伝書を眺める-起倒流

『起倒流天巻』筆者蔵
『起倒流天巻』筆者蔵

表裂には、鳳凰と龍に加えて宝尽しの文様

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙の金泥に調和するよう配慮された見返し

『起倒流天巻』筆者蔵

料紙は上下罫引に金泥絵、そして霞のように撒かれた金砂子
裏には金箔を散らす

『起倒流天巻』筆者蔵

金砂子は光の加減によって青緑色に光る

『起倒流天巻』筆者蔵

起倒流「神武の道」で知られる鈴木邦教の伝授
「貟逸」とあるのはその前名

鈴木邦教(くにたか)
将軍家の旗本、この伝書当時は御勘定、年齢は五十歳
瀧野遊軒の道統を継ぎ起倒流を指南していた
松平定信公の師としてその名声は今日に至るまで伝わっている

「防長侍従」というのは、周防・長門を治める太守毛利重就公のこと
宝暦元年、従四位下侍従に昇進し大膳大夫と称した
鈴木邦教より二つ年下で、明和九年当時は四十八歳
通常大名が武藝を習う年齢ではなく、松平定信公が鈴木邦教に師事していたことゝ無関係ではないかもしれない

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.12

伝書を眺める-神道流

『神道流伝書』筆者蔵

当時の箱入りの伝書は意外なほど数が少ない
所蔵する伝書を数えても両手で足るほど
今回はその伝書の中からこの三巻揃いを

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

目にも眩しい金襴の表裂
パリッとして強(こわ)い、中に固い芯を使っているのか

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

罫引に金泥の絵
この様式は、知る限り承応のころまで遡る

筆耕の手跡も上手
藩の右筆方の仕事か

『神道流兵法序之巻』筆者蔵
『神道流兵法序之巻』筆者蔵

信州松代の真田家の佐分利流槍術指南役として知られる春原幸前
この伝書によって、神道流も指南していたと判る

宛名の「幸栄公」は、真田幸良公のこと
幸栄は前名
真田幸貫公の世嗣、松平定信公の孫にあたるが、公式には定信公の末男ということに
伝書を伝授された文政十三年は、十七歳の年
天保十五年、家督を継ぐ前に早世した、享年三十一

伝系に「落合瀬左衛門」の名がある
この名を見て思い出すのは、数年前の落合家文書散逸事件
勝手に事件と呼んでいる
覚ている方もいると思う

推測するに、東京方面で売りに出され、散り散りになり
さらにヤフーオークションで細切れに散逸したのかなと

せっかく現代までまとまって伝わってきたのに、バラバラに売り散らかさされるのはどうなのかなと思いつゝ眺めていたことを覚えている

参考文献『寛政重修諸家譜』
因陽隠士
2025.8.11

伝書を眺める-新陰之流

疋田流に続いて出すべきものは、この新陰之流の伝書
『疋田流向上極意之巻』から十三年後の慶安四年に伝授された

『新陰之流伝書』筆者蔵

紺紙金泥の表具
金泥が掠れて見えにくいが、流水に草花、上下にそれぞれ向い合う蝶が描かれている
これは「対(むか)い蝶」といって、ご存じの通り池田家の副紋として用いられた

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

されに展(ひら)くと、擦れずに残った金泥で描かれた蝶があらわれる

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

巻頭に題などは無く、唐突に絵から始まる

伝書を眺める-疋田流」の絵に近しいものを感じ、また別の伝書に似たものを見た気がする

『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵
『新陰之流天狗書秘傳之巻口傳書:慶安四五月吉日付』筆者蔵

本書を伝授した猪多重良は言わずと知れた新陰疋田流刀槍二術の精妙を極め指南した人物

池田家に仕えたとされるが、同家の侍帳にその名は見当らず
また、『鳥取藩史』の記述には不可解な点があり*1、はたして池田家に仕えたものか疑わしい

1…『鳥取藩史』の編者も、侍帳に「猪多伊折佐」の名が無いことを不審に思っていた

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

さて、伝書の年号に注目してほしい
慶安四年とある
定説によれば、猪多重良の没年は寛永十年九月二十九日とされる

つまり、没後九年を経て伝授された伝書ということになる

これについては以前あれこれと調べた結果、『本藩武藝伝統録』に手掛かりがあった

「重良死去の後免状を送りし例、今以伊豫にては其通り也と云へり」<本藩武藝伝統録>

「八田正吉へ免状は 承應三年也」<本藩武藝伝統録>

「貞享二乙丑猪多重良灌頂之巻相傳」<本藩武藝伝統録>

『本藩武藝伝統録(複製)』筆者蔵

死去後に伝授されている、けれどもそれを否定しない
そこに何らかの事情があったと読み取れる

しかし
「文筆に通じ、諸流の伝書を閲し、各師範家の伝説を聞き、墳墓を調べ、先輩故老に質し、「武藝伝統録」を著した*2」西田紅山*3でさえ言葉を濁しているから、現代の私が調べたところでこれ以上のことは分らないだろう

