所藏史料紹介:長谷川流居合拔劍卷

長谷川流居合拔劍卷

帋本墨書 17.8 × 266.4 cm 江戶時代 元祿拾六癸未歲十二月朔日付 筆者藏

長谷川流居合拔劍卷. Edo period. dated 1703.
Hand scroll. Ink on paper. 17.8 × 266.4 cm. Private collection.

● 武道史硏究家の舊藏品。近年緣有って、私藏に歸す。
● 傳承地域は明らかでなく、煤孫という苗字に着目すると、岩手・南部・仙臺邊にその名を多く見ることから、その邊に傳承したものかと推測するに止む。
因陽隱士
令和五年四月廿六日編

所藏史料紹介:上泉流居合目錄卷

上泉流居合目錄卷 一卷 帋本墨書 17.6 × 84.1 cm 江戶時代 元和七辛酉極月吉日付 筆者藏 近江彥根藩上坂家文書

上泉流居合目錄卷. Edo period, dated 元和 7 (1621).
Hand scroll. Ink on paper. 17.6 × 84.1 cm. Private collection.

● 彥根藩念流指南役上坂家舊藏文書。
● 宛名を缺くため、何人に相傳されたものか明らかでない。 假に、この卷を傳授された者が上坂家の人とすれば、井伊直孝に召し抱えられた初代辰信が該當する。
初代辰信は、生國大和、元和三年に召し出され御番を勤め、後二百石を拜領、江戶御賄方を十六年間勤め、井伊直澄のとき彥根御奧御用に轉じ更に十五年間同役を勤める。延寳五年歿。
因陽隱士
令和五年四月廿五日編
『昔咄第七卷前篇』近松茂矩著
『史料柳生新陰流下卷』今村嘉雄篇

『片山流免狀』を讀む

『片山流免狀:元和貳年卯月吉日付』筆者藏

この『片山流免狀』は、肥後熊本藩(細川家)において三藝の師役を勤めた星野家舊藏、という特筆すべき由緖があります。
三藝とは、伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀の三つの流儀にて、その中の伯耆流居合は、「如何樣、古伯耆遍歷の節よりの御傳統にて御坐有るべくと推察致し候得共...<『片山久義書簡:安永五年九月十五日付』>」と、岩國片山家の四代目片山久義が書中に述べる所の流儀にて、詳しい傳來の經緯こそ傳えられていませんが、細川家に傳承するもので、星野家初代の星野實員は、流祖片山久安より數えて九代目の江口之昌に免許を相傳され、後ち同流の師役となりました。

星野實員は、伯耆流居合の免許を相傳され師役となったことで、流儀が繼承していた片山久安の文書、則ちこの『片山流免狀』も受け繼いだと見られます。(歷代の指南役が所謂「指南送り」の扱いで流儀の重要文書を繼承する例は、他藩に認められます。)
受け繼いだか否か、それ自體を示す確たる史料は確認されていません。
しかし、この『片山流免狀』のほかに、「片山伯耆樣御書物」に該當する文書は星野家文書中に確認されておらず、また世に滅多に存在しない文書であることを考え合わせれば、やはり星野實員は流儀の繼承と共にこの『片山流免狀』も受け繼いだと推察されます。
また、この『片山流免狀』は、岩國の片山氏に送った書信において述べる所の「手前家筋に片山伯耆樣御書物傳來有之<『星野實員書翰:安永六年二月十七日付歟』>」に該當すると考えられます。
「御書物」という稱が卷物に相應しくないと思われるかもしれません。この點、片山久義の方の返信には「御傳軸の御冩等にても差し越され下され度く存じ奉り候。」と云い、「御傳軸」は「御書物」に對應しており、卷物であったことが分ります。

この『片山流免狀』の宛名の人物は「谷忠兵衞」と云い、元和二年、小倉藩の初代藩主細川三齋に仕えていた士にて、元和九年、御鐵砲頭衆に任じられ、その知行は加增を重ねて、五百石~壹千百石となった谷忠兵衞が該当するものと考えられます。

一、當流居合太刀の事、貴殿數年執心に遂げられ、其の上手前も我等に次ぎ、弟子多しと雖も、一段と勝り餘る御器用成る故に、我等手前相殘さず御相傳申す者也。
一、貴殿は當流の居合太刀を數年に亙り、他事を抛って執行され、その上所作も我等に次ぐものとなり、多くの弟子の中でも、その御器用は特別に抽んでたもの故に、我等の所作を殘さず相傳するものである。
*「其上手前次も我等」・・・こゝの「次も」は割書きされており、解釋に惱みました。先ず「手前」は相手のことを指すのでないことは、後に「御手前」とあることや、「我等手前不相殘御相傳」の文言によって分り、所作の類いを指すと考えられます。そして問題の「次も」ですが、こゝで敢えて割書きにする理由がなく、「も」字は「も」と讀まず、單なる書き損じであって、その右に「次」と書き直したもので、「其の上手前我等に次ぎ」と讀む方が妥當かもしれません。譯文においては、念のため「も」字を殘して、「其の上手前も我等に次ぎ」と譯しました。文意は變化しません。
*「手前次も」・・・筆者藏する所の『片山流居合序・免狀・歌之書・高上極意・居合目錄・印可之狀合卷:寬文拾二壬子曆十一月吉日付』に於いては、この文言が省かれています。

何方にても居合執心の旁〃之れ在るに於ては、堅く誓帋をさせ、其の上弟子の心を引見して、僞り之れ有る者に於ては、極意など相傳成され候事は、御無用にて候。
何方(いづかた)にても、居合に執心の者がいれば、必ず誓帋を差し出させて、更にその弟子の心中をよく觀察して、もし僞り有る者と分れば、極意などの相傳をしてはいけません。
*この段、「堅誓帋をさせ」と「其上弟子の心を引見」との間に文言を補い、「(堅く誓帋をさせ)御相傳有るべく、但し極意の位は(弟子の心を引見)」してと見る方が分りやすいと思います。

殊に御手前、彌〃夜白共に御心を懸けられ、他流の理方よりも非無き樣、御心持肝要たるべく候。仍て免狀件の如し。
殊に貴殿は、彌〃(いよいよ)晝夜共に心懸けて、他流の理法よりも劣ったところが無い樣にすべき心持を肝要とすべきである。仍って免狀はこの通りである。
*この段、もう少し分りやすい例を『尾州竹林派四巻書第四奥儀之巻:延寳七未ノ二月付』より引くと、「此書物御取候て後御油斷有間敷候。萬藝に免じ印加を取候ては、必々弓斷有物也。扨こそ羪由は百步に柳の葉を立、百々に百々矢を射に不外といえとも、三日の弓行を不成して三間の目中を射外といえり。是等を常に御心に被懸、彌々御嗜み候て、家傳の名を御下し有間敷候者也。」というような文意に近いと思われます。

註 太字:譯文 赤字:意譯文 *:筆者註

令和三年九月二十日 因陽隱士著

參考史料 『片山流免許之卷:元和貳年卯月吉日付』筆者藏/『肥後熊本藩星野家文書』筆者藏/『近世劍術における訪問修行に關する硏究―片山家文書『星野記』について―』和田哲也著/『新・肥後細川藩侍帳』谷忠兵衞履歷