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杉浦素水の書簡

杉浦素水、常陸笠間藩の士、初代杉浦正景より数えて四代目、一刀流の的傳を継承した剣術師役。元は三代目杉浦正健の高弟にて三木金蔵と云いました。周防徳山藩の士三木善兵衛の子であります。杉浦家の名跡を継ぎ当主となってから三郎右衛門・與三兵衛と名乗り、隠居してからは素水と号しました。武藝は一刀流のほかに、加治系の越後流軍学「要門」の的傳を免されており、常陸笠間藩において要門を弘めたのも杉浦素水であります。

門弟の中に丹波綾部藩の士田口祐治重信(後に善兵衛と改める)がいました。彼は江戸詰ではなく、普段国元の綾部に住しており、殿様の御供として出府したとき杉浦素水に師事したと考えられます。現存する史料によって、天明五年(1785)・寛政二年(1790)・寛政八年(1796)の三度、出府したと見られます。田口重信は、素水が当主であった晩期に入門した弟子であり、程なく素水の隠居によって杉浦家の当主が代って以降も素水を頼りとしていました。こゝに掲げる書簡は、隠居した杉浦素水の書簡と、兄弟子の白井克明や同門の小原胤之の書簡です。これらを通して、師弟の関係、流義の伝授に関わる機微、杉浦景同歿後の一門の動揺等を知ることが出来ます。

 〇 田口重信が傳授された傳書(現存)
七足変唄切紙   杉浦景健     天明五年二月付
理盡得心巻(写) 杉浦景同・景健  天明五年二月廿八日付
剣法巻      杉浦景同     寛政二年八月十五日付
足軽士卒両令巻  杉浦景健     寛政三年三月付
家傳巻      杉浦景健     寛政八年二月廿八日付

 〇 杉浦家歴代
四代目 杉浦與三兵衛景健 (前名三郎右衛門・隠居後素水)
五代目 杉浦與三兵衛景同 (前名大蔵)
六代目 杉浦與三兵衛正純 (鈴木六郎治正純)
七代目 杉浦三郎右衛門景禮(前名虎之助)


目次
 ・ 序
 一 杉浦素水書簡   寛政四年三月廿二日付
 二 杉浦素水返簡   寛政四年三月廿四日付
 三 杉浦素水書簡   〜寛政四年八月廿日付
 四 小原胤之書簡別啓 寛政四年十一月十八日付
 五 杉浦素水書簡   寛政五年八月十五日付
 六 杉浦素水書簡   寛政六年八月三日付
 七 杉浦素水書簡   寛政八年十月三日付
 八 杉浦素水書簡   寛政八〜九年十一月廿九日付
 九 杉浦素水記録
 十 杉浦素水記録
十一 大貝八兵衛書簡  寛政十年〜文化三年五月四日付
十二 小原胤之書簡   六月廿八日付
十三 白井克明書簡   二月廿二日付
 ・ 読めない字
 ・ 掲載史料及び参考資料

凡例
一、『丹波綾部藩田口家文書』より、現存する書簡のみをこゝに掲げました。推定される執筆年紀の順に配列し、年紀の明らかでない杉浦素水記録は歿年に配しました。
一、片仮名表記は平仮名に改めました。
一、「之」「者」「江」「茂」「与」、合字の「より」「こと」「とも」「して」等を平仮名に改めました。但し、「有之」「無之」「而已」「而(しかして)」等は原文のまゝ改めず。
一、翻刻文の記号は此の通りです。[ ]:管理人註 □:欠損 ■:不読

一 杉浦素水書簡 寛政四年三月廿二日付

  尚々當正月書初御覧に入候
  御火中可被下候且有合の画并
  墨跡扇進上致候外に虎之助よりも一包
以来は御疎意打過候
  御子息様へ上度よし申候以上
御揃弥御勇和可被成御座
奉賀候■■■殿御在勤中
御出精珍重存候御心安存
何歟無御隔意御たのみ
慮外而已致候御着の上
宜御挨拶御頼申候幸便故
何そ進上致度候へ共不任
心底有合の品御笑艸に
進申候皆様へよく御頼申候
事も宜得御意申候恐惶謹言
 三月廿二日   素水
  裕治様

壬子春試筆
万能唯一心
数業即一刀


 〇 杉浦素水
杉浦素水は一刀流を家業とする杉浦家の四代目当主。常陸笠間藩(牧野家)の士。通称は三郎右衛門・與三兵衛、諱は景健。実は周防徳山藩、毛利家の家臣三木善兵衛の子。明和七年(1770)十二月、三十八歳のとき、三代目杉浦正健(養父)の隠居によって跡式十人扶持を継ぎ、名を杉浦三郎右衛門と改めます。 安永三年(1774)御使番格、安永四年(1775)御物頭格へと進み、安永十年(1781)一月五人扶持を加増され、合わせて十五人扶持となります。天明五年(1785)三月五十三歳のとき、家督を養子の杉浦景同(杉浦正健の実子)へ譲り隠居、「素水」と号します。寛政九年(1797)九月廿一日歿(六十五歳)。

 〇 執筆年
本書簡は「素水」の隠居号と「壬子」の干支によって寛政四年(1792)と特定されます。
ときに杉浦素水は六十歳、すでに隠居の身でありました。但し、杉浦家は江戸定府の家柄でしたから、笠間に住んでいるわけではなく江戸に住んでいます。一方、弟子の田口重信は江戸詰ではなく国元の綾部に住んでいます。

 〇 田口重信
田口重信は丹波綾部藩(九鬼家)の士。通称は裕治(勇治とも表記される)・善兵衛、諱は重信。杉浦素水・杉浦景同に一刀流を学び、藩内の士へ同流を指南しました。履歴は詳らかではなく、後代の当主の格席から推し量るに、師の杉浦家と同じく御使番級の家柄であったと考えられます。なお、生没年すら定かではなく、現存する史料によって天明五年(1785)から文政四年(1821)二月までの活動が分っているのみです。

 〇 師弟の接触
杉浦素水と田口重信、両者の接触を確認できる最も古い史料が『七足変唄切紙(天明五年二月付)』です。『七足変唄切紙』と云うのは、杉浦素水が指南していた越後流軍学要門の初伝に相当する傳書です。また、四代目杉浦素水と五代目杉浦大蔵景同が連名で傳授した『理盡得心巻(天明五年二月廿八日付)』という傳書があります。つまり、両者の接触は、少なくとも天明五年二月以前ということになります。なお、『理盡得心巻』は杉浦派の一刀流では初伝の『八風』に次ぐ傳授、五段階ある中の二段目に位置します。

