神道一心流三代目 櫛渕不争軒伝

櫛渕不争軒 1819~1869

文政二年四月廿九日一橋家御徒目付筆頭 櫛渕宣猶の次男として生れる。通称は長次郎、弥吉、太左衛門と改める。諱は盛宣、號は不争軒。
一橋慶喜公、一橋茂榮公に仕え、都合十九年の御奉公。主に御番方として御番・御警衛を専らとし、慶喜公二度の上洛に警衛を勤めました。その実績に依って一橋家の軍制改革が進むにつれ、陸軍御取立御用取扱、歩兵差圖役頭取勤方 兼歩兵組頭役を経て、教衛隊頭取を勤めるようになります。また、その傍ら父祖伝来の神道一心流剱術・戸田流薙刀を一橋家に於いて指南しました。また、家伝の兵法のみならず、水練の達者であり、拳法も修めました。特に薙刀の名人であったと伝えられています。明治二年十月廿八日病歿、五十一歳。

櫛渕不争軒年譜

『櫛渕家文書』筆者蔵
文政二年四月廿三日櫛渕虚中軒、歿す
文政二年四月廿九日一橋家 御徒目付筆頭 櫛渕宣猶の次男として生れる
文政十一年湯島天満宮へ奉納閣
文政十一年王子稲荷へ剱術薙刀奉納閣
文政十二年十二月十六日父宣猶、下谷山下八軒町(御徒小野左太夫組太田竜之進地の内家作)へ引越す
文政十三年三月二日父宣猶、和泉橋通十番組御徒小川重兵衛地の内御普請役村上量平家作を譲り受ける 三月七日引越す
天保二年薗原騒動
天保三年八月十四日父宣猶、薗原騒動の一件にて外聞を失った為、田安家に仕える上田重次郎所持の谷中三崎六阿弥横町地面の内百姓地三百坪余を譲り請ける 八月廿六日下谷和泉橋三枚橋より引越す
天保五年十一月十三日奥口御番並であった従弟 櫛渕重太郎が病氣に付き永の御暇を申し渡され、代って厄介養育のため御物頭組同心へ御抱え入れを申し渡される
天保六年二月七日長男斧太郎、浅草一件を起す
天保六年二月晦日長男斧太郎、願いによって病氣に付き御番御免、父へ御戻しを仰せ付かる 七月廿一日失踪 九月二日着の後閑よりの書状によれば、宣猶の許から忽然と姿を消した斧太郎は八月二日まで後閑に滞留し、それから越後岡之町へ移った由、その際稽古道具や着物などを与え、繁野代作(繁野は櫛渕氏の旧姓)と改め微塵流と名乗るよう申し付けた由 後ち天保七年後閑よりの書状によれば、斧太郎は要助と称し岡田勘右衛門家を相続の由
天保八年四月十一日より父宣猶、傷寒にて大難渋、九死に一生 同月廿七日長男斧太郎見舞いに来り看病、五月十三日出立帰村 その頃より宣猶の病氣快方に趣く
天保九年四月廿八日より長男斧太郎、勘当される 八月十一日斧太郎召し捕えられ入牢、盗賊火附方改落合長門守より身許の問い合わせ来る、武士道に有る間敷き働きにつき死罪の処、久離勘当の届けによって御咎も軽く済むも十月十一日斧太郎病死
天保九年十月廿九日より父宣猶の願いによって、長次郎病氣に付き永の御暇を下され、厄介養育の為母方従兄弟 祖谷和助へ御番代を仰せ付かる
天保十年四月八日父宣猶、長次郎を惣領とする届けを出す
天保十二年六月廿七日父宣猶、一橋家早稲田御屋敷内 堅田吉十郎より家作を譲り請ける 八月七日・八日・十一日谷中三崎より引越す
天保十三年三月二日武術御覧あり、父宣猶の打太刀を勤め、父より金弐朱を遣わされる
三月二日 慶壽、邸臣の鎗術・剱術・柔術・薙刀・居合・棒術を覧る。(番頭用人日記)
弘化五年八月三日須崎長命寺下にて馬川渡し御覧を勤め、同月十五日銀二枚を下される
八月三日 慶喜、須崎村長命寺下にて邸臣の水馬・水泳を覧る。(用人部屋「嘉永日記」)
嘉永三年十一月廿一日門弟弓術御覧あり、皆中に付き郡内嶋一反代金弐百疋を御馬場に於て下される
十一月廿一日 慶喜、外庭馬場に於て部屋住の者の武術を覧る。(番頭用人日記)
嘉永三年十一月廿六日釼術薙刀御覧あり、御好みに付き釼術仕合仕る 薙刀打太刀は父宣猶、釼術打太刀は今村鏡次郎が勤める 父宣猶へ郡内嶋一反代金弐百疋を下され、又御好みを勤めたことで御鼻紙代金五拾疋を下される
十一月廿六日 慶喜、外庭馬場にて部屋住の者の武術を覧る。但、二男以下及び目見以下の者の子は透見の體をとる。(番頭用人日記)
嘉永四年八月二日一橋慶喜公大川筋へ入らせられ馬川渡し御徒水泳御覧あり、同月十一日御褒美として白銀二枚を下される
八月二日 慶喜、大川筋に遊び、須崎村長命寺下に於て邸臣の水馬・水泳を覧る。(番頭用人日記)
嘉永四年十月八日父宣猶数年精勤により、新規に召し出され小十人組見習過人を仰せ付かる、御扶持方五人扶持下される 33歳
嘉永五年十一月十日父宣猶、歿す
嘉永六年七月跡式相続 35歳
安政二年十二月小十人組を仰せ付かる
安政五年十一月十一日御書院番並過人を仰せ付かる 40歳
安政六年二月廿二日大火によって牛込早稲田町の道場が類焼する
今暁青山辺より出火、一橋邸早稲田・大久保抱屋敷類焼す。(番頭・用人日記)
安政六年四月八日桜井鋋之丞地の内 深田吉右衛門の家作を譲り請ける 同月十六日引越す
安政六年十二月廿六日御書院番を仰せ付かる
文久二年五月書院番櫛渕太左衛門に剣術・薙刀の師範を命ず。(御手前書付留)
文久二年九月御上京御供を仰せ付かる
文久二年十二月御上京御供 京に於て慶喜公諸々へ御出の節御警衛、及び御殿の御番を勤める
文久三年五月八日江戸に帰着
文久三年七月廿三日御徒頭を仰せ付かる
文久三年七月廿四日御上京御供を仰せ付かる
文久三年八月廿六日陸軍御取立御用取扱を仰せ付かる
文久三年九月朔日釼術教授方を仰せ付かる
文久三年十月十一日御稽古所にて教授方・世話心得の三本勝負あり、勝利に付き翌十二日小菊壱束・大小御下釼・御扇子を拝領する
文久三年十月廿一日鎗釼方頭取を仰せ付かる
文久三年十月廿六日一橋慶喜公御發駕、上京に御供し御警衛を勤める 45歳
元治元年三月廿八日江戸表諸士槍釼見分御用を仰せ付かり、四月十二日江戸着
四月十三日 槍剣方警衛士を壹番床机隊と改称し、水戸家より附けられし警衛士を貮番床机隊と唱ふ。(御手前書付留)
慶應二年九月七日両御番格歩兵差圖役頭取勤方・兼歩兵組頭役を仰せ付かる
慶應二年十一月廿三日一橋家、稽古所御開 十二月十六日稽古所御開後骨折に付き銀三枚を下される
慶應三年五月廿一日奥御馬場にて野仕合御透見あり、一統へ砂糖五斤を下される
慶應三年六月十九日御廣敷御用人格を仰せ付けられ、釼術師範格別骨折に付き年々銀五枚つゝ下される
慶應三年十一月廿二日去る六月十五日拝借の御銃を返納する
慶應四年二月廿七日御廣敷御用人格教衛隊頭取を仰せ付けられ、御役金拾両を下される、釼術師範役是迄の通り 50歳
二月廿六日 一橋邸軍制を改編し、教衛隊・大砲方・銃隊を編成し、諸役よりの轉役を以て頭以下隊員を任命す。此日より廿八日に至る。(番頭・用人日記・支配向被仰渡書付留)
慶應四年三月一橋玄同公東海道へ入らせられるに付き御供を仰せ付かる
明治二年二月廿三日師範役格別骨折、修業人教授も行届に付き取米弐百俵・御手當銀五枚・外御手當銀並の通り下される
明治二年二月廿三日小石川におゐて野仕合あり
明治二年三月廿二日小石川御屋敷におゐて誠順院様・徳信院様野仕合御透見あり、一統へ振飯御煮染付折詰、弐朱充下される
明治二年四月七日小石川中隊運動後野仕合あり、弁當料三匁つゝ下される
明治二年五月二日小石川野仕合俄かに御両方様御透見あり、砂糖を下される
明治二年八月廿五日一橋家、佛式銃隊御開
明治二年九月十三日惣髪御届を出す
明治二年十月廿八日朝俄かに不快、御殿当番御醫師小原昇春、卒中にて最早致し方もなしと診断、御近所御醫師糟川袋庵も同断 病歿 51歳
明治二年十二月十三日養子重之助(一橋家近習鈴木政之丞の子)、櫛渕家に引き移る 同月十五日勤め向き是迄の通り仰せ付かる
明治三年三月三日養子重之助、家督を相違無く下し置かれ、教衛隊指揮役を命ぜらる 21歳

