煤孫信重:長谷川流居合抜剣巻

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

この辺は落書きされています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていてもそのまゝにしています

『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵
『長谷川流居合抜剣巻』筆者蔵

煤孫信重、通称の多兵衛は太兵衛とも書く
陸奥仙臺伊達家の家臣
伊達綱村公のとき、元禄八年九月十八日跡式を相続した
今見られる資料で分る履歴はこれだけです

なお、煤孫氏は元を辿れば須々孫(すすまご)氏といって和賀氏の一族で、須々孫義和のとき、煤孫を名乗ったとされています
煤孫信重もこの一族の血をひくと思われます

『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』国立国会図書館000001792456

『長谷川流居合抜剣巻』は、『無双直伝英信流居合兵法 地之巻』に採録されています

その翻刻文の中、「剣要構図」の手前に「一筆啓上~」云々と落書きされている部分もそのまゝ翻刻されているので注意してください

因陽隠士記す
2025.8.17

長谷川英信:長谷川流兵法剱術極意巻

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

過去、伝書の購入に際して甚しく高揚した伝書が三つあります
一つは柳生新陰流、一つは北辰一刀流、そしてもう一つが今回取り上げる長谷川流の伝書です
因みに先の二つは購入出来ませんでした

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川流の伝書は二巻あり、もう片方の一巻は『長谷川流兵法剱術圖法師卷』に掲載済みです
二巻共に表具は失われ、虫害著しいのは残念でなりません

『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵
『長谷川流兵法剱術極意巻』筆者蔵

長谷川英信については皆さんご存じの通り、断片的に傳承を記した史料こそ見付かってはいるものゝ、諸々の傳承が錯綜しており、真偽を決し難く確証を得られないという段階にあります
新史料の登場を期待するしかありません

印章、方印の方は門構えに秸の字、壺印の方は「回」「實」とあるようです

因陽隠士記す
2025.8.16

井上外記正継:井上流小筒構堅之圖巻

今回は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術の伝書

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖巻』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13

鈴木清兵衛邦教:起倒流天巻

『起倒流天巻』筆者蔵
『起倒流天巻』筆者蔵

表裂には、鳳凰と龍に加えて宝尽しの文様

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙の金泥に調和するよう配慮された見返し

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙は上下罫引に金泥絵、そして霞のように撒かれた金砂子
裏には金箔を散らす

『起倒流天巻』筆者蔵

金砂子は光の加減によって青緑色に光る

『起倒流天巻』筆者蔵

起倒流「神武の道」で知られる鈴木邦教の伝授
「貟逸」とあるのはその前名

鈴木邦教(くにたか)
将軍家の旗本、この伝書当時は御勘定、年齢は五十歳
瀧野遊軒の道統を継ぎ起倒流を指南していた
松平定信公の師としてその名声は今日に至るまで伝わっている

「防長侍従」というのは、周防・長門を治める太守毛利重就公のこと
宝暦元年、従四位下侍従に昇進し大膳大夫と称した
鈴木邦教より二つ年下で、明和九年当時は四十八歳
通常大名が武藝を習う年齢ではなく、松平定信公が鈴木邦教に師事していたことゝ無関係ではないかもしれない

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.12

春原幸前:神道流兵法序之巻

『神道流伝書』筆者蔵

当時の箱入りの伝書は意外なほど数が少ない
所蔵する伝書を数えても両手で足るほど
今回はその伝書の中からこの三巻揃いを

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

目にも眩しい金襴の表裂
パリッとして強(こわ)い、中に固い芯を使っているのか

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

罫引に金泥の絵
この様式は、知る限り承応のころまで遡る

筆耕の手跡も上手
藩の右筆方の仕事か

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

信州松代の真田家の佐分利流槍術指南役として知られる春原幸前
この伝書によって、神道流も指南していたと判る

宛名の「幸栄公」は、真田幸良公のこと
幸栄は前名
真田幸貫公の世嗣、松平定信公の孫にあたるが、公式には定信公の末男ということに
伝書を伝授された文政十三年は、十七歳の年
天保十五年、家督を継ぐ前に早世した、享年三十一