次に、両者の接触を確認できる史料は、杉浦景同が傳授した『剣法巻(寛政二年八月十五日付)』と、杉浦素水が傳授した『足軽士卒両令巻(寛政三年三月付)』という傳書です。さらにその五年後に傳授された『家傳巻(寛政八年二月廿八日付)』があります。

1)天明五年(1785)二月廿八日 『理盡得心巻』『七足変唄切紙』
2)寛政二年(1790)八月十五日 『剣法巻』
  寛政三年(1791)三月    『足軽士卒両令巻』
3)寛政八年(1796)二月廿八日 『家傳巻』

これらの事から察するに、田口重信は天明五年に出府した五年後の寛政二〜三年に再び出府したものと考えられます。そして国元に帰った寛政四年に本書簡を受け取ったという訳です。そして、その五年後に再び出府、素水に師事し『家傳巻』を傳授されたと考られます。

 〇 師弟の交流
「幸便故何そ進上致度候へ共不任心底有合の品御笑艸に進申候」と云い、正月の書初・有り合わせの画・墨跡の扇、そして実子虎之助から田口重信の子へと品々が贈られました。このような杉浦素水の気遣い様を見るに、後に指南役となるであろう他藩の士は、やはり通常の門弟とは扱いが違うのかなと感じられます。


『分間江戸大絵図(寛政四年)』国立国会図書館蔵

こゝに掲げた地図は、本書簡と同じ年のもの、田口重信の主君である丹波綾部藩主九鬼隆棋(田沼意次の七男、天明二年十二月大隅守、天明七年一月三十日歿二十三歳)が急逝し、九鬼定五郎が幼年ながら家督を相續した時期に当ります。
杉浦素水の主君である常陸笠間藩主牧野備後守貞長(延享二年十月越中守、寛延二年十一月家督、天明七年六月備後守)の屋敷は図中に三ヶ所あり、ほかに素水の高弟白井克明が仕えた越前大野藩主土井能登守利貞の屋敷、杉浦素水が居所としていた可能性のある北八丁堀の辺りに丸印を付けました。因みに、笠間杉浦家の分家、唯心一刀流の師家が仕えた陸奥磐城平藩主安藤對馬守信成の屋敷も近くにあります。

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二 杉浦素水返簡 寛政四年三月廿四日付

釼の術と云は五躰自由にして目を以て
進退をはかり手足に力の出来こと
一躰のつり合也是則心より
通すれは也然は心眼にて觀ること
大事也此場を能えとくせんに
は生死の場を不知して不叶こと也
生死の場を能知るには天命を不
辨して不叶こと也節に死するは則
天命也哥にかゝるときさこそ命の
をしからめかねてなきみ[身]と思ひし
らすは右哥抔か天命を明して候と
申ものかと存候節を不知して
死するは非号也是天命を不知也
然は君の為に死するとも能節を
勘ふへし要門にいわゆる首尾
獨り合するの場也天命を能
知る時は生死明也生死明なれは
心眼にて觀ること安し心眼にて觀ること
安時は手足自由也然とも是鍛
練也或は手の内のしめゆるめ進
退の自由皆鍛練にあり未萌
の術は以心傳心乎修行の
大なることは大空のはてしなきか
如し然とも其人の位相應に見
ゆることなれは傳統の階級これ有
ること也唯かん要は修行也

又曰釼法は仁の術也何故か
なれは釼法は天理にたかわす毛
頭無理なることなくしぜんのつり
合にて勝利を得ること也此理

を能く得る時は天下國家を
も治るの法也刀は鞘にをさめ
て勝の理ならては天下國家を
切したかへることはあたわす然は
釼術を學ふより聖学或は
軍学にて仕上こと然るへけれとも
左にあらす譬は八幡太郎奥
州前九年後三年の戰の如し
文武備わらされは治まらさる
もの也先釼術を学ふ者修
行の内に道理明かになり内に
剛のつよみあり釼の為につか
われす一心より釼をつかい理
業全備して而后に刀を鞘に
治め四海を治る時は聖学軍学
にもをとらすしぜんと賞罰法に
叶ふへし此道理を明にせすして釼
の術はかりを学ふ時は害をな
すの一つともならんか本武士は刀を
鞘に治て切したかへるをこり誠の
上手名人とも云へし然則釼の
法は仁の術也


 寛政四壬子年三月日
        田口重信
           謹書

[従是別紙、杉浦素水筆]
右御考の趣二ヶ條共
當流の真理に相叶
珍重候猶御修行専要に
存候不具
 子
  三月廿四日 杉浦素水
          景健(判)

   田口祐治殿


 〇
本紙は田口重信の筆、継がれた別紙は杉浦素水の筆。先項の寛政四年三月廿二日付書簡と共に送られたのでしょう。

田口重信の書面を見るに、たゞ剣術のみに拘らず、要門(軍学)と併せた思想を打ち出しています。軍学を理、剣術を業、理業全備して治める、このような考え方は師杉浦素水の教えを受けたものと考えられます。

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三 杉浦素水書簡 〜寛政四年八月廿日付

 五月十九日の貴札六月中相届致拝見候
 當年は炎暑の所御凌被成奉賀候爰元無異
 罷在候半之丞殿初御屋敷の衆不程御出
 波口殿別て御心情心構も墓取申候等様も
 やかて御聞終りに相成申候
一御修行御心持の御別書扨々御心掛候故と
 致感心候愚意認及御答候へ共矩に叶申間
 布奉恐入候猶又御互に修行の義に候へは
 否哉被仰下候様希申候御待故に修行の
 助に相成致大慶致候早速可及御答候處當
 夏は中暑の氣味にて気分も悪一向何
 方へも不出漸冷氣に成此節他行も致し
 夫故何事も打捨保養第一に致候て臥候故
 御答及延引候此段御用捨可被下候
一忍の元感様儀にてはなる所より急度不忠
 不孝と申よしは無之候へ共二つの道に背申候
 深感奉れは大食大酒もならぬ道理に御座候
 被仰下候通に御座候本心の深と申候所の御気持
 是又御尤に御座候術鑑の事は別紙帋に
 申入候通諸事に自然とつり合有之
 事なから二巻のつり合は形の上のつり合
 にては無之候
一武術なと心掛候は本元と斗取は悪かとの
 御事成程老子学の様に落入候てはならぬ
 事又時宜により本貫の場に目を付る
 事も可有之候
一死を軽んするは悪きとの義義によりては
 塵芥より軽くはやまりては忠孝に背き
 申候十文字のにんの場をよく合点致候へは
 はやまる事も有之間布候何れ御不審の
 趣御心付感入申候

