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経武館に於ける多宮流

加賀藩の武学校「経武館」は文学校「明倫堂」と同じく寛政4年(1792)に創建されました。「経武館」に於ける各流の師範人は武藝の技倆、門弟の人数などを鑑みて藩臣より撰出され、定日「経武館」に出座して指南します。そのほかの日、師範人たちは宅に於いて指南しました。
「経武館」は慶應4年(1868)9月壮猶館と合併されたことで消滅、一刀流(撃剣)を除き従来の武藝諸流派が全廃されます。
さて、経武館が廃止されるまでの七十六年間、多宮流居合を三代続けて指南した生沼家には「学校向達方等一巻留」と云う史料が伝えられていました。 この史料には、学校からの通達や頭衆・御用所・御横目所等との連絡、生沼家が仕えた前田土佐守家との連絡などが書き留められています。その記録は、八代善兵衛が居合師範役を命じられた文政3年(1820)8月8日にはじまり、九代作左衛門を経て、十代善兵衛の慶応4年(1868)5月17日に至ります。

掲載史料及び参考資料

『学校向達方等一巻留』個人蔵
『加賀藩生沼家文書』個人蔵

□…欠損 ■…不読 [ ]…管理人註 者・而・江・ゟ…原文のまゝ

八代 生沼善兵衛 師役在任:文政3年8月8日〜文政4年3月21日

文政3年8月8日 経武舘居合師範役拝命

 文政三年八月八日於武学校
 居合師範被 仰付以来学校向
 諸事左之通

八月八日
一 七半時過年寄中浅井平左衛門殿ゟ
御用之儀有之候旨紙面到来應し
返書指遣追付罷出候處左之通
被 仰出之写を以被仰渡候ニ付
御礼御請奉申上候處御礼勤方
之儀ハ御用所承合候様被申聞候事

 御家来生沼善兵衛儀於武学校
 居合師範被 仰付候此段可被
 申渡候事
  八月八日

一 御用所承合候處永■源五郎儀学校
ニ而馬術師範被 仰付候御振
御主付御同席様学校懸り頭中
御礼勤いたし候善兵衛儀も右之通り
御礼勤可仕且善兵衛儀師範
被 仰付候御届方甲斐守様江
被遣候間御用人様江茂相勤候趣ニ
奉伺候處伺之通被 仰出候事

一 右伺方等彼是仕候内夜中五時ニも
相成候候付夜ニ入相勤儀も如何敷候間
明早朝相勤候趣奉伺候處伺之通
被 仰出候段御用所當番笹井
権右衛門申聞候事

多宮流居合師範役を命じられた生沼善兵衛、経武館に定日出座し家士を指南することゝなる。この日は事務手続きに時間がかゝり、関係諸向への御礼は明日となった。

文政3年8月9日 御礼勤

同九日
一 今日早朝ヨリ甲斐守様并
頭中木村兵部殿松原細衛殿山口清太夫殿
戸田五左衛門殿堀孫右衛門殿辻三郎左衛門殿江
御礼勤仕口上左之通り

 私儀昨日於武学校居合師範
 被 仰付難有仕合奉存候右為御礼
 罷出候

  但上下着用相勤候事

右夫〃相勤罷帰直ニ御屋敷江
罷出其段平左衛門殿へ相達
御前江奉申上候事

昨日の師範拝命について、長甲斐守(加賀八家)と頭衆へ御礼廻り。そのまゝ帰り、浅井平左衛門と殿様(前田近江守直時)に報告した。
この記事によって、昨日登場した”年寄中浅井平左衛門殿”は前田近江守の家臣であり年寄中という身分であったことが分る。つまり、陪臣である生沼善兵衛に対しては、藩から直に連絡はされず主家たる前田近江守を経由し行われていた。

文政3年8月10日 呼出

同十日
一 今日左之通り学校ゟ紙面到来ニ付
應シ返書遣候事

 申談候儀有之候間明後十二日
 四時頃可被罷出候以上
  八月十日
 切封し
  生沼善兵衛殿 学校

 御申談之儀御座候付明後十二日
 可罷出旨御紙上之趣奉得其意候
 右為御答如斯御座候以上
  八月十日
 切封し
  学校   生沼善兵衛

このような書面を以ての呼出は当時頻繁に行われたもので用件は通常記されない。

文政3年8月11日 門弟交名帳提出指示

同十一日
一 今日学校御横目所ゟ左之通紙面
到来應シ返書遣候事

 御自分儀門弟交名書早速
 可被指出候以上
  八月十一日
 切封し    学校
  生沼善兵衛殿 御横目所

 私門弟交名書早速可指出
 旨紙上之趣奉得其意候右
 為御答如斯御座候以上
  八月十一日
 〃
  学校
   御横目所  生沼───

右両通共年寄中平左衛門殿へ相達
口上左之通り添小紙を以奉入
御覧候事

 昨日学校ゟ別紙之通り申来り
 候付平左衛門江相達奉入
 御覧候様申聞候付奉入
 御覧候事
  八月十二日   生沼善兵衛

この日も平左衛門殿を経由して学校から連絡あり、これに対する返答もあわせて殿様に報告した。
交名帳とは門人帳のこと。生沼善兵衛は師範役を命じられる以前から居合師範であったから、すでに多くの門弟たちがいた。

文政3年8月12日 稽古道具新調



同十二日
一 今日四時過学校江罷出取次足軽
を以罷出候趣頭衆江相達候處
追付右足軽誘引頭衆溜所江罷出候処
御定書被相渡拝戴仕奉畏候旨
御請等申上候處稽古定日之儀追而
可被申談旨松原細衛殿被申聞候事
右相済頭衆溜与力陸山弐左衛門申聞候
稽古道具武学校ニ御在合之品
ニ而も宜敷分見分いたし無之義ハ
被 仰付候旨ニ付追付弐左衛門
同道罷越居合刀等見分いたし
御在合ニ而宜分差圖いたし無之
分ハ直ニ細工人被申談圖り等
学校江致持参候様可申談旨弐左衛門
申聞候事

一 御横目所江罷出候處門弟交名帳
調方案紙被為見右當廿日
迄ニ差出候様被申聞候事

右相済罷帰其段平左衛門殿江
相達候上
御前江奉申上候事

一 今度師範被 仰付候付稽古道具
新出来被 仰付候品〃左之通り
寸法書能登屋新兵衛江相渡
学校江致持参候様申談候事
 但右之内木刀ハ鉄屋九郎次へ申談候事

 覚

立合     惣長さ
一 鞘しなへ  三尺三寸
        内八寸柄
  但太サ縫上ケ三寸三歩壱歩数弐本

〃子供物也  同
一 同小之分  弐尺七寸
        内七寸柄
  但太サ同断数壱本

〃      同
一 鞘     弐尺五寸
  但太サ四寸七歩数壱本

〃子供物   同
一 同     弐尺
  但太サ同断数壱本

打仕共    同
一 勝負しなへ 三尺三寸
        内八寸柄
  但太サ縫上ケ四寸五歩壱歩切先ニ
  タンホウ付ケ出来也

表形打太刀  同
一 しなへ   三尺三寸
        内八寸柄
  但太サ縫上ケ四寸三歩三寸五歩

一 勝負胴   弐領
  但表并首懸緒共革製
  裏布付ケ出来也寸法
  左之通り
本文之内
さやしなへ
勝負しなへ形打太刀
しなへ共
餘り太過
却而其業
仕悪き
成立方不宜ニ付重而詮儀之上寸法太サ
マテ朱書之通相改候事天保三年
正月

   一尺弐寸
  五寸三分
 六寸
・首懸緒弐尺五寸 八寸九分 一尺九寸五分
・小枕見斗也    布四寸五分
 同
  同
   同

  惣丈一尺七寸
  同巾一尺五寸五分
 但惣テ曲尺サシナリ

一 居合刀    定寸身弐尺
        五寸柄八寸ニ
        候得共長短相用
        申候

一 同打太刀   定寸身弐尺
 木刀     内五寸柄
  但居合刀拵方縁頭口金
  鐺胴金共凡而赤金出来
  且頭ハ柄木トモ木ニ而モ宜敷
  何レ丈夫ニ出来 口金胴金
   鐺取合物ニテモ不苦事
 一 打太刀木刀 木枇杷樫之内
  ニテ出来太サ等見斗出来也

   以上

一 今般門弟交名帳指出ニ付而ハ
御前并典膳様主鈴様共 御名之儀
平左衛門を以相伺候處
御三方様共當流御学ひ被遊候旨
御横目江口達ニ而相達置候様被
仰出候事

学校に行き頭衆へ連絡すると、取次足軽に案内されて頭衆溜所へ向う。一昨日の呼出の件は”御定書”の受け渡しであった。(”御定書”とは藩主治脩公が定めた”学校之御定”のこと、ゆえに”拝戴仕奉畏候”) ”稽古定日”のことは後日相談すると松原細衛殿ゟ告げられる。
そして”稽古道具”については、武学校に在るもので利用できるものを見分、無いものは細工人へ相談、寸法図を学校へ提出するよう弐左衛門殿ゟ告げられる。稽古道具に関して子細に記録されており興味深い。これが稽古に用いられる全てではなく、武学校に在り合わせの利用できる分は記載されていない。
そのあと御横目所へ行き先日の交名帳の見本を見る、22日までに提出とのこと。この日も帰って平左衛門殿と殿様に報告した。
さて、門弟のなかには殿様のほか身分の高い者もおり、交名帳に記すには憚りありと考えたものか平左衛門殿へ伺ったところ、御横目へ口達するよう指示されている。
これはやはり陪臣の身である生沼善兵衛の交名帳に、その名を載せることは不敬と判断したようだ。

文政3年8月20日 交名帳持参

同二十日
一 右交名帳今日御横目所へ致持参
服部忠兵衛殿江相達
御三方様之儀口達ニ而相達候處同敷ハ
帳面ニ御調有之儀御座候得共
御主付様之儀ニ候間取斗可申旨
被申聞候事

一 御横目奥村彦助殿書左之通り帳面
到来應シ返書遣候事

 武学校江初而出座之人〃届方
 直勤之面〃ハ相届陪臣ハ
 師範人ゟ引受御達候筈ニ御座候
 此段御内分為御承知申進候以上
  八月十三日
 切封し
  生沼───殿  奥村彦助
          陸山弐左衛門

一 頭中ゟ左之通り紙面到来應シ返書
遣候事

 御手前方稽古定日毎月
 廿六日朝ニ相極當月ゟ相始候
 為承知申達候尤朝五半時ゟ
 相始可申候為念申達候以上
  八月十三日
 切封し
  生沼───殿  学校

 追而稽古道具出来迄自分
 道具可被致持参候以上

22日までに提出予定の交名帳をこの日提出した。先日平左衛門殿に計ったとおり、御三方の名は交名帳に載せることを憚り口達で伝えたところ、本来は記載すべきだと言われる。しかし生沼善兵衛は殿様附の指南役であったので特別に受理された。
御横目ゟ、経武館の多宮流居合に初めて出座する者で、直臣は直接届け出、陪臣は師範を介して届け出るようにと通達あり。
もう一件は頭中ゟ、いよいよ稽古定日が決まったことが知らされた。

文政3年8月18日 弟子帳・出座帳

八月十八日
一 御横目所ゟ被申談候御用有之候間當十七日
八日之内罷出候様申越應シ返書遣し
依而今日罷出候處諸師範人江御申談
御定書拝見仕候様被申談則拝見
仕左之写取置候事

 一 弟子帳草案之通り御調来月
 廿日迄ニ可被成御指出事

 一 稽古之節出座帳御渡
 可申候間取次足軽ゟ御受取稽古
 相済候ハゝ御横目所江御返可有之
 候事
  但稽古相始候旨取次足軽を以
  可被成御届候事

 一 右出座帳ニ師範人名茂御記
 當番或ハ御番外當病等
 之儀肩書ニ可被成候事

 一 右帳面ニ出座人稽古篇数
 可有御記且老人或ハ痛所等
 有之候而茂為見学心得
 出座可有候事

 一 出座帳調方左之通

   何月何日
        師範人
          何ノ誰
        出座人
          交名
        横引人
          何ノ誰

 一 師範人居宅稽古所又者
 出稽古之分等出座数篇
 数且傳授方委曲一集ニ
 帳面ニ御認以来毎歳四月
 中前年之分可被成御届
 候事

 一 弟子中増減之儀毎歳四月
 中ニ前年之分帳面を以可被成
 御届候事
  但学校江出座有之人〃ハ
  改名等之儀是迄之通り
  時〃厳重ニ可被成御届候事

 一 前〃ゟ去年迄傳受之人〃且
 傳受名甲乙書両様来月
 廿日迄可被成御届候事

 右之通可被成御心得候事
 
  庚辰
   八月   御横目所

右之通り写取罷帰門弟中江
夫〃為心得見せ置候事

御横目所ゟ呼出があったので行ってみると、諸師範へ見せている御定書を拝見し写し取った。 この”御定書”とは、今日云うところの出席簿に関する取り決めである。帰って弟子にも見せている。
従来、主家たる前田土佐守家の家中において管理されていた弟子の様子が、経武館出座にともなって藩の監督下にも入る。出席状況・伝授状況について事細かに提出を求められており、これによって藩は何らかの情報を汲み取り賞罰などに反映したものだろうか。

