序」の讀解は、刊行圖書の恩惠に浴し、正確とは言えないまでも甚しくは過ったものにはならなかったと思います。全日本劍道聯盟の『劍術關係古文書解說』と『鈴鹿家文書解說(二)』とに於いては、樋口家の念流史料の圖版が載せられており、擴大複寫して利用することで、大に讀解の助けとなりました。そして、森田榮氏の著書『堤寶山流祕書』と『源流劍法平法史考』とに於いては、念流慈恩・奧山念阿彌に關する考證が詳しく述べられており、「小笠原東泉坊源甲明謹序」を讀み解く際の善き指針となりました。

『日本武道大系』に於いても、この「小笠原東泉坊源甲明謹序」は收められていますが、その訓點に慊らず、これを采りませんでした。

令和三年八月三十一日 因陽隱士著

後年、彥根藩の念流指南役の古文書を得たことによって、この記事は大幅に改善の餘地があると分りましたが、現在はこのまゝにして置きます。

令和五年四月廿五日 附記

參考史料 『念流正法兵法未來記』筆者藏/『堤寶山流祕書』森田榮著/『源流劍法平法史考』森田榮/『劍術關係古文書解說』全日本劍道聯盟/『鈴鹿家文書解說(二)』全日本劍道聯盟

『無敵流平法心玉卷序』を讀む

『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』(筆者藏)です。流名は「無敵流平法」又は「平常無敵流」と云い、この流儀の本旨・本質をそのまゝ言い顯すものです。たとえば、この流名について同書より幾つかの言を引くと、「平法は、天地神明の發動にして無敵なるもの也。空々として淸靈幽微をかんじ、明々として通ぜざると云ふ所なし。其の性を全して是の行に難無く、故に門下の弟子に是れをさづけてすくはんとほつす。」。或は「天何ぞ天、我何ぞ我、同根一體にして其性を一にす。天地無敵なる則(とき)は、我も亦た無敵、是(こゝ)を以て、我が一道を名(なづけ)て平常無敵と號す。平は平にして中也。常は庸にして中庸の理有り。亦た心を離れて身なし。身を離て心なし。亦た曰く、心の外に平法なし、平法の外に心なし、と。亦た曰く、無敵は是れ寂然不動にして靜なる時は無量無邊に通じ、動て萬事に應ぜずと云ふことなし。形に影の隨ふが如く、響の聲に應ずるが如し。是れ無敵嚴妙なり。」と、このように說かれています。然れども、流儀の本質たるこの意義を俄に理解せよというのは無茶な話しで、取り敢えず心法上の一工夫がこの流名に表れていると分れば充分かと思います。

そして、『心玉卷』の「心玉」というものは、眞妙劍を發顯するための心法とされ、同書に於いて圖を以て、「十方に書たる劍は金剛の利劍とも、亦た吹毛の劍とも云へり。此の劍は、主は玉也。則ち人々具足する者也。此の玉は三千世界を照す。故に是れを以て名て明德とも云ひ、亦た佛家には佛心とも云へり。」と說かれています。佛家に云う佛心は、佛性とも云い、世に知られる『臨濟錄』の「赤肉團上。有一無位眞人。常在汝諸人面門出入。未證據者看看。」の「一無位眞人」を髣髴とさせるものです。この方面から理解すると、心玉の意味を捉えやすいかもしれません。

偖て、『無敵流平法心玉卷』の本文は、『日本武道大系第三卷』が收錄する所の『平常無敵流平法書』と略(ほゞ)同じです。今囘は序のみを取り上げるため、本文を讀みたい方には『日本武道大系第三卷』を薦めます。但し、この『平常無敵流平法書』は、『心玉卷』と大差無い記述ながら、寫本の爲か、卷末の詩と奧書とを缺きます。これに對して、こゝに揭げる『心玉卷』は、記述はもとより本文そのものも山內蓮眞の筆であることを附言して置きます。

