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實相當流鑓術概略

實相當流鑓術 じっそうとうりゅうけんじゅつ
大嶋流の流れを汲み、中興の祖と云われる安孫子喜右衛門のとき實相當流を称したとされる。『増補大改訂 武藝流派大事典』

丹後宮津藩に於ては神谷家が数代師役を勤め、文政以降は藩校に組み込まれ多くの門弟を教導し明治に至った。實相當流は他藩にその例を見ず(*1)、宮津藩以外で行われたのか定かではない。その点においても、このように流派の存在を示す史料が残されていることは実に喜ばしい。宮津の地で行われた實相當流がいかなる流派であったか、その存在の概容を紹介できれば幸いである。

實相當流鑓術の傳書 | 實相當流鑓術階級小考 | 實相當流鑓術門人
大嶋雲平吉綱
−原田又右衛門長幸
−神田六左衛門政成
−原田弥五兵衛種富
−安孫子喜右衛門正直
−山下源右衛門時重
−大須賀孫右衛門信久
−村上丹下義展
−神谷新兵衛廣信
−神谷新兵衛廣美
−有本仁右衛門久照
−神谷羆六郎廣褒 文政
−秋山菅之丞茂廣 天保

掲載史料及び参考資料
『丹後宮津藩中嶋家文書』個人蔵
『増補大改訂 武藝流派大事典』綿谷雪氏/山田忠史編 東京コピイ
『宮津市史』宮津市史編集委員会編宮津市役所
『藩史大事典』木村礎著/藤野保著/村上直著 雄山閣

*1 後日、實相當流が幕臣の間で行われていたことを見付けた。

實相當流鑓術の傳書

1821 文政4.4.11 實相當流鑓術 修行主本  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

實相當流鑓術はじめの階級は「修行主本」もしくは「主本」と呼ばれる。中央の印章は朱印「神谷」とある。当代は神谷羆六郎廣褒が師役を勤めていた。

1824 文政7.1.18 實相當流鑓術 獲水  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

1826 文政9.4.26 實相當流鑓術 中極意  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

『月影巻』『鏡之巻』も併せて傳授されたと思われる。

1826 文政9.4 實相當流鑓術 月影巻  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

1826 文政9.4.26 實相當流鑓術 鏡之巻  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

1829 文政12.2.19 實相當流鑓術 免許状  神谷羆六郎廣褒−秋山菅之丞宛

『月影巻』『鏡之巻』『免許状』、此の三巻は表装された形跡が無い。 同藩に於いて同時期に傳授された大坪流や日置流の傳書も同様に表装されておらず、畳まれた状態で保管されていた。 このような表装簡略化は、手形の発行システムに移行したためか、藩校の方針であったか不明である。(藩校設立以前の傳書は表装されていた)
私の知る限り、表装まで簡略化したケースは稀である。

實相當流 極 口傳  茂廣
一、夜の鎗の突き様は手元を突くなり
一、陰陽の五ヶ、陰は下段より打ち掛けるなり、陽は上段より打ち掛けるなり
一、持たる中を行く時の心得 持たる中を行く時は鎗の塩首(けらくび)を持ち行くなり
一、中通りの鎗口傳
一、無刀の者が来る時の突き様 無刀の者、我鎗の塩首を持ちて敵の胸をしっかと取りて突くなり、遠方からは突くべからざるなり

實相當流鑓術 奥儀之巻

實相當流鑓術 印可・眞印可 抜書

實相當流鑓術 階級小考

上表は『實相當流席名前』をもとに作成した。(文政12年以降の加筆は除外)
「次第」に昇級させた記録は無く、「修行主本」以前の門弟はすべて「次第」と呼ばれるらしい。

秋山菅之丞は修行主本から免許に至るまで8年を要した。

秋山菅之丞茂廣
1821 文政4.4.11 修行主本
1824 文政7.1.18 獲水
1826 文政9.4.26 中極意傳授
1829 文政12.2.19 免許状
1829 文政12.3.2 有本九八郎・秋山菅之丞共に世話役となる
1831 天保2.7.28 神谷羆六郎病死、引き続き有本九八郎・秋山菅之丞世話役


