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杉浦派一刀流概説

浦派一刀流概説とは、
笠間藩の一刀流剣術師家 杉浦氏が代々指南した一刀流について、主に現存する古文書を用い、そこに参考資料を加味して紹介するものである。ここでは杉浦派一刀流と記してはいるが、当時の記録では”一刀流”と記されている。後世の見地から他の一刀流と区別するために”杉浦派一刀流”と記す。
現存する古文書とは、丹波綾部藩の一刀流剣術師役であった田口家旧蔵の「丹波綾部藩田口家文書」である。「京都鈴鹿家本」がこの一部を複写という方法で収録し、全日本剣道連盟が紹介している。

牧野家(笠間藩) 杉浦家の系譜 | 傳授制度 | 杉浦派一刀流の傳書

九鬼家(綾部藩) 田口家の系譜 | 唯心一刀流の傳書
掲載史料及び参考資料
『綾部藩田口家文書』個人蔵
『全国諸藩剣豪人名事典』間島勲 新人物往来社
『剣道関係古文書解説』全日本剣道連盟
『鈴鹿家文書解説』全日本剣道連盟
『日本武道大系』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『日本武道全集』今村嘉雄編者代表 同朋舎
『笠間藩の武術』小野崎紀男著 ツーワンライフ
『三百藩家臣人名事典』家臣人名事典編纂委員会編 新人物往来社
『増補大改訂 武藝流派大事典』綿谷雪氏/山田忠史編 東京コピイ
『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会編 財団法人山口県剣道連盟
『茨城県史』茨城県史編纂委員会編 茨城県
『綾部市史』綾部市史編纂委員会編 京都府綾部市役所
『藩史大事典』木村礎著/藤野保著/村上直著 雄山閣
『平和家文書』京都府立総合資料館蔵

杉浦派一刀流

一、系図中の(数字)は杉浦正景以来の的伝を示す。(〜家)はその者が仕えた主家を指す。但し、(牧野家)=下総関宿藩・三河吉田藩・日向延岡藩・常陸笠間藩、(安藤家)=美濃加納藩・磐城平藩、(毛利家)=周防徳山藩、(九鬼家)=丹波綾部藩。

一、杉浦派の一刀流は戸田家の臣 古藤田彌左衛門尉俊定に師事し悉く傳受を承け一刀流の蘊奥を極めた杉浦正景に始まる。

一、杉浦派の一刀流は『八風切紙』『理盡得心巻』『剣法巻』『家傳巻』『事理決心巻』『本目録』を流儀の伝書としている。これは古藤田俊定の一刀流から独立した伝書体系を有していたことを示す。中でも『家傳巻』には杉浦正景が天和2年(1682)11月15日に著したことが伝書中に書かれていることから、その当時すでに古藤田俊定より伝来の伝書を独自に再編成し、工夫を加えていたと考えられる。この事は他の一刀流のように後世の分類の便宜上「〜派」とするものとは違い、分派であることを明確に表わしている。 今日確認できる古藤田の系による江戸時代後期の伝書を見るに、『(歌の巻)』『唯心流剣法初學書』『唯心流目録傳授之巻』『一刀流剣術事理口傳觀念巻』がある。杉浦派ではこのうち『唯心流目録傳授之巻』を『剣法巻』『家傳巻』『本目録』に分化したと見られ重複箇條が目立つ。尤も『唯心流目録傳授之巻』の序は『本目録』に引き継がれた。 また『理盡得心巻』という伝書について、その主旨である「必勝之事」は唯心一刀流の註釈書に拠れば二代目杉浦正本の創出とされており、伝書自体が二代目のときに成立したことを示唆している。 さらに『剣法初學書』は『丹波綾部藩田口家文書』のなかに写本が二冊ある。伝書として用いられた形跡は見当たらないが、あるいは伝書の一つとして用いた可能性もある。七代目杉浦景禮が九鬼式部少輔公へと献上した『理盡得心巻』には別傳扱いで『初学之巻』が加えられた。もちろんこれは特例にて通常の傳授状況とは異なるだろう。 およそ此のように、古藤田俊定より相傳したはずの伝書は用いられず、杉浦本家に於いては初代杉浦正景以来 独自の伝書が用いられた。よって正景以後の一刀流を杉浦派と分類する。