無敵流平法心玉卷
夫れ古來より兵法の術、世〃流布することや久し。而して之れを學ぶ道、其の術其の品數多有り。而して流枝家を分つ。大方何か敎ふと雖も、皆日〃敵を求め戰を好て勝つことを得るの行を學ぶに過ぎざるのみ。
抑〃古來より兵法の術というものが行われ、世間に流布して長い年月が經過した。兵法を學ぶ道や、その術や、その品數は多くなり、流れは分れて枝となり、それぞれの家に分れた。大方の家では、何かを敎えると言っても、皆日〃敵を求めて戰を好むような、勝つための術を身に付けることだけを目的として修行させるに過ぎなかった。

予も亦た此の道を學びて、而して今之れを考へ見るに、天地の本性を辨へず、我が邪欲の心根を專にして、心目混昧にして、物に負けざるといふことを知らず。
私もまたこのような道を學んだが、今になってこれを考えると、天地の本性を辨えず、己の邪欲の心根を專らにして、心と目とを昧(くら)まして、外物に負けないということを知らなかったのである。

人の爭戰といふ者は、私欲專にして財寳を奪へるに異ならず。譬へば、博奕を好む者は、人の財寳を望て之れを取ること、却て己が財人に之れを取らるゝことを辨へざるに似たり。勝つことを思て負ることを知らざる者は、是れ人欲甚しくして天理を忘るゝ者也。
人の爭いや戰いというものは、私欲を專らにして財寳を奪うことに外ならず。譬えば、博奕を好む者が、人の財寳を望んでこれを取ろうして、却って己の財を人に取られてしまうことを考慮しないことに似ている。勝つことばかりを思って、負けるということを思いもしない者は、人欲ばかりを逞しくして天の理を忘却している。

此の意念を以て敵と相戰ふ時は、已に思ひは十分勝つことを知る。敵も亦た之れを知て相戰ふ者有るときは、必々相討と成る。是れ勞して功無き事也。唯盲目の杖を以て戰へるに同じ。
このことを心懸けて、敵と戰う時は、已に思いは十分勝つということを知っている。しかし、敵もまたこれを知って戰う者であるときは、必ず相討ちと成る。これでは勞有って功無きことである。たとえば、盲目の者が互いに杖をもって戰うのと同じように、どちらが勝ち、どちらが負けるとも知れない。

等しき事を見て、至極也と思ひ、或は所作の振り潔白成るを見て、是れ上手也と畏れ、或は大事の奧手、或は[一つの]太刀などいひて、異々(ことごと)敷く祕せる、之れを見て甚だ之れを驚き、平法の術の本意を論ぜず、是れを無上也と思へるは(おぼつ)かなき事也。
互いの技倆が等しき事を見て、至極のものだと思い、或は所作の振る廻いの鮮やかさを見て、これは上手だと畏れ、或は大事の奧の手、或は[一つの]太刀など言って、仰々しく祕めたもの、これを見て甚だ驚き、平法の術の本意を論じないで、これを無上だと思うことは誤った見識である。
*「或太刀異々敷」・・・『平常無敵流平法書』には「或一之太刀異々敷」とあり、これが正しいと考えられる。
*「」・・・この字は、『康熙字典』や『異體解讀辭典』に見當らず、『平常無敵流平法書』の「おぼつかなき」の振り假名に從いました。

徒々(つれづれ)に業を作して、戰ふことを以て勝ことを實とする者は、是れ古人の行跡を知り、其の所作を學び本意とする者也。若し知らざる者に對せば、聊か勝ることあらん歟。
一心に業を作して、戰うことを以て勝つことを實(本質)とするは、古人の行跡を知り、その所作を學び本意とするものである。若し知らない者に對すれば、聊か勝ることもあるかもしれない。

今思ふに、非を知り過を改めんと欲して師範を求む。爰に多賀泊庵聚津、留田流の祕術を以て、余に付屬す。亦た兵法と書ける文字を改めて平法と書く。他と相違する也。是れ心奧に負けざる所以(の者)有る也。
今となって思うに、非を知り過ちを改めようとして師範を求めた。そのとき、多賀泊庵聚津というものがいて、留田流の祕術を私に傳授した。また兵法と書く文字を改めて平法と書き、他とは相違していた。これは心の奧に外物に負けない理を有(も)つからである。
*「留田流」・・・『平常無敵流平法書』は「冨田流」と表記する。

