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長防御征伐従軍記録

中嶋直衛、諱は重晧。宮津藩 本庄松平家の臣、中嶋家の六代目当主である。父の五代目治部右衛門重桓は、長きにわたって實相當流鑓術の世話役を勤め師範家を補佐した人物で、且つ藩士としての役務も能くし晩年は御物頭から町奉行助役へ任じられ公儀の海岸見廻りの応接を勤めるなどした。
父が實相當流鑓術に深く関わったことから、子の中嶋直衛も特に上意をもって實相當流鑓術の稽古を命じられた。しかし武術ばかりを修行したのではなく、天保8年(1837)生れの彼は15歳の頃より藩兵の後備に所属し、そのかたわら諸流の稽古に出精、たびたび褒美を下された。安政6年(1859)23歳のとき家督を相続し、翌年には先備左に配属されてからは藩の役務と武術の稽古に励み年を重ねる。彼の軍務が本格化するのは文久の頃からで、文久4年(1864)2月の八幡口出兵を皮切りとして、同年12月江州表へ、元治2年(1865)再び江州へ、同年5月大坂表へ出兵し、そして慶應2年(1866)第二次長州征伐に向う。
ここに紹介する『出藝中日記』はこの出兵中に記録されたものである。藝州口に派遣された宮津藩兵の編成や装備、人数、彼の所属については詳らかでない。先備・一番隊・四番隊は参戦、後備・三番隊は戦闘後に到着した。

掲載史料及び参考資料

『丹後宮津藩中嶋家文書』個人蔵
『談話録』個人蔵
『本庄家譜』舞鶴市糸井文庫

□…虫損  ■…不読  [ ]…管理人註 者・而・江・ゟ…原文のまゝ

出藝中日記

 慶應二丙寅年

出藝中日記

 五月   重晧扣

閣老 松平宗秀公に長防征伐の命下る

 慶應二丙寅年
紀伊殿惣督長防御征伐シテ
藝州廣嶋迄御發陣右ニ付
殿[松平宗秀公]ニモ被為御差添シ命ヲ大坂
天保山ゟ五月廿四日上氣[蒸気船]ニテ御
發舩右ニ付先備速ニ廣嶋表へ
出陣之旨以急使ヲ五月廿六日

紀伊殿を総督として長防御征伐につき、中嶋直衛の主君 松平宗秀公にも差添えの命が下った。公は天保山沖の蒸気船 長崎丸に乗船して広島へ急行、5月28日10時には城内の小笠原壱岐守本陣に到着する。
慶応2年5月26日夜24時 宮津藩兵は速やかに広島表へ出陣せよとの旨、急使をもって国元に伝えられた。

宮津藩兵の出陣

夜九ツ時着ス同廿七日九ツ時大炮
ニ而勢揃八ツ時陣小屋發ス泊り
河守町着夜五ツ半時
  道程五里  堺屋 武右衛門

 同廿八日戌雨
五ツ時發足福知山昼黒井泊り
着七ツ時頃八里  濃原屋 新兵衛

 同廿九日亥天氣
日ノ出發足佐野昼泊り和田着
九ツ時 五里  浅香性[姓]
         田井屋 弥三郎

 六月朔日戌子天氣
六ツ時半發足明楽寺昼泊り
北条着八ツ時過
  八里  山下屋 久兵衛

 同二日酉丑天氣
六ツ時半發足姫路入口ニ而昼同所

出陣の急報が伝えられてより十二時間後、5月27日昼12時に大炮の合図で勢揃いし、14時には陣小屋を出発した。宮津から南下すること15〜16km、夜21時今の京都府福知山市大江町河守の辺りに着く。 以後、毎日7〜8時間ほど行軍して、6月2日昼12時に姫路城下へ着いた。

姫路藩領 飾磨港(錺間津)にて乗船

ニテ全隊ヲ揃番所前通行城下江着
九ツ時福中町  茶屋 六之助

 同三日亥寅天氣
御役人秘事之由ニ而逗留市中
見物ス

 同四日天氣
同逗留

 同五日天氣
五ツ時姫路發足四ツ時前錺万津着
拾四五丁行堪保ニ而一休九ツ時頃ゟ乗
舩西風ニ而同所へ滞舩

 同六日天氣
天能西風ニ而滞舩夜五ツ時頃ヨリ
順風ニ相成夜嵐与申由地方ゟ吹嵐
之様被存出帆

 同七日天氣

6月2日に到着してより御役人秘事とのことで全隊は逗留、中嶋直衛は市中を見物するなどした。 6月5日朝8時ようやく姫路を出発、10時前に錺間津へ着く。こゝで舩に乗り海路広島を目指す。順風を待ち6月6日夜20時に出帆。

