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杉浦素水の書簡

 杉浦素水、これは隠居後の名乗りにて当主のときは杉浦與三兵衛と云った。江戸時代の中頃、常陸笠間藩の一刀流剣術師役を勤めた人物である。古藤田彌左衛門尉より奥儀を傳授された初代杉浦三郎太夫の的傳四代目にあたり、江戸に在住して同藩の士はもとより他藩の士へも剣術を指南した。 その門弟たちの中に、丹波綾部藩の士 田口祐治(善兵衛)がいた。彼は江戸詰めではなく普段国元に在住しており、出府したおり杉浦素水に師事した。確認できるかぎり、天明5年(1785) 寛政2年(1790) 寛政8年(1796)の三度出府しており、その都度 素水ゟ伝書を相傳されている。しかし、皆伝に至るより早く杉浦素水が歿したゝめ次代に継承はされず一代限りで途絶えた。

目次

1792.寛政4年3月22日 杉浦素水書簡
1792.寛政4年3月24日 杉浦素水書簡
〜1792.〜寛政4年8月20日 杉浦素水書簡
1792.寛政4年11月18日 胤之書簡
1793.寛政5年6月28日 胤之書簡
1793.寛政5年8月15日 杉浦素水書簡
1794.寛政6年8月3日 杉浦素水書簡
1796.寛政8年10月3日 杉浦素水書簡
1790-96.寛政2〜8年11月29日 杉浦素水書簡
杉浦素水記録
杉浦素水記録
1796-1806.寛政8年〜文化3年5月4日 大貝八兵衛書簡
2月26日 白井勘右衛門書簡

1792.寛政4年3月22日 杉浦素水書簡

  尚〃當正月書初御覧ニ入候
  御火中可被下候 且有合ノ画并
  墨跡扇進上致候外ニ虎之助ゟも一包
以来は御疎意打過候
  御子息様へ上度よし申候以上
御揃弥御勇和可被成御座
奉賀候■■■殿御在勤中
御出精珍重存候御心安存
何歟無御隔意御たのミ
慮外而已致候御着之上
宜御挨拶御頼申候幸便故
何そ進上致度候へ共不任
心底有合之品御笑艸ニ
進申候皆様へよく御頼申候
事も宜得御意申候恐惶謹言

 三月廿二日  素水

  裕治様

壬子春試筆

万能唯一心

数業即一刀

【解】
 「素水」の號と「壬子」の干支によって寛政4年と特定される。ときに杉浦素水は六十歳、すでに隠居の身であった。但し、杉浦家は江戸定府の家柄であったから、笠間に住んでいるわけではなく江戸に在住している。綾部にいる弟子の田口裕治へ宛て、出府していた綾部藩士が修行に励んだ様子を伝え、その者が国許へ帰ったら貴方からも宜しく挨拶しておいてくださいと述べる。また、幸便ゆえ何ぞ進上したかったが思うに任せず、有り合わせの品を送りましたからと云い、画と墨蹟扇、田口裕治の子へは杉浦素水の子 虎之助から品が贈られた。
 杉浦素水と田口裕治、両者の接触が確認できる最も古い史料が天明5年(1785)2月に傳授された『七足変唄切紙』である。『七足変唄切紙』と云うのは、杉浦素水が指南した越後流軍学要門の初伝に相当する。また、同年2月28日には四代目杉浦素水と五代目杉浦大蔵景同の連名で『理盡得心巻』が伝授されていることから、両者の接触は天明5年(1785)2月より以前ということになる。なお、『理盡得心巻』は杉浦派の一刀流では初伝の『八風』に次ぐ傳授であり、五段階の二段目にあたる。田口裕治が入門以前にある程度一刀流を学んでいたとすれば、出府して杉浦へ入門して短期間で傳授されたことも充分に考えられる。
次に、両者の接触が確認できる史料は、寛政2年(1790)8月15日に杉浦與三兵衛景同より傳授された『剣法巻』と、寛政3年(1791)3月に杉浦素水より傳授された『足軽士卒両令巻』である。この事から田口裕治は天明5年(1785)の出府の五年後、再び出府したものと考えられる。そして国元に帰った寛政4年(1792)にこの書簡を受け取った。つまり、ときに田口裕治は杉浦素水と杉浦景同に一刀流を学び「九曜」の位にあり、軍学を杉浦素水に学び『足軽士卒両令巻』を伝授される段階にあった。

