風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流史料の蒐集

風傳流史料の蒐集
『風傳流傳書五巻』筆者蔵

私が風傳流について調べようと思ったきっかけは、2015年夏のある出来事。
ある日、知人から連絡がきた。
「武道書を引き取ってもらいたい」と。

後日、喫茶店に会して話を聞いたところ、私が武道書を蒐集していると伝え聞いた知り合いに頼まれたとのこと。
そうして見せられた武道書は全部で十二巻あり、その内の数巻に風傳流の文字がある、なるほど槍術の一派かと気付く。
当時、風傳流についてはその存在を知るぐらいで、大した知識は無く、そのほかの巻物についても、知らない流派の砲術だった。

武道書を引き取るに際し、もちろん貰って帰るわけにはいかない、幾許かの謝礼金を渡し、しばらく雑談して家路につく。

帰宅して調べてみると、風傳流の傳書は、大聖寺藩の鎗術師範橋本助六が傳授したものだと判明する。
そして、傳授を承けた人物も大聖寺藩士だと。
また更に仔細に調べたところ、本来八巻揃いの傳書が、どうやら二巻欠けていることも判った。

仕方ない、一巻欠けていても構わない、さっそく翻刻に取り組み、七巻の翻刻を終え、風傳流や師範、被傳授者について調べた結果をサイトにまとめて公開した。

その翌年夏のこと、衝撃的出来事が起る。

欠けていた『風傳流外物合』の一巻が、ヤフーオークションに出品されているのを発見してしまう。
さらに、説明文には私のサイトの文章がまるまるコピーされていることに驚いた。因みに引用元の表記は無し。

どういう経緯で一巻だけ分れてしまったのか、釈然としない気持ちを抑えつゝ、落札するぞと意気込んでオークションに参加したものゝ、結果は驚きの十五万円だった。

高い、高過ぎる、その認識が誤っているのか、落札できなかったのは悔しいけれども、それほど評価されているのだから、喜ぶべきかもしれない、と思い直し涙を飲む。

 

このような事情があって、私の風傳流への関心は一層強くなり、後々まで風傳流の史料を探す原動力となった。

真夏の暑い日差しを浴びると思いだす風傳流史料蒐集の始まり。

『風傳流素人書 五巻』筆者蔵
『風傳流鑓免許次第 全』筆者蔵
『風傳流十文字之傳 上下』筆者蔵
『風傳流素鑓一切留身並突身之次第 五巻』筆者蔵
『風傳流元祖生涯之書 上中下』筆者蔵
『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

その後も順調に?風傳流史料の蒐集は続いた。
時に先を越され、時に予算のために諦めるなどしつゝ。

直近、数年前に蒐集した風傳流の史料は、流祖中山吉成の高弟菅沼政辰の著書の写本群。蟲に喰われて酷い有り様。数日かけて慎重に紙と紙との癒着を剥して、殺虫処理するなど、手間がかゝった。けれども大満足。

蒐集癖の根本には、どうも狩猟本能があるらしい、と最近思い至った。

この写本群、調べてみると、どうも藤堂家の家来が風傳流の門弟で、これら写本を書き残したらしい。

藤堂家には菅沼政辰が流儀の普及に赴き努めた結果、藤堂侯の上聞に達し、下屋敷で風傳流上覧の流れとなり首尾能く勤め、のち家老藤堂仁右衛門が弟子となる約束をしたという。

そのようなわけで、藤堂家には風傳流が行われていた。

久しぶりにサイトを更新しようと思い立ったのは、以前からこの写本群の中の『風傳流元祖生涯之事』が気になっていたから。

因陽隱士
令和七年七月廿日記す

『蝙也齋行狀』を讀む

『蝙也齋行狀』筆者藏

今囘こゝに取り上げる古文書は、『蝙也齋行狀』です。蝙也齋は、夢想願流を開いた松林左馬助のこと。同流七巻の伝書や英名録と共に保管されていたものです。『所藏史料紹介:夢想願流居合次第』は、その七巻の内の一巻。

『蝙也齋行狀』に書かれていることは、既に知られていると思いますが、これ自体を取り上げた記事を見なかった爲、拙劣ながらも敢えて現代語訳を試みました。またその原文と、傳書中に書き込まれた朱筆に依って書き下しも載せてありますので、それぞれ見比べて文意を汲み取ってもらえれば幸いです。

