多宮流居合指南役 生沼素行伝

生沼素行(1787~1851)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家九代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役(在任期間:文政4年3月21日~嘉永4年7月18日)

源姓
通称 虎之助・新八郎・作左衛門
実名 曹傳(トモツク)
号 素行館・素行軒・素行

父曹照に多宮流居合を学び印可を相傳される
軍学に精通しており、数多くの文書が現存している
このほかの藝事については明らかでない

寛政10年(1798)12歳のとき御中小将組に召し出され弐人扶持方下され、当時わずか五歳の前田直時公の御附を命じられる
文化1年(1804)壱人扶持方御加増

文化9年(1812)前田直時公が家督を相続したとき、奥詰御近習御装束方を命じられ、三日後に給人列に上げられた
その後、御稽古所主附、同所御目附役、御馬方御取次役を勤め、文化13年・14年は江戸への御供を勤める

文政2年(1819)には前田直時公の御前において多宮流居合師範を命じられ、格別の趣を以て御刀を拝領する

文政4年(1821)35歳のとき父曹照の隠居によって家督を相続する
これまで前田直時公の御側によく仕えたことから拾石を加増され七十石を下された
同月21日父の跡役として経武館の居合師範を命じられる

文政5年(1822)奥御用人、文政6年(1823)御番頭へと進むも文政8年(1825)前田直時公の最晩年、役向に不相應の儀あり一旦役務を退けられる
同年(1825)前田直時公病歿の五日後に奥御用人に復職、文政11年(1828)御番頭に復帰
文政13年(1830)前田直時公の三回御忌御法事の支配を勤めた

天保7年(1836)前田直時公の弟主鈴が越中古國府勝奥寺に入寺する際の御用主付を命じられ度々これを勤める
天保11年(1840)御組頭・御組御取次役兼帯を命じられ、天保12年には白鳳院様七回御忌御法事の支配を勤める

嘉永4年(1851)前田直良公が江戸表に於いて卒去、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配を勤めた
同年歿す、65歳

前田土佐守家 七代直時公(万法院様)・八代直良公(本学院様)に仕え、都合五十四年の御奉公

生沼素行年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
天明7年 八代生沼善兵衛の子として生れる
寛政10年1月15日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ、万法院様[前田直時公]御部屋住の内御附仰せ付けらる 12歳
享和1年4月16日 角入候様仰せ付けらる
享和1年4月20日 前髪執候様仰せ付けられ、虎之助と申し候處、新八郎と相改め候様仰せ付けらる
文化1年4月20日 壱人扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人御扶持方下し置かる
文化4年4月25日 名作左衛門と相改め候様仰せ付けらる 21歳
文化9年(1812)12月 万法院様御家督御相續、御表へ御引移の上
文化9年12月25日 奥詰御近習御装束方相勤め候様仰せ付けらる
文化9年12月28日 給人列仰せ付けらる 26歳
文化10年2月5日 御稽古所主附仰せ付けらる
文化10年11月16日 同所御目附役仰せ付けらる
文化11年4月29日 御馬方御取次役仰せ付けらる
文化13年7月 芳春院様弐百回御忌御法事に付、万法院様御上京の節御往来御供仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為、江戸表へ御出府の節御往来御供仰せ付けらる
文政2年1月28日 万法院様御前に於いて居合御師範仰せ付けられ置き候付、格別の趣を以て御道具の内下し置かれ候旨、段々御書立を以て御刀拝領仰せ付けらる 33歳
文政2年6月5日 深き思召在らせられ候旨にて御稽古方主付御免仰せ付けらる、但御目附の儀は只今迄の通り相勤め候様仰せ付けらる
文政4年3月10日 父善兵衛儀隠居仰せ付けられ、善兵衛へ下し置かれ候御知行六拾石相違無く相續仰せ付けらる、其節御書立を以て万法院様御部屋住以来久々側近く召し仕えられ候處、不調法無く相勤め候付、拾石御加増仰せ付けられ都合七拾石下し置かる 35歳
文政4年3月21日 武学校に於いて父善兵衛代りとして居合師範仰せ付けらる
文政5年6月15日 奥御用人仰せ付けられ、勤方の儀は只今迄の通り奥詰の方相勤め申すべき旨仰せ渡さる
文政5年6月17日 居屋鋪の後御馬場の内地面百弐歩拝領仰せ付けらる
文政5年6月28日 失念の趣御座候付、自分指扣え罷り在り候處、翌29日其儀に及ばざる旨仰せ渡さる
文政6年11月3日 万法院様御前に於いて御番頭仰せ付けらる
文政8年6月20日 役向不相應の儀これ有り思召に相叶わず、役儀御指除き遠慮仰せ付けらる
文政8年8月12日 遠慮御免許、奥御用人仰せ付けらる
文政11年7月21日 御番頭帰役仰せ付けらる
文政12年8月28日 本学院様[前田直良公]御代 御番頭にて御用所仰せ付けらる
文政13年8月 万法院様三回御忌御法事支配仰せ付けらる
天保3年12月11日 御文庫御土蔵主付仰せ付けらる
天保7年 主鈴様御儀、越中古國府勝奥寺へ御入寺仰せを蒙り候付
天保7年12月29日 右御用主付仰せ付けらる
天保8年2月22日 御當地御發足、其節御見送りの為勝奥寺へ罷り越す
天保8年3月1日 罷り帰り候處、本学院様御前に於いて御目録を以て金弐百疋下し置かる
天保8年3月29日 重ねて御用これ有り勝奥寺へ御使仰せ付けらる
天保8年4月6日 罷り帰り申し候
天保11年1月18日 重ねて勝奥寺へ御使御用仰せ付けられ發足仕り
天保11年2月13日 罷り帰り申し候
天保11年9月1日 本学院様御組頭仰せ付けを蒙られ候付、同日御組御取次役兼帯仰せ付けらる
天保12年4月25日 白鳳院様七回御忌御法事支配仰せ付けらる
嘉永1年5月 清寥院様御幟御用主付仰せ付けられ、右御用相勤め候付、御目録を以て金子下し置かる
嘉永4年4月 本学院様江戸表に於いて御卒去に付、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配仰せ付けらる
嘉永4年7月18日 病死仕り候 65歳

井口新左衛門改易

『願書』筆者蔵

井口如毛の後裔、井口新左衛門は主家である深見兵庫より改易を申し付けられ、多宮流居合差引方の任から外れることになりました
このことを学校方へ申請した際の文書です

多宮流居合相傳之次第

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

多宮流居合が相伝する伝書五巻をまとめた冊子
また、伝授における決り事など若干の説明が附されています

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵
『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

1810. 多宮流居合秘歌私解 文化7年12月

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

生沼素行の著書、免状に付された秘歌を解説した一冊

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵
『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