一亡師常云に理屈は圓辨世智につたふ
 なれは諸事本心に眼を付る事要用也と
 常にしめし申候何れ容易の修行にては
 何事もならぬ事に御座候
一貞忠脱底の違御尋の通申候貞忠は本心を
 以て仕へるを云ひ脱底はとやかくと入底なく
 本心を以テ君を諌ことに御座候貞忠の臣
 なれは脱底の直ちを以諌め知らせ明君になす
 へし脱底の場に叶たる臣なれは則
 貞忠の臣にて御座候半と存候我脱底ならねは
 諸事もならぬとの辨なれは中々可及事にては
 無之候へとも愚意申進候何も追て得御意候
 乱書早々如斯御座候恐惶謹言
    八月廿日      素水
     裕治様
 尚々皆様へよく御頼申候家内も又々候宜
 申上候様申候与三兵衛事久々不相勝扨々心掛
 致候痰血なと吐甚労れ候併食事相應に進
 出来不出来御座候全快希候事に御座候以上

[端裏書]
田口様
是は八月日認置申候


 〇 執筆年
尚々書に云う「与三兵衛事久々不相勝」とは、四十八歳で急死した五代目杉浦景同の容体を指すかと思われます。とすれば、本書簡が認められたのは景同歿以前のこと、寛政四年が下限となるでしょう。
 
  〇
冒頭、九鬼家の士たちが杉浦氏と懇意にしていた様子が伝えられています。後に七代目杉浦景禮より九鬼式部少輔隆郷に宛て『理盡得心巻』が傳授されており、杉浦家と九鬼家の関係が浅からぬものであったことが窺えます。
 
次に、本書簡の大部分を占める用件、田口重信の尋問に対する返答です。その前置きが、師の立場らしからぬ実に謙虚な言です。「御修行御心持の御別書、扨々御心掛候故と致感心候、愚意認及御答候へ共、矩に叶申間布奉恐入候、猶又御互に修行の義に候へは否哉被仰下候様希申候、御待故に修行の助に相成致大慶致候」。自分の考えを押し付けるのではなく、お互いに修行の身であるから違うと思うことは言ってほしいと述べています。

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四 小原胤之書簡別啓 寛政四年十一月十八日付

   別啓
 杉浦先生儀久々に被相煩
 當月三日病死被致扨々
 御互に愁傷仕候併跡式の
 儀追て相應の仁相立度旨
 被願候處先々見立候迄
 素水尊師并門弟共申合
 道場の義相續仕候様被申渡
 候由被申渡書被為見申候
 成程外家とは違藝術の義
 在之其上當時高弟の者は
 皆々其家に相續居指當
 其仁相見へ不申候間御尤
 の被申渡と奉存候
一先生門弟の中にて相應の者
 被見立後見同様に致し置
 虎之助殿舟之助殿の中
 行々藝術仁躰被勝候
 方へ跡式被譲候存寄にも
 可在之哉と奉推察候併
 両人の衆諍候事も出来
 不申様にと末々の義乍外
 私義は存心労仕候右の儀も
 先生へ乍不及咄候處其節は
 時宜次第両道場相立候とも
 致し候方にも可在之哉と被申候
 行々六ヶ敷義無之様にと
 致心痛候義に御座候
一先生存寄證人立遺状
 被認置候様心附申候か様の
 義は末々六ヶ敷義致出来

 候事も在之物に承傳申候
 誠に御心易奉存候間御内々
 愚存申上候御他見御用捨
 被成下御覧後御火中
 可被成下候猶相替候義も
 有之候はゝ又候可申上候ゐ上

  十一月十八日   胤之(判)


 〇 執筆年
「杉浦先生儀久々に被相煩當月三日病死被致」、次いで「素水尊師并門弟共申合道場の義相續仕候様被申渡候由」と云う記述、これによって病死したのは五代目杉浦景同(寛政四年十一月四日歿)と分り、寛政四年と判明します。歿した日付が書簡と記録で一日ズレているのは、翌日になってから藩へ届けをした為でしょう。

 〇 杉浦景同急逝の波紋
本書簡には、剣術師家の当主が急死した際の動静がよく伝えられています。一代限りの師役と違って、代々が師役を継承する師家は、その跡継ぎを撰ぶにも少しく藩の扱いが相違したらしく、小原胤之は杉浦素水に見せられた藩からの書面について触れ、「素水尊師并門弟共申合、道場の義相續仕候様被申渡候由、被申渡書被為見申候、成程外家とは違藝術の義在之、其上當時高弟の者は皆々其家に相續居、指當其仁相見へ不申候間、御尤の被申渡と奉存候」との感想を述べています。小原胤之の感想は尤もなことで、相應の仁が見付かるまで跡式を延期するというのは尋常でなく、普通は家が断絶され兼ねない問題です。
続いて小原胤之は、次期当主の候補である虎之助と舟之助に後見人をつけて教育し、藝術仁躰が勝れた方に跡式を相続させれば良いが、後々両者の間に諍いが起るのではないかと考えていました。流義の行末を憂慮した胤之は、このことを杉浦素水に相談したところ、曰く「時宜次第両道場相立候とも致し候方にも可在之哉と被申候」と、いずれ両者ともに道場を立てれば良いとの考えでありました。それでもなお胤之は、「行々六ヶ敷義無之様にと致心痛候」と、心配でならない様子を伝えています。これほどの心配を伝えているのは、「誠に御心易奉存候間御内々愚存申上候」と云うように、田口重信が事態を楽観視していたから、それを窘める積りだったと思われます。

