武術史料拾遺餘滴:因陽隱士著錄

因陽隱士日日錄

壬寅四月二十四日 噂のAIくずし字認識「miwo」

「古文書を讀んで吳れるんですよ」、そんな話を知人に聞き、今日はじめてスマホで試してみました。一つ目は、節齋翁の書柬、二つ目は詠士翁の書柬、三つ目は菅沼政辰著書冩、いずれも以前取り上げたものです。どれほど讀めるのか見てみましょう。

『山外節翁森田益先生筆書柬』筆者藏
『山外節翁森田益先生筆書柬』筆者藏:AI認識結果
『詠而歸廬主人宮島大八先生筆書札』筆者藏
『詠而歸廬主人宮島大八先生筆書札』筆者藏:AI認識結果
『菅沼政辰著書冩』筆者藏
『菅沼政辰著書冩』筆者藏:AI認識結果

AIくずし字認識、一つ目と二つ目とを試したところで、予想よりも全然讀めていなかったので、三つ目の標準的な手蹟を用意しましたが、結果は...

使い方を間違えているのでしょうか?

後ほど、解說文を讀んでみると、たしかに「くずし字OCRは未だ實用的なレベルに達していないのが現狀です。」と書かれていますね。

因陽隱士著

壬寅四月二十一日 讀めない古文書2

古文書を讀んでいて讀めない文字がある、これがどれほど齒がゆいことか、古文書を讀む人ならば經驗したことがあると思います。

○ 今日は
私が尊敬する宮島詠士翁[1867-1943]の書札を取り上げます。詠翁は、師張廉卿翁に學び、書法を繼承し獨自のものへと昇華した書家として今日知られている人物です。しかし、世間のその認識とは裏腹に、詠翁自身は書家と云われることをひどく嫌っていました。

『詠而歸廬主人宮島大八先生筆書札』筆者藏

○ 讀む
「先考井々居士」というのは、竹添進一郞翁のことにて、宛名の竹添履信翁の養父です。則ち、その亡父の遺著『左氏會箋』を貽られたことに謝意を述べ、次いでその卷首に序を寄せた江瀚翁の孫江勉が、今慶應義塾に在學しており、善隣書院にも屢々來るので、そのとき『左氏會箋』を見せよう、との話しです。

「江瀚氏」字叔海、號石翁、室名愼所立齋。福建長汀人。

○ 讀めない文字
「卷首の江瀚氏序文見へ□人の孫江勉」、こゝの讀めなかった文字は、墨が滲んでいるためか、どうしても判りませんでした。

○ 認められた年代は?
封筒に消印があり、大正九年に認められたものです。

○ 感想1
私は專ら近世の古文書に意を注いでいるため、近代の古文書にまで目が屆かず、從って收集物も少ないのですが、この書札は特別、私が愛藏する古文書に屬します。嘗て書の勉强をはじめたころ、詠翁の手蹟を見て惚れ込み、知れば知るほど敬愛すべき人物と思われ、いよいよその手蹟を慕うよりになりました。

○ 感想2
詠翁の人柄を慕うあまり、張廉卿翁の詩文集を取り寄せて屢々讀んでいますが、謭劣の分際には過ぎたるもので、これが途轍もなく難しいです。難しさは、主に語彙の豐富さにあるように思います。先ず、これを詩文集を讀む下地として、厖大な詩文を記憶していなければなりません。あらゆる詩文を予め知っていなければ、本來の妙味を知ることが出來ないのです。愚才には知り得ない妙味、才能ある人が羨ましいです。