一、初代杉浦正景の弟杉浦正備が唯心一刀流を始めた。このことは正備の子杉浦正森が著した『唯心一刀流註釈書』に記されている。杉浦正備は正景に長く師事し、後に古藤田俊定にも師事した。 このため唯心一刀流の内容は杉浦正景の一刀流に酷似したものではあるが杉浦派とは異なり、『剣法得心之巻』『兵法太刀之巻』という独自の伝書を用いている。 また『唯心一刀流註釈書』によってもその傳授内容に正備の工夫が認めらる。たとえば「表三段之仕組」は「此仕組は正備の編添なり勿論先師相談の上にて加之故ある事也」、「小太刀木玉之位」は「右五つの小太刀は正備新に撰添る」など。杉浦正景・古藤田俊定の流儀から派生したことを明確に示している。

一、唯心一刀流という流名については紛らわしい点がある。それは杉浦正備の唯心一刀流と、江戸時代後期の史料に登場する唯心一刀流の存在である。杉浦正備の唯心一刀流については先述の通りであるとして、江戸時代後期の史料に登場する唯心一刀流とは何か? それは英名録に見られる唯心一刀流、これは杉浦派の一刀流そのものゝことである。廻国修行が行われるようになり、対外的に他の一刀流と区別するため、古藤田唯心の名に因んで唯心派の一刀流と云う意味合いで唯心一刀流を称したものかと考えられる。但し、単に一刀流と記録したり、唯心一刀流と記録するなど、同地に於いても定まった呼称ではなかったらしい。 たとえば二代目斎藤弥九郎の『英名録』『芳名録』では、「常陸笠間城藩 一刀流 山本鉄之丞・廣田屯」と記し、萩藩大庄屋の道場に訪れた者が記帳した『諸国武術御修行者姓名録』には「唯心一刀流 同藩 棟居小弥太門人 岩内雄之助」と記されるなど。 牧野家に於いて杉浦派の的傳を相傳していた杉浦家は、分限帳のなかで「一刀流剣術師範」とされている。
と、このように杉浦正備の派が正式に唯心一刀流を称していたことに対し、杉浦派の一刀流では時によって唯心一刀流と称することがあった、それが認められるのは英名録に限られる。(* 以上は現在調べた情報をもとにまとめたもので、流名について確かな記述は見当たらない)
現在刊行されているほゞすべての本において、杉浦正景以来の一刀流を唯心一刀流としているように思う。これは引用孫引きを重ねた結果であり、その根拠とするところは『唯心一刀流註釈書(世間では唯心一刀流太刀之巻と云う)』の流名由来である。尤もこれは杉浦正景の弟正備の流名由来であって正景が唯心一刀流を名乗ったという記録はどこにも見当たらない。つまり世間で唯心一刀流と云う論拠に間違いがある。

一、杉浦三郎太夫正景──杉浦與宗兵衛正家──杉浦定之進正武──曽根榮治豊久と続く天命唯心一刀流なる分派がある。この流名はおそらく曽根榮治の工夫に依るものと考えられる。曽根榮治は前名貞演、後に豊久と改めた。杉浦正家は杉浦正本の出奔によって師役を継いだ人物で、正本が帰参したのち今度は自分が出奔した、何家に仕えたとも知れない。杉浦與宗兵衛の名乗りは、本家の與三兵衛を憚ったものかと思われる。

一、四代目杉浦正健は杉浦家を継ぐ以前は周防徳山藩の人であった。技倆・人品を見込まれ杉浦に迎えられたのだと察せられる。同門に棟居是保が居り、以後同藩に於いて棟居家が家職とした。四代目棟居景保は世子毛利元徳公の剣術指南を勤めたと云う。

