大聖寺藩の風傳流師範-3

六代 橋本國久 享保十年~文化二年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

橋本國久は、実は奥村家房の次男
長男の奥村嘉包より六歳下
先に触れた通り、奥村家房の妻が橋本郷右衛門の娘であったから、叔父さんの家を継いだことになる
橋本家の三代目当主

享保七年橋本家の養子となり、五人扶持・組外として召し出され
その後御帳横目、表御土蔵御目付を経て御馬廻組となり勤める
享和元年隠居、文化二年病没、享年八十一歳

七代 橋本郢興 明和四年~天保五年

橋本家の四代目当主
享和元年、橋本國久の隠居によって跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
天保四年病身になり隠居、翌年六十八歳にて病没

八代 橋本國輝 享和三年~

『風傳流指南之巻』筆者蔵

橋本家の五代目当主
天保四年、隠居した父郢興に代って跡式を相続、跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
安政元年江戸表へ御使、同四年摂州西宮御陣屋へ御固めに出張
また慶応元年京都へ御使、明治元年御供役、同二年東京へ御使と度々出張の御用を勤めた
東京から帰国すると御役を解かれて鎗術稽古示談相手を命じられた
(記録はこゝまで)

まとめ

1 奥村家幾 平士 御馬廻組 80石 御武具土蔵奉行
2 奥村家房 平士 御馬廻組 100石 御郡奉行
3 生駒氏以 平士 御馬廻組 170石 御馬廻頭
4 飯田良有 平士 御馬廻組 50石
5 奥村嘉包 平士 御馬廻組 100石 割場奉行
6 橋本國久 平士 御馬廻組 28俵
7 橋本郢興 平士 御馬廻組 28俵
8 橋本國輝 平士 御馬廻組 31俵

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』『金沢市史』
因陽隠士
令和七年八月朔日記す

大聖寺藩の風傳流師範-2

初代 奥村家幾 正保二年~享保五年

大聖寺前田家における風傳流の祖、その立場は他流において御家祖などゝ称される

武術の分野では、不思議なほど奥村家幾について語られることはなく、ほゞ触れられることもない
おそらく語るべき逸話の類いがほとんど伝わっていないのだと思う
もしくはその逸話が発見されていない

奥村家幾の家は、父平左衛門のとき前田利治公に召し抱えられ、大聖寺前田家の家臣となった

奥村平左衛門の祖父は勢州長嶋合戦のとき討死、父は末森城主奥村助右衛門を頼り、末森城の戦いに参加するがその後召し抱えられることはなく、浪人のまゝ大聖寺に病死した

そして、奥村家幾
寛文二年御歩行児小姓に召し出され
父の隠居後は家督五十石を継ぎ御郡横目となる
次いで御貸銀米奉行・御用米・闕所銀・御郡除米残金奉行を兼任し
享保三年御武具土蔵奉行となる
二年後に体調を崩したものか隠居して、三ヶ月後に病没した
享年七十六歳

家格は父の代より上り、御歩行から御馬廻組に昇進
知行は五十石から八十石に加増された

二代 奥村家房 元禄五年~享保十三年

享保五年、父奥村家幾が隠居して家督を継ぐ
御帳横目、御郡横目、御郡奉行を勤め百石に加増されるも、享保十三年三十七歳という若さで病没

風傳流門下にとって、師範奥村家房の早世は誤算にて、その子が成長するまで高弟が師範代理を勤めることになったと考えられる

奥村家房の妻は、橋本郷右衛門の娘
橋本家は後々風傳流と深く関わる

三代 生駒氏以 元禄元年~延享四年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟
元禄十年、新知百五十石を下され前田利直公の御近習として取り立てられ新たに一家を立て
江戸において利直公の御近習として勤める
よほど殿様に気に入られていたものか、父源五兵衛の屋敷を拝領するも、過分といゝ返却し別の屋敷を拝領している
御近習の次に御使小姓となり、また御供役、御中小姓となるなど殿様に近侍した

宝永七年利直公が没すると、翌年利章公の御入部に御供して帰国し、御徒頭となる
その後、大御目付・御鉄炮土蔵裁許を兼任、組外頭へ経て御小姓頭となり
延享四年、隠居することなく六十歳にて病没

四十一歳のとき奥村家房が急逝したことで
享保十三年より延享四年まで指南したと見られる
なお、風傳流の師範を勤めた時期は、大聖寺において組外頭~御小姓頭のころか

上載の伝書の系図に「奥村家幾-生駒氏以」とあって「奥村家房」の名が無いのは、生駒氏以は奥村家幾に師事したのであって、家房に師事していないことによる
たゞ、風傳流の系図上は、後世の師弟関係を考慮して「奥村家幾-奥村家房-生駒氏以」と記される

四代 飯田良有 元禄十二年~宝暦十二年

『風傳流免許巻』筆者蔵

飯田良有は、享保五年家督を相続し五十石を下され御馬廻組に御番入り

宝暦十二年病に罹り隠居、二ヶ月後に病没、享年六十四歳

生駒氏以が隠居前に病死したことで、代りに風傳流の師範になったと見られる
この時点で奥村家房の子嘉包は二十九歳になっているから、師範になることも出来たように思えるが、なにか事情があったものか、飯田良有が師範になった

飯田良有が師範になったのは、察するに四十九歳のとき

五代 奥村嘉包 享保四年 ~寛政七年

享保十四年、十一歳のとき父が病没し急遽その跡を継ぎ、同十八年家督を相続する
それから二十二年後の宝暦元年、三河・駿河方面に出張し普請を勤め、帰国後は割場奉行となり、その間度々江戸詰を命じられた
寛政元年隠居、同七年病没、享年七十七歳

宝暦十二年病に罹った飯田良有の跡を受けて風傳流の師範になったと見られる
見られる、というのは師範を継いだ年が明らかでないため

前掲の画像「飯田良有-橋本国久」の系図のごとく、奥村嘉包を省く伝書もある
三代生駒氏以のときに二代奥村家房を系図に入れないのと同様か
奥村家房の長男と次男とで、風傳流の系が分れたと見られる
とはいえ、系図に入れたり入れなかったり、扱いに悩んだものか?