天保11年8月19日〜天保15年12月23日の昇級者一覧を参考にして、各人物の昇級年月を抜き出すと下記の通り。

田副純之助實廣
1840 天保11年2月16日 入門
1840 天保11年8月19日 修行主本
1841 天保12年2月5日 獲水
1843 天保14年6月27日 中極意
1844 天保15年7月9日 免許

原錬之助雅本
1840 天保11年4月21日 入門
1840 天保11年8月19日 修行主本
1841 天保12年2月5日 獲水
1843 天保14年6月27日 中極意
1844 天保15年7月9日 免許

山田寅吉孝徳
1840 天保11年2月16日 入門
1840 天保11年8月19日 修行主本
1841 天保12年2月5日 獲水
1843 天保14年11月12日 中極意
1844 天保15年7月13日 免許

山内源之丞孝則
1840 天保11年2月16日 入門
1840 天保11年8月19日 修行主本
1841 天保12年2月5日 獲水

柴田政吉
1841 天保12年閏1月6日 入門
1843 天保14年11月12日 修行主本
1844 天保15年5月7日 獲水

本庄ソ介資亨
1841 天保12年4月17日 入門
1843 天保14年6月27日 修行主本
1843 天保14年11月11日 獲水
1844 天保15年7月10日 中極意

町田常之丞
1840 天保11年2月16日 入門
1843 天保14年10月2日 修行主本
1844 天保15年7月10日 獲水

木下岩之助信房
1840 天保11年2月16日 入門
1844 天保15年2月7日 修行主本
1844 天保15年7月10日 獲水

工東鈕蔵裕民
1840 天保11年2月16日 入門
1841 天保12年2月5日 修行主本
1843 天保14年10月2日 獲水

瀧山武五郎則笛
1840 天保11年2月16日 入門
1843 天保14年5月19日 修行主本
1844 天保15年1月17日 獲水

河合友弥則清
1841 天保12年閏1月6日 入門
1843 天保14年5月19日 修行主本
1844 天保15年1月17日 獲水

本多由治郎
1840 天保11年2月16日 入門
1844 天保15年1月17日 修行主本

これら昇級者の記録は秋山菅之丞が世話役時代に残したものと思われる。注目すべきは昇級速度である。秋山菅之丞と較べて半分の期間で免許に至った者が3名もいる。
田副純之助、原錬之助、山田寅吉の3名はほぼ同時期に入門、免許に至るまで僅か4年と5ヶ月である。田副と原は同年月日に昇級、山田も似通った昇級を遂げており、何やら不自然である。
天保に入り諸事簡略になったのか、それとも身分による依怙の沙汰か、宮津藩士の由緒書を見なければ分らない。(幕末の分限帳に田副純之助の名を見出すことができ、参政の家格に列しその時点では見習であった)

實相當流鑓術、入門人数の推移。この表は秋山菅之丞が残した『起請文巻子』と『實相當流入門名前』をもとに作成した。
ここで一寸不思議なのが、二つの史料を突き合わせたところ起請文巻子には見当たらない名前が『實相當流入門名前』には記されていたことだ。その逆も少なからずあり、その具体的な数値を挙げると。
『實相當流入門名前』には天保7年3月12日〜天保15年5月27日までの入門者が記されており、この中で『起請文巻子』の同期間に見当たらない者が37名いる。
その逆、『實相當流入門名前』には見当たらず『起請文巻子』にのみ名前がある者は23名。『起請文巻子』に署名する者としない者の違いは何であったか、資料が足りずもう少し情報を集めなければ判然としない。

※『實相當流入門名前』は正式な書類ではなく、秋山菅之丞が私的に作成した覚書でおよそ口頭筆記と思われる。この点からすると、覚書に記されたのは秋山菅之丞取り立ての門人のみであった可能性もある。