因陽隱士著

壬寅四月二十日 和文體の古文書

今日は前囘觸れたように、和文體の古文書として、森田節齋翁(1811-1868)の書柬を取り上げます。

『山外節翁森田益先生筆書柬』筆者藏

○ 書き下すと
一書を呈し候.時下大暑に御座候處.益御多祥珎重賀し奉り候.扨て此の度令郞又一君[竹外の子]當地へ御出て.鎗術修行御執心.感心いたし候得共.御藝能の程相知れ申さす候故.誠に岡山へ同道諸道場に參り試合仕り候處.岡山藩一人も敵する者之れ無く.僕も亦た相驚き候位也.それより弟[節齋]庭瀨抔へ同道仕合.少年の妙術.諸人の目を驚せ申し候.今三年柳川にて修行いたし候得は.日本屈指の鎗手に相成り申すへく候間.何分僕に御任せ下されたく候.秋涼に相成り候までは.弟方に滯留.雜用はとんといり申さす候.柳川へ參り候節は.中原久次樣雜用相辨し申すへく候.決して御難義は致させ申さす候.老兄幷に御老母・御家內に當時御心配掛け候得共.武藝にて天下に名を著し候得は.恐れ乍ら高槻侯の御外聞と存し奉り候.此の義御家內へ得と御話し下さるへく候.御女子には御座候得共.武家に御成長成され候事故.此れ等の事申し上けすとも御存しと存候得共.念の爲申し上け候.先つは右申し上けたく此くの如く候.かしく.
六月十九日 益
竹外老臺
尙々.此方にて又一子世話に相成り候名前左の如し.
中原久次.同無事之介.小野延太.同應介.
此の者皆素より知る者なり.兄諸名舊作を記し.禮書に附して御遣し成され候得は妙なり.

○ 認められた年代は?
「今三年柳川にて修行いたし候得は.日本屈指の鎗手に相成り申すへく候.」、「秋涼に相成り候までは.弟方に滯留.」、如斯文言を見れば、藤井又一翁が九州修行へ向う途次、安政四年に認められたものと推測できます。又一翁は天保七年生れ、當時二十二歲。

○ 感想1
節齋翁は豪放不羈にして、その奇人ぶりは度が過ぎ、ほとんど無賴の徒の如く、天下無用の狂生とも稱されるほどの奇人の中の奇人でしたが、一部の見識ある人はその奇なるところ、甚だしき慷慨の志がいずれ國家の干城になると期待していたようです。

○ 感想2
節齋翁の手蹟は、その人となりに比べれば、尋常な手に類するものと見えます。また、藤井竹外翁の手蹟と、どことなく似たものを感じます。

○ 感想3
ほとんどの和文體の古文書は、決まった言い廻し、常套句斗りを以て書かれたるため、慣れさえすれば文の構造が分らないということはありません。たゞ書き下し方・讀み方は、一工夫を要するものと思います。

この點、私は主に當時出版されていた本の讀み假名に注目しています。たとえば、近ごろ見たものにこのようなものがあります。

「罷出(まかりいで)御指南(しなん)可受(うけ)候」・・・「受くべく」と讀みそうです。この類に、「可申上候」があります。現今「申し上ぐべく」と讀むのが普通ですが、當時の本に「申し上げべく」と讀むものあり。

「久敷(ひさしき)相成(あひなり)」・・・現今「ひさしく」と讀みますが、これも意外ですね。

「奉(たてまつり)欣抃(きんべんし)候」・・・私が最も知りたいところです。

「御介抱も無(なく)殘處(のこるところ)」・・・「のこすところ」「のこるところ」、どちらでも良いのかもしれませんが、「のこるところ」と讀んでも間違いではないということですね。

「不(ず)被(られ)爲(せ)叶(かなは)」・・・あまり聞かない語感です。

「思召立給者 おぼしめしたてたまはゝ」・・・これは以前に見たものです。「者」字を「はゞ」と見る例です。

ほかに、いまだに音讀みすべきか訓讀みすべきか惱むものもあります。時代や人によっても、讀み方が異なる字句もあるようで、この邊はやゝ紛らわしいのですが、現代人の尺度を用いないことが肝要かと思われます。


この手の古文書は和文體ではありますが、そこに漢文體の影響があることは周知のことです。定型のところは脇に置き、たとえば文中「僕亦相驚候」は、「僕も亦(また)」と”も”を補って讀みます。