参考文献『加賀市史料』『大聖寺藩生駒家文書』『大聖寺藩本山家文書』
因陽隠士
令和七年七月三十一日記す

大聖寺藩の風傳流師範-1

はじめに

大聖寺藩の風傳流は、奥村家幾に始まるとされる
あまり詳しい話は伝わっていない
たゞ大聖寺系の風傳流の伝書を見れば、一目瞭然にてさして疑うべき点もなく、それで良いと思う

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『武藝流派大事典』の風傳流系図に着目したい

中山源兵衛吉成-丹羽新兵衛重直-奥村助六家茂

この系図の特異な点は、「丹羽新兵衛重直」の名があること
普通に見られる系図は、およそ下記のごとく記され、その名は無い

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

『武藝流派大事典』の編集中、たまたま採用された伝書に記されていたと考えられるが、たしかめる術はない

さて、「丹羽新兵衛重直」
先日来、投稿してきた風傳流関係の記事でお気づきの方もいるだろう

大野藩時代に中山吉成が娶った妻は、丹羽彦左衛門の娘であり
中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽彦左衛門の養子となって家督を継ぐ
そして、「丹羽新兵衛」となる
管見の限り、実名は「重應」と伝わっている
「重直」と名乗っていた時期があっても不審はない

この中山吉成の三男「丹羽新兵衛」は
「人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て後猶巧者になりて」と伝えられている

そして、「丹羽新兵衛」が仕えていた越前大野藩と、大聖寺藩との地理的距離を見てほしい

「大聖寺藩」から南に下ると「越前福井藩」があり、そこから東の山間へ入れば「越前大野藩」に着く

奥村家幾が、「丹羽新兵衛」に風傳流を師事したとしても不自然ではない

なぜ、普通の系図に「丹羽新兵衛」の名が無いのか?
二つの可能性がある

1.元から「丹羽新兵衛」は間に存在しない
2.「丹羽新兵衛」に師事した後、中山吉成に直傳を承けた

このどちらか
私は、2の可能性は充分あると考えている

流派によって扱いは異なると思うが、風傳流はわりと中山吉成が積極的に指南する人物であり
他所から訪れる孫弟子に直接指南した様子を菅沼政辰が伝えている

自分の立場に置き換えてみると分るかもしれない
孫弟子だったら、流祖の直伝を受けたいと思うし、免許や印可を伝授されゝば、これに勝るものはない

つまり、奥村家幾は当初丹羽新兵衛に師事して免許以上を伝授されていた
後ほど、中山吉成に師事する機会を得られて、免許以上を追認されたとなれば
当然系図は下記の通り変更されるだろう

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月晦日記す

風傳流の流祖中山吉成の弟子-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成直伝の弟子-三浦善九郎 印可

M1「此末子に三浦善九郎と云者有。勝れて重勢の強き者にて、宝蔵院流の十文字を学ひて仕得たり。尤善九郎か親類の者共も多く源右衛門弟子と成て稽古はけむ故に」<風傳流元祖生涯之書>

・・・三浦善九郎は、彦根家中の御旗奉行三浦五郎右衛門の末子。もとは宝蔵院流の遣い手だったが、親類たちに風傳流に入門するようすゝめられ、負ければ門下になると中山吉成に仕合を挑む。中山吉成は諸国を廻っていればよくあることゝ快諾し、赤子の手をひねるように仕合に勝った。結果、「此時善九郎我意を捨て、「最早是迄にて御座候。兎角は言語を絶し候」と」言って師弟の契りを結んだ。
後に暇を出されて浪人となり、「三郎左衛門」と改める。
高弟菅沼政辰より勢州津の藤堂家の弟子たちを譲られ、しばらく同地に居住し指南する。

その後、中山吉成は尼崎の青山大膳家に働きかけて、三浦三郎左衛門に仕官を持ちかけるが、三郎左衛門は鑓術から遠ざかっていることなどを理由にこれを固辞したゝめ、「元祖立腹にて不通せられたる」と師弟の関係は断絶した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田左近右衛門 印可

M2「御家中に八田左近右衛門と云者有。足軽組を預りて勤め、又弓をすき、又軍法に深く心を置人也。鑓も源右衛門[中山吉成]より印可を得て、しかも心に働有故に、此御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の風傳流門下随一の遣い手はこの人、八田左近右衛門。技において、この人より上を遣う人もいたそうだが、八田左近右衛門ほど風傳流の術理を極めた人はおらず、中山吉成の信頼厚かったという。
井伊家より暇を出されて、浪人となり越前福井へ行き、八田清と名乗り半俗の身となった。彦根へ帰参の話もあったが、これを断り同地で病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-八田金弥 印可

M3「[彦根]御家中に八田金弥と云者有。此人も右の八田[左近右衛門]と同姓也。是は他所にても聞及ふ人也。源右衛門[中山吉成]に慕ひ幼年の時より鑓稽古はけみ、十五歳の時元祖源右衛門より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・彦根家中の人。十五歳という若さで免許を与えられたことは異例中の異例。免許持の大人とも同格の勝負をしたという。因みに、通常免許を与えられるのは早くとも十七,十八歳。先の八田左近右衛門と同じく暇を出され浪人となり、また同様に帰参の話を蹴って、後ち病死した。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M4「嫡子名を中山喜六といひて生得の氣量又骨柄共に人並にて鑓術も免許程に得たれ共」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の嫡子。凡人の域を出ず、父子仲も険悪であったゝめ、美濃大垣で義絶された。その後、江戸で病死する。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山喜六

M5「二男は中山庄左衛門といひて、是は人品も勝れされ共、鑓術は[兄]喜六におとらす仕得たり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の次男。人品劣っていて、父中山吉成の心に叶わず、忰ではないという扱いだったという。浪人分として狭山の北条氏朝に召し抱えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-中山弥左衛門