蝙也齋行狀 松林氏左馬助永吉。別稱を無雲と曰ふ。晚年隱退して蝙也齋と號す。父は松林權左衞門永常。世〃(よゝ)上杉家に屬して景勝に使ふ。文祿二年癸巳の歲を以って、蝙也を信州川中嶋松代に生(むめ)り。
蝙也齋の行狀(生前の事蹟・言行を敍述した文章) 松林氏左馬助永吉は別稱を無雲と云う。晚年隱退して蝙也齋と號す。父松林權左衞門永常は代々上杉家に屬し景勝に仕えた。文祿二年癸巳の歲、信州川中嶋松代に蝙也を生む。

蝙也少(わか)かりしときより志を劍術に屬(はけま)し。常に自ら以爲(おもいらく)。夫れ劍術は兵家の先務也。士たらん者(もの)學ばずんはあるへからす。遠く劍術の濫觴(らんせう)を原(たつぬ)るに。其の源(みなもと)蚩尤(しゆう)より起れり。昔葛天廬(かつてんろ)の山發(ひら)けて金出づ。蚩尤受てこれを制して。以て劍鎧(けんかい)を爲せり。此れ劍の始り也。
蝙也は若かりしときより志を劍術に勵まし、常に考えていた。劍術というものは兵家が第一に爲すべき務めであり、士でありたい者は學ばないわけにはいかない、と。劍術の起源を原(たづ)ねれば、その源は蚩尤(しゆう)のときに始まる。昔、葛天廬(かつてんろ)という山から金が掘り出され、蚩尤はこれをもって劍や鎧を製造した。これが劍の始りである。
○<管子:數地篇>「昔葛天廬之山。發而出金。蚩尤受而制之。以爲劍・鎧・矛・戟。此劍之始也。」

爾來(しかしよりこのかた)天子より以て庶人に至るまてこれを用ひさると云ふこと無し。曾て聞く天子は二十にして冠(かんふり)して劍を帶び。諸侯は三十にして冠して劍を帶ひ。大夫は四十にして冠して劍を帶ひ。隸人は冠することを得す。庶人は事有れは劍を帶ることを得たり。禮の興(おこ)る所也。
それから天子より庶人に至るまで、劍を用いないということは無かった。曾て耳にした、天子は二十歲にして冠して劍を帶びる、諸侯は三十歲にして冠して劍を帶びる、大夫は四十歲にして冠して劍を帶びる、隸人は冠することはできない、庶人は事有れば劍を帶びることができた。この邊りから禮が興ったのである。
○<賈子>「古者天子二十而冠帶劍。諸侯三十而冠帶劍。大夫四十而冠帶劍。隸人不得冠。庶人有事得帶劍。無事不得帶劍。」

是の故に高祖は三尺の劍を提(ひつさ)けて、坐(いなか)ら天下を治む。此れ人君の[劍を]帶ふる所に非さるや。馮異(ひやうい)は玉具の劍を賜(たまはつ)て立(たちところ)に赤眉を擊つ。此れ武臣の帶ふる所に非さるや。
是に由てこれを觀れは古へより世〃重んする所貴と無く賤と無く。然れとも斯の翁始め師に從(したか)つて問はす。唯(たゝ)一旦豁然としてこれを得て自ら力を用ること久し。

こういうわけで、高祖は三尺の劍を提げて、居ながらにして天下を治められた。これこそ人君が劍を帶びる理由ではないだろうか。馮異(後漢の武將)は玉具の劍を賜り、たちどころに赤眉(叛亂軍)を擊った。これこそ武臣の劍を帶びる理由ではないだろうか。こういうわけで古(いにしへ)より世々劍を重んじる身分に貴賤は無かった。
しかしながら、蝙也翁は始め師に就いても問わず、唯(たゞ)ふとして悟り、これより自ら努力して長い時が經った。

○<史記>「高祖云吾以布衣提三尺劔取天下」
○<大學>「必使學者卽凡天下之物。莫不因其已知之理而益窮之。以求至乎其極。至於用力之久,而一旦豁然貫通焉。則衆物之表裏精粗。無不到。而吾心之全體大用。無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。」