其の頃石川霜臺簾勝、木下淡州大守利當、平法の奧妙を發明して、聚津に授けらると云へり。亦た是を以て、余に傳ふ。我れ年來此の劒術を工夫して、暫時止む時無し。肝膽を碎き、切磋の功を勵し、琢磨の心力を盡し、以て此の劒術の心理を開悟す。
その頃、石川霜臺簾勝・木下淡州大守利當が平法の奧妙を發明して、聚津に傳授したと云う、私はこれを傳えられたのである。私は年來この劒術を工夫して、暫時も止む時無く、肝膽を碎き、切磋の功を勵し、琢磨の心力を盡して、この劒術の心理を開悟した。
*「石川霜臺簾勝」・・・名廉勝。近江膳所藩の初代藩主石川忠總の長男。
*「木下淡州大守利當」・・・備中國足守藩の三代目藩主。

是に依て古の眞妙劍を察して、今師傳を顯す。若し愚意を慕へる盲人有れば、誘引の爲に此の一卷を綴て、留田流前六表を以て、劍術の敎として初心の入門と爲さしむ。
これに基づいて古の眞妙劍を洞察して、今ようやく師より傳えられたものを顯すことができた。もし、私の愚かな意(こゝろ)を慕う迷い人がおれば、その誘引のためにと、この一卷を綴り、留田流前六表をもって劍術の敎として初心の者が入るための門とする。
*「眞妙劍」・・・眞妙劍は、石川霜臺・木下淡州より師多賀泊庵に傳わり、これを會得した山內蓮眞は、門弟のために『心玉卷』を著した。「心玉」「同根一體」「無敵」の心の境地より「眞妙劍」は發顯するとされる。つまり、所作ではなく心によって生じる(但し、所作を疎かにするということではない)。同書に云う、「...亦た無心をも求むべからず。是れを求めざる時は、本性全く一成ることを知るべし。此のとき無敵にして眞妙劍の本體顯るべし。」と。

爲に臺に眞妙劍の有ることを知らしむるに、心玉といふ寳珠を繪(え)がき一圖と作し、心妙劍の本侍(體)を顯して、以て書の始に之れを置く。
さらに、貴下に眞妙劍というものゝ有ることを敎えるために、心玉といふ寳珠を畫き一圖と作して、心妙劍の本體を顯して、書の始めにこれを配置する。
*「心妙劍之本待」・・・正しくは「心妙劍之本體」と考えられる。『平常無敵流平法書』に「心妙劍之本體」とあり。また、本文に「眞妙劍の本體顯るべし」とあり。

次に三界一心の圖を中にす。天地と人と眞妙合性一致することを知らしむる也。所謂聖人は天地其の德を合するといふ者也。
次に、三界一心の圖を中ごろに配置する。天地と人と眞妙合性一致することを敎えるためである。これは所謂「聖人と天地と其の德を合する。」と云うものである。
*「三界一心」・・・「同根一體にして過不及なし。天地に充滿して、時として無きときなし。所として無きところなし。故に却て無に似たり。」「一心三界、三界一心、平法一心、一心平法。」
*「聖人者天地合其德者也」・・・正しくは「聖人與天地合其德」。
「故聖人與天地合其德、日月合其明、四時合其序、鬼神合其吉兇。」<太極圖說>