M6「三男は名を弥左衛門といひて人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・中山吉成の三男。兄たちと同じく人並の器量とのこと。叔父丹羽彦左衛門の養子となって家督を相続した。

流祖中山吉成直伝の弟子-太田太郎左衛門 免許

M7「多き弟子の内に太田太郎左衛門殿と云御旗本衆有。此人大力にて年若き衆に度々力を望れてためされたるに」<風傳流元祖生涯之書>

M8「鑓の業はいまたおろかなるといへ共、右のことく力勝れたる故に、風傳流の門弟免許迄の鑓にては此太郎左衛門殿には互に一はいの仕合する事は叶わす」<風傳流元祖生涯之書>

M8「[太田]太郎左衛門殿の鑓の業に突引と打張を大方にかねをはつさすして遣ひ得られたる時、はや元祖より免許せられたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・太田太郎左衛門は幕府の旗本。並外れた大力の持主で、鑓術は拙いながらも、それを補って余りある膂力によって、戦場働きは充分に出来るとの判断から免許を与えられた。

流祖中山吉成直伝の弟子-丹羽新兵衛 免許

M9「拙者[中山吉成]か妻の弟に丹羽新兵衛と申者只今浪人いたして御當地へ近き岐阜に罷有候。此新兵衛鑓にも拙者免許いたし置候間」<風傳流元祖生涯之書>

・・・丹羽新兵衛は中山吉成の妻の弟。松平若狭守直明公に仕え組頭役。

流祖中山吉成直伝の弟子-西嶋善右衛門

M10「西嶋善右衛門と云者十八歳にて勢州桑名の御城主、其比松平越中守[定重]様の御家中へ行き鑓の弟子を取て」<風傳流元祖生涯之書>

・・・西嶋善右衛門は、十八歳のとき桑名の松平越中守定重公に仕えるも、一度浪人して江戸へ出て、再び同家に仕官して、桑名に戻り風傳流を指南した。

流祖中山吉成直伝の弟子-稲留清兵衛

M11「稲留清兵衛と云者尾州名護屋御城下へ行き、五六年の間に右御家中の諸士一千に餘りて弟子を取風傳流を廣めたるに」<風傳流元祖生涯之書>

・・・尾張徳川家の家中において風傳流を指南し、門下千人を超えたというから、尾張藩の風傳流はおよそこの人の尽力によって広まったのかもしれない。その後、訳あって濃州の内宮代という所に引き籠ったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-柑子弥兵衛

M12「此御家中にても鑓の弟子多く柑子弥兵衛と云者、是大垣にて弟子の初め也」<風傳流元祖生涯之書>

・・・柑子弥兵衛は、中山吉成が大垣戸田家に仕官して、家中で初めて取り立てた弟子。父の弥兵衛が中山吉成と親しかったという。

流祖中山吉成直伝の弟子-菅沼尉右衛門

M13「右の弥兵衛打太刀して采女様[戸田氏信]御前にて御意にて鑓の表長刀合ひの表を遣ひて御覧被成たり。此時某[菅沼政辰]幼年にて子小姓奉公勤め右のことく、松の丸の内山里の馬場にて源兵衛[中山吉成]鑓遣ふを御そば近く居て見たり。後に元服して十六歳の時源兵衛弟子となりたり」<風傳流元祖生涯之書>

・・・菅沼尉右衛門、実名は政辰、流祖中山吉成門下の重鎮。不破郡岩手の竹中家の家老竹中勝正の子。早歳のころより中山吉成とは知己にて、元服して中山吉成の風傳流に入門。濃州大垣の戸田氏信・氏西公に仕えながら、同流を修行する。戸田家を辞して後、伊勢方面への風傳流指南を任され、風傳流を弘める一翼を担った。中山吉成没後、しばらく浪人身分のまゝ風傳流を弘め、数年を経て松平光永公に召し抱えられ、以後松平光煕・光慈公の三君に仕え、鑓術指南役として家中はもとより大いに風傳流を弘めた。確かな生没年は明らかではないが、概算すると承応のころに生れ、元文のころに没している。九十歳に及ぶや否やという長寿を保ち、長らく流祖直伝の鑓術を指南し続けた。風傳流門下の重鎮であり、各地より師事を仰ぐ人々が訪れたという。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
参考文献『風傳流元祖生涯之書』『寛政重修諸家譜』『侍中由緒帳』
因陽隠士
令和七年七月廿八日記す

風傳流の伝書を見る

風傳流の伝書七巻-大聖寺藩士本山家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩士本山家旧蔵の伝書七巻。(風傳流のほかに五巻あるも、本項とは関係ないので省略)

この七巻の内『風傳流免許巻』に「右、目録九巻手術等残す所無く伝来いたし候」と奥書されていることから、本来九巻揃いだったと分る。「風傳流史料の蒐集」で取り上げた通り、私の風傳流の史料蒐集の第一歩となった巻物。

なお、本山家についてはちょっと入り組んでいるので割愛。

『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵
『風傳流免許巻』筆者蔵

大聖寺藩において風傳流の師範家として知られる橋本家、「助六」の名乗りで気付く人もいるかもしれないが、実は奥村家の人が相続している。

三代橋本國久は、元は奥村家房の次男だった。それが橋本家に養子入り、そして奥村家房の急逝によって、生駒氏以・飯田良有が師範代理を勤めたものか、後ほど橋本國久が風傳流の師範を継承し、以後この橋本家が風傳流を伝える。

橋本國輝は、橋本家初代から数えて五代目の当主。天保四年正月、三十一才のとき父郢興の隠居によって家督を相続し、二拾八俵を下され御馬廻に御番入りとなった。旧幕時代の後期から末期にかけて、この人物が長らく風傳流の師範を勤めた。
おそらく、現存する大聖寺系の風傳流伝書は、ほゞこの人の代のものと思われる。次いで、先々代の三代橋本国久も八十一歳という長寿であったことから、この人の伝書も多く現存しているのではないかと思う。