藩兵、海路を行く

日ノ入牛窓与申湊へ入舩鳥渡上陸
舩中江用水ヲ入■[点か]燈頃出帆

 同八日天氣夜中頃ゟ大雷雨
朝六ツ時右ニ備前左ニ潜岐ノ嶋
右手ニナラ嶋ト云此嶋ニ一寸上陸
五ツ時頃出帆夜ニ入五ツ過ゟ中ニ
碇泊

 同九日雨天
明六ツ時頃備後国阿部主斗頭様
領地鞆ノ津ニ入津上陸入湯髪
月代夕方祇園社江参詣悪風
ニ而滞舩此地者城繁花也

 同十日雨天
朝五ツ頃漸順風ニ相成出帆如失三里
斗馳風止塩悪く小島ニテ右之方
多嶋と申所ニ鳥渡碇泊此間

6月7日牛窓、6月9日鞆の津に入津し上陸、湯に入り月代を整え、夕方には祇園社へ参詣するなどした。風が悪しく滞舩。翌日朝8時に出帆し、夜22時に安藝国尾道の湊に入津する。

左者伊豫右者藝地七ツ頃出帆
薄暮頃ゟ安藝国尾の道ノ湊に
夜四ツ時頃入津鳥渡上陸入湯
乗舩一泊

 同十一日天氣
日ノ出過出帆五里斗馳安藝国
三原ノ城下みへ而是ハ家老三原
甲斐之進居城ノ由
八ツ半頃六里斗行右之方味潟与
云江碇泊能馳村江鳥渡上陸此
地猟師与察ス日ノ入過出帆三里
斗り馳風止夜八時頃赤崎与云ニ
碇泊ス

 同十二日天氣
日ノ出出御壱里余馳昼前川尻
与言へ碇泊上陸日ノ入出帆

6月11日 日の出過ぎ出帆〜5里ばかり馳せた安藝国三原の城下が見える、これは家老三原甲斐守の居城の由〜15時頃6里ばかり行き右の方にある味瀉という所へ碇泊〜能地村へちょっと上陸、この地は猟師と察す〜日の入り過ぎ出帆〜3里ばかり馳せたところで風が止む〜2時頃赤崎という所へ碇泊
6月12日 日の出出帆〜1里余り馳せ昼前川尻という所へ碇泊〜上陸〜日の入り出帆〜月の入りまで櫓にて行き瀬戸に碇泊

藩兵、丸ノ内御本陣に到着

十丁斗り馳左側ニ鎌わりの瀬戸アリ
実者措崎ト言八ツ半頃音頭瀬戸
越月ノ入迄口ニテ行碇泊此瀬ハ
平清盛切開シ瀬戸与言

 同十三日天氣
日ノ出出帆九ツ時頃廣嶋ゟ一里斗
濱手川尻ニ沖合ニ碇泊塩待
七ツ頃同所ゟ惣勢上陸陣屋入
壱番隊ニテ岡本市橋四番隊ニテ
久保手前右四人から上番ニ残
此濱ゟ三十丁斗り川へ猫屋橋邊
迄乗舩夜五半頃丸ノ内御本陣
前着下陣真向イ

 同十四日天氣
御使出候ニ付書状出ス
藝防ノ堺小瀬川与言所ニテ

6月13日 日の出出帆〜12時頃広島より1里ばかり浜手の川尻沖合に碇泊〜潮待ち〜16時同所より総勢上陸し陣屋に入る〜壱番隊から岡本・市橋、四番隊から久保と自分が川岸まで船の番をするため残る〜浜から30丁ばかり川へ入り猫屋橋辺まで乗船〜21時頃丸ノ内御本陣前に着