神道一心流の道場移転歴

『櫛渕家文書』筆者蔵

神道一心流櫛渕家の道場は幾度も移転しました。こゝでは道場移転の足跡を記録によって辿ります。

寛政二年三月1)小石川
寛政四年二月2)下谷御徒町 (現在の台東区一丁目西辺)
文化三年三月3)小川町広小路 (現在の上野二丁目・四丁目辺)
文化十二年六月4)下谷三味線堀 (現在の小島一丁目の西辺)
文政十二年十二月5)下谷山下八軒町 (現在の東上野二丁目の北西辺)
文政十三年三月6)下谷和泉橋三枚橋 (現在の御徒町台東中学校の北西辺)
天保三年八月7)谷中三崎六阿弥横町 (現在の谷中霊園辺)
天保十二年八月8)牛込早稲田 (現在の早稲田駅辺)
安政六年四月十六日9)牛込山伏町 (現在の市谷小学校の地)
明治五年六月朔日10)牛込山伏町 (道場を改築し私学育幼舎となる)

初代櫛渕虚中軒が江戸に出た当初、1)寛政二年三月小石川に於て嶋田甚五郎の長屋を借りて取り敢えずの稽古場としました。
そして二年を俟たず、2)寛政四年二月下谷御徒町に稽古場を普請しこゝへ移轉します。
しかし十五年後の大火によって類焼した為、3)文化三年三月小川町広小路に轉居し、文化四年正月から稽古を始めます。
それから八年後、4)文化十二年六月下谷三味線堀へ移転。これは地主の川村安之丞の求めによって地面を返す為であったとされています。

文政二年に虚中軒が歿し、二代目宣猶の代となってから十年が経った5)文政十二年十二月太田竜之進(御徒小野左太夫組)より下谷山下八軒町の家作を譲り請け道場を移轉します。このとき道場の普請や諸々の費用を含めて三十八両掛りました。
しかし僅か三ヶ月後、6)文政十三年三月二日御普請役村上量平より下谷和泉橋通の家作を譲り請け、同七日移轉します。このときは六十二両掛りました。
ところが落ち着く間もなく二年後、薗原騒動の一件にて外聞を失い人氣のない田舎(宣猶云う処の)へ引っ越します、7)天保三年八月十四日田安家に勤める上田重次郎より谷中三崎六阿弥横町の地面の内百姓地三百坪余家作共に譲り請け、同廿六日移轉。

『櫛渕家文書』筆者蔵

この地に於て宣猶は重度の傷寒を患い急死に一生を得ます。
この病中に認めた遺言書によると、どのような考えを以てこの地へ移転したのか分ります。宣猶曰く「我等儀、ヶ様の所へ引き移り候存念もこれ無く候へども、薗原一件にて外聞を失い、其の上轉役仰せ付けられ、甚だ面白くもこれ無く、右に付き暫くの内田舎住居致すべく存じ此処へ参り候処、稽古に参り候者も辺鄙故これ無く、所地者増々禄盗人斗りにて稽古致すべく候者これ無く候、追て都合次第、今少し賑か成る処へ轉宅、稽古初められ候様致したく候」と。
一時は遺言書まで認めるほどに危うかった宣猶ですが、追々快方に向い自ら道場の移転を果しました。
8)天保十二年六月廿七日一橋家早稲田御屋敷内 堅田吉十郎より牛込早稲田の家作を譲り請け、八月七,八,十一日移転。

それから十八年の歳月が経ち、三代目不争軒のとき、9)安政六年二月廿二日大火によって早稲田の道場が類焼した為、四月八日やゝ南に位置する牛込山伏町の家作を深田吉右衛門より譲り請け、同十六日この地へ移轉します。
尤も稽古道具等も焼けてしまった為、稽古が始められたのは翌年の萬延元年四月五日のことでありました。このとき七十一人が出席したと記録されています。

これ以降道場は移轉されず、四代目宣秀のとき、10)明治五年六月朔日道場を改築し私学育幼舎を開いたとされています。明治六年幼童学舎と改め、そして明治七年第三中學四番小学市谷学校となり、これが後に市谷小学校になったとのことです。

五冊の不争軒史料

『櫛渕家文書』筆者蔵

慶喜公が一橋家を相続した四年後、櫛渕不争軒は三十三歳のとき新規に召し出され「小十人組見習過人」を仰せ付かります。
その翌年に父宣猶が病歿し、次の年には「跡式」を相続、「小十人組」を経て後ち、安政五年十一月「御書院番並過人」、安政六年十二月廿六日「御書院番」を仰せ付かります。この時不争軒四十一歳。「御書院番」は曾て父宣猶が晩年の格式であります。

扨て、櫛渕不争軒が「御書院番並過人」を仰せ付かった安政五年の正月から明治二年の十月まで、現存する五冊の史料によって不争軒の日々の勤務状況等を知ることができます。これは不争軒自身の筆による日々の記録です。
これらに目を通すと、不争軒の主たる御奉公は主君の御警衛あるいは御番方、与けられた組士たちの支配でありました。順を追って史料を挙げ、若干の説明を附して行きます。

『諸覺留』筆者蔵

一冊目の『諸覺留』は、安政五年正月元日より萬延元年十二月廿七日までの出来事が記録されています。
幕末の動乱真っ只中であり、井伊直弼が大老職に就任、水戸の徳川斉昭公(慶喜公の実父)の永蟄居、一橋慶喜公の登城見合せ処分、戊午の密勅、日米修好通商條約、将軍徳川家定公の薨去、徳川家茂公の将軍宣下、安政の大獄による一橋慶喜公の隠居謹慎、桜田門外の変、徳川斉昭公の逝去、一橋慶喜公の謹慎御免等々、世間は騒然としておりました。
この時期の不争軒は、道場が大火によって類焼し移転を余儀なくされます。また、「小十人組」から「御書院番並過人」となり、「御書院番」へと出世しました。