今亦た師傳を踰(こへ)て、一の工夫を以て、三界一息を二圖と爲す。天地性命の本源を悟て、萬物を一にして、外物の敵ならず、負けざる事を知て、無敵の一道を與にせんと欲す。是に於いて體認せずんば、眞妙劍も亦た行へず。故に之れを書に筆して、無上無外の知覺を得て、無敵に至らしめんと欲す。
今またこゝに、師傳を踰えた一つの工夫、一息を以て三界一心を二圖に顯す。天地性命の本源を悟って、萬物を一つにして、外物の敵とならず、負けざる事を知って、無敵の一道を與(とも)にしようではないか。これを敎えられて、なお體認できなければ、眞妙劍もまた行えはしない。故に、これを書に顯して、無上無外の知覺を會得させ、無敵に至らせたいと思う。
*「今亦踰師傳而以一工夫爲三界一息於二圖」・・・この段の注目すべき點は此處にあり。眞妙劍が師傳によるものであるのに對して、この「一息」は山內蓮眞の工夫による。「三界一心」を得心するための手解きともいうべきものか、「一息」を知れば無敵の理に通じるとされ、同書に云う、「夫れ息は萬物の主也。萬法の依て出る玄元也。」と。或は云う、「人身、形を分てより、過て人と我れ境を成す。此れ人と我の境を如何と見るに、陰の氣を稟けたる者は陰を好み、陽の氣を稟ける者は陽を好む。是れ陰我陽我と成て、陰陽始て善惡と成る。是より好嫌の氣起て我病と成る。天地・陰陽・理氣・動靜・遲速・輕重・是非・始終、是れ皆一息の成す所也。」と。或は云う、「儒門には皇星帝と云ひ、主人公と云ふ。或は天地同根、萬物一體也と云り。亦た禪門には本分の田地、本來の面目などゝ云り。亦た天臺門には圓頓止覩と云り。是れ亦た眞言門には阿字、本不生と云り。亦た金胎の大日とも云り。亦た淨土門には西方阿彌陀佛、無量佛尊と云り。亦た草木國土悉皆成佛の會座と見ると云り。我是れを惟るに一息の他なし。一息を悟らずんば如何根元を知ると云ふとも寶にあらず。」と。則ち、三界一心を擴大し精確に捉え直したものとも考えられる。

然りと雖も我無學無知にして、文字を撰まず、美言を以て飾ること無く、言卑にして理猶ほ聞き難し。心に念じて言發せざること啞噫の如し。
しかし、そうではあるが、私は無學無智にして、文字を能く撰まず、美言を以って文を飾ることも無く、言(ことば)は卑しくして、理はとても聞き難い。私の心中に念は止まり、言(ことば)として發せられないことは啞噫のようである。

此の書の云ふに違はざる事を名(なづ)けて平常無敵流と號す。而して後世淸中の塵坌と成し、而して法界に擲つ。若し愚意を助る人に遇ひて、切琢して之れを玉にすること有れば、何ぞ幸ひ之れに如かんや。
この書の云うことゝよく合致する名として、平常無敵流と號す。そしてこれを後世淸中の塵坌と成して、法界に擲(なげう)つ。若し、私の愚かな意思を汲み取る人が現れ、この平常無敵流を切琢して玉にすること有れば、これほどの幸せはない。

時に寬文三曆癸卯二月中旬、鏤(ちりば)め書き畢ぬ。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註 /こゝに取り上げた『無敵流平法心玉卷』の序は、訓點を具えていますが、脫落齟齬あり、且つそもそも本文が漢文法に外れること屡々あり、故に訓點を尊重しつゝも、文意に反し文意を誤ると考えられものは止むを得ず手を加えました。十分とは言い難い譯文ですが、文意を損なうものではないと思います。猶、前記の『日本武道大系第三卷』が收錄する所の『平常無敵流平法書』を見たところ、少し文字が相違していました。たとえば、「心」を「必」と書き、「古」を「右」と書き、「見」を「是」と書くなど、文意・文法に背いており、恐らく筆寫時の誤りでしょう。また、反して『平常無敵流平法書』によって『心玉卷』の脫落誤字に氣付くこともありました。たとえば、「或太刀異々敷」と書かれたものは「或一つの太刀異々敷」の「一つの」が脫落、「心妙劍之本待」と書かれたものは「心妙劍之本體」の「本體」を誤冩したと見られるものなど。

此の『無敵流平法心玉卷』は、かなりの長文につき序のみを取り上げました。諸流に比して獨特の思想を打ち出しており、本文も讀めばきっと惹かれるもの、得るものがあると思います。

令和三年九月三日 因陽隱士著

『無敵流平法心玉卷:心玉眞劍之圖』筆者藏

參考史料 『無敵流平法心玉卷:寬文十一辛亥曆九月日付』筆者藏/『日本武道大系第三卷』

內海流『中堀語傳る覺』を讀む

『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、內海流の『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』(筆者藏)です。『中堀語傳る覺』は、流祖內海重次が師事した中堀玄淸が語ったことを覺書にしたものです。故に題名は『中堀 語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)』と讀めます。中堀玄淸とは、戶田淸玄に學んだ人で、通稱は彥右衞門と云い、當時蒲生飛驒守氏鄕に仕えていたというほか、詳しいことは傳えられていません。內海重次もまた、藤堂高虎に仕える以前、蒲生氏鄕に仕えていましたので、同じ家中に居たとき敎えを受けたものと思われます。