松平宗秀公、応援のため出陣、廿日市に布陣

井伊榊原之両勢ニテ岩国勢之戦
争一時ニ味方敗軍ノ注進アリ
為後詰メ 殿ニモ戦場江御出
馬之御達シアリ先備速ニ御本陣
前へ揃然處御手厚ニ御備有之
哉ニテ陣屋入

 同十五日天氣
敵兵藝へ寄る風聞依之聞迄然處
無別条○御取次助被仰付夕
番泊相勤

 同十六日天氣

 同十七日天氣
大野村水野様持場間道押へニ
被 差出為應援真昼即刻繰出し
三里斗り行夜ニ入廿日市寺院
洞雲寺ニ一宿

6月14日 御使いが出るので書状を託す、藝防の境にある小瀬川という所で井伊・榊原の両勢にて岩国勢と戦争、一時に味方敗軍の注進あり〜後詰のため主君 松平宗秀公へも戦場へ出馬の命が下る〜藩兵は速やかに御本陣前へ揃い手厚く備える
6月15日 敵兵が藝へ寄せ来る風聞あるも別条なし、自分は御取次助を命じられたので夕番泊を勤める

6月17日 大野村水野様持場の間道押えに応援のため昼即刻繰り出す〜3里ばかり行き夜に入り廿日市の寺院洞雲寺に一宿。このとき一宿した洞雲寺は、現在の広島県廿日市市佐方辺の山裾にある。

宮津藩兵、敵勢を退け凱旋

 同十八日天氣
日ノ出出立三里斗行峠村民家
新井屋太兵衛方ニ暫時休足日ノ入
頃ゟ野陣ヲ張折ノ民家へ入休

 同十九日天氣
今暁ヨリ午刻頃迄大野井へ陣ス
水野勢戦争大垣戸田采女正
御人数為援兵大ニ勝利之由注進有
此峠村ゟ大野迄一里リ言午ノ刻
頃ゟ河津原邊へ追〃敵勢集候
旨注進ス

 同廿日天氣
四ツ時頃廣嶋御本陣ゟ塩鮎御
酒等依テ若命ニ頂戴ス
敵勢八百斗河津原山手ニ寄
越り追々人数ヲ進胸壁様ノ

所ヲ造築致シ候旨彼レ要害
全備ナシテハ味方ニ不利不意へ打
入ニ不如与談シ合午ノ中刻怠備
之時發陣物見先へ進味方之
勢引續敵地近く及敵ノ物見
ニ出合味方物見直ニカウヒン[カービン銃か]ヲ以テ
一發スレモ討洩ス敵兵ニ狼狙
シテ何方エカ逃去ル此時味方勢
分テ行軍臺大炮ヲ直クニ進メ
炮發ス壱番隊殿リ山ノ右手へ
廻り炮戦ス四番隊右先手大
将籏本奉行八幡宮ノ森中ゟ
山上へ登り夫ゟ大将籏ハ行軍
臺ノ後へとり四番隊ハ山ヲ越テ
右へ出炮發ス又三番左先手
ボヲード[ボードホーウィッスルか]ハ遥ニ山之左ニ廻り敵ノ

6月18日 日の出出立〜3里ばかり行き峠村民家新井屋太兵衛方に暫時休足〜日の入り頃より野陣を張り、民家へ入り休む
6月19日 暁より昼まで大野井に布陣〜水野勢戦争、大垣の戸田采女正が手勢が援兵となり大いに勝利したという注進があった〜この峠村より大野まで1里という〜12時頃より河津原辺へ近々敵勢が集まると注進する
6月20日 10時頃広島御本陣より塩鮭・酒等送られたので命により頂戴する〜敵勢800ばかり河津原山手に寄せ来り追々人数も増え胸壁のような所を造築する〜このまま要害を全備されれば味方にとって不利と談合で決す〜12時発陣、物見を先へ進ませ味方の勢はそれに続く〜敵地近くに及び敵の物見と味方の物見が接触、カウビン(騎兵銃)をもって一発するも討ち漏らし敵兵は逃げ去る
〜この時味方は手勢を分かち行軍、車臺炮を直ぐに進め炮発する、壱番隊殿りは山の右手へ廻り炮戦を開始、四番隊の右先手大将・旗奉行は八幡宮の森中より山上へ登り、それより大将旗は行軍し臺の後へ廻り、四番隊は山を越えて右へ出で炮発する、また三番隊の左先手ボードホーウィッスル砲は遥々山の左に廻り敵の退き口を打つ、時に敵味方の炮声・地雷火破裂の音は雷の如く、暫くして戦争は味方の勝利、敵は敗れて逃げ去る
〜敵の屯集していた藁屋上軒が烽火をなす、直に峠村新井屋太兵衛方へ引き上げる〜入湯一宿