伝系に「落合瀬左衛門」の名がある
この名を見て思い出すのは、数年前の落合家文書散逸事件
勝手に事件と呼んでいる
覚ている方もいると思う

推測するに、東京方面で売りに出され、散り散りになり
さらにヤフーオークションで細切れに散逸したのかなと

せっかく現代までまとまって伝わってきたのに、バラバラに売り散らかさされるのはどうなのかなと思いつゝ眺めていたことを覚えている

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.11

猪多重良:新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書

疋田流に続いて出すべきものは、この新陰之流の伝書
『疋田流向上極意之巻』から十三年後の慶安四年に伝授された

『新陰之流伝書』筆者蔵

紺紙金泥の表具
金泥が掠れて見えにくいが、流水に草花、上下にそれぞれ向い合う蝶が描かれている
これは「対(むか)い蝶」といって、ご存じの通り池田家の副紋として用いられた

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

されに展(ひら)くと、擦れずに残った金泥で描かれた蝶があらわれる

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

巻頭に題などは無く、唐突に絵から始まる

伝書を眺める-疋田流」の絵に近しいものを感じ、また別の伝書に似たものを見た気がする

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

本書を伝授した猪多重良は言わずと知れた新陰疋田流刀槍二術の精妙を極め指南した人物

池田家に仕えたとされるが、同家の侍帳にその名は見当らず
また、『鳥取藩史』の記述には不可解な点があり*1、はたして池田家に仕えたものか疑わしい

1…『鳥取藩史』の編者も、侍帳に「猪多伊折佐」の名が無いことを不審に思っていた

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

さて、伝書の年号に注目してほしい
慶安四年とある
定説によれば、猪多重良の没年は寛永十年九月二十九日とされる

つまり、没後九年を経て伝授された伝書ということになる

これについては以前あれこれと調べた結果、『本藩武藝伝統録』に手掛かりがあった

「重良死去の後免状を送りし例、今以伊豫にては其通り也と云へり」<本藩武藝伝統録>

「八田正吉へ免状は 承應三年也」<本藩武藝伝統録>

「貞享二乙丑猪多重良灌頂之巻相傳」<本藩武藝伝統録>

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

死去後に伝授されている、けれどもそれを否定しない
そこに何らかの事情があったと読み取れる

しかし
「文筆に通じ、諸流の伝書を閲し、各師範家の伝説を聞き、墳墓を調べ、先輩故老に質し、「武藝伝統録」を著した*2」西田紅山*3でさえ言葉を濁しているから、現代の私が調べたところでこれ以上のことは分らないだろう

2…『三百藩家臣人名事典』

3…西山紅山は、疋田流を伝える八田家の生れであり、殊に疋田流に詳しい

最後に宛名の人物について

「池田掃部頭」とある
該当する人物は一人しかいない
「池田掃部長重」
池田長吉の孫で、寛永十九年鳥取において池田光仲公に三十人扶持を以て召し抱えられた
後ち五十人扶持七百俵を下されるが、京都に出て浪人となる
この浪人となった年が慶安三四年の頃とされているので、鳥取を離れる餞別として伝授されたものかと想像する

参考文献『鳥取藩史』『本藩武藝伝統録』『侍帳』『三百藩家臣人名事典』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

冨田正次:疋田流向上極意之巻

先日、伝書類を点検していると、新たな虫食いを発見
もう何年も前に購入した伝書で、今さら虫が出るなど考えもしなかった
所蔵する伝書は、ほとんどのものを個別に管理しているため、他所から虫が入り込む可能性は無い

とすれば、ずっと以前に産み付けられた卵が有ったとしか考えられない
何年経っても油断するなということ

推測の域を出ないが、乾燥状態で卵は休眠しており、何らかの条件を満たして孵化するものか

というわけで、点検を兼ねて個別に投稿を開始
さして需要があるとも思われないが、いくつか投稿する

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

題簽は紙魚に舐められ文字は掠れている
通常よりも大振りな題簽は、表具と共に原装
紐も、この時代のものとして違和感無く、原装と見ている

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

外気に晒される面は、どうしても紙魚に舐められやすい
紺地のところよりも題簽の舐められ方が酷いのは、題簽を貼る際に使われる糊の所為

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

表具の見返しは在り来りな金地ではなく、緑地に型押しの金の花紋
なんとなく古風な印象
これは本紙の金箔散らしとの対比を狙ったものか

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

これでもかと散らされた金箔
相手への敬意を込めて、特注で誂えた伝書に見られる

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

華やかな金の中に、銀による彩色
目に鮮やかな色を使わないところが好ましい

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵
『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

