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唯心剣法初學書

『唯心剣法初學書』は古藤田弥兵衛俊定の系に見られる伝書である。杉浦派の一刀流に於いては、これを傳書として用いた形跡はない。例外として、杉浦與三郎右衛門景禮が九鬼式部少輔に『理盡得心巻 』を献上した際、『初學之巻』を別傳として共に献上している。但し写本が数冊現存していることから、初心の弟子に与えていたのかもしれない。

訳文は原文に附された返り点・送り仮名に従いつゝ書き下す。但しこれが為に若干無理のある書き下しとなり、止むを得ず手を加えた箇所もあり。しかし多少は目を瞑りそのまゝとする。
掲載史料及び参考資料
『唯心剣法初學書』私蔵文書

 唯心剣法初學書
夫れ剣法は士の學ぶ所以[ゆえん]にして忠孝を以て本とする也。因みに其の本を努めて欲する者は常に其の身を修む、能く身を修むる者は天命を知る、而して生死を苦しまざる也。是れ以て剣法は士の學ぶべきの急務為り。然りと雖も之れを傳ふるに法有り、之れを受くるに道有り。故に未だ師為るべからざる者能く其の弟子を愛し、弟子も亦た能く其の師を親しまざらんはある也。師弟互いに親愛にして、而して後に法を立つ。凡そ此の法を修めんと欲する者は日用平生須臾も忘るべからざる也。然れども今の多く徒らに光陰を送る。或いは他の技藝に着して己が職分を忘れ、或は安に強暴して昏愚を是とし、而して適[たゞ]此の道に入る者の有ると雖も、

或いは名聞利欲の為め之れを學ぶに實にして志無きもの在る也。或いは之れを學ばんと欲さず、而も偽り謝して之れを捨つる者有る也。或いは功の足らざることを辨へず、而して之れを為ること能くせざると謂いて自ら之れを捨つる者有る也。或いは他に心を移し流れを定めず、終に理に本づかざる者有る也。或いは據[よんどこ]ろ有りて心ならず事に怠りて再び之れを問うこと憚って之れを捨つる者有る也。或いは事を専らにして理を罔[ないがし]ろにし、理を専らににして事を罔[ないがし]ろにする者有る也。凡そ此の七つの者は剣法に齊しからざる所以[ゆえん]也。故に始めて此の道を學ぶ者は之れを聞きて、而して之れを知らざることあるべからざる也。
或る人問て曰く、未だ剣術を學ばざるの人、既に之れを學ぶ人とに敵對して勝利を得ること有り。然らば則ち之れを學びて何の益か有らん哉。予が曰く、然らず此くの如くなるは事を習いて、而して理を未だ正しからず、故に勝利を失う也。亦た問う、事理如何。曰く、事は外也末也、理は内也本也、本は心也、正すは則ち敵の心に恐るゝこと無く、而して自然に勝利を得る也。之れを學ぶと雖も心正しからずば則ち死生の地に臨みて手足働かず、耳目分明ならず、而して常に習う所の術□勝利を失う也。謂うべし其の本乱れて末治むることあらん。否又た問う、子の言う如く之れを學ぶと雖も心を正さずば則ち勝利を失う、之れを未だ學ばずと雖も心正すは則ち利を得、其れ此くの如くんば則ち強士ぞ死を恐るべき哉。懼れずば則ち心正しき也。若し亦た弱士為りと雖も儒佛を學び而して理を窮め心正しき則んば勝利を得べき也。然る則は何ぞ必ずも剣術を學ぶべき哉。曰く、又た事理貫通の人に遇いて豈に勝利を得べき哉。故に剣法の至極は事理貫通 體用冥合して、而して后に将に此の道を得ざらんもの也。

吾が師の曰く、剣術は我に勝つことの道有り。然れども之れを知る者寡し。予が曰く、何と言うこと哉。曰く、譬えば此に人有り之れを切れば齊しく切り之れを突くは齊しく突き進むは齊しく進み退けば齊しく退く、此くの如くの人に勝つ者は是れ我に勝つ者也。答えて曰く、未だ能くせざる也、彼に勝つこと有り哉。曰く、之れ有る也。請け問う曰く、之れを聞きて而して之れを知らんと欲さば知る所なり、之れを知りて之れ得んと欲さば得る所也。豈に言語を以て之れを傳うべき哉。爾[なんぢ]退て自得せよ、之れを是れ吾が家の以心傳心也と云云。
愚按ずるに人多く為り以て剣法は人を害するの道也。是れを以て初學の者戦を好みて亂を作す哉。必ず其の身に及びて嗚呼悲しき哉、悪を殺して善を活かして世を治むるの至法也。故に曰く、兵は凶器也、已むを得ずして之れを用う、豈に然らず哉、是れ以て常に守るべき條目を記して以て之れを示[しかり]と爾か云う。

第一忠孝之事
第二應身行之事
第三有運天之事
第四弟子之事
第五不可忘之事

予此の書を成して後に人有り、求め問う曰く、子の言う所人皆之れを知る何ぞ改めて之れを言わん哉。曰く、吾が師之れを知る哉。曰く、之れを知る也。曰く、吾が師未だ之れを知ること能わず、人皆之れを知ると為す、而して未だ之れを行うこと能わず、是れ固に知らざる者也。故に君子其の獨りて慎む、況んや尋常の人に於いてを哉。問う者は唯々として退く。吾が術を學ばんと欲する者は必ず忠孝に由る、之の學の道に於いて亦た少しき補い有らん乎。

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