文政3年8月26日 経武館定日初出座

一 八月二十六日初而学校定日出座人
六拾壱人有之候事

初めて経武館に出座した生沼善兵衛の多宮流一門は六十一人を数えた。

文政3年8月19日 傳受甲乙書・交名帳二冊提出

一 八月十九日當流傳受甲乙書
并傳授人交名帳二冊御横目所へ
相達置候事

文政4年3月21日 生沼善兵衛隠居、忰作右衛門経武舘居合師範役拝命


一 文政四辛巳年三月廿一日浅井平左衛門殿
ゟ早速罷出候様紙面到来應シ返書
遣し追而父子共罷出候處左之通
被仰渡写取被相渡候事

 写
 御家来生沼善兵衛儀於武学校
 居合師範被 仰付置候處今般
 隠居御申付ニ付右師範方
 指省為代せかれ作右衛門江
 師範被 仰付候旨被 仰出候条
 可有御申渡候事
 
 辛巳
  三月廿一日

一 右之通被仰渡候ニ付父子共難有仕合
奉存候旨御礼御請奉申上畢而
御用番様御始御礼勤之儀御用所江
承合候處今日ハ
御上御日柄ニ付上下着用御礼勤之儀
如何敷之時明日之趣詮議之趣も有之
候得共重詮儀被 仰付候當日之儀ニ候間
其儀ニ不及矢はり今日相勤候趣
伺有之處窺之通り被仰出候事

一 御用番村井鞆負様并仙石内匠殿
津田権五郎殿松平伊織殿山口清太夫殿
戸田五左衛門殿辻三郎左衛門殿為御礼
相勤口上左之通り

 私父善兵衛儀於武学校
 居合師範被 仰付置候処今般
 隠居御申付為代私江師範方
 今日被 仰付難有仕合奉存候右
 為御礼罷出候

  但口上之内鞆負様御両家故
  御申付旨相述申候其餘ハ申聞
  与相述候事

右夫〃相勤候上直ニ御用所江罷出
相述候事

文政4年3月22日

三月廿一日
一 明廿二日被申談候儀有之候間学校江
罷出候様頭衆ゟ紙面到来應シ返書
遣翌日罷出候處 御定書拝戴
被 仰付相済定日茂是迄之通
之旨仙石内匠殿被申談候夫ゟ御
横目所江罷出門弟交名帳之儀
是迄之通り相替儀無之段
相達候事

一 指引人是迄之通三人之趣内匠殿
御達ニ而相達候事

一 右之外相替儀無御座候事

生沼善兵衛、奉公の年限がおとずれたものか隠居を命じられ、経武館師範役も退けられた。当時の陪臣の職務規定によるものと思われるが未確認である。 代りに忰作右衛門が師範役を拝命し、御用番の人〃などへ御礼廻りを勤めた。
御礼を済ませた翌日、忰作右衛門への引き継ぎが行われた。頭衆ゟ御定書を拝戴、定日はこれまでの通りであると伝えられる。次いで、御横目所では門弟交名帳もこれまで通りと伝えられ、ほかに替り無いことを確認した。


九代 生沼作左衛門 師役在任:文政4年3月21日〜嘉永4年7月18日

文政11年3月25.26日 師範人の扱い

一 文政十一年七月廿六日當流
中野様初而 御覧被遊候猶別冊ニ記ス

文政十一年三月廿五日
一 今日御横目所江罷出當番関九郎兵衛殿
江若定日ニ相當り候節主用有之
難罷出節ハ其趣小紙を以御達
申候得ハ宜敷哉為心得相尋候處
此頃其儀ニ付外ニ尋候者も有之候
元来各師範方被 仰付罷在候
事ニ候ハ御用与申物ニハ先申時ハ
御上江御雇之趣ニ候得ハ主用を
申立出座無之事ハ相成申間敷
是迄主用ニ而遠所江罷越候抔
之儀ハ其趣被相届来候又當病
も同様日用主用之事ハ申サハ
外人江被 仰付候ヘハ宜敷事与申物ニ候
併只今詮儀中ニ候間猶又頭衆
江茂及示談詮儀方決定之上
御答可申旨被申聞候事

一 右之通ニ候處翌廿六日定日ニ付
罷出候處御横目青木茂左衛門殿
昨日被申聞候趣御主用ニ付御出座
不被成事者相成不申趣ニ候其内
無據御主用之趣候ハゝ其趣御主家
ゟ御入相立候得ハ格別左様無之
候而ハ相成不申旨被申聞候事
 但遠所當病之事ハ是迄之
 通ニ而も宜旨被申聞候事

経武館への出座定日と主用が重なったときの対応について。師範人は御上によって御雇のことだから何ゟも優先されるべきこと、主用で遠所に居るときや病気のときは小紙をもって届け出るように言い渡された。

天保2年4月26日 指南方法について良からぬ噂

一 天保二年二月廿六日
象之助様 御覧被遊候猶別冊に在

天保二年四月廿六日
一 今日定日ニ付御横目関九郎兵衛殿へ
相達候者是迄當流勝負面胴
相用ひ候得共元来流儀ニ而ハ面
を用ひ而も又素面ニ而も両様
指支不申候近頃稽古人自然与
面ニ立寄候様相見既成立方
不宜見聞いたし候乍去流儀ニハ
元来突刀を主与相成居候儀
右突を主ニ稽古為致候時ハ
何れ面胴相用ひ不申候てハ其業
全執行出来不申候面ニ立寄候儀
畢竟稽古人初心ヨリ起り候儀
依而心腹如先規勝口を重ニ
為致素面ニ而稽古いたし候間
今日茂素面ニ而稽古為致候尤
勝負之節ハ面胴相用ひ申候右
之次第若御不審之儀も可有之哉
ニ存候間御達申候旨相達候處
委細被致承知候旨九郎兵衛殿
江相答候事

先代生沼善兵衛と指引人河地右仲の弟子たちは当代生沼作左衛門の指南方法に不満があった。不満を晴らすためか、反作左衛門派の門弟たちは指南方法が不当であることをあちこちで噂していたようで、此のような問題が浮上し、作左衛門は御横目に指南方法の正当たる所以を披歴した。

天保2年5月26日 指引人の増員

同年五月廿六日
一 左之人〃指引江相加申度前文頭中へ
及内談候處今日小紙差出置候処
追而御聞届被 仰出候康之丞被
申談候事

 深美兵庫家来給人河嶋五郎兵衛二男
      河嶋康之丞

 前田内匠家来給人
      松岡五左衛門

 同家来給人
      半井七右衛門

 同家来給人
      土田大蔵

右人〃若私當病等ニ而難罷出
節弟子中稽古指引申談度
奉存候此段御達申上候以上
 卯
  五月廿六日 生沼作左衛門

 学校
右指引人私方當時振合相違ひ候猶
下ニ相記 文久二年十二月廿四日此段記ス

指引人の内分けを見るに、師範人生沼作左衛門と同家の士が多い。これは門弟の内分けとも関係していると見られる。

天保9年4月20日 出精達者の人〃名書提出要請

同九年四月廿六日
一 左之通今日学校ゟ被申談候付
写取罷帰候事

 各門弟之内當時格別出精
 達者之人〃相撰名書早速
 可被差出候事

  戌四月

此の項によって、出精達者の人〃を普段は提出する決りは無いと察せられる。

天保9年4月26日 出精達者の人〃名書提出

同廿六日
一 右ニ付指引中共手示談之上今日
左之人〃交名相達候事

 青山将監家来給人宮崎甚太夫おち
      宮崎甚五郎

 中川八郎右衛門家来給人
      飯田只右衛門

 深美兵庫家来給人
      山田大助

 長又三郎殿家来中小将組
      中村縫殿右衛門

 村井鞆負殿家来小将組
      平野九郎兵衛

 青山将監與力佐羽武太夫二男
      佐羽左守

右今般私方稽古致入精
達者之人〃名書差上候処被
仰出ニ付右之人〃御達
申上候以上

 四月廿六日 生沼作左衛門

 学校

前項の用件に応じて提出された交名帳の控。陪臣の身分である生沼作左衛門の門弟たちもまた同じ陪臣身分であったようだ。

天保9年5月21日 居合御覧の人撰

同五月廿一日
一 右之通御達申上置候處右書出之内
両人相撰手段書いたし差出候様
被申談候付左之通り且指引人并
打太刀人も入用ニ付打太刀ハ最初
書出候人〃之内相達候事

   深美兵庫家来給人
 居合表    山田大助

   青山将監与力佐羽武太夫二男
 勝口勝負   佐羽左守


  打太刀之人〃

   長又三郎殿家来中小将組
 居合表    中村縫殿右衛門

   村井鞆負殿家来小将組
 勝口勝負   平野九郎兵衛


  指引之人〃

   前田内匠家来給人
        半井七右衛門

   深美兵庫家来給人河嶋五郎兵衛二男
        河嶋康之丞

右先達而出精達者之人〃
御達申上候内今度両人書出候様
被仰談候付御糺御座候以上

 五月廿一日 生沼作左衛門

 学校

さらに前項の用件に応じて、居合御覧のための人撰が為された。

天保9年9月22日 指引人の増員




同九月廿二日
一 右之通ニ候處今日御横目中ゟ
今度出精人之儀ニ付申談候儀有之
候間明廿三日罷出候様申越翌廿三日
善兵衛儀罷出候處先達而書出
置候出精近〃之内 御覧被遊
左様相心得就而ハ 御覧人并
指引人傳授方も差出可申候且又
當流手段不残書出可申旨被申談
候付兼而内分承合置候付調筆持参
仕候趣相達差出候處是通ニ而
宜候間直ニ受取可申旨辻万作殿
被申聞候付相達申候猶左之通ニ
御座候事

 御覧人

   深美兵庫家来給人
 中取     山田大助

   青山将監与力佐羽武太夫二男
 中取     佐羽左守


 打太刀人

   長又三郎殿家来中小将組
 中取     中村縫殿右衛門

   村井鞆負殿家来小将組
 中取     平野九郎兵衛


 指引人

   御大小将組
 免状     石黒数馬

   前田内匠家来給人
 免状     半井七右衛門

   深美兵庫家来給人河嶋五郎兵衛二男
 免状     河嶋康之丞

右傳授御達申上候以上

 九月日   生沼作左衛門


 手段付

居合表

立合表

勝負

奥居合

奥立合

中取槍入

別傳立合

 以上
    生沼作左衛門


九月日

 生沼作左衛門方指引人

   御大小将組
        石黒数馬

   前田内匠家来給人
        半井七右衛門

   深美兵庫家来給人河嶋五郎兵衛二男
        河嶋康之丞

 以上

右之通相調差出且指引人
先達而両人書出置候得共勝負
等之節手配方両人ニ而ハ指支
候付石黒数馬并善兵衛共今日
両人差加へ都合四人相達善兵衛
儀ハ當方仮指引之趣ニ出座
仕候趣相成可宜旨御横目辻
万作殿心付ニ而其段小紙頭中江
差出可宜旨指引之儀ニ候間
前段交名ニハ調不申候数馬迄
相調右両人ハ跡ゟ差加へ候事故
左之通り別ニ小紙も左出候事

   御大小将組
        石黒数馬

   前田内匠家来給人作左衛門忰
        生沼善兵衛

右私方稽古
御覧之節指引人半井七右衛門
河嶋康之丞罷出候趣先達而
御達申上置候處両人ニ而ハ指引方
指支申候付石黒数馬私せかれ
生沼善兵衛指加へ申度奉存候
且善兵衛儀 御覧當日迄
仮指引之趣ニ奉願度奉存候
此段御達申上候以上
 九月廿六日 生沼作左衛門
 学校

一 右之通ニ付善兵衛儀業位付ハ
尤免状之趣ニ相達置候事

一 御覧ニ付當流手段不残書出
可申旨御横目中ゟ申談候得共
手段不残書出候而ハ當流之
秘事を荒〃ニ書出候儀不可然
与詮議之上前段之通調出シ
中取柄取等之秘事ハ書出シ不申候
此外ニ業ニ仕候程之儀ハ無御座旨
御達ニ而相達候事

御横目中ゟ「御覧人」「指引人傳授方」「當流手段不残書出」の三つの提出を求められた。これに対して作左衛門は、御覧に際して指引人二名では差し支えがあるとして、新たに二名を指引人に就けることを達した。「當流手段不残書出可申旨」は「中取柄取等之秘事は書出し不申候」と流儀の情報は少しく伏せられた。

天保9年10月11日 御覧二日前

左之通学校ゟ紙面到来應シ返書
遣候事

        山田大助
        佐羽左守

右明後十三日九半時之御供揃
ニ而當学校被 御出右人〃
居合 御覧可被遊旨被
仰出候条被得其意四時不遅
罷出候様被申談尤御手前も
可有参出候以上

 十月十一日

切封し
 生沼作左衛門殿  学校

明後十三日先達而被書出候出精人
御覧可被遊旨被 仰出候間
御覧人當病等有無之儀
早速被聞合今日中役所江
可被相届候以上

 十月十一日

切封し      学校
 生沼作左衛門殿  御横目所

右両通之通ニ付山田七助等両人へ
申談候上當病等無御座旨
追付御横目所江以紙面相達
候事

明後日の御覧につき最終確認、御覧人が病気ではないかと。

天保9年10月13日 御覧当日


一 今日五半時ゟ 御覧人指引人共
同道罷出稽古道具夫〃持参
いたし候事

一 御覧人名札ハ指出候ニ不及旨
打太刀人名札并指引人等
出座之人〃ハ名札弐枚宛程
常名札之通り調差出候様
打太刀人名札ハ左之通り相調候様
前方被申談夫〃調筆差出
候事