風傳流の伝書九巻-大聖寺藩士生駒家
『風傳流伝書七巻』筆者蔵

大聖寺藩の家老生駒家旧蔵の風傳流の伝書七巻。画像には写っていないが別に二巻ある。(風傳流のほかに二十巻あるも、本項とは関係ないので省略)

生駒家は、元は織田信長に仕えた家柄。紆余曲折あって、大聖寺藩における生駒家は、初代生駒監物が前田利長公に召し出されたことに始まり、以降、生駒家が代々同藩の家老職を継いだ。

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、いつごろ成立したものか定かでない。現在のところ、『中書』『印可』は未確認のため、あるいはこのどちらかに該当するものかもしれない。

『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵
『風傳流指南之巻』筆者蔵

先に挙げた橋本國輝の『風傳流免許巻』は文久元年、そしてこの『風傳流指南之巻』は天保十五年、これだけを見ても長期間師範を勤めていたと分る。

生駒源五兵衛は、生駒家八代目の当主。当時、既に家老職に就いていた。

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

「生駒圖書」、大聖寺藩の風傳流系譜に必ず名を列ねる人物。急逝した奥村家幾に代って師範を勤めたと見られる。

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟、新知百五十石を下され前田利直公の近習として取り立てられ、別に一家を立てた。
生駒万兵衛は、生駒家五代目の当主。当時家老職にあり、どうやら出府前に伝授されたものと見られる。
つまり、この伝書の師弟関係は、分家と本家の間柄。

先ほど挙げた『風傳流指南之巻』よりずいぶんと簡素な装幀。同じく家老に伝授したとはいえ、時代によってこれほど差が生じるのかと。

今回は、たゝ伝書を眺めるだけの投稿。
あとは、風傳流の伝書の階梯や、大聖寺藩歴代の師範、流祖中山吉成の弟子などについて触れたい。

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』
因陽隠士
令和七年七月廿九日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-3

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 年不詳

K1「一傳[中山吉成]は又鑓の外に念流の釼術を深く修行して、下手の打太刀は無刀にても取られたる上手なりといへ共、鑓は自己に立られたる風傳流なるに況や戦場にて鑓は別て諸士の武功を達器なる故に、望にまかせて是を廣くとり、又太刀術も弟子望み多しといへ共、是は断てあへて取合れす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・鑓術のみならず、釼術も相当な遣い手だった様子を伝えている。念流は、友松偽庵が彦根藩士であったことから、同藩において盛んに行われていた釼術の流派。無関係ではないかもしれない。

K2「玄関の内の連子まとにすかしの有る紙を張り置て、折ふし此すかしより見られたるを門弟は知らさる也。如此免許の鑓におしへすして免許せられたる事には皆人不審なしたる事也。是にはふかき事有。其免許を得たる人の鑓を遣ふを見ては皆人不審をはれたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・ちょっと面白い話。中山吉成は、こっそりと門弟の技倆を見て、その技倆有りと見れば免許を与えた。周囲の門弟たちは不審に思うが、その技倆を見て納得したという。

『風傳流からし物傳 六巻』筆者蔵

K3「自然まれに元祖竹刀を持れて門弟の内を相手にしてからし物の業遣ひて見せられたるに其業のさへたる事其内に程をよくしてかね合をたかへす拍子の自由を遣はれし事勿論強柔の位過所及なく全躰の業うつくしくてさとく見へたり...幾度も右のことく拍子をたかへす遣ひて見せられたり。門弟真似て仕習ふに及はすして感したる事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「からし物の業」は、別に『風傳流からし物傳』と題する六冊が著されていることからして、風傳流にとって重要な技の仕組であったらしい。同流にとって重要な仕組であったが、この仕組の道理は難しく、菅沼政辰が見る限り、真に遣える者は少なかったという。晩年には、間違った形で遣われるようになっていたようで、おそらく、早々に本来の道理は失われたと思われる。

K4「元祖[中山吉成]の遺言よく残されし鑓屋田中喜左衛門に被申付たる鑓也。此鑓の柄天草の樫也。二十角にけつり惣鑓の形は外に道具の書と題したる内に記したることく也。身は両しのぎ長さ三寸五分也。是元祖吟味の上に長さ三寸と申付られたるに、鍛冶あやまりて三寸五分に出来たるに突ぬけ共に勝れたる故元祖五分長きをかまはすして其侭用ひられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の持鎗は、遺言によって月正寺に預けられた。その鑓について語られている。入念に吟味して鑓の身の長さ三寸と指定したにもかゝわらず、鍛冶が誤って三寸五分に作ってしまう、それでも中山吉成はそのまゝ用いたというから、昔の大らかな風情を感じさせる。
風傳流の鑓については、別に『風傳流素鑓真剱之形』という伝書が有って、流儀の指定する寸法というものがある。とはいえ、弟子の中には敢えて身の長さを「壱寸八分」に作るものも現れる。中山吉成は実見して「此通にて御用ひ候へ」と許したというから、何か目論見があってのことであれば、寸法の加減は許容されていた様子。

おまけ

中山吉成の実名は、「吉成」として知られている。
それは、ほとんどの伝書には系譜に「吉成」と記すし、種々の書籍にも「吉成」とのみ記されているから、当然といえば当然。

ところが、この頃所蔵の風傳流の伝書を見ていると、二つの発見があった。
「中山源大夫重昌」と書かれている。
「重昌」という実名は一時的に用いられたものか、「吉成」と改名する以前の実名なのか、定かではないが、たしかに実名「重昌」の時期があったと分る。

『風傳流仕合之巻』筆者蔵
『内田氏工夫之一巻』筆者蔵
参考文献参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『曽我家文書』『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』
因陽隠士
令和七年七月廿五日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-2

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 ~60歳 大垣藩士~赤坂 寛文~延宝八年

F1「元祖[中山吉成]は其後加藤内蔵助様の御取斗ひにて濃州大垣の御城主戸田采女正氏信公へ被召抱たり。知行弐百五拾石被下、鑓は申立すして外様組に出る...此時は又元祖名を中山源兵衛と改む」<風傳流元祖生涯之書>