1821. 経武舘居合師範役拝命 文政4年3月21日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

父生沼曹照が経武館出座を命じられてより一年未満で病のため隠退
忰生沼素行が代って師範役となり、その跡を継ぎました

1821. 多宮流居合極意 文政4年8月

『多宮流居合極意』筆者蔵

生沼素行の著書、問答形式で多宮流居合の大要を語った一冊

『多宮流居合極意』筆者蔵
『多宮流居合極意』筆者蔵

1825. 多宮流居合極意之解 文政8年3月

『多宮流居合極意之解』筆者蔵

『多宮流居合相傳之次第』の巻末に触れられていた一冊
主に「外物」についての解説
既に伝書五巻を相伝された者が写すことを許されます

『多宮流居合極意之解』筆者蔵
『多宮流居合極意之解』筆者蔵

1831. 多宮流居合の門弟騒動 天保2年

『故河地右仲多宮流居合跡稽古之儀に付』筆者蔵
『生沼素行書簡』筆者蔵

八代生沼曹照に免許皆伝を許され、同流の指引人を勤めていた河地右仲が急逝したことによって、その門弟たちが起こした一連の騒動について、数点の文書が残されています
この騒動について簡単にまとめると

1.河地右仲は、未だ門弟に免許皆伝を許しておらず、後継者がいないまゝ急逝したことによってその門弟たちは新たな師範を求めた
2.残された主だった門弟たちは、河地右仲の師である八代生沼曹照を師範にしたいと働きかける
3.しかし、八代生沼曹照は既に隠居しており、子息の九代生沼素行にその座を譲ったとして、申し出を断わり、生沼素行の弟子になるよう勧めた
4.ところが、故河地右仲の門弟たちは納得しない、どうしても生沼曹照に師事したいと、隠居の身分であっても師範は可能という故例を引いて説得に努めた
5.両者の主張は平行線を辿り、議論は紛糾した

同流の近しい門弟たちが、なぜこゝまで生沼曹照師範にこだわったのか
彼ら故河地右仲の門弟たちの主張は、子息である生沼素行の教授方針をどうしても受け入れられなかったのです
結果、生沼曹照以外の選択肢は無いということでした

河地右仲、生沼素行、両人とも生沼曹照の直弟子であるにも関わらず、教授方針がそこまで違うものかと思われるでしょう
どうも生沼素行という人物は、流儀の研鑽に非常な熱意をもっており、その研究心から稽古方法が従来のものと異なってきたのではないかと思われます

『山田武左衛門・岡部屯書簡』筆者蔵
『断簡』筆者蔵

1832. 養子願書 天保3年5月8日

『養子願書』筆者蔵

後の十代生沼曹貫を養子に迎えるときの願書
生沼曹貫は当時十七歳
願書には、多宮流居合を稽古させ、いずれ師範を相続する旨も記されています

学校御横目觸書

『学校御横目觸書』筆者蔵

経武館出座の師範役は、門弟を管理する責任があり、門弟たちの役職の変更や家督の相続、養子や縁組といったことまで事細かく届け出する必要がありました
しかし、あまりにも届け出が煩雑で届け出漏れがあったゝめ、学校御横目からしっかりと届け出るように触れたときの文書です

いわゆる「不届者(ふとゞけもの)」とお叱りの言葉が聞えそうです

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.9

多宮流居合指南役 生沼曹照伝

生沼曹照(1764~1830)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家八代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役

通称 與三兵衛・与三兵衛・善兵衛
実名 曹孝(トモノリ)・曹照(トモテル)
実は中嶋武兵衛の二男
実兄は中嶋七次

篠原尚賢に多宮流居合を学び印可を相傳される
そのほかの藝事については明らかでありません

天明3年(1783)加賀八家の筆頭たる前田土佐守家来生沼浅之進(当時、御目附役)の養子となり、天明5年(1785年)御中小将組に召し出され、御料理之間詰、御式臺御中小将番、御角番を勤めた

寛政6年(1794)養父浅之進(当時、御臺所奉行)の病死によってその遺知を相続、同年御時宜役となる

文化10年(1813)御目附役を命じられ、翌年には頭並となり御用所勤め、御武具方・宗門方を兼帯。文化13年(1815)足軽頭に進む

文化14年(1817)には殿様の江戸御供を無事に勤め、同年名を善兵衛と改めるよう命じられた

文政3年(1820)藩の武学校「経武館」の居合師範役を命じられ、定日に出座することゝなる
これは前年に嫡子の曹傳が殿様の居合御師範を命じられたことが背景にあると思われる

翌年、家中の定によるものか隠居を命じられ弐人扶持を下された
文政13年(1830)歿、67歳
前田土佐守家 六代直方公・七代直時公に仕え、都合三十七年の御奉公

生沼家の系譜(初代~七代)

『生沼家由緒帳』筆者蔵

初代 一木善左衛門
微妙院様御代、御当地に罷り越し願い奉り候ところ、御元祖本多安房守様へ御招き堪忍分として新知二百石を下される
寛永13年12月14日歿

二代 生沼十兵衛
長安寺様御代、寛永15年召し出され新知百五十石を下される
苗字を”生沼”に改める(その子細は伝えられず)
寛文1年12月5日歿

三代 生沼善兵衛
長安寺様御代、父十兵衛跡目として召し出され百石を下され、小松御城中御作事御用
佛心院様御代、御普請会所下奉行
元禄6年12月2日歿

四代 生沼善兵衛
御中小将組(御近習)-遺知百石御式臺御取次番-大御目附役(御算用所詰)-御普請会所下奉行-大銀支配・御借用銀方・御倹約之節御作事方(頭並)-御臺所奉行-御組御取次役・大銀支配・御借用銀方・宗門御用-足軽頭
正徳6年5月8日歿

五代 生沼善兵衛保久
中川式部様御家来野崎弥兵衛二男
元禄9年(1696)生-寛延3年(1750)3月15日歿、55歳
末期聟養子、跡目として召し出され遺知百石を相続
御式臺御取次番-足軽頭-御組御取次役・御用人-御歩頭-御組御取次役-御小将頭-中症煩いにつき改役のほか免許、保養-隠居
寛延3年3月15日歿

六代 生沼十兵衛
五代善兵衛の嫡子
御中小将組(御次詰)-御式臺番-御次詰-御前御納戸御奉行・御目附御倹約方御用-御知行百石相続-御前御普請請会所下奉行役-不調法の趣御座候につき逼塞-逼塞免許、御式臺番-不調法の趣御座候而、御知行御取上げ、八人扶持下され逼塞-逼塞免許、御中小将組(御式臺御中小将番)-江戸御供-御簾番-御国目附(御用津幡への御供)-御供方御目附
宝暦8年11月歿

