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要門の伝書

敬白起請文之事
[田口祐治]−杉浦素水

七足変唄切紙
1785.天明五乙巳年二月勝軍日
杉浦與三兵衛景健−田口祐治

足軽士卒両令巻
1791.寛政三辛亥年三月勝軍日
杉浦素水景健−田口勇治

杉浦與三兵衛景健(旧名三木金蔵)は、常陸笠間藩の杉浦家へ養子に入る以前、周防徳山藩において軍学を学んでいた。
師は近藤繁蔵景高と云い、周防徳山藩主 毛利志摩守広寛の臣である。近藤繁蔵の指南する軍学は要門と云い、上杉謙信を祖とする流派で、この当時は各地に分派が形成されはじめた頃で、後に一大勢力を築くちょうど一歩手前の時期であった。
この要門、奇しくも三木金蔵が杉浦家に養子入りしたことで、笠間藩にも導入されたわけである。杉浦與三兵衛の肩書には皆伝を証しする「権征軍師南溟剛弼」の軍師号が記されており、一家を成すに足る資格を有していた事が分る。
ここに掲げた要門の伝書は、杉浦與三兵衛に同流を学んだ丹波綾部藩士 田口勇治に傳授されたものである。彼は江戸詰のとき杉浦與三兵衛のもとに通い一刀流と共に学んだ。これは他藩の士に限らず笠間藩内の士も同様であったと、当時の書簡から想像される。

要門は一大勢力を誇った流派ではあるが、その膨大な教義ゆえか、階位および伝書のシステムが把握されておらず、紹介した伝書がどの辺りのものか判然としない。
大野藩の軍学師範 中村志津摩の例に照らすと、入門当初の『武門要鑑抄』に次いで傳授されるのが『七足変唄切紙』(初伝相当)、それから五年前後で傳授されるのが『足軽士卒両令巻』(中伝相当)である。ここから更に五年ほど修行すれば免許に至る。

上杉謙信
−加治遠江守景英
−加治対馬守景治(万休斎)
−加治七郎兵衛景明(龍爪斎)
−朝倉小軒景實
−佐久間頼母景忠
−市五郎兵衛景難 佐久間景忠の甥。江戸に住す。
−近藤繁蔵景高(路斎) 毛利志摩守広寛の臣。弟子に徳山藩士 棟居順平是保(1719-1796)がいる。
−杉浦與三兵衛景健(素水 1733-1797) 38才のとき常陸笠間藩の一刀流師役杉浦の名跡を継ぐとともに、習得していた要門を藩内に導入した。
−田口勇治
杉浦與三兵衛景健(素水) 1733-1797
旧名三木金蔵、周防徳山毛利家の家臣 三木善兵衛の子なり。
明和7年(1770)12月38才のとき、3代杉浦正健の跡を継ぎ杉浦三郎右衛門と改め、常陸笠間藩士となり跡式10人扶持を給され、一刀流剣術師役を勤める。
安永3年(1774)使番格、安永4年(1776)物頭格、安永10年(1781)1月5人扶持加増、15人扶持となる。
天明5年(1785)3月53才のとき隠居。
寛政9年(1797)9月21日歿、65才、景健院通道一貫素水居士。
通称は三郎右衛門、與三兵衛(与三兵衛)、晩年は素水と号す。
徳山藩時代に学んだ加治系の越後流軍学「要門」を笠間藩士に教授し後々まで承け継がれた。

田口善兵衛重信
丹波綾部藩士。杉浦派一刀流と要門流軍学を4代杉浦與三兵衛景健に学び、同藩に於いて一刀流剣術師役を勤めた。
通称は裕治、勇治、善兵衛。

掲載史料及び参考資料
『丹波綾部藩田口家文書』個人蔵
『敬白起請文之事』個人蔵
『七足変唄切紙』個人蔵
『足軽士卒両令巻』個人蔵
『日本兵法全集2:越後流兵法』人物往来社

敬白起請文之事 雛形

七足変唄切紙

 

足軽士卒両令巻

 
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