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五 杉浦素水書簡 寛政五年八月十五日付

   尚々皆様へよく奉頼候以上

 七月の貴書拝見皆様弥
 御安康奉賀候貴君御病に付
 御湯治御願被成候由成程可然奉存候
 御大事に可被成候病身にては何も
 成就不相成事に御座候爰元無異
 与三兵衛跡鈴木六郎次へ無相違
 被申付候間大安心御察し可被下候
 廿九日引越候故愚老も又々隠宅へ
 引移義大取込日々■■殿
 御出何歟御頼申候御序に厚御
 挨拶可被下候色々被仰下候へ共
 無寸暇御細■に及不申候
一幸助殿御傳の事可然存候間
 則切紙認遣候御落手可被成候
 毎々御世話案申候道場も餘■
 申候要門同前御座候
一御傳書皆々へ申聞候又候宜可被下候
 家内も同事申上候
一魚住畑御両士より預御懇書候へ共
 此外は御返事も遣不申候宜と
 奉存候大取込 乱書御用捨
 恐惶謹言
        杉浦素水
  八月十五日  景健(判)

  田口裕治様


 〇 執筆年
寛政四年十一月四日、五代目杉浦景同が急死したことによって生じた後継者問題は、「与三兵衛跡鈴木六郎次へ無相違被申付候間、大安心」と、取り敢えず鈴木正純を六代目に迎えることで落ち着きました。また、「幸助殿御傳の事可然存候間、則切紙認遣候、御落手可被成候」と云うのは、志賀幸助に傳授された『八風切紙(寛政五年八月十五日付)』を指しており、本書簡が認められたのは杉浦景同が歿した翌年の寛政五年と特定できます。

 〇 鈴木正純(杉浦正純)
鈴木六郎治正純は四代目杉浦素水の高弟にて、寛政五年杉浦家の六代目に迎えられ、名跡を継ぎ杉浦與三兵衛正純と名を改めました。しかし僅か三年にして、杉浦素水の実子虎之助に家督を譲り、鈴木家に戻ります。なお、鈴木正純の孫は、後に九代目となる杉浦景高です。

鈴木正純の辞世 花も根にかへる我身や土の中

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六 杉浦素水書簡 寛政六年八月三日付

 春三月の貴書拝見
 其砌御答不致候様に覚候間
 及御答候御揃御堅剛御
 子息様方御成長奉賀候御
 舎弟様にも御片付の由
 扨々めて度候安堵の御事に
 奉存候多年御心配の所
 御相應の方有之御様子宜
 候よし承御門外御歓申候
 虎之助片付用意の為
 頼母子催候趣御聞御加入も
 可被下と思召の段御厚志
 忝奉存候無據催一両日
 會も相済致大慶候
一幸助[志賀幸助]殿御出府にて委細
 被仰聞致承知候兼ての八風
 御傳授も被成候由為御祝義
 御肴等被下入御念候御事に
 御座候御序に宜御挨拶
 御頼申候御挨拶の義に付
 被仰下候趣痛入申候決て
 無御心遣以来共御出精
 被成候様奉存候且此後共
 貴様より御傳へ被成候事如何
 可被成候哉与三兵衛[正純]方へ御相談
 可被成候趣致承知候へ共
 先年此義は得御意候哉と
 覚申候貴様御取立被下候事
 爰元にては御業等の程も
 相知不申候事に候へは御修行人

 人々位々に應し以来共
 貴様御存念寄次第御傳
 可被成候尤其以前拙者
 存生の内は可被仰下候若
 愚老死後にても兼々
 此段拙者より貴様へ御ゆるし
 申置候へは右の通取斗候
 旨當師家へ被仰達候へは
 相済候事に候又々改て
 當師与三兵衛方へ御相談候はゝ
 彼者存寄如何可有
 之哉難斗候愚老時代
 御入門の貴様御事に候へは
 拙者御ゆるし置申候事に候へは
 乍慮外貴様御一存にて
 御傳授被成候と申にても
 無之は先年得御意候
 書状も定て御所持と
 奉存候へ共猶又此度
 御聞合に付得御意候
 御地にて御稽古の衆の事は
 當家にて与三兵衛愚老とても
 出精の程業の位等は
 不存事に候へは貴様御取立
 被下候事故に前文の通
 先年より得御意候事に御座候
 又御地の衆中爰元御出府
 の節は御業の程を
 見分致當師より猶又
 御傳事等致内意事に候
 近年眼力悪認ものに

 甚込り別て乱書早々
 得御意候延引候て貴答
 何分御用捨可被下候尚
 期後音の時候恐惶謹言
       杉浦素水
  八月三日 景健(判)
  田口祐治様
 尚々御端書申聞候
 又々宜得御意候皆様へ
 宜く御頼申候近年の内
 御出府希申候拙者不相替
 要門にて日々無滞人も有之
 無障候釼術稽古にも
 乍應拙者に参呉候様に
 被仰候御方々も被成御座候故
 そこかしこへ折々罷越候事も
 御座候老衰候へとも
 打ち臥候程の病氣も無之候
 御安心可被下候以上
 
  再三御地の産物毎々
  被送下御厚志千万々々
  忝奉存候先達御礼申上候哉
  失念故又申上候以上


 〇 執筆年
前回の寛政五年八月十五日付書簡にて、杉浦素水が志賀幸助へ傳授するために送った『八風切紙』は、綾部に於いて田口重信を介して無事に傳授され、その御礼を出府した志賀幸助が行いました。それが「一幸助殿御出府にて委細被仰聞致承知候、兼ての八風御傳授も被成候由、為御祝義御肴等被下入御念候御事に御座候」と云う冒頭の記述です。よって、本書簡は『八風切紙(寛政五年八月十五日付)』が送られた翌年に認められたと考えられます。御礼までに時日が経過しているのは、即時に出府する御用が無かった為でしょう。尚又、冒頭の「春三月の貴書」とあるのは、杉浦素水より送られた大貝八兵衛宛て『八風切紙(寛政六年二月廿八日付)』の御礼かと思われます。

 〇 弟子取りと傳授
少し話しは逸れますが、田口重信の弟子取りは現存する起請文巻子『伸文』によって、寛政六年三月十五日に始められたと見られます。この『伸文』には明治三年二月迄の入門者・傳授者たちが名を列ねています。さて、こゝで問題となるのは田口重信の指南資格です。実は流儀の中極意(九曜)に位置する『剣法巻(寛政二年八月十五日付)』を傳授されていましたが、それから本書簡の寛政六年に至るまで、未だ免許(五位)の『家傳巻』を傳授されていません。つまり、本書簡が認められたとき、田口重信が独自に弟子たちへ傳書を傳授する資格は無かったのです。そのため、杉浦素水の名の元に弟子を指南し、傳書の傳授には素水の許可を得て、素水の名で行われていました。これは田口重信の指南が、杉浦本家に依存した傳授形態であったことを示しています。