それでは、『中堀語傳る覺』の文面を讀みます。今人に讀み易いよう、適宜漢字に換え、讀み假名を振り、句讀點を打ち、濁點を附けました。赤字は『古傳集解』より拔萃。

中堀語(かた)り傳(つたふ)る覺(おほへ)

一、戶田淸玄は常に語りしは、長道具をも殘さず得たりといへど(雖)も、九尺柄のす(素)鑓にま(增)す事はな(無)きと覺たるとい(云)ふ。諸道具とも穿鑿よくして見る程、かち(勝)つよ(强)し。然れども、我ほどにたんれん(鍛鍊)したる者とよ(能)くきんみ(吟味)してみれば、これはかたば(片端)にか(勝)つ事なく、あいつき(相突)になるにより、其(それ)以後方々しゆぎやう(修行)し、かたば(片端)にか(勝)つ事をくふう(工夫)し出し、かき(鉤)鑓といふこと、其(その)時よりつかひ出し、さて諸道具とよ(能)くせんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、かたは(片端)にか(勝)つ事かち(勝)つよ(强)し其(それ)により、目くら(盲)鑓と名付(なづく)也。

「戶田は富田と書くがよし。淸玄先生は五郞左衞門入道と云。越前宇阪庄一乘淨敎寺村の產。」『古傳集解』

「かたはは片端(かたば)也。胴を捨て面とかゆるは當流の主意にて、他に皮肉骨などいふと同じ。」『古傳集解』

「盲鎗とは、此鉤を盲人の杖と見て、無分別に進み入るに、勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ事と見てよし。深く工夫を凝らさば、此うちより玄妙の微意を探り得べし。」『古傳集解』

*註 「勾倍矩合自然に合ふて片端に勝つ」とは、「一、分紅梅の事 愚曰、紅梅は屋作りの勾倍のごとし。先師絕妙の工夫にて、初て此鉤鎗を造り給ふ。矩合勾倍を以てわり進むに從ふて、敵の鎗自然と分れ散る也。」『古傳集解』

*註 戶田淸玄は當初九尺柄の素鎗を以て無上と爲すも、同格を相手にしてよくよく吟味したところ、片端を用ゐられゝば相突となり、全き勝を得られず。これによって淸玄は遠近修行して、鉤鎗を以て片端に全き勝を得るところに達したという。

一、長鑓は大勢うち(打)合(あひ)候所へ、持(もち)とゞく人は、長き次第にか(勝)つといふ。

一、一人けんくわ(喧嘩)などし(仕)出し、たぜ(多勢)にあ(合)い候時は長鑓あ(惡)しき、其(その)時はみしか(短)き鑓り(利)おゝ(大)きといふ。

一、人事(ごと)に持(もつ)道具には、あ(有)りよ(善)きにきはま(極)りたるやう(樣)にい(云)ふ。其(それ)はへた(下手)口なり。長き鑓にても利をすれば、みちか(短)鑓にてもり(利)をする。長鑓にて利をうしな(失)へば、みちか(短)鑓にても利をうしの(失)ふ。其(それ)は其(その)ば(場)により所により、利おゝ(大)ければそん(損)おゝ(大)く、そん(損)おゝ(大)ければ、利おゝ(大)し。よくそん(損)利せんさく(穿鑿)のうへ(上)にて、目くら(盲)鑓に利おゝ(大)きかと覺(おほへ)たるとい(云)ふ。

一、長刀・十もんし(文字)、いづれも諸道具そん(損)利右同前也。

「扨是までを中堀翁が其(その)師のこと(言)葉を口うつしに紹節(內海重行)君に語られし也。」『古傳集解』

一、中堀はげんせい(玄淸)になり候てよりは、常につくほう(突棒)をもた(持)せたる。年より(寄)出家の身として、人をころ(殺)す事大とか(科)也。人の中(ちう)人に入(いり)、いたづら者有(あら)ば、とら(捕)やうと、いつもしやれ(洒落)事をい(云)ふたぞ。