 
『御上京御供諸覺』筆者蔵

二冊目の『御上京御供諸覺』は、文久二年九月八日より元治元年三月廿一日まで。
その題名が示す通り、一橋慶喜公の御上京に御警衛のため御供した際の記録です。御書院番であった不争軒は、御上京に御供した士分の者五十二人の内の一人に数えられます。着京後、年が明けると御駕籠臺前にて稽古を命ぜられ、慶喜公の御透見がありました。平時は、慶喜公が処々へ出掛ける際の御警衛を勤めるなどしました。
この記録の直前に、慶喜公は勅諚により将軍後見職となり、一橋家を再び相続しました。そして上京し、京都において朝廷と攘夷問題について折衝し、一旦江戸へ帰ったあとに再び上京します。この二度目の上京に関する記録は、次の『勤用覺留』とやゝ重複します。

 
 
『勤用覺留』筆者蔵

三冊目の『勤用覺留』は、文久三年七月廿三日より慶應元年八月丗日まで。
再び上京した一橋慶喜公は長州問題について取り組むも参豫会議を瓦解させ、禁裏御守衛総督・摂海防禦御指揮に任ぜられ、禁門の変、天狗党の乱などに対処します。またこの頃、一橋家において西洋式への軍制改革が行われました。禁門の変にて実戦を経験したことが主たる原因でしょう。
この間、不争軒は「御徒頭」になり、二度目の御上京御供を仰せ付かり、次いで「陸軍御取立御用取扱」「釼術教授方」「鎗釼方頭取」を仰せ付かり、慶喜公の御上京に御供します。
先年に御供した際は組頭の支配下にある一人の士として御警衛を勤めましたが、今度は数名の士を支配する組頭として同役の組頭と連携し御警衛を勤めました。御上京に御供した組は三組にて、不争軒はその内の一組を与っておりました、不穏な情勢下の京都に於ては重要なる御役目です。
しかし、その滞京中俄かに「江戸表諸士槍釼見分御用」を仰せ付かり、江戸へ舞い戻って「諸士撰」を担当することになります。この間の記録は次の『御用日記』にあり。そして、その後の江戸に於ける記録へと移ります。余談ながら、大変が発生する直前に京都を離れてしまったことで、不争軒は御番方として活躍する絶好の機会に居合わせず、その後の京都に於ける一橋家の軍制改革からも外れてしまいます。これについて不争軒の門人千葉鶴鳴が後年語るには、一橋慶喜公の行き過ぎた西洋かぶれを不争軒が直諫したことによって勘気を蒙り江戸に戻されたのではないかという噂話を耳にしたそうです。実際のところを考えると、元治元年三月二十五日一橋慶喜公が「禁裏御守衛総督・摂海防禦御指揮」の任に就いたことによって、遽かに人材を補充する必要に迫られ、不争軒に「江戸表諸士槍釼見分御用」を命じて江戸に帰したのだと思われます。西洋かぶれの直諫云々は記録上には見られず、たとえそのようなことが有ったとしても、それであたら有為の人材を遠ざけるような人物だろうか?と疑わしいです。

『御用日記』筆者蔵

四冊目の『御用日記』は、元治元年三月廿八日より元治元年十一月六日まで。
先の『勤用覺留』の期間内ながら、「江戸表諸士槍釼見分御用」を仰せ付かったことから別に分けて作成された記録です。
「江戸表諸士槍釼見分御用」とは、一橋家に限らず武藝に長けた士を見付け登用することを目的とした「諸士撰御用」であります。これは、京都に於ける一橋家の人材不足を補うためであったと考えられます。丁度同じころに、渋沢成一郎・渋澤篤太夫(栄一)が「人撰御用」を仰せ付かっています。
「諸士撰」のため不争軒は様々な人々と面会し交流します。どのようなことを相談したのか詳らかではありませんが、その中には名の知られた柳剛流の岡田十内、北辰一刀流の真田範之助・梅原鉄之助と云った人物も見受けられます。尤も、この「人撰御用」は京都の方から度重なる延引を命ぜられ、結局沙汰止みとなってしまいました。

 
『勤用之覺』筆者蔵

五冊目の『勤用之覺』は、慶應元年九月三日より明治二年十月廿四日まで。
第二次長州征討、将軍徳川家茂公の薨去、玄同公の一橋家相続、主上(孝明天皇)崩御、新帝(明治天皇)践祚、一橋慶喜公の将軍宣下、大政奉還、戊辰戦争、御一新、歴史の大きな転換期に位置するこの記録が不争軒最後の筆です。
「人撰御用」が不首尾に終わった不争軒は江戸に居続けとなり、京都の変動とはちょっと距離を置いた日常をしばらく過します。将軍徳川家茂公が薨去し、京地に於ける一橋家の戦力が幕府へ委譲された翌月の慶應二年九月、不争軒は「歩兵差圖役頭取勤方」兼「歩兵組頭役」となります。
また、茂榮公が一橋家を相続するや、「御廣敷御用人格」へと出世し、慶應四年二月に行われた軍制改革では「教衛隊頭取」を仰せ付かります。この直後、徳川慶喜公に寛大の処置あらんことを官軍へ嘆願するため、茂榮公が東海道へ下るときの御警衛を勤めました。以後は、主に新政府に恭順したことで生ずる種々の変化に対応し、教衛隊頭取として隊士の管理に努める日々を送ります。

 
 

神道一心流釼術・戸田流薙刀道場掟

『櫛渕家文書』筆者蔵

神道一心流釼術・戸田流薙刀道場掟
一、抑(そもそも)当流の儀は、忠孝・五常の道を守り、御修行これ有るべき事肝要なり
一、不倫貴賤先輩を重んじ、禮義正しく致さるべき事
  但し、稽古の儀、差至る順に成さるべき事
一、道場に於ひて世上の雑談、他流の善悪、無益の説話禁制の事
一、仕合の儀は相互に励み合ひ稽古成さるべく候、併せて勝負の異論これ有る間敷く、尤も先後を分かち、唯一心に御修行成さるべく候事
一、他流仕合の儀、猥りに致す間敷き事
一、帯釼の儀、長短・軽重はその身の手に応じ候品相用ひ、拵の儀は流義に順じ御吟味これ有るべき事
一、当流甲冑着用并びに当身殺活等の儀は御出精次第、追々御伝授申すべき事
一、御相伝申し候口傳は勿論、意味等の義、他言これ有る間敷き事
一、他流の者道場へ立入り稽古致したき由申し入れ候共、改流これ無く候ては断りに及び候事
一、免許前の仁、稽古中絶候か、又は他流御修行成されたき仁は、当流の未熟たるべく候間、目録并びに諸書物御返却の上、返神文を以て御断りこれ有るべき事
一、稽古見物の儀、皆相断り候事
一、世話役の儀は新古を論ぜず、その時々出精の仁に任すべく候事
一、稽古道具、御銘々御用意これ有るべき事
一、竹刀御借受け損じ候はゞ、早々竹御入替へ置き成さるべき事
一、火の元の儀、相互に心附け入念申すべき事
  但し、稽古相済み候はゞ、跡(後)取り片付け万端心付け御引払ひ成さるべき事
右の條々、御会得これ有るべきもの也
 安政七申年三月改む 不争軒
 明治二巳年八月又候改
  但し、先古帳は仕舞ひ置く