2…『三百藩家臣人名事典』

3…西山紅山は、疋田流を伝える八田家の生れであり、殊に疋田流に詳しい

最後に宛名の人物について

「池田掃部頭」とある
該当する人物は一人しかいない
「池田掃部長重」
池田長吉の孫で、寛永十九年鳥取において池田光仲公に三十人扶持を以て召し抱えられた
後ち五十人扶持七百俵を下されるが、京都に出て浪人となる
この浪人となった年が慶安三四年の頃とされているので、鳥取を離れる餞別として伝授されたものかと想像する

参考文献『鳥取藩史』『本藩武藝伝統録』『侍帳』『三百藩家臣人名事典』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

伝書を眺める-疋田流

先日、伝書類を点検していると、新たな虫食いを発見
もう何年も前に購入した伝書で、今さら虫が出るなど考えもしなかった
所蔵する伝書は、ほとんどのものを個別に管理しているため、他所から虫が入り込む可能性は無い

とすれば、ずっと以前に産み付けられた卵が有ったとしか考えられない
何年経っても油断するなということ

推測の域を出ないが、乾燥状態で卵は休眠しており、何らかの条件を満たして孵化するものか

というわけで、点検を兼ねて「伝書を眺める」の投稿を開始
さして需要があるとも思われないが、いくつか投稿する

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

題簽は紙魚に舐められ文字は掠れている
通常よりも大振りな題簽は、表具と共に原装
紐も、この時代のものとして違和感無く、原装と見ている

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

外気に晒される面は、どうしても紙魚に舐められやすい
紺地のところよりも題簽の舐められ方が酷いのは、題簽を貼る際に使われる糊の所為

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

表具の見返しは在り来りな金地ではなく、緑地に型押しの金の花紋
なんとなく古風な印象
これは本紙の金箔散らしとの対比を狙ったものか

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

これでもかと散らされた金箔
相手への敬意を込めて、特注で誂えた伝書に見られる

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

華やかな金の中に、銀による彩色
目に鮮やかな色を使わないところが好ましい

『疋田流向上極意之巻』筆者蔵
『疋田流向上極意之巻』筆者蔵

本書を伝授した冨田正次は池田家の家臣、高三百石
池田利隆公・輝政公に仕えた

伝わっている履歴は少ない
十六歳のとき大坂夏の陣、父と共に利隆公に随い、追首ながらも手柄を挙げた

この伝書の四年後、寛永十九年江戸平川の普請に出張
山内忠義公への使者として土佐に下る
そして、国許の検見を数度勤める
慶安四年八月二十日病歿

本書を伝授された薄田兵衛門についても伝わっている履歴は少ない

冨田正次と同じく池田家の家臣、高四百二十石
慶長十二年に家督を相続
承応三年江戸留守番のため出張
度々検見を勤め、鉄炮引廻を命じられ、後ち二つの組頭を勤めた
寛文九年二月歿

巻末伝系や署名・宛名の書式が少し変っている
これは疋田栖雲斎のころの書式の名残か

参考文献『薄田家文書』『岡山藩家中諸士家譜五音寄』『吉備群書集成』『鳥取藩史』
因陽隠士
令和七年八月十日記す

虫に食われた古文書

虫に食われた古文書

『星野家文書』を収蔵し、一連の文書を一つ一つ点検していたとき
虫に食われて固着した文書があった

見たところ書簡かな?と思いつゝ、どのような内容の文書か分らないので、慎重に慎重に固着を剥して開く
(初心者の人は真似しないで、専門の業者へ)

剥していくと、初めの方に「片山流居合」云々という文字が見え、期待は膨らんだ

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

剥し方にはいくつかコツがある
固着した断面は、虫の唾液か何かで糊づけされたようになっているので、そこへ向けて逆らわないように剥す
決して紙を破るようなことがあってはならない

