古文書を読むために

判読練習問題

はじめに

古文書を読むために、判読する力は必要不可欠のものです。判読せずして文義を理解することは叶わず、また判読せずして文面を考察することも出来ません。

古文書を読み解く上で、判読する力が重要であることは多くの人が認めるところです。しかし、その認識に反して、判読するための技術や、学習の仕方は確立されていません。様々な試みが為されているようですが、判読力を身に付けるための学習の仕方は、およそ解読辞典さえあれば良いという曖昧なものであり、学習の仕方は専ら個人個人の才覚に委ねられているように思われます。

確かに、古文書を判読出来さえすれば良いのであって、その仕方は敢えて問題とするに足らないのかもしれません。たとえば、才能のある者は己の才覚を以って、目覚ましい進歩を遂げ、さほどの時間を費やさずして判読する技術を会得することも可能でしょう。しかし、誰しもが速やかに判読する技術を身に付けられるわけではなく、往々にして莫大な時間を費やしたわりにさほどの成果を得られないものです。

私は生来の愚鈍にて、最小の労力を以て最大の成果を得たい、と常々思案を巡らせてきました。そして、近頃ようやく確信を得ました。極論すれば、「判読力=記憶の蓄積」なのだと。これは実に単純であり、自明のことでありながら、この一点のみを重視した学習の仕方を聞いたことがありません。

判読力を身に付けるためには、多くの字形を記憶し、多くの語句を記憶し、多くの文脈を記憶すれば良い、たゞそれだけのことだったのです。記憶するためにどれほどの時間を費やしたかは、成果と何ら関係なく、効率の良し悪し、時間の長短など、たゞその仕方にのみ工夫があるのだと思います。

今回、こゝに初心の段階にすべき学習の仕方を一つ一つ掲げることはせず、ある程度読める段階にある人へ向けた学習の仕方を一つ掲げます。則ち題して「判読練習問題」です。

判読練習問題

「判読練習問題」は、ある程度古文書を読める人に向けて作るものです。解読辞典・字典や文字検索など一切使用せず、自力のみで読むことをお勧めます。技倆を試すには恰好のものであり、且つ多くの時間を費やさずして記憶の蓄積を増やせると考えるからです。

問題を判読するとき、文字を調べるという段階は、たゞ心中のみに在って、外物にこれを求めず、ひたすら記憶を頼りとします。

読み終えたら翻刻(答)を見て、読めなかった文字を知り、間違えていた文字を糺し、余力あればそれらの文字を詮議すれば、多くの時間を費やさずして判読力を身に付けられるでしょう。人は己の認識の誤りに気付いたとき、より記憶の定着が良いと耳にします。これが問題形式を採る所以です。

*「判読練習問題」の目安として、敢えて浅薄を晒して私の答案や誤読例を掲げます。何かの参考になれば幸甚です。尚、翻刻(答)そのものに屡々誤読があります。この元の誤読について、出来るだけ触れるようにしていますが、遺漏もあるかと思います、注意して下さい。

頼山陽先生手簡

「判読練習問題」に取り上げる『頼山陽先生手簡』は、折帖仕立にて第一集から第五集まであります。筆跡は図版に比べて粗々しく、元来の運筆の様子を具さに観察することはできません。たゞその書風の形骸を見るのみに留めるならば、これを参考として用いても良いものかと思います。

また、その版の粗さが判読に適さず、初心の者にとっては難しいものゝ、ある程度判読に心得のある者ならば、反ってその難しさが幸いして恰好の教材となりうるのではないかと思います。

「判読練習問題」においては、『頼山陽先生手簡』の冒頭から順々に取り上げます。

時間の配分

判読力を身に付けるため、なぜ時間を惜しみ、労力を惜しむことを勧めるのか?一つに、古文書を学習する人たちは大人だからです。人生の時間は短く、古文書を読むための手段に過ぎない判読に、あまり多くの時間を費やすわけにはいきません。時間を費やすべきものは、判読した先にあると私は考えます。

辛丑二月三日因陽隱士識