1792.寛政4年3月24日 杉浦素水書簡

右御考之趣二ヶ條共
當流之真理ニ相叶
珍重候猶御修行専要ニ
存候不具
 子
  三月廿四日 杉浦素水
          景健 判

   田口祐治殿

【解】
田口祐治より問われた書面にそのまゝ答えを添付して返した。先の3月22日付書簡と共に到着したものだろう。

〜1792.〜寛政4年8月20日 杉浦素水書簡

五月十九日之貴札六月中相届致拝見候
當年は炎暑之所御凌被成奉賀候爰元無異
罷在候半之丞殿初御屋敷之衆不程御出  *九鬼半之丞 綾部藩士
波口殿別而御心情心構も墓取申候等様も
やかて御聞終りニ相成申候
一 御修行御心持之御別書扨〃御心掛候故と
致感心候愚意認及御答候へ共矩ニ叶申間
布奉恐入候猶又御互ニ修行之義ニ候へハ
否哉被仰下候様希申候御待故ニ修行之
助ニ相成致大慶致候早速可及御答候處當
夏者中暑之氣味ニて気分も悪一向何
方へも不出漸冷氣ニ成此節他行も致し
夫故何事も打捨保養第一ニ致候而臥候故
御答及延引候此段御用捨可被下候
一 忍之元感様儀ニて者なる所ゟ急度不忠
不孝と申よしハ無之候へ共二ツ之道ニ背申候
深感奉れハ大食大酒もならぬ道理ニ御座候
被仰下候通ニ御座候本心之深と申候所ノ御気持
是又御尤ニ御座候術鑑之事ハ別紙帋ニ
申入候通諸事ニ自然と御り合有之
事なから二巻ノつり合ハ形ノ上ノつり合
ニてハ無之候
一 武術なと心掛候者本元と斗取ハ悪かとの
御事成程老子学之様ニ落入候而ハならぬ
事又時宜ニより本貫之場ニ目を付る
事も可有之候
一 死を軽んするハ悪キとの義義によりてハ
塵芥ゟ軽くはやまりてハ忠孝ニ背キ
      ニン
申候十文字ノ忍ノ場をよく合点致候へハ
はやまる事も有之間布候何レ御不審之
趣御心付感入申候
一 亡師常云ニ理屈ハ圓辨世智ニつたふ
なれハ諸事本心ニ眼ヲ付ル事要用也と
常ニしめし申候何レ容易之修行ニてハ
何事もならぬ事ニ御座候
一 貞忠脱底之違御尋之通申候貞忠ハ本心ヲ
以テ仕ヘルヲ云ひ脱底ハとやかくと入底なく
本心ヲ以テ君ヲ諌コトニ御座候貞忠之臣
なれハ脱底之直チヲ以諌メ知らせ明君ニなす
へし脱底ノ場ニ叶たる臣なれハ則
貞忠之臣ニて御座候半と存候我脱底ならねハ
諸事もならぬとの辨なれハ中〃可及事ニてハ
無之候へとも愚意申進候何も追而得御意候
乱書早〃如斯御座候恐惶謹言

   八月廿日      素水

    裕治様

尚〃皆様へよく御頼申候家内も又〃候宜
申上候様申候与三兵衛事久〃不相勝扨〃心掛
致候痰血なと吐甚労れ候併食事相應ニ進
出来不出来御座候全快希候事ニ御座候以上

[端裏]
田口様
是ハ八月日認置申候

【解】
 尚〃書に云う「与三兵衛事久〃不相勝」と容態が述べられているのは、四十八歳で急死した五代目杉浦景同のことかと思われる。六代目杉浦正純が健康を害したという伝記は今のところ見たことがない。とすれば、本書簡が認められたのは景同歿以前のこと、寛政4年8月20日が下限となる。
 さて、冒頭において九鬼家の士たちが杉浦氏と懇意にしている様子が伝えられている。後に七代目杉浦景禮より九鬼式部少輔隆郷に宛て『理盡得心巻』が傳授されており、杉浦家と九鬼家の関係が浅からぬものであったことが分る。推察するに、中・上級の家臣が同流を学んでいたのではないだろうか。
 次に本書簡の大部分を占める用件が田口祐治への教授である。その前置きが実に謙虚なもので、「御修行御心持之御別書扨〃御心掛候故と致感心候愚意認及御答候へ共矩ニ叶申間布奉恐入候猶又御互ニ修行之義ニ候へハ否哉被仰下候様希申候御待故ニ修行之助ニ相成致大慶致候」と云うように、押し付けるのではなくお互いに修行の身であるから、違うと思えば言ってほしいと述べる。あるいは田口祐治がこの方面に並々ならぬ才覚を持っていたのかもしれない。以前の寛政4年3月24日付書簡において、田口祐治の質問に対して素水は「當流之真理ニ相叶珍重」として訂正を加えなかった。

1792.寛政4年11月18日 胤之書簡

  別啓
杉浦先生儀久〃ニ被相煩
當月三日病死被致扨〃
御互ニ愁傷仕候併跡式之
儀追而相應之仁相立度旨
被願候處先〃見立候迄
素水尊師并門弟共申合
道場之義相續仕候様被申渡
候由被申渡書被為見申候
成程外家とハ違藝術之義
在之其上當時高弟之者者
皆〃其家ニ相續居指當
其仁相見へ不申候間御尤
之被申渡と奉存候
一 先生門弟之中ニ而相應之者
被見立後見同様ニ致し置
虎之助殿舟之助殿之中
行〃藝術仁躰被勝候
方江跡式被譲候存寄ニ茂
可在之哉と奉推察候併
両人之衆諍候事も出来
不申様ニと末〃之義乍外
私義者存心労仕候右之儀も
先生へ乍不及咄候處其節は
時宜次第両道場相立候とも
致し候方ニも可在之哉と被申候
行〃六ヶ敷義無之様ニと
致心痛候義ニ御座候
一 先生存寄證人立遺状
被認置候様心附申候か様之
義者末〃六ヶ敷義致出来
候事も在之物ニ承傳申候
誠ニ御心易奉存候間御内〃
愚存申上候御他見御用捨
被成下御覧後御火中
可被成下候猶相替候義茂
有之候ハゝ又候可申上候以上

 十一月十八日   胤之(判)