ぐるりと刳り抜かれるように食われたところは、紙が孤立して浮くので、これには対処が必要

何より無理しないことが大切
ダメだと思ったら、諦めて専門の業者へ

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

披いていくと「片山利介」の署名
これはもう大当たりと言って良い
早まる鼓動を抑えつゝ残りも慎重に剥して一息ついた

古文書蒐集の醍醐味は、やはりこのような発見があったときに強く感じる

古文書学や考古学を学んだ経験から、基本的に現状維持を貴ぶ姿勢ではあるものゝ
さすがにこのボロボロの状態では、保管しにくい
さらに傷む可能性もあり良くないということで、京都の老舗に裏打ちを依頼した

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

裏打ちを依頼するとき、もう一通の片山利介書簡も出すことに
こちらは虫食いよりも湿気による汚れと、表具の傷みが目についた

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

さほど昔の表具とも見えないが、安表装なのか仕立てがあまり良くないため、本紙まで折れていた

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

裏打ち後、修復前の状態を撮影したプリントを呉れる

初回のときは、もっと丁寧な作業工程・内容を示した解説書のようなプリントも呉れた

『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』筆者蔵

下手に表装を依頼すると端を裁断されるので、簡易な裏打ちのみ
表装はいつでも出来るし、やはり現状維持を優先する

また、汚れを落とすために洗浄はしない
あまり古色を落すと、白々しい仕上がりになって愕然とする

裏打ちしたゞけでも、開閉するとき傷む心配がないので安心

工賃は当時(十年近く前)、裏打ちのみ12,960円

『片山久義書簡:安永六年七月四日付』筆者蔵

こちらの書簡は、古文書へのこだわりが鎌首をもたげ、端裏の返しを本来の位置に移してもらうことに
さすがに表裏まで元通りにすると読めないので、そこまではせず

先に挙げた画像の通り、署名のある端裏は本紙の左側にして表装されていた
しかし、これでは本文「一筆致啓上...」の右側の余白が少ないため、なんとなくバランスが良くない
そこで本来の位置に戻してしまおうと依頼

工賃は、表具からの剥し+裏打ち15,984円

参考文献『星野家文書』
因陽隠士
令和七年八月六日記す

風傳流の伝書

風傳流格外之書

『風傳流格外之書』筆者蔵

『風傳流格外之書』は、風傳流の初学の者へ伝授される
次の『風傳流教方之書』と揃いで伝授された

なお、大聖寺系の伝書中に、『風傳流格外之書』は見られない

「右は初学修行の荒増(あらまし)なり常に能々工夫有るべきものなり」と奥書される

風傳流教方之書

『風傳流教方之書』筆者蔵

『風傳流教方之書』は、前に触れた通り『風傳流格外之書』と共に初学の者に伝授される

画像に示した本巻は、文政七年箕浦一道が長谷川敬に伝授した伝書で、その奥書に「予[箕浦一道]先師松濤先生藤原正純より伝来の二巻及び業目録相添へこれを授与せしむ」と記されていることから、小西正純のときに編まれた伝書である可能性がある

『風傳流教方之書』は、その後半に「直鑓真剱之形」が付されている
「直鑓真剱之形」は独立した伝書として存在するが、これを組み込んだ様子

これもまた大聖寺系の伝書中には見られない

『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』は共に、島田貞一氏旧蔵の冊子が『日本武道大系』に採録されている

『風傳流教方之書』筆者蔵

風傳流素鑓真剱之形

『風傳流素鑓真剱之形』筆者蔵

風傳流が用いる鑓について子細に記した伝書
素鑓真剱及び拵について解説したものと、それに加えて稽古鑓について解説する伝書も存在する

上掲の伝書は、前に触れた小西正純の父小西正郁のとき独立した伝書として伝授された

成立年代は明らかでなく、元は一巻として独立していたが、後世に至って小西氏の系では初学の者に与えるため『風傳流教方之書』に組み込まれたと見られる

風傳流仕合之巻

『風傳流仕合之巻』筆者蔵

『風傳流仕合之巻』は、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「右この書は當流槍術仕合之巻なり初学の者これを以て可為登高の階梯となすべきものなり」と奥書されていることから、初学の者に伝授していたと分る
また所蔵する伝書を見ても、同一人が後の免許より先に伝授されていることから、免許以前に伝授されたことは確かである