父宣猶の遺言書に見る、若き不争軒

『櫛渕家文書』筆者蔵

天保八年、不争軒十九歳のとき、父宣猶が重病を患い遺言書を認めました。このとき、すでに長男斧太郎は父の元を嫌って江戸を離れており、二男の不争軒(当時は長次郎と云う)が跡を継ぐべき立場でありました。とはいえども、まだ十九歳の長次郎は地元の御家人と付き合い、武藝・学問を疎かにして父の言うことに耳を傾けず遊藝に耽っていたそうです。余命も知れぬ病いの中で、父宣猶はこのような長次郎の行く末をたいへん心配し、今後は武藝・学問に励み益友と付き合うよう遺言しました。尤も、宣猶は九死に一生を得、以後十六年間、嘉永五年に歿するまで壮健でありました。

以下、宣猶の『遺言書』より抜粋
一、長次郎様には学問を御出精致され候様御進め成さるべく旨、在所弥五左衛門より書状にて申し越し候義もこれ有り候得共一向取り用いず、其許在所へ罷り越し候節無学者と見抜かれ候事と存知、親の身になり候ては赤面の次第恥入り事に御座候、
学問手習等嫌い抔と言は我侭千万の事に候、侍と生まれ候ては侍らしく武藝は勿論手習読物も人並にいたしたき事に候、却ってこの辺の若者、其許友といたし候ものに一人も人間らしき者これ無し、無学にて武術を学び候者もこれ無し、御家人の申し訳に帯刀はいたし候得共抜き様も存ぜず、唯申し訳に大小差し候者ばかり、禄盗人とも申すべく候、
一体平生宜しき人の付き合いも致さず井の内の鮒にて、何ぞと申せば長唄を習い寄合にて酒宴付き合い、大小にも構わず下駄手拭等に心を尽し可笑の第一なり

本所辺または山の手の御家人軽き身分の者は何れもこの辺の風俗同様に候、右様の人々の行常、夜遊びに長く朝寝いたし候ものに候、その軽きばかり中にも立身出世致す者希にはこれ有り候、
その者は所地の風俗に染まず、手跡学問等も心掛け忠孝を守り利発の者に候、並の人は禄を戴きながら御奉公を怠り孝の道も忘却いたし、父母の申す事も気に入らざる時は聊かの事にも癇癪を落し立腹いたし、親に向い雑言抔申す者もこれ有り候、
その親の不行届きに候とも聖人孔子の教えの如く、主へは主の様に忠を尽し、親に孝は出来申す間敷候得共、せめての事にさからい申さゞる様にいたしたき事に御座候、
武藝并びに神道佛道儒道にも忠孝の教訓は解き有る事に候、人間と生まれこの道を忘却致さば人面獣心も同前なり

血に交われば赤くなると申す故言もこれ有り候えば、悪友に交わる共心までそれにひかれざる様にいたしたき事に御座候、何卒能き人に付き合い能き事は見るに及び聞くに及び覚え申さるべく候、悪しき事は承け及び候共その時と取り捨て申さるべく候、
相成るべくは夜遊び朝寝は御無用、その隙には手習学問を心掛け申さるべく候、学問とて多く書物を読むに及ばず、孝経一巻にても大学一札にても見、忠孝五条の道、仁義礼知信の教訓を全く守りさえすれば宜しき事に御座候、手跡はその人その人の位、手紙一通にても善悪顕わるゝものに候間、手は能く書きたきものに御座候、
もし右の条々相用いずこの侭に置くばかり重ね候はゞ、末に至り人の中にて恥をかきその時後悔いたす共詮なき事に御座候

病中長文侭退屈、其許見るも面倒に有るべく候得共、人に勝れ能き人物となり 上の御用弁にも相成り、先祖并びに親類縁者迄の外聞もよろしく、依って右の通り相認め入る、一読候ものなり

一、猶長次郎へ申し聞かせ候、其許も存ぜられ候上村傳次郎義、三味線を好み日夜それのみに凝り固まり武士道を失い、近所とは申しながら短刀一本にて下駄をはき出で歩き行く、御附人にて家柄も足りしく候得共風聞悪しく候、御屋形人に候えばとくに小普請入りにも仰せ付けらるべくとの皆の評判に御座候、
身持ち持たざると申すにはこれ無く候得共、身分不相応の身形り、その上心掛け候藝宜しからず候に付、立身も相成らず候、御附人の事にも候えば武士道を守り勤めはとくに御目付にも御徒頭にも仰せ付けらるべく処、心懸け宜しからざる故恥をさらし不忠不孝の者に御座候

これ等を見るにつけても、長唄・浄瑠璃・三味線抔稽古は厳しく相止め、決して致されまじく候、近所は格別、上野より先へ出で参り候節は大小差し雪駄相用い申さるべく候、近辺安御家人のまね決して致されまじく候

櫛淵不争軒、歿す

『盛宣院悔入来人名留』筆者蔵

一橋慶喜公の御上洛以後、着々と地歩を固め御一新を迎えた不争軒は一橋家の教衛隊頭取の勤務中、俄かに卒中を起し泉下の客となったことが『盛宣院悔入来人名留』に記録されています。

以下、該当箇所抜粋
十月廿八日
一、櫛渕先生昨日御當番の処、今朝俄に御不快に付、御殿當番御醫師小原昇春相廻り候処、御病躰ソツチフ[卒中]にて最早薬養も届難く、外手當致し方も無之旨、尤薬弐服被贈早々下宿可然旨被申、依之詰合指揮役倉田謙三并調所田中源蔵隊中より加藤源次郎先は相越、倉田大濱田中差添御帰宅の事
一、御近所御醫師糟川袋庵被相越候処、是又ソツチフに無相違、最早手當致方も無之旨被申聞候事

不争軒櫛渕君墓誌銘

『池袋祥雲寺に関する研究:不争軒櫛渕君墓誌銘』

櫛淵不争軒という人物

櫛淵不争軒という人物について、門弟千葉鶴鳴の咄が伝えられいます*1。

「[櫛淵不争軒は]水戸の武田耕雲斎などゝ非常に懇意で、そんなら勤王家かといふとさうでもない。攘夷かといふと攘夷家でもない。慶喜様には初めのうちは近づくことが出来なかつたが、慶喜様が暗殺されるとか何とかいふ噂のあつた時に、自分が遠見をして保護したといふことが分つて、それで急に慶喜様から信用を得て、御供頭に一足飛びした人です。」

「櫛淵[不争軒]の屋敷には、水戸の武田耕雲斎又は荘内藩士から、深川御船蔵で斬殺された千葉周作の高弟真田範之助抔が往来したが、どんな咄があつたかは知らぬが、櫛渕が常に語る所を想起すれば、攘夷の咄であつたらうと推測される。」

千葉鶴鳴の主観に基づいて語られていることなので、事実と相違する点もあるかもしれませんが、なんとなく不争軒という人物像が見えてくるのではないでしょうか。

「勤王家かといふとさうでもない。攘夷かといふと攘夷家でもない」という点について察するに、主君一橋慶喜公の微妙な政治的立ち位置に起因するものと思われます。不争軒は一橋家の剣術師範役ですから、勝手に思想を吹聴して、何かしらの災いを招くことを避けたのではないかと。
とはいえ、武田耕雲斎や真田範之助と付き合いがあったことを見れば、尊王攘夷の思想に傾いていた様子はなんとなく感じられます。

1…『池袋祥雲寺に関する研究』

 
『御上京御供諸覺』筆者蔵

久二年九月八日より元治元年三月廿一日に記された『諸覺留』の巻末に「餞別之覚」という記事があり、餞別というのは京都から江戸へ帰る際の餞別、そこに「沖田惣司」「近藤勇」の名が記されており不争軒とは面識があったようです。
またその左方には「鵜殿鳩翁組 みぶ新徳寺 片山庄左衛門」の覚書があり、何かの折に知ったか面会したかして記録したのでしょう。