津田村へ屯集していた敵勢が河津原山手に進み胸壁のようなものを築きはじめた。峠村の要略を固めていた宮津藩兵はこの模様を知り、座視すれば味方の不利になることを悟り敵勢の備えが緩む時刻を窺うため斥候を派遣、敵斥候と接触したことを知った本隊は直ちに先手をとって敵勢に仕掛けた。
宮津藩兵は敵勢の3町手前で三手に分れ、一手を山手に進め、前左右から砲戦を開始した。宮津藩兵の砲兵が敵勢より優れていたものか、少しすると敵勢の砲声が少なくなったので、一手を敵の横から出し打ち掛けたところ敵勢は追々逃げ去りだしたので、さらに兵を継ぎ入れ一手を敵の退口に廻し追い討ちをかけ敵勢を逃散させた。
これら戦争の記録は、実に客観的に記述されており、その状況をよく伝えているように思われる。
あらかじめ防衛線を構築していた長州藩兵が退けられた。宮津藩兵の火力と兵の練度、指揮官の情況判断はなかなかのものであったらしい。両勢の戦力は不明だが敵勢は800人、宮津勢は300人と伝えられており半数にも満たない。斥候隊が騎兵銃を装備していた点からしても、宮津藩兵は充分な西洋化を進めていたらしい。『本庄家譜』に殿様が高嶋流調練場に出席した記事が見られる。

河津原という地域は、狭隘な山裾の道が五方から交叉する地勢で、いわゆる衢地にあたる。ここに長州勢が防衛線を築いていたのは、廿日市の押えとするためだろうか。

退口ヲ打時ニ敵味方の炮聲
地雷火破裂ノ音者如雷ノ
暫ク戦争味方勝利敵敗シテ
逃去敵ノ屯集いたし居候其小屋
上軒烽火ナシ直ニ峠村新井屋
太兵衛方へ引上ル入湯一宿

 同廿一日
朝五ツ時頃出立夕七ツ時廣嶋帰陣
御酒御肴被下置候

 同廿二日天氣
御使出候ニ付書状出ス
九ツ目御役付鉄鍔料金三両被下
置河津原激徒追討骨折為
御褒美被下置候
御届ケ書写
峠村邊江為巡邏伯耆人数

6月21日 8時頃出立〜16時広島に帰陣〜御酒・御肴を下さる
6月22日 御使いが出るので書状を出す、12時御紋付の鉄鍔料金3両を下さる〜河津原の激徒追討の骨折りによって褒美を下さる

之内差出申候間此段御届申上候
       御名家来
以上六月十七日  福田要助
兼而御届申上置候為巡邏差出
置候伯耆守人数峠村相固居候処
一昨十八日津田村江激徒八百人斗
被成胸壁様之所補裡候形勢ニ付
今午中刻頃物見之者差出候處
先方ニモ遠見之者出居出會候ニ付
討掛ケ候處討洩シ何方エ歟逃散
申候右ニ付人数繰詰三町斗り
前ゟ三手ニ分ケ凡半時斗及炮戦候
内一手者敵方之後ロ江相廻り頻り
ニ討詰一手者山中江分入是又及
炮戦ニ追〃及追討候處何レエ散
乱致シ候哉相分り不申候右屯集
致居小藁屋三斬焼弾落候哉

焼致シ候討取人数怪我等ノ儀者
取調ノ上可申上候且又器械損シ
モ有之候ニ付一与先引揚候様申進候
不敢取此段御届申上候以上
     御名家来
 六月廿日  福田要助

明廿日申上置候為巡邏差出置候
伯耆守人数峠村之要路ニ固
居候テ激徒ノ事情探索致候処
去ル十八日津田村エ八百人斗被成
一昨十九日ハ河津原与申候處ノ山手
ニ奇進之人数相進胸壁ノ様之所
造築致シ候由相聞候ニ付彼之
要害全備不致候内不意ニ是ゟ
相進ミ可申与申合昨廿日午中刻頃
怠備之時刻ヲ窺ヒ物見之者
ヲ先ニ進メ引續き味方ノ人数ヲ進