内田氏工夫之一巻

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『内田氏工夫之一巻』もまた『風傳流仕合之巻』と同様に、初学の者のために中山吉成が著した伝書

「内田清右衛門、中山氏に問いを投ず、可なるや否やの条々」
内田清右衛門という人物の問いに対して、中山吉成は言葉では言い表せないと歌で答えた、これを後々の弟子たちのために伝書として残した

『内田氏工夫之一巻』は『風傳流仕合之巻』と共に伝授する

免許六巻

『風傳流免許五巻』筆者蔵

免許六巻は、指南免許
弟子を取り立てゝ風傳流を指南することを免す
免許のとき渡す書物は下記の六巻

1 風傳流傳来之巻(序文)
2 風傳流由来之巻(序文)
3 竹内流位詰目録(位詰金之巻)
4 竹内流外物合之目録
5 竹内流秘傳歌目録
6 免許之巻

1『風傳流傳来之巻』は、中山吉成の需(もと)めに応じて幕府の儒官林鵞峰が慶安二年に撰文した「鑓書記」を取り入れたものである

2『風傳流由来之巻』は、中山吉成本人の目線で風傳流成立の由来が語られている

以上二巻は「序文二巻」

3『竹内流位詰目録』・4『竹内流外物合之目録』・5『竹内流秘傳歌目録』の三巻は、その題が示す通り竹内流より伝わり、六巻の中でも特に重要視され、伝授のとき語り聞かせ、必ず記憶して弟子たちの指導へ役立てることが求められた

6『免許之巻』は、形式上存在するもので、免許伝授のとき師が手づから弟子に渡した
他の五巻とは儀礼上扱いが異なり特別なものである
伝授された弟子にとって最も思い出に残る一巻かもしれない

『竹内流秘傳歌目録』筆者蔵

流祖中山吉成のころから免許六巻は一括相傳だったが、後世大聖寺橋本國輝の頃は伝授の仕方に変化が見られる

たとえば
天保十一年に4『竹内流外物合之目録』『風傳流仕合之巻』『内田氏工夫之一巻』を伝授
天保十四年に3『竹内流位詰目録』5『竹内流秘傳歌目録』を伝授
天保十五年に6『免許之巻』を伝授
この例は一部伝書が現存していないため、不明な点も多いが一括伝授されていないことは明らか

風傳流指南之巻

『風傳流指南之巻』筆者蔵

『風傳流指南之巻』は、免許のとき共に伝授される
但し、橋本國輝が伝授した本巻以外に見ず、いつ頃に成立し誰が著したものか定かでない

Web上には、(水戸)徳川宗敬氏寄贈の『風傳流鑓指南之巻』があり、これは19世紀のものとされる

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『曽我家文書』『風傳流格外之書』『風傳流教方之書』『風傳流元祖生涯之書』『風傳流鑓免許次第 全』
因陽隠士
令和七年八月二日記す

大聖寺藩の風傳流師範-3

六代 橋本國久 享保十年~文化二年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

橋本國久は、実は奥村家房の次男
長男の奥村嘉包より六歳下
先に触れた通り、奥村家房の妻が橋本郷右衛門の娘であったから、叔父さんの家を継いだことになる
橋本家の三代目当主

享保七年橋本家の養子となり、五人扶持・組外として召し出され
その後御帳横目、表御土蔵御目付を経て御馬廻組となり勤める
享和元年隠居、文化二年病没、享年八十一歳

七代 橋本郢興 明和四年~天保五年

橋本家の四代目当主
享和元年、橋本國久の隠居によって跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
天保四年病身になり隠居、翌年六十八歳にて病没

八代 橋本國輝 享和三年~

『風傳流指南之巻』筆者蔵

橋本家の五代目当主
天保四年、隠居した父郢興に代って跡式を相続、跡式二十八俵を下され御馬廻組に御番入り
安政元年江戸表へ御使、同四年摂州西宮御陣屋へ御固めに出張
また慶応元年京都へ御使、明治元年御供役、同二年東京へ御使と度々出張の御用を勤めた
東京から帰国すると御役を解かれて鎗術稽古示談相手を命じられた
(記録はこゝまで)