【解】
 本書簡を認めた胤之は田口善兵衛と同じく杉浦門に学ぶ他家の士と推量する。何者か詳らかでない。 冒頭の「杉浦先生儀久〃ニ被相煩當月三日病死被致」の杉浦先生とは、師役在任中に病歿した五代目杉浦景同を指す。すなわち、本書簡は杉浦景同病歿直後の寛政4年(1792)11月18日に認められたと判断できる。
 さて、本書簡には剣術師家の当主が急死した際の動静がよく伝えられている。 一代限りの師役と違って代々が師役を継承する家は、その跡継ぎを撰ぶにも少しく藩の扱いが違ったらしい。胤之は藩からの書面を見せられ「素水尊師并門弟共申合道場之義相續仕候様被申渡候由被申渡書被為見申候成程外家とハ違藝術之義在之」と感想を述べている。それもそのはず、相應の仁が見付かるまで跡式を延期するというのは珍しい、それまで当主不在ということだ。 胤之は、次期当主の候補である虎之助と舟之助に後見人をつけて教育し、藝術仁躰が勝れた方に跡式を相続させれば良いが、後々両者の間に諍いが起るのではないかと考えていた。憂慮した胤之はこのことを素水に相談したところ、素水は「時宜次第両道場相立候とも致し候方ニも可在之哉と被申候」と、両者ともに道場を立てれば良いとの考えであったようだ。 しかし胤之は「行〃六ヶ敷義無之様ニと致心痛候」と、心配でならない様子を伝えている。これらの動静は、おそらく田口祐治から何かしら尋ねられて教えたものと思われる。

1793.寛政5年6月28日 胤之書簡

  尚〃愚家一同御伺等宜申上度段
  申聞候
 一稽古場風替候儀ハ佃氏見舞處ニ
  御座候間御聞合可被下候以上
貴札拝見仕候如仰甚暑
強御座候得共御家君様方
被成御揃御勇健被成御勤仕
珍重御儀奉存候當地無
異儀罷在候間乍憚御案意
被成下候様奉願候私儀も日勤
之上去年中ゟ組支配役被仰
付候故別而不得寸暇御無
音斗申上候段御用捨可被下候
乍■御家内様ニも宜被
仰上可被下候是又奉
頼候御子息様御出府
被成候由ニ候處いまた尊意
不得残念奉存候近〃
罷出得其意候様可仕候
何卒近来之内今一度
御出府被成候様仕度夫斗
奉希居り候事ニ御座候

一 杉浦氏之儀彼是御心配
之御書面御深切之御儀共
私おゐて忝く奉存候扨〃
下拙儀も先師之跡之儀
故■用ハ被申間敷
存居候得共心之及ひ候丈
者七■ゟ少しハ被出
六感ニも心付御座候向井
杉三者不及申其外
之仁迄数度相談之上
意見仕猶又手詰之
厳敷意見迄も致し
候得共存候程ニも無之
候間万事相断居
候事も有之候處佃氏
抔達而被相頼候を幸ニ
猶意見候一同相談之上
書付等迄取印候儀ニ而
此私ハ少しハ治り候様子ニ
御座候得共手元不自
由故被致候事ニも可
御座候哉得与最早
治り候と申儀いまた
難見極メ奉存候誠
危事共ニ而万事
心中御察可被下候
弥治り候ハゝ猶書中ニ而
可申上候委細佃氏
被存居候間能〃御聞
可被下候中〃筆紙ニ
書取兼申候
一 佃氏弥御安易被成
御勤被成候哉何分宜被仰
達可被下候奉願候
御在勤中ハ彼是御世
話ニ相成忝奉存候是又
乍失礼宜被仰達可被下候
何分奉頼候
一 佃氏去年ゟ段〃
御修行見事之事共ニ
御身ニ無油断
御修行候様是又
御傳達可被下候奉頼候
其外前〃御出合
申上候御方様へも宜
奉頼候一〃書中不
差上段御面倒と奉存
差扣申候右者
御報早〃先申上度
如此御座候随分
暑中御安全被成
御勤候様奉存候恐〃
謹言
      ■■
六月廿八日  小原惣右衛門
          胤之(判)

 田口善兵衛様
 人〃御中
     御報

【解】
 杉浦景同歿後、未だ跡継ぎが定まっていない情勢を伝えており、寛政5年6月28日と判断できる。寛政5年8月15日付の杉浦素水書簡によって、六代目杉浦正純が跡式を相続したのは寛政5年7月のことゝ察せられるからだ。
 本書簡は寛政4年11月18日付の胤之書簡に次いで受け取ったものと見られる。「杉浦氏之儀彼是御心配之御書面御深切之御儀共私おゐて忝く奉存候」と云うように、田口善兵衛から杉浦家の様子を尋ねられたのでその情勢を伝えている。 7月中、鈴木六郎治が跡継ぎに迎えられるが、この書簡の時点ではまだ打開策が見付かっていなかったようだ。

1793.寛政5年8月15日 杉浦素水書簡

  尚〃皆様へよく奉頼候以上

七月之貴書拝見皆様弥
御安康奉賀候貴君御病ニ付
御湯治御願被成候由成程可然奉存候
御大事ニ可被成候病身ニてハ何も
成就不相成事ニ御座候爰元無異
与三兵衛跡鈴木六郎次へ無相違
被申付候間大安心御察し可被下候
廿九日引越候故愚老も又〃隠宅へ
引移義大取込日〃■■殿
御出何歟御頼申候御序ニ厚御
挨拶可被下候色〃被仰下候へ共
無寸暇御細■ニ及不申候
一 幸助殿御傳之事可然存候間  *志賀幸助 綾部藩士
則切紙認遣候御落手可被成候
毎〃御世話案申候道場も餘■
申候要門同前御座候
一 御傳書皆〃へ申聞候又候宜可被下候
家内も同事申上候
一 魚住畑御両士ゟ預御懇書候へ共
此外は御返事も遣不申候宜と
奉存候大取込 乱書御用捨
恐惶謹言