但シ
御上御右之方江打太刀罷出候付
頭書御右与相調候由名札大サ
中打紙十六切位也

   長又三郎殿家来中小将組
 御右     中村縫殿右衛門
   居合表山田大助討太刀

   村井鞆負殿家来小将組
 御右     平野九郎兵衛
   勝口勝負佐羽左守討太刀

一 右大助左守藝術 御覧首尾能
相済候事

一 右相済口上善兵衛儀中取鑓入
御好ニ而被 仰付候石黒数馬儀
奥手段被 仰付候事

一 右夫〃相済候上私門弟藝術
御覧被遊難有仕合奉存候旨御礼
申上候事

一 石黒数馬善兵衛儀今日藝術
御覧被遊難有仕合奉存候旨
當人〃〃ゟ頭中迄御礼申上候事

一 御覧人御直勤人〃ハ於武学校
稽古相済候上 御意之趣
御座候陪臣人〃ハ於 御噂之趣
御主附様ゟ主人〃〃迄御紙面
到来之事
 但シ 御噂之分ハ當人御礼勤ニ
 可及旨之事

一 右 御覧之節勝負稽古
之時分若素面ニ相成候時分
素面与申儀指引人等ゟ声を
懸候而も御差支も無御座候哉猶
頭中江相尋候處指支不申旨
被申聞声を懸候事

此の日いよいよ生沼作左衛門・御覧人・指引人は御覧に臨み無事に流儀を披露した。陪臣身分へは御噂という形式を以て主人を通じ各人へ伝えられた。

天保10年7月 学校御修補が終り稽古再開に伴う定日変更



天保十年七月
一 今般学校御修補ニ付而武藝
出精方被 仰渡之趣左之通
写取一統申談候事

 今般学校文武共稽古方
 御修補被 仰付候御家中之人〃
 武藝出精方ニ付而ハ学校
 御草創以来度〃被 仰出
 且諸師範人江茂指南方
 心得等之儀ニ付被 仰出之趣等
 時〃申渡置一統承知之通ニ付
 此度訳而不被 仰出候今般
 於明輪堂ハ身柄之人〃嫡子
 嫡孫生徒を以被 仰付於学校
 勤学いたし候事ニ候得共武
 藝之儀ハ其品数多之事
 其上流〃有之故於経武舘
 右生徒ニ準候稽古被
 仰付候儀等ハ相成不申師範人
 宅〃之稽古専ら主与なり
 候儀ニ候間猶更諸師範弥
 急度相心得御家人陪臣ニ
 よらす藝術之上之儀ハ勿論
 惣而廉恥を養ひ義氣を
 引立風紀之扶助与相成候様
 心懸無油断可致指引候此段
 可申渡旨被 仰出候事

 一 今度学校御修補ニ付
 経武舘明輪堂与相分ツ
 且是迄学校頭与申名目ハ
 無之経武舘等督学与
 名目ニ相成都而申談方
 等右督学ゟ秘申談候當時
 経武舘ハ有賀寛兵衛殿
 被相勤候事

 一 今度学校御修補ニ付
 當四月廿三日弟子帳御
 取立改而差出候様被申談候付
 相改指出候事

 一 今度御修補ニ付学校
 諸稽古相止居申候處當
 八月二日ゟ諸稽古御始之旨
 且又是迄定日稽古毎
 月之處以来隔月ニ被
 仰付候毎月廿六日之處
 以来隔月九日ニ被 仰付候
 旨於経武舘有賀寛兵衛殿
 被申談候付左之通り稽古所
 張り出置猶更御達ニ而時〃
 申談候事

  覚

 今般於学校諸稽古八月
 二日ヨリ御始候付當稽古所
 定日只今迄廿六日之処以来
 九日朝ニ被仰渡且諸稽古共
 定日隔月可被 仰付當稽古所
 當九月九日十一月九日与相成
 以後此繰ニ而稽古有之候
 尤刻限之儀ハ朝五半時厳重
 稽古相始候筈ニ候間左様
 御心得不遅御出座可被成
 候事
 
  七月  素行舘

一 右之趣指引人之江ハ訳而申談
置候事

学校の修補も終り、いよいよ八月二日ゟ諸稽古の再開が決定した。但し学校に於ける稽古の役割は、修行を目的としていたのではなく師役の権威向上、家来の出精状況、流派の管理などを目的としていたようだ。それは稽古日が僅かであることからも明らかで、「師範人宅〃之稽古専ら主与なり候」という環境であった。ゆえに改めて申し渡された趣にはこう書かれている、「御家人・陪臣によらず、藝術の上の儀は勿論、惣て廉恥を養い、義気を引き立て、風紀の扶助と相成り候様心懸け、油断無く指引致すべく候」。つまり、当時の武藝稽古とは、藩ゟ斯ういった内容を期待されていたのだ。

天保11年1月10日 越中勝奥寺へ派遣される

天保十一年
正月十日越中古国府勝奥寺江
御使被 仰付同十八日發足ニ付学校江
達方左之通り

 私儀今度越中勝奥寺江内匠ゟ
 用事申付罷越候付跡稽古方
 之儀指支不申様指引人并せかれ江
 申談置候依而此段御達申上候以上
  正月十四日   生沼作左衛門
  学校

右半紙ニ調中折ニ懸包ニ而前■相達候事

 私儀越中勝奥寺江今日發足仕候
 此段御達申上候以上
  正月十八日

右切封之紙面上書学校下タ名相調丈
を以御持遣候事

 私儀先達而越中勝奥寺江罷越
 居申候處用事相済罷帰候付
 此段御達申上候以上
  二月廿一日

右切封し前ニ同し事

越中勝奥寺へ用事を命じられた善兵衛は、稽古のことを指引人と忰へ相談して置き、学校へ届け出た。

天保11年7月11日 宅稽古度数篇数帳の提出日変更

天保十一年
一 学校ゟ左之通被申談候

 是迄毎歳四月被指出候宅稽古度
 数篇数帳當年分ゟ毎歳正月中ニ
 可被指出候右ニ付是迄定日不時書分
 候得共當年ゟ其儀ニ不及定日不時無構
 都而宅稽古出座篇数可被指出候尤
 傳授帳茂可被指出候為其以紙面申達候以上
            学校
  七月十一日      御横目所

稽古度数篇数帳、傳授帳の提出規定が変更された。

天保10年8月21日 名替・組替・病死・在勤の届け方

同年八月廿一日
一 門弟之内名替等届方之儀左之通学校ゟ
被申談候事

 両学校江諸師範人門弟之内名替等届方
 之儀是迄師範人ゟ不相洩及案内筈ニ
 御座候処本人ゟ御師家江之断方不行届
 向茂有之候哉兎角届洩多有之
 しらへ方指支申候今般武文稽古御修
 補ニ付時〃調理方茂御座候間向後
 両学校江罷出候面〃名替組替病
 死之節在勤之人〃ハ本人或ハ代利人ゟ直ニ
 学校御横目江以紙面相届子弟等名替
 相續病死養子ニ罷越候節ハ其文是ゟ
 相届可申且又陪臣之分ハ右同様直ニ相届
 可申候但主家ゟ暇遣候節ハ右主人方ゟ前
 文之通相届可申候事

これまで師範人を通して御横目への届け出が行われていた名替・組替等のこと。届け出洩れが多く調べるのに不都合があったゝめ、これからは本人が直接、御横目に届け出るよう変更となった。

天保12年5月9日 各種届出の雛形


天保十二年五月九日
一 この度指引人改而所付書出候様、学校御横目中ゟ被申談候付、左之通相調置候事

  生沼作左衛門指引人
        御大小将組
          石黒数馬
           所ハ三社古道町
        前田内匠家来給人
          国分長大夫
           所ハ内匠家中
        同
          松岡五左衛門
           所ハ才川馬場先
        同
          半井七左衛門
           所ハ内匠家中
        同
          土田大蔵
           所ハ内匠家中
        深美兵庫家来給人河嶋五郎兵衛二男
          河嶋藤之丞
           所ハ木ノ神保荒町

 右指引人如此御座候、以上
  五月十一日      生沼作左衛門
 学校
  御横目所

一 指引人之内病死之節ハ左之通相達可申候事

      組柄
        何某
 右私方居合稽古指引人ニ御座候処
 何月何日病死仕候付此段御達申上候以上
  何月何日   生沼───
 学校

右半紙ニ調可申事

一 学校定日若當病ニ而出座難仕節ハ
左之通相達可申事

 私儀今日出座可仕事當病ニ付
 出座難仕御座候依而此段御達申上候以上
  何月何日   生沼───
 学校    右當病ニ而出座不仕節も
  御横目所 師範人名前は都而帳面ニ相調
       肩書ニ當病ニ付出座不仕旨
       相調申候尤名札も同様

右半紙ニ調上包ニも不及其日代出座指引人を以
達可申候事  肩書ニ而入用御座候右振ハ
       嘉永五年六月廿七日右之通ニ
       准旨以来右之通相心得
       可申候事

一 学校定日ニ相當若忌中ニ相成候節ハ
左之通相達可申事
 但若御屋敷ゟ忌 御免許被 仰付候向茂
 本忌明迄ハ是校不罷成候事

 私儀今日出座可仕處忌中ニ罷在候付
 出座不仕候依而此段御達申上候以上
  何月何日   生沼───
 学校
  御横目所

右前ニ同断


一 稽古方指引人相願候節ハ前■口達ニ而
相達重而小紙を以相達可申候事

       組柄
         何某
       ──
         ────

 右人〃私方居合稽古指引人方
 申談度奉存候此段御聞届御座候様
 奉願候、以上
  何
   何月何日   生沼───判ニ不及
 
  学校

右半紙ニ而相調可申事

一 指引人之内隠居被致候而指引方相省
候様被申聞候節左之通相達可申候事

       組柄
         何某
          或ハ被 仰付御直勘也

 右之儀今度隠居就被申付候私方
 稽古指引方相省申候依而此段
 御達申上候以上
  何
   何月何日   生沼───
  学校

右半紙ニ調候事


一 入門人御座候節達方左之通り

       組柄
         何某

  右私方江入門仕候付此段
  御達申上候以上
   何月何日   生沼善兵衛
       本文入門人是迄
 学校    一年分見合置翌
  御横目所 年相達候得共
       當時ハ時〃相達

右半紙ニ而  候事文久二年
       ヨリ猶嘉永
       六年六月ニ記ス

指引人の所付、すなわち住所を改めて書き出せという通達によって、善兵衛は六名の指引人を書き出した。そのほか各用件ごとに作成する文書の雛形が書かれている。

天保14年5月10日 傳流(破門)の扱い


天保十四年五月十日
一 門弟之内学校江出座方且名替等
都而師範人ゟ御達申候得共今度
御觸之趣有之以来入門達之外一切
師範人ゟ相達候儀無之候尚別紙写有之

本文傳授物當時ハ又〃時〃相達候趣学校ゟ被
一 門弟之内相傳物いたし候節是迄時〃相達
申傳候 弘化三年ゟ
候得共當時ハ例歳正月中稽古壱人
帳相達候節帳面ニ仕立相達候事ニ相成
居申候尚案帳有之候事

    御馬廻組横地勘左衛門嫡子
         横地鍋吉

    本組與力
         河地九左衛門

右人〃河地故右仲殿門弟ニ御座候處
私方江立寄稽古仕候故右仲殿方
ニ而中取迄傳授罷在候付此段も御達
申上候以上
  六月廿六日   生沼───
学校
 御横目所

右河地右仲ハ故善兵衛門弟ニ而印可相傳
稽古取立被居候得共其後稽古相止候事


一 左之通門弟之処醫者ニ相成候付門弟相省
候様申聞候ニ付達方左之通り

    横山政次郎御家来曲直瀬李冠せかれ
        源呉こと
          曲直瀬元東

 右元東儀政次郎手醫師ニ相成申候
 尓付弟子帳相省申候此段御達申上候以上
  亥
   四月日   生沼───
 学校
  御横目所

本文傳流意儀ニ付 文久三年十月十日学校ヨリ
被 仰渡候趣ニ而以後習字之外ハ承届候様ニ而

一 門弟之内流儀不得手ニ付傳流致度旨
申儀ニ御座候猶下ニ在之事
被申聞候人〃有之時ハ得与承り糺申分茂
相分り居候得ハ致承知其段相達可申候
達方左之通り

 但傳流ハ難致承知儀ニハ候得共流儀不得手
 抔与申聞候時ハ致承知可申候如何与云〃流儀
 不得手之物を門弟ニ致ニハ不及尤是ハ平
 弟子之事也相傳物致置候人〃ハ如何様ニ
 申聞候共傳流ハ聞届不申流法也