江戶時代の和文體の古文書は、全國的に普及した文體であり、文法にさほど知識を要さない點、とても讀み易くて助かります。

因陽隱士著

壬寅四月十日 古文書解讀のために漢文を2

今日は尼崎藩儒中谷雲漢翁(1812-1875)の書牘を取り上げます。

○ 中谷雲漢という人物の槪要
雲漢翁は讚岐系の徂徠學を修めた藤澤東畡翁(大坂の泊園書院主)に學び、「經義に通じ、諸子史傳に涉り、特に文章を能くした」と傳えられる人物です。師東畡翁の推擧によって、尼崎藩の六代藩主松平忠榮侯に召し抱えられ、同藩の儒官となり、後ち新たに創設された同藩校正業館の督學に任じられました。明治八年歿、六十四。
その人となりについては、雲漢翁自ら撰した「雲漢狂人壽藏碑」の中に、「性恣縱不勝勤.日與少年戲談笑傲而已.所以爲狂人也.」とあり、一風異った人物であったことが窺われます。

『雲漢中谷輝先生筆書牘』筆者藏

○ 書き下す
中谷梧葊男輝.謹て尺書を左右に修む.敞父[梧葊]の沒するより旣に五年.其の在世の時.或は其の舊鄕諸學士先生の事を語れは.則ち嘖嘖として閣下橋梓[父子]を稱して輟ます.輝竊に怪しむ.敞父の人に於けるや.揄揚する所有らす.而して特[たゞ]閣下橋梓のみを稱する者は何そや.屬者[このごろ]篋底を探て郢作若干篇を得る.乃ち閣下敞父に贈る所の懇傾の情.楮間に靄然たり.又た家乘[家の記録]を閱すれは.則ち尊公[檣棟の父]も亦た嘗て草廬を顧ると云ふ.斯[こゝ]に敞父の閣下橋梓を稱するのみならす.閣下橋梓も亦た敞父を愛すると知る.盖し其の心卓卓として形骸の外に游樂する者や爾り.爾らされは.則ち閣下は貴邦の大望族なり.敞父は衡門の者の類に非す.閣下橋梓は夙に一鄕の政に任ふ.敞父は流遁する者の類に非す.閣下橋梓は上下に孚[しん]せられ.聲遠邇に騰ると道ふ.敞父は拓落する者の類に非す.然るに以て何そ其の相戀戀の此に至れるや.夫れ貴邦の殷んなること.諸學士先生何そ限りあらん.敞父の相知識する所も亦た何そ鮮なからん.然して其の心卓卓として形骸の外に游樂する者は幾人か.宜しきかな.其の之を稱して輟ます.特[たゞ]敞父世に在て.而して輝其の言を達する能はさるを悲しむのみ.今之を達せんとして.而して敞父則ち亡し.罪謝する所無し.是れ惡んそ尺書を左右に修めすして.以て之に鳴くを得んや.數年を出す.輝將に貴邦に趨きて敞父の舊鄕を問はんとす.伏して惟るに閣下橋梓.其の不敏を憫み.待つに通家の誼を以てす.則ち屋烏の愛.敞父も亦た窀穸に感するもの有らんや.尊公[檣棟の父]に別には書を修めす.請ふ此の意を致されよ[言傳られよ].時氣漸く冷し.千萬自珎せよ.不旣.
仲秋三日 中谷輝拜頓首
廣田檣棟君閣下

○ 認められた年代
こゝに取り上げる書牘は、文中の文言によって、雲漢翁の父梧葊翁が没してから“五年”後に認められたと分ります。しかし、『雲漢集』ではこゝを“四年”と記しており、弘化二年か三年か、どちらが正しいのかよく分りません。取り敢えずその頃として、雲漢翁三十四・三十五歳の筆として置きます。

○ 感想1
一見して徂徠翁の筆蹟に類するものを感じます。筆蹟のことはさほど分りませんが、よほど徂徠翁の筆蹟を硏究したのではないでしょうか。なぜか宛名の苗字が削られていますが、『雲漢集』によって「廣田」氏と判っています。しかし、この人物が何者なのか分っていません。尼崎藩領の庄屋で、且つ學識ある人物かなと思います。

○ 感想2
「閣下橋梓道孚上下聲騰遠邇」、この「孚」を「信」の字義と捉えるほかに思いつかず、これで合っているでしょうか。
末尾の「尊公不別修書請見致此意」の所は、尊公が檣棟の父を指すということに中々氣付かず、文意を汲み取ろうとして、暫く梃子摺りました。