       杉浦素水
 八月十五日  景健 判

 田口裕治様

【解】
 寛政4年(1792)11月4日に五代目杉浦景同が急死したことによって生じた後継者問題は、とりあえず鈴木家より鈴木六郎治が迎えられ六代目杉浦與三兵衛となったことで落ち着いた。
 書中「幸助殿御傳之事可然存候間則切紙認遣候御落手可被成候」と云うのは、寛政5年(1793)8月15日付で志賀幸助に傳授された『八風切紙』を指しており、この手紙は杉浦景同が歿した翌年であると判断できる。これによって景同歿後から六代目の擁立まで十ヶ月以上も当主が不在であったことが分る。この当主不在時期、誰を後継者とすべきかで門弟たちの間で議論が持ち上がった。その様子は杉浦家の門弟胤之が田口裕治へ宛てた書簡に記されている。それに拠れば、肝心の隠居杉浦素水が後継者問題については一向に旗幟を鮮明にせず傍観していたゝめ方針が定まらず、高弟たちは議論を繰り返し、素水の実子虎之助を擁立すべきか舟之助(景同の子か)の成長を待ち名跡を継がせるべきかと紛糾した。このとき素水は、虎之助・舟之助の両人が成長すれば別〃に道場を持たせれば良いと考えていたようである。たゞその意見を明示しなかったのだろう、結局鈴木六郎治が迎えられた。これは素水にとって不本意であったかもしれない。後に虎之助が家督を相続したときとは違い、簡潔に出来事を知らせている。

1794.寛政6年8月3日 杉浦素水書簡

春三月之貴書拝見
其砌御答不致候様ニ覚候間
及御答候御揃御堅剛御
子息様方御成長奉賀候御
舎弟様ニも御片付之由
扨〃めて度候安堵之御事ニ
奉存候多年御心配之所
御相應之方有之御様子宜
候よし承御門外御歓申候
虎之助片付用意ノ為
頼母子催候趣御聞御加入も
可被下と思召之段御厚志
忝奉存候無據催一両日
會も相済致大慶候
一 幸助殿御出府ニ而委細  *志賀幸助 綾部藩士
被仰聞致承知候兼而之八風  *寛政5年8月15日八風傳授
御傳授も被成候由為御祝義
御肴等被下入御念候御事ニ
御座候御序ニ宜御挨拶
御頼申候御挨拶之義ニ付
被仰下候趣痛入申候決而
無御心遣以来共御出精
被成候様奉存候且此後共
貴様ゟ御傳へ被成候事如何
可被成候哉与三兵衛方へ御相談  *杉浦與三兵衛正純
可被成候趣致承知候へ共
先年此義ハ得御意候哉と
覚申候貴様御取立被下候事
爰元ニてハ御業等之程も
相知不申候事ニ候へハ御修行人
人〃位〃ニ應し以来共
貴様御存念寄次第御傳
可被成候尤其以前拙者
存生之内ハ可被仰下候若
愚老死後ニても兼〃  *素水 寛政9年9月21日歿
此段拙者ゟ貴様へ御ゆるし
申置候へハ右之通取斗候
旨當師家へ被仰達候へハ
相済候事ニ候又〃改而
當師与三兵衛方へ御相談候ハゝ
彼者存寄如何可有
之哉難斗候愚老時代
御入門之貴様御事ニ候へハ
拙者御ゆるし置申候事ニ候へハ
乍慮外貴様御一存ニ而
御傳授被成候と申ニても
無之ハ先年得御意候
書状も定而御所持と
奉存候へ共猶又此度
御聞合ニ付得御意候
御地ニ而御稽古之衆之事ハ
當家ニて与三兵衛愚老とても
出精之程業之位等ハ
不存事ニ候へハ貴様御取立
被下候事故ニ前文之通
先年ゟ得御意候事ニ御座候
又御地之衆中爰元御出府
之節ハ御業之程ヲ
見分致當師ゟ猶又
御傳事等致内意事ニ候
近年眼力悪認ものニ
甚込り別而乱書早〃
得御意候延引候て貴答
何分御用捨可被下候尚
期後音之時候恐惶謹言
 
     杉浦素水
 八月三日 景健 判
 
 田口祐治様

尚〃御端書申聞候
又〃宜得御意候皆様へ
宜く御頼申候近年之内
御出府希申候拙者不相替
要門ニて日〃無滞人も有之  *越後流軍学 要門
無障候釼術稽古ニも
乍應拙者ニ参呉候様ニ
被仰候御方〃も被成御座候故
そこかしこへ折〃罷越候事も
御座候老衰候へとも
打ち臥候程之病氣も無之候
御安心可被下候以上