       組柄
         何某

 右私方門弟ニ御座候處流儀
 不得手ニ付傳流致度旨申聞候
   門弟相省申候
 依而及破門候此段御達申上候以上

  何月何日   生沼───
 学校
  御横目所

 右半紙ニ而

入門達の外は師範人ゟ達するに及ばず。
相傳物のない平弟子ゟ流儀不得手につき退門の願いを申告された場合、本来は流法によって認められないことだが、傳流(破門)とすべきこと。破門という表現がきついと感じたものか「門弟相省候」という表現が用いられている。

嘉永2年2月9日 稽古指引人の補充

嘉永二年二月九日
一 指引人〃少ニ相成候付左之通今度被
申談候上相達候事

   長大隅守殿家来中小将組
        中村縫殿右衛門

   深美兵庫家来給人
        山田大助

   前田近江守家来生沼作左衛門せかれ
        生沼善兵衛

 右人〃私方居合稽古指引方ニ
 相加申度奉存候此段御聞届
 御座候様奉願候以上
  酉
   二月九日   生沼作左衛門
 
 学校

右半紙ニ而

 右指引人相願候節是迄ハ前■口達
 ニ而相達候得共當時ハ其儀ニ不及直様
 小紙を以相達候而宜旨ニ付本文之通
 之事

右指引人私方ニ付文久二年十二月廿日
段〃被 仰出之趣有之以後指引人格別
御自重ニ被 仰付候猶委曲ハ下ニ記ス

稽古指引人の補充について達し方。

九代生沼作左衛門の師役在任中の記録はここまで、嘉永4年(1851)7月18日病死。


十代 生沼善兵衛 師役在任:嘉永5年2月4日〜

嘉永5年2月4日 経武舘居合師範役拝命

嘉永五年二月四日
一 年寄中當番淺井左内殿ゟ御伺
御座候条追付罷出候様紙面到来ニ付
應返書遣追付罷出候處御覚書写
被相渡於経武舘居合師範被
仰付候旨被申渡候付奉畏難有仕合奉存旨
御礼申上候處御礼勤可仕候廻勤方之儀ハ
是迄師範被 仰付人〃承合可相勤旨
被申談候事
 但御談ニ付
 御屋敷江之御礼ハ常服ニ而宜旨ニ付而
 被仰渡即座ニ御礼申上候事

御主附様ゟ御覚書写左之通

 別紙覚書壱通差遣申候以上
  二月四日
上書
 御名様    村井又兵衛
  上書ニ
     御名殿江

 御家来生沼善兵衛儀於経武舘
 居合師範被 仰付候条可有御申渡
 候事

右ニ付御礼勤之儀石黒氏承合之上上下着用
仕即日学校 御主附様并督学中
相勤候左之通

 助左衛門様 又兵衛様 左膳様

 有賀寛兵衛殿  不破紋左衛門殿
 └経武舘督学  └明倫堂督学

 右之内助右衛門様御在江戸ニ候得共やはり相勤
 候事

右助右衛門様大膳様相勤候節彼是
刻限遅ク夕七半時過御門仕廻ニ候得共
同しくハ即日全可相勤方宜旨石黒氏
被申聞候趣も有之事故則御門〃〃尓而
相尋候處助右衛門様ハ無構相勤候様
申聞大膳様ハ御礼勤哉御使者ニ被成候
御門番ゟ申聞候ニ付御礼勤ニ候間今日
相勤後夕前ニ候得共取斗候様申入候處
相達候上御式臺明き何時ニ而茂
相勤候様申聞ニ付則相勤當日廻勤
不残相仕廻候事

右相勤候上直様上下ニ而年寄中
御稽古方淺井左内殿宅江為御礼
相勤候事
 但夜六時頃ニ相成候得共翌日者
 御日柄ニ付其段申訳いたし相勤候事

主家を通して生沼曹貫に経武舘居合師範の命が下る。その後の御礼勤が忙しく、ともかく當日のうちに残らず廻勤し終えた。督学とは学校頭のことを云う。

嘉永5年2月12日 御定書拝戴

同二月十二日
一 学校ゟ明十三日御用有之候条四時頃
罷出候様紙面到来ニ付應返書遣

右ニ付翌十三日四時前迄ニ罷出候處
督学中被呼立役所江罷出候處
仙石内匠殿松田治左衛門殿列座ニ而
内匠殿ゟ今般於経武舘居合師範
被 仰付候付前〃ゟ之御定書可致
拝戴旨被申聞治左衛門殿ゟ御定書
都合三品被相渡候付夫〃拝戴仕候上
清左衛門殿へ御定書返上仕内匠殿江
相向奉畏候旨御請申述候處
定日之儀別紙之通り相心得候様被申聞
書取被相渡候付受取一礼いたし退き
候事

 書取写左之通

  同二月ゟ隔月朝
   廿六日   生沼善兵衛

右退き候処督学中留書与力ゟ指引人
改而相達候様申聞且ハ去年中稽古
しらへ帳并門弟交名帳等之儀者
御横目中ゟ承合候而可然旨申聞候事

右ニ付一先御取次所迄引取次足軽
を以御横目中江逢度旨相達候処
何時ニ而も罷越候様申聞ニ付則罷出
右與力ゟ申聞候趣申述承合候処
去年中稽古数しらへ帳候段ハ正月中
指引人ゟ被達候旨宜改而達候ニハ
不及旨門弟交名帳一冊傳授人
交名帳一冊傳授物甲乙帳一冊
都合三冊改而相達候様辻万作
田辺仙三郎ゟ被申談候事
右交名帳三冊翌月夫〃相達候事

一 右夫〃被談方相済候付罷帰直ニ
御屋敷江罷出年寄中當番
桜井傳太夫殿今日学校江御呼立ニ付
罷出候処御定書拝戴且定日等夫〃
被申談候旨御定書仙石内匠殿等ゟ
拝戴被申談候旨相達定日書取相達候処
写被取又相返候付罷帰り候事
此所のけ分也

経武舘居合師範を命じられた後日、御定書拝戴のために呼び出される。師範役拝命の定例儀式と考えて良いだろうか、その様子が子細に記録されている。次いで稽古調べ帳や門弟交名帳などの各書類について御横目中に問い合わせてその答えを得る。

嘉永5年5月22日 経武舘定日繰上

同五月廿二日
一 学校明廿三日四時ゟ八時迄之内罷出候様
紙面到来ニ付致返翌日善兵衛當
病ニ付指引内山田大助名代指出候処
定日是迄廿六日之処已来左之通格上
被 仰付候旨頭中被申談候事

 書取写
  偶月   生沼善兵衛
 右定日以来廿四日朝被繰上
 被 仰付

右ニ付翌月学校定日前迄ニ左之通
年寄中御當番被御達申候事

 私方稽古経武舘定日只今迄
 隔月廿六日之處以来廿四日朝江
 繰上被 仰付候段督学中ゟ被申談候
 此段罷出御達可申上處御番引中
 ニ付以紙面御達申上候以上
  六月廿二日   生沼善兵衛
  浅井左内様
  矢田重兵衛様
  桜井作太夫様
 右半紙調上罷出御達可申候処御番引中
 右紙面名代■■門を以御達申候事

経武舘稽古日の定日が繰り上げとなる。この事は文中「左之通格上被仰付候」という意義があったようだ。生沼善兵衛は病であったゝめ代理人が此の達を受けた。

嘉永5年5月 指引人改メ

同五月
一 當二月師範被 仰付候付指引人改而
左之通り二月廿一日督学中相願
候處即座ニ御聞届候旨被申談
候留洩ニ付爰ニ記ス

   前田静之介家来給人
         松岡五左衛門
   同家来給人
         半井七右衛門
   同家来給人
         土田大蔵
   深見兵庫家来給人河嶋五兵衛弟
         河嶋康之丞
   同家来給人
         山田大助
   長大隅守殿家来中小将組
         中村縫殿右衛門

 右人〃私方居合稽古指引方
 申談度奉存候此段御聞届
 御座候様奉願候以上
  子二月廿一日   生沼善兵衛
  学校

 右半紙ニ調罷出相達候事

 右指引人願書ハ追而御聞届被申談候品ニ
 候得共此度ハ初而故か即座ニ御聞届
 御座候事

右指引人願旨 文久二年十二月廿日段〃 仰出
御自重御取扱被 仰付猶下ニ記ス

新たに師範役となったことで、指引人の変更も行った。この届出は注記に「此度ハ初而故か即座ニ御聞届御座候」とあるように、すんなりと受理された。

嘉永5年5月6日 御覧再び

同五月六日
一 明七日八日之内学校江罷出候様
紙面到来ニ付返書遣翌日善兵衛
當番ニ付指引人之内山田大助指出
候處頭中ゟ左之通小紙被相渡
先達而出精人未 御覧不相済
人〃此度 御覧可被遊御様子ニ
候処餘程置限も相立居候事故
稽古方不指支致詮儀早速
相達候様被可談候事

  天保九年御覧残
       飯田只右衛門
       中村縫殿右衛門
       平野九郎兵衛

右ニ付番人〃〃江相尋候上左之通
御達申候事

       中村縫殿右衛門
       平野九郎兵衛
       飯田只右衛門

 右先達而 御覧残之出精人
 當時稽古方指支も無御座
 哉之旨被仰渡候付夫〃相糺
 申候處指支無御座候段申聞
 候間此段御達申上候以上
  子
   五月   生沼善兵衛
 学校

右半紙可調相達候

右御達申候處追而左之通紙面到来
之事

 當十日九半時之御供揃ニ而経武舘江
 御出被遊御手前方門弟之内兼而
 書出有之候出精人別紙名書之人〃
 藝術 御覧可被遊旨被 仰出候条
 被得其意申談四半時不遅可有参出
 候以上
  六月六日
 追而名書之人〃當病等ニも無之候哉
 聞糺明後八日八時迄ニ否御横目中江
 可有届候以上

  生沼───殿   学校

      名書写
       中村縫殿右衛門
       平野九郎兵衛
       飯田只右衛門

右ニ付御横目中ゟも左之紙面到来

 當十日 御出ニ付万談儀有之候間
 明八日四時頃役所江可被罷出候以上
  六月七日
 追而當病等承指支候ハゝ指引人可被指出
 候以上
          学校
  生沼───殿   御横目所

右両様共應返書遣候事

右ニ付七日善兵衛當病ニ付指引人差出候處
御横目中ゟ 御覧人打太刀共都而小紙ニ
相調且手段付も一集ニ調込相達候様申談ニ付
御覧人之内飯田只右衛門當病ニ而難罷出
且又指引人何人罷出候而可宜哉打太刀人も
何人差出候而可宜哉与及示談候処指引人壱人
打太刀も壱人差出候様申談ニ付指引人打
太刀人共両人充指出度旨相達且當日
善兵衛儀出座可仕候処氣滞ニ付難罷出旨
も相達候處都而小紙ニ相調尤一紙ニ而宜旨
ニ付左之通相達候事

   長大隅守家来中小将組
         中村縫殿右衛門

   村井又兵衛家来小将組
         平野九郎兵衛
 右之人〃出座仕候事

   中村八郎右衛門家来給人
         飯田只右衛門
 右只右衛門當病ニ付出座不仕候事


  居合出精人交名并業付

   長大隅守家来中小将組
 居合 免状   中村縫殿右衛門

   村井又兵衛家来小将組
 居合 免状   平野九郎兵衛


  打太刀人

   前田静之介家来給人
 中村縫殿右衛門打太刀 国分貝右衛門
          免状

   森種権太夫家来給人石橋新右衛門せかれ
 平野九郎兵衛打太刀  石崎保太郎
          免状


  指引人

   深見兵庫家来給人河嶋五郎兵衛弟
         河嶋康之丞
   深見兵庫家来給人
         山田大助

 右之人〃為指引罷出申候事

  手段付

 勝口勝負  此手段付之打
       表ノ形居合
 奥居合   立合共相調候
       流法ニ候得共
 奥立合   此度ハ 御覧人
       業書ニ頭書
 中取鑓入  有之候付相省
       候様御横目指圖
 別傳立合  ニ付本文之通也

  以上

   師範人
     生沼善兵衛

 右當病ニ付罷越不申候事
   生沼善兵衛指引人
  六月十日 河嶋康之丞

 右壱通ニ而相達候事

天保九年に善兵衛が提出した出精達者の人〃の内「御覧不相済人〃」について、此度ふたたび御覧に入れるべき意向が伝えられた。 これはどうやら御覧になる本人、殿様から発せられた意向と見られる(「此度 御覧可被遊御様子ニ候」)。 尤も頭中はずいぶん前の用件が持ち出されたと云うことで(「餘程置限も相立居候事故稽古方不指支致詮儀」)、なにやら師範人へ気を遣った対応である。 不思議なのは中村縫殿右衛門・平野九郎兵衛の両名は天保9年10月13日の御覧に名を列ねていること、当時の記録では「御右」と注記されている。御覧を遂げたのは其の次の「居合表山田大助」と「勝口勝負佐羽左守」の二人であったようだ。「右大助左守藝術 御覧首尾能相済候事」と記されている。
さて、この用件が伝えられたとき当の善兵衛は当時の言葉で云う「氣滞」の病いにつき指引人たちが代って対応に努めた。御横目ゟ提出を求められた「御覧人打太刀共都而小紙ニ相調且手段付も一集ニ調込共」の文書は、先代作左衛門のとき指引人を勤めた古参の河嶋康之丞の名で提出された。 尚、御覧当日も善兵衛は病のため出座できないとの事。よほど体調が思わしくない様子で、5月22日の経武舘定日繰上げのときも指引人が代って出頭した。