「此一段は紹節(內海重次)君の御こと(言)葉にて、中堀翁のひとゝなり(爲人)、又此(この)ものがたり(物語)ありしさま(樣)などをあらまし(荒增)しる(記)し給ひたる也。」『古傳集解』 *この一條、『古傳集解』にはもう少し詳しく記されていて、「...いつもざれごと(戲れ言)をい(云)ひ、せけん(世間)のことをおかし(可笑し)がり、わら(笑)ひゝゝ申されし也。」とつゞく。

一、かぎ(鉤)ゆらい(由來)、もし(若)きゝ(聞)たがり申さる方候はゞ、あらゝゝ(粗々)御物がた(語)り有るべく候。

*註 他者に鉤の由來を語り聞かせて宜しい、というこの文言から察するに、『中堀語傳る覺』は流儀の免許以上に相當するものかと思われます。

註 平假名・漢字の表記によっては、やゝもすれば文言の意味を取り違えてしまうことがあり、特に類似の傳書が無い孤立した傳書の場合は、その意味を考えるとき全き讀を得ること難しいものです。私の周圍を見渡すと、『中堀語傳る覺』と類似の傳書は見當らないのですが、幸いに內海家八代目當主內海重陳の著『古傳集解(冩)』(筆者藏)にその註釋があり、これと照らし合わせて文面を見ることで、ある程度讀み誤りを避けられたと思います。

その一二を例せば。「一、中堀はけんせいになり候てよりは常につくほうをもたせたる年より出家の身として」のところ、「けんせい」という語を、入道してから名乘った「玄淸」とすべきか、なにか流儀の階級と見て「見性(或は別字)」とすべきか決めかねます。

また、「もたせたる年より出家の身」は一續きの文と見え、「持たせたる年より、出家の身」と讀んでしまいそうですが、『古傳集解』を見ると「持たせたり年寄出家の身」と記されており、「持たせたる年より」と讀まぬように配慮されています。これは『古傳集解』が無ければ、誤讀を避け難いところです。

奧書の署名は、どのように解釋するべきか、少し調べた程度ではどうもはっきりとしません。一見したところ、「栗田五右衞門」「栗田淸左衞門」が連署したところに、後から「內海左門」の名が書き加えられた樣です。そして、その名の下に一度抹消した形跡が認められます。この抹消部分には何が書かれていたのか、傳系を記すにしては餘白が狹く、また消された文字數も少なく、單に書き損じたものか、なぜこゝに「內海左門」の署名が加えられたのでしょうか?筆蹟は、栗田二氏と別人にて、內海左門本人の筆蹟と見えます。

「內海左門」家は代々(二代目は名乘らず歟)が「左門」の稱を用ゐており、「重時」も「內海左門」家の人と思われますが、ざっと資料を見たところ實名が一致しません。そこで、私藏の傳書に貞享貳年付の『內海流目錄』あり、これを見ると「內海左門」の署名に『中堀語傳る覺』と同じ花押が書かれています。實名は屢々改名されるものにて、單に記錄されていない丈けとすれば、年代から推して、この「內海左門」は三代目の內海重直が該當すると思われます。內海重直は、萬治元年藤堂高久に召し出され、延寳六年家督を相續し、長らく主に御使番向きの役儀に攜わり、寳永八年病歿。

一つ分っていることがあり、同藩の士「保田次右衞門」の『親類書(元祿十六年付)』(筆者藏)に、「內海左門」の名が「從弟 實方も同斷」として記載され、その名の橫に「內海左門姉」を妻とする「栗田淸左衞門」の名が記されてます。(栗田淸左衞門は「高次公へ讓り玉ふ諸士分限」を見ると高「四百石」。)更にその名の橫には「從弟 實方も同斷 內海左門弟 內海玄休(牢人)」の名あり。宛名の「內海五右衞門」は、或はこの「內海玄休」なのかと想像しますが、裏付けとなる史料を得られず何とも言えません。

こゝで改めて、奧書の署名を見て推測すると、當時高弟であった栗田二氏が內海五右衞門に傳授し、その後內海左門が長じてこの傳授を追認して、署名を加えたものかと察せられます。しかし、假にそうだとすれば、なぜ敢えて別帋を用ゐず、本文と栗田二氏の署名との狹い隙間に署名したのか、どうも異例なことにて判然としません。