七代 生沼小右衛門-浅之進曹久(トモヒサ)
五代善兵衛の三男
享保19年(1734)生-寛政6年(1794)5月4日歿、61歳
御歩頭-詠帰院様(三左衛門様)御幼年につき御附-御小将組-御中式臺番-御先供役-御角番-御中小将組-遺知百石の内五拾石下される、残知は勤方次第-御時宜役-御目附役-御叙爵御供-御引足知拾石下される-御式臺番-御臺所奉行
寛政6年5月4日歿

1783. 聟養子願い 天明3年7月28日

『聟養子願書』筆者蔵

七代生沼曹久のとき、男子の跡継ぎがいないため、中嶋家から聟養子をとりたいと主家に許可を願いました
その聟養子が後の八代生沼曹照です

文中に「養娘」とありますので、実質的には家名を存続させるための処置だったようです

1787. 養父加増の沙汰 天明7年9月3日

『加増切紙』筆者蔵

生沼曹照の養父曹久が加増されたときの切紙

陪臣の身分

陪臣とは又家来・又者などゝとも呼称され、家来の家来を意味します
生沼曹照は加賀八家の筆頭前田土佐守の家来でありましたから、その身分は藩士(直臣)の下に位置しました

加賀藩の場合、千石以下は若党(士分)・小者(草履取など)を数人召し抱え、千石以上は給人(騎士)・中小将・小将・徒組・足軽・小者を召し抱え
四,五千石以上となればその上に家老や用人が置かれます
その中において、生沼善兵衛は中小将にはじまり、給人(騎士)へと出世したことから、上級の家臣と云って良いでしょう

殿様
────
家老
────
用人
────
給人  ↑騎士 ↑
────    │生沼曹照の身分
中小将     │
────
小将  ↑士分
────
徒組  ↓士分以下
────
足軽
────
小者

さて、これら陪臣の身分は小将以上が士分であり、小将・中小将は名跡を相続できました
その上の給人は与力並の扱いを受け、名跡と家禄を相続できる譜代の臣が多かったと云います

生沼曹照の主人前田土佐守家の場合、石高は一万一千石、大名クラスだったので、家臣も多く召し抱えていました
前田土佐守家の家臣構成は不明なので、目安としてちょうど二倍の石高をもつ本多家の家臣団(正保-元禄)を二分の一にすると、給人70人・中小将16人・徒組20人・醫師など47人・足軽75人ほどかと思われます

生沼曹照年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
明和1年 中嶋武兵衛の二男として生る
天明3年7月 生沼浅之進養娘へ聟養子願い奉り候處、願いの通り仰せ出ださる 20歳
天明5年9月1日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ御料理之間詰仰せ付けらる
天明5年10月 御式臺御中小将番仰せ付けらる
天明6年 篠原権五郎尚賢より印可相伝 23歳
天明6年5月19日 御角番仰せ付けらる
寛政3年12月21日 壱人御扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人扶持方下し置かる
寛政6年7月11日 養父浅之進遺知[六十石]相違無く相續仰せ付けらる 31歳
寛政6年9月27日 御時宜役仰せ付けらる
文化10年7月14日 御目附役仰せ付けらる 50歳
文化11年3月24日 頭並仰せ付けられ御用所相勤め候様仰せ付けられ、御武具方・宗門方兼帯相勤め候様仰せ付けらる
文化13年閏8月17日 足軽頭仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為江戸表へ御出府の節、江戸表貸小屋請取り并びに御宿見分を為す
文化14年3月19日 發足仰せ付けられ御帰りの節、御供御先祓い御宿相勤め候様仰せ付けらる
文化14年6月19日 名與三兵衛と申し候處、改名仕り候様仰せ付けられ善兵衛と相改め申し候
文政3年8月8日 武学校に於ける多宮流居合師範方仰せ付けらる 57歳
文政3年10月23日 御歩頭仰せ付けらる
文政4年3月10日 御番定を以て善兵衛儀極老と申すにてはこれ無く候得共、是迄数役相勤め御師範も申し上げ候に付き隠居仰せ付けられ、弐人扶持方下し置かる 58歳
文政13年7月5日 病死仕り候 67歳

多宮流居合の系譜

『多宮流居會傳来覺書』筆者蔵

生沼家十代曹貫に至るまでの多宮流居合の系譜

1705. 多宮流居合傳書 宝永2年12月

『多宮流居合目録』筆者蔵

河井重寛より小川嶢智に相伝された目録
後に小川嶢智の子息と思しき人物に相伝されました

この目録が生沼家の所蔵に帰した経緯は二通り考えられます
1.篠原尚賢より印可を伝授されたとき、この目録も引き継がれた
2.生沼家が多宮流師範となった後、小川家より返還された、これは被伝授者が他界した後は師筋に返還するか火中に投じる規定により

 
 
『多宮流居合目録』筆者蔵

宮北定由書簡:恐るゝ 流儀はこれ無く候

『宮北定由書簡:十月三日付』筆者蔵

差出人の宮北定由、受取人の小川嶢智、共に河井重寛に多宮流居合を学んだ同門の士であり、同流における師範の立場でした

なお、宮北定由は越前福井藩士、高弐百五十石、江戸留守居役
小川嶢智は元越前松岡藩士、食禄百石、後ち浪人して加賀の弓箆町に住し三術を教授した、「無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称される

書中「他流も見及申候へ共深ましき事も相見へ不申候恐るゝ流儀は無之候」と高言し、つゞけて自身の工夫を教え、これは弟子たちへは極密にし、子息へ傳授する扱いであることを教えています
このことから、宮北定由は兄弟子にあたるらしい

江戸時代の武藝というのは閉鎖的印象をもたれがちですが、師範同士、昵懇の者へは書簡を以て秘密を教えることが珍しくありませんでした
また、そういった例は、お互いの主家が異なる場合、より親切に対応したように思います

また書中において、「御當地へ若御出被成候ても御面談の義は少々遠慮にも御座候間御用捨可被下候」と云い、小川嶢智の訪問を断っています
推察するに、他家の者との面倒事は御免ということかと
他家の者が来れば、主家への届けもして宿の手配も必要となる
加えて初対面の者が好ましい人物とも限らず、何らかのトラブルが生じれば、主家から責められる
斯ういったときは、あらかじめ断るのが妥当であったと考えられます

たとえば、熊本藩の三藝師役星野實員が、防州岩国の片山流師家を訪問しようとしたとき一旦断られています
あるいは、仙臺藩の五藝師範石川光實が、他家の剱術修行者を独断で泊めた後にトラブルを起し、主家より罰せられています
この場合、たとえ藩へ届けていたとしても、周旋した石川光實は何らかの罰を受ける可能性があり、他家の人物を引き受ける危険性を示しています

 