F2「[戸田]氏信公へ[中山]源兵衛身上相済たるには子細有。是は右内蔵助様兼て源兵衛を御懇意に思召て、則采女[戸田氏信]様へ御参會被仰しは、則御望の通[中山]源兵衛に知行三百石申付て可召抱と被仰て[加藤]内蔵助様御満足被成」<風傳流元祖生涯之書>
・・・加藤内蔵助の仲介によって知行三百石を以て召し抱えられるはずが、知行二百五十石になった子細について語られる。その内容は省くとして、結局「間もなく濃州大垣へ[中山]源兵衛妻子共に引越て勤めたり」と落ち着く。

F3「[中山]源兵衛は只風傳流の鑓を廣くする事をたのしまれて、此御家[戸田家]てにも三四年、又七八年の内には鑓免許の弟子も出来て所々国へも風傳流を廣めたる事有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・大垣戸田家に召し抱えられた年代は定かでないものゝ、少なくとも七八年以上は同家に仕えていた。

F4「大垣に勤られし時、『中書』といふ一冊を編て我々に渡されたる時」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の傳書『中書』が編まれたのは、この時期。

F5「[嫡子中山喜六]子細有て父子の間不和にして終に濃州大垣にて儀絶せられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山父子の仲は険悪であり、中山吉成末期に及び、親類縁家の者が嫡子喜六の儀絶を解くよう頼んだが、中山の姓を名乗ることを許すのみだった。結局、嫡子中山喜六は浪人のまゝ江戸で病死する。

F6「[三男中山弥左衛門]鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て」<風傳流元祖生涯之書>

F7「[竹中]助大夫は某[菅沼政辰]か父故に元祖も兼て互に書通して出合ん事を念し、ある時元祖[中山]源兵衛思ひ立れ某[菅沼政辰]共に種々もてなし、則躮竹中弥左衛門も初て元祖へ對面す...某[菅沼政辰]も同道して大垣へ帰られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・元祖が不破郡岩手の竹中家を訪問したときの話。これは「風傳流の流祖中山吉成について考える-4」の「おまけ-竹中左京様」で触れた通り。

F8「[菅沼政辰]大垣にて暇を取たる比は菅沼与市と改めて大垣へも出入せしに、元祖[中山]源兵衛某[菅沼政辰]へ指圖せられしは、「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり。又津の御家中へは風傳流渡らず。是又御先手の御家なれは風傳流になしたく、幸に某[菅沼政辰]暇の身に成たる間、津へ参る様に」と被申て」<風傳流元祖生涯之書>
・・・一足先に戸田家を辞していた菅沼政辰、師中山吉成より勢州津藩に風傳流を弘めるよう依頼される。当時、菅沼政辰の年齢は二十代半ばから後半。既に中山吉成の信任厚い。

F9「左門[戸田氏西]様御家督被成三四年段々御勝手御不如意に付、御公儀をへられて御家中の諸士大勢御勘略の御暇出さるゝに面々の組頭より御意の趣を一札宛に記し是を渡し面々請取て浪人す...右の通の一札を請取て何れも大垣を出るに元祖[中山吉成]も右の内にて御暇被下、則与頭戸田権兵衛より右のことくの一札を取て浪人す。右大勢御暇被下候事」<風傳流元祖生涯之書>
・・・風傳流の流祖中山吉成について考える-3において触れたように、延宝の大暇によって暇を出された話。家督を継いで三四年経ったころから藩財政が悪化し、延宝八年、大規模な解雇につながった様子を伝えている。
当時の組頭戸田権兵衛は、八百五十石戸田芳雄が該当する。

F10「其比某[菅沼政辰]桑名に居て右の沙汰を聞、元祖の事無覚束思ひ、即刻發足し夜通しに大垣へ行翌朝五つ時に直に元祖[中山]源兵衛宅へ見廻しに、はや元祖は屋鋪をあけ御城下より一里半北に「赤坂」と云所に仁科才兵衛と云人の方迄先程行かれたるよし」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成が浪人したという話を聞きつけた菅沼政辰は、急遽桑名から大垣へ急行し、中山吉成の無事を確かめた。

中山吉成 61歳 垂井滞在 天和元年

G1「其後同国の内往還に「たる井の宿」のうら静なる所に先年岡田将監殿といひし御役人の居られし明屋敷の有を元祖買とゝのへられ暫住居せられたるに」<風傳流元祖生涯之書>

G2「諸国より鑓の門弟等も多く見廻ふ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、一先ず「たる井」の地に腰を落ち着け、諸国の門弟に風傳流を指南していた。

G3「某[菅沼政辰]も又桑名より見廻たるに兼て拵へ置れて風傳流の印可の二巻此時某[菅沼政辰]へくれられたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・おそらく、この時期に風傳流の印可二巻が成立したのではないかと。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山吉成 62~64歳 明石藩士 天和二年~貞享元年

H1「播州明石の御城主松平若狭守[直明]様の御家に右にも記したる元祖縁家の丹羽氏なと居る故に、ある時明石へ行れしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・丹羽氏は中山吉成妻寿貞の実家。また、中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽家の養子となり家督を継いだ。

H2「日数をへて明石へ行着れたるに間もなく若狭守[松平直明]様御家へ可被召抱由にて、此時知行三百石源兵衛へ可被下の御内意有之に...則御城の戊亥にあたる勘手新田にて十町の所を茶代として物外に被下御家中の内にて家屋敷を被下度々登城して」<風傳流元祖生涯之書>
・・・知行三百石を固辞して、勘手新田に十町の地を下された。これには理由があって、中山吉成は「知行を得て勤るには諸士の次第有て、上に立つ人多し、知行をうけす物外と成て家老中にも同位に語る事是物外長袖分の徳也。殊に年寄存生の程も知れたるに仕廻をよくして後に末弟等迄の知る所有り、物外か仕廻の程を必末々語り聞せ」と菅沼政辰に語ったという。つまり、身分によって生じる格式に煩わされたくなかったと。
なお、松平直明が明石の地に転封となったのは天和二年のこと。つまり仕官の話は天和二年頃と考えられる。