当時の「沖田総司」「近藤勇」は、尊王攘夷の浪士組に所属しており、鵜殿鳩翁が慶喜派の人物ですから、一橋家の剣術師範と面識を得たとしても不思議ではありません。

『御用日記』筆者蔵

元治元年五月十日、柳剛流の岡田十内と面会しており、石井豊吉の件で来たとあります。たまたま同名なのか、後に箱館戦争に参加した陸軍隊に石井豊吉という人物がいます。

『御用日記』筆者蔵

元治元年五月十六日、渋沢成一郎・渋沢篤太夫(渋沢栄一の前名)と面会。
以後、書類の申請や宿の手配など度々接触があります。

『御用日記』筆者蔵

元治元年五月廿三日、千葉周作の高弟真田範之助と面会し、藤田小四郎の上京、渋沢出生の地について話したことが記録されています。

真田範之助は、前年渋沢栄一に誘われ高崎城乗っ取りや横浜外国人居留地襲撃計画に加わっており、思想的には尊王攘夷の過激派といって良いでしょう。

不争軒が「武田耕雲斎などゝ非常に懇意」という話が本当だとすれば、不争軒自身も相当そちらの思想に傾倒していたのかもしれません。

『御用日記』筆者蔵

元治元年六月廿日には、仕官を望む古矢太左衛門と面会し、そのとき話題に出たものか、「因循」「鎖港」「攘夷」の文字が記されています。
六月三日に横浜鎖港問題で、政治総裁職松平忠克公と幕閣とが衝突した件でしょうか。

『勤用之覺』筆者蔵
明治二年九月十三日、「拙者惣髪御届泊方守能治兵衛へ以信弥差出す」と、散髪脱刀令が公布される二年前に総髪を撰択しており、頑なに髷を守るという旧態依然とした思想ではなく、進歩的考え方を持っていたようです。 当時の不争軒は、教衛隊頭取であり一橋家の剣術師範役でした。

参考シ料

『轉宅に付諸入用覺 文政十二丑年十二月四日より』筆者蔵
『轉宅に付諸入用其外覚 文政十三寅年三月二日より』筆者蔵
『谷中三崎地面譲諸覺 天保三壬辰年八月吉祥日』筆者蔵
『明細書 寛政十一未年以来』筆者蔵
『諸覺 天保五年より天保十一年迄』筆者蔵
『諸覺留 安政五午年正月より同六未同七申年十二月迄』筆者蔵
『勤用覺留 文久三亥年七月より元治元年至同二丑年』筆者蔵
『御用日記 元治元年三月』筆者蔵
『御上京御供諸覺 文久二戌年九月』筆者蔵
『勤用之覺 慶應元丑年九月より』筆者蔵
『神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡』加藤寛著
『神道一心流二代目櫛淵宣猶の生涯』加藤寛著
『一橋家臣 脇坂圓蔵について』筒井稔著
『嘉永御江戸絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:根岸谷中辺絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:下谷絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:駿河台小川町絵図』国立国会図書館蔵
『江戸切絵図:市ヶ谷牛込絵図』国立国会図書館蔵

因陽隠士記す
2025.10.2

多宮流居合指南役 生沼素行伝

生沼素行(1787~1851)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家九代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役(在任期間:文政4年3月21日~嘉永4年7月18日)

源姓
通称 虎之助・新八郎・作左衛門
実名 曹傳(トモツク)
号 素行館・素行軒・素行

父曹照に多宮流居合を学び印可を相傳される
軍学に精通しており、数多くの文書が現存している
このほかの藝事については明らかでない

寛政10年(1798)12歳のとき御中小将組に召し出され弐人扶持方下され、当時わずか五歳の前田直時公の御附を命じられる
文化1年(1804)壱人扶持方御加増

文化9年(1812)前田直時公が家督を相続したとき、奥詰御近習御装束方を命じられ、三日後に給人列に上げられた
その後、御稽古所主附、同所御目附役、御馬方御取次役を勤め、文化13年・14年は江戸への御供を勤める

文政2年(1819)には前田直時公の御前において多宮流居合師範を命じられ、格別の趣を以て御刀を拝領する

文政4年(1821)35歳のとき父曹照の隠居によって家督を相続する
これまで前田直時公の御側によく仕えたことから拾石を加増され七十石を下された
同月21日父の跡役として経武館の居合師範を命じられる

文政5年(1822)奥御用人、文政6年(1823)御番頭へと進むも文政8年(1825)前田直時公の最晩年、役向に不相應の儀あり一旦役務を退けられる
同年(1825)前田直時公病歿の五日後に奥御用人に復職、文政11年(1828)御番頭に復帰
文政13年(1830)前田直時公の三回御忌御法事の支配を勤めた

天保7年(1836)前田直時公の弟主鈴が越中古國府勝奥寺に入寺する際の御用主付を命じられ度々これを勤める
天保11年(1840)御組頭・御組御取次役兼帯を命じられ、天保12年には白鳳院様七回御忌御法事の支配を勤める

嘉永4年(1851)前田直良公が江戸表に於いて卒去、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配を勤めた
同年歿す、65歳

前田土佐守家 七代直時公(万法院様)・八代直良公(本学院様)に仕え、都合五十四年の御奉公

生沼素行年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
天明7年 八代生沼善兵衛の子として生れる
寛政10年1月15日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ、万法院様[前田直時公]御部屋住の内御附仰せ付けらる 12歳
享和1年4月16日 角入候様仰せ付けらる
享和1年4月20日 前髪執候様仰せ付けられ、虎之助と申し候處、新八郎と相改め候様仰せ付けらる
文化1年4月20日 壱人扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人御扶持方下し置かる
文化4年4月25日 名作左衛門と相改め候様仰せ付けらる 21歳
文化9年(1812)12月 万法院様御家督御相續、御表へ御引移の上
文化9年12月25日 奥詰御近習御装束方相勤め候様仰せ付けらる
文化9年12月28日 給人列仰せ付けらる 26歳
文化10年2月5日 御稽古所主附仰せ付けらる
文化10年11月16日 同所御目附役仰せ付けらる
文化11年4月29日 御馬方御取次役仰せ付けらる
文化13年7月 芳春院様弐百回御忌御法事に付、万法院様御上京の節御往来御供仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為、江戸表へ御出府の節御往来御供仰せ付けらる
文政2年1月28日 万法院様御前に於いて居合御師範仰せ付けられ置き候付、格別の趣を以て御道具の内下し置かれ候旨、段々御書立を以て御刀拝領仰せ付けらる 33歳
文政2年6月5日 深き思召在らせられ候旨にて御稽古方主付御免仰せ付けらる、但御目附の儀は只今迄の通り相勤め候様仰せ付けらる
文政4年3月10日 父善兵衛儀隠居仰せ付けられ、善兵衛へ下し置かれ候御知行六拾石相違無く相續仰せ付けらる、其節御書立を以て万法院様御部屋住以来久々側近く召し仕えられ候處、不調法無く相勤め候付、拾石御加増仰せ付けられ都合七拾石下し置かる 35歳
文政4年3月21日 武学校に於いて父善兵衛代りとして居合師範仰せ付けらる
文政5年6月15日 奥御用人仰せ付けられ、勤方の儀は只今迄の通り奥詰の方相勤め申すべき旨仰せ渡さる
文政5年6月17日 居屋鋪の後御馬場の内地面百弐歩拝領仰せ付けらる
文政5年6月28日 失念の趣御座候付、自分指扣え罷り在り候處、翌29日其儀に及ばざる旨仰せ渡さる
文政6年11月3日 万法院様御前に於いて御番頭仰せ付けらる
文政8年6月20日 役向不相應の儀これ有り思召に相叶わず、役儀御指除き遠慮仰せ付けらる
文政8年8月12日 遠慮御免許、奥御用人仰せ付けらる
文政11年7月21日 御番頭帰役仰せ付けらる
文政12年8月28日 本学院様[前田直良公]御代 御番頭にて御用所仰せ付けらる
文政13年8月 万法院様三回御忌御法事支配仰せ付けらる
天保3年12月11日 御文庫御土蔵主付仰せ付けらる
天保7年 主鈴様御儀、越中古國府勝奥寺へ御入寺仰せを蒙り候付
天保7年12月29日 右御用主付仰せ付けらる
天保8年2月22日 御當地御發足、其節御見送りの為勝奥寺へ罷り越す
天保8年3月1日 罷り帰り候處、本学院様御前に於いて御目録を以て金弐百疋下し置かる
天保8年3月29日 重ねて御用これ有り勝奥寺へ御使仰せ付けらる
天保8年4月6日 罷り帰り申し候
天保11年1月18日 重ねて勝奥寺へ御使御用仰せ付けられ發足仕り
天保11年2月13日 罷り帰り申し候
天保11年9月1日 本学院様御組頭仰せ付けを蒙られ候付、同日御組御取次役兼帯仰せ付けらる
天保12年4月25日 白鳳院様七回御忌御法事支配仰せ付けらる
嘉永1年5月 清寥院様御幟御用主付仰せ付けられ、右御用相勤め候付、御目録を以て金子下し置かる
嘉永4年4月 本学院様江戸表に於いて御卒去に付、御葬式より御百ヶ日迄の御用支配仰せ付けらる
嘉永4年7月18日 病死仕り候 65歳