嘉永5年6月10日 御覧、山田大助欠席

六月十日
一 山田大助今日出座可仕候處指懸り
當病ニ付左之通相達候事

   深見兵庫家来給人
         山田大助

右今日為指引罷出候段
御達申上置候處當病ニ付
罷出不申候此段御達申上候以上

   生沼善兵衛指引人
  六月十日  河嶋康之丞



一 今日 御覧ニ付何も御達申上候人〃
朝五半時ヨリ罷出都合能
御覧相済候付善兵衛門人今日
御覧被遊難有仕合達存候旨指引人ゟ
頭中江御礼申上候事


一 御覧之節若 御好ニ而勝負
被 仰付候様之儀も御座候ハゝ素面之節
声ヲ懸候而も不指支哉与御横目
中江前方相尋候処尤不差仕
旨被申聞候事


一 今日 御覧相済候上中村平野両人
共銀子拝領被 仰付候本人〃〃
御礼廻勤有之候付師範人ゟハ
訳而御礼ニハ不及旨之事

今回の御覧では師範人善兵衛自身が病気のため、此のようにあっさりとした記録である。

嘉永6年 門弟稽古御覧の予定

嘉永六年
一 四月廿四日學校定日之処前日
御横目中ヨリ明日門弟稽古
覚之進様御覧被遊候旨紙面を以
申来候付應シ返書遣候出座人
一統明朝六半時ゟ罷出候様夫〃
相觸候事

右之通ニ候處何等相替候儀も無之
ニ付今日訳而學校江罷出不申候

嘉永6年4月24日 門弟稽古御覧

〃廿四日
一 右ニ付今日六半時ゟ出座仕候處
御横目中ゟ被申聞ニハ出座人名札
帳御帳面被相渡張り様ハ稽古人
出順之通ニはり候様尤打太刀人も
名札はり可申与被申聞ニ付打太刀
人ハ同し者幾度も罷出候都合ニも
可相成左様之時ハ同人名札ハ打太刀ニ
罷出候度〃はり申訳ニ而同人
何枚ニも相成候而不指支候哉与
相尋候処右ハ 御覧御都合も
御宜敷左如ニ候而不苦候
何分稽古出順ニさへ相成候へハ
宜旨被申聞候事



一 右 御覧之節稽古場数者
幾場ニ而も不指支何分成■■
出座人 御覧被遊候方宜敷旨
被申聞候事


一 今日 御覧首尾能相済候上
督学岡田條元出座御横目
指引之座江善兵衛罷出今日
私門弟稽古 御覧被遊難有
仕合奉存候旨御礼申上引退キ
候事

右夫〃相済出座帳しらへ上相達候上
引取候事

稽古の御覧はおそらくこれが初めてのこと。御覧に出座した者たちをきっちりと調べ、御礼言上のとき提出した。

嘉永6年6月 傳授人届出

嘉永六年六月
一 左之通學校表張出し有之候間
以来傳授人時〃相達可申候事

 傳授人是迄前年分
 翌年正月中被相届候得共
 指支之趣有之候間以来
 傳授人有之候節ハ時〃無遅滞
 可被相届候事
  寅
   六月   學校御横目中

右傳授人相達候節是迄ハ帳面ニ仕立
并入門人も前年分翌年正月迄
學校江出座不仕候分ハ矢はり帳面ニ
仕立相達候得共當時ハ以前之通り
    ・入門達相傳物共時〃
半紙ニ調相達候様御横目被申聞候事

学校側の傳授人管理に関する変更。一年ごとに行われていた傳授人帳面の提出を傳授の都度届け出るようになった。ペリー来航の影響から、武藝に出精する者を積極的に把握しようという藩の考えかもしれない。

嘉永6年10月24日 稽古御覧

同年十月廿四日
一 今日學校定日之処夕江繰下ケ
被仰付
筑前守様御覧被遊候段當月廿二日
御横目所ゟ被申談首尾能 御覧
相済申候尚委細別冊等有之候事

嘉永7年6月24日 稽古御覧

嘉永七年六月廿四日
一 今日學校定日之處夕江繰下ケ
被 仰付
桐公様御覧被遊候段當月廿一日
御横目所ゟ被申談候然處善兵衛儀
突貫忌中ニ罷在候付御横目所并
督學中江も忌中ニ罷在候旨
紙面を以相達翌日指引人之内
御横目所江罷出夫〃及示談候処
善兵衛忌中ニ而も指引人引受
門弟儀茂罷出 御覧被遊候旨
ニ付一統出座首尾能
御覧相済申候尚委細別冊等
有之候事

嘉永7年 指引人病死

嘉永七年
一 指引人之内松岡五左衛門今度
病死ニ付其段督學中并
御横目中江も相達候事

嘉永7年11月3日 七度目の稽古御見届

同年十一月三日
一 學校惣御奉行様御月番ゟ
申候儀天保九年御修鋪後被
仰付候而大躰三年廻り位ニ相成
是迄三年目〃〃ニ有之候此度
七度目御見届之処稽古方
        マチ
等何慮一様からす區〃之儀茂
有之候付此處得与示談之上
左之通り見届之節為心得
相記置候左之通相心得可申
候事
 但御見届毎月三□□□■
 御定日之事

 一 居合立合共抜□シ
 ナシ居合打太刀是迄
 御見届ニハ有之候処此度
 御横目中江相達以来
 打太刀ハツシ候事ニ相成候
 事

 一 居合四場■常學校
 定日之通白合ニ罷出
 一切宛幾度も差出
 可申事
  但書付人多ニ候得共一切
  四人之處六人ニ而も八人ニ而茂
  都合次第差出可申事

 一 立合弐場■打仕ニ而
 都合四人打太刀居成ニ而
 弐人打三人打時〃申合次第
 仕太刀替ニ差出可申事

 一 勝口勝負ハ壱場■打替
 可仕弐本宛振替都合四本
 且胴懸面手皮等都而
 溜ニ而支度差出可申事
  但稽古相済ミ候面其場ニ而ハツシ
  手ニ持入可申候事

 一 稽古之節挨拶常者
 前後ニ候得共御見届ニハ
 後り挨拶迄之事

 一 稽古之次第居合幾組も
 全相済立合同断相済
 跡ニ勝口勝負之事

 一 御同席様方御出座ニ候得共
 稽古之節等中座ハ尤不及
 是ハ稽古人之内御身柄之
 御人〃も有之故併御同席様
 以下御家来ハ人ニヨリ箇〃
 可有之事 但御同席様方御出
     御座付之上御立
 之節ハ出座人江御挨拶有之候其節
 御挨拶受不申候而h不都合ニ付尤出座人
 一統承知ニハ心得共御見届時〃■急度

 一 稽古人出方一組出口江
 出座候而年行之方へ心付置候儀懸心
 相揃置無滞様帳役御人〃ゟ
 可致事
 追〃繰出可申事


 一 稽古済寄此組ニ而相済候与
 申候儀御横目中江可及演述
 事

 一 右相済候上出座之方ニ名札
 帳面与引合しらへ入念ニ仕
 肩書等相違無之候て相達
 御横目中ヨリ宜旨指圖
 有之上御師範人指引人帳役
 共引取申候事

  但惣出座人ハ済次第無構
  引取之事

 一 出座人名札ハ稽古之
 有無ニ不抱惣而壱人
本文歳付之名札へぎはり
 弐枚宛取■内壱枚ハ
之帳面ニはり様是迄稽古人
 歳付有之分ハ今壱枚ハ歳付ニ
出順之通りはり候得共安政七年
 不及肩書迄之事
閏三月十三日九度目御見届之節

 右歳付名札ハ稽古
御横目中被申聞ニハ右名札はり様
 有無ニ不抱暫帳面ニ
稽古人出順ニ不抱惣出座人歳付之
 張此分御横目所迄相達候
名札稽古いたす物も不致物も
 儀与此度留書足軽申聞候
無差別へぎはり帳面ニはり候へハ
 事
宜与被申聞候依而此名札はり様ハ
  但歳付無之分ハ名札掛ニ
人〃出座次第追〃はり候得ハ
  指置追〃取次足軽取ニ
宜事
  参り候ハゝ可相渡此分ハ
  督学中手前へ相達
  候儀与留書申聞候事

本文名札歳付ニハ不及旨
 一 師範人名札茂矢張
安政七年閏三月十二日
 歳付有之肩書ニ者
御横目中被申聞且又師範人与
 師範人与相調可申候尤
肩書仕且ハ名札御見届相済候
 組柄ニハ不及候帳面之一番ニ
へぎはり帳ノ頭ニ一枚はり
 張り可申候事
置候得ハ夫ニ而宜与被申聞候事
  但稽古仕候而茂別ニ
  名札ニハ不及候事

 一 先御見届後入門之人〃ハ
 不相済与申帳面ニ名札
 張り可申候尤是迄御見
 届相済居候人〃ハ別帳ニ
 張り可申候事

 一 御人持様方以下御家来ハ
 名札肩書左之通り
 相調候様御横目所ゟ
 此度被申談尤常定日も
 同様併時〃本人〃〃江入念
 可申事
本文之通ニ候處安政四年閏五月
御見届之節 陪臣之分ハ都而

  人持組何ノ誰家来給人与歟
名札肩書ニ主人 ──────
之組柄相調候ニハ
  御馬廻組何ノ誰家来給人等
不及旨重而被申談候事
 但尤御■勤ハ組柄相調
 可申候事

  神谷治部等並何ノ誰家来給人
        ─── ───

  御馬廻頭
  御小将頭 何ノ誰嫡子等
        ───────

一 師範人座付所之儀是迄
區〃ニ付此度御横目中江
相尋候上以来御稽古所
出口厳間後ロニシテ上敷を敷
其之頭ニ座付其次指引人
其次帳役人〃座付之趣ニ相成
候事
  以上

「稽古御見届」、これは逐一記録には見えないものゝ学校修鋪以来およそ三年ごとに行われていたようだ。今回はその七回目にあたり、これまで区〃であった「稽古御見届」の仕方を示談のうえ取り決め、門弟たちに徹底させるよう達せられた。

安政2年9月10日 忌中届

安政二年五月十日
一 御養母様御病死之節忌中
ニ付稽古方指引人江申談旨
督学中御横目所へ紙面
相達尤忌明ニも相達候事

安政3年2月

安政三年二月
一 御屋敷御泊宅ニ相成候得者
是迄振茂不見當ニ付学校
達不申趣ニ石黒左太ゟも
承合相達不申候事

右之通ニ候處三月廿四日
学校定日ニ付指引人出座
相頼則山田氏被罷出候処
学校与力申聞ニハ御主家
御泊宅中ハ稽古方指引人
江申談候趣督学中
御横目江茂達方入可申候旨
ニ付左之達紙面可指出哉与
与力江相尋候処今日其儀ニ
不及口達ニ而宜旨ニ付則山田氏
ヨリ口達ニ而相達置候旨
被申聞候事

   御馬廻組
        吉田平之丞

   前田土佐守家来給人
        国分貝右衛門

   深見右京家来給人
        井口直記

 右今般私方居合稽古指引方
 相かへ申度奉存候此段御聞届
 可被下候様奉頼候以上

  未四月   生沼善兵衛判

 学校

右追而御聞届ニ付當人ゝゝ江申談候事
右指引願方文久二年十二月廿日
段〃被 仰出候趣有之以□[後]御自重ニ
相成候猶委細下ニ記ス

安政7年2月24日 臨時の稽古御覧

安政七年二月廿四日
一 今日学校定日之処夕江
繰下ケ
筑前守様御覧可被遊旨
被 仰出候旨昨廿三日督学
中ヨリ紙面到来應シ返書
指遣出座人觸付いたし昨日
小紙夫〃差出今日一従朝
五半時ゟ罷出首尾能
御覧相済猶委細別冊ニ
記之

萬延2年1月24日 臨時の稽古御覧

萬延元年正月廿四日此年文久与名改也
一 今日定日稽古夕江繰下ケ
中納言様御覧被 仰出都而
前段同様猶別冊ニ記ス

萬延2年11月24日 臨時の稽古御覧

同年十一月廿四日
一 本日定日稽古右同断
筑前守様御覧被 仰出都而
前段同様猶別冊ニ記ス

萬延2年 流替の仕方

同年
一 入門人有之節若只今迄ニ外
居合稽古入門仕居候而未
傳統ニ而當流江入門之節ハ
是迄之師家ゟ當人江
承知之紙面取立右紙面ニ左
之通入門達小紙共一集ニ御
横目所江相達可申候事
 但達方是迄■〃ニ付記置候事

   何某家来何組
   与歟
     何某
右私方江入門仕候付此段
御達申上候且別紙何某ゟ之
未之師家御賑邊ニ
候得ハ文中■付  紙面茂相添
御達申上候以上

 何
  何月何日 生沼善兵衛

 学校
  御横目所

他流からの入門者は、以前の師家から流儀を確かに止めたという文書を貰い、且つ入門するための文書を一緒に提出する。そして、師範は他流からの入門者を受け入れたとき、学校御横目所へ文書を提出する。