本書を伝授した冨田正次は池田家の家臣、高三百石
池田利隆公・輝政公に仕えた

伝わっている履歴は少ない
十六歳のとき大坂夏の陣、父と共に利隆公に随い、追首ながらも手柄を挙げた

この伝書の四年後、寛永十九年江戸平川の普請に出張
山内忠義公への使者として土佐に下る
そして、国許の検見を数度勤める
慶安四年八月二十日病歿

本書を伝授された薄田兵衛門についても伝わっている履歴は少ない

冨田正次と同じく池田家の家臣、高四百二十石
慶長十二年に家督を相続
承応三年江戸留守番のため出張
度々検見を勤め、鉄炮引廻を命じられ、後ち二つの組頭を勤めた
寛文九年二月歿

巻末伝系や署名・宛名の書式が少し変っている
これは疋田栖雲斎のころの書式の名残か

参考文献『薄田家文書』『岡山藩家中諸士家譜五音寄』『吉備群書集成』『鳥取藩史』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流史料の蒐集

風傳流史料の蒐集
『風傳流傳書五巻』筆者蔵

私が風傳流について調べようと思ったきっかけは、2015年夏のある出来事。
ある日、知人から連絡がきた。
「武道書を引き取ってもらいたい」と。

後日、喫茶店に会して話を聞いたところ、私が武道書を蒐集していると伝え聞いた知り合いに頼まれたとのこと。
そうして見せられた武道書は全部で十二巻あり、その内の数巻に風傳流の文字がある、なるほど槍術の一派かと気付く。
当時、風傳流についてはその存在を知るぐらいで、大した知識は無く、そのほかの巻物についても、知らない流派の砲術だった。

武道書を引き取るに際し、もちろん貰って帰るわけにはいかない、幾許かの謝礼金を渡し、しばらく雑談して家路につく。

帰宅して調べてみると、風傳流の傳書は、大聖寺藩の鎗術師範橋本助六が傳授したものだと判明する。
そして、傳授を承けた人物も大聖寺藩士だと。
また更に仔細に調べたところ、本来八巻揃いの傳書が、どうやら二巻欠けていることも判った。

仕方ない、二巻欠けていても構わない、さっそく翻刻に取り組み、七巻の翻刻を終え、風傳流や師範、被傳授者について調べた結果をサイトにまとめて公開した。

その翌年夏のこと、衝撃的出来事が起る。

欠けていた『風傳流外物合』の一巻が、ヤフーオークションに出品されているのを発見してしまう。
さらに、説明文には私のサイトの文章がまるまるコピーされていることに驚いた。因みに引用元の表記は無し。

どういう経緯で一巻だけ分れてしまったのか、釈然としない気持ちを抑えつゝ、落札するぞと意気込んでオークションに参加したものゝ、結果は驚きの十五万円だった。

高い、高過ぎる、その認識が誤っているのか、落札できなかったのは悔しいけれども、それほど評価されているのだから、喜ぶべきかもしれない、と思い直し涙を飲む。

 

このような事情があって、私の風傳流への関心は一層強くなり、後々まで風傳流の史料を探す原動力となった。

真夏の暑い日差しを浴びると思いだす風傳流史料蒐集の始まり。

『風傳流素人書 五巻』筆者蔵
『風傳流鑓免許次第 全』筆者蔵
『風傳流十文字之傳 上下』筆者蔵
『風傳流素鑓一切留身並突身之次第 五巻』筆者蔵
『風傳流元祖生涯之書 上中下』筆者蔵
『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

その後も順調に?風傳流史料の蒐集は続いた。
時に先を越され、時に予算のために諦めるなどしつゝ。

直近、数年前に蒐集した風傳流の史料は、流祖中山吉成の高弟菅沼政辰の著書の写本群。蟲に喰われて酷い有り様。数日かけて慎重に紙と紙との癒着を剥して、殺虫処理するなど、手間がかゝった。けれども大満足。

蒐集癖の根本には、どうも狩猟本能があるらしい、と最近思い至った。

この写本群、調べてみると、どうも藤堂家の家来が風傳流の門弟で、これら写本を書き残したらしい。

藤堂家には菅沼政辰が流儀の普及に赴き努めた結果、藤堂侯の上聞に達し、下屋敷で風傳流上覧の流れとなり首尾能く勤め、のち家老藤堂仁右衛門が弟子となる約束をしたという。

そのようなわけで、藤堂家には風傳流が行われていた。

久しぶりにサイトを更新しようと思い立ったのは、以前からこの写本群の中の『風傳流元祖生涯之事』が気になっていたから。

因陽隱士
令和七年七月廿日記す