候處既ニ敵地近ク及彼レノ物見
出會候ニ付味方物見之者直ニ馬
上炮ヲ以テ一發致シ候処討洩シ候得共
大ニ狼狙致何レエ逃去候哉相分り
不申候無程人数ヲ三手ニ分ケ山
手ニ向ヒ前左右ヨリ打入及炮戦申候
其内味方ノ大炮利ヲ得候事哉
敵ヨリ打出候炮聲少ク相成候内右
三手ニ分テ候内之壱手敵ノ横
ヨリ顕レ出打出候処敵者追〃逃去
申候ニ付兵士鑓入仕候今壱手ハ
敵ノ後ロエ相廻り逃去候跡ゟ打出シ
申候ニ付敵兵散乱仕候右屯集
之藁屋焼弾ノ為メニ候哉焼失
致シ候素ゟ敵ノ地理ヲ弁人数
之多少ヲ明ニ知候ヲ進シ候儀ニ者

無之候ニ付何分味方小人数之儀
若敵之別手ニ後ロヲ絶切ラレ候
儀等有之候テハ及難渋候儀ニ付
打首分捕等ヲ[悉か]打捨ノ侭速ニ
人数引揚申候討取人数怪我
人等之儀者別紙之通御座候此段
申上候以上
     御名家来
 六月廿一日  福田要助

敵打取 三拾五人
右之外山中草中ニ臥シハ不知数

味方討死手負左之通
六月晦日死
       武具奉行
   鉄炮疵深手 添 孝治
       兵士
   同浅手   岡本 亘

   同同    中村権七

   同深手   河野藤治

   同浅手   原 民蔵


   同深手   吉田房蔵

   同深手   平田友蔵

   同胸深手  乗松順作
     陣屋打死
   同浅手   有吉三七

   同胸打死  松尾兵次

   同深手   角田瀧蔵

   同深手   楠田平次

   同浅手   郷夫両人

宮津藩士 福田要助の戦況報告。打ち取った敵は三十五人、そのほか山中草中に斃れた敵は数知れずという。味方の死者は二人(共に胸に鉄炮疵を負い)、ほか数人いずれも鉄炮による疵であった。




 同廿三日討手
    松平近江守
    軍目付
     松野八郎兵衛
 御中軍
   壱ノ先
    井伊掃部頭
    軍目付
     朝倉藤十郎
    井伊兵部少輔
    榊原式部大輔
    軍目付
     建部徳次郎
 御中軍
   二ノ先

    松平出羽守
    軍目付
     諏訪左源太


(中略)


 右之通御達シ

 同廿四日雨天
  無別条

 同廿五日天氣
  無別条

 同廿六日
  無別条
朝番泊り
於大竹ニ水野勢五ツ時ゟ四ツ時
迄戦争勝利討追之由ニて
手負之者  手負
       足軽両人
      討死
       同 壱人
      手負
       郷夫両人

 同廿七日晴
東照宮参へ参詣

 同廿八日快
  無別条

 同廿九日雨
夕番

 七月朔日

 同二日天氣
  無別条

 同三日快晴

藝州河津原江激徒屯集
之處其方承来共為巡邏
出張手合ニ及候節敵兵数
多打取勇戦之趣一段之事
被 思召候此旨可申聞との
上意ニ御座候
御自分[松平宗秀公]江別帋之通被 仰出候
間則進達申候以上
 六月廿八日  稲葉美濃守
        板倉伊賀守
右御書附ヲ拝見ス

7月、宮津藩士 依田伴蔵が和平の交渉に向う途次、長州藩兵によって狙撃され命を落した。これは長州藩にとって意図せざる出来事であり、同人を弔うために依田神社が建立された。彼は高名な窪田清音の高弟にして、甲州流山鹿傳の皆傳を許された人物であった。中嶋直衛も若いころに同流を学び小目録を傳授されており、また父治部右衛門は依田伴蔵に師事した。

 同四日晴
  無別条

 同五日晴
朝番泊

 同六日天氣

 同七日晴
七夕之御祝儀御断并ニ
大目付へ申出ル

 同八日天氣

 同九日晴
  無別条

 同十日天氣
御後備半隊着三番隊者
不着水越指田方へ酒壱升遣
直之進両〆指田ゟ書状受取

寡君多年忠節誠儀
今更不待言ヲ也奸賊其功ヲ
嫉ミ終シ征討与申唱諸軍
勢ヲ差向全以奉天朝
欺幕府ヲ國家ヲ乱シ大逆
無道天人之所赫怒スル也已ニ
於小瀬川大嶋ノ國境ニ暴撃ヲ
致シ實以憤激之節我等世々
天恩ニ沐浴シ義ニシテ共ニ不戴天ヲ
聊挙テ義兵ヲ上ハ為天幕之
下ハ為主人父子天下民生之
此賊ヲ討滅シ候様致度我等