宮北定由書簡:伝書の存在

『宮北定由書簡:八月廿一日付』筆者蔵

特筆すべきは、書中「印可并高上極意の免状」について言及していることです

小川嶢智は、自身が伝授された伝書の奥書に示される「印可并高上極意の免状」の存在について不審に感じ、宮北定由にその存在の有無を問います
問われた宮北定由は、他の門弟や土屋市兵衛の子などにも確認して「印可并高上極意」が実質的には存在しないことを明らかにしました
「惣て高上極意印可状定て傳受せしむべし、とこれ有るは書物柄の文躰とて外に傳授の義はこれ無く候」と

このような実情は、伝書の奥書を全く鵜呑みにすることの危うさを端的に表わしており、また当時の門弟たちの認識や情報の共有を示す事例として参考になります

愚考するに、当初は「高上極意印可状」が存在したのかもしれません、いや代々が継承してきた奥書の記述に随えばたしかに存在していた筈です
しかし、いつの頃か傳落・途絶してしまったものと考えられます

1760. 小川則衡墓碑銘 宝暦10年

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

小川則衡に三藝を学んだ松井盛庸の撰文による墓碑銘
これによれば、小川則衡は延寳二甲寅之年(1674)生れる
父は松岡の中書侯(松平中務大輔昌勝)に仕え、食禄百五十石
家督は兄又左衛門が継ぐ

小川則衡は「性剛健篤實學びて倦まず、無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称され、また「小池氏に四傳之業を請て抜きんでたり」と礼法にも秀でた才を見せ、新恩百石をもって松岡氏に召し抱えられ、師範を勤めた
しかし、故有って僻邑に逃れ、享保十一年国を去る
後に金沢城下の弓箆町に廬を結び、凡そ二十三年、三藝を若干の弟子に授けた
寛延元戊辰年(1748)仲冬十六日に卒す

なお名乗りについて
通称は猪右衛門、金左衛門、弥左衛門と改め
実名は嶢智から則衡に改めたと見られます

後を継いだ小川則衡の息子は、子弟を育てること四年にして早世したという

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

虫食いのためささらのようになっています

無邊流鑓術

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵

村田正利より小川嶢智へ、そして松井盛庸から高田兵右衛門へ伝授された無邊流鑓術の伝書を控えた冊子
九代生沼曹傳のとき写されました

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵
『槍術秘伝書』筆者蔵

松井盛庸のころに作成されたと思しき無邊流鑓術の秘伝書
早田武節という人物が記したもので、どのような経緯があったものか生沼家の所蔵に帰す

1786. 多宮流居合印可口傳目録 天明6年

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

篠原尚賢より生沼曹照に伝授された『多宮流居合印可口傳目録』
本来、このほかにいくつかの伝書を所蔵していた筈ですが、散逸してしまったと思われます

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

~1817. 多宮流居合定書 文化14年以前

『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵
『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵

生沼善兵衛曹照が改名を命じられる以前、與三兵衛と称していたころに作成した定書
これによって前田土佐守家における多宮流居合の稽古日が明らかとなります

縁組願い

『縁組願書』筆者蔵

九代生沼曹傳縁組の願書

1817. 家督相続願い 文化14年3月

『跡式相続願書』筆者蔵

養子生沼曹傳に家督を譲りたいと当局に差し出された願書

願書を差し出した生沼曹照は、自身がいつ急死するか分らない、遺書も用意したと記しているので、なにか健康上の不安があったのかもしれません
結局、このときの願いは許可されず、文政四年に隠居します

1820. 加賀藩武学校「経武館」出座 文政3年

『経武館出座切紙写』筆者蔵

文政三年八月八日、生沼曹照五十七歳にして経武館出座の居合師範役に任じられました
この切紙は、主家である前田近江守宛に出されたもので、その写が生沼曹照に渡されました

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

『学校向達方等一巻留』は、経武館に出座し多宮流居合師範役を勤めた生沼家三代にわたる記録

八代生沼曹照が経武館出座を命じられた文政三年八月八日はじまり、経武館が廃館される慶応四年五月十七日至るまでの四十九年間、学校からの通達や頭衆・御用所・御横目所等との連絡、生沼家が仕えた前田土佐守家との連絡などが書き留められています

『門弟届出書雛形』筆者蔵

1820. 多宮流居合稽古道具新調 文政3年8月12日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

この日、稽古道具について、武学校に在るものでそのまゝ利用できるものを見分し、無いものは細工人へ相談、その寸法図を学校へ提出するよう告げられました

1820. 経武館定日初出座 文政3年8月26日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

初めて経武館に出座した生沼善兵衛の多宮流一門は六十一人を数えました

生沼曹照が経武館出座に抜擢されたのは、家中において多くの門弟を指南していたからでした
「武術に練達して門弟に教ふる者にても、其門弟極めて少数なれば、経武館の師範たることを得ざりしもの」と云い、経武舘の師範は武藝の練達のみで撰抜されず、門弟の人数が少ないため出座の撰に漏れた師範も多くいました

1821. 経武館居合師範隠退 文政4年

『経武館師範方指省願』筆者蔵

生沼曹照の居合師範役隠退願い
経武館出座居合師範となった翌年、病によって早々にその任を辞すことになります
師範役は、その後忰生沼曹傳に引き継がれました

1825. 跋多宮流居會勝口勝負傳来之書 文政8年

『跋多宮流居會勝口勝負傳来之書』筆者蔵

九代生沼曹傳の著書『多宮流居會勝口勝負傳来之書』に寄せられた跋文
撰文は井口如毛の曾孫にあたる井口當和です

基本的に『多宮流居會勝口勝負傳来之書』を讃える内容であり
筆者である生沼素行を中興の祖と称しています

また、文中において井口家の事情についても語られており
1.井口如毛の子當艾は多病によってその伝を継げなかった
2.井口如毛の孫は、生沼曹照に学び免状を相伝された
3.井口如毛の曾孫にあたる井口當和もまた生沼曹照父子に学んだ
ことなどが記されています

1830. 家督相続御礼 文政13年

『礼状案』筆者蔵

生沼曹照が病に伏していたとき、忰曹傳の家督相続を感謝した礼状
もはや花押を書くことすら儘ならない病態だった様子で、この一週間後に他界します

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.7

無邊無極流の稽古

千本入身(享和三年)

入身稽古とは、素鎗に対して長刀・十文字・鍵鎗・太刀などを以て入身を行い、鎗に突き止められず勝てるか否かという稽古です
千本入身とはその名の通り、入身稽古を千本行うことを指しています

あまり詳しくありませんが、入身側は長刀を使う場合が多かったように思います

『入身千本幟』筆者蔵
『入身千本幟』筆者蔵

三俣家の旧蔵文書にこの『入身千本幟』が残されていました
紙製の幟で、おそらく千本入身当日に目立つところへ掲げられたものと思われます
そう考えると、なかなかの一大行事だったのではないかと...
記念にとっておいたのでしょう