H3「[中山]源兵衛其比の名は物外といひ」<風傳流元祖生涯之書>
・・・上にいう「長袖分の徳」。

H4「戸田左門[氏西]様へ御手寄の御老中御光来の節、御咄の序に被仰しは「何として上聞に達したるか、頃日上意に左門は中山源兵衛といふ家来に暇を出し則若狭守[松平直明]召抱たるよし、若狭守は能者を召抱たる」と上意有しと御語被成たると也。是聞ゆる筋有て元祖[中山吉成]我々へも語られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・どのような経緯で将軍様のお耳に入ったものかと、暇を出されて浪人となった中山吉成を松平直明が召し抱えた件について、老中から戸田氏西に語られた。
将軍に「能者」と言われことは無論名誉なことであり、中山吉成にとって嬉しくないはずがない。よって門弟たちにも語られた。

H5「貞享元甲子年七月十四日に病死せらる、行年六十四、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則人丸塚の内月正寺にて葬る、則兼ての法名「物外獨翁居士」と号す」<風傳流元祖生涯之書>
・・・松平直明に召し抱えられて僅か二三年、流祖中山吉成はその生涯を明石の地で終えた。
中山吉成の遺言によって、持鑓は月正寺に残し置かれた。
『風傳流元祖生涯之書』の著者である菅沼政辰は、後日月正寺に参り、中山吉成の墓に参り位牌を拝し、涙ながらに香典をさゝげた。そして遺族と対談し、桑名へ帰るに「道すから力なく元祖久敷つかわれし若黨に左次兵衛といふ者元祖にはなれ美濃の内在所へ帰るを幸に召つれ唯元祖こし方の物語りせめては旅のつかれのまきれとしてすごゝゝと桑名へ帰りし也」としめくゝった。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』『新修大垣市史』
因陽隠士
令和七年七月廿四日記す

風傳流の流祖中山吉成の行跡-1

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
流祖中山吉成の行跡-はじめに

これまでに幾度も取り上げた『風傳流元祖生涯之書』*1に基づき、その他の史料・資料をもって補足し中山吉成生涯の行跡をこゝにまとめる。

『風傳流元祖生涯之書』は、中山吉成の高弟菅沼政辰の著書。流祖中山吉成の行跡を記したもので、後世の失傳に備え、菅沼政辰の最晩年に執筆された*1。
その特徴として、基本は編年体でありながら、それぞれの出来事は年代を明示せず、また所々に著者菅沼政辰自身の行跡も入るため、史料の正確性において少なからず弱い点がある。たゞこれほどに中山吉成の行跡を伝えた史料は他に見当らず、行跡を知る上で貴重な情報であることは言うまでもない。

1・・・同書中に「つらゝゝ考ふに、元祖風傳流を建立せられしより以来、今漸九十年に近し」との述懐があることから、菅沼政辰隠居後、最晩年の執筆と見られる。

中山吉成誕生 幼名不詳 1歳 元和七年

A1「中山源兵衛吉成は元勢州長嶋にて生る。松平佐渡守様御家の士也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成出生地は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」において述べたように、矛盾が生じる。よって、推論のごとく「松平佐渡守様」の伊勢長島藩転封以前に遡って、中山吉成の本来の出生の地は仮に「美濃国大垣」とする。

A2「[中山]源兵衛は二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」<風傳流元祖生涯之書>

『風傳流免許巻』部分 筆者蔵
中山吉成 ~28歳 元和~慶安元年

B1「父中山角兵衛竹内流の鑓を修練し、則源兵衛も早歳より父角兵衛に此鑓術を傳授して、十六歳より他国へ發向し弟子を取事多し」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成は、若年の頃より父中山家吉に師事して竹内流の鑓術を修行する。そして、十六歳のとき独立し、諸国を遍歴して修行を重ねつゝ、弟子を取った。

『林鵞峰序:鑓書記』
中山吉成 29歳~30代 慶安二年~明暦

C1「古流を数多ひ又竹内流へ復て弥修行を重て工夫を積て、終に於江府一流を建立す。則風傳流是也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・竹内流を研鑽し古流を取り入れ、風傳流を建立する。風傳流を建立した正確な年代は伝えられていない。

C2「林道春法印に對談して鑓の意味を語るに、法印深く感して自右の趣を文に作りて送る。吉成則是を序文として一巻を顕はす」<風傳流元祖生涯之書>
・・・幕府の儒官林鵞峰によって撰文された「鑓書記」。これを風傳流の基礎伝書、免許六巻の中の一巻に取り入れた。「鑓書記」の撰文は、慶安二年。則ち、この年を風傳流の成立と考えるのが妥当か。

C3「此時吉成假名を新左衛門と云。其後又名を中山一傳と改」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「一傳」に改名後、中山吉成の弟が「新左衛門」の称を継いだ。

C4「館様の御屋鋪に居なから、鑓の弟子を取の初に酒井雅楽頭様御家中の士濱嶋加右衛門と云者、是風傳流に改て弟子を取の初の弟子也」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「館様の御屋鋪に居なから」とあるのみにもかゝわらず、『明石名勝古事談』には「徳川綱吉(後の将軍)の館に居り」と記されている。単に「館様」という語から拡大解釈したものか、明らかでない。

C5「中持市郎左衛門と云人有、是は管鑓の上手といひて此弟子も多く稽古甚有しに、右市郎左衛門が弟子と又一傳の弟子の内にも互に鑓の咄雑談し、又外にもいひ傳る人有て、市郎左衛門と一傳と勝負仕合を望む人多く、既に一傳も仕合をすへき心に決したるに...則四本迄仕合、四本共に一傳突勝れたり。則其鑓の業切組くきりを我らに語られたり。其勝負仕廻て一傳は早速其場を立、十郎兵衛ともに足早に帰りしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・江戸で風傳流中山吉成の名が知られたのは、おそらくこの中持市郎左衛門との仕合によるところが大きいと考えられる。

C6「猶一傳弟子益多くして国々へ風傳流を廣めたると也。勿論其内諸大名衆にも御歴々の方、又御旗本衆にも弟子多く有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中持市郎左衛門との仕合後、大名衆・旗本衆の弟子も多くなったと。

中山吉成 40歳前後 美濃~彦根滞在 明暦~万治

D1「[中山]一傳名を中山源右衛門と改め、江府を出て濃州へ立寄、又江州彦根の御家中には縁家の人も有故に、則立寄滞留せられしに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・濃州へ立ち寄ったのは、やはり出身地ゆえか?