本書簡において問題とされているのは、即ちこの傳授形態であります。杉浦素水は隠居の身であり老衰のため余命も知れない、当師家は代が替って六代目杉浦正純、当の田口重信は綾部の地で指南している、このまゝ師家に依存した伝授の仕方では先々問題が起るというのが杉浦素水の考えでありました。本書簡においては、その問題を解決するため、先年より田口重信に何事かを諭していた様子が述べられています。前後の事情が分らないため何事か要領を得ませんが、「先年此義は得御意候哉と覚申候」や「先年より得御意候事に御座候」と云うように、繰り返し諭していた様ですが、田口重信には伝わっていない様子です。

 〇 杉浦素水の実子虎之助
虎之助の年齢など、詳らかな履歴は未だ明らかでありません。本書簡のときは、鈴木家から迎えられた杉浦正純が杉浦家の当主でありました。この二年後、寛政八年九月十五日に虎之助が家督を相続します。しかし、本書簡には「虎之助片付用意の為頼母子催候趣御聞御加入も可被下と思召の段御厚志忝奉存候」と云う気になる記述が見られます。この時点では、虎之助の家督相続が望み薄と思われていたのでしょうか。次項の書簡には、更に詳しい記述があります。

 〇 老いてなお矍鑠、杉浦素水
尚々書では、老衰とはいえ壮健に過ごしている様子が述べられています。弟子に心配を掛けないための心遣いでしょう。要門(越後流軍学)を指南して日々滞りなく「拙者不相替要門にて日々無滞、人も有之無障候」、また釼術の稽古に招かれゝばそこかしこへ赴く「釼術稽古にも乍應拙者に参呉候様に被仰候御方々も被成御座候故、そこかしこへ折々罷越候事も御座候」と云い、実に以て矍鑠たる様子です。

− 6 −

七 杉浦素水書簡 寛政八年十月三日付

 九月十九日貴札此間相届披見仕候
 寒冷に向候へ共御揃被成弥御安全被成
 御座先以御袋様御病氣も追て御
 快心被為入候哉智禅寺氏へも為異義も
 不被仰越御座候はゝ追て御順快の御義と
 御噂仕奉珍重候御老躰の御義此上の處
 申迄も無御座候へ共随分御自愛寒中抔
 御持薬等御用可然哉奉存候其外御揃被成
 御安全珍重不斜奉存候私事も忰義
 九月十五日家督被申付候日より人出入も多
 床をもあけ候所存の外順快仕此節は
 近所歩行も可相成程に候へ共殊の外取込
 未何方へも得出不申候て内外世話仕候本宅
 及大破諸所雑作等も入候へ共時節悪候故
 来春迄延候先節申候土蔵も建可申
 存候所濱丁中屋敷沢翁殿病氣の所
 逝去被致候故是も来年に延候當時は
 稽古も休居申候 虎之助三郎右衛門と
 名改申候与三兵衛は元の名六郎次と改
 中屋敷へ引移申候此上は追ての事に候
 扨々心遣多候へ共めて度事當家相續
 為致候事家内は勿論親類共迄大歓
 貴公勇治殿なと 御聞嘸々御歓可被下と
 奉存候はやく来年にとも万々御出會の上
 御咄可申上■奉存候
一八丈織被仰付候て御下し可被下候由千萬忝は
 奉存候へ共御取込中甚奉病入候承御無用に
 被成可被下候且半之丞殿へ宜御頼申候魚住氏へも同断
一御土蔵表打の侭天氣悪御込被成候よし
 嘸と奉察候私方にても愈々普請有之候へ共
 此節相成不申込り申候

一山榊一向不出来の由鮎も出水にて取れ不申候段被
 仰下承知仕候毎々御心遣に及不申候随松茸追て
 御下可被下由是又御世話承御心遣御無用奉存候
一書事御尋に付申聞候所有難かり申候尤も
 近頃は氣分も能世話仕候三郎右衛門も息才
 罷在候誠に今般被申付候義甚大慶至極に御座候
 御察し可被下候養子入用金も土蔵普請等
 の方に遣ひ候積りに御座候誠に御影にて都合宜
 忝奉存候何も御氣遣被下間布候
一御地賑ひ候よし嘸と奉存候
 大樹公御機嫌克奉大悦候御要門なと御始め
 被遊候て可然哉と乍恐奉存候左候はゝ御兄様方
 可被仰上候此義は勇治様より被仰上可然奉存候
一御息様要門御物語の趣御尤に奉存候是は
 御急き被成候事にも無御座候しかし素讀斗
 も御覚させ被成候旨右に付神文の趣被仰下
 則 下書認上申候其外昼の衆中候はゝ
 右の血の神文に被成御師範可被成候子供
 衆は血判にも不及つはきを血判の替りに
 判へ御居候へは相済申候皆様へ宜御頼申候妻
 忰も宜申上候様申候申度事山々に候へ共早々
 申上候御連書御免可被下候恐惶謹言
  十月三日        杉浦素水
  越賀左内様
  田口勇治様
      貴報
 尚々勇治様へ申上候御同名様御不快如何に
 被成御座候哉其後御順快被成候半と奉存候御心遣
 奉察奉候随分御大事に可被成候皆様へ宜御頼申候以上


 〇 執筆年
本書簡には、杉浦素水の実子虎之助の家督相続が許可されたと述べられており、寛政八年十月三日に認められたと特定できます。

 〇 実子相続の喜び
虎之助の家督については「扨々心遣多候へ共、めて度事當家相續為致候事、家内は勿論親類共迄大歓、貴公勇治殿なと 御聞嘸々御歓可被下と奉存候」と、六代目杉浦正純が名跡を継いだときとは打って変わって喜びに溢れた表現です。老年に至っての実子の相続ですから、これが杉浦素水の本意であったのは当然でしょう。これによって、当主であった六代目杉浦正純は名を六郎次に戻し、鈴木家へ戻されました「与三兵衛は元の名六郎次と改、中屋敷へ引移申候」。当時の事情は知り知れぬことながら、これで丸く収まったのだろうかと不安を覚える家督相続であります。尤も鈴木正純はこの後に笠間へ引っ越し、同地の一刀流師役を命じられました。このときから笠間においては鈴木家が師役を勤め、江戸においては杉浦家が師役を勤めるようになったのかもしれません。なお、鈴木正純の孫杉浦景高は、後に杉浦家の九代目となります。