『三俣義行日記:享和三年三月十七日部分』筆者蔵

その日の様子は、日記にも録されています
千本入身は好古堂において行われており、参加する門人たち九十一人には、三俣家から弁当が提供されました

因みに、この千本入身を行った当事者「冨之進」というのは、三俣家の五代目当主義武のことで、前回「無邊無極流の印可伝授」の「印可伝授の儀式」に参加した人物です

入身稽古(文政十年)

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

これは日々の入身稽古数を記録した冊子です
所有者は、先ほど千本入身で登場した「冨之進」の息子義陳ですね
確認できる範囲でいえば、義陳の曽祖父のときから無邊無極流の門下ですから、三俣一族は必ず同流に入門するようです

三俣義陳は、当時二十一歳

『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵
『鎗術入身稽古數扣』筆者蔵

上の画像は稽古数を表にしたものです
私の解釈が間違っていなければ、三俣義陳が入身で勝った割合の方が多いです
使用した武器は、たぶんに長刀

なお、特別に冊子として記録された理由は、翌年の千本入身を控えてのことゝ思われます

千本入身(文政十一年)

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

父親と同様に千本入身を行った三俣義陳、当時二十二歳
家督を継ぐ以前のことであり、様々な武術を修め、学問にも励んでいました

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

前半に出席者の名前と本数が記録されています
酒井家の重職の名があり、参加人数も多く、無邊無極流は酒井家で盛況だった様子が窺えます

なお、この年殿様は江戸に在府で国許にはいなかったので、国詰の門弟たちは総出だったかもしれません

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

三俣義陳は入身長刀です
入身勝なら白丸なので、大半は入身長刀の勝利だったようです

『無邊流鎗術千入身出席名前并勝負附』筆者蔵

巻末に通算されていて、入身1015本中、入身勝は723本、突身勝は292本という結果
突身側は入れ代わり立ち代わりで体力を温存できるのに対して、入身側の三俣義陳は一人で1015本立ち合ったわけですから、相当な力量だったと思われます

とはいえ、家中の者同士の稽古ゆえに、真剣に突身側が勝ちに拘ったのかどうか、一大行事ゆえに少しは三俣氏に華を持たせようという配慮があったのかもしれないと、想像したりもします
しかし、前年の『鎗術入身稽古數扣』もあるように、熱心に稽古に励んでいた様子も分るため、このような想像自体が失礼にあたりそうです

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

三俣義陳の父義武の日記に、千本入身のことが録されています

それによると、千本入身の前日に師家や手傳、世話役のところへ挨拶に行っています

『三俣義武日記:文政十一年二月部分』筆者蔵

千本入身終了後は、関係各所へ挨拶廻り
帰宅後は、師家や世話役などを酒肴で労い
翌日、再び関係各所へ御礼廻り

この辺りの流れは、平常運転といった様子

おわりに

当時の鎗術の稽古がいかなるものだったのか、その実態について私は詳しく知りません

たゞこの千本入身といった稽古を見ていると、どうも入身長刀の方を重視しているようで、いかに素鑓を攻略するかという執念を感じます

なぜ突身側の稽古記録が無いのか、なぜ千本突身ではないのか、といった疑問が浮かびます

もちろん、突身の稽古もしていたのは間違いないでしょう、無邊無極流は素鑓の流儀ですから
それなのにどうして入身側の勝利で飾る行事が行われるのか、ちょっと不思議ですね

同じく素鑓の流派である風傳流でも、流祖が入身長刀を披露していましたし、相当習熟していた様子が伝えられています

基本的に素鑓よりも長刀の方が有利であり、強いという前提があるような気がします
しかし、江戸時代の武士の慣習で、鑓という武器を用いることが重要ですし、どうしても鑓を使わなければならないという制約から素鑓の技を磨く流派が広く行われるようになったのかなと想像します

因陽隠士記す
2025.9/6

無邊無極流の印可伝授

今回は、酒井雅楽頭家(姬路藩)における無邊無極流の印可伝授について書きます
なお、同家において無邊無極流は殿様も修行するため「御流義」という位置づけでした
記録には、単に「無邊流」と記されることもあります

こゝでは酒井雅楽頭家の家臣三俣氏の古文書を取り上げ、無邊無極流の印可伝授の様子を見ます

印可起請文

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

印可伝授に際して、師家である山本家に起請文を提出します

起請文は遵守すへき箇條文言を云い、神文に前置します
故に、この文言を神文前書とも云います
本則は牛王を用い、このような白紙の者は白紙誓詞と云って午王の本誓詞に対して略式なるが故に仮誓詞とも云いました
略式とは雖も時代が降って一般にこれを用ひるようになったと見られます

内容は下記の通り

『就無邊無極流印可御相傳起請文』筆者蔵

天明二年、三俣義行は二十九歳、酒井忠以公の家臣、未だ家督を継いでおらず、御用人並格・奉行添役を勤めていました
家中においては、金原宗豐に師事しており、江戸に在府の機会があれば山本氏に直接指導を受けたものと見られます
基本的に伝書の伝授は、山本家に依頼します

宛名の山本久忠は四十一歳、将軍家の御旗本であり無邊無極流の鎗術師範

印可伝授の手配

『金原宗豊書簡案』筆者蔵
『金原宗豊書簡案』筆者蔵

姫路にいる家臣たちは、江戸で直接山本氏に伝授を受けるわけにはいかないので、印可の巻物を送ってもらいます
上に掲げた書簡案は、その山本氏に印可巻物の手配を依頼したときの下書です

無邊無極流の伝書作成」にあるように、無邊無極流の伝授を受ける家臣たちは、それぞれ印可伝書を作成し、前の起請文を添えて江戸の山本氏へ送りました

受け取った山本氏は、それぞれの巻物に名前と判形を書き込み、送り返します

この伝授形態は、一般に行われるものとは少々異なると思われます

御礼

『三俣義行書簡案』筆者蔵
『三俣義行書簡案』筆者蔵

印可巻物を送られたことに対し、山本久忠に御礼状を認めます

先ほどの『金原宗豊書簡案』といゝ、この『三俣義行書簡案』といゝ、宛名の書き方に注目すると、山本氏の方が身分制度上の立場は下の扱いだったようです
『金原宗豊書簡案』では、「山 嘉兵衛様」と苗字を略されており、『三俣義行書簡案』では、「嘉兵衛様」と苗字さえ省略しています

印可伝授の儀式

酒井家の御流義たる無邊無極流の伝授は、一般の伝授と異なり、姫路の国許では藩主自ら伝授の儀式を行います

印可の伝授を受けた三俣義武がそのときの様子を日記に記録しています
惜しむらくは、虫食いによる欠損が著しく、読めないところがあることです

印可伝授の一ヶ月ほど前のこと
(文政三年十一月八日)
「無邊流鎗術印可御傳授被仰付」<日記>

三俣義武は、無邊無極流印可傳授の内意を承けました
そして、印可伝授の儀式に臨む前日、十二月四日藝事奉行より手紙をもって稽古場へ呼び出されます
おそらくこのとき儀式の予行演習があったものと思われます