慶長十二丁未(ひのとのひつじ)の歲。年十有五の孟春二十三日の夜。靈夢を得て忽ち深居に入んこと思ふに。淺間嶽(あさまのたけ)南麓に往(ゆい)て。兩山の間に盤旋(はんせん)し。風飱(ぞん)露宿。努力すること三年。造次にも必す是に於てす。顚沛にも必す是に於てす。奇祥(きせう)異瑞(いつい)多は夢寐(むび)の間に在り。中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍を言はす。竟(つい)に自得活機(くはつき)の玅術を獲たり。
慶長十二年正月二十三日の夜、十五才のとき、靈夢に導かれるようにして、俄かに奧深い處に閉じ籠ろうと思い立ち、淺間嶽の南麓に往き、兩山の間を廻り、露に宿し、風を餐とし、努力すること三年。僅かの時にも必ずこれを忘れず、僅かの間にも必ずこれを忘れなかった。奇祥・異瑞の多くは夢寐の間に在るもので、中太刀・素鎗・十文字・長刀等の諸劍は言うまでもなく、竟(つい)に自得して活機の玅術を獲た。
○<論語>「君子無終食之間違仁。造次必於是。顚沛必於是。」

旣にして山を出て殺活(せつくはつ)兼ね施(ほとこ)し。進退時に中す。其の脫著(たつちやく)自由なること。譬(たと)へは雲無心にして岫(くき)を出つるか如し。僉(みな)曰ふ。無雲號名其の旨を得たり。又當流を謂(いつ)て自ら願立(くはんりう)と曰ふ。人其の故を問ふ。曰く吾今心の願ふ所を成就するを以て別に一流を立つる也。
やがて山を出て殺活を合わせて施し、進退見事であった。その脫著自由な樣は、譬(たと)えば、雲は無心にして岫(山穴)から出るが如く、皆が「無雲という號名は言い得て妙である」と稱した。また當流を自ら願立と言った。人がその譯を問うと、答えて言うには、「私は今心の願う所を成就したから、旣存の流儀とは別に一流を立てたのだ」と。
○<臨濟錄>「儞若慾得生死去往脫著自由卽今識取聽法底人無形無相無根無本無住處活鱍鱍地」
○<陶淵明:歸去來辭>「雲無心出岫。鳥倦飛忘歸。」
○<大藏經:閏六>「若慾成就別法。先誦此呪十萬遍。一日一夜必須斷食設大供養。取遏迦木作火。烏麻牛酪酥蜜呪一千八遍少少投其火中卽得成就。心所願者皆得圓滿。」

諸邦に之(ゆい)て他流と相對するときんは戦(たゝかつ)て勝たさると云ふこと無し。打て利せさると云ふこと無し。此の如く經行すること七年。或は初め從(よ)り學んて弟子と爲(な)り。或は自流を捨てゝ當流に降(かう)し。深く斯の術を慕ふか爲に。禮を設(まふ)けこれを招く者有るときは。經過(けいくは)せさると云ふこと無し。
諸國に往き他流と相對するときは、戰って勝たないということは無く、打って不利ということは無かった。此くの如く、修行すること七年。或は初めより學んで當流の弟子となり、或は自流を捨てゝ當流に降った。深くこの術を慕うあまり、禮を篤くして私を招く者がいるときは、決して見過ごすことは無かった。

居を卜(ほく)し廬を結び敎て歲月を歷者其の數少からす。至若(しかのみならす)伊奈氏の佳招に因て。居を武州赤山に移して。家住すること十有餘歲。其の後府君(ふくん)忠宗(たゝむね)公彼の術の奇なるを聞て。伊奈氏に謂(いつ)て曰く。願くは蝙也を城下に招いて。適子光宗(みつむね)の師と爲さん。奈何哉(いかんそや)。伊奈氏卽ち其の命に應して。蝙也をして仙臺に使いせしむ。
居所を定め廬(いおり)を結び敎授していると、長い歲月が經った。そればかりでなく、伊奈氏の厚い招きによって、居を武州赤山に移して、住むこと十年餘り。その後、府君伊達忠宗公が蝙也の術の珍しきことを聞き、伊奈氏に言うには、「願くは、蝙也を城下に招いて、嫡子光宗の師にしたい、どうであろうか?」と。伊奈氏は直ちにその命に應じて、蝙也を仙臺に招聘した。