 再三御地之産物毎〃
 被送下御厚志千万〃〃
 忝奉存候先達御礼申上候哉
 失念故又申上候以上

【解】
 前回の書簡にて、杉浦素水が志賀幸助へ傳授するために送った「八風切紙」は、綾部に於いて田口祐治を介して無事に傳授され、その御礼を出府した志賀幸助が行った。それが「一 幸助殿御出府ニ而委細被仰聞致承知候兼而之八風御傳授も被成候由為御祝義御肴等被下入御念候御事ニ御座候」と云う一文である。よって本書簡は「八風切紙」が送られた翌年に認められたと考えられる。御礼までに時日が経過しているのは、即座に出府することが叶わない所為だろう。なお冒頭「春三月之貴書」とあるのは、寛政6年2月28日に素水より送られた大貝八兵衛宛て「八風切紙」の御礼と思われる。
 少し話しは逸れるが、田口祐治の弟子取りは現存する『伸文』によって寛政6年3月15日に始められたと考えられる。『伸文』は巻子仕立されたもので、以降明治3年2月に至るまで入門者・傳授者たちが名を列ねた。さて、こゝで問題となるのは田口祐治の指南資格である。実は流儀の中極意(九曜)に位置する『剣法巻』を傳授されたのが寛政2年8月15日のこと、それから未だ免許(五位)の『家傳巻』を傳授されていない。つまりこの書簡が認められたとき、田口祐治が独自に弟子たちへ伝書を相傳する資格は無かったのだ。そのため、杉浦素水の名の元に弟子を指南し、伝書の相傳には素水の許可を得て素水の名で行われていたのだ。これは田口祐治の指南が杉浦本家に依存した傳授形態であったことを示している。
本書簡において問題とされているのは、この傳授形態である。杉浦素水は隠居の身であり余命も知れない、当師家は代が替って杉浦正純、当の田口祐治は綾部の地で指南している。このまゝ師家に依存した伝授の仕方では、先々破綻するというのが素水の考えであったようだ。この問題を解決するため、素水は先年より田口祐治に何事かを諭していた様子が述べられている。何事か要領を得ないが、書中「先年此義ハ得御意候哉と覚申候」や「先年ゟ得御意候事ニ御座候」と云うように、田口祐治に意図が伝わらなかったようだ。
 巻末では老衰とはいえ壮健に過ごしている様子を述べ心配せぬようにと伝えている。軍学 要門を指南して日〃滞りなく「要門ニて日〃無滞人も有之無障候」、また釼術の稽古に招かれゝばそこかしこへ赴くと云う「釼術稽古ニも乍應拙者ニ参呉候様ニ被仰候御方〃も被成御座候故そこかしこへ折〃罷越候事も御座候」。

1796.寛政8年10月3日 杉浦素水書簡

九月十九日貴札此間相届披見仕候
寒冷ニ向候へ共御揃被成弥御安全被成
御座先以御袋様御病氣も追而御
快心被為入候哉智禅寺氏へも為異義も
不被仰越御座候ハゝ追而御順快之御義と
御噂仕奉珍重候御老躰之御義此上之處
申迄も無御座候へ共随分御自愛寒中抔
御持薬等御用可然哉奉存候其外御揃被成
御安全珍重不斜奉存候私事も忰義
九月十五日家督被申付候日ゟ人出入も多
床をもあけ候所存之外順快仕此節ハ
近所歩行も可相成程ニ候へ共殊之外取込
未何方へも得出不申候而内外世話仕候本宅
及大破諸所雑作等も入候へ共時節悪候故
来春迄延候先節申候土蔵も建可申
存候所濱丁中屋敷沢翁殿病氣之所
逝去被致候故是も来年ニ延候當時ハ
稽古も休居申候 虎之助三郎右衛門と
名改申候与三兵衛ハ元ノ名六郎次と改
中屋敷へ引移申候此上ハ追而之事ニ候
扨〃心遣多候へ共めて度事當家相續
為致候事家内ハ勿論親類共迄大歓
貴公勇治殿なと 御聞嘸〃御歓可被下と
奉存候はやく来年ニトモ万〃御出會之上
御咄可申上■奉存候
一 八丈織被仰付候而御下シ可被下候由千萬忝ハ
奉存候へ共御取込中甚奉病入候承御無用ニ
被成可被下候且半之丞殿へ宜御頼申候魚住氏へも同断  *九鬼半之丞 綾部藩士
一 御土蔵表打之侭天氣悪御込被成候よし
嘸と奉察候私方ニても愈〃普請有之候へ共
此節相成不申込り申候
一 山榊一向不出来之由鮎も出水ニ而取レ不申候段被
仰下承知仕候毎〃御心遣ニ及不申候随松茸追而
御下可被下由是又御世話承御心遣御無用奉存候
一 書事御尋ニ付申聞候所有難かり申候尤も
近頃ハ氣分も能世話仕候三郎右衛門も息才
罷在候誠ニ今般被申付候義甚大慶至極ニ御座候
御察し可被下候養子入用金も土蔵普請等
之方ニ遣ひ候積りニ御座候誠ニ御影ニ而都合宜
忝奉存候何も御氣遣被下間布候
一 御地賑ひ候よし嘸と奉存候
大樹公御機嫌克奉大悦候御要門なと御始メ  *九鬼式部少輔隆郷
被遊候而可然哉と乍恐奉存候左候ハゝ御兄様方
可被仰上候此義ハ勇治様ゟ被仰上可然奉存候
一 御息様要門御物語之趣御尤ニ奉存候是ハ
御急キ被成候事ニも無御座候しかし素讀斗
も御覚させ被成候旨右ニ付神文之趣被仰下
則 下書認上申候其外昼之衆中候ハゝ
右之血之神文ニ被成御師範可被成候子供
衆ハ血判ニも不及ツハキヲ血判之替りニ
判へ御居候へハ相済申候皆様へ宜御頼申候妻
忰も宜申上候様申候申度事山〃ニ候へ共早〃
申上候御連書御免可被下候恐惶謹言