 〇 虎之助の片付用意
寛政六年八月三日付杉浦素水書簡
「虎之助片付用意の為、頼母子催候趣御聞、御加入も可被下と思召の段、御厚志忝奉存候、無據催一両日會も相済致大慶候」
寛政八年十月三日付杉浦素水書簡
「養子入用金も土蔵普請等の方に遣ひ候積りに御座候、誠に御影にて都合宜忝奉存候」

本書簡の二年前は、虎之助を養子に出そうと資金の用意までしていました(七、寛政六年八月三日付杉浦素水書簡)。その後、何かしら事態が好転して、虎之助の家督相続が実現した様子です。杉浦素水にとっては喜ばしい家督相続でありましたが、しかし、後の文化三年(1806)に杉浦景禮(虎之助)は出奔してしまいます。

 〇
末筆、神文の血判について、「子供衆は血判にも及ばず、ツバキを血判の替りに判へ御居え候へば相済み申し候」と、普通は血判を押すべきところ子供の場合の仕方を教えています。ほとんど知られていない作法ではないでしょうか。

− 7 −

八 杉浦素水書簡 寛政八〜九年十一月廿九日付

[前紙欠]
 往来の事なと案られ申候彼者相手に致
 度候に付何卒流義童の衆も有之□[其]内
 弟子に致釼術要門共に御世話可□□□[被下候]此方へ
 入込稽古致候衆は通ひ候て稽古致候衆より□
 上達格別に相募五年の稽古か十年の稽古にも
 當り申候御家中其外御隣国にても童の衆
 御座候はゝ御聞合被仰下候尤扶持米なとも
 御入不被成候ては御世話相成遂□□候童の衆も
 御座候はゝ追々御懸合可申候
一貴様御事不■御稽古被成當流御世話も
 被成被下候義甚致大慶致候夫に付此上御傳へ
 申度事共も有之候今一度□[御]出會申度候
 来年抔御出府は不被成候哉若御下り不被成候はゝ
 御内々御願ひ御下り半年斗も得と御
 稽古被成候はゝ御しらへ被成候はゝ弥御上達も
 可被成奉存候私甚及老年餘命の程も
 難斗御座候へは存生の内得と御相談
 致御傳受等致置度候とふそゝゝゝ来年御
 下り被成候様被下候尤半年□□申ものゝ
 様子次第早々御上り被成候様にも可相成候
 同様の義は其時節に至りたのみ永御
 逗留不被成共相済候様にも可相成候得と
 御勘弁の上御内々御願被成候様にと奉存候
 何も筆紙には認尽し難く兎角□□□
 ならては済かね候事共□□御座候
 か様に申候も私老衰故往々貴様へ
 御傳事なと致残置候はゝ□□為にも可
 相成旁心得申上候第一□と多年
 御深切に御修行被成候事故心底得
 御意候事に御座候御内々の事に御座候

 尚追て万々申し可申述候以上

  十一月廿九日     素水

   善兵衛様


 〇
前紙を欠く一つ目の用件は「童の衆」のこと、二つ目の用件は「田口重信への伝授」です。

 〇 童の衆
杉浦門へ入込(住み込みのことか)釼術・要門を修行する童の衆は、通い稽古の衆よりも上達は格別に早く募り、五年の稽古が十年の稽古にも相当する。田口重信の家中や、そのほか隣国に童の衆(適当な)が居れば知らせてほしい、と童の門弟募集の知らせです。

 〇 執筆年
杉浦素水は天明五年三月、五十三才のときに隠居し、実子虎之助の家督を見届けた翌年の寛政九年九月廿一日、六十五歳で歿します。
本書簡が認められたのは此の期間に絞られますが、これ以上の推定材料はやゝ不足しています。よって、幾つかの年代が想定されます。その中で最も可能性が見込まれるのは、「私老衰故、往々貴様へ御傳事なと致残置候はゝ、□□為にも可相成旁心得申上候」という言による『家傳巻(寛政八年二月廿八日付)』傳授後の寛政八〜九年です。「杉浦派一刀流概説」の項にも記した通り、同流の傳授は五段階あり、『八風』『理盡得心巻』『剣法巻』『家傳巻』『本目録決心』へと進みます。ゆえに「往々貴様へ御傳事なと致残置候はゝ」と云うのは、残すところ『本目録決心』と考えるのが妥当なのです。
田口重信が『家傳巻』を傳授されたのは寛政八年のこと、本書簡が寛政八〜九年十一月廿九日とすれば、自身の余命幾ばくもないことを悟った杉浦素水が、急々に出府を促したと考えられます。本書簡において田口重信の出府を促す記述は事態の切迫を示しており、且つ『丹波綾部藩田口家文書』に『本目録決心』が残されていないことは、この推測を裏付けているように思います。

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九 杉浦素水記録

我宿の千種の花をとめてこそ
いろなき春の色もしらるれ

月花もなれて見るにそ増りけり
さりとてかわる色香ならねと

一切腹人の介錯には可用短刀
一かさつは憶病の花短氣は未練の左右
 気遣は分別の伊呂波堪忍は忠孝の
 始心懸は手柄の基
一無用の手詰論は禍の媒[なかだち]也上手の人は不好義也
 殊更無難の人に勝て無益こと也
一理に無窮藝は熟するに倚て妙に至る愽[ひろ]く
 学ひ深く思ひ能弁へ習ふことの熟せは事
 理一致の極を得乎
一取篭候者抔可生捕には無二無三に進て可捕也
 不然は捻刺股鼻捻等を可用也士を捕には
 時を不移下郎町人抔時刻可移也
一玉取とは鉄丸鉛丸鎖縄を付テ氣を奪ふ
 其外火入灰吹何なりとも有合モの礫とする也
 無刀取同断


 〇
無署名ながら杉浦素水の筆跡と認められます。田口重信に直接手渡したものか、或いは書簡に副えられたものと考えられます。

二首は室鳩巣の歌、次の箇條は一刀流の外物です。

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十 杉浦素水記録

 如仰神は本心の事と取
 候へは早々解申候要門にも己か
 神明をしいする故にその咎の
 かるに所なしとも有之
   神が悪をしめし善を申すの字
   明は日月の文字にて神哥に
 目は月か心はこ空風はいき
   海やま掛けて我身也けり
又身は社心は神のあり所外に祷る
   はおろか也けり
仏家にて
   唯心の浄土 己心の弥陀
 何れにても本心の事也要門は
 本心會得の修行を上置るゝ容易に
 可成事にては無之候へとも釼鎗の
 業も本心の場に本つかされはまさかの
 時の用には立難しされは何事を
 なすにも万能一心とも申候 神の
 事は要門に出有之至て尊ひ
 精進にて拝誦仕候事に御座候よくゝゝ
 要門御繰出し御覧可被成候仰の通
 遠きに有るにては無之候形もなく
 はてもなきものなから此所を
 自得する様に修行すへき事也