一、杉浦派の一刀流は本家杉浦家の家格に従い、他家に於いても同程度の身分の者によって行われたものと考えられる。
杉浦本家の禄は二代〜九代が十人扶持、九代のとき十五人扶持に増した。以下史料に従って各人の格禄職等を書き出す。禄は藩の石高によって身分が相違するため格が基準となるか。

『御侍帳』寛永14年5月改
 尾崎忠兵衛組 高100石 古藤田二右衛門

『全国諸藩剣豪人名事典』
 初代杉浦正景 者頭並 180石・250石
 二代杉浦正本 10人扶持
 三代杉浦正健 者頭格 10人扶持
 四代杉浦景健 物頭格 15人扶持
 九代杉浦景高 徒士頭格 15人扶持
 
『弘化3年(1846)3〜5月名順帳』(『茨城県史料 近世政治編U』)
 近習  60石  一刀流剣術鈴木十内へ差添世話 広田屯
 鑓奉行 60石  一刀流剣術師範 講武館懸 鈴木十内
 使番  15人扶持 一刀流剣術師範 杉浦与惣兵衛
 馬廻り 30石  一刀流釼術鈴木十内江差添世話 山本鉄之丞 *但し是は家督以前

『明治初年役高定並家中分限帳』(『茨城県史料 近世政治編U』)
 近習給人 60石 年々銀3枚 側頭取小納戸心得/手許入用取扱「家扶」/一刀流剣術師範 鈴木甚五郎
 馬廻  15人扶持 一等教師 一刀流剣術師範 杉浦繁

『平藩士役割覚』
 火之番 200石(格式物頭) 北爪源太夫

平藩明治2年12月調
 準上士 270石 田生小彌太 (改正高現米13石5斗)
 準上士 200石 北爪琢磨 (改正高現米13石5斗)
 中士  190石 杉浦源八・鋼五郎徧徳 (改正高現米12石)

『戊辰殉難者追憶』
 190石 杉浦五郎

『用文章』
 田口重良 御徒士頭・御手廻支配

『明治2年(1869)11月5日藩政変換被仰出後 綾部藩士列』
 16石 内5斗大豆 田口重良 *但し是は改正高

以上、此のように杉浦派の一刀流及び傍系の唯心一刀流は士分の中でも中位から上位の者によって行われた。

牧野家(笠間藩) 杉浦家の系譜



一、杉浦家の系譜を作成するに及び、どうしても家譜・役附の類いが欲しかった。 しかし見つからず、結局『全国諸藩剣豪人名事典』の杉浦與惣兵衛の記述を基本にして、各文献・各史料の断片的な情報を加え作成した。
一、笠間藩の藩法によれば、出奔は闕所とされる。「一、出奔 当主出奔は跡闕所」。7代景禮は出奔したため傳書からその名が省かれた。そして黒木直六郎が杉浦の名跡を継いだ。
一、初代杉浦正景は180石或いは250石とも云われる。多くの文献では250石と記されているいるが(孫引き)、小野崎紀男氏の著書『笠間藩の武術』には他よりも杉浦正景の記述が詳細であり、そこには180石と記されている。

杉浦家代々實名書判 田口荘太夫重良写

 
 

一、2代杉浦與三兵衛正本(玄休)の項「正英 一本に英と有之」とは、寛文4年(1664)古藤田俊定が著したとされる『剣法口傳之書』に杉浦正英の名で署名されている例を指すか。 「綾部藩田口家文書」にこの『剣法口傳之書』の写本がある。

杉浦派一刀流の傳授制度 江戸時代後期

 