 十月三日      杉浦素水

 越賀左内様
 田口勇治様
     貴報

尚〃 勇治様へ申上候御同名様御不快如何ニ
被成御座候哉其後御順快被成候半と奉存候御心遣
奉察奉候随分御大事ニ可被成候皆様へ宜御頼申候以上

【解】
 本書簡は杉浦素水の実子虎之助の家督相続が許可された件が述べられており、寛政8年(1797)10月3日に認められたものと判断できる。
虎之助の家督については「扨〃心遣多候へ共めて度事當家相續為致候事家内ハ勿論親類共迄大歓貴公勇治殿なと 御聞嘸〃御歓可被下と奉存候」と、六代目杉浦與三兵衛正純が名跡を継いだときとは打って変わって喜びに溢れた表現で伝えられている。老年に至っての実子の相続であるからこれが素水の本意であったのは当然だろう。
これによって、当主であった六代目杉浦正純は名を六郎次に改め鈴木家へ戻された「与三兵衛ハ元ノ名六郎次と改中屋敷へ引移申候」。当時の事情は知り得ぬことながら、これで丸く収まったのだろうかと不安を覚える家督相続である。尤も鈴木六郎次はこの後に笠間へ引っ越し同地の一刀流師役を命じられた。このときから笠間では鈴木家が師役を勤め、江戸は杉浦家が師役を勤めるようになったのかもしれない。
 次いで日頃の付き合いについて触れられている。八丈織・山榊・鮎・松茸、このときは贈物の準備が出来なかったこと、田口祐治より断りがあったので杉浦素水は「毎〃御心遣ニ及不申候随松茸追而御下可被下由是又御世話承御心遣御無用奉存候」抔と逐一気遣いを感謝し、そんなに気遣わなくても良いと知らせている。
 本書簡のなかで、一つ気になる点は「養子入用金も土蔵普請等の方に遣い候積りに御座候」と云う部分である。以前の寛政6年8月3日付書簡にて「虎之助片付用意ノ為頼母子催候趣御聞御加入も可被下と思召之段御厚志忝奉存候無據催一両日會も相済致大慶候」と云う記述があり、虎之助の養子入用金を用意していたことが確認できるのだ。と云うことは、虎之助への家督相続が望み薄と見なされていた可能性が高く、どこぞへ養子に遣ろうとしていたのだろう。この理由は判然としないが、後に家督を相続して十年を過ぎたころ出奔してしまったことを考慮すれば、なにか日ごろから不行跡の出来事があったのかもしれない。されども、結局無事に家督を相続したので養子入用金は不要となり、土蔵普請等の方に使う積りだと知らせている。
 末文、神文の血判について「子供衆は血判にも及ばずツバキを血判の替りに判へ御居え候へば相済み申し候」と、子供への対応を教えている。

1790-96.寛政2〜8年11月29日 杉浦素水書簡

[前欠]
往来之事なと案られ申候彼者相手ニ致
度候ニ付何卒流義童の衆も有之□[其]内
弟子ニ致釼術要門共ニ御世話可□□□[被下候]此方へ
入込稽古致候衆ハ通ひ候而稽古致候衆ゟ□
上達格別ニ相募五年之稽古か十年之稽古ニも
當り申候御家中其外御隣国ニても童之衆
御座候ハゝ御聞合被仰下候尤扶持米なとも
御入不被成候而ハ御世話相成遂□□候童之衆も
御座候ハゝ追〃御懸合可申候
一 貴様御事不■御稽古被成當流御世話も
被成被下候義甚致大慶致候夫ニ付此上御傳へ
申度事共も有之候今一度□[御]出會申度候
来年抔御出府ハ不被成候哉若御下り不被成候ハゝ
御内〃御願ひ御下り半年斗も得と御
稽古被成候ハゝ御しらへ被成候ハゝ弥御上達も
可被成奉存候私甚及老年餘命之程も
難斗御座候へハ存生之内得と御相談
致御傳受等致置度候とふそゝゝゝ来年御
下り被成候様被下候尤半年□□申ものゝ
様子次第早〃御上り被成候様ニも可相成候
同様之義ハ其時節ニ至りたのミ永御
逗留不被成共相済候様ニも可相成候得と
御勘弁之上御内〃御願被成候様ニと奉存候
何も筆紙ニは認尽し難く兎角□□□
ならては済かね候事共□□御座候
か様ニ申候も私老衰故往〃貴様へ
御傳事なと致残置候ハゝ□□為ニも可
相成旁心得申上候第一□と多年
御深切ニ御修行被成候事故心底得
御意候事ニ御座候御内〃之事ニ御座候
尚追て万〃申し可申述候以上