○ 感想3
やはり、こういった古文書は讀んでいて樂しいですね。文辭についてはさっぱり分りませんから、調べることがたくさんあり、未知のものを知るという喜びがあります。また、敎材などゝ違い、答えが無いため、何が正解か試行錯誤する課程も面白いです。

以上、極めて平凡な感想で終りです。次囘は私にとって馴染み深い和文の古文書を取り上げるつもりです。

因陽隱士著

壬寅四月七日 古文書解讀のために漢文を

私が漢文を學び始めたころ、職場の人に「あれ?今日は古文書讀んでませんね?なんで漢文なんですか?」と聞かれたことがあります。古文書一邊倒であった私が、當時なぜ”漢文”を勉强していたのか。それは勿論、古文書の中にも漢文體で書かれたものがあるからです。そして、古文書の中でも特に漢文體で書かれることが多いものは、”武術の古文書”ではないでしょうか。私はあるとき氣が付きました。漢文を候文の一種として捉えて、なんとなく讀んでいては、正しく解讀出來たことにはならない、“漢文法”を習得する必要があると。

○ 漢文法
これまで樣々な本を讀み、漢文法の理解にもっとも益有りと思ったものが松下大三郞著『標準漢文法』です。これから漢文法を學ぶ人におすゝめします。また、漢文法とはちょっと違うのですが、漢文というものを考える上で、皆川淇園著『習文錄』は面白いです。そのほか、山本北山著『作文率』、江村北海著『授業編』等。

○ 『古文書・古記錄を讀む』
私は未だ目標へ向う途上ではありますが、その成果として幾つかの漢文體の古文書を讀んだものを『武術史料拾遺』の「古文書・古記錄を讀む」に載せています。未熟なところが目立つものですが、今後精度は向上していくものと思いますので、寬容な心持で眺めていてください。

○ 『日日錄』
『武術史料拾遺』では、専ら武術に關する古文書を取り上げるため、それ以外の古文書についてはあまり觸れないのですが、私は本來どの分野の古文書も好きであり、取り上げたい取り上げたいと思いつゝも、我慢して取り上げていませんでした。そこで、武術とは關係ない、さまざまな古文書を取り上げるため、この「因陽隱士日日錄」を立ち上げることにしました。

○ 今日は
松平賴順公の書牘を取り上げます。もし、古文書解讀試驗のようなものがあれば、搦手というべきこの書牘類を出題するとおもしろいのではないでしょうか。私自身、以前は殆ど齒が立たなかったのですが、この頃ようやく初步を身に付けたことで、文意も解るようになりました。まだまだ途上ですが、この書牘については、文字の判讀と合せて滿足する結果を得られたと思います。

『松平賴順公筆書牘』筆者藏

本邦古より能書有ること.華人に減せす.道風碑・多賀城碑.證すへし.道長・從英・寂照等も亦た名有り.予未た其筆蹟を覩すと雖も.能書を爲さんと要して害無きのみ.奈何.二百年來.書道遂に廢る.書家を稱する者は.學はすして書道に通せす.薦紳・先生の徒.書意を誦するを以て.而して書學を知らす.之れを何と謂ふか.只與に語るへき者は足下一人のみ.恨むらくは山海隔絕して.手を何れの年にか握るを知らさるのみ.
再ひ烏石先生の梧右に遣す.皆川源賴順

○ 感想1
徂徠学の影響が見られる文面です。文面自体は単純なものですが、旧幕時代の御家流の手跡というよりは、古いところの和様、或いは支那の法帖を髣髴とさせる手跡であり、御家流の解読に慣れた者にとっては、やゝ読みづらいかなと思いました。「以誦書意而不知書学」の「以」字に少し疑あり。

○ 感想2
松平頼順公の書に於ける烈烈たる自負、また師烏石翁を敬慕している様に感心しました。たゞし、後七子の影響ありと思えば、烏石翁への言葉は文面ほど大げさなものではないかもしれません。自負のほどは、この手跡を以て師に牘を認めたことが證しており、文面通りのものかなと思われます。

○ 次回は
もう少し後の時代の書牘を取り上るつもりです。

因陽隱士記

壬寅四月二日 讀めない古文書

今日取り上げる古文書は、以前からサイト揭載を目論見つゝも、全文を讀み切れないために揭載を見送ってきたものです。長年、古文書を讀んでいるにもかゝわらず、未だに全て讀み切れないのは、生來の愚昧な質が禍いしているのでしょう。