一、上表は『一刀流剣術傳授済覚』と『綾部藩田口家文書』の傳書をもとに作成した。(傳書と階級の関係を示すような史料は残されていなかったので配置は推測である)
一、『一刀流剣術傳授済覚』とは、文久4年(1864)2月田口重良が藩へ提出した傳授者一覧である。これには「初學」の未傳授者はカウントされていない。
一、上表のシステムはおよそ江戸時代後期のものであり、前〜中期は定かでない。
一、4代杉浦與三兵衛景健の門弟白井勘右衛門克明は、傳書を与えることを”傳授”と表現した。
一、「家傳巻(五位)」は天和2年(1682)11月15日初代杉浦三郎太夫正景が著した。
一、「理盡得心巻」は2代杉浦與三兵衛正本(玄休)より始まる。正徳5年(1715)に帰参し剣術師役となったので、それから隠居するまでの期間に著したか。
一、傳書の成立年代そのものを根底にすれば、上表のシステムの上限は正徳5年(1715)〜享保15年(1730)頃である。

杉浦派一刀流の傳書傳授までの年数

一、「事理決心」と「本目録」は”両度の傳授”と称され、資格者に1セットで傳授される。この段階は特別なものであり、通常は傳授されない。
一、田口善兵衛重信の場合、天明5年(1785)2月28日「理盡得心巻」→寛政2年(1790)8月15日「剣法巻」→寛政8年(1796)2月28日「家傳巻」と進んだ。
一、「剣法巻」→「家傳巻」の年数は、田口善兵衛(他藩士であるため出府時のみ素水と接触できた)の情報しかないので、実際はもっと短い年数だったと考えられる。

杉浦派一刀流の傳書箇條

一、上表は各傳書で増加する箇條を抽出したものである。同じく古藤田に学び一流を開いた人物も似たような箇條の傳書を傳授している。
一、青字は”仕組目録”と云われる。
一、”仕組目録”の中、「表五段之仕組」「裏五天之位」「三行之位」は”表十六本”と呼び、一通りを続けて行う”早遣”があった。さらに”九曜傳之外附傳”の遣い方がある。
一、”必勝之事”は2代杉浦與三兵衛正本の創出とされる。
一、上表は傳書をもとに作成したので掲載していないが、杉浦景高の留書には”天狗象”と”センユ”、”小太刀仕組”があった。「綾部藩田口家文書」によれば、”小太刀仕組”は”裏”である、もう一つ、”天狗象”は往古”表”であったと記されている。そして、唯心一刀流の「兵法太刀之巻」には”進退屈伸連続之仕組 天狗象”と”小太刀連續之仕組 旋移”がある。
一、杉浦景健の高弟白井勘右衛門克明が傳授した『剣法巻』には、「小太刀事理之位 序之勝 破之勝 急之勝 一字之位 十字之位」が加えられていた。

九鬼家(綾部藩) 田口家の系譜

杉浦派一刀流の起請文雛形 田口裕治仕様

 

神文前書之事
一、一刀流兵法釼術小具足腰之廻指添の事理傳受秘傳等、親子兄弟たりと雖も他見他言申す間敷く候
依て別々に誓詞を加え、これ無き面々は縦い相弟子たりと雖も其の位々に應じ猥りに沙汰申す間敷く候事
一、初心の間巻物傳受これ無き者は、他流に成替り候共心次第に候、巻者傳受以後の者は他流に變るべからず候旨
然る共元来忠孝を志す修行の儀に候間、主命の儀は格別に候、万一據んどころ無き訣を以て他流に相成り候はば、
其の訣相達し其の節、右巻物等一紙も残さず返進仕るべく候、且つ御太切の義傳受仕り御流義相守り候上は、
師恩聊か粗略に存ず間敷き事、一免状申請候共師命に背き我意を働き弟子に對し深く難儀を懸け申さざる様に心懸け申すべく候
尤も後日自流を立てず、又は當流の事理之位を乱さず仕組之形を違わざる様に指南申すべく候事
 附、御傳授び儀死後相續仕る者これ無きにおいては、御巻物等末期に及び悉く返進致すべく候
 尤も一紙たりと雖も相残し申す間敷く候
右の條々相背くにおいては梵天帝釋四大天王惣て日本六十余刕神祇別して伊豆箱根両所権現の御罰を罷り蒙むるべきもの也
依て起請文件の如し
 年号月日 −−− 名乗 判 血判
 杉浦素水殿(與三兵衛)
御名代
 田口裕治殿

