伝書を眺める-井上流

「伝書を眺める-〇〇流」は今回で一旦終り

最後に取り上げる伝書は、幕府の鉄炮方井上正継が開いた井上流炮術

流祖井上正継は、池田輝政の臣井上正俊の子
祖父は豊臣秀吉の臣にして播州英賀の城主井上正信

慶長十九年将軍徳川秀忠公に召し抱えられ
大坂冬の陣のとき、敵勢の進出するを鳥銃を以て退け、また備前嶋から城中へ大筒を打ち込んだ
次の大坂夏の陣では、天王寺表において首二級を討ち取り、この内一級は甲首にて、組中の一番首であったことから、帰陣後、下総国香取郡の内に采地五百石を賜った

そして、寛永三年五月徳川秀忠公の上洛に随従する
今回取り上げる伝書は、その年六月に伝授された(あるいは献上か)

『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵
『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵

管見の限り、後世の井上流の伝書にこれと同様のものは見当らず
特別に誂えられたものかと想像する
もしくは、この当時は図入りの伝書も考えていたのかもしれない

書かれている内容そのものは、後年に執筆される『調積集』の図示と見られる
奥書は同書と同一、但し『調積集』に図は描かれない

『井上流小筒構堅之圖』筆者蔵

後の井上正継の足跡をたどると

寛永十二年
一貫目・二貫目・三貫目の大筒百餘挺と連代銃を製造
このときの大筒は南蛮銅を以て造り、従来の十分の一の重量に押さえられ、射程は従来の五倍、八町から四十町に伸び、幕的の星を外さなかったと云われる

寛永十四年
天草一揆のとき参陣を乞うも許されず、城攻の計略を下問され、大小鉄炮及び諸器具の製作を工夫し製作

寛永十五年
鉄炮役となり、與力五騎・同心二十人を預けられ、五百石加増

寛永十六年
将軍秘事の道具を製造、代々預かるよう命じられる

寛永十七年
五十目玉・百目玉の鉄砲二百挺を製造、また城攻・陸戦に効力を発揮する兵器を献上

寛永十八年
布衣を着することを許される

正保三年
曾て著述した『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部を台覧に備え
また『調積集』『矢倉薬積之書』『町見之書』『積極集』『玄極大成集』の五部を著す

武蔵野の大筒町放のとき稲富直賢と確執を生じ、和解の席上刃傷沙汰に及び、稲富直賢・長坂信次を殺害、居合わせた小十人頭奥山安重と鷹匠頭小栗正次によって討たれた

この刃傷沙汰の結果、采地千石は収公され、養子の井上正景は士籍を削去された
その十七年後、寛文三年十月九日井上正景は赦免され士籍に復し、以後幕末まで井上家は幕府鉄砲方として存続する

以上のごとく、井上正継の経歴を見るに
実戦における鉄炮・大筒の技法のみで身を立てた人物ではなく、火器の製造や運用にまで精通しており、将軍家の信任も厚かった様子がうかゞえる

また、最期の刃傷沙汰に及んだ経緯についても、稲富一夢の曾孫稲富直賢と炮術に関して揉めており、この分野にかける思いがよほど強かったのだと感じる

参考文献『寛政重修諸家譜』『徳川實紀』『通航一覧』
因陽隠士
2025.8.13