この書簡は、雲弘流の元祖井鳥巨雲に宛て、小出切一雲が認めたもので、巨雲の弟子根岸氏の修行の樣子について返答し、また自身の近況を傳えています。

『小出切一雲先生筆書簡』筆者藏

今持てる知識を以て讀んだものが、下に揭げた譯文です。何箇所か確信を持てず、どうしても納得できないため、揭載を見送ってきました。

「1.頭氣にて相煩」・・・頭障にて氣分惡しく、ということでしょうか。

「2.おには宅」・・・人名は文脈とは關係なく判讀せねばならず、字形のみが賴りです。平假名「尓(に)」と「可(か)」とは字形が似ており、書き手によって變わるため、やゝ不安ですが、これは「尓」と見ました。
しかし、こゝの一文は「一夕太兵衞殿へ參候ておには宅緩々と可得貴意と」と讀むと、「おには宅」が文脈を亂しており、どうしても正解とは思えないのです。揭載を見送った最大の原因はこゝにあります。

「3.愚も御無心申入候」・・・尙々書の小字にて、且つ本文の字と被っているため、ちょっと讀みづらいです。こゝで問題なのは「無心」です。字形はそうとしか見えないのですが、文脈に沿わない文言かな?と首を傾げます。

「4.諸事近日期面拜候」・・・「諸」字の左旁の腹のところ、筆を卷いたように見え、氣の所爲か?と一抹の不安あり。

このように讀めない古文書に直面すると、改めて生來の才能の無さを感じます。悲しいことですが、莫大な時間を割り當てゝ、專心努力した結果がこの程度とあれば、努力丈けでは到達し得ないところがあり、こゝら邊が凡人已下の才能の限界と認めて諦めざるをえません。

因陽隱士著

壬寅三月二十八日 近比得た登登葊翁の扇面

『登登葊武元質先生筆七律』筆者藏

偶然賞雪此亭中 更喜二三佳客同
一樹寒梅剩着粉 數竿細竹曲如弓
輕輕飄絮黏苔積 片片撒鹽到水空
滕六爲君粧好景 宛乎人坐水晶宮
臘月賞雪於香月亭 登登葊

登登葊翁の筆蹟は、旣に二三藏していたところ、過日偶〃目にした此の扇面には目を瞠り、直に購入しました。扇面の外周に、雜な糊付けによって生じた箔の色移りがあり、この作品の景を損なっていますが、それさえ些細な缺點に過ぎないと思わせて吳れるほど、この筆蹟は私の好むものでした。

また、登登葊翁は詩人として名あり、この扇面にはどのような漢詩が書かれているのかということも樂しみの一つです。しかし、私は專ら和文・漢文を究めようと斗りしてきたゝめ、和歌・漢詩の方は滅法疎く、こゝに書かれた漢詩の妙を味わえないことを齒がゆく思います。

偶然雪を賞す.此の亭中.
更に喜ふ.二三の佳客同にす.
一樹の寒梅.着粉を剩し.
數竿の細竹.曲かること弓の如し.
輕輕たる飄絮.黏苔に積り.
片片たる撒鹽.水空に到る.
滕六.君か爲に粧ふ好景.
宛乎.人坐す水晶宮.
臘月.雪を香月亭に賞す.

飄絮・・・風に吹かれて舞い上った雪片。
撒鹽・・・飄絮に似る。
滕六・・・雪神の名。
宛乎・・・さながら。

鈍らな感性を精一杯働かせて讀むと、どうやら香月亭を水晶宮に喩えてしまうほど感動した雪景色を詠んだものゝようでしょうか。夏の暑さを凌ぐために、敢えてこのような詩を揮毫したものかと想像します。

因陽隱士記

壬寅三月二十六日 風傳流鑓術の誤傳?