一、杉浦素水の弟子田口裕治に入門する者が差し出す起請文の雛形である。田口裕治は皆傳を得ていないので、杉浦素水の名代として綾部藩士に教授した。

杉浦派一刀流の起請文 田口裕治仕様

 
 

一、これは前項が一紙で提出する起請文の雛形であるのに対し、巻子の冒頭に神文前書を配しその後に門弟が署名・判・血判を列ねる一般的な形式である。 因みにこの門人帳は寛政6年(1794)3月15日から明治3年(1870)2月まで使用され、122名の門弟が名を列ねた。写真は一部を抜粋。

寛政 3人
享和 14人
文化 7人
文政 21人 其外 免許2人
天保 29人 其外 免許8人
弘化 3人 其外 免許2人
嘉永 10人 其外 免許2人
安政 9人 其外 免許1人
万延 2人
文久 6人
慶応 8人
明治 10人 其外 免許1人

このように寛政から明治までの入門者の推移を見ると、丹波綾部藩1万9500石の家臣数からすれば、田口氏が指南した一刀流は同藩に於いて主要な地位を占めていたと考えられる。

田口荘太夫、奥傳「決心本目録」の傳統 『用文章』より

(3)口上覚
不調法者の私儀、結構召し仕えられ有り難き仕合せ存じ奉り候
然らば、亡祖父・亡父未熟者の儀、一刀流剣術師範仰せつけられ候につき、亡父相果て候後、愚昧者の私、剣道心掛けるべく候段、御懇ろの御沙汰を蒙り、誠にもって冥加至極有り難き仕合せ存じ奉り候得共、何分愚鈍者の上、生質虚弱にて未だ一向習得の功も御座無く、重々恐れ入り奉り候
然る処、亡祖父より未だ当流の奥傳「決心本目録」の傳統は師家より授与致し呉れられず候処、今度、未熟者の私へ牧野左京様御藩中 杉浦與三兵衛より右「決心本目録」の傳統二巻共両度の傳授致し候よう申し聞き候えども、私儀は實に未熟者にて毛頭極意の傳来を請け候場には決して御座無く候得共、與三兵衛より達て申し聞かれ候につき、後学の為にも相成り、且は家の面目にも相成り申すべき哉と存じ込み候間、師の意に任せ何卒請け置きたき心願に御座候に付きては、彼是金子入用に御座候得共、私儀、下地不手繰の上、亡父長病にて相果てかれこれ入用雑費など次第に借財相嵩み、差し向き調達も仕り難く必至と難渋仕り候に付き、御時節柄を顧みず願い上げ奉り候も、甚だ以て恐れ入り奉り候得共、何卒格別の御慈悲を以て金子三両二歩拝借願い上げ奉り候
右願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候はば、御蔭を以て取り續き御奉公仕るべしと、重々有り難き仕合せ存じ奉り候
然る上は、上納の儀は御差図次第仕るべく候、此の段苦しからざる儀思し召し候はば、御奉行中迄宜しく仰せ達せられ下さるべく候、願い奉り候、以上
 〔嘉永4年(1851)〕五月朔日 田口勇馬
 守岡蔵太様
右は嘉永四亥年五月上旬、本願に認め御家老中迄と認め差し出し候処、江戸表にて當分拝借願い候事故、御上書に認め御奉行中迄と認め差出候様御沙汰に付き、則ち口上書半切上包に名ばかり認め差し出し申し候