井口新左衛門改易

『願書』筆者蔵

井口如毛の後裔、井口新左衛門は主家である深見兵庫より改易を申し付けられ、多宮流居合差引方の任から外れることになりました
このことを学校方へ申請した際の文書です

多宮流居合相傳之次第

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

多宮流居合が相伝する伝書五巻をまとめた冊子
また、伝授における決り事など若干の説明が附されています

『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵
『多宮流居合相傳之次第』筆者蔵

1810. 多宮流居合秘歌私解 文化7年12月

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

生沼素行の著書、免状に付された秘歌を解説した一冊

『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵
『多宮流居合秘歌私解』筆者蔵

1821. 経武舘居合師範役拝命 文政4年3月21日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

父生沼曹照が経武館出座を命じられてより一年未満で病のため隠退
忰生沼素行が代って師範役となり、その跡を継ぎました

1821. 多宮流居合極意 文政4年8月

『多宮流居合極意』筆者蔵

生沼素行の著書、問答形式で多宮流居合の大要を語った一冊

『多宮流居合極意』筆者蔵
『多宮流居合極意』筆者蔵

1825. 多宮流居合極意之解 文政8年3月

『多宮流居合極意之解』筆者蔵

『多宮流居合相傳之次第』の巻末に触れられていた一冊
主に「外物」についての解説
既に伝書五巻を相伝された者が写すことを許されます

『多宮流居合極意之解』筆者蔵
『多宮流居合極意之解』筆者蔵

1831. 多宮流居合の門弟騒動 天保2年

『故河地右仲多宮流居合跡稽古之儀に付』筆者蔵
『生沼素行書簡』筆者蔵

八代生沼曹照に免許皆伝を許され、同流の指引人を勤めていた河地右仲が急逝したことによって、その門弟たちが起こした一連の騒動について、数点の文書が残されています
この騒動について簡単にまとめると

1.河地右仲は、未だ門弟に免許皆伝を許しておらず、後継者がいないまゝ急逝したことによってその門弟たちは新たな師範を求めた
2.残された主だった門弟たちは、河地右仲の師である八代生沼曹照を師範にしたいと働きかける
3.しかし、八代生沼曹照は既に隠居しており、子息の九代生沼素行にその座を譲ったとして、申し出を断わり、生沼素行の弟子になるよう勧めた
4.ところが、故河地右仲の門弟たちは納得しない、どうしても生沼曹照に師事したいと、隠居の身分であっても師範は可能という故例を引いて説得に努めた
5.両者の主張は平行線を辿り、議論は紛糾した

同流の近しい門弟たちが、なぜこゝまで生沼曹照師範にこだわったのか
彼ら故河地右仲の門弟たちの主張は、子息である生沼素行の教授方針をどうしても受け入れられなかったのです
結果、生沼曹照以外の選択肢は無いということでした

河地右仲、生沼素行、両人とも生沼曹照の直弟子であるにも関わらず、教授方針がそこまで違うものかと思われるでしょう
どうも生沼素行という人物は、流儀の研鑽に非常な熱意をもっており、その研究心から稽古方法が従来のものと異なってきたのではないかと思われます

『山田武左衛門・岡部屯書簡』筆者蔵
『断簡』筆者蔵

1832. 養子願書 天保3年5月8日

『養子願書』筆者蔵

後の十代生沼曹貫を養子に迎えるときの願書
生沼曹貫は当時十七歳
願書には、多宮流居合を稽古させ、いずれ師範を相続する旨も記されています

学校御横目觸書

『学校御横目觸書』筆者蔵

経武館出座の師範役は、門弟を管理する責任があり、門弟たちの役職の変更や家督の相続、養子や縁組といったことまで事細かく届け出する必要がありました
しかし、あまりにも届け出が煩雑で届け出漏れがあったゝめ、学校御横目からしっかりと届け出るように触れたときの文書です

いわゆる「不届者(ふとゞけもの)」とお叱りの言葉が聞えそうです

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.9

多宮流居合指南役 生沼曹照伝

生沼曹照(1764~1830)略伝

加賀八家の筆頭前田土佐守家の家臣
生沼家八代目当主
多宮流居合師範
経武館出座多宮流居合師範役

通称 與三兵衛・与三兵衛・善兵衛
実名 曹孝(トモノリ)・曹照(トモテル)
実は中嶋武兵衛の二男
実兄は中嶋七次

篠原尚賢に多宮流居合を学び印可を相傳される
そのほかの藝事については明らかでありません

天明3年(1783)加賀八家の筆頭たる前田土佐守家来生沼浅之進(当時、御目附役)の養子となり、天明5年(1785年)御中小将組に召し出され、御料理之間詰、御式臺御中小将番、御角番を勤めた

寛政6年(1794)養父浅之進(当時、御臺所奉行)の病死によってその遺知を相続、同年御時宜役となる

文化10年(1813)御目附役を命じられ、翌年には頭並となり御用所勤め、御武具方・宗門方を兼帯。文化13年(1815)足軽頭に進む

文化14年(1817)には殿様の江戸御供を無事に勤め、同年名を善兵衛と改めるよう命じられた

文政3年(1820)藩の武学校「経武館」の居合師範役を命じられ、定日に出座することゝなる
これは前年に嫡子の曹傳が殿様の居合御師範を命じられたことが背景にあると思われる

翌年、家中の定によるものか隠居を命じられ弐人扶持を下された
文政13年(1830)歿、67歳
前田土佐守家 六代直方公・七代直時公に仕え、都合三十七年の御奉公

生沼家の系譜(初代~七代)