D2「[彦根]御家中にて歴々共に鑓の弟子多く付て、稽古はけみたり」<風傳流元祖生涯之書>

D3「彦根の御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」
・・・追々、彦根家中に風傳流が普及し、中山吉成をして「御家中は一圓に風傳流を予か廣めたり」と言わしめるほど隆盛を誇る。先の江戸滞在のとき既に彦根藩士に指南していた。

D4「後に彦根の御家中一圓に風傳流の鑓となりたるにも流儀の勢ひ有」<風傳流元祖生涯之書>
・・・彦根家中の数多の弟子の内、最も風傳流を極められた人は八田左近右衛門と云い、「御家中にては此人に風傳流の突味を残さす傳へられたり」と。後ち浪人して越前福井藩へ行き、同地で病死する。

D5「十一ヶ所の鑓小屋は、[中山]源右衛門直弟の内にて、免許を得たる者共面々の屋鋪の内に鑓小屋を立て、手寄々々に弟子を取事十一ヶ所也。此故に御大家也といへ共、風傳流みち渡りて、此御家中には諸士多く鑓術を心得たる故に、掃部様御槍先強しと見へたり」<風傳流元祖生涯之書>

D6「其比元祖も浪人故に、播州尼崎の御城主其比は青山大膳様の御家中へ行れたるに」<風傳流元祖生涯之書>
・・・尼崎藩武藝奉行役 本庄九左衛門と内談して、浪人中の元彦根藩士三浦三郎左衛門の仕官をまとめようと画策するも、本人の拒絶によって破談となる。三浦三郎左衛門は、元宝蔵院流の遣い手で、中山吉成に師事して後ちに印可を傳授された。

『風傳流元祖生涯之書』筆者蔵
中山源右衛門 40代 大野藩士~浪人 寛文

E1「元祖[中山]源右衛門は越前大野へゆかれしに、其比大野の御城主松平但馬守[忠良]様の御家へ源右衛門を被召抱知行弐百石被下、鑓は申立すして外様組に出る」<風傳流元祖生涯之書>

E2「元祖[中山]源右衛門後に但馬守様軍使役被仰付て勤む」<風傳流元祖生涯之書>

「[松平忠良の]御意有しは、「[中山]源右衛門其方は鑓を一流心得たると聞、鑓には入道具有に入身に鑓有ると心得たるか?又は素鑓に勝の有と心得たるか?」と御尋有しに、源右衛門御返答申上るは、「入身には損多く御座候て。素鑓に徳多く御座候。此故に私儀素鑓の一流を仕候」と申上る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・「鑓は申立すして」仕官した中山吉成であったが、やはり殿様の耳に入ったようで、御目見のときに質問され、その後立合の運びとなった。殿様は木下淡路守に師事した鑓の遣い手、これに対し中山吉成は要望によって長刀の入身をなし、二度とも入身勝となる。結果、「其方は聞及びしよりは名人也。骨折たり。帰りて休めよと御意有」と。

E3「其後但馬守[松平忠良]様御家の老中丹羽彦左衛門[好覩]娘を御意を添られて、則源右衛門妻女とす。此後に男子三人女子弐人生る」<風傳流元祖生涯之書>
・・・中山吉成の子たちは、いずれも凡庸な性質で、それについて菅沼政辰は「元祖[中山]源兵衛程の人も不幸にて、子の縁うすき事、門弟等迄もくゆる処也。右のことく元祖子孫の趣迄を知らせん為に、吉凶の事ともに過もなく、勿論残さす全ふ記し置なり」と各人の消息の締めくゝりに述べている。

E4「[中山]源兵衛は其後又所存有て但馬守[松平忠良]様へ御暇を願上首尾能御暇被下二度浪人して又江戸へ出て鑓の弟子多く取られたり」<風傳流元祖生涯之書>
・・・菅沼政辰の記述によれば、中山吉成が官を辞して浪人の身となるのは、流儀を弘めるためであったと云う。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『松本藩士連綿』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿三日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-5

『日本武道大系第七巻』より中山吉成の伝記
現在見られる流祖中山吉成の伝記について

風傳流の流祖中山吉成に関する記事は意外なほど少ない。
そこで、記述内容から引用元を遡ると、二系統に分類される。
則ち、出典不明の『日本武道大系 第七巻』を引用する記事と、『風傳流元祖生涯之書』を引用元にする記事とに分れる。

出典不明

『日本武道大系 第七巻』

├── 一閑斎の隠居所_風傳流鑓術

└── 日本武道協会_風傳流槍術

『風傳流元祖生涯之書』

└── 『明石名勝古事談』 ── 『三百藩家臣人名事典 第七巻』

正直に言うと、『日本武道大系』の記述は信用できない。その理由は、「風傳流の流祖中山吉成について考える-2」「風傳流の流祖中山吉成について考える-3」に述べた通り、第一に根拠が分らない、第二に辻褄が合わない、そして第三に高弟菅沼政辰が著した中山吉成の行跡と相違する。

なお、『増補大改訂 武芸流派大事典』の風傳流の項では、「彦根藩士、中山源兵衛吉成が祖。もと勢州長島の松平佐渡の士」とその行跡を淡泊に伝えているが、これまでに調べた結果、全て誤りと考えている。
中山吉成は、彦根藩に仕えていないし、松平佐渡守にも仕えていない。彦根に滞在して風傳流を指南していたが、仕官はしていない。そして、松平佐渡守に仕えていたのは、父の中山家吉。
中山吉成は二男だったので、「二男故に其身を心に任せ諸国へ發して一流の鑓を廣められたり」と伝えられている。