一、江戸時代後期〜明治時代初期の願書類を控えた『用文章』より抜粋。
一、金子借用の件はさておき、田口家の事情をよく示している。 @亡祖父・亡父はともに一刀流剣術師範を藩から命じられていたこと、A亡父が果てたのちは剣道を心掛けるように懇ろの沙汰があったこと、B奥傳「決心本目録」の傳授について笠間杉浦家から打診されていたことなど、この控えが無ければ全く分らない事実が判明した。

田口荘太夫、一刀流剣術師役辞退の願い 『用文章』より

(6)奉願口上覚
不調法者の私儀、結構召し仕えられ有り難き仕合せ存じ奉り候
然る處、先年来愚昧未熟者の儀、一刀流剣術師範仰せつけられ、誠に以て冥加至極有り難き仕合せ存じ奉り候
何分生質愚鈍虚弱者にて一向習得の功も御座無く、其の上毎々持病の痰症相発し難渋仕り聢々執行仕り難く何共恐れ入り奉り候
実に高弟の衆中の助力を以て相勤め重々恐れ入り奉り候、別して當御時節柄未熟者の私、御大切の師範決して相勤め候者には御座無く、身分不相應の大任故甚だ心痛仕り候間、何卒右師範、高弟の衆中へ仰せ付けられ私師範の儀格別の御慈悲を以て御免成し下され候様、願い上げ奉り候、且つ又當春来札場奉行役仰せ付けれ、従来愚昧短才不算者に御座候得ば、実に同役の助力を以て相勤め、誠に以て恐れ入り奉り候、右御大切の御役儀、迚も相勤め候者には御座無く候間、且つ又格別の御憐愍を以て、右御役御免成し下され候様、偏に願い上げ奉り候
右両様願いの通り御免成し下され候はば、誠に以て冥加至極有り難き仕合せ存じ奉り候
依て如何体にも身分相應の御奉公仰せ付けられ下し置かれ候様願い上げ奉り候
此の段苦しからざる儀御座候はば、御家老中迄宜しく仰せ達せられ下さるべく候、願い奉り候、已上
 文久二戌年(1862)十二月九日 田口荘太夫 印判
 大御目付中殿

一、一刀流剣術師範と札場奉行の両役辞退の申請。このような辞退が行われる背景には、財政的逼迫があった。

田口卓太郎、剣術修行の申請 『用文章』より

(11) 奉願向上覚
私儀、釼術修行のため京師河原町二條上ル道場、戸田栄之助殿と申す仁の方へ罷り越したく、當御時柄御人少なく候中願い奉り候も、何とも恐れ入り候得共、往来百日の御暇下されたく候儀願い奉り候、大願の通り仰せ付けられ下し置かれ候はば有り難き仕合せに存じ奉り候、此の段苦しからざる儀御座候はば、執政中まで宜しく仰せ達せられ候様願い奉り候、已上
(明治2己巳年)巳二月廿二日   田口卓太郎 判
田口庄太夫殿

(12-1) 奉願向上覚
私儀未熟者にて、釼術修行のため京師河原町二條上ル道場、戸田栄之助殿と申す仁の方へ罷り越したく、當御時節柄御人これ少い中願い上げ奉り候も、何とも恐れ入り候得共、往来六十日の御暇下し置かれ候様願い奉り候、大願の通り仰せ付けられ下し置かれ候はば有り難き仕合せに存じ奉り候、此の段苦しからざる儀御座候はば、権大参事中まで宜しく仰せ達せられ下さるべく候様願い奉り候、已上
(明治2己巳年)巳十月廿七日   田口卓太郎 判
田口庄太夫殿
佐藤五郎右衛門殿