近者、風傳流の好史料を得ました。この史料は、元祖中山物外門下の逸足菅沼政辰の著書の寫本にて、數日かけて精讀したところ、元祖本人から聞いた話や當時の風傳流について見聞したことが著されていると分りました。

この史料を讀んだ後、『日本武道大系』を引見すると、どうも元祖中山佛外の事蹟について相違する點が多くあることに氣付きました。これまで私は、記述の通り疑念など缺片も覺えることなく鵜吞みにしていましたが、近ごろ得た史料の信賴性を考えると、どうしても從來の通說というものに不審を覺えざるを得ませんでした。勿論、『日本武道大系』はずいぶんと昔に書かれたものであり、どの分野にも言えることながら、新史料が發見されゝば、通說は容易に覆るものだということは承知しております。問題は、後世の記述を鵜吞みにしていた私の迂闊さです。

この菅沼政辰の史料については、いずれ風傳流について書くとき、委しく取り上げる積りです。故に、こゝには誤傳と思しきところ、その幾つかを擧げるにとゞめます。

先に觸れた『日本武道大系』記述の不審點は、たとえば、
「中山父子は浪人し、次いで吉成は越前大野藩主松平但馬守直良に祿二百石で召し抱えられた。ここに仕えること十數年、寬文二年(一六六二)松平直良が沒するとまたまた浪人し」
先ず、松平直良の歿年が史實と相違しています。松平直良の歿年は延寳六年(一六七八)。そして、假に記述通り寬文二年に浪人したとすれば、逆算して、元祖は少なくとも承應元年以前から大野藩士であったことになります。
私見では、元祖中山物外は慶安二年に風傳流を建立、それ以前から竹內流を指南していましたが、風傳流を建立してからもしばらく江府の大名家に寄寓しつゝ同流を弘め、その後江戶を出て美濃、彥根を經て尼崎に至り、こゝで大野藩仕官の話が持ち上がり、大野藩に仕官が決ったと考えられます。推測すると、大野藩仕官は寬文前期です。つまり、『日本武道大系』の記述通りとすれば、慶安二年の風傳流建立から僅か三年以內に大野藩に仕官したことになり、出府から美濃や彥根、尼崎に遍歷した年月がずいぶんと壓縮され、辻褄が合わないように思われます。

『菅沼政辰著書冩』筆者藏

次に、私が最も問題視している記述について。
「寬文七年旗本金田遠江守正勝の推擧によって美濃大垣藩主戶田采女正氏信に仕え、祿二百五十石を賜わった。かくて十五年間大垣にあったが、天和元年(一六八一)十一月戶田氏信が卒すると、吉成はまたも浪人して」
「旗本金田遠江守正勝の推擧」と云うのは、菅沼政辰の著書に拠れば「近江水口藩の初代藩主加藤內藏助明友の推擧」と考えられます。この仕官話は、同書において事の經緯を詳しく傳えており、信賴性が高いものです。また、加藤明友の娘が攝津尼崎藩の藩主靑山幸利の妻であったことも無關係ではないでしょう。
次いで、「天和元年(一六八一)十一月戶田氏信が卒すると、吉成はまたも浪人して」の記述もまた卒年=浪人という一聯の流れですが、正しくは戶田氏信の子氏西のとき勝手不如意につき行われた“延寳の大暇”によって元祖は浪人したのです。これは延寳八年のこと。與頭戶田權兵衞を以て元祖に渡された浪人由來の一札が菅沼政辰の著書に書き留められています。

こゝに氣になる點の幾つかを擧げました。現在も調査を續けていますが、菅沼政辰の著書は、年次の明確を缺き、やゝ手詰りの狀態です。

因陽隱士著

壬寅三月二十三日 新硯を使う

昨日今日と、新たに入手した硯を使いました。普段、小字ばかり書いているので、これほど大きな硯は用途にそぐわないのですが、以前古梅園で買った硯の調子が芳しくないため、この大硯の方を重寳することになりそうです。

この大硯、ある古文書を買ったときに附いてきたもので、當初ずいぶんと使われていないように見え、はたしてこのまゝで墨を磨れるだろうか?、目立ての必要があるか?と按じつゝ、いざ墨を磨ってみると、案いのほか良く、書いてみると心なしか以前よりわずかに墨の滲透が良くなったように感じられましたが、氣の所為かもしれません。