寬永二十年癸未の歲。果して光宗君の師と爲る。時に五十一歲也。光宗君不幸短命にして早く。簀(せき)を易(か)ゆると雖も。常に忠宗公に侍(はんへつ)て。劍術を說くこと多年。これを懷(なつ)くるに和を以てし。これを養ふに安を以てす。恩惠(をんけい)勝(あけ)て算(かそ)ふへからす。
寬永二十年、果して蝙也は光宗君の師となった、時に五十一歲。光宗君は不幸短命にして早く逝ってしまったが、蝙也は常に忠宗公の近くに仕え、長い年月劍術を說き、和をもって親しみ、安をもって成長を促した。忠宗公から受けた恩惠を殘らず數えることはできないだろう。
○易簀・・・「曾子易簀」

慶安四年辛卯の歲。蝙也劍術を以て世に鳴る。其の聲高く將軍家光公の台聞に達して。乃(すなは)ち忠宗を仰て召してこれを照覽す。討太刀は弟子阿倍道是といふ者也。渠(かれ)と共に極至(きよくじ)向上の祕術を盡すときは。將軍家太(はなはた)これを奇として。三ひ退出するときは三ひこれを召す。便(すなは)ち安藤右京亮に命して。吳服三つこれを拜領す。中か一つ赤裡(あかうら)也。右京亮且つ吿けて曰く。將軍家汝の妙術賞美(せうび)の餘り。忝(かたしけな)くも此の赤裡を賜ふ。蓋し赤裡は人を賞して賜ふ所の服なりと云云。時に五十九歲也。美譽(びよ)芳聲(はうせい)數車(すしや)有りと謂つへし。
慶安四年、蝙也は劍術を以て世に知られた。その聲名は高く、將軍家光公の耳にも屆き、忠宗を召して蝙也を招きこれを照覽した。討太刀は弟子の阿倍道是というものが勤め、彼と共に極致向上の祕術を盡したところ、將軍家は甚だこれを珍しく思われ、三たび退出すると、三たびこれを繰り返させた。そして安藤右京亮に命じて、吳服三つを與えた。その中一つは赤裡(あかうら)であった。右京亮が吿げるには、「將軍家は汝の妙術を賞美のあまり、忝くもこの赤裡を賜ったのだ、察するに赤裡は人を賞して賜ふ所の服であろう」と云々。きっと、車に積むほどの名聲を得て天下に知られたことだろう。
○<贈魏三十七:李羣玉>「名珪似玉淨無瑕。美譽芳聲有數車。」

斯の翁嗣(つく)子無し。其の子(むすめ)を以てこれを仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て。家督に立つ。其の氏を同じうし其の家を讓る。退(しりそい)て隱居す。明曆元年乙未の歲。時に六十三歲也。
蝙也には嗣子が無く、その娘を仲左衞門實吉に妻(めあはせ)て家を相續させ、その氏を同じくしその家を讓り、自身は隱居した。明曆元年、時に六十三歲。

實吉本姓は橫尾也。昔年(そのかみ)當家伊達氏の祖先藤原朝宗公。始て奧州下向の時。近臣有り扈從(こせふ)する者十七騎。橫尾右兵衞實充(さねみつ)其の一(いつ)に居れり。前(さき)の橫尾勢州實綱(さねつな)は。實充十五代の末裔(ばつえい)也。實吉又實綱季子(きし)也。
實吉、本姓は橫尾という。昔、當家伊達氏の祖先藤原朝宗公が始めて奧州に下向した時、近臣として扈從する者が十七騎あり、その中に橫尾右兵衞實充がいた。先代の橫尾勢州實綱は、實充より數えて十五代後の末裔であり、實吉は實綱の末子である。