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

(文政三年十二月五日)
「一東御屋鋪へ五つ時ゟ熨斗目着用の者着用其外服紗小袖にて罷出る」<日記>

東屋敷は藩主が日常の住居としていた下屋敷のこと
印可の伝授を受ける家臣たちは、殿様の住む東屋敷へ集合します

『姫路城史』

「一御稽古場にて左の通り二席に仰せ渡し之れ有り」<日記>

印可伝授の儀式を図解で説明していますが、細字に虫食いと判読が難しいです
「二席」というのは、「印可」の伝授と、「目付」の伝授です

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

図中「御」の一字は殿様を表していて、「印可傳授差免(さしゆるす)と御意」と家臣にかけられた言葉が記されています
因みに、このときの殿様は祇徳君(酒井忠實君、四十二歳)

殿様の右下に藝事奉行が控えていて、「藝事奉行御取合」とあり、この儀式の進行役を勤めたものと思われます

「三」「内」「金」「原」と下に書かれているのが伝授を受ける家臣たち、苗字の一字目で表しています
後で名前が出てきます、「三俣」「内藤」「金原」「原田」の四名

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

一旦、席を改めて、次は「目付」の伝授の面々へ「目付傳授差免(さしゆるす)との御意有之」と再び伝授を許すとの言葉がありました

印可の伝授の日と同じく、目付の伝授の儀式も併せて行われていました
「目付」は、印可の前段階にあり、目録一巻が伝授されます

「御」殿様の左傍に「高須七郎大夫」が控えています
後の図解にも登場しており、なんらかの重要な立場だったようです

下の方に「小」「本」「天」「三」と四人の家来が控えています
こゝの四名は「小野田」「本城」「天野」「三浦」

再び「藝事奉行御取合」として説明がされていますが、この部分は虫食いのため判読できず
断片的に拾うと、「始に先生二本遣」「勇之進二本遣ふ」「先生二本遣ふ」「御前へ拜礼し引込む」「先生直に引込む」云々と、何かしら無邊無極流の型の伝授が行われた様子が記されています

「一右目印御傳授遣ひ終て御装束之御間へ入らせらる、印可面々罷出て□□□拜礼、尤も進み出て神酒頂戴、一座に血判、先生手次之巻讀む、其□□□□□□服紗に包み□□□開き聞せ引込む、右装束之御間圖左の通り、尤も解□」<日記>

「手次之巻」というのは、印可五巻の内の一巻目、これを「先生」が読み聞かせるなど一連の儀式が記されています

こゝでもう一度図解へ

『三俣義武日記:文政三年十二月部分』筆者蔵

「御」とあるのは殿様、その向いに「御床御餝」があって、殿様の隣にいる「先生」のところへ「進出拜礼」の文字、その向いに「高須七郎大夫」
そして「門人」たち四人が並んでいます

「右印可面々、自分・内藤千太郎・金□[原]□左衛門・原田仲吉、右圖の通り、并に答へ拜礼神□□□、先生三方持参、面々頂戴、右圖の通り一座一度に神文血判、針、神文猿[懐か]中持参、夫□手次之巻先生読み聞せる、手次の巻猿[懐か]中より出□□□□□□開き聞せ候、直に引込む」<日記>

こゝで印可誓紙に血判して差し出したようです
そして、先生が印可の一巻目「手次之巻」を読み聞かせ退出

以上の儀式を終えると、稽古場へ移動します

「右畢て御稽古場へ御入らせ目印の通り先生弐本遣ひ見せ、門人遣ひ、又先生二本遣ひ見せ、門人遣ひ、三度にも四邊に遣ひ仕廻ひ、御前へ拜礼引込む、二人目より先生遣ひ見せす、先生遣ひ候内目印の通り」<日記>

先生が遣って見せ、それを門人が模倣、これを繰り返す

「一相済み御側御用人へ御役所へ御礼に罷出て候、藝事奉行役所へ断り」<日記>
「一鈴木□兵衛、高須七郎大夫、天野小平太、森文七郎、麻上下にて出席」<日記>
「一右の面々へ礼に罷越し候」<日記>

一連の儀式を終えると、三俣氏は関係各所へ御礼廻りに出掛けます

「一御頭并に印可面々、追々吹聴に罷越し候」<日記>
「一先生へ右四人より鰭節壱匹・酒礼十五枚遣はし候」<日記>

印可を伝授された、と家中の者たちへ知らせ、先生には御礼として「鰭節壱匹・酒礼十五枚」が贈られました

(文政三年十二月七日)
「一御屋敷御稽古に罷出て候処、先日の印可の節御餝りの餅頂戴」<日記>

一ヶ月後、儀式のとき飾られていた「御床御餝」の「餅」を頂戴
これで印可傳授の一連の出来事が終りました

『無邊無極流伝書』筆者蔵

おわりに

印可伝授の儀式について、日記の細字部分が虫食いで読めないというのは、とても残念でした
こういった出来事は文字にして記録されることが珍しいので、せっかくの好例だったのですが...

一連の流れをまとめると
1.印可伝授の沙汰(内定)
2.雛形を使って印可巻物を作成する
3.印可神文を作成する
3.御旗本山本家に印可巻物と神文を送付する
4.返送された印可巻物の御礼状を送る
5.印可伝授の儀式★
6.関係各所へ御礼廻り
7.家中の者たちへ印可伝授の件を吹聴する
およそこのような流れだったと思います

酒井家中の師範に師事して、認められゝば山本家から伝授されるという形態は、なんとなく、運転免許の取得に似ているかもしれません

因陽隠士記す
2025.9/4

姫路藩不易流炮術の門弟-2

『起請文』筆者蔵

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。

因陽隠士記す
2017.3.18

無邊無極流の伝書作成

伝書の作成について、詳しく知っている人は少ないでしょう
それは史料が少ないことや、関心をもつ人が少ないことによると思います
私は昔から伝書の作成に関心があり、僅かな情報でも得られるように努めてきました

『無邊流印可下書』筆者蔵

伝書作成に直接関係する史料があります
『無邊流印可下書』と題された包紙に収納されていて、同流の印可伝書の見本や図法師を書くための型紙などが一式揃っています

『無邊流印可下書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵

図法師を書くための型紙には使用の痕跡が認められます
竹串のようなものは鑓などの武器を書くために用いたと思われます

『無邊流印可下書』筆者蔵

無邊無極流の印可は、『手次』『鎗合』『十文字合』『太刀合』『長刀合』の五巻をもって一揃いとします

『無邊流印可下書』にはこれら各巻の雛形があります

『無邊無極流伝書』筆者蔵
『無邊流印可下書』筆者蔵
「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」などの指示
『無邊流印可下書』筆者蔵