素志全此事ニ有之候者也
 丙寅   長門國
  六月   懲隊

先般大野ニ而水野侯戦争
之砌敵之残兵清水大助与申者
陸軍隊ノ手ニ生捕當所江差
被送候ニ付宮津陣所ニ而暫時
預り兵士ニ而警衛ス夜五ツ時頃藝
州侯へ引渡ス

7月10日 後備半隊着、三番隊は不着、水越・指田方へ酒壱升を直に進両して指田より書状を受け取る〜先般大野にて将監侯が戦争のみぎり、敵の残兵清水太助と申す者が陸軍隊の手によって生け捕られ当所へ送られてきた、宮津陣所で暫く預かり兵士にて警衛する〜20時頃藝州公へ引き渡す

松平宗秀公、急遽大坂へ召喚、宮津藩撤兵

 同十一日雨
郷夫忠太夫帰津ニ付書状出ス
指金宅江三封夕番

 同十二日雨天
  無別条

 同十三日
  無別条

 同十四日 天氣
  無別条

 同十五日晴
今朝ハ後備三番隊着
■御奉書御到来ニ而
殿様明十六日急〃大坂表江御引取

被遊候様被為仰蒙候ニ付御中備
并御後備半隊態与為御中軍
御供ス御先備之同日夕方發足
之旨沙汰有之

7月15日 今朝は後備三番隊着。この日主君 松平宗秀公へ明16日に急々大坂表へ引き上げるべき命が伝えられた。先備は同日夕方発足の旨の沙汰があった。 松平宗秀公の大坂召喚は、長州の宍戸備後介を独断の差図で帰国させたことによる。その責任を大坂に於いて問われることゝなった 無断での釈放に甚だ怒りを示したのが総督の紀州家であり、藝州から大坂へ使者を飛ばして総督を止めるとまで申し出た。大坂においても種々議論あって、なかには松平伯耆守は切腹して当然という意見まであったと云う。しかし、閣老 板倉伊賀守公ひとりが切腹に反対、よって兎に角、松平伯耆守を召して質問のうえで決議する次第となった。

 同十六日
殿様御機嫌能丑之刻頃御發
駕被遊候為御見立之御先備
御本陣之御門前へ罷出ル急〃
繰詰リ番泊り相勤ル相勤有
本■戸祭外岐山

宍戸備後介外壱人一己之以差
圖竊ニ帰国被致候段不審ニ付
御尋之儀有之候間早〃帰坂可致
旨被仰出候右之通被為仰蒙候
ニ付明十六日被遊御發駕
候尤御刻限其外者今朝
被仰出候通相心得可申事
右之通被仰出候以上

7月16日殿様は御機嫌能く2時頃発駕、見送りのため先備は御本陣の門前へ出る、急に勤務が繰り詰り中嶋直衛は番泊りを勤めた。 この日松平宗秀公の心境は定かでないが、捕虜の無断解放については閣老の権限によって行ったとされる。軍事上のことは総督の権限、しかし捕虜の扱いは行政に属し閣老の領分であるから、自身の閣老の職権を以て解放できるということだろうか。結局、大坂での審問を経て宗秀公は藩主の座を退けられ謹慎となった。これは宗秀公に道理が無かったというのではなく、周囲の意見に圧された為だと云われる。

 道中記

[中略]