まとめ

1 奥村家幾 平士 御馬廻組 80石 御武具土蔵奉行
2 奥村家房 平士 御馬廻組 100石 御郡奉行
3 生駒氏以 平士 御馬廻組 170石 御馬廻頭
4 飯田良有 平士 御馬廻組 50石
5 奥村嘉包 平士 御馬廻組 100石 割場奉行
6 橋本國久 平士 御馬廻組 28俵
7 橋本郢興 平士 御馬廻組 28俵
8 橋本國輝 平士 御馬廻組 31俵

参考文献『大聖寺藩本山家文書』『大聖寺藩生駒家文書』『風傳流元祖生涯之書』『加賀市史料』『金沢市史』
因陽隠士
令和七年八月朔日記す

大聖寺藩の風傳流師範-2

初代 奥村家幾 正保二年~享保五年

大聖寺前田家における風傳流の祖、その立場は他流において御家祖などゝ称される

武術の分野では、不思議なほど奥村家幾について語られることはなく、ほゞ触れられることもない
おそらく語るべき逸話の類いがほとんど伝わっていないのだと思う
もしくはその逸話が発見されていない

奥村家幾の家は、父平左衛門のとき前田利治公に召し抱えられ、大聖寺前田家の家臣となった

奥村平左衛門の祖父は勢州長嶋合戦のとき討死、父は末森城主奥村助右衛門を頼り、末森城の戦いに参加するがその後召し抱えられることはなく、浪人のまゝ大聖寺に病死した

そして、奥村家幾
寛文二年御歩行児小姓に召し出され
父の隠居後は家督五十石を継ぎ御郡横目となる
次いで御貸銀米奉行・御用米・闕所銀・御郡除米残金奉行を兼任し
享保三年御武具土蔵奉行となる
二年後に体調を崩したものか隠居して、三ヶ月後に病没した
享年七十六歳

家格は父の代より上り、御歩行から御馬廻組に昇進
知行は五十石から八十石に加増された

二代 奥村家房 元禄五年~享保十三年

享保五年、父奥村家幾が隠居して家督を継ぐ
御帳横目、御郡横目、御郡奉行を勤め百石に加増されるも、享保十三年三十七歳という若さで病没

風傳流門下にとって、師範奥村家房の早世は誤算にて、その子が成長するまで高弟が師範代理を勤めることになったと考えられる

奥村家房の妻は、橋本郷右衛門の娘
橋本家は後々風傳流と深く関わる

三代 生駒氏以 元禄元年~延享四年

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

生駒氏以は、同藩家老生駒家の二代目生駒源五兵衛の弟
元禄十年、新知百五十石を下され前田利直公の御近習として取り立てられ新たに一家を立て
江戸において利直公の御近習として勤める
よほど殿様に気に入られていたものか、父源五兵衛の屋敷を拝領するも、過分といゝ返却し別の屋敷を拝領している
御近習の次に御使小姓となり、また御供役、御中小姓となるなど殿様に近侍した

宝永七年利直公が没すると、翌年利章公の御入部に御供して帰国し、御徒頭となる
その後、大御目付・御鉄炮土蔵裁許を兼任、組外頭へ経て御小姓頭となり
延享四年、隠居することなく六十歳にて病没

四十一歳のとき奥村家房が急逝したことで
享保十三年より延享四年まで指南したと見られる
なお、風傳流の師範を勤めた時期は、大聖寺において組外頭~御小姓頭のころか

上載の伝書の系図に「奥村家幾-生駒氏以」とあって「奥村家房」の名が無いのは、生駒氏以は奥村家幾に師事したのであって、家房に師事していないことによる
たゞ、風傳流の系図上は、後世の師弟関係を考慮して「奥村家幾-奥村家房-生駒氏以」と記される

四代 飯田良有 元禄十二年~宝暦十二年

『風傳流免許巻』筆者蔵

飯田良有は、享保五年家督を相続し五十石を下され御馬廻組に御番入り

宝暦十二年病に罹り隠居、二ヶ月後に病没、享年六十四歳

生駒氏以が隠居前に病死したことで、代りに風傳流の師範になったと見られる
この時点で奥村家房の子嘉包は二十九歳になっているから、師範になることも出来たように思えるが、なにか事情があったものか、飯田良有が師範になった