1829 文政12.3.2 有本九八郎・秋山菅之丞世話役となる  『萬覚書』より

大目附役所に於て御談これ有り候、神谷羆六郎出京中、[有本]九八郎両人にて世話いたし候様仰せ付けられ候
但、懸り御用人へ礼廻り申し候、大目附・学監へも罷り出で候

国許の師役が不在となるため、有本九八郎・秋山菅之丞両人を世話役とし運営を命じられた。

1830 天保1.9.27 礼譲館書記規定  『萬覚書』より

〔天保1〕寅年9月27日
一、礼譲舘書記の儀、舘中諸受け取り物の手形等相認め候儀、以来は相認め申すまじく、諸稽古合の筋に抱わり候書物類ばかり取り調べ相認め申すべく候
手形類は学監配下の者相認め然るべく旨、舘中学頭・句讀師・主事・習書師・書記・武術世話役等、それぞれ稽古修行の次第、平日心掛け等に寄り仰せ付けられ候事に候
都て席・禄に抱わらず仰せ付けらるべく候儀に候間、兼ねて心得違い[これ無き様致さるべく候]
右の通り仰せ出だされ候事

この規定で目を引くのは「席・禄に抱わらず仰せ付けらるべく候」の部分である。 つまり、身分差によって手形類の発行に不正があったのだ。 不正を改めるために礼譲舘書記の手形類発行を止めさせ、学監配下の者へ移管、そして手形類の発行に関しては、学頭・句讀師・主事・習書師・書記・武術世話役等の判断に拠ったことが記されている。

1831 天保2.7.28 實相當流世話仰せ付けられ候  『萬覚書』より

一、神谷羆六郎京都在勤中、實相當流門人の向世話仰せ付け置かれ候處
羆六郎儀病死いたし候に付きては、猶又、世話仰せ付けられ候間
其の方共申し合わせ、取り立て申すべく候
并びに神谷亀太郎儀は数代實相當流師役仰せ付けられ候家筋の儀にも相成り候様、取り立て申すべき旨仰せ付けられ候
右の通り仰せ渡され候
   有本九八郎
   秋山菅之丞
右の御礼廻りは懸り御用人當時
  鞍岡内記殿
  藤岡織衛殿
  本多但美殿
 学監
  松江治右衛門
  大原弥五八郎

師役神谷羆六郎の急死により、高弟2名による流派の運営を命じられた。神谷亀太郎が次期師役候補であり、当面は師役不在の侭運営される事となった。

實相當流鑓術の門人

1829 文政12改 實相當流席名前

これら名前は席順に記されている。

宮地仁之右衛門 司農[長袴格] 170石
有本九八郎 諸御者頭 100石
秋山菅之丞(中嶋直衛) 御使番 100石

上記は免許の3名、少し後の分限帳をもとに格と禄を付け加えた。宮地仁之右衛門の”長袴格”は藩内でも最高身分の長袴の末端、有本九八郎の諸御者頭はそれに次ぐ小流の半ば、秋山菅之丞の御使番はさらに次の大流諸士のトップ。


1836−1846 天保7.3.12−弘化3.2.7 實相當流鑓術 起請文巻子

 起請文前書
一 實相當流鑓術並外之物、御傳授の通り聊か疎略仕る間敷事
一 御秘傳の事理免許蒙らざる以前父子兄弟たりと雖も他見他言に及ぶまじき事
一 中通の傳授に至りて相弟子たりというとも見聞等猥しくこれ無き様に相慎み申すべき事
一 秘奥の極意連々預かると雖も御相傳別して御免許無くして他流と試合等仕る間敷候、若し據無くこれ有るに於は則外の事
  附、他流に對し濫りに勝負の是非を論ずべからざる事
一 事術の儀につき疑心を評して此の道を止め申す間敷事
 右の條々相背くに於は(以下略)




1840−1844 天保11.2.17−天保15.5.27 實相當流鑓術 門人名前
重複する部分あり、真如流・信取流の入門者も一部に記されている。起請文巻子の署名と照らし合わせて、これらは口頭筆記と見られる。

1840−1844 天保11.8.19−天保15.12.23 實相當流鑓術 昇級者一覧

田副純之助實廣
原錬之助雅本

1844 天保15.7.9 神文状  田副純之助實廣・原錬之助雅本−中嶋直衛宛
免許に至ったとき提出された神文状だが、なぜ免許の段階で中極意の神文状を提出したのかは謎。中嶋直衛とは、秋山菅之丞が中嶋家へ養子入りした後の名である。

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