 十一月廿九日     素水

  善兵衛様

【解】
 前紙を欠く、「童之衆」について通い稽古の者より住み込みの者の方が上達が格別に早く、五年の稽古が十年の稽古にも相当するとその差を述べる。綾部藩の家中や隣国に良い童がいれば教えてほしいと云うことらしい。優秀な者を探していたのだろうか、虫喰いによって要領を得ない。
 さて、本書簡の主要なる用件は、田口善兵衛に出来るだけ早く出府し傳授を承けるよう要請したものである。これが切迫した用件であったことは、「私甚及老年餘命之程も難斗御座候へハ存生之内得と御相談致御傳受等致置度候」「か様ニ申候も私老衰故往〃貴様へ御傳事なと致残置候ハゝ□□為ニも可相成」抔の文言によって察せられる。 この事から本書簡が認められた年を推測するに、「貴様へ御傳事なと致残置候ハゝ」と云う文言によって、あと一段階の傳授を残すのみであったと考えられる。 しかし、末文において「多年御深切ニ御修行被成候事故心底得御意候事ニ御座候御内〃之事ニ御座候」との文言があることから、あと二段階を残した状態であったかもしれない。 やゝこしいことだが、素水は既に隠居の身であり、普通は当師家杉浦正純に師事すべきところ、田口善兵衛は素水に師事していた。そして出府できる年は限られており、あまり直接の指導を受けることができない。 そういう事情があって、残り二段階「五位(免許)」「本目録決心」を一度に傳授してしまう可能性は充分にあった。 すなわち本書簡が認められた年は、(1)免許「家傳巻」を傳授された寛政8年(1797)2月28日以降、素水歿以前の寛政8年11月29日、(2)「家傳巻」を傳授される以前、「剣法巻」を傳授されて以降の寛政2年〜寛政7年、このどちらかと考えられる。 不測は、田口善兵衛の「本目録決心」が現存しないことである。仮に(1)であったとすれば田口善兵衛の出府を待たず素水は歿したことになる。当然皆伝は伝授されないまゝであるから、田口善兵衛の次代が一刀流を継承することは出来ない。 この可能性が多分にある。それは田口善兵衛の次代田口重治が笠間藩の杉浦家に師事しておらず、磐城平藩の唯心一刀流師範杉浦正徧に師事したことに拠る。これらの事から本書簡は、「家傳巻」を傳授された後の寛政8年11月29日に認められたと私は考える。素水が余命も知れぬという様子は、翌年の寛政9年9月21日に歿することゝ符合するように思われるからだ。

杉浦素水記録

我宿の千種の花をとめてこそ
いろなき春の色もしらるれ

月花もなれて見るにそ増りけり
さりとてかわる色香ならねと

一 切腹人ノ介錯ニハ可用短刀
一 カサツハ憶病ノ花短氣ハ未練ノ左右
気遣ハ分別ノ伊呂波堪忍ハ忠孝ノ
始心懸ハ手柄ノ基
一 無用ノ手詰論ハ禍ノ媒[なかだち]也上手ノ人ハ不好義也
殊更無難ノ人ニ勝テ無益コト也
一 理ニ無窮藝ハ熟スルニ倚テ妙ニ至ル愽[ひろ]ク
学ヒ深ク思ヒ能弁へ習フコトノ熟セハ事
理一致ノ極ヲ得乎
一 取篭候者抔可生捕ニハ無二無三ニ進テ可捕也
不然ハ捻刺股鼻捻等ヲ可用也士ヲ捕ニハ
時ヲ不移下郎町人抔時刻可移也
一 玉取トハ鉄丸鉛丸鎖縄ヲ付テ氣ヲ奪フ
其外火入灰吹何ナリトモ有合モノ礫トスル也
無刀取同断

【解】
無署名ながら杉浦素水の筆跡と認められる。田口祐治に直接手渡したものか、或は書簡に副えられたものと考えられる。二首は室鳩巣の歌、そして箇條は一刀流の外物である。

杉浦素水記録

如仰神ハ本心の事と取
候へハ早〃解申候要門ニも己か  *越後流軍学 要門
神明をしいする故ニその咎の
かるニ所なしとも有之
 神ガ悪ヲシメシ善ヲ申スノ字
 明ハ日月ノ文字ニテ神哥に
目ハ月か心ハこ空風ハいき
 海やマ掛ケテ我身也ケリ
又身ハ社心ハ神ノアリ所外ニ祷ル
 ハおろか也ケリ
仏家ニて
   唯心ノ浄土 己心ノ弥陀
何レニても本心の事也要門ハ
本心會得ノ修行ヲ上置ルゝ容易ニ
可成事ニてハ無之候へとも釼鎗ノ
業モ本心ノ場ニ本ツカサレハまさかの
時の用ニハ立難しされハ何事ヲ
なすニも万能一心とも申候 神ノ
事ハ要門ニ出有之至テ尊ひ
精進ニて拝誦仕候事ニ御座候よくゝゝ
要門御繰出し御覧可被成候仰之通
遠キニ有ルニてハ無之候形もなく
はてもなきものなから此所ヲ
自得スル様ニ修行すへき事也