飯田良有が師範になったのは、察するに四十九歳のとき

五代 奥村嘉包 享保四年 ~寛政七年

享保十四年、十一歳のとき父が病没し急遽その跡を継ぎ、同十八年家督を相続する
それから二十二年後の宝暦元年、三河・駿河方面に出張し普請を勤め、帰国後は割場奉行となり、その間度々江戸詰を命じられた
寛政元年隠居、同七年病没、享年七十七歳

宝暦十二年病に罹った飯田良有の跡を受けて風傳流の師範になったと見られる
見られる、というのは師範を継いだ年が明らかでないため

前掲の画像「飯田良有-橋本国久」の系図のごとく、奥村嘉包を省く伝書もある
三代生駒氏以のときに二代奥村家房を系図に入れないのと同様か
奥村家房の長男と次男とで、風傳流の系が分れたと見られる
とはいえ、系図に入れたり入れなかったり、扱いに悩んだものか?

参考文献『加賀市史料』『大聖寺藩生駒家文書』『大聖寺藩本山家文書』
因陽隠士
令和七年七月三十一日記す

大聖寺藩の風傳流師範-1

はじめに

大聖寺藩の風傳流は、奥村家幾に始まるとされる
あまり詳しい話は伝わっていない
たゞ大聖寺系の風傳流の伝書を見れば、一目瞭然にてさして疑うべき点もなく、それで良いと思う

『内田氏工夫之一巻』筆者蔵

『武藝流派大事典』の風傳流系図に着目したい

中山源兵衛吉成-丹羽新兵衛重直-奥村助六家茂

この系図の特異な点は、「丹羽新兵衛重直」の名があること
普通に見られる系図は、およそ下記のごとく記され、その名は無い

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

『武藝流派大事典』の編集中、たまたま採用された伝書に記されていたと考えられるが、たしかめる術はない

さて、「丹羽新兵衛重直」
先日来、投稿してきた風傳流関係の記事でお気づきの方もいるだろう

大野藩時代に中山吉成が娶った妻は、丹羽彦左衛門の娘であり
中山吉成の三男弥左衛門は、丹羽彦左衛門の養子となって家督を継ぐ
そして、「丹羽新兵衛」となる
管見の限り、実名は「重應」と伝わっている
「重直」と名乗っていた時期があっても不審はない

この中山吉成の三男「丹羽新兵衛」は
「人品人なみなるに鑓術も濃州大垣にての修行にて免許の位に仕給て後猶巧者になりて」と伝えられている

そして、「丹羽新兵衛」が仕えていた越前大野藩と、大聖寺藩との地理的距離を見てほしい

「大聖寺藩」から南に下ると「越前福井藩」があり、そこから東の山間へ入れば「越前大野藩」に着く

奥村家幾が、「丹羽新兵衛」に風傳流を師事したとしても不自然ではない

なぜ、普通の系図に「丹羽新兵衛」の名が無いのか?
二つの可能性がある

1.元から「丹羽新兵衛」は間に存在しない
2.「丹羽新兵衛」に師事した後、中山吉成に直傳を承けた

このどちらか
私は、2の可能性は充分あると考えている

流派によって扱いは異なると思うが、風傳流はわりと中山吉成が積極的に指南する人物であり
他所から訪れる孫弟子に直接指南した様子を菅沼政辰が伝えている

自分の立場に置き換えてみると分るかもしれない
孫弟子だったら、流祖の直伝を受けたいと思うし、免許や印可を伝授されゝば、これに勝るものはない

つまり、奥村家幾は当初丹羽新兵衛に師事して免許以上を伝授されていた
後ほど、中山吉成に師事する機会を得られて、免許以上を追認されたとなれば
当然系図は下記の通り変更されるだろう

中山源兵衛吉成-奥村助六家幾

参考文献『日本武道大系』『風傳流元祖生涯之書』
因陽隠士
令和七年七月晦日記す

無住心劒奧義書卷

無住心劒奧義書卷 虎伯大宣筆 一卷 帋本墨書 35.4 × 1148.4 cm 江戶時代 寬文八年九月念三日 筆者藏

Chinese poem.
By 虎伯大宣 (1605 – 1673). Edo period, dated 寛文 8 (1668).
Hand scroll. Ink on paper. 35.4 × 1148.4 cm. Private collection.

針谷夕雲の多年の需めに應じて揮毫された一卷。特徴的筆致は、弘法大師空海に傾倒した様子を窺わせる。

● 虎伯大宣・・・東福寺二四〇世.駒込龍光寺の開山.
因陽隱士
令和五年十一月三日編