宮津御城着

宮津藩兵、国元へ向う

七月十六日快晴
 廣嶋昼前發足海田市へ着未ノ
 刻頃本宿江作州侯御人数御泊りニ而差
 支ニ付宿外レニ而泊ル
      成本屋 源吉

同十七日晴天
 子ノ刻過出立西條四日市へ着辰ノ刻
 過前日之御人数ニ而差支本志手
 前ニ而泊ル
      立見屋 格右衛門

同十八日天氣
 丑ノ下刻出立奴郷本郷着午ノ刻
 頃泊  上杉姓
      白市屋 良右衛門

同十九日
 寅ノ刻過出立原崎与申處ゟ三里
 事乗舩尾ノ道着巳ノ中刻泊
 藝備の堺 御本陣
       小川作右衛門

同廿日
 寅下刻出立神邊着午ノ中刻泊
      牛嶋屋 玉三郎
  途中河立宿ゟ
  右之方ニ福山を見ゆる

同廿一日
 寅ノ下刻出立矢掛着巳ノ刻頃泊
      灰屋 浪右衛門

7月16日昼前に広島を発足〜海田市へ着
7月17日朝0時過ぎ出立〜朝8時過ぎ西条四日市へ着
7月18日朝3時出立〜奴田本郷へ着〜12時頃泊る
7月19日朝4時過ぎ出立〜原崎という所より3里ばかり乗船〜尾道着〜10時藝州の境に泊る
7月20日朝5時出立〜神辺着〜12時泊る
7月21日朝4時出立〜矢掛着〜10時頃泊る

同廿二日
 卯ノ上刻出立板倉着未ノ刻泊
      布袋屋 寅右衛門
 吉備津五条詣

同廿三日
 卯ノ中刻出立藤井宿着午ノ刻
 泊    松本屋 文吉

同廿四日
 卯ノ上刻出立三ツ石着未ノ刻過
 泊   三浦姓
      橋本屋 弥三郎
 途中ニ而臥駄松見物ス
  是ハ大内村一井氏庭中ニ有

同廿五日
 卯ノ上刻出立正條着未ノ刻過泊
      丸屋 利右衛門
  此宿半道西片路与言宿
  井伊侯之品ニ承り此次去ル
  十四日長方追〃藝地進廿日市
  ニ陣ス由打手之諸侯方廣嶋
  津宿を長方の者不入為ニ藝
  刕ニ而焼拂ふよし

同廿六日
 寅ノ上刻出立姫路着■■時
 申ノ刻頃北條着
      紅屋 □左衛門

7月22日朝5時出立〜板倉宿着〜14時泊る、吉備津宮参詣
7月23日朝6時出立〜藤井着〜12時泊る
7月24日朝5時出立〜途中臥駄松見物する〜三ツ石着〜14時過ぎ泊る
7月25日朝5時出立〜正條着〜14時過ぎ泊る
7月26日朝3時出立〜姫路着〜16時頃北條着

廿七日
 卯ノ上刻出立北條着未ノ刻頃
 泊り  朝倉姓
      朔屋 弥三郎

廿八日
 寅ノ下刻出立福知山着未ノ刻
      花倉屋 小兵衛

廿九日
 卯ノ中刻福知山出立舟ニ而
 河守町へ去る申ノ刻過
 宮津城着

7月27日朝5時出立〜北條着〜14時頃泊る
7月28日朝5時出立〜福知山着〜14時頃泊る
7月29日朝6時福知山出立〜舟にて河守町へ〜16時宮津城着

  五月廿七日
 一 金三両壱分
  六月三日
 一 同 弐両弐分三朱 姫路ニ而受取
     銭四百文
┌ 同廿二日
│一 同 弐歩壱朱三百七十八文
│    姫路ゟ廣嶋迄馬代
│一 同 三両 鉄鍔料
│ 七月十五日跡壱両弐分受取
│一 同 壱朱三百文 弐■■■
└ 同廿三日
 一 同 壱分と百九十弐文十日分御取扱
  七月三日
 一 同 壱分百九十弐文 同断
  七月十三日
 一 同 壱分百九十弐文 同断
  同 同
 一 弐朱と百七十壱文峠村へ出張之昼遣

宮津藩兵が国許を発つとき、中嶋直衛は金三両壱分を持って従軍した。緊急の召集につきまとまった金額が間に合わなかったのだろう、追て6月3日の姫路逗留中に弐両弐分三朱と銭四百文を受け取っている。

  七月廿五日
 一 金三両弐歩
     御手當昼遣馬代之行渡り受取
 ○
 一 金壱分大拂口預り置
 │其内
 │ 壱朱 四日市宿ニ而取扱遣ス
 └ 跡三朱福知山ニ而割戻ス



指田へ■■出立之節用意金中バラ
以テ立タリ直ク様為替金ヲ送り被下候
苦の處全以参り不申心配仕候間早〃
ニ御送り被下候様ニ頼呉候様御頼度候
尤被下之分斗ニ而未タ用意金ニハ手ヲ
付不申候得共何分諸方へ道中
致シ候間夫故ニ何分々々御頼上申事

送られる筈だった為替金が未だ届かず心配、道中何かと入用のため早々に送ってほしいという書簡の控え。

帰路

 道□□

    中直

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