因陽隠士
令和七年七月廿日記す

風傳流の流祖中山吉成について考える-4

『明石名勝古事談』より中山吉成の伝記
『明石名勝古事談』の中山吉成伝記について考える

『明石名勝古事談』の中山吉成伝記は、その内容を見れば『風傳流元祖生涯之書』を底本として作文されたことが明白であり、中山吉成の行跡をよくまとめているように思う。けれども、下記に抜粋した二箇所の記述には大きな誤りがあるため、訂正して置く。

H「お暇を貰ひ岩手藩主竹中左京の家に留り又同國加納城主松平丹波守光永の指南役となり藩中の子弟に風傳流の槍術を指南す」<明石名勝古事談>

K「光永光廣光慈三代に用ゐらる其際光慈信州松本へ國替となる時に松本藩中に風傳流大に廣まり其術を師範する者出て」<明石名勝古事談>

H・Kともに、流祖中山吉成の行跡として記述されているが、実はこの部分は高弟菅沼政辰の行跡である。中山吉成の行跡として鵜呑みにすると、とんでもない矛盾が生じてしまう。
「光永光廣光慈三代に用ゐらる」とあれば、中山吉成の没後にまで話が及んでおり、なぜ、筆者はこの簡単な矛盾に気が付かなかったのか...

それと、Kに言うところの「岩手藩」というものは存在しない。

『風傳流元祖生涯之事』の原文を見れば、誤りは明白

前に抜粋したH・Kそれぞれに対応する原文をこゝに抜粋する。

HQ1「某[菅沼政辰]も所存有て左門様[戸田氏西]へ御暇申上首尾好御暇被下浪人して、則同国の内不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留せしに此御家中の諸士一圓に某[菅沼政辰]か弟子と成て」

HQ2「某[菅沼政辰]を右加納より招く人有て行しに、右[丹羽]新兵衛[中山吉成の妻の弟]取立たる弟子を初て指南せしに、段々弟子重りて稽古をはけむ内に終に某[菅沼政辰]事、[松平]光永様御家へ被召抱て今に勤む」

HQ1は、菅沼政辰が浪人して、実父竹中助大夫の元へ滞留した話。
HQ2は、菅沼政辰が加納藩主松平光永に仕官するという話。
『明石名勝古事談』の筆者は、おそらく「某」を中山吉成と誤認したのだろう。とはいえ、HQ1の「某か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る」と書かれているのだから、気が付きそうなものだけど。

KQ1「其後[松平]光永様御逝去有て、[松平]光廣様御家督有て後城州淀へ御所替被仰付、則淀にても某[菅沼政辰]屋鋪の内に鑓小屋廣く被仰付御家中諸士不絶稽古励」

KQ2「其後[松平]光廣様御逝去有て今又[松平]光慈様御家督[享保二年]有て志州鳥羽へ御所替[享保二年]被仰付鳥羽にても某[菅沼政辰]か弟子共の稽古場廣く被仰付日々に稽古はけみ」

KQ3「其後[松平]光慈様未鳥羽へ御入部不被成に信州松本へ御所替[享保十年]被仰付、享保十一年に御家中諸士松本へ引越、則某[菅沼政辰]か弟子共稽古場を先當分御借し被仰付、日々不絶稽古をはけむ」

KQ4「右のことく濃州加納、次に城州淀、又志州鳥羽、今又信州松本、右四ヶ所にて御家中の諸士風傳流を学ひしは右の趣也」

KQ1~KQ4は、前に抜粋したKの「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分に当る。つまり、菅沼政辰は松平光永・松平光熙・松平光慈の三君に亘って仕えたということ。もちろん、中山吉成は天和四年に没しているので、松平光熙・松平光慈の時代には生きていない。

 
『三百藩家臣人名事典』
『三百藩家臣人名事典』の誤りもまた明白

確かなことは分らないが、『明石名勝古事談』の孫引きと見られる『三百藩家臣人名事典』の中山吉成の行跡。

F「美濃大垣藩主戸田氏信に招かれて家臣となったが、四、五年を経ると仕えを辞して、隣接する岩手陣屋の竹中左京重高のもとに寄寓し」

G「同国加納藩主松平光永の指南役となった」

前のHQ1・HQ2に説明した通り、F・G共に菅沼政辰の行跡である。
さすがに「光永光廣光慈三代に用ゐらる」という部分はおかしいと気付いたのか省かれている。

おまけ-竹中左京様

HQ1の「不破郡岩手の御守護竹中左京様の御家に某[菅沼政辰]か実父竹中助太夫は御家老役勤め居る故に、則見廻て滞留」に言う「竹中左京様」は、竹中左京重高のこと。竹中重高は、不破郡岩手の領主。彼の竹中半兵衛重治の曾孫に当る。幕府の交代寄合に列しており、普段は領地に居住し参勤交代の義務がある、ちょっと珍しい旗本。

当時、菅沼政辰の実父竹中勝正が竹中重高に仕えており、その血縁から浪人後に身を寄せ、こゝでも風傳流を指南する。
実父の屋敷に鑓小屋を設け、家中の士に指南、中でも領主竹中重高の弟竹中重紀や、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門など合わせて三名に免許が傳授された。
そんなある日、流祖中山吉成が岩手の地に訪れる。それは菅沼政辰の実父竹中助大夫に会うためだった。それまでに、菅沼政辰の兄竹中弥左衛門はしばしば大垣を訪れて、中山吉成の元で風傳流の教えを受けており、岩手訪問を打診されていたのだろう。
岩手を訪れた中山吉成は竹中家に歓待され、終日語り合ったという。

参考文献『風傳流元祖生涯之書』『明石名勝古事談』『三百藩家臣人名事典』『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
令和七年七月廿日記す