文久2年7月 御時勢不容易、藝術盛立

文久二年

七月
一 今後於学校師範方之儀
督学中被 仰渡候事

 師範方之儀是迄とて茂
 油断ハ有之間敷候得共當時
 不容易時勢ニ付此度
 格別風俗等之儀被 仰出
 之趣も有之右ニ付如何ニも
 武事盛ニ相成御用立候様
 弟子中仕立申儀肝要ニ候間
 第一私を離れ誠実ニ付可申
 藝術成立之儀精誠を
 尽し世話可有之候尤藝術
 而已ニ限り候儀ニ而茂無之
 師弟ハ格別之儀ニ候条風俗
 心得方等不宜儀ハ無■
 可申諭其上ニ茂不取用
 族有之候ハゝ其段可被申聞
 候事
  七月

右被 仰渡ニ付一統御心得左之通
被 仰渡ニ奥書ニ而稽古所江
はり出し猶指引人江ハ委細御達
ニ而申述別而心■有之候様承合置候
之事

 右之通今般於学校督学中
 被 仰渡候不容易御時勢共
 御座候儀御趣意通無異失
 □守同門中相互ニ万端申合
 藝術盛立曁訓導方
 等精誠御心得如何ニ茂一際立
 御入精有之様致度奉存候尤
 士之當務ニ心得迄も無御座
 儀ニ候得共被 仰出之御趣意於
 私正路奉存候ハゝ行届万端
 御世話いたし度奉存候此段御承知
 可被成為其如斯御座候事
  戌
   七月

容易ならざる時勢となったので、師範はこれまで以上に精誠を尽して弟子を世話し、弟子たちが私を離れ誠実な人柄となるよう導けと云う御達し。武藝師範たちは斯うした武藝以外の面でも期待されていたようだ。

文久2年8月 前條之御請

八月
一 右被 仰出候趣御請追而
帳面ニ仕立判形御取立
左之通之事

 帳面上書
  御請書
武藝師範方之儀ニ付
今般被 仰出之趣被仰渡
奉畏候依而御請上之事以上
 壬戌
  八月  生沼善兵衛判
      垣本佐五右衛門〃
      南併士六〃
      石黒蔵右衛門〃
      ──────
      ──────
      ──────
      〆三拾四人
 学校

右添紙■連名左之通りニ而
来候事

 師範方等之儀ニ付前月廿五日
 呼立申渡候趣御受御用
 ヶ条別冊判形尓て先〃
 急速相廻後落着可有
 返達候以上
  八月三日  学校

  生沼善兵衛殿 奉得其意御別冊
         判形仕候
  ─────殿
  ─────殿
  〆三拾四人

先月の件について承諾したことを示す書面を提出する。

文久2年10月 他流の見学を許可、勝負稽古を推進

十月
一 今度於学校左之通被仰渡
候事

 是迄武藝諸稽古
 他見不相成儀師範人之
 了簡ニ相成居候得共
 以来習事之外ハ相互ニ
 見学可為致稽古且
 勝負無之流儀も勝負
 致稽古候様可申渡旨被
 仰出候条被得其意諸
 師範人江可被申渡候事
  十月
 追而是迄勝負無之向
 今度勝負被相始候ハゝ
 其段可被相届候事

右之通被 仰出候處以後他
稽古等ゟ若見学人可有之哉
ニ付其節之■■方等惣而
指引人共申合別冊相仕立
猶稽古所江茂はり置候事

容易ならざる時勢となり、武藝の掟にも変革が迫られた。他見を許さなかった稽古の見学を許し、勝負稽古を行っていない流儀には勝負稽古を課した。

文久2年12月17日 経武舘の年末年始の稽古日

十二月十七日
一 今日学校ヨリ左之通紙面
到来應シ及返書一統
申談候事

 経武舘稽古當時之
 時勢ニ付以来十二月
 廿五日切相仕廻正月ハ
 八日ヨリ相始可申旨
 被 仰出候条被得其意
 弟子中申談當
 廿四日定日稽古
 可有之候以上
  十二月十七日

文久2年12月20日 指引人の除名

十二月廿日
一 今日学校ヨリ左之通廻状
別紙共到来ニ付各〃江
奉得其意候旨相調次順
江相廻候事

 今般指引人之儀ニ付別紙
 被 仰出之趣相達之候条
 可被得其意右ニ付是迄
 指引人〃江相願次第
 拙者其切承届来候得共
 別ニ御詮儀之趣有之以後
 指引人御自重ニ御取扱ニ
 相成御主付江交名相達
 候上御聞届之否可申談
 筈ニ候間右等之心得を以
 在来指引人之内ニ而茂
 被 仰出ニ相當り候人〃ニ而
 相願候而茂改而當廿三日
 切交名可被指支候御指急
 之御用ニ候条急束廻達
 可有之落着ゟ可被相達
 候以上
  十二月廿四日  学校

 武藝指引人之儀是迄
 師範人願次第被聞届
 候得共人多ニ相成中ニハ
 名目而已ニ而師範人
 手助ニ不相成人〃茂
 不少躰ニ付今度改而
 一稽古所四五人を限り
 為相願人品曁心得方
 等之様子承糺聞届
 可申候事

右之趣是迄指引人一統
打寄段〃申合畢竟
半井氏山田氏相省キ
右御両人ハ以後内輪指引
稽古所迄之趣ニ決定
改而左之通相願候處追而
以御付札御聞届候段被
仰出夫〃申談候事
 但本文御聞届之儀ハ翌月正月十八日也
 前田土佐守家来給人
      土田大蔵
 長大隈守殿家来中小将組
      中村縫殿右衛門
 深美右京家来給人
      井口直記
 前田土佐守家来給人
      国分貝右衛門
 魚津御馬廻御番頭
      土佐田平之丞

右人〃私方居合稽古指引方
申談度奉存候此段御聞届
御座候様奉願候以上
  
 戌
  十二月廿三日 生沼善兵衛判
 学校

御付札
 本文達 御聴承届候事

名目のみで何ら手助けとならない指引人を除名せよというお達し。「名目而已ニ而師範人手助ニ不相成人〃茂不少躰ニ付」、少なからずそういった指引人が諸流に在籍していたことを示している。 当流においては、半井氏・山田氏の二人を指引人から省き、以後は内輪の稽古における指引人という扱いに決められた。

文久3年1月13日 上京御供

文久三年
正月十三日
一 御前今般御上京被為蒙 仰
候付善兵衛儀御供被 仰付
當十七日 御發駕御供ニ而
京都江發足仕候付今日
左之通以紙面相達候事

 今般土佐守儀上京仕候付
 私儀供申付當十七日
 京都江發足仕候依而
 跡稽古方之儀指支
 不申様指引人江申談置候
 此段御達申上候以上

  正月十三日

 切封シ
  学校   生沼善兵衛

 〃
 学校
  御横目所 ─────

 右各通也

右之通發足當日御達方
不仕候事

文久3年1月18日 指引人大綱

正月十八日
一 今度指引人改而被 仰付候処
今日指引人一統学校へ御呼立
被仰渡候趣有之段指引人〃
ヨリ被申聞候付為後〃之
左之通り留置候事

  指引人江申談候大綱

 一 其師傳を能相守我意を
 不立萬端師範人之助ニ
 相成候様心懸可申候事

 一 稽古成立方専要ニ
 相心得厚被致世話聊
 依怙贔屓ヶ間敷指引
 方無之様肝要之事

 一 相弟子中情不情之様子
 品ニゟ拙者共曁御横目
 中ゟ相尋候儀も可有之候間
 豫而其心得可有之事

 一 各申合成限り稽古日等
 出座指引可被致候事
  但病氣等ニ而續而出座難被致節ハ
  拙者共迄可被相届事

 一 稽古迄ニ茂不限不宜
 風俗ニ移り候様之儀ハ師範
 人承合可被申諭候事

右者今度指引方承届ニ付
是迄無之儀ニ候得共分而
被 仰出候趣有之改而為心得
申談候条可被得其意候
申迄ハ無之儀ニ候得とも
稽古所之盛衰先者
其師之教育かたニ可有之
候得共亦指引人之取扱
方ニ而衰微ニ到り候
而茂折ニハ可有之■相聞
へ共武藝を嗜候儀者
士之地盤ニ候得者面〃忠孝
奉存付心力を尽し
異失なく様可被致指引
候事
 亥
  三月

右之通ニ候處御請御取立
之由ニ而諸稽古所指引人
連名御受帳順達物ニ而
□候付土田等夫〃名之下
判形取立候上右御請次順
半井故十之進諸同姓生沼甚左衛門へ
致順達候事

 但指引人之内土田大蔵儀
 前段被仰渡之節當病
 ニ而不仰出追而六月廿四日
 罷出被仰渡拝聴御受判形
 茂相済候旨被申聞候且又
 御請相廻り候分吉田半之丞
 在遠所ニ付名之下其段
 付札ニ而相廻置重而出府
 之節学校江被罷出判形
 被致候事

文久2年12月20日に名ばかりの指引人が省かれた。そしてこの日は指引人たちの心得として大綱が示された。 これは稽古所の盛衰は師範人の教育方法に拠るのは勿論だが、指引人たちの門弟取り扱い方によっても衰微に到るものだとして、これまでに無かった箇條も加えて特に風紀を正させることを目的とした。 ときに師範は上京に御供して不在につき、指引人が連名で御請の旨を届け出た。

文久3年3月12日 御上京御供帰着

三月十二日
一 御前先達 御上京被遊候所
益御機嫌能今日御帰着
御供ニ而帰着仕候付翌朝
左之通学校江以紙面相達
候事

 私儀土佐守供申付上京
 仕候儀先達而御達申上候
 通ニ御座候處昨夕帰着
 仕候此段御達申上候以上
  三月十三日

 切封シ
  学校   生沼善兵衛

 〃
 学校
  御横目所 ─────

 右各通状箱入上書同断
 白封付遣候事

文久3年4月18日 禁裏御守衛兵士

四月十八日
一 今日左之通学校ヨリ廻状
到来ニ付名之下承知書
指引人共示談之上二七四九
勝負稽古迄相記次順生沼
甚左衛門江相廻し候事

 上認ニ
 廻状   山崎頼母

 各門弟稽古所定日
 致承知度候間名之下ニ
 可被相記候先〃相廻後
 落着可有返達候以上
  四月九日  学校

  永嶋善太夫殿 ────
  ─────殿 ┌本文定日四九指支
  ─────殿 │二七五十ニ相改其段
  生沼善兵衛殿 │学校へ相達置候
  ─────殿 奉得其意定日
         二七四九夕ニ御座候
  永崎都合十一人連名也

 追而門弟之内壮健ニ而
 當時出精藝術達有之
 人〃名書豫而可有指出置候
 且在江戸等之人〃ニハ指引人
 ニ而承知可有之候以上

右追啓之趣ニ付指引人中
共段〃申合候上被仰渡ニ相當
候壮健ニ而當時出精藝術
達者与申上候様方甚六ヶ敷
場合ニ付猶申合之趣一應
督学中江及内談候處
右様三筆相揃候人〃も有之
間敷哉詮儀之趣内談之筋
尤ニ相聞へ候依而精誠相撰
入精達者之人〃引續當時
入精人ニ両様ニ相達候様被申聞
候付重而段〃申合左之通
決定且右ニ付而
御上御趣意ハ如何可有御座哉
難斗候儀其當時勢ニ付
壮健藝術達者之人〃相撰
禁裏御守衛兵士被 仰付
京都詰被仰渡候様色〃取沙汰
も有之儀ニ候間是迄入精人
御達申儀抔茂其違ひ何与やら
御趣意有之儀ニ被存ニ付相達候
人〃江茂右之次第前■一統
呼立心得中談候ハゝ可宜旨
指引中共申合則左之人〃
呼立何茂承知之上学校江
相達候事
 但本文入精達之内小■■[譯決]
 一集ニ相達候儀少与[ちょっと]如何敷
 御座候得共先年入精人
 相達候時分善兵衛儀子息之時分
 相達候振も有之旁其段
 督学中江相達候処矢張
 相達候方可然旨被申聞
 ニ付未ニ相記達候事
■印拾人翌年子六月廿八日不時
御見届有之候猶其節ニ記ス


  入精達者之人〃
 人持組   三田村主斗
 長大隈守家来徒組
    四拾歳
       細井全左衛門
 御大小将組
    三拾歳
       石黒右平
 長大隈守家来給人
    四拾壱歳
       山崎権五郎
 深美右京家来給人
    二拾五歳
       山田十之進
 長大隈守家来小将組
    二拾九歳
      松村彦三郎
 深美右京家来給人加藤波右衛門せかれ
    二拾弐歳
       加藤喜十郎
 前田主馬守木並前田右兵衛弟
    弐拾歳
      前田喜久馬
 前田土佐守家来給人
    弐拾三歳
      田中小源太
 御年寄中支配奥村典膳嫡子
    三拾七歳
       奥村弥次兵衛
 深美右京家来給人林作左衛門せかれ
    二拾五歳
       林弥一郎
 前田土佐守家来給人野口甚五左衛門嫡子
    二拾六歳
      野口右藤次
 前田土佐守家来中小将組篠田所左衛門養子
    二拾九歳
      篠田六三郎
 前田土佐守家来給人矢田六郎兵衛嫡子
    二拾歳
      矢田半之丞
 前田土佐守家来給人西坂文太夫養子
    拾九歳
      西坂徳進
 三田村主計家来給人中村藤五左衛門二男
    二拾歳
      中村栄二郎
 長屋八内家来給人
    二拾一歳
      武山愛吉
 前田土佐守家来給人生沼善兵衛養子
    拾九歳
      生沼小源次