『生沼家由緒帳』筆者蔵

初代 一木善左衛門
微妙院様御代、御当地に罷り越し願い奉り候ところ、御元祖本多安房守様へ御招き堪忍分として新知二百石を下される
寛永13年12月14日歿

二代 生沼十兵衛
長安寺様御代、寛永15年召し出され新知百五十石を下される
苗字を”生沼”に改める(その子細は伝えられず)
寛文1年12月5日歿

三代 生沼善兵衛
長安寺様御代、父十兵衛跡目として召し出され百石を下され、小松御城中御作事御用
佛心院様御代、御普請会所下奉行
元禄6年12月2日歿

四代 生沼善兵衛
御中小将組(御近習)-遺知百石御式臺御取次番-大御目附役(御算用所詰)-御普請会所下奉行-大銀支配・御借用銀方・御倹約之節御作事方(頭並)-御臺所奉行-御組御取次役・大銀支配・御借用銀方・宗門御用-足軽頭
正徳6年5月8日歿

五代 生沼善兵衛保久
中川式部様御家来野崎弥兵衛二男
元禄9年(1696)生-寛延3年(1750)3月15日歿、55歳
末期聟養子、跡目として召し出され遺知百石を相続
御式臺御取次番-足軽頭-御組御取次役・御用人-御歩頭-御組御取次役-御小将頭-中症煩いにつき改役のほか免許、保養-隠居
寛延3年3月15日歿

六代 生沼十兵衛
五代善兵衛の嫡子
御中小将組(御次詰)-御式臺番-御次詰-御前御納戸御奉行・御目附御倹約方御用-御知行百石相続-御前御普請請会所下奉行役-不調法の趣御座候につき逼塞-逼塞免許、御式臺番-不調法の趣御座候而、御知行御取上げ、八人扶持下され逼塞-逼塞免許、御中小将組(御式臺御中小将番)-江戸御供-御簾番-御国目附(御用津幡への御供)-御供方御目附
宝暦8年11月歿

七代 生沼小右衛門-浅之進曹久(トモヒサ)
五代善兵衛の三男
享保19年(1734)生-寛政6年(1794)5月4日歿、61歳
御歩頭-詠帰院様(三左衛門様)御幼年につき御附-御小将組-御中式臺番-御先供役-御角番-御中小将組-遺知百石の内五拾石下される、残知は勤方次第-御時宜役-御目附役-御叙爵御供-御引足知拾石下される-御式臺番-御臺所奉行
寛政6年5月4日歿

1783. 聟養子願い 天明3年7月28日

『聟養子願書』筆者蔵

七代生沼曹久のとき、男子の跡継ぎがいないため、中嶋家から聟養子をとりたいと主家に許可を願いました
その聟養子が後の八代生沼曹照です

文中に「養娘」とありますので、実質的には家名を存続させるための処置だったようです

1787. 養父加増の沙汰 天明7年9月3日

『加増切紙』筆者蔵

生沼曹照の養父曹久が加増されたときの切紙

陪臣の身分

陪臣とは又家来・又者などゝとも呼称され、家来の家来を意味します
生沼曹照は加賀八家の筆頭前田土佐守の家来でありましたから、その身分は藩士(直臣)の下に位置しました

加賀藩の場合、千石以下は若党(士分)・小者(草履取など)を数人召し抱え、千石以上は給人(騎士)・中小将・小将・徒組・足軽・小者を召し抱え
四,五千石以上となればその上に家老や用人が置かれます
その中において、生沼善兵衛は中小将にはじまり、給人(騎士)へと出世したことから、上級の家臣と云って良いでしょう

殿様
────
家老
────
用人
────
給人  ↑騎士 ↑
────    │生沼曹照の身分
中小将     │
────
小将  ↑士分
────
徒組  ↓士分以下
────
足軽
────
小者

さて、これら陪臣の身分は小将以上が士分であり、小将・中小将は名跡を相続できました
その上の給人は与力並の扱いを受け、名跡と家禄を相続できる譜代の臣が多かったと云います

生沼曹照の主人前田土佐守家の場合、石高は一万一千石、大名クラスだったので、家臣も多く召し抱えていました
前田土佐守家の家臣構成は不明なので、目安としてちょうど二倍の石高をもつ本多家の家臣団(正保-元禄)を二分の一にすると、給人70人・中小将16人・徒組20人・醫師など47人・足軽75人ほどかと思われます

生沼曹照年譜

『生沼家由緒帳』筆者蔵
明和1年 中嶋武兵衛の二男として生る
天明3年7月 生沼浅之進養娘へ聟養子願い奉り候處、願いの通り仰せ出ださる 20歳
天明5年9月1日 御中小将組召し出され弐人扶持方下し置かれ御料理之間詰仰せ付けらる
天明5年10月 御式臺御中小将番仰せ付けらる
天明6年 篠原権五郎尚賢より印可相伝 23歳
天明6年5月19日 御角番仰せ付けらる
寛政3年12月21日 壱人御扶持方御加増仰せ付けられ、都合三人扶持方下し置かる
寛政6年7月11日 養父浅之進遺知[六十石]相違無く相續仰せ付けらる 31歳
寛政6年9月27日 御時宜役仰せ付けらる
文化10年7月14日 御目附役仰せ付けらる 50歳
文化11年3月24日 頭並仰せ付けられ御用所相勤め候様仰せ付けられ、御武具方・宗門方兼帯相勤め候様仰せ付けらる
文化13年閏8月17日 足軽頭仰せ付けらる
文化14年3月 万法院様御叙爵御礼の為江戸表へ御出府の節、江戸表貸小屋請取り并びに御宿見分を為す
文化14年3月19日 發足仰せ付けられ御帰りの節、御供御先祓い御宿相勤め候様仰せ付けらる
文化14年6月19日 名與三兵衛と申し候處、改名仕り候様仰せ付けられ善兵衛と相改め申し候
文政3年8月8日 武学校に於ける多宮流居合師範方仰せ付けらる 57歳
文政3年10月23日 御歩頭仰せ付けらる
文政4年3月10日 御番定を以て善兵衛儀極老と申すにてはこれ無く候得共、是迄数役相勤め御師範も申し上げ候に付き隠居仰せ付けられ、弐人扶持方下し置かる 58歳
文政13年7月5日 病死仕り候 67歳

多宮流居合の系譜

『多宮流居會傳来覺書』筆者蔵

生沼家十代曹貫に至るまでの多宮流居合の系譜

1705. 多宮流居合傳書 宝永2年12月

『多宮流居合目録』筆者蔵

河井重寛より小川嶢智に相伝された目録
後に小川嶢智の子息と思しき人物に相伝されました

この目録が生沼家の所蔵に帰した経緯は二通り考えられます
1.篠原尚賢より印可を伝授されたとき、この目録も引き継がれた
2.生沼家が多宮流師範となった後、小川家より返還された、これは被伝授者が他界した後は師筋に返還するか火中に投じる規定により

 
 
『多宮流居合目録』筆者蔵

宮北定由書簡:恐るゝ 流儀はこれ無く候

『宮北定由書簡:十月三日付』筆者蔵

差出人の宮北定由、受取人の小川嶢智、共に河井重寛に多宮流居合を学んだ同門の士であり、同流における師範の立場でした

なお、宮北定由は越前福井藩士、高弐百五十石、江戸留守居役
小川嶢智は元越前松岡藩士、食禄百石、後ち浪人して加賀の弓箆町に住し三術を教授した、「無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称される

書中「他流も見及申候へ共深ましき事も相見へ不申候恐るゝ流儀は無之候」と高言し、つゞけて自身の工夫を教え、これは弟子たちへは極密にし、子息へ傳授する扱いであることを教えています
このことから、宮北定由は兄弟子にあたるらしい

江戸時代の武藝というのは閉鎖的印象をもたれがちですが、師範同士、昵懇の者へは書簡を以て秘密を教えることが珍しくありませんでした
また、そういった例は、お互いの主家が異なる場合、より親切に対応したように思います