斯の翁功成り身退くと雖も。弄(ろふ)するに劍術を以てすること日日に千有七百。年數の足らさることを知らす。復た謂つへし能く勤めを務めたりと。又每日念佛を唱(との)ふこと六萬返。疾病なりと雖も易(か)ゑす。彼の水鳥樹林念佛念法と曰ふか如きは。祖師禪法也。一念彌陀佛卽滅無量罪と曰ふか如きは。如來の敎法也。
蝙也は功を立て致仕した後も、劍術に沒頭し、日々劍を振ること千七百囘、壽命というものを知らないようだった。また勤めをよく果したと言うべきだろう。また、每日念佛を唱へること六萬返、病を患っても止めなかった。あの「水鳥樹林念佛念法」と云うものは、祖師の禪法である。「一念彌陀佛卽滅無量罪」と云うものは、如來の敎法である。
○「功成身退天之道也」
○「弄以劍術日日千有七百」の「千有七百」は、假に劍を振った囘數とする。
○<南浦文集:轉讀般若配帙>「有純一之敬心能務于勤」

梁山に頌(じゆ)有り曰く。金烏(きんう)東上人皆貴く。玉兎(きよくと)西沈(せいじん)佛祖迷ふ。擧(こ)す看(み)よ禪や敎や本二致無し。斯の翁知(しん)ぬ茲に通達すること。寬文七年丁未之歲閏二月朔日。行年七十五。臨終正念にして卒す。諡(をくりな)す洞雲月公(とううんけつこう)と曰ふ。元祿六年癸酉十二月二十四日これを書く。
梁山の頌(じゅ)に、「金烏(日)が東に上れば人皆貴く、玉兎(月)が西に沈めば佛祖迷ふ」と云う。禪といゝ敎といゝ、元から異なることは無い。蝙也は悟った、この境地に達したことを。寬文七年閏二月朔日、行年七十五。末期に臨んで心は平らかにして逝く。諡は洞雲月公。元祿六年十二月二十四日、これを書く。
○<禪林類聚>「梁山僧問祖意敎意是同是別師云金烏東上人皆貴玉兎西佛祖迷」

 太字:譯文 赤字:解說

代語譯の難しさを改めて實感しました。
何が難しいのか?
一つに、どの程度の現代語に譯すのが適切かということ。これは歷史小說を讀める人なら讀めるだろうと想定して。ただ、見慣れない單語が頻出して讀みにくいのは仕方なしと諦めました。
一つに、私自身の語彙力の無さ。日頃から、古文書を讀んでも現代語に置き換えないので、そう容易く適切な譯が思い付かない。恐らく、原文への理解の淺さが露呈したものかと思いつゝ、自身の勉强にもなると思い譯しました。
一つに、この手の傳書は、根柢に漢籍や唐詩、禪語への理解を求められます。つまり、讀者は敎養として知っているだろうという前提のもと、漢籍・唐詩・禪語などから語句を引用するので、短い語句といえども、それを用いた意圖が壓縮されている爲、一つ一つ調べなければなりません。

難しいと言っても、これらは特別なことではなく、當然のことであり、漢文を讀むときは、およそ斯ういった過程を踏みますが、今囘は取り分けて讀みやすい現代語譯を試みた結果、悩みました。

令和七年三月十四日 因陽隱士著

考史料 『蝙也齋行狀』筆者藏

疋田流三卷

疋田流强弱之卷

疋田流强弱之卷 一卷 帋本墨書 17.6 × 281.7 cm 寛永拾五年十二月吉辰付 筆者藏 備前岡山藩薄田家文書之內

疋田流强弱之卷. Edo period. dated 寛永 15 (1629).
Hand scroll. Ink on paper. 17.6 × 281.7 cm. Private collection.

疋田流向上極意之卷
疋田流向上極意之卷 一卷 帋本墨書 15.0 × 160.2 cm 寛永拾五年十二月吉辰付 筆者藏 備前岡山藩薄田家文書之內 疋田流向上極意之卷. Edo period. dated 寛永 15 (1629). Hand scroll. Ink on paper. 15.0 × 160.2 cm. Private collection.
疋田流諸學集

疋田流諸學集 一卷 帋本墨書 17.7 × 229.9 cm 貞享四丁卯年十月吉辰付 筆者藏

疋田流諸學集. Edo period. dated 貞享 4 (1687).
Hand scroll. Ink on paper. 17.7 × 229.9 cm. Private collection.