【解】
これもまた無署名ながら杉浦素水の筆跡と認められる。

1796-1806.寛政8年〜文化3年5月4日 大貝八兵衛書簡

白井氏演説
一 五位以上之人江ハ先規ゟ取立之義
相許候得共弟子取ハ先師之名前
ニ而神文為致候事
 増して哉傳受等之儀ハ勿論之事
一 免許以上之人江ハ自分名前
ニ而勝手ニ弟子取相許し候事
 然共當所之弟子ニ相成候者江ハ傳受
 等有之候節ハ其沙汰有之筈之義
 ニ御座候
右之趣ニ御座候處三郎右衛門殿咄し之趣
ニ而ハ少〃田口氏御心得喰違候義も
有之候歟之よしニ承り候間不外成人
之事故左様之御心得違ニ而も有之候而ハ
不宜候事故先〃得与承り候ハすして
御屋鋪へ彼是与申義無之様可然旨
答候与被仰聞候
次ニ
万〃一御心得違等も有之候而ハ表立
候而承候時ハ先師ゟ流義之立派
ニ而可申事ハ不申候而ハ相成す候間
何分穏便ニ有之候而今一修行
      デン
有之候而御皆傳之上廣く弟子
取有之候様仕度義此方望所
ニ御座候与被申聞候
次ニ
御出府も有之候ハゝ何事も御面談
有之流義之本意等御咄しも
有御座度趣ニ御座候
右之外先例を引候而之御咄しも
有之候得共事繁く書尽しかたく
候間不申上候尤右之節私答
候ハゝ委細今度出府之上承り候間
御尋申上候義ニ御座候只今私御答
申上候筈之儀ニも無御座候事故何事も
重便在所へ申遣田口氏ゟ申越
之趣を以其節御答可申述旨申
置帰申候間委細御了簡之趣
被仰下候様仕度奉存候 愚老近年不遠候内
御出府有之候様仕度奉存候尚是等之
處も御内存被仰越可被下候様奉頼上候
今日為替金受取出役候間時刻
押移筆留申候早〃以上
  五月四日  大貝八兵衛
 田口善兵衛様

 冒頭「五位以上之人」の話題によって本書簡が認められたのは、田口祐治が家傳巻を傳授された寛政8年(1796)2月28日以降。そして「三郎右衛門殿咄し之趣」の話題によって、七代目杉浦景禮が出奔する文化3年(1806)以前のこと。
 大貝八兵衛は田口祐治が取り立てた門弟、白井勘右衛門は杉浦素水の高弟である。「白井氏演説」とあるように、これは白井勘右衛門が述べたことを大貝八兵衛が書き取り、田口善兵衛へと知らされた。 このとき田口善兵衛の師杉浦素水は既に世を去っており、素水の実子杉浦景禮が七代目の一刀流師役として在った。文中「三郎右衛門殿」というのはこの人のことである。先に11月29日付書簡で触れたように、田口善兵衛が素水より傳授されたのは「家傳巻」まで、皆伝には至っておらず独自に弟子取りは出来ない筈であった。 しかし、田口善兵衛は綾部の地において勝手に弟子取りを行っていたらしい。書面を見るかぎりそのような事があったのだと察せられる。

2月26日 白井勘右衛門書簡

貴札忝拝見仕候
  三白眼病故甚乱筆御高免
  御推覧可被下候以上
如仰春度之退寒
貴札忝拝見仕候如仰
春寒進兼候得共愈
御安全被成御勤仕
御安全被成御勤仕珍重之
御儀奉存候然者田口氏
當春御出府之義先達
貴答ニ御見合被成私ゟ
時節申上候様可仕候間
其節被成御出府可然候段
申上候處初夏頃迄ニ而
無之候得者宜御時節外レ
候之間三月上旬ニも
御出府御座候様  被成度
御沙汰之趣委細被仰下
奉承知候然所私病気
聢〃無之毎度仮願も
差出候次第故被成御出府
候迚茂此節者御傳授
事出来兼候間乍残念
被成御見合私方都合出来
御傳事相成候節ニ
仕度奉存候押而候被成
御出府候而も御詮無之候間
左様御承知被下御序ニ
宜様被仰上可被下候奉
頼上候此節眼病氣ニ而
貴答漸相認候次第故
勇馬殿江委細御談申
善兵衛殿迄被仰遣候様ニ
御座候右貴答迄ニ早〃
如是御座候猶後音之時
萬〃可申上候恐惶謹言
珍重之御儀奉存候

萬〃可申上 白井勘右衛門
    恐惶謹言
 二月廿二日   克(判)
九鬼半之允様

九鬼半之丞様
    参貴答

猶〃御端書之趣委曲
承知仕候本文ニも申上候通
引込罷在候而未出勤も不相成
次第病中故無據差支
之儀御座候間何分ニも是従
宜時節申上候迄ハ御見合可
被下候左様無之候而者誠ニ
御出府之甲斐も無之候間
無據御断申上候以上

 本書簡は綾部藩士 九鬼半之丞に宛て、田口氏が白井勘右衛門に傳授を受けるための出府日程を取り次がせたもの。お互いに出府の時期を合せなければ傳授が出来ないという、江戸に於ける伝播ならではの問題である。
 白井勘右衛門の眼病を考慮すれば、この書簡のときは既に田口善兵衛が歿しており、息子の田口勇馬が当主であったかもしれない。田口勇馬は『剣法巻』を文化4年(1807)2月28日に白井勘右衛門ゟ傳授されている。

掲載史料及び参考資料

『綾部藩田口家文書』個人蔵
『全国諸藩剣豪人名事典』間島勲 新人物往来社
『剣道関係古文書解説』全日本剣道連盟
『鈴鹿家文書解説』全日本剣道連盟
『日本武道大系』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『日本武道全集』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『笠間藩の武術』小野崎紀男著 ツーワンライフ
『三百藩家臣人名事典』家臣人名事典編纂委員会編 新人物往来社
『増補大改訂 武藝流派大事典』綿谷雪氏/山田忠史編 東京コピイ
『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会編 財団法人山口県剣道連盟
『茨城県史』茨城県史編纂委員会編 茨城県
『綾部市史』綾部市史編纂委員会編 京都府綾部市役所
『藩史大事典』木村礎著/藤野保著/村上直著 雄山閣
『平和家文書』京都府立総合資料館蔵
『大野市史』大野市史編纂委員会編

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