また書中において、「御當地へ若御出被成候ても御面談の義は少々遠慮にも御座候間御用捨可被下候」と云い、小川嶢智の訪問を断っています
推察するに、他家の者との面倒事は御免ということかと
他家の者が来れば、主家への届けもして宿の手配も必要となる
加えて初対面の者が好ましい人物とも限らず、何らかのトラブルが生じれば、主家から責められる
斯ういったときは、あらかじめ断るのが妥当であったと考えられます

たとえば、熊本藩の三藝師役星野實員が、防州岩国の片山流師家を訪問しようとしたとき一旦断られています
あるいは、仙臺藩の五藝師範石川光實が、他家の剱術修行者を独断で泊めた後にトラブルを起し、主家より罰せられています
この場合、たとえ藩へ届けていたとしても、周旋した石川光實は何らかの罰を受ける可能性があり、他家の人物を引き受ける危険性を示しています

 

宮北定由書簡:伝書の存在

『宮北定由書簡:八月廿一日付』筆者蔵

特筆すべきは、書中「印可并高上極意の免状」について言及していることです

小川嶢智は、自身が伝授された伝書の奥書に示される「印可并高上極意の免状」の存在について不審に感じ、宮北定由にその存在の有無を問います
問われた宮北定由は、他の門弟や土屋市兵衛の子などにも確認して「印可并高上極意」が実質的には存在しないことを明らかにしました
「惣て高上極意印可状定て傳受せしむべし、とこれ有るは書物柄の文躰とて外に傳授の義はこれ無く候」と

このような実情は、伝書の奥書を全く鵜呑みにすることの危うさを端的に表わしており、また当時の門弟たちの認識や情報の共有を示す事例として参考になります

愚考するに、当初は「高上極意印可状」が存在したのかもしれません、いや代々が継承してきた奥書の記述に随えばたしかに存在していた筈です
しかし、いつの頃か傳落・途絶してしまったものと考えられます

1760. 小川則衡墓碑銘 宝暦10年

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

小川則衡に三藝を学んだ松井盛庸の撰文による墓碑銘
これによれば、小川則衡は延寳二甲寅之年(1674)生れる
父は松岡の中書侯(松平中務大輔昌勝)に仕え、食禄百五十石
家督は兄又左衛門が継ぐ

小川則衡は「性剛健篤實學びて倦まず、無邊流の鎗術、多宮流の刀法を以て冠たり」と称され、また「小池氏に四傳之業を請て抜きんでたり」と礼法にも秀でた才を見せ、新恩百石をもって松岡氏に召し抱えられ、師範を勤めた
しかし、故有って僻邑に逃れ、享保十一年国を去る
後に金沢城下の弓箆町に廬を結び、凡そ二十三年、三藝を若干の弟子に授けた
寛延元戊辰年(1748)仲冬十六日に卒す

なお名乗りについて
通称は猪右衛門、金左衛門、弥左衛門と改め
実名は嶢智から則衡に改めたと見られます

後を継いだ小川則衡の息子は、子弟を育てること四年にして早世したという

『小川則衡墓碑銘』筆者蔵

虫食いのためささらのようになっています

無邊流鑓術

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵

村田正利より小川嶢智へ、そして松井盛庸から高田兵右衛門へ伝授された無邊流鑓術の伝書を控えた冊子
九代生沼曹傳のとき写されました

『無邊流鑓術傳来之書草稿』筆者蔵
『槍術秘伝書』筆者蔵

松井盛庸のころに作成されたと思しき無邊流鑓術の秘伝書
早田武節という人物が記したもので、どのような経緯があったものか生沼家の所蔵に帰す

1786. 多宮流居合印可口傳目録 天明6年

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

篠原尚賢より生沼曹照に伝授された『多宮流居合印可口傳目録』
本来、このほかにいくつかの伝書を所蔵していた筈ですが、散逸してしまったと思われます

『多宮流印可口傳目録』筆者蔵

~1817. 多宮流居合定書 文化14年以前

『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵
『入門人等有之学校へ罷出候条相願候節等之御達之物扣』筆者蔵

生沼善兵衛曹照が改名を命じられる以前、與三兵衛と称していたころに作成した定書
これによって前田土佐守家における多宮流居合の稽古日が明らかとなります

縁組願い

『縁組願書』筆者蔵

九代生沼曹傳縁組の願書

1817. 家督相続願い 文化14年3月

『跡式相続願書』筆者蔵

養子生沼曹傳に家督を譲りたいと当局に差し出された願書

願書を差し出した生沼曹照は、自身がいつ急死するか分らない、遺書も用意したと記しているので、なにか健康上の不安があったのかもしれません
結局、このときの願いは許可されず、文政四年に隠居します

1820. 加賀藩武学校「経武館」出座 文政3年

『経武館出座切紙写』筆者蔵

文政三年八月八日、生沼曹照五十七歳にして経武館出座の居合師範役に任じられました
この切紙は、主家である前田近江守宛に出されたもので、その写が生沼曹照に渡されました

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

『学校向達方等一巻留』は、経武館に出座し多宮流居合師範役を勤めた生沼家三代にわたる記録

八代生沼曹照が経武館出座を命じられた文政三年八月八日はじまり、経武館が廃館される慶応四年五月十七日至るまでの四十九年間、学校からの通達や頭衆・御用所・御横目所等との連絡、生沼家が仕えた前田土佐守家との連絡などが書き留められています

『門弟届出書雛形』筆者蔵

1820. 多宮流居合稽古道具新調 文政3年8月12日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

この日、稽古道具について、武学校に在るものでそのまゝ利用できるものを見分し、無いものは細工人へ相談、その寸法図を学校へ提出するよう告げられました

1820. 経武館定日初出座 文政3年8月26日

『学校向達方等一巻留』筆者蔵

初めて経武館に出座した生沼善兵衛の多宮流一門は六十一人を数えました

生沼曹照が経武館出座に抜擢されたのは、家中において多くの門弟を指南していたからでした
「武術に練達して門弟に教ふる者にても、其門弟極めて少数なれば、経武館の師範たることを得ざりしもの」と云い、経武舘の師範は武藝の練達のみで撰抜されず、門弟の人数が少ないため出座の撰に漏れた師範も多くいました

1821. 経武館居合師範隠退 文政4年

『経武館師範方指省願』筆者蔵

生沼曹照の居合師範役隠退願い
経武館出座居合師範となった翌年、病によって早々にその任を辞すことになります
師範役は、その後忰生沼曹傳に引き継がれました

1825. 跋多宮流居會勝口勝負傳来之書 文政8年

『跋多宮流居會勝口勝負傳来之書』筆者蔵

九代生沼曹傳の著書『多宮流居會勝口勝負傳来之書』に寄せられた跋文
撰文は井口如毛の曾孫にあたる井口當和です

基本的に『多宮流居會勝口勝負傳来之書』を讃える内容であり
筆者である生沼素行を中興の祖と称しています

また、文中において井口家の事情についても語られており
1.井口如毛の子當艾は多病によってその伝を継げなかった
2.井口如毛の孫は、生沼曹照に学び免状を相伝された
3.井口如毛の曾孫にあたる井口當和もまた生沼曹照父子に学んだ
ことなどが記されています

1830. 家督相続御礼 文政13年

『礼状案』筆者蔵

生沼曹照が病に伏していたとき、忰曹傳の家督相続を感謝した礼状
もはや花押を書くことすら儘ならない病態だった様子で、この一週間後に他界します

参考文献『加賀藩生沼家文書』『稿本金沢市史』『金沢市史』『福井市史 資料編』『金沢市史 資料編』
因陽隠士記す
2018.8.6~2025.9.7