 〇
無署名ながら杉浦素水の筆跡と認められます。要門の指南中に書かれたものと思われます。

− 10 −

十一 大貝八兵衛書簡 寛政十年〜文化三年五月四日付

白井氏演説
一五位以上の人へは先規より取立の義
 相許候得共弟子取は先師の名前
 にて神文為致候事
 増して哉傳受等の儀は勿論の事
一免許以上の人へは自分名前
 にて勝手に弟子取相許し候事
 然共當所の弟子に相成候者へは傳受
 等有之候節は其沙汰有之筈の義
 に御座候
右の趣に御座候處三郎右衛門殿咄しの趣
にては少々田口氏御心得喰違候義も
有之候歟のよしに承り候間不外成人
の事故左様の御心得違にても有之候ては
不宜候事故先々得と承り候はすして
御屋鋪へ彼是と申義無之様可然旨
答候と被仰聞候
次に
万々一御心得違等も有之候ては表立
候て承候時は先師より流義の立派
にて可申事は不申候ては相成す候間
何分穏便に有之候て今一修行
有之候て御皆でんの上廣く弟子
取有之候様仕度義此方望所
に御座候と被申聞候
次に
御出府も有之候はゝ何事も御面談
有之流義の本意等御咄しも
有御座度趣に御座候
右の外先例を引候ての御咄しも
有之候得共事繁く書尽しかたく

候間不申上候尤右の節私答
候はゝ委細今度出府の上承り候間
御尋申上候義に御座候只今私御答
申上候筈の儀にも無御座候事故何事も
重便在所へ申遣田口氏より申越
の趣を以其節御答可申述旨申
置帰申候間委細御了簡の趣
被仰下候様仕度奉存候 愚老近年不遠候内
御出府有之候様仕度奉存候尚是等の
處も御内存被仰越可被下候様奉頼上候
今日為替金受取出役候間時刻
押移筆留申候早々以上
  五月四日  大貝八兵衛
 田口善兵衛様


 〇 執筆年
冒頭「五位以上の人へは先規より取立の義相許候得共、弟子取は」、この話題によって本書簡が認められたのは、田口重信が『家傳巻(寛政八年二月廿八日付)』を傳授された寛政八年以降と察せられます。また、杉浦家の当主で「三郎右衛門」を称したのは、三代目正健・四代目素水・七代目景禮の三人、本書簡の時期は杉浦素水隠居後ですから、「三郎右衛門殿咄しの趣にては、少々田口氏御心得喰違候」と云うのは七代目杉浦景禮を指しており、よって杉浦景禮が出奔する文化三年以前のことゝ推定されます。

 〇
本書簡の差出人大貝八兵衛武憲とは田口重信が取り立てた門弟にて寛政六年三月十五日入門、田口重信より『理盡得心巻(寛政九年二月十九日付)』を傳授されています。「白井氏演説」と云うのは白井克明のことで、四代目杉浦素水の高弟です。つまり、白井克明の演説を大貝武憲が書き取って、田口重信へ伝えたのです。このとき、田口重信の師杉浦素水は既に世を去っており、素水の実子杉浦景禮が七代目の当主でありました。先に十一月廿九日付の杉浦素水書簡で触れたように、田口重信が師より傳授されたのは『家傳巻』迄、皆傳には至っておらず独自に弟子取りは出来ない、勝手に傳授も出来ない立場でありました。しかし、白井克明の言によれば、田口重信は免許にも関わらず幾つかの掟破りをしていた様子です。
それが本書簡の冒頭にある二つの箇條です。当主の杉浦景禮に相談されたのでしょう、「三郎右衛門殿咄しの趣にては、少々田口氏御心得喰違候義も有之候歟のよしに承り候」と前置き、現状の問題点を懇々と諭します。要するに問題点は皆傳に至っていないことでしたから、「何分穏便に有之候て、今一修行有之候て御皆傳の上、廣く弟子取有之候様仕度義此方望所に御座候」と、皆傳まで修行するように言い聞かせ出府を促します。

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十二 小原胤之書簡 六月廿八日付

  尚々愚家一同御伺等宜申上度段
  申聞候
 一稽古場風替候儀は佃氏見舞處に
  御座候間御聞合可被下候以上
貴札拝見仕候如仰甚暑
強御座候得共御家君様方
被成御揃御勇健被成御勤仕
珍重御儀奉存候當地無
異儀罷在候間乍憚御案意
被成下候様奉願候私儀も日勤
の上去年中より組支配役被仰
付候故別て不得寸暇御無
音斗申上候段御用捨可被下候
乍■御家内様にも宜被
仰上可被下候是又奉
頼候御子息様御出府
被成候由に候處いまた尊意
不得残念奉存候近々
罷出得其意候様可仕候
何卒近来の内今一度
御出府被成候様仕度夫斗
奉希居り候事に御座候

一杉浦氏の儀彼是御心配
 の御書面御深切の御儀共
 私おゐて忝く奉存候扨々
 下拙儀も先師の跡の儀
 故■用は被申間敷
 存居候得共心の及ひ候丈
 は七■より少しは被出
 六感にも心付御座候向井

 杉三は不及申其外
 の仁迄数度相談の上
 意見仕猶又手詰の
 厳敷意見迄も致し
 候得共存候程にも無之
 候間万事相断居
 候事も有之候處佃氏
 抔達て被相頼候を幸に
 猶意見候一同相談の上
 書付等迄取印候儀にて
 此私は少しは治り候様子に
 御座候得共手元不自
 由故被致候事にも可
 御座候哉得と最早
 治り候と申儀いまた
 難見極め奉存候誠
 危事共にて万事
 心中御察可被下候
 弥治り候はゝ猶書中にて
 可申上候委細佃氏
 被存居候間能々御聞
 可被下候中々筆紙に
 書取兼申候
一佃氏弥御安易被成
 御勤被成候哉何分宜被仰
 達可被下候奉願候
 御在勤中は彼是御世
 話に相成忝奉存候是又
 乍失礼宜被仰達可被下候
 何分奉頼候
一佃氏去年より段々
 御修行見事の事共に
 御身に無油断