右入精達者之人〃并
當時入精之人〃如斯
御座候以上
 亥
  五月廿日  生沼善兵衛

 学校

右相達候人〃之内前田喜久馬
禁裏 御守衛兵士被 仰付
候事

文久3年3月 六具着用にて弓馬鎗釼等稽古

三月
一 今度学校ヨリ左之通り
被仰渡候事

 於経武舘弓馬鎗釼等
 都而六具着用いたし
 稽古試之儀望次第
 被 仰付候旨被 仰出候条
 可被得其意候右ニ付門弟
 望之人〃先越三拾人宛
 交名時〃前應拙者共
 ニ而可相出候事
  亥三月

文久3年6月24日 指引人の管理

一 六月廿四日定日ニ学校江罷出候
之処左之通りはり出し有之候付
為心得写取置候事

 今度武藝指引人改而
 稽古所四五人を限り為相預
 御聞届ニ相成候付以後師範人
 より不洩届方ヶ條書左
 之通り

 一 組替之節
 一 家督相續等之節
 一 改名之節
 一 病死之節
 一 嫡子養子預之節
 一 御咎并御免之節
   以上
 亥
  六月   学校

文久3年7月8日 指引人病死

七月八日
一 指引人中之内吉田平之丞殿病死
ニ付今日督学中迄相達
候事

 私方居合稽古指引人
 魚津御馬廻御番頭吉田
 平之丞殿昨七日病死仕候付
 此段御達申上候以上

 七月八日

 切封シ
  学校   生沼善兵衛

右状箱上書同断白封付遣
候處御受取之事

文久3年8月7日 藝術出精壮健達者の人〃相達

八月七日
一 今日学校ヨリ以小紙一両日之内
御用御座候付罷出候様申来候付
善兵衛儀當病ニ付今日指引
之内貝右衛門罷出候處督学
横濱善左衛門殿ゟ被申談候趣
左之通

 門弟之内壮健ニ而當時出精
 藝術達者之人〃先達而
 交名取立候處則ち差出
 候通ニ御座候右ニ付今
 一應同様之人〃拙者此節
 承置申度候間早〃詮議
 相達候様就而ハ今度之処
 先達而相達候人〃ニ引續候
 人〃相撰且當時出精ハ
 無之共以前出精ニ而達者
 之人〃抔勤仕向等無據
 次第當時懈怠無之共其人〃
 相嗜候藝術ハ一躰之儀ニ付
 右等之人〃ニ而も不指支候間
 是等之趣を以相達候様
 年輩之処壮健之者ニ限り
 候儀ニも候哉又指引ハ不相勤
 共免状相許候人〃も入交
 相達候而も可宜哉早〃与
 申内何同断迄与歟御目付も
 有之抔當座心付之趣為念
 相尋候処壮健ニ而達者之人〃
 有之候得ハ一段与申物ニ候得共
 先達相達候上又候御取立
 之儀ニも御座候間年頃之処
 三四拾餘ニ而も不指支免状
 相許候者も入交候儀不指支
 達方日切も無候得共
 成丈早メニ相達候様御申
 聞候事

文久3年8月13日 入精之人〃

八月十三日
一右之通ニ付指引中共段〃申合候上
今日左之通相達候事

  當時入精之人〃等

 本組与力
      四拾壱歳
        福岡権作
 篠嶋主馬家来給人
      四拾弐歳
        石崎保太郎
 深美右京家来給人
      三拾九歳
        浦上喜多次
 御馬廻組
      四拾四歳
        江守貞勝
 深美右京家来給人
      三拾三歳
        福嶋半兵衛
 御馬廻頭岩田内蔵助二男
      四拾一歳
        岩田磐之助
 兵士御使役嘉門五番目弟
      弐拾六歳
        浅香繁人
 御附御大小将組
      三拾九歳
        長屋源太左衛門
 長大隈守家来給人原田右衛門養子
      三拾四歳
        原駒之助
 御馬廻組石黒判平弟
      弐拾五歳
        石黒喜久馬
 前田主馬■■
      三拾四歳
        前田左兵衛
 深美右京家来給人
      弐拾二歳
        世良□[杢]左衛門
 村井又兵衛家来給人
      二拾二歳
        村井孫作
 前田土佐守家来給人河村直之助弟
        河村豊之助
 前田土佐守家来給人
        柳沢弥三兵衛
 三田村主計家来給人林順左衛門嫡子
      拾八歳
        林民太郎
 御馬廻組江守貞衛嫡子
      拾七歳
        江守昇太郎
 中川式部家来給人田平権三郎嫡子
      弐拾歳
        田平直記
 村井又兵衛家来中小将組
      拾八歳
        中村順二郎

右私門弟當時入精之
人〃如斯御座候以上

 亥
  八月十三日 生沼善兵衛

  学校

文久3年8月24日 不情并病死等の人〃

八月廿四日
一 左之通学校表張出し有之候付
為後ニ写取候事

 武藝諸師範人門弟之内
 壮健ニ而入精達者□[之]人〃先
 達而被相達候内其後不情
 并病死等之人〃有之候ハゝ
 其時〃不洩可被相達候事

  亥
   七月   督学

文久3年8月24日 指引人を補充

八月廿四日
一 指引人之内吉田平之丞先達病死
尓付右為代今壱人相願候趣ニ申合
山田氏先達而被相勤人高相減候節
無據相省候事故此度如是山田氏
相加候趣ニ申合則今日左之通以紙面
督学中江相願候處追而御懸紙
を以 御聞届被 仰出候付右御懸紙
之趣山田氏江入披見候事

 但尤差付紙面差出不申先口達
 ニ而最初及示談候上紙面差出
 候事

   深見兵庫家来給人
         山田大助

 右私方居合稽古指引人
 之内吉田平之丞殿病死ニ付
 為代指引方申談度奉存候
 此段御聞届御座候様奉願候以上

  亥
   八月廿四日  生沼善兵衛判

 学校

右御聞届被仰渡候節大助儀一両日
之内学校江罷出候様可申談旨
被申談則山田氏江申談置候處
被仰渡候翌日山田氏江罷出候由ニ而
指引人心得方等直ニ被仰渡候付
御受判形仕罷帰候由山田江申聞
候事

文久3年10月10日 不得手の者傳流の望み

十月十日
一 左之通学校ゟ以廻状被仰談
候事

 別紙之趣ニ候条承知有之
 先〃江相廻後■着可有
 返達候以上
  十月十日  学校

 別紙之写

 當時武藝格別御迫立
 之儀ハ一統承知之通可然處
 是迄流儀不得手等尓而
 傳流相望候其中ニハ流法
 申立容易ニ不承届向も
 有之候付年若之人〃抔
 依之心外懈怠罷在候者有之
 躰相聞當御時節柄ヶ様之者
 有之候而ハ第一御趣意ニも
 違ひ候付以来重き習事
 相済候者ハ格別其□[輩]流儀
 不得手等ニ而傳流相望候
 者ハ勝手ニ聞届候而可然与
 存候當時節柄ニ付拙者共
 詮義之趣及御内達各江
 申聞置候事
  亥
   九月

元治1年4月 入精之人〃交名書を再び提出する

元治元年四月此年元治与元改也
一 去亥年入精人〃御達申上候処
右交名之内此度拾人又〃撰〃
相達候様学校ゟ被申談候付
指引中共示談之上左之人〃
交名書今日相達候事

 長大隈守家来小将組
    三拾歳
       松村彦三郎
 前田主馬守木並前田右兵衛弟
    弐拾一歳
       前田喜久馬
 前田土佐守家来給人
    弐拾四歳
       田中小源太
 前田─────野口甚五右衛門嫡子
    弐拾七歳
       野口右藤次
 前田─────篠田所左衛門養子
    三拾歳
       篠田六三郎
 前田─────矢田六郎兵衛嫡子
    二拾一歳
       矢田半之丞
 前田─────西坂文太夫養子
    弐拾歳
       西坂徳之進
 三田村主計家来給人中村藤五左衛門二男
    二拾一歳
       中村栄二郎
 前田─────箕浦彦右衛門養子
    二拾一歳
       箕浦愛吉
 前田──────────
    二拾歳
       生沼健六

 右當時入精達者之人〃
 先達而御達申上候内今度
 拾人御達申上候様被仰談候
 尓付如斯御座候以上

  子
   四月九日 生沼善兵衛

  学校

 右半紙ニ調差出候事

元治1年6月26日 不時の御見届

六月廿六日
一 右人〃不時御見届ニ付明後
廿八日三〃御見届之節之通
相心得何茂学校江罷出候様
今日督学中ゟ紙面差越
應し返書差遣候事

元治1年6月28日 稽古御見届

〃廿八日
一 稽古人組合調方案紙相渡り
案紙通都合弐枚入用之旨被
申談猶別紙下物残置候事
 但仕誦点懸可申候事

□[〃]
一 右組合書之通人〃名札壱枚宛
三〃御見届之通り批キはり帳ニはり
尤罷出候指引人も同様都而名札はり
誦点茂懸合可申候尤組合書批キ
はり帳共稽古出順ニはり可申事


一 其日打太刀迄ニ罷出候分ハ名札
并組合書其組柄迄相調歳付ニハ
不及幾組有之共左脇書も調
可申候事
 但打太刀迄ニ罷出候人〃ハ達方
 有之候猶下ニ相記通ニ候事


一 御見届人之内外打太刀仕候て
組合書批キはり帳名札共組柄
迄調歳付ニハ不及其人仕太刀
之所ニ歳付調有之候へハ夫ニ而
宜旨之事

一 其日罷出候指引人之内打太刀ニ
罷出候而も歳付組柄迄ニ而宜
尤左脇書可調事

一 若師範人打太刀ニ罷出候得ハ
肩書ニ師範人与調候迄ニ而宜
旨之事

一 指引人幾人有之共其日出座仕候
人〃迄組合書未〃調可申事

一 當月打太刀迄罷出候人〃達方
前方達ニ不及當日左之通り
相達候事

 深美右京家来給人
       山田十之進

 右今日為打太刀罷出候付
 此段御達申進候以上

  六月廿八日 生沼善兵衛

 学校
  御横目所

一 稽古数左之通挨拶後之挨拶
迄之事

  勝口振替  四本

  勝負振替  弐本宛

  勝負打太刀 三本
  別人罷出候分

  居合表   一篇

  立合表   拾本

   但具足入交

    以上

右本文勝口勝負之総目只今マテ且口勝負与
相唱来候得共元来當流勝口ヨリ發シ
候仕口之勝負業ニ而両様ニいたし候儀ハ
則天保二年四月廿六日御横目所へ相達候趣ニ
御座候處其後無倡勝口之業学校
ニ而ハ不致候右勝口之儀ハ初心執行之導
成立方宜儀依而如先規学校ニ而為致方
可然与今度指引中共申合候其儀流法ニ
候得ハ今更相達候ニハ不及候得共学校ニ而
勝口之業自然与致中絶居候事故今度
為念一應御横目所江相達置候依而
御手段ニ付相調候茂常稽古共勝口与
勝口与調分ケ可申候事


一 右稽古有之節是迄他見ハ不許候得共
當時諸流相互ニ見学之儀去年学校
□被仰渡も有之其上先歳外ニ不時
御見届ニも相互ニ見学も有之由ニ付
今日罷出候人〃望之程相尋候處
何も相互見学いたし度由ニ付同日御見届
有之候吉田兵衛等前方示合候處何方も
相互見学望ニ付其段善兵衛ゟ引受
御横目中江相達致見学相済候上ハ
相互ニ挨拶述置候事
 但尤習事ハ不致候事