『無邊流印可下書』は、そもそも酒井雅楽頭家の家臣三俣氏が所蔵したものです

三俣氏は無邊無極流の師範ではありませんが、このような『無邊流印可下書』を所持していました
それはなぜか?
酒井家においては、印可のとき巻物を自前で用意すると決められていました
おそらく、師範家に負担をかけないよう配慮したものと思われます
というのも、酒井家における同流の伝授形態はちょっと特殊なもので、無邊無極流の宗家ともいうべき幕府旗本の山本家に伝授を依頼していたからです

つまり、印可の段階に至れば、家臣たちは各々が巻物を用意して神文を提出し、山本家に実名・判形を求めたのです

印可伝書は、下書の通りに作成され、実名・判形のところを空白にしておいて、江戸に送られました
そして、後日公式の場でそれぞれの家臣に伝授されます

因陽隠士記す
2025.9/2

姫路藩不易流炮術の門弟-1

門弟(一)

前橋藩~姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術*1。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

『起請文』筆者蔵

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。
下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政嘕、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。
これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

『家臣録』姫路市立城郭研究室

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

前田十左衛門 百七十石 五代目師役
下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
神戸四方之助
本多悦蔵   五両三人扶持 急死
森五百八   八十石-百石 後の九代目師役
林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

1…不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。

因陽隠士記す
2017.3.13
「流祖の足跡(二)」は後日復旧します
因陽隠士記す
2025.8/31

姫路藩真下貫兵衛の金赦し

宇田川武久氏の著書『江戸の炮術―継承される武芸』に「姫路藩真下貫兵衛の金赦し」と題された項がある。
そのまゝ引用するわけにはいかないので、こゝでは要点のみを述べよう。
(1) 土浦藩の関流炮術師範関家へ入門した姫路藩士真下貫兵衛の稽古日数が短いにもかかわらず赦状と捨傳書を伝授されたこと
(2) その謝礼が多額であること
宇田川武久氏は上記二点を根拠として、真下貫兵衛は金赦しであるとされている。

私は姫路藩の炮術について調べている最中であり、その一連の作業のなかで同書に目を通した。そして思った、この項については全くの誤解である、真下氏の名誉のためにもこの誤解を明らかにしておこうと。

真下家

そもそも姫路藩士 真下貫兵衛の家柄とはどのようなものか。『姫路藩家臣録』を元にその履歴を追う。

祖父 真下藤兵衛は安永8年(1779)御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、そのほか諸役を勤め寛政4年(1792)隠居。(※御持筒組とは藩主直属の鉄炮足軽隊)

父 真下政太夫は天明2年(1782)藤兵衛と同様に御持筒組鉄炮稽古世話の職につき、寛政4年(1792)舩手之者鉄炮稽古世話に転じ、家督(2人扶持 組外)を相続、御土蔵御番入。その後は諸役を勤めつヽも舩手之者へ鉄砲を指南、享和1年(1801)他の役務に差し支えるときは息子真下貫兵衛(当時は幸助)を稽古世話に立てるべき命があった。結局、真下政太夫が舩手之者鉄炮稽古世話の任を解かれたのは文政3年(1820)のこと、およそ38年間師範を勤めた。

真下貫兵衛は先にも記したように享和1年(1801)には舩手之者鉄炮稽古世話を手伝うようになり、文化2年(1805)5月20日に舩手鉄炮稽古指南見習となり、文化4年(1807)4月29日には大日河原において壱貫目鉄炮角前を藩主の御覧に入れ”貫”の文字を授与される
そして同年5月11日この壱貫目玉鉄炮の放方の功績によって弐人扶持下され御徒士格として召し出された。

以上、問題とされた関家入門までを掻い摘んで記したが、このように履歴を確認できる祖父 真下藤兵衛父 真下政太夫真下貫兵衛と三代にわたって、鉄炮足軽を指南する稽古世話の師範職を世襲している。真下貫兵衛に至っては見事壱貫目放方を御覧に入れ二人扶持を下され御徒士格に召し出された(これは家督を相続する以前のことで、純粋に彼の功績による)炮術を家業とする家柄である。
それと、姫路藩において足軽指南は従来より関流で統一されていたことを考え合わせれば(*1)、真下氏は姫路藩において従来より行われていた小屋関流または野口関流を学んでいたことは明白である。
つまり、真下貫兵衛は関家へ入門する以前から、関流炮術について少なくとも六年以上の修錬を積み、且つ指南する立場としても経験を積んでいた。(いつの頃から修行を開始したのか記録には見えないので、父政太夫の手伝いを命じられた年を下限とする)

入門から相伝

さて問題とされた関家への入門から帰国までの動向を各書より一部抜粋する。

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化4年(1807)7月朔日の真下政太夫・真下貫兵衛の両人である。
酒井雅楽頭様の御家来真下貫兵衛・真下政太夫のふたりが炮術に入門したいと同藩の御留守居役を通して、(土浦藩の)御留守居にいってきた。自分は入門を許したいので、このことを月番の又兵衛殿と列座にうかがった。十五日の朝、治兵衛から手紙で酒井衆両人の入門は支障がないから、入門の日取を取り極めるように申してきた。十八日のそこで都合がよければ、御前十時こと、こちらに出かけるように酒井衆に申し遣わした。
なお、十八日の条にふたりが肴代二百疋を持参して入門の手続が終った、とある。

『姫陽秘鑑』
一、文化4年(1807)7月28日土屋相模守様御家来関内蔵助方江炮術入門被 仰付、同年8月2日より御客箭繰方忰貫兵衛江被 仰付、右手伝ニ罷出候ニ付御肩衣被下置、右之節着用仕相勤申候

『姫陽秘鑑』
一、同年同月21日奥於 御居間、壱貫目玉鉄炮繰方被仰付入 御覧候処御小袖被下置、其上貫叟之実名御直筆ニ而拝領仕候

『姫路藩家臣録』
文化4年(1807)9月11日御参府御供ニ罷出候処、御客前薬方度々相勤、諸家様へも罷出候ニ付御家中諸藝励二も有之候間、格段之 思召を以並御供番格被 仰付、金四両三人扶持被下置候、10月4日爰元ニ罷在候内奥御番方被 仰付候-同7年8月17日奥番御免

『江戸の炮術―継承される武芸』
文化6年(1809)12月11日真下貫兵衛へ赦状と捨傳書が傳授される。相傳の謝礼として関内蔵助信貞に金千疋、関昇信臧に金二百疋、信貞の妻に金五百疋、家来二人に金二朱を贈る。
文化7年(1810)7月30日炮術稽古の打納めに出席、真下貫兵衛250目玉・100目玉を放つ。
文化7年(1810)8月17日真下貫兵衛、国許に帰るので関家へ挨拶に行く。