● 冨田伊兵衞正次・・・關ヶ原歸陣後.家督二百石を相續.大坂兩御陣の時.池田利隆公に御供.後江戶在番となる.明曆二年歿.池田輝政公・利隆公・光政公に仕えた.
● 薄田兵衞門殿・・・備前少將池田光政公の臣.高四百石.兵衞門或は兵右衞門とも記す.
因陽隱士
令和六年三月十一日編

伊勢流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡 一卷 帋本墨書 18.0 x 123.3 cm 慶長九年正月朔日付 筆者藏

伊勢守流炮術段積星積目錄斷簡. Edo period. dated 慶長 9 (1601).
Hand scroll. Ink on paper. 18.0 x 123.3 cm. Private collection.

● 毛利伊勢守藤原朝臣高政・・・本名友重。姓藤原氏。字九郞左衞門。從五位下伊勢守。豐臣秀吉に仕え後豐後佐伯藩の初代藩主となる。伊勢守流炮術の祖。
因陽隱士
令和七年三月十一日編

林崎流居合御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號

御傳授居合極意大橫物幷神號 一幅 帋本墨書 40.0 x 104.0 cm 文化十一年甲戌正月二十五日付 筆者藏

御傳授居合極意大橫物幷神號. Edo period. dated 文化 11 (1814).
Hand scroll. Ink on paper. 40.0 x 104.0 cm. Private collection.

● 從四位下行雅樂頭源朝臣忠道・・・酒井忠道公.從四位下雅樂頭.播磨國姬路城主.櫻田御火消.當橫物揮毫の同年九月晦日隱居.天保八丁酉七月廿三日御逝去.御年六十一歲、法諡率性院殿曆堂源祁大居士.
因陽隱士
令和六年三月丗一日編

甲乙流兵書七卷

甲乙流兵書一

甲乙流兵書一 一卷 帋本墨書 18.1 x 180.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書一. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 180.3 cm. Private collection.

甲乙流兵書二

甲乙流兵書二 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.0 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書二. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.0 cm. Private collection.

甲乙流兵書三

甲乙流兵書三 一卷 帋本墨書 18.1 x 87.2 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書三. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 87.2 cm. Private collection.

甲乙流兵書四

甲乙流兵書四 一卷 帋本墨書 18.1 x 86.6 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書四. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 86.6 cm. Private collection.

甲乙流兵書五

甲乙流兵書五 一卷 帋本墨書 18.1 x 118.5 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書五. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 118.5 cm. Private collection.

甲乙流兵書六

甲乙流兵書六 一卷 帋本墨書 18.1 x 190.8 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書六. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 190.8 cm. Private collection.

甲乙流兵書七:神通之卷

甲乙流兵書七:神通之卷 一卷 帋本墨書 18.1 x 89.3 cm 元祿二己巳三月付 筆者藏

甲乙流兵書七:神通之卷. Edo period. dated 元祿 2 (1689).
Hand scroll. Ink on paper. 18.1 x 89.3 cm. Private collection.

因陽隱士
令和六年三月晦日編

大島流許狀

大島流許狀

大島流許狀 一卷 帋本墨書 30.2 x 596.7 cm 寬政十一己未歲四月吉辰付 筆者藏

大島流許狀. Edo period. dated 寛政 11 (1800).
Hand scroll. Ink on paper. 30.2 x 596.7 cm. Private collection.

『大島流執鎗手段』『當流直鎗初學卷』『明鑑之卷』『當流諸具足之制法』『目錄附屬許狀』の五卷を一卷に製す。
因陽隱士
令和五年十二月廿三日編

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷

伊勢流鞍目利判形書之卷斷卷 一卷 帋本墨書 16.4 x 351.7 cm 永祿七年九月十七日付 筆者藏

大坪流作之鞍鐙斷簡. Edo period. dated 永祿 7 (1564).
Hand scroll. Ink on paper. 16.4 x 351.7 cm. Private collection.

● 歸本軒宗仁・・・小笠原流の禮法書『宗仁聞書』を著す。長谷川宗仁同一人説あり。長谷川宗仁は、織田信長・豐臣秀吉・德川家康三公に仕える。茶法を武野紹鷗に受ける。
● 中嶋攝津守宗次・・・伊勢流の禮法書『中島攝津守宗次記』を著す。
因陽隱士
令和五年十二月廿四日編