一 右稽古御見届夫〃相済口上御礼方
抔無御座出座帳等も無之道具仕様
相済勝手ニ引取候事

元治1年8月24日 京都御供

八月廿四日
一 指引人遠所發足有之候而も是迄相
達候様之儀無御座候得共去年
指引人御仕供後右様之節学校江
相達候趣ニ相成今日左之通り相達
候事

 私方指引人井口直記儀今度
 深美右京殿供被申付京都江
 發足仕候此段御達申上候以上
  七月廿四日
  学校   生沼───
 学校
  御横目所 ─────

右切封シ各廻状箱入上書同様遣候事

元治1年7月28日 江州海津表御供

七月廿八日
一 今度急 御發駕ニ而
御前御儀江州海津表迄御旅行
ニ付 御供被 仰付左之通り今日
相達候事
 但發足後学校へ遣候様留守江
 申付置候事

 土佐守儀今度江州海津
 表江罷越候付私儀共申付
 今日發足仕候依而諸稽古方
 指支不申様指引人江申談
 置候此段御達申上候以上
  七月廿八日

 学校     各通也
  御横目所

右切封シ紙面ニ而遣候事


一 土田大蔵儀右同様ニ付左之通
相達候事

 私方指引人土田大蔵儀
 今度土佐守江州海津表江
 罷越候付供申付今日發足
 仕候此段御達申上候以上

  七月廿八日 生───

  学校

 学校    各通
  御横目所

右同断

元治1年8月18日 帰着

八月十八日
一 今度海津表ゟ御帰着ニ付
御供ニ而罷帰今日左之通り
相達候事

 私儀土佐守共ニ而江州
 海津表ゟ昨十七日帰着仕候
 依而此段御達申上候以上

  八月十八日

  学校

 学校    各通
  御横目所

 私方指引人土田大蔵儀
 土佐守共ニ而江州海津表ゟ
 昨十七日帰着仕候依而此段
 御達申上候以上

  八月十八日

  学校

 学校    各通
  御横目所

右何茂切封し紙面仕候事

元治1年7月9日 指引人、御用召欠席

七月九日留洩
一 左之通学校表ゟ来状ニ付應シ
返書遣し指引人〃江添紙面
を以早〃致廻達候事

   土田大蔵
   国分貝右衛門
   中村縫殿右衛門
   井口直記

右御用候条明十日五半時頃
罷出候様可有申談候以上

 七月九日

猶以當病等有之候ハゝ名代人
差出且忌中ニ候得ハ其段
相届候様可有申談候以上

 切封シ
  生沼───殿 学校

右之通ニ候處中村氏忌中之由
申越候付其段以紙面被相届候様
申通置候後例之為届紙面左ニ
記置候事


 私儀御用御座候付今日
 五時頃罷出候様昨日生沼
 善兵衛申談奉得其意候
 然處忌中ニ罷在候付此段
 御届申上候以上

  七月十日

 切封シ
  学校  中村縫殿右衛門

元治1年7月10日 指引人、白銀拝領

〃十日
右之通ニ候處今日何も罷出候処
白銀壱枚宛拝領被 仰付候由
何茂普為聴候被 仰渡方相
心得候處當時指引方被 仰付置候付
段〃被仰出之趣有之旨ニ御座候
指引人是迄右趣拝領物ハ無御座
候得共去年改而被 仰付候故■ニ
奉存候事

元治1年7月22日 中村縫殿右衛門、白銀拝領

七月廿二日
一 中村氏今日忌明之趣朔日学校へ
可被相達候由之処明廿三日御用
有之由紙面到来ニ付應し
返書遣候其段中村江申談候處
翌廿三日昼後被見得候而
前段土田氏等同様今日拝領■
被 仰付候由普為聴之事

文久3年 面の取りはづし様

去年留洩也
一 左之通於経武舘張出し有之候付
写取置候事

 於経武舘稽古人面胴懸
 候分大概是迄稽古相済
 面はつし入候得共中ニハ面懸
 被侭入候分も有之面体不相知
 候付以来 御出并御平常共
 面相はつしも入候而可然段内藤殿
 被仰渡候事

  但たすキ式ハ鉢抔ハ勝手
  次第之旨是又御同人
  被仰渡候事

   閏
    六月 学校御横目所

右之通ニ候處當流ニ而ハ是迄都而
最初面懸罷出稽古相済面を
取はつし入候得共猶為念一統
是迄通無違失被相心得候様
申談置候事

元治1年6月 指引人の管理

六月留洩ニ記ス
一 左之通督学中ゟ被申談候事

 諸稽古所指引人之内
 相續役名曁江戸等
 出入之節中ニハ當人ゟ
 直ニ役所江被相達候向茂
 有之候得共以来師範人ゟ
 御届可被成候事
  但師範人在江戸ニ候者
  指引人連名ニ而御届可被成
  候事

一 於遠所出稽古有之候分
所方ニおいて指引人増減
之儀曁改名等之儀も本文
之通御届可被成候事
 五月

元治1年6月 指引人の管理、しらべ帳

六月
一 以来年中しらへ帳指出候節
左之通り相調差出候様御横目
中ゟ被申聞候事

 一 家督相續
 一 改名
 一 養子
 一 勤仕申付候節等

右ヶ条都而其趣何月与
月付迄相調不申而ハしらへ方ニ
指支候而豫而被申談置候
旨被申聞候事

元治2年4月18日 上京御供

元治二年 五月慶應与改元也

四月十八日
一 左之通り今日夫〃相達置候
之事

 今度土佐守儀致上京候
 尓付私儀供申付明十九日
 發足仕候依而諸稽古方
 指支不申様指引人江
 申談置候此段御達申上
 候以上

  四月十八日

 切封し
  学校   生沼善兵衛

 〃     各通
 学校
  御横目所 〃

右状箱入上書同断為持遣候事

 私方指引人国分貝右衛門儀
 今度土佐守致上京候付
 供申付發足仕候此段
 御達申上候以上

  四月十八日

 〃
  学校

 〃
 学校    各通
  御横目所

右同断貝右衛門儀御先發足仕候付
當十四日發足仕候得共今日一集ニ
相達候事

元治2年4月24日 其後の入精達者等の人〃を尋ねられる

四月廿四日
一 昨年五月八日両度入精人〃等
相達置候處今日定日出座
之上督学中与力山田大助江
申聞ニハ先達而入精人等
之人〃相達候其後當時入精
達者等之人〃有之候ハゝ相達
可申様頭衆ゟ談之旨申聞候事

元治2年4月29日 其後の入精達者等の人〃を提出する

〃廿九日
一 右ニ付指引人中示談相しらへ
左之通り今日相達善兵衛儀在
京ニ付今日出以紙面左之交名
為承知差出候事

  當時入精之人〃
 前田土佐守家来給人
    三拾歳
       皆川与一郎
 長大隈守家来小将組
    三拾五歳
       末松仙助
 深美右京家来給人世良杢左衛門弟
    拾九歳
       世良留三郎
 前田土佐守家来小将組木村小兵衛せかれ
    弐拾九歳
       木村判之助
 前田土佐守家来徒組
    弐拾弐歳
       野沢甚平
 長大隈守家来小将組
    弐拾三歳
       井上芳太郎
 前田鍋之助家来給人
    弐拾三歳
       荒木雅右衛門

右當時入精之人〃如斯
御座候以上

 丑   生沼善兵衛方指引人
  四月廿九日  山田大助

 学校

元治2年4月24日 終日稽古願い

四月廿四日留洩記ス
一 於経武舘終日稽古先達而
両度相願候久〃無之候付
今一度相願候趣指引人中
被申聞候付別存無之旨相答
置候處左之通り相願置候旨
善兵衛在京中ニ付為承知
京都江山田氏等ゟ被申越候事

 来寅ノ年学校ニ而
 終日稽古願之趣今日
 口達ニ而願置候事
  丑
   四月廿四日 山田大助

元治2年7月4日 京都御供

七月四日
一 国分貝右衛門儀御供ニ而在京ニ
罷在候付御用相済當八日彼地
出立同十四日帰着いたし候處
善兵衛儀未在京中ニ付
大蔵引受今日左之通り相
達置候事

 生沼善兵衛方指引人
 国分貝右衛門儀土佐守供ニ而
 京都江罷越候處今度
 帰着仕候依而此段御達
 申上候以上

 丑   生沼善兵衛方指引人
  七月四日  土田大蔵

 学校

学校     各通
 御横目所

右切封し上書同様為持遣候事

元治2年7月20日 帰着

七月廿日
一 御前御供被 仰付先達而京都江
罷越候處今度 御帰着
ニ而今日帰着仕候付翌廿一日
左之通相達候事

 私儀土佐守供ニ而昨廿日
 京都ゟ帰着仕候此段
 御達申上候以上

  七月廿一日

 学校

学校    各通
 御横目所

右切封し上書同断為持遣候事

元治2年7月24日 稽古道具について

七月廿四日
一 於経武舘稽古御道具
之内勝負胴弐領共出来方
惣而中入之品餘慶厚過候而
不宜候付幸少〃損ニ寄御手入
被仰付其節今一篇薄メニ
出来候儀督学校与力佐羽
恒右衛門江相達候處致承知候
右出来之節私宅所持之胴
為見呉候様申聞ニ付何時ニ而も
細工私宅江被差越候様相答
置候處重而罷越見本ニ
壱領かし渡遣候事

一 右之節勝負しなへ是迄之処
三十本有之候得共不足仕差支
申候間今弐本新出来被 仰付
候様いたし度旨恒右衛門江及示談
候處御修覆物ハ御手入等之儀
口達ニ而相達宜候得共新出来物ハ
以紙面相願候振之旨申聞候付
左候ハゝ追而願紙面可差出旨
申達置候事

元治2年9月24日 稽古道具について

九月廿四日
一 右之通りニ候處今日定日ニ付
左之通ニしらへ寸法書相添
相達置候事

 私方居合稽古御道具
 之内勝負しなへ是迄三本
 御座候處御定日稽古等
 之節不足仕指支申候間
 今弐本増出来被 仰付候様
 仕度奉存候此段宜敷奉願上度
 奉存候以上

  丑
   九月廿四日 生沼善兵衛

 学校

別紙ニ
 勝負しなへ寸法書

 長サ    三尺三寸
 太サ縫上ケ 四寸一歩
  但タンホウ付

元治2年9月24日 終日稽古の再申請

九月廿四日
一 来寅之年終日之儀當四月
指引人ゟ相願置候処未何の
被 仰渡茂無之ニ付今日定日
之事故為念督学中与力へ
相尋候處如何之間違哉小紙出
不申候間願小紙差出候様ニ而
申事ニ付左之通改而小紙
を以相達置候事

 来寅之年私門弟中
 終日稽古奉願度候付
 四月五月ニ御治定奉
 願上候若右御指支ニ
 御座候ハゝ八月九月之内
 御治定御座候様奉願上候以上

  丑
   九月廿四日 生沼善兵衛

  学校

元治2年9月24日 師範留守中の入門手続き



一 善兵衛儀在京中等留守中
の門人有之節指引人ゟ引受
達方左之通り後〃之為
記置候事

   何組
     何某

 右人〃生沼善兵衛方江入門
 仕候付此段御達申上候以上

  何ノ  生沼善兵衛方指引人
   何月日  指引人名

  学校     各通
   御横目所

慶應3年3月24日 私宅稽古の定日刻限変更

慶應三年三月廿四日
一 私宅稽古定日是迄夕八時ゟニ
候處指支候趣ニ而刻限朝ニ改
左之通学校江相達候事

 私方宅稽古定日二七五十
 夕之趣ニ先達而御達申上
 置候處今度是迄通ニ而
 刻限朝五時ゟニ相改候
 尓付此段御達申上候以上
  卯
   三月廿四日 生沼───

  学校

慶應3年6月13日 十三度目の御見届

同年六月十三日
一 當月廿三日御見届之儀
紙面到来候付應し返書
遣ス委細別冊有之事
 但拾三度目也

慶應4年1月27日 上京御供

正月廿七日
一 御前御儀御上京御供被
仰付明廿八日 御發駕ニ付
左之通り相達置候右ニ付
御指引人中江諸稽古方及
演述夫〃相頼置候事

 今度土佐守儀致上京候付
 私儀供申付明廿八日發足
 仕候依而諸稽古方不指支様
 指引人江申談置候此段御達
 申上候以上

  正月廿七日 生沼善兵衛

  学校

 学校    各通
  御横目所

 今度──────私方指引人
 国分貝右衛門儀供申付廿八日
 發足仕候此段御達申上候以上


  正月廿七日 生───

  学校

 学校    各通
  御横目所

慶應4年閏4月4日 帰着

閏四月四日
一 今日左之通り相達候事

 私儀先達而上京致候段
 御達申上置候処土佐守儀
 昨日帰着致候付供ニ而
 帰着致候此段御達申上候以上
  閏四月四日

 切封し
  学校

 学校    各通
  御横目所

 私方指引人国分貝右衛門儀
 ───以上

  閏四月四日

 右同断   各通

慶應4年閏4月 北越鎮壓御供

閏四月
一 御前御儀北越鎮壓方被為蒙
仰追〃下筋江 御出張御供
被 仰付候付左之通り相達候事

 今度土佐守儀為北越
 鎮壓方下筋江致出立ニ付
 私儀御伴申付出立仕候依而
 跡稽古守不指支様指引人ニ
 申談置候此段御達申上候以上

  閏四月

 切封し
  学校

 学校
  御横目所

 今後───私方指引人
 国分貝右衛門儀供申付
 出張仕候此段御達申上候以上

  閏四月

 切封し
  学校

 学校
  御横目所

慶應4年5月17日 帰着

五月十七日
一 昨十七日
御前御儀越中泊駅ゟ 御帰着ニ付
左之通り相達候事

 今度土佐守儀為北越鎮壓
 方下筋江出立ニ付私儀供申付
 候段御達申上候処昨十六日
 帰着ニ付私儀供ニ而帰着仕候
 此段御達申上候以上

  五月十七日

 切封し
  学校   生沼───

 学校    各通
  御横目所

 今後───────私方指引人
 国分貝右衛門儀供ニ而帰着仕候
 此段御達申上候以上

  五月十七日

 切封し
  学校   生沼───

 学校
  御横目所 各通

「学校向達方等一巻留」の記録はこれで終り。

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