奧書の人名については追々調べることにして、本文についてはおよそ前記の通りの讀み方で良いものかと思い、こゝで記述を止めます。

令和三年七月三十一日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』筆者藏/『內海流目錄:貞享貳年七月吉日付』筆者藏/『保田次右衞門親類書(案):元祿十六年二月晦日付』筆者藏/『古傳集解(冩)』內海重棟著 筆者藏/『三重縣史 史料編近世2』三重縣編/『日本武道大系 第七卷』/『〔增補〕藤堂高虎家臣辭典 附分限帳等』佐伯朗編/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編

大嶋流『印可』を讀む

『印可:明曆第三十二月十三日』筆者藏

こゝに取り上げる傳書は、大嶋流の『印可:明曆第三十二月十三日付』(筆者藏)です。この『印可』は、同流の流祖大嶋吉綱に師事した月瀨淸信が平手忠左衞門に奧儀を殘さず傳授したことを證すものです。

軒轅の合戰より以來、干戈多しと雖も、鑓を最として其甲と爲す。
故に士爲る者は、車馬より之れに先んじて之れを操る。

古代の帝王軒轅の合戰より以來、多くの干戈(兵器)が用いられるようになった。中ん就く鑓が最も重んじられ、第一のものとして扱われた。
故に士たる者は、車馬より先驅けて鑓を操った。

*軒轅は、屢々傳書にも登場する傳說上の皇帝。例せば、『風傳流傳來之卷』に「嘗て中華の昔、義農干戈を造り、軒轅槍を作り、蚩尤も戈・殳・戟・酋矛・夷矛を作り、之れを五兵と謂ふ。」とあり。
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然れども、自由に使ふ者少なし。
慶長年、戶田一寶齋其玅を得る。予之れに從ひ、之れに習熟して眞を受けて、日月祕す。

それほど重視され用ゐられたにもかゝわらず、これを自由に使いこなす者は少なかった。
慶長年、戶田一寶齋という者がその玄妙を得ていた。予(月瀨淸信)はこの人に師事して、鑓術に習熟して眞の傳を受けて、暫くそのことを祕していた。

*鑓の最も古いところから說き起こして、近くは慶長年の話しに轉じる。
*戶田一寶齋は富田氏、名は久次と云い、富田淸源に學び、神林流槍術を指南した。<『神林流印可狀:元和八年五月吉日付』筆者藏>
*「予」は一人稱、月瀨淸信自身のこと。月瀨淸信は大嶋吉綱の高弟にして、大嶋流の達人、種田流の流祖種田正幸の師とされる。しかし、幾つかの種田流の傳書を閱しても、何れの國の人か誰に仕えたのか傳えられていない。そして、なぜか種田流の傳書の傳系に於いては、通稱を「伊左衞門」と記す。また、一部の流派の傳系に於いては、月瀨淸信を外して、大嶋吉綱-大島高賢-種田正幸とするものがある(後代村上義直)。そして、大嶋吉綱・種田正幸については、それなりの經歷が示されるのに對して、その間の月瀨淸信についての經歷が殆ど示されない。これは、やゝ穿った見方をすれば、そこに何らかの意圖があるように思われる。月瀨淸信が陪臣の身分であったことが關係したものか、傳系に於いて通稱を變える必要に迫られるほどの事情があったのか、後考を竢つ。
*平田の系の傳書に、月瀨氏は大嶋吉綱が德川賴宣に召し抱えられたとき、隨身したとの記述あり。しかし、本傳書の「明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き...」という記述に符合しない。
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而して後、元和比大島氏吉綱なる者は、此道に於いて世に鳴る者也。
予も亦心を盡すこと年久くして、神玅蘊奧を得る。

それから後ち、元和の頃、大島吉綱という者が、この鑓術の道に於いて世に知られていた。
予もまた(大島吉綱に師事して)長年鑓術に心を盡して、ようやく神玅蘊奧を會得した。

*この段、原文には大島吉綱に師事したと明記していない。しかし、「以二師」と續くことから、師事したものとして扱う。
猶、月瀨淸信は、大嶋吉綱が前田利長に仕えていたとき師事したのではないか、と『日本武道大系』に於いて推論あり。
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二師の餘力を以て、造次顚沛に愚意を起て、勉力して以て常山・金翅・不測の三術を推出するに類す。