さて、正確に古文書を解讀するためには、筆を把って行書・草書を習う方が良いと思い立ち、これを日課として已に百八十日が過ぎました。およそ半年が過ぎようとしているのですが、未だ目指すところの書からかけ離れていて、百文字書いて、滿足できる文字は一文字有るか无いかという有樣です。遲々として進步しないのは、長年硬筆ばかり使ってきた弊害でしょうか。

技術の進步はさて置き、習字によって古文書を解讀する力を養えるのか?という點です。結論から言いますと、現在のところ未だ效果はありません。あまり解讀に及ぼす影響を感じられませんが、一方で、筆蹟を見たとき、筆意や巧拙を見究める力がついてきたと感じます。これまで筆蹟を見ても、漠然とした印象に止まっていたものが、ある程度の確かな尺度が出來たようで、筆蹟から汲み取れる情報が增えています。今後は、臨書の手本とするものを古文書向きのものにすれば、解讀力の向上につながるかもしれません。

因陽隱士記

壬寅三月十七日 近比得た徂徠翁の小品

先日取り上げた廣澤翁の牘のほかに、近ごろ荻生徂徠翁の牘を得ました。一見して贋物と察せられるものでしたが、多くの贋物は何かしらの眞蹟を寫したものであることが多く、これはこれで書かれている內容に興味があるし、おもしろいと思い購入しました。

世間では、贋物=無價値という捉え方をされることが普通だと思いますが、果してそうなのでしょうか、贋物といえどもよくよく觀察すれば、それはそれなりに見るべき價値があり、何一つ參考にならない訣ではないと私は考えます。

取り敢えず、本文を讀んでみましょう。

『徂徠物茂卿先生筆書牘』筆者藏

註 一帋 帋本墨書 縱三二・七 橫一七・五 江戶時代 筆者藏

書を得て茲に足下の淸勝なるを知る.何の喜ひか之れに加へん.祇[たゝ]歲の莫しと云ふに値[あ]ひ.笙を援つて鳳鳴を作すは.高尙と謂ふへきかな.家の猫兒此の聲を怕るゝこと甚しかり.足下豈に渠輩を以て玉面を爲すか.古昔三代の時.大蜡[年の終りに諸神を祭り.来年の除厄を祈る]尙ほ且つ之れを迎ふるに.敢へては諸[こ]れを忽せにせす.伏して請ふ.足下謹て其の心に逆ふ勿れ.三河の淹魚を承惠するは.厚惠と謂ふへし.它は面謝に容る.不備.
右爽鳩大夫梧右に復す.茂卿頓首.

徂徠翁は、飼っている子猫が笙の音に怯えるさまを引いて、爽鳩翁が歲末の行事を疎かにしている不心得を諭しているように讀み取れます。但し、私はこの邊りの故實に疎く、果して正しく文意を汲み取れているのか心許なく思います。/ 「祇値歲云莫矣」・・・「まさに歲の終りを迎えるにあたって」の意と見えますが、淺學にて「云莫」をどのように書き下すべきか惱みました。/「足下謹勿逆其心哉」・・・この「哉」は原文のまゝであれば意を汲めるのですが、書き下しになると、適切なものが思いつきませんでした。/ 宛名の「爽鳩大夫」は、鷹見爽鳩と云う三河田原藩の家老にして、徂徠翁の門弟、詩文を能くしたと傳わっています。/ 此の牘は徂徠翁の筆蹟でないとしても、その本文は『徂徠文集』に收錄されており、嘗て爽鳩大夫に宛てゝ認められたものと相違ありません。

偖、冒頭の方に少し觸れた、贋物であっても見るべきところがあるというのは、先ず贋物を觀察することで、贋物とは一體どういうものかという實見と經驗とを得られる點にあります。眞筆と何が違うのか比較して、何處が良くないから贋物と言えるのか見極めることで、より眞筆の特徵を知ることが出來ます。これは畫像や寫眞だけでは分らないことで、實物を見ることが肝要と思われます。