 御修行候様是又
 御傳達可被下候奉頼候
 其外前々御出合
 申上候御方様へも宜
 奉頼候一々書中不
 差上段御面倒と奉存
 差扣申候右は
 御報早々先申上度
 如此御座候随分
 暑中御安全被成
 御勤候様奉存候恐々
 謹言
       ■■
 六月廿八日  小原惣右衛門
           胤之(判)
 
  田口善兵衛様
  人々御中
      御報


 〇 執筆年
執筆年は、八代杉浦正行歿(文化五年四月廿日)後、九代杉浦景高が名跡を相続する以前が想定されます。書中「佃氏」とは、享和三年二月十七日に田口重信へ入門した佃逸作のことか。

 〇 小原胤之とは?
本書簡の冒頭に「私儀も日勤の上、去年中より組支配役被仰付候故、別て不得寸暇」と、小原胤之の身元を示唆する事柄が述べられています。「組支配役」と云えば、まず諸藩の御物頭を思わせます。しかし調べてみると、江戸町鑑に「小原惣右衛門」と云い、同名にて同じころに現役であった江戸の与力支配役が居たようです(文化四年一番組支配か)。偶然の一致とも言えますが、杉浦家が江戸八丁堀に住していたことゝ地理的にも符合します。しかし、諱を確かめられず、憶測の域を出ません。

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十三 白井克明書簡 二月廿二日付

貴札忝拝見仕候

  三白眼病故甚乱筆御高免
  御推覧可被下候以上
如仰春度の退寒
貴札忝拝見仕候如仰
春寒進兼候得共愈
御安全被成御勤仕
御安全被成御勤仕珍重の
御儀奉存候然は田口氏
當春御出府の義先達
貴答に御見合被成私より
時節申上候様可仕候間
其節被成御出府可然候段
申上候處初夏頃迄にて
無之候得は宜御時節外れ
候の間三月上旬にも
御出府御座候様  被成度
御沙汰の趣委細被仰下
奉承知候然所私病気
聢々無之毎度仮願も
差出候次第故被成御出府
候迚も此節は御傳授
事出来兼候間乍残念
被成御見合私方都合出来
御傳事相成候節に
仕度奉存候押て候被成
御出府候ても御詮無之候間
左様御承知被下御序に
宜様被仰上可被下候奉
頼上候此節眼病氣にて

貴答漸相認候次第故
勇馬殿へ委細御談申
善兵衛殿迄被仰遣候様に
御座候右貴答迄に早々
如是御座候猶後音の時
萬々可申上候恐惶謹言
珍重の御儀奉存候

萬々可申上 白井勘右衛門
    恐惶謹言
 二月廿二日   克(判:明)
九鬼半之允様
九鬼半之丞様
    参貴答

 猶々御端書の趣委曲
 承知仕候本文にも申上候通
 引込罷在候て未出勤も不相成
 次第病中故無據差支
 の儀御座候間何分にも是従
 宜時節申上候迄は御見合可
 被下候左様無之候ては誠に
 御出府の甲斐も無之候間
 無據御断申上候以上


 〇
本書簡は綾部藩士九鬼半之丞に宛て、田口重信が白井克明の傳授を受けるため出府日程を取り次がせたものです。お互いに出府の時期を合せなければ傳授が出来ないという、江戸に於ける伝播ならではの問題です。

 〇 白井勘右衛門克明
越前大野藩士。名は辰三郎、勘右衛門。實名は克昌、克明と改めた。
明和元年(1764)大小姓に召し出され、刀番、大納戸を経て、寛政二年(1790)家督を継ぎ百五十石・鑓奉行格(広間詰給人)となる。寛政三年(1791)物頭並取次勤に転じ、勝手方、留守居格御附を経て、再び物頭並取次勤(持格)となり、取次格へと進む。そして享和元年(1801)用人役となり役料銀15枚を下され、御中屋敷御用掛となった。用人役は父や祖父も同様に進んだ白井家の身分である。文化七年(1810)には高齢のためか取次に降格、文化十四年(1817)六月晦日病歿。『土井家家臣由緒書』

 〇 執筆年
本書簡には年紀を特定し得る手掛りがなく、およそ寛政から文化と云うことしか分りません。書中「勇馬殿へ委細御談申善兵衛殿迄被仰遣候様に」の「勇馬殿」とは、田口重信の次代田口重治を指すと考えられます。田口重治は白井克明より『剣法巻(文化四年二月廿八日付)』を傳授されており、本書簡はこの前後、先述の『大貝八兵衛書簡』よりも後に認められたと考えられます。

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読めない字

 一 杉浦素水書簡   寛政四年三月廿二日付

 奉賀候■■■殿御在勤中

 五 杉浦素水書簡   寛政五年八月十五日付

 大取込日々■■殿

 御細■に及不申候

 道場も餘■

 七 杉浦素水書簡   寛政八年十月三日付

 御咄可申上■奉存候

 八 杉浦素水書簡   寛政八〜九年十一月廿九日付

 不■御稽古被成

十二 小原胤之書簡   六月廿八日付

 乍■御家内様にも

 故■用は被申間敷

 は七■より少しは

 ■■ 小原惣右衛門

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掲載史料及び参考資料

『綾部藩田口家文書』個人蔵
『全国諸藩剣豪人名事典』間島勲 新人物往来社
『剣道関係古文書解説』全日本剣道連盟
『鈴鹿家文書解説』全日本剣道連盟
『日本武道大系』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『日本武道全集』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『笠間藩の武術』小野崎紀男著 ツーワンライフ
『三百藩家臣人名事典』家臣人名事典編纂委員会編 新人物往来社
『増補大改訂 武藝流派大事典』綿谷雪氏/山田忠史編 東京コピイ
『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会編 財団法人山口県剣道連盟
『茨城県史』茨城県史編纂委員会編 茨城県
『綾部市史』綾部市史編纂委員会編 京都府綾部市役所
『藩史大事典』木村礎著/藤野保著/村上直著 雄山閣
『平和家文書』京都府立総合資料館蔵
『大野市史』大野市史編纂委員会編
『分間江戸大絵図:る二-65』国立国会図書館蔵

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