不遜ながら、二師に指南して瞬時も怠りなく鍛鍊して着想を得、さらに努力して常山・金翅・不測の三術を發明した。

*「類」字は、謙遜して「~に似たり」の語感として用ゐたものかと想像するも、如何にして「以二師餘力」を解釋するか未だ確信を得ず。
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然りと雖も、琢磨の功止むを得ず、
明曆初元末秋比、紀州若山に到りて吉綱に對して、右道の旨趣を告ぐ。
師云く「嗚呼奇哉、微玅哉、庸人及ぶ所にあらざる也。當に國を治るに小補すべし。」と。

長年鍛鍊工夫を重ねたとはいえ、終りというものなく、
明曆元年末秋の頃、紀州若山に赴き、大島吉綱に對して、自ら得心した鑓術の旨趣を吿げたところ、
師は云った、「嗚呼奇なるかな、微玅なるかな、凡人の及ぶ所ではない。少しく治國に益するものだろう。」と。

*大嶋吉綱は大坂の役の後牢人となり、寬永十一年德川賴宣に召し抱えられ、正保三年に隱居、明曆三年十一月六日七十歲にて歿す。その父大嶋光義は關藩の初代藩主、弓の名手として名高い。
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爰に平手氏言賴、此道に志深く功を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り。術は予に同じ。

さて、この平手言賴という者は、この道に志深く、鍛鍊を積むこと久しくして、前に有り忽然として後に有り、というほどの境地に至った。これは予の術に等しい。

*「有前忽然有後」は、捉え難く、推し量り難い、深淵なものゝ如く、出典は論語の「顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。」。
*平手言賴は、本傳書の宛名の通り、通稱を忠左衞門と稱す。加賀藩家老橫山家(當時の當主は橫山忠次、明年小松城代となる。)の家來にて、平手政秀の子孫と云われる。
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故に奧を殘さず、之れを授け畢ぬ。
若し毫釐の祕する者有らば、豈に日本大小神祇の罸を蒙る者ならん。印可斯くの如し。

故に奧儀を殘さず傳授し終えた。
若し予が極く僅かの術でも傳授せず隱していれば、日本大小神祇の罸を蒙ることになるだろう。印可はこの通りである。

*「(イ)」字は「養也。室之東北隅,食所居。」<『說文解字』>。段玉裁の『說文解字注』に「東北陽氣始起。育養萬物。」とある如く、屢々傳書に見られる「閫奧(學問或は事理の深奧の所在を云う。)」に近い語感と思われる。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

『印可:明曆第三十二月十三日付』は、『中堀語傳る覺:寬文七年十月吉日付』の項に於いて觸れた通り、類似の文書が見當らない孤立した傳書です。
見比べるものがなく、何より訓點が無いため、私にとって讀み難いものでした。
愚見を述べれば、語順の誤り、語句の不足を感じられ、漢文として不備があるのではないかと思います。
しかし、勉强している者が見れば、これは文意を汲みさえすれば、自ずから讀みを確定し得るものにて、己の不勉强を恥じるほかありません。

こゝに取り上げた『印可』は、前段に記したように、大嶋吉綱-月瀨淸信-平手言賴へと至る大嶋流相傳の經緯を明らかにし、殘さず相傳したことを證すもので、その文面より察するに、月瀨淸信の編出と考えられます。猶、餘談ながら、平手言賴は承應三年に『中目錄』を傳授されています。

令和三年八月五日 因陽隱士著
令和五年四月廿四日 校了

參考史料 『印可:明曆第三十二月十三日付』筆者藏/『中目錄:承應三年八月吉日付』筆者藏/『鎗術種田流祕書:安政七庚申歲閏三月付』筆者藏/『種田流祕極之卷口傳書』筆者藏/『種田流鎗術傳書:天保十三壬寅八月吉日付』筆者藏/『無題(種田流傳書、村上の系)』筆者藏/『無題(種田流傳書、平田の系)』筆者藏/『金澤市史資料編5近世三』金澤市/『日本武道大系 第七卷』/『三百藩家臣人名事典5』家臣人名事典編纂委員會編