また、眞蹟を基にした贋物があり、この場合筆蹟は贋手でありながら、そこに書かれた內容そのものは眞實ということがあります。假に、眞蹟が失われてその內容が知られていないとなれば、贋手によるとはいえ、その內容には價値があると言えます。しかし、贋手による物をどこまで信用できるのかという點は、廣範の史料に照らしてその眞僞を確かめる必要があります。今囘、こゝに取り上げた牘について言えば、贋手であり內容は眞實であるものゝ、旣に知られたものです。敢えてもう一つ價値を見出すなら、署名・宛名の處でしょうか。この部分は『徂徠文集』に載っておらず、眞蹟を基にした可能性は充分にあります。

こゝまで、この牘について”贋物”という語を用いてきましたが、人によっては”寫”として扱うかもしれません。この區別は、そのものゝ捉え方や、個人個人の解釋の仕方によって變わると思います。

今日は敢えて贋物と思しき文書を取り上げました。粗々しい記述といえども、眞贋を考えるとき、なにか手掛かりとなれば幸いです。

因陽隱士記

壬寅三月十六日 近比得た廣澤翁の小品

しばらくサイトを更新していませんでした、お久しぶりです。サイトを更新していなかった間は、相變らず古文書と漢文とを讀む日々を過していました。學べば學ぶほど關心は深くなり、興味は盡ることなく、新しく取り込む情報が多いために、反ってサイトの更新に割り振る時が無くなり、サイトは一旦更新を止めざるを得ない仕儀となりました。

サイトの更新が滞るほど、一體何をそんなに讀むものがあるのかと不審に思われるかもしれません。これを例せば、江戶時代の書翰や記錄、詩文といったものを讀んでいて、特に力を注いでいるのは文(漢文體)です。和文體で書かれた書翰や記錄と違って、漢文體の文は、文法を熟知し且つ多くの語彙を運用・記憶しなければ讀み解けないものです。生來愚昧な私は、未熟な文法認識と僅かに記憶した語彙とを驅使して、難解な漢文に立ち向かうため、多くの時を費やさゞるを得ず、サイトの更新から遠ざかるばかりです。漢文體の文を讀むことは、私に最も向いていないと承知しています。しかし、文(漢文體)そのものには計り知れない魅力があり、敢えて不向きという缺點から目を逸らして、讀み解くことにしています。

偖て、良い文は有るだろうかと探索していると、近ごろこのような牘を得ました。

『廣澤細井知愼先生書牘』筆者藏

註 一帋 帋本墨書 縱一八・二 橫二六・九 江戶時代 筆者藏

此の小品、一見して筆蹟が冴えていて、よほど能筆な唐樣の書家か支那人かと見え、署名の書き方はどうやら和人らしいと思いつゝ、兎も角筆蹟が良いということで卽坐に購獲を決意しました。
歸宅してこれを覩ると、印に見覺えがあり、細井廣澤翁ではないか?と腦裡によぎりました。しかし、印文の「愼」字が一致せず、どういうことかと一頻り首を捻ったあとで、改めて落款の「眘」字に着目して調べると、「愼」字に字義が似ており、どうやら「眘」と「愼」とは通用しても差し閊えないと判り、廣澤翁に相違なしと極りました。唐樣の大家として知られる翁であれば、この支那人の筆跡と見紛うほど和人離れした筆跡にも納得でき、改めて得難いものを得られたと心中に充足を覺えつゝ、文面を讀みます。

夜雪ふり小[やゝ]寐[ねむ]る.曉を冐して日本橋上の雪を望みて一律を得て.聊か英眸を瀆す.昨日尊翁先生駕を枉[ま]けられ.感謝比[くら]ふる無し.萬萬面布す.
右伊賢弟に啟す.友人細眘拜す.

印文.細知眘印.

文意は「一律を呈す」を主として、その作詩に至る狀況を傳え、また伊賢弟の父か?「尊翁先生」の來會の謝意を副えたものです。どのような一律を賦したものか、今となっては知る手段はありませんが、作詩に至る前の描寫に風情を感じます。/ 伊賢弟の下の小字は本文の遺漏か、それとも脇付か、未だ確たる答えを得られていません。

今日は、この日日錄の初めにつき、趣味の購獲について觸れました。私にとって、古い筆蹟や文書を購獲することは、好奇心を維持して學ぶために不可缺な行動であり、且つ日々の大きな樂しみであり乍ら、同好の士を得られないことから、こゝにこれを記して慰めとします。

因陽隱士記