(12-2) 口上覚
願面に申し上げ候通り不調法未熟者に御座候得共、願面御聞き済みの上は出京中精兵調練稽古、并びに御番所出張の儀は御断り申し上げたく候、併し乍ら万一非常の節は【虫食い】身分應に仰せ付けられ下されたく願い奉り候、右に付き當御時節柄願い上げ奉り候も、何とも恐れ入り候得共、出京中御屋敷内何方成り共差し置かれ下されたく願い上げ奉り候、且又、結構召し仕えられ候まで餘り勝手がましく宣い候様恐れ入り奉り候得共、當節柄物價高直、彼是入費多く必至と難渋仕り候間、何卒出京中出張并びに御支度頂戴仕り候歟、又は當分金札弐十両拝借仕りたく、右両様の内願い上げ奉り候間、格別の御憐憫を以て大願の通り仰せ付けられ下されたく候はば、誠に以て冥加至極有り難き仕合せに存じ奉り候、此の段苦しからざる儀御座候はば、権大参事中まで宜しく仰せ達せられ下され候様願い奉り候、已上
(明治2己巳年)十月廿七日   田口卓太郎 判
田口庄太夫殿
佐藤五郎右衛門殿

(13-1) 奉願向上覚
私儀愚昧未熟者にて、釼術修行のため京師河原町二條上ル道場、戸田栄之助殿と申す仁の方へ罷り越したく、當御時節柄御人少く候御中、毎々願い上げ奉り候も、何とも恐れ入り候得共、何卒當年一ヶ年の御暇下し置かれ候様願い上げ奉り候、大願の通り仰せ付けられ下し置かれ候はば有り難き仕合せに存じ奉り候、此の段苦しからざる儀御座候はば、権大参事中まで宜しく仰せ達せられ下さるべく候様願い奉り候、已上
(明治3庚午年)午正月十六日   田口卓太郎 判
平和源太夫殿
田井剛之丞殿

(13-2) 口上覚
願面に申し上げ候通り愚昧未熟者に御座候得共、願面御聞き済みの上は、毎々願い上げ奉り候由恐れ入り奉り候得共、結構召し仕えられ候まで餘り勝手がましく、誠に以て恐れ入り奉り候得共、當節柄物價高直に付き、彼是入費多く必至と難渋仕り候間、何卒當分金札五十両拝借仕りたく願い上げ奉り候、此の段格別の御憐憫を以て大願の通り仰せ付けられ下し置かれ候はば、御蔭を以て修行仕るべく、誠に以て冥加至極有り難き仕合せに存じ奉り候、此の段苦しからざる儀御座候はば、権大参事中まで宜しく仰せ達せられ下さるべく願い奉り候、已上
(明治3庚午年)午正月十六日   田口卓太郎 判
平和源太夫殿
田井剛之丞殿

一、明治2〜3年、田口卓太郎が戸田栄之助(一心斎)の道場へ剣術修行に向うとき、藩に提出した書類5点の控えである。
一、田口卓太郎は、綾部藩一刀流剣術師役田口荘太夫の息子で、父祖以来の杉浦派一刀流と唯心一刀流を学んでいた。
一、田口卓太郎は、代々剣術師役を勤めてきた家の後継者ゆえか、藩費での留学を目論んでいる。剣術修行時の『英名録』が残されており、修行の申請が受理されたと分るが、60日の修行で金札20両、1年の修行で50両を申請した件については、その通りに金子が渡されたのか明らかではない。金札というのは太政官札のことで、1両札は1円に等しく、1ドル相当。あれこれ調べてみると、かなり多額の金子を要求しているように思う。
一、戸田一心斎は直心影流の剣術家。諸侯の招きに応じず、24才のとき京都河原町に道場を構えたと云う。田口卓太郎が道場を訪れたときは62.3才、この頃は老年ゆえ実技指導はせず、師範代の高山峰三郎に任されていたと云う。一心斎は明治4年歿、64才。

剣術修行の記録『英名録』

一、剣術修行を申請した田口卓太郎の英名録である。
一、『英名録』というのは、後世の呼称ではなく、当時からそのように呼称されていたと思う。
一、本文書に題言あり「余の友卓兄は釼を学ぶ者なり、一日この小冊子を懐にして来りて謂う、予曰く、天下に英雄少なからず、四方に遊びこれに学び、且つ英名を録さんと欲す、これに於いて兄に題言を請う」と、すなわちこれが英名録である。

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