以上を踏まえた上で話しを進める。
壱貫目放方を見事御覧に入れ扶持を下された真下貫兵衛は、その二ヵ月後、藩主の江戸出府の御供となりそこで土浦藩の鉄炮師役 関内蔵助へ入門する。「真下政太夫忰貫兵衛大筒繰方被仰付候事(『姫陽秘鑑』)」
文化4年(1807)7月に入門した真下貫兵衛は文化6年(1809)12月に赦状と捨傳書を伝授された。つまり彼が享和1年(1801)に舩手之者鉄炮稽古世話手伝となってから八年後のことである。無論、家元とも云うべき関家での修行と、国元に従来より伝承されている分派の小屋関流・野口関流では修行の程度に少しく違いがあるとは思う、しかしこの両派は素より関家に学んだ分派であるから、一から修行をし直す必要はなかっただろう。

稽古日数

さて、宇田川氏は著書の中で、真下貫兵衛が入門から二年で伝書を相傳されたことについて「貫兵衛の稽古の年数は足りないから、これはまさに金赦しといわざるをえない」と述べられている。たしかに通常の入門であれば、たったの二年で傳授されるものではない。
しかし、先述のごとく真下貫兵衛は関家入門以前から姫路藩内で関流を修行しており(*1)、且つ壱貫目放方の功によって召し出されたほどの人物であったから、この点を考慮すれば入門二年で傳授されて然るべき技倆は充分に備えていたと考えられる。藩内において修行し、後に他家の士に入門して短期間で免状・印可を傳授されることは珍しいことではない。

謝礼

又、謝礼について宇田川氏は横田平内・近藤亘理助の謝礼額と比較して「これが常識の範囲とすれば、いかに貫兵衛の謝礼が高額であったかがわかる。」との見解を示されている。
なるほど、比較に提示された両者は三百疋、真下貫兵衛の謝礼は千七百疋を超える。内訳を見ると、関内蔵助信貞に金千疋、信貞の妻に金五百疋、関昇信臧に金二百疋、そして周辺人物にもいくらか渡した。当時の事例とくらべて異常に高いということはない、最大限に礼を尽した結果だと思う。これら進物の額は右記の通り、金千疋=金2両2歩、金五百疋=金1両1歩、金二百疋=金2歩。

おわりに

結局、真下貫兵衛の履歴の有無が、宇田川氏の判断を誤らせたのではないかと思う。且つ姫路藩で主流を占める関流の存在はあまり取り上げられていないので、その点も見落とされていたのかもしれない。
その不十分な条件をもとに真下貫兵衛を金赦し扱いにされたことは残念でならない。真下氏にもおそらく子孫の方々がいることだろう、金赦しと云われて何を思うか、察するに余りある。また、関家においても金銭にかえて家伝の大切な流義の伝書を与えたとあっては不名誉なことではないか。
先述のとおり真下貫兵衛は金赦しではない、藩内において関流を修行し壱貫目玉を見事に放す技倆を備え、その後で関家へ入門しその修行のほど、技倆のほどを認められたからこそ赦状と捨傳書を伝授されたのだ。

*1 姫路藩ではその当時、小屋関流、野口関流が行われていた。この両派はもともと元禄のころに、土屋相模守家来 関軍兵衛の世子であった三俣惣太夫(世子のときの名乗りは伝えられていない)が酒井家中で関流を教えたことに始まる。そして小屋幸太夫、野口磯太夫の二人は三俣惣太夫に関流を学び、次いで土屋家の関軍兵衛に学んだ。その後両者が足軽の鉄炮指南に抜擢されたことで、酒井家の軍制は関流を基礎とするようになる。

参考資料
. 『江戸の炮術―継承される武芸』宇田川武久著
. 『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
. 『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
因陽隠士記す
2016.7.13

土屋将監:柳生流長刀目録

『柳生流長刀目録』筆者蔵
『柳生流長刀目録』筆者蔵

柳生流の長刀目録はこの伝書のほかに未見です
数多ある長刀を七つに窮めておいたと記述されているので、土屋将監のときに編まれた伝書かもしれません
しかし、先代のときの文言をそのまゝ踏襲しているのかもしれず、この辺のことは分らないです

伝書の様式そのものは、後世の土屋系に引き継がれています

『柳生流長刀目録』筆者蔵

伝書にこの大きな赤丸を描くのは、いつに始まったことだろう?
所蔵する慶長十八年の夢想願流伝書には、塗り潰さない赤丸が大きく描かれていたり、寛永頃の念流の伝書にも塗り潰された赤丸が見られる

流派の垣根を超えて、採り入れられているこの赤丸はどこから来たのか?
考えるとおもしろいですね

『柳生流長刀目録』筆者蔵

右のこの哥の心もちに能々鍛錬肝要に候
他流には堅躰に致す共、必ず右無躰の心持にて如何にも神妙
秘すべし秘すべし
右の通り一心を肝要に候

『柳生流長刀目録』筆者蔵

土屋将監、名は景次
詳しい履歴は伝わっていません
神後伊豆に学ぶと云われますが、確認されている慶長十八年の柳生流伝書や、こゝに紹介する伝書においても、伝系は「柳生五郎右衛門」を師としています

また、「心陰流」という流名についても、土屋将監のとき名乗っていた史料が見当りません
秋田の系では後世「心陰柳生流」の称があります

因陽隠士記す
2025.8.30

竹内藤一郎久勝:竹内流目録

『竹内流目録』筆者蔵

既に「竹內流捕手腰廻之事」に掲載済みの古文書です
前の『片山流居合免状』と同じく外観などは撮影していなかったので、これもまた雰囲気を伝えたく思い撮影しました

『竹内流目録』筆者蔵
書かれていることは周知のものです
『竹内流目録』筆者蔵

あくまで現状維持を優先し、料紙と料紙の継目が外れていても糊付けせずそのまゝにしています
現状によって損傷することはなく、また継ぐこと自体はいつでも可能であるため

『竹内流目録』筆者蔵
『竹内流目録』筆者蔵

「日下捕手開山」の称号は、元和六年、後水尾天皇行幸のおり天覧演武によって賜ったとされます*1
しかし、この伝書を見ると慶長十三年にはすでにこの称号を名乗っており、この時点では自称だったのかな?と

慶長十三年、おそらく現存を確認できる最も古い竹内流の伝書かと思われます*2
なお、廿四日という日付は愛宕信仰と関係があったようです*1

1…『 美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』
2…『日本武道大系第六巻』に掲載されている享禄四年の竹内久盛の文書は、起請文

宛名の「松野主馬頭」は、松野重元の名で知られる豊臣恩顧の武将
従五位下主馬首、主馬・主馬助・主馬頭とも称す

この伝書を旧蔵していた松野家は、明治時代、美作国垪和から程近い佐良山村に住していたことを確認しています
垪和は、ご存じの通り竹内氏所縁の